鳥取城下全図[安政6年(1859)]

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この図を基本レイヤーと位置付け作業を行っている。本図は城下における藩士の拝領地の調査のための資料として作成されたものと考えられ、武士の居住する屋敷地にはそれぞれの名が記されていることが確認される。普請奉行岡島勘之丞担当のもと、作事道手奉行岸本平次郎、作事大工棟梁松森十蔵、算術家岡本程平・同中村真一などが作業に従事して作成された。この図の特徴はその精度の高さである。当時作業に参加した中村真一が、明治中頃にその由来や作成技術を書き残しており、その内容を詳しく知ることができる。縮尺は2間1分(1/1200)となっている。法量:235×320cm。




update date: 2024.04.01

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  • 樋橋

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    矢津村・立川村の田んぼに水をそそぐため、袋川の上を通した大きな筧。農人がその上を通行していたという。しかし、この一帯は田んぼから町並みに変わっていったため、明和期頃(1764-72)に筧は撤去されたという。 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

  • 牢屋

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    郡村出身の犯罪人を収容した施設。鳥取城下の近在では、吉成村と当地にあった。

  • 道祖神

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    三本松と呼ばれた大松の下に小さな祠があり、この中に古い五輪塔が道祖神として祀られていた。

  • 三枚橋

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    矢津川に三枚の板を渡した橋。長さは三間(約5.4m)あった。洪水の際、村民たちが板を等閑にして、もし流失させてしまった場合は、村方より罰則として、板一枚につき米一俵を出す事が、古来よりの掟となっていた。大杭村と城下を結ぶ往来の橋であった。

  • 惣いと場

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    矢津川(現天神川)の土手筋にあった為登場。

  • 古海河原

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    千代川右岸の河原で「古海の渡し」と呼ばれた渡し場。一帯は行徳村と古市村の領域であったが、「古海の渡し」が存在していたため、「古海河原」と通称された。河原には、毎年9月17日に行われた東照宮祭礼の御旅所や古海御茶屋が設けられた。天保13年(1842) に鉄砲稽古場、安政3年(1856) に調練場(のち練兵場)などの軍事施設が設置された。また、同河原では相撲や曲芸の興行、寺院による水施餓鬼や出開帳が行われた。袋川で行われていた盆の燈龍流しは、寛政期頃(1789ー1801)から千代川に移り、河原には多くの人が集まり、出茶屋なども設けられた。 古海河原灯籠流しの図 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

  • 向品治

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    手前品治から孤川を隔てた西に位置する集落。大半が侍屋敷で、元文年間(1736~41)以降に人家が建ち始めたとする説がある。年貢地はすべて町分として扱われる町庄屋構(赤○)で、東館池田家の遠藤氏、山住氏の拝領屋敷もあった。また文久3年(1863)から慶応元年(1865)にかけて、櫨苗作りと接木の技術者として筑後国田主丸村(現・福岡県久留米市田主丸町)の良平が向品治分の苗場御小屋で活動している。田主丸村は、和ろうそくの原料である高級品種「松山櫨」の発見地であり産地としてよく知られていた。

  • 龍沢庵

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    もとは岩井郡池谷村(岩美町池谷)瑞泉寺の持庵であった。文政年間(1818~30) に景福寺が檀頭である倉吉荒尾家の位牌を火事から避難させる場所として創建。のちには景福寺住職の隠居所となった。

  • 毘沙門堂

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    前身は多聞山今瀧寺といい、八幡宮の神宮寺であったとする。永禄年間(1555~70)の戦乱で廃絶したが、慶長元年(1596)に密教僧・頼賢が、井中から出現した多聞天像を安置する毘沙門堂を建てたという。元禄年間(1688~1704)には行性という浄土宗の道心者が自ら彫った毘沙門天像の胎内に多聞天像を納め、堂を修補したという(「雪窓夜話」)。享保15年(1730)には山伏福寿院を招いて因幡・伯耆の勧化を行い、三間四面の毘沙門堂を新築している。田嶋村の庄屋・年寄は、同年9月26日の本尊入仏と17日間の開帳を藩に願い出ている(「家老日記」)。

  • 牛頭天皇

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    田嶋村の産土神。祭日は9月21日。末社として稲荷・八幡があった(「邑美郡神社改帳」鳥取県立博物館蔵)。明治初年に万田神社と改称した。

  • 温泉の跡

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    湯所の地名の語源となった温泉の跡。江戸時代後期には藩士植村長右衛門屋敷が建っていたが、屋敷の山側にあった泉の様な場所が温泉の旧跡であると言われている。側の岩に薬師の祠があり、むかし温泉が湧き出ていたときの鎮守とされていた。ただし、所在地については諸説がある

  • 赤松八幡宮

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    但馬国(現兵庫県北部)の竹田城主赤松広英の霊を祀る神社。もとは雁金山のすそのにあった社で、現在と所在地は異なる。山伏多聞院(清教寺)が管理した。 慶長5年(1600)の関ヶ原合の戦い後、徳川家康より因幡の鎮撫を命じられた赤松氏は、鳥取城主宮部氏の家臣が立てこもる城の引き取りにあたった。その際、城下を焼き討ちしたことが家康の怒りに触れ、真教寺(当時は新蔵通りにあったという)において切腹したという。その遺体は、家臣が湯所に葬った。その後、大風雨の際に白装束に鉢巻きをした赤松氏の怨霊が、道を通行する人を悩ませたため、怨霊を慰めるために建てられた祠が、赤松八幡宮となった。社宝として赤松氏の刀があった。 赤松八幡宮は池田長吉時代に供米として60俵が与えられていたが、のちに召し上げとなったという。安永4年(1775)より再び毎年10俵の供米が付与された。 「鳥取新府久松金城」鳥取県立博物館蔵 山伏多聞院 赤松八幡宮と行者堂を管理した山伏。鳥取城下の山伏頭であったが、子細があって罷免となった。藩主に対し、正・五・九月の祈祷と札の献上を行い、揚羽蝶紋の幕・提灯の使用を許されていた。本寺である京都醍醐寺三宝院流(真言宗)の役人も勤めた。のち寺号を付与され多聞院から清教寺と改めた。

  • お乗場

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    袋川に設けられた藩主用の船乗り場。「雁木」と呼ばれる石の階段が設けられた。新年の恒例行事である船初めや、賀露・浜坂・湖山の御茶屋への遊山に使用した。藩主専用の御座船は、新鋳物師町の袋川沿いにあった「御船宮」に格納されていた。 「鳥取新府久松金城」鳥取県立博物館蔵

  • 内田

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    現在の湯所二丁目北側付近の字名。江戸時代、惣構の内で唯一の田地。もとは沼沢地で、屋敷地もまばらであったが、山土で盛土して江戸時代後半からは武家屋敷地となった。しかし、『鳥府志』によると、武家屋敷を拝領した藩士は、整地する費用を厭い、住居を建てる者もなく、もとの田地のままであったという。また家老の鵜殿家や和田家といった上級家臣の広大な下屋敷もあった。

