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  • 旧大垣市役所

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    (昭和12年) 昭和12年に建てられた市役所。戦争が激しくなると「挙国一致」とか「儘忠報国」とかのスローガンが掲げられた。昭和20年7月の空襲で焼失した。昭和39年2月に現在の鉄筋コンクリート4階建ての市役所に生まれ変わった。

  • 旧大垣市役所

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    (大正15年) 戦前の市役所は裁判所に並んで、現在の大垣郵便局の南側が正面であった。旧町役場が狭くて老朽化したため、大橋銀行頭取の屋敷跡を買い取って、昭和12年5月現在地に新築移転した。

  • 常隆寺と船町運河

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    (戦前) 船町川は戦災復興計画により埋め立てられてしまったが、現在でも県道の両側に趣のある町屋が残っている。昔のように水路で行き交うことができれば、水郷の雰囲気が味わえることであろう。

  • 船町湊と住吉燈台

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     船町湊周辺は、東海道と中山道を結ぶバイパスである脇街道の美濃路が交差する交通の要衝であった。住吉燈台は貞享年間(1684~87)あるいは元禄年間(1688~1703)の建造ともいわれるが、天保11年に高燈籠内に住吉明神を遷したのが始まりのようである。燈台内部には、三層構造の昇降階段を設けて点灯の便を図り、基底部には大型の自然石を重しに並べて強風や地震による倒壊を防いだ。燈台の両脇には、八幡神社と多度大社の両社があり、いずれも戦災で延焼したが、燈台にはトタン張りがしてあったため、類焼をまぬがれたと伝えられている。(「歴史と文化の交差路 大垣を歩く」)

  • 水門川

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    (戦前)

  • 大垣駅前カメの池

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    (昭和27年) 大垣駅前には大垣のシンボルとも言うべき通称「カメの池」があった。カメは多いときで40匹から50匹いたであろうか。カメの甲羅には、白や黄色のペンキで漢数字やら屋号やらが書かれていたが、今だったら問題になるかもしれない。池のそばには、自噴の水飲み場があり、バスを待つ多くの人が利用した。昭和61年駅ビル「アピオ」がオープンするのに先立って、昭和59年「カメの池」は大垣市役所東の丸の内公園に移設された。(「歴史と文化の交差路 大垣を歩く」)

  • 旧図書館とトネリコ

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    (戦前) 大垣藩の藩校敬教堂跡に昭和3年、鉄筋コンクリートの図書館が建てられた。しかし、昭和20年の空襲で外観を残して、書庫とともに5万冊ともいわれる蔵書も焼失した。戦後、市役所として利用されたが、昭和21年には応急修理を経て近隣の寺に疎開してあった図書を戻し、図書館としての機能が復活した。室村町に移転後、この図書館は取り壊され、現在は大垣市保健センターが建っている。 保健センター前のトネリコは、8代藩主戸田氏庸が敬教堂を増築した際、雷除けとして植えられた。(トネリコは中国曲阜にある孔子廟の庭に植えられ、「学問の木」と称されたことから、各地の藩校でも植えられた。)戦時中の空襲にも耐え、樹齢は150年をこえる。(「歴史と文化の交差路 大垣を歩く」)

  • 旧マルイ百貨店

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    (昭和13年ごろ) 大垣貯蓄銀行の本館として、昭和2年に「大ビル百貨店」の名で開業した。大垣での百貨店第一号であり、エレベータが初めて取り付けられたのもこのビルであった。戦後は共栄百貨店、丸物百貨店大垣支店、マルイ百貨店、名鉄サルビアとめまぐるしく名を変えて営業した。さらに大垣共立銀行郭町ビルとなり、平成13年に大垣市守屋多々志美術館として、開館した。

  • 旧大垣警察署前

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    (昭和初期) 現在郭町交差点西北のKIX中央ビルがある場所に、昭和12年まで大垣警察署が置かれていた。