  • 蓮池

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    内田のうち、袋川沿いにあった池。洪水対策のために昔の湖沼を残し置いたものという。江戸時代後期には埋め立てられた。 「鳥取新府久松金城」鳥取県立博物館蔵

  • 鵜殿家下屋敷

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    鵜殿家は鳥取藩の家老を勤めた家。下屋敷は、約2,280坪の敷地面積を有していた。なお下屋敷とは、上級家臣に対して、居宅のほかに与えられた屋敷のことで、城下周辺に与えられることが多く、家臣の住居や貸地として利用した。

  • 一本橋

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    呼称は架橋された当初が、一本の木を渡した橋であったことにちなむ。元禄期(1688-1704)以前に欄干橋へ変わった。もとは30~50m上流にあったともいわれる。架橋年代は、『鳥府志』によると戦国時代にさかのぼり、若桜方面から鳥取城下へ入る道として利用されていたという。江戸時代後期にも、若桜方面から城下へ向かう者は、この橋を渡り、御弓町、江崎町、元大工町筋へ向かった。そのため、若桜橋の通行者が減って若桜往来筋が衰微し、一方の元大工町筋は活況を呈したという。 一本橋の古図 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

  • 妙要寺

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    日蓮宗の寺院。山号は正栄山。池田家が由緒のある寺として待遇した八ヶ寺の一つ。家老を勤めた鵜殿家累代の菩提寺。もとは鵜殿家が姫路に創建し、池田家の転封に従って岡山、鳥取と移転した。境内には、鵜殿家の墓所があるほかに、良正院(徳川家康の娘、池田光仲の祖母)の娘「縁了院」の位牌が安置された。また鳥取藩士詫間家や、京都の古義堂で学び、のちに鳥取藩の儒者として活躍した辻晩庵の墓などがある。

  • 子安桜

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    『因州記』によると、八重桜で世間では「塩釜」と呼ばれた名木であった。花の盛りには花見客で賑わったといい、寺僧がとても花を愛していたため、一葉一花も取ることを禁止した。享保5年(1720)の石黒火事で焼失した。

  • 大宝院

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    山伏。安政4年(1857)、院主の死亡を秘匿して博奕宿としていたことが発覚し、弟子の了順が追放に処された(「家老日記」)。

  • 覚応寺

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    浄土真宗の寺院。鳥取城下で唯一の東本願寺の末寺。山号は光瑞山。同寺では、享保期(1716-36)に、弓を射る行事「勧進的」が行われた。境内には、文久3年(1863)に京都・本圀寺で尊攘激派の藩士らに襲撃されて死亡した側近高沢省己の墓などがある。また、大和国(現奈良県)出身の勤王僧三枝真洞(1840-68)は、天誅組の挙兵に参加した後、当寺に一時身を隠していた。

  • 慶安寺

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    浄土宗の寺院。山号は智光山。池田光仲の父で岡山城主池田忠雄が母良正院の菩提を弔うために淡路島由良に創建。のちに岡山に移り、寺号を専称寺から慶安寺と改めた。この寺号は「良正院智光慶安大禅定尼」の法号をとった。寛永9年(1632)の国替えにより鳥取に移った。正徳4年(1714)に将軍家の位牌所となったことで、藩内最上位の寺院である四ヶ寺の待遇を受けた。境内には、鳥取藩絵師で幕末に活躍した根本幽峨(1824-66)や、鳥取藩学界の三傑と称された安藤箕山(1736-81)の墓がある。明治5年(1872)には、境内に市内で2例目となる修徳小学校が開校した。

  • 岡嶋家屋敷跡(岡嶋正義邸)

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    岡嶋家は禄高420石の鳥取藩士。天正11年(1583)以来、代々池田家に仕えた。7代の岡嶋正義(1784-1858)は、江戸後期の鳥取藩士で、佐野家から養子に入った。文政7年(1824)には大目付まで勤めたが、2年余りで職を辞し、以降は、公職につくことなく藩内の地理や歴史の研究に力を注ぎ、『因府年表』や因幡国の代表的な地誌『鳥府志』などを著した。

  • 江崎下の惣門

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    鳥取城郭内の9つあった惣門のひとつ。門の正面には、石積みされた土塁が築かれ、直進できない虎口構造になっていた。門の脇には番小屋があった。因州東照宮の祭礼では、神輿の通行路になっていたため、門の屋根は掛け外すことができた。 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

  • 西館池田家御屋敷

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    鳥取藩の分家にあたる西館池田家の屋敷地。鳥取藩には2つの分知家があり西館池田家は、初代藩主池田光仲の五男清定を祖とする分家の大名である。元禄13年(1700)に新田1万5000石を分与されて成立。幕末には、200人余りの家臣がいたが、領地をもたず、本家から蔵米を支給された。西館の屋敷は、もとは鳥取城三の丸の東側(現県立鳥取西高等学校の第2グランド)にあったが、文化9年(1812)に起こった火事(佐橋火事)の後、同地を火除け地とするため、この場所に移された。同じ分知の池田家と区別するため、屋敷の位置から東館池田家に対して、西館池田家と呼ばれた。また江戸の鉄砲洲にあった藩邸の地名をとって「鉄炮洲家」とも呼ばれた。

  • 鵜殿家屋敷

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    禄高6,000石の着座・鵜殿家の屋敷があった場所。現在は、鳥取市立久松小学校の校舎・体育館が建っている。鵜殿家の屋敷地は、表向・中奥・大奥から構成され、面積は約1,800坪あった。往来に面した部分には長屋が建ち並び、鵜殿家の家臣が居住していたと考えられる。また、敷地内には、水道谷を暗渠で流れてきた上水が引き込まれていた。 「鵜殿家屋敷図面」 鳥取県立博物館蔵

  • 三つ子岩

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    高さ四尺(1.2メートル)、わたり五~六尺(1.5~1.8メートル)ほどの巨岩。呼称の由来は、もともと3つあったものが、池田長吉による鳥取城普請で一つだけ残されたとする説や、みこ石が転訛したとする説、上面に3~4歳の幼児の足跡のような窪みあるためとする説がある。さらに江戸時代後期になると、武蔵坊弁慶三歳の時の足形だと言い伝えて、弁慶三つ子岩とも呼ばれるようになった。

  • 古海御旅所

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    因州東照宮の勧請にともない、承応元年(1652)に設けられた祭礼施設。毎年9月17日の祭礼では御幸神事が行われ、藩主も在国時には祭主として参加した。 古海御旅所の図 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

  • 神子の井戸

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    上町にあった井戸。神子(みこ)の井戸という名には、往来筋より「見こむ」(のぞきこむ)場所にあるので「みこみの井」を略したとする説、かつて巫女が住居していたためとする説、井戸近くの屋敷内に巫女の墓があったとする説などあった(『鳥府志』)。 『因州記』鳥取県立博物館蔵

  • 追廻の馬場

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    薬研堀の土手沿いにあった馬場。上と下に入口が2ヵ所あり、下の入り口は御成門として常時締め切りとなっていた。 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

  • 新蔵

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    鳥取藩の年貢米を納めるための米蔵。藩士の禄米などを扱った。享保5年(1720)の大火で、敷地内の大きな松が焼失した。新蔵は、三方を旧袋川の河道と考えられる堀で囲まれており、防火には最適な立地にあった。堀は現在埋め立てられている。 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

  • 塩納屋

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    藩の塩を統括した役所。塩座とも呼ばれた。

  • 浜部和十郎屋敷

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    鳥取藩の刀工。浜部派の初代浜部美濃守寿格は、延享3年(1746)に鳥取で生まれ、初めは日置兼先に学び、さらに江戸に出て修業した。浜部派は初代寿格の後、2代眠龍子寿実、3代見龍子寿幸、4代眠龍子寿秀、5代眠龍子寿光と続き、一門は多くの門人を輩出した。

  • 裏判所

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    鳥取藩の用度管理を担当した役所。袋川の外にあった竹蔵なども管轄した。

  • 御作事御用地

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    藩の土木工事や建築修繕などを担当した作事手の用地。慶応2年(1866)には番人小屋が建てられていた。

  • 魚ノ棚の為登(いと)

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    別名「下魚町の為登」ともいった。

  • 下魚町

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    町人地。当初は、大きな沢があって、蛙の鳴き声がうるさかったので、蛙町とも呼ばれた。町名は魚屋が集まっていたことや、上構の上魚町に対して下構にあったことにちなむ。元禄期(1688-1704)までは、当町から袋川の土手を越えて、川向こうの荒尾但馬下屋敷に渡るための橋(但馬殿橋)があった。 鳥取県立公文書館『鳥府志図録』より転載

  • 真宗寺の為登(いと)

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    河端三丁目と四丁目の間の横町筋の為登場。横町筋は、「片原の観音」まで通じている。

  • 真宗寺

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    浄土真宗の寺院。山号は龍雲山。かつては沢市場(現県立鳥取西高等学校第2グラウンド)にあったとされ、『本願寺文書』に出てくる「因州鳥取真宗寺澤市塲御坊」に比定される。京都・西本願寺の僧侶が来鳥した際には、宿坊にあてられた。享保5年(1720)の大火で、大雲院(当時は唯識院)が焼失した際には、常憲院(徳川綱吉)の13回法要を代行した。宝暦7年(1757)からは常憲院の位牌と画像を護持することになり、御紋付の幕と提灯の許可を藩に願い出ている。

  • 観音院の下

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    観音院門前から神子の井戸までの間の街区。立川方面への街道筋に井戸があった。

  • 御徒長屋

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    池田光仲の時代に江戸で雇用した御徒が住んでいた長屋。

  • 御忍屋敷

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    江戸時代のはじめには伊賀衆の御忍が集住していたが、のちに医者なども居住するようになった。居住者の新紋右衛門家は鳥取藩の御忍で、伊賀衆服部家の末裔。

  • 桜真田

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    天明年間(1781-89)に鳥取藩士真田家が居住し、屋敷内に植えられた桜が見事であったことから「桜真田」と呼ばれた。

  • 岸本家屋敷

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    明治大学の創設者のひとり岸本辰雄(1851-1912)の屋敷跡。岸本辰雄は、鳥取藩士岸本平太郎の3男として嘉永4年(1851)に生まれた。幕末に藩校の尚徳館で学び、維新後はパリ大学に国費留学し、フランス法を学んだ。帰国後に明治法律学校(明治大学)を宮城浩蔵・矢代操と創立した。

  • 大雲院

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    天台宗の寺院。山号は乾向山。因州東照宮の別当寺(神社の祭祀や管理を行った寺院のこと)。藩内でもっとも上位の待遇をうけた四ヶ寺のなかでも最上位の寺格を有した。慶安3年(1650)の東照宮勧請のときに建立され、当初は、「淳光院」と称した。開山の公侃は、池田光仲の叔父池田輝澄の六男松之助(徳川家康の孫)。大雲院の職務は、歴代の徳川将軍家の位牌の安置と法要、東照宮領の管理などであった。また天台宗寺院を管轄する立場にもあった。大雲院の向かいには得玄院・大乗院・吉祥院・蓮正院(成就院)の塔頭があった。 明治新政府が明治元年(1860)に、全国の神社に発布した神仏分離令により、因州東照宮と大雲院との分離が行われ、大雲院は観音院、さらに立川の霊光院(現在地)へと移転した。 『因幡民談記』鳥取県立博物館蔵

  • 大鳥居・下馬札・御厩

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    江戸時代の大鳥居は、現在よりも150mほど入口側に位置した。また大鳥居の側に下馬札と御厩があり、境内への乗馬は禁じられていた。参道には桜並木が植えられていたが、のちに杉や欅並木となった。 『無駄安留記』鳥取県立図書館蔵 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

  • 本願寺

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    浄土宗の寺院。山号は選擇山。天正9年(1581)に宮部継潤が但馬国豊岡(現兵庫県豊岡市)から鳥取に移封された際に、丹後国久美浜(現京都府京丹後市)から因幡に移ってきた寺院。鎌倉時代につくられた本尊の阿弥陀如来は、久美浜から移す際に、一度海に落ちて、引き揚げられたため、梅雨の時期に汗をかくと伝える。また、梵鐘は、宮部氏の時代に龍女の願いによって、伏野(現鳥取市)の海岸から引き揚げられたという伝説があり、通称「竜宮の釣り鐘」と呼ばれる。寺には、そのときに付着したとされる鮑も伝わる。この梵鐘は平安時代前期の作として国の重要文化財に指定された。境内には、富家に押し入り、盗品を貧者に施して「義賊さくいち」と呼ばれた桜田作一郎の墓などがある。 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

  • 野際屋敷

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    人家と野原との境目であったことから付けられた地名。ただし、江戸後期には屋敷地となった。

  • 安長の渡し

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    新茶屋と安長村をつなぐ千代川の渡船場。 千代川の土手 池田長吉期に千代川の治水事業として行われ、池田光政によって田島まで延長された。光仲以降も整備が進められ、土手際に松が植えられた。昭和初年まで松原があった。 元文一揆 元文4年(1739)2月、年貢の減免や藩が新規に取り立てた大庄屋の罷免を求めて、因幡・伯耆の農民3~5万人が安長の渡しなど千代川の土手に集結した。城下への侵入を試みるも失敗し、2 月27 日首謀者八東郡東村勘右衛門の捕縛により終結。 この一揆により、農政を統括していた米村所平が閉門(のち追放)となった。翌年、19名の関係者が死罪晒首とされた。

  • 新茶屋・柳原

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    新品治町に続く両側町。もとは品治村に属し、同村の農民が出茶屋を営み、しだいに集落を形成するようになった。江戸時代後期には町場化が進み、市街のような繁栄振りであったため、品治村から分離したが、町に編入されることなく町分(農村部のうち町庄屋の支配を受ける地域)として扱われた。 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