  • 常夜燈

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    (大垣商業高等学校撮影、明治後期) 元禄年間に船町中組総代の谷木因が建立したものと伝えられているが、実際は明和8年(1771)8月にできたものである。上の写真の佐久間運送店の看板が、名古屋、四日市、桑名への就航を示している。常夜燈の北には、木因が芭蕉の船町湊から桑名への旅立ちに際して詠んだ、「南いせ くわなへ十里 ざいがうみち(一見単なる道標に思われるが、桑名へと季語の桑苗を掛けている)」の「道教えの句」碑があった。後に交通が激しくなったため、破損の心配が出てきたので、奥の細道270年祭に際して、奥の細道むすびの地に移された。現在は複製が置かれ、オリジナルは奥の細道むすびの地記念館に保存されている。(「歴史と文化の交差路 大垣を歩く」)

  • 船町川と一つ目橋

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    (戦前) 現在の県道大垣一宮線には、以前は船町川が流れていたが、戦災復興計画により、昭和31年から34年にかけて埋め立てられた。かつての船町川の両側には、商家や問屋が建ち並び、生活物資が集積した。船町川に架けられた主要な橋には、「一つ目橋」から「四つ目橋」の名が付けられ、橋の両袂には石製の親柱が建てられた。川の南側には漢字が刻まれ、北側にはひらがなが刻まれた。昭和4年には、新「四つ目橋」が架けられ、旧「四つ目橋」は「五つ目橋」と改称された。船町川の埋め立てとともに五つの橋も取り壊された。その後、親柱は船町の愛宕神社に放置されていたが、地元有志により元々あった位置に戻され、かつての面影を今に伝えている。(「歴史と文化の交差路 大垣を歩く」) 

  • 奥の細道むすびの地・蛤塚

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    (戦後) 松尾芭蕉は4度大垣の地を訪れているが、元禄2年(1689)の秋、奥の細道の旅を大垣で終えた。俳友の谷木因に見送られながら、「蛤のふたみに別れ行く秋そ」と詠んで、水門川の船町港から桑名に向けて旅立った。昭和32年に句碑が建立され、蛤塚と呼ばれている。

  • 船町公園

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     船町燈台をはさんで、水門川の西側には青果市場があった。東側は昔は瓶屋町と呼ばれ、店舗が建ち並んでいた。戦時中空襲のために強制疎開が行われ、瓶屋町の建物は立ち退いた。上の写真は、強制疎開の跡地に戦後船町公園が整備される際、行われた句碑の除幕式の様子である。

  • 貝殻橋

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     船町の「貝殻橋」は、桑名へ潮干狩りや行楽に行く出発地であった。昭和23年頃は、川底が真っ白になるくらい貝殻が捨てられていたと伝えられる。

  • 旧大橋銀行頭取邸の土蔵

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    (戦後) 現在の大垣市役所があるあたりは、大橋銀行頭取の邸宅であった。水門川の遊歩道からは邸宅の土蔵が見えた。昭和12年に市役所が移転してきたが、その後も土蔵は書類の保管場所として使われた。

  • 駅前通り新大橋付近

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    (昭和28年ごろ) 新大橋付近の駅前通りを北から撮影した昭和28年ごろの写真である。戦前に重厚な石造りの橋が造られ、戦後も残っていた。戦後、道路は拡幅され、商店街は鉄筋コンクリートの防災建築に改造された。写真には、ボンネットバスが走っているのが見える。いまは電線も地中化され、駅前から大垣共立銀行と丸ビルが遠望できる。

  • 被爆地の跡

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     「被爆地の跡」の碑は、昭和20年7月24日午前8時米空軍B29爆撃機が重さ1トンといわれる爆弾を投下した場所に建てられた。長崎に投下された原爆の模擬爆弾であったといわれている。爆弾は農業会大安支所を直撃し、10名ほどの職員が爆死した。周囲500m内にあった建物は一瞬にして倒壊し、建物内の書類が赤坂まで飛んで行ったと伝えられる。また、28日夜から29日未明にかけての大空襲で、当時国宝だった大垣城や興文小学校など家屋4千戸を焼失し、死者40名を出した。(「歴史と文化の交差路 大垣を歩く」)