  • 本町二丁目

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    町人地。享保9年(1724)の火災までは、町御用場があり、町政の中枢機能を担っていた。町内には彫り物師後藤氏や白銀師加嶋氏の拝領屋敷があったほか、御用商人が住んでいた。 本町二丁目の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

  • 晴雲寺

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    修験道の堂宇。山号は金龍山。本尊の観音は、元禄11年(1698)に造立を藩に願い出たもので、「片原の観音」と呼ばれた。もとは善祥院と称し、天保期(1831-45)に晴雲寺と改めた。因幡・伯耆2国の修験筆頭を命じられるなど、領内で重きをなした。

  • 本町三丁目

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    町人地。江戸時代中期までは、小豆屋町とも呼ばれたが、その由来は、但馬国より小豆屋藤右衛門という商人が、当町に住居し、雑穀店を出したことによるという。 鳥取県立公文書館『鳥府志図録』より転載

  • 豆腐町

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    町人地。両側町で、町名の由来は、池田長吉の時代に藩の御用を勤めた商人が豆腐屋を営んでいたことによる。また畳職人が多かったため、畳屋町とも呼ばれた。現在は大部分が片原四丁目となっている。 鳥取県立公文書館『鳥府志図録』より転載

  • 本町四丁目

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    町人地。池田光政の時代に「多門」という修験者が居住していたので、別名を「たもノ丁」と呼んだ。町内には柄巻師佐藤四郎兵衛らの拝領屋敷があった。 鳥取県立公文書館『鳥府志図録』より転載

  • 鍛冶町

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    町人地。町名の由来は、鍛冶師が多く住んでいたことに由来する。町内に居住する日置氏と山本氏は藩の刀工。 日置氏は、因幡兼先一門で、寛永9年(1632年)の国替えに際し、日置想重郎兼先が、池田光仲に従い岡山から鳥取に移住、明治維新まで八代にわたり、鳥取藩の刀工として活動した。日置廣次郎の屋敷は上品治村(現弥生町)にもあった。 山本氏は、忠国一門で、初代忠国は、山城の人、または鳥取の人ともいわれ、因州東照宮の神剣作刀のため、慶安2年(1649年)に京都から招かれたと伝えられる。 寛永11年(1634)の竈数29、安永7年(1778)の家数94。 鍛冶町の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

  • 職人町

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    町人地。町名は、大工・木挽・石工などの職人が多く住んでいたことにちなむという。寛永11年(1634)の竈数28、安永7年(1788)の家数79。 職人町の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

  • 御番人屋敷

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    智頭口の惣門の北にあり、見張りの番人がつめた。また隣接して幕番所があった。通常は締め切りとなり、参勤交代や他国からの使者が来訪するとき以外は開かれなかった。使用される日には長柄の鎗を飾った。

  • 薬研堀(袋川旧河道)

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    鳥取城下の内堀の総称。堀の呼称について『鳥府志』では、左右から土砂が流れ込み、自然に堀底が「薬研」のくぼみのような形状になったためではないかと推測している。 袋川の旧河道は、久松山下の町中を蛇行しながら流れ、宮部継潤以前はその河道の内側に城下が形成されていた。池田長吉による柳堤、池田光政の袋川の開鑿によって旧河道は切断され、城下のところどころに残った。

  • 四丁目尻の為登(いと)

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  • 四丁目尻

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    武家屋敷地。慶安以前には、袋川の土手際に御船倉があった。また明治以降は市場町となった。

  • 生物問屋

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    港で水揚げされた生魚類は、この問屋場で小売業者に渡され、城下の人びとに売りさばかれた。

  • 二階町三丁目

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    町人地。御用商人たちが店を構えていたほか、藩営の塩座があった。正徳2年(1712)3月には、当町の麩屋宅より出火し、約1,000軒が焼失したといわれる大火があった(麩屋火事)。

  • 松土手

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    鳥取城主池田長吉によって築かれた堤防。元和3年(1617) の池田光政入部後、古市から田嶋までの拡幅を行い、堤の上に並木松を植えたといわれている。以後も植え継ぎがなされた。田嶋より下の並木松は元文5年(1740) に植えられたものといわれ、上流よりも小ぶりな松が多かったため「小松原」と呼ばれた。明治以後も松原は存在したが、戦時中に松根油をとるために伐採された。

  • 菅家屋敷

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    禄高3,000石の重臣菅家の屋敷。菅家は菅原氏の末裔であるとして、屋敷内に天満宮を祀っていた。毎年6月25日には、諸人の参詣を許し、前夜には多くの参詣者があったという。しかし、文化9年(1812)の火災で屋敷が被災し、以降の参詣は途絶えたという。

  • 城下の街路

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    古い町割りでは、城側の街路は、カギ形に曲がっていたが、文化9年(1812)の火事の後に、道の付け替えが行われ、お堀までの道が直線化された。

  • 矢野家屋敷

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    禄高1,000石の重臣矢野家の屋敷。江戸時代半ばまでは、家老荒尾伊豆家の屋敷があったが、伊豆は、享保6年(1721)に礼席を不満として、京都に退身した。その後は、池田光仲の側室上野勾(厚恩院)が一時期居住し、西館池田家の御中屋敷を経て、文化9年(1812)の大火の後に矢野家の屋敷となった。

  • 榎木荒神

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    土手にあった大榎の根元に祀られた祠。享保3年(1718)には、願掛けの参詣者が夜間に火をともすことが不用心であるとして、祠は長田神社に移動させられた。天明年間(1781-89)には、丑の刻参りで多数の釘が打ち込まれたために大榎が枯れ、幹だけが寛政年間(1789-1801)まで残っていたという。その後、社は再建され、郭内唯一の社として近隣の住民に信仰された。 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

  • show stroly map Show Stroly map

    玄忠寺の持寺。玄忠寺の隠居が建てたもの。

  • 辻売

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    大工町頭から、御弓町へ曲がる4つ角の地名。地名の由来は、古金屋三右衛門という商人が辻売りを行ったため、もしくは東照宮勧請の際、出店で賑わったためとも伝える。

  • 御弓の町

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    武家屋敷地。町名は、江戸時代前期に御弓徒の屋敷が集まっていたことに由来する。江戸時代後期に、城下から若桜方面に向かう場合には、御弓町から一本橋を利用したという。町内には「荒神屋敷」、「揚り屋の丁」、「どんどの土手の下」などの字名があった。

  • 材木町の為登(いと)

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    諸郡の船や筏が集積した場所。とくに年貢納めの時期には、人や馬であふれかえった。土手の出口も、ほかの場所と比べて広く造られ、橋の左右に為登場があるはここだけであった。そのため、「為登」とは余り呼ばれず、丹後町の土手、あるいは「出合橋の土手」などといわれることが多かった。

  • 薬師町

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    町の成立は元禄11年(1698)頃、当初は出来薬師の町、新薬師町などと呼ばれた。出来薬師とは、江戸時代前期に信仰をあつめた明光院にちなむ。 薬師町の標幟 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

  • 菅能寺

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    日蓮宗の寺院。寛永9年(1632)の国替えにより鳥取に移った藩士菅権之佐道之(3,000石・証人上番頭)が開基となり、日党上人を開祖として創建。二代日応上人の代に1,300坪の境内地となった。また寺号は開基である藩士の菅氏と能勢氏の頭文字をとったとする説もある。

  • 香河氏の森

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    鳥取藩士香河家は、禄高1,340石の上級家臣。屋敷の後園には、城下でも珍しい森が残っており、権現を祀る社もあった。旧袋川の河道はここから、北(現鳥取県立図書館の方向)に屈曲していたという。 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

  • 本学院

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    修験道の堂宇。本学院という修験者がおり、因幡小鍛冶景長の持仏という薬師如来があったと伝える。霊験仏として繁盛したことから、この土手筋の為登は「薬師の為登」と呼ばれた。なお、景長は、京都粟田口の刀工二代吉正が、嘉元年間(1303~06)に、因幡国宇倍野(現鳥取市国府町)に移住して景長と改名し、以後景長を名乗った。

  • 薬師の為登

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    慶安寺の向かい側にある本覚院の本尊薬師如来にちなんで、「薬師の為登」と呼ばれたという。

  • 河端一丁目

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    町名は、川筋に沿った町であることに由来するという。 河端一丁目の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

  • 坂田の為登

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    呼称は、為登の側に鳥取藩士坂田家の屋敷があったことに由来する。

  • 藪片原

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    武家屋敷地。若桜橋の下から智頭橋の制札場までの袋川沿いにつづく地区をいう。明治以降、昭和42年(1967)までは町名として使われた。

  • 若桜町

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    町人地。若桜街道に面することからこの名がついたという。商人・大工・職人などが混在する町で、鍔師・早田氏の拝領屋敷もあった。寛永11年(1634)の竈数23、安永7年(1778)の家数76。 若桜町の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

  • 二階町一丁目

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    町人地。町名の由来は、『因州記』によると、姫路の町名を移したものとされるが、諸説がある。藩の鉄炮台師や金具師など御用職人の拝領屋敷があったほか、大工や左官などが多く住んだ。古くは風呂屋が多く集まっていたので、別名を「風呂屋丁」ともいった。 二階町一丁目の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

  • 丹後片原町

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    向丹後町または外丹後町ともいう。元禄11年(1698)に町人地に加えられ、江崎町、上町とならぶ大町といわれた。 丹後片原町の標幟 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

  • 大森町

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    町人地。『因幡誌』は、町名の由来を大森大明神(大森神社)の近辺にできた町であったためとする。正徳2年(1712)の麩屋火事では、大森町の福田兵部屋敷が焼失したとあり、この頃から町として成立していたとみられる。町内には和田家の拝領屋敷などがあった。安永7年(1778)の家数は43、天保飢饉に際しては多くの困窮者を出した。 大森町の標幟 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

  • 大工町頭

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    武家屋敷地。江戸時代前期には御徒衆が多く居住した。

  • 片原町三丁目

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    町人地。町内には修験の千手院と晴雲寺があった。享和2年(1802)には、片原町三丁目京屋源助という商人が、染物御用聞を命じられた。 鳥取県立公文書館『鳥府志図録』より転載

  • 石切場

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    藩の採石場。最上の石質とされた。

  • 法性山善久寺

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    曹洞宗の寺院。山号は法性山。開基は荒尾志摩秀就。宝永6年(1709)、倉吉荒尾家が新品治町に建立した。寺号は、荒尾家の先祖である小太郎善久の諱に由来する。善久は、甲斐武田家が三河松平家(徳川家)の居城浜松城を襲った元亀3年(1572)の三方原合戦で討死した。享保12年(1727)に丸山へ移り、善久寺の跡地には末寺として大雲寺が創建された。丸山に移った善久寺の裏手には鳥取城の火伏祈願所である秋葉大権現が祀られていた。明治3年(1870)、大雲寺が廃寺となったため、新品治町に戻り、秋葉大権現も移された。

  • 八幡宮

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  • 下台町

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    武家屋敷地。もとは、鹿野町とともに下片原町と呼ばれ、町人地が混在した町であった。町名の由来は、池田長吉の時代に、鹿野口惣門内にあった台座町に対する下の台座町であったことを略して下台町とした説(『因幡誌』)。古絵図に記された大三門(だいさもん)にちなむとする説(『鳥府志』)。某氏の下代が住んでいたので、下代町とした説(『因州記』)などがある。享保9年(1724)に下台町から出火した黒川火事の後、堀側の屋敷地が取り払われ、火除け地(広小路芝生)となった。

  • 平田眠翁墓所

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    平田眠翁(1807-82)は、岩井郡矢谷村(現福部町箭溪)の小林家に生まれる。京都で本草学、物産学を学び、天保14年(1843)に西館の御近習医師となった。嘉永5年(1852)から文久元年(1861) にかけての10年間は、鳥取藩の薬学長を勤めた。万延元年(1860)に『因伯産物薬効録』12巻を完成し、明治2年(1869)には鳥取医学校の教授となった。墓所は、昭和18年(1943)の鳥取大地震による山崩れで埋没したが、有志によって掘り出されて再建された。

  • 稲荷大明神

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    立川の産土神。もとは小さな神社であったが、元禄期(1688-1704)から、江戸の築地中屋敷で藩主の子女が誕生した場合に、鉄炮洲稲荷橋湊神社を産土神として崇敬したため、鳥取では、立川の稲荷大明神を藩として盛大に祀るようになった。初午(2月の最初の午の日)の日は、立川の若連中が種々の「ばさら事」を行い、多くの人々で賑わった。大正6年(1917)、北野神社(竹嶋天神)との合社が決まり、神体を現在地に移し、大正10年(1921)に本殿と中門が完成した。平成26年(2014)に立川稲荷神社の本殿、拝殿及び幣殿、中門は国登録有形文化財に指定された。

  • 立川大橋

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    天神川にかかる橋。立川と矢津村の境にかかる橋のため、矢津大橋とも呼ばれた。

  • 土取場

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    土の採取によって山肌が削られたため、ここから山側を望むと、源太夫松が崖際に見えたという。

  • 立川の道標

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    『鳥府志』によると、霊光院の門前の通りより竹嶋天神へ向かう道の角に「左は石井、右は一ノ宮」 という道標があった。「石井」は岩井郡のことを指すが、元禄14年(1701)に石井から岩井へ表記が変わったことから、それ以前に建てられた古い道標の可能性が考えられる。明治2年(1869)に立川三丁目の沢屋市左衛門が作り直し、現在は大雲院の境内にある。

  • 口の水道

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    鳥取城下の武家屋敷に供給された水道堤のひとつ。この谷を水道谷といい、幕末期には谷奥の奥新堤から口の水道まで4つの水道堤が連なっていた。口水道の遺構は、現在の長田神社の池泉の一部として現存する。口の水道には木戸番所があり、藩主はこの場所から城山に登った。 「口水道御番人宅并木戸御番人宅絵図」鳥取県立博物館蔵

  • 宮内の惣門(江崎上の惣門)

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    鳥取城郭内に9つあった惣門のひとつ。「天王の尾」と呼ばれる尾根がつきだす地形を利用して、直進できない虎口の構造となっていた。 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

  • 東館池田家屋敷

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    藩主池田家の分知家(分家)にあたる東館池田家の屋敷地。東館池田家は、初代藩主池田光仲の二男仲澄を祖とする分家の大名。貞享2年(1685)に新田2万5000石を分与されて成立。東館の呼称は、同じ分知の池田家と区別するため、屋敷の位置から西館池田家に対して、呼ばれた。また江戸の三田にあった藩邸の地名をとって「三田家」とも呼ばれた。 江戸時代前期までは山下袋町と呼ばれる侍屋敷であったが、享保5年(1720)の石黒火事によって、城内にあった東館の屋敷が焼失したため、この場所に移されたという。邸内には紅葉で有名な江戸の海晏寺を模した庭園があった。 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

  • 北の御門

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    鳥取城丸之内の門。通用門として利用された。 「鳥取城修覆願絵図(万延元年・1860)」鳥取県立博物館蔵

  • 南の御門

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    鳥取城内の南端に位置した枡形の門。藩主が参勤交代で江戸に出発した日から、昼間は小門だけが開かれ、夜間の通行はできなかった。枡形内側の渡櫓は、享保5年(1720)の石黒大火で焼失したが、享保11年(1726)に再建された。 「鳥取新府久松金城」鳥取県立博物館蔵 「鳥取城修覆願絵図(万延元年・1860)」鳥取県立博物館蔵

  • 兵庫櫓

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    鳥取城南隅の櫓。御鉄炮蔵とも呼ばれた。櫓下には大樹があったが、享保5年(1720)の石黒火事により焼失し、翌年に再建された。 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

  • 無縁寺(現慈眼寺)

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    曹洞宗の寺院。山号は宗知山。寛延3年(1750)4月、伯州久米郡定光寺(現倉吉市和田)の末寺として創建された。寺号は伯州会見郡渡村大祥寺の末寺明白寺の古寺号をもらい受けたという。開基は、京都の町人で、藩の塩問屋を勤めていた細井戸喜兵衛。また京都の門跡寺院のひとつ大覚寺(嵯峨御所)から無縁仏を供養するため、多くの寄付を受けた。幕末には、因幡西国観音霊場の三十一札所となった。昭和17年(1942)に慈眼寺と改めた。

  • 聖社(現聖神社)

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    江戸前期の『因幡民談記』は、創建の由来として、諸国巡歴の遊行上人が当地で死去し、のちに産土神として祀られたという説を紹介するが、その創建年代などははっきりしない。安永5年(1776)に永江遠江の持宮聖大明神に神階正一位が授けられている。また享和2年(1802)には、本社造営成就により、4年前から途絶えていた御輿洗の神事を、毎年6月10日と11日に復興したい旨を永江遠江と行徳村の村役人一同が藩に願い出て許されている。本殿は、棟札写しによると宝永7年(1710)の改築とされる。ケヤキ材を用い、細部の手法は桃山時代の遺風を伝えており、千鳥破風・唐破風を飾る。全体に細かく彫刻が施されるなど、安定感ある社殿の作りと美しく調和し、鳥取県保護文化財に指定されている。 「聖神社の神幸行寺」は、江戸時代後期に始まるとされ、氏子町が鉾や屋台を繰り出して盛大に行われる。鳥取を代表する祭礼行事として鳥取県の無形民俗文化財に指定されている。

  • 古海の渡し

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    千代川右岸の「古海河原」と左岸の古海村を結ぶ渡し場。両岸に綱を張り、船頭がその綱を手繰り渡船した。明治16年(1883)に木橋が架設されたことで、渡し場は消滅した。橋は昭和7年(1932)にコンクリート橋に架け替えられた。

  • 古海の御茶屋

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    藩主の休憩所としてつくられた施設。寛文12年(1672)に完成し、家老らが「大平石」を献上した。御茶屋内には鴨堀が設けられており、藩主が狩猟を楽しむ遊興の場となっていた。 『古海御茶屋鴨堀絵図』鳥取県立博物館蔵

  • 佐分利軍兵衛下屋敷

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    佐分利軍兵衛は、禄高300石の藩士。屋敷の周囲が藪に囲われていたことから、通称「薮佐分利」と呼ばれた。 佐分利家は、寛永14年(1637)、島原の乱で池田家の使者として従軍し、死傷者を出した家。

  • 御鉄砲屋敷

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    上級家臣が藩から預けられた鉄砲足軽を居住させた屋敷。物頭以上の藩士には、藩から鉄砲とともに、その鉄砲をあつかう足軽と人件費、さらに長屋の建設費などが支給された。しかし、実態としては、費用だけを拾得し、所定の足軽数を揃えない者が多かった。ちなみに物頭以上に預けられた鉄砲は約千挺を数えた。安政2年(1855)以降、足軽制度が見直され、物頭に対する足軽預けは廃止され、鉄砲足軽は藩直属となった。

  • 一乗寺

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    日蓮宗芳心寺(鳥取市馬場町)の末寺。山号は寂光山。文政11年(1828)に庫裏建立のため、町内で50日間の題目修行を行った。明治維新後に廃寺となった。

  • 宝珠院

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    真言宗の寺院。山号は玉泉山。寛永9年(1632)の国替え後に岡山から移転してきた。はじめは魚町尻に寺地を与えられて「法泉山円成院」といった。寛文4年(1664)に現在地に移転し、明和2年(1765)に「玉泉山円城院」と改称し、さらに文政2年(1819) に現在の院号「宝珠院」に改めた。同院は、鳥取藩主の祈祷所であり、毎年正月・5月・9月に城内祈祷を行い祈祷札を献上したほか、藩主誕生などの祈願も行った。、正徳4年(1714)に八ヶ寺の寺格に列し、享保2年(1717)には藩から60俵を与えられた。当院の本尊は不動明王で、江戸の目黒不動(瀧泉寺)と同作と言われる。 境内には、『因幡誌』の著者である安部恭庵、儒者の伊良子大洲、俳詰師5世吹万堂花町(330石取の藩士中井清市)の墓、2世吹万堂呑河(鳥取藩士小谷平録)の反古塚などがある。

  • 天神の下

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    山下の惣名。商家もあったが、大半は侍屋敷であった。

  • 正行寺

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    日蓮宗の寺院。山号は鷲峯山。元文元年(1736)に日香寺の願い出により、吉方中土手の地に末寺として創建された。当初は、金峯山正楽寺と称したが、のちに鷲峯山正行寺と改めた。その後も寺地として扱われていたが、江戸時代後期には頽廃し、実際には藩士が借り受けて居住していたという。

  • 樋橋ノ丁

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    街区の名。丁名は、突き当たりを右に進むと、橋としても利用された筧(川の上にかけ渡し、水を導く木の樋)があったこと由来する。

  • 袋町

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    江崎下の惣門からの道がこの場所で行き詰まっていたので、袋町と呼ばれた。宝暦年間(1751-64)に郡代の安田七左衛門により、若桜惣門の内側へ通じる道が開かれた。

  • 新橋

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    宝暦年間(1751-64)に新道が整備され、「焼餅屋の後」と呼ばれていた袋町と掛出しの間に新たに架けられた橋。

  • 古在御用場跡

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    宝永年間(1704ー11)に、郡代米村所平の屋敷内に設けられた藩の農政を扱う役所。寛延元年(1748)に、鳥取城南の御門の南側に移転した。在御用場には、郡代のほか在吟味役や御郡奉行など多くの役人が勤務していた。

  • 竹嶋天神(現立川稲荷神社)

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    天神山の麓に鎮座した神社。別当寺の竹島山松雲寺が管理した。『鳥府志』によれば、祭日は2月と6月の25日。もとは立川村内に祀られていたが、永禄年間(1558ー70)の兵火で罹災し、のちに付近で祭神(菅神)の「みぐし」を見つけた村人によって神体が整えられ、再建されたという。寛永9年(1632)の国替え後に、備前国竹嶋(現岡山市)の修験者を当地に居住させ、別当とした。 当社では、開帳や境内での相撲・軽業といった興行がさかんに行われた。明治以後、別当寺は廃寺となり、天神も北野神社と改めた。さらに大正6年(1917)に稲荷神社と合祀され、大正10年(1921)に本殿と中門が完成した。平成26年(2014)に立川稲荷神社の本殿、拝殿及び幣殿、中門は国登録有形文化財に指定された。

  • 上魚町

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    町人地。町名は、池田光政の城下町拡張のときに、魚屋を集住させたことに由来する。江戸時代中期になると、魚屋町としては衰微し、諸商売が混在する繁華街となった。寛永11年(1634)の竈数は41、安永7年(1778)の家数67、明治9年(1876)の家数86。 上魚町の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

  • 今町一丁目

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    町人地。町並みが整ったのは寛文年間(1661-73)と推定される。 鳥取県立公文書館『鳥府志図録』より転載

  • 今町二丁目

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    町人地。元禄年間に成立。妙玄寺の門前町として町場化が進行したとみられる。この町と棒鼻に伝馬継ぎ立ての機能があり、城下物流の拠点となっていた。 鳥取県立公文書館『鳥府志図録』より転載

  • 大雲院

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    天台宗。因州東照宮(旧樗谿神社)別当寺。慶安3年(1650)、因州東照宮の建立により成立。当初は「乾向山東隆寺淳光院」といい、初代住職は池田光仲の叔父池田輝澄の六男公侃。得玄院・大乗院・吉祥院・蓮正院の塔頭があった。大雲院の職務として、東照宮(徳川家康)や歴代将軍(3~5代、8、10、11、13代)の位牌安置、法事の執行、東照宮領の管理などがあった。なお、東照宮勧請以前は、長寿院が家康の祭祀を行う寺院であった。 大雲院は、5世観洞の代に、輪王寺宮から「慈雲院」の院室号(門跡寺院の末寺の称号)を与えられるようになり、以後歴代住職が付与された院室号を公称したため、寺号である「淳光院」は用いられなくなった。9世良航以後は「大雲院」を常院室号とした。 明治元年(1868)、新政府による神仏分離令によって観音院へ移った。明治2年10月本社などを引き渡し、翌月には東照宮領500石が召し上げられた。明治3年(1870)2月に末寺である立川町の霊光院へ移転した。 境内には東京から移された12代藩主池田慶徳以後の池田家墓所、同じく東京から移された東館池田家の墓碑や句碑、鳥取藩士米村家の墓所などがある。 江戸末期の大雲院を描いた図 『無駄安留記』 鳥取県立図書館蔵

  • 梶川(鍛冶川)

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    瓦町の土橋から宝珠院付近までの川の呼称。かつて鍛冶をする職人が居住していたため、その名がついたとされる。現在の梶川通りは昭和27年(1952)の鳥取大火後に拡幅されたもので、江戸時代には狭い道(梶川縁)で、宝珠院あたりで行き止まりとなっていた。

  • 三日月堀

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    堀の形状から三日月堀と呼ばれるようになったとする説がある。三日月堀より内側(鳥取城側)を内山下(うちさんげ)とも呼んだ。

  • 日置広次郎屋敷(拝領屋敷)

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    鳥取藩の刀工。兼先一門。日置氏は寛永9年(1632)の国替えの際、日置想重郎兼先が、池田光仲に従い岡山から鳥取に移住し、明治維新まで八代にわたり、鳥取藩の刀工として活動した。

  • 勧進橋

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    袋川を開削した池田光政の時代に、妙要寺の為登(箕浦の為登)に架かっていたという板橋。『鳥府志』によると、吉方村の百姓が、袋川の対岸にあった田畑を耕作する際、一本橋では遠回りとなるため、勧進して架けた橋であることからこの名がついたという。国替えの後に廃棄されたという。

  • 照福寺

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    真言宗。山伏。伊勢国(現三重県)世義寺の末院。本尊は十一面観音。もとは愛敬院といったが、格別の院であるとして、天保14年(1843)に、本山より照福寺の寺号を与えられた。嘉永7年(1854)には、ペリー来航による鳥取藩の江戸湾警備に対して、国恩として200両と銭1貫文を藩に献上した。

  • 日置広次郎屋敷

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    鳥取藩の刀工。兼先一門。日置家は寛永9年(1632)の国替えの際、日置想重郎兼先が、池田光仲に従い岡山から鳥取に移住したとされ、明治維新まで八代にわたり、鳥取藩の刀工として活動した。鍛冶町には拝領屋敷があった。

  • 妙玄寺

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    日蓮宗の寺院。山号は本光山。天和から貞享期(1681-87年)に寺町から当地に移転したとみられる。境内には幕末の藩校改革に尽力した儒者・堀庄次郎の墓などがある。 『因州記』鳥取県立博物館蔵

  • 町御用場

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    城下の町役人が町務をとり、集会所として利用された町政の中枢施設。町会所とも呼ばれた。もとは本町二丁目にあったが、享保9年(1724)の黒川火事で焼失し、本町一丁目に移転した。文政2年(1819)に伯耆国赤崎沖に漂着した朝鮮漂流民12名は、一時期、町御用場に滞在した。この施設は、明治4年(1871)に本町郷学校に転用され、翌年に遷喬小学校が創立された。

  • 片原天神

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    片原一丁目の向かいにあった荒神。慶安以前の絵図をみると、片原一丁目は両側町であったことがわかる。享保9年(1724)の黒川火事以降、火除のため堀側に店を構えることが禁止されて、芝生地となった。その後、子どもの遊び場となっていたが、この地にあった五輪塔が、いつしか荒神として祀られるようになった。江戸中期には、町中を回る壮麗な祭礼行列も行われた。子どもの守護神として崇敬されていたが、明治初年に一時廃絶し、その後再興された。なお、荒神の下は、花畑や渋紙の干し場として利用されることもあった。 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

  • 御作事

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    小細工ともいう。湯所下の惣門の門外から、材木町(内丹後町)へかかる途中の場所にある。以前は城内にあったが、万治年間(1658-60)にこの地へ移されたという。敷地内に役所があり、御普請方の御役人たちが、毎日出勤し、御城内をはじめ、城下の官舎の建築修繕、土木工事に関することを管轄した。 「御作事・材木蔵・割場絵図」(鳥取県立博物館蔵)

  • 材木町(内丹後町)

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    町人地。当町の堀端沿いにはかつて大きな裏通りがあったが、正徳2年(1712)の麩屋火事で焼亡し、街路が変更されたようである。町名は内丹後町と呼ばれることの方が多く、宮部継潤の時代からあった古い町という。「丹後」の呼称は、人名に由来するものではないかとの推測もある。 鳥取県立公文書館『鳥府志図録』より転載

  • 伯耆往来

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    鳥取と米子の間を結んだ主幹道。因幡側では米子往来(海道)、伯者側では鳥取往来(海道)・因幡往来(海道)と呼ばれた。城下のルートは、茶町から北西方向に向かって袋川に架かる鋳物師橋を渡り、元鋳物師町、新鋳物師町、新茶屋の町並みを経て、安長渡しに至り、千代川を越えた。米子までの距離は25里22町(103km)ほどあり、徒歩では三日の行程であった。

  • 霊光院

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    清涼山霊光院大雲寺。通称を詫間堂という。寛文年間(1661-73)、鳥取藩士宅間八太夫が持仏としていた観音を安置するために建てた草堂を宅間堂と称した。その後、江戸時代半ばに藩の農政全般を統括した米村所平が、この観音を尊崇して、異例の出世を遂げることができたため、現在地に6反余の御免地に願い、霊光院を建てて永代寺領300石を寄附した。享保2年(1717)に霊光院は大雲院の末寺となった。明治3年(1870)院室と定められ、大雲院が当地へ移った。

  • 茶町

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    二階町四丁目に続く両側町。元和5年(1619)の城下拡張にともなう町割で、下構二十町の一町としてつくられた。物資を積んで袋川を上がってきた高瀬舟(アサリ舟)の荷揚げ場として発達。仲買人など多くの商人たちで賑わった。 町名の由来には諸説があり、安倍恭庵の『因幡志』は、池田光政の時代に茶屋与左衛門が7間半(13.5m)の茶店を構えていたという説。野間義学の『因州記』は、因幡地方には茶が少なく、他国より舟で運んだ茶を荷揚げし、売買した場所であったためという説。岡島正義の『鳥府志』は、智頭郡より馬や徒歩にて運んだ茶が集まる場所であったとする説をとっている。 鳥取県立公文書館『鳥府志図録』より転載 茶町火事 寛政10年(1798)3月20日、茶町の北屋次郎七(角升屋)宅より出火し、武家屋敷・商家など約千軒が焼失した。 茶町火事の類焼範囲を描いた図 『因府歴年大雑集』鳥取県立博物館蔵 茶町の市街地図 「鳥取市街大切図」享保11年(1726)鳥取県立博物館蔵

  • 茶町の為登(いと)

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    東は但馬や岩井郡、西は伯耆からの魚介類の集積場で、着船場があった。問屋に卸さない魚類を売る市が立てられ、鰯が運ばれてくる日は最も混雑したという。袋川を通って船が集まるため、日雇いの運送人足が出入りし、煙草や食物を売る辻売りが多く出た。

  • 鋳物師橋

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    袋川に架かる茶町と元鋳物師町を結ぶ橋。元和5年(1619)にかけられた五橋(若桜橋、智頭橋、鹿野橋、鋳物師橋、出会橋)のひとつで、橋名は鋳物師町へ通じる橋であったことによる。慶安3年(1650)以前の絵図には「伯耆橋」とある。寛文13年(1673)と寛政7年(1795)の洪水で橋が流失・破損した。後者の洪水後、秋里屋・松岡屋・玉屋の願いにより、架け替え工事が行われた。

  • 重り石(御用石)

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    袋川に架けられた5つの橋には、橋げたが流されないように重しとなる石が設置されていた。「御用」と刻まれた重り石は、御用石とも呼ばれ、藩の作事方によって管理されていた。鋳物師橋には14個の石が置かれ、大きい石は160キログラムの重さがあったという。

  • おうみかど

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    沢の跡で、江戸時代初期には三十間(約54m)四方の大きな沢があったという。その後は町人地に囲まれて見えなくなり、江戸時代後期には、塵芥土木の捨て場となって埋め立てが進み、僅かに名残をとどめるのみとなったが、大雨の日には沢のようになったという。また『鳥府志』は、この場所を古い川筋の跡とも推測している。

  • 柳御蔵

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    鳥取城下に3ヵ所ある米蔵のひとつ。敷地の土手に枝垂柳の古い木があったため、柳蔵と呼ばれるようになった。主に支配米を扱い、切手によって米を支払ったので、切手蔵とも呼ばれた。立地は三方を堀に囲まれ、防火に適した場所にあったが、享保12年(1727)の帳屋火事では延焼し、7,000俵を焼亡する被害を受けた 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

  • 鹿奴口(鹿野口)の惣門

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    郭内の9つある惣門のひとつ。名称は、鹿野(現鳥取市鹿野)へ向かう道の起点であったことにちなむ。惣門の突き当たりには番人屋敷があり、惣門を抜け、鍵形の道を折れてから薬研堀に架かる橋を越え鹿野町に入った。因州東照宮の祭礼では、神輿の通路になっているため、屋根の掛け外しができた。なお、江戸時代には鹿野は、「鹿奴」(しかぬ)とも表記された。 『因州記』鳥取県立博物館蔵

  • 安養寺屋敷

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    禄高2,000石の重臣安養寺家の屋敷。この屋敷は享保5年(1720)の火災で鳥取城の御殿が焼失した際に、藩主池田吉泰の仮御殿となった。そのため享保7年(1722)の参勤交代は、この屋敷から出発した。翌年には安養寺家への御褒美として、刀などが下賜された。しかし、享保12年(1727)の帳屋火事で屋敷を全焼したため、当主は別荘に居住し、明き屋敷になったという。ちなみに、享保5年(1720)の石黒火事以前は、屋敷の背後に御金蔵があったが、藩主の仮住居後に、安養寺へ与えられたという。

  • 鎌田桜

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    江戸時代前期に住んでいた鎌田右衛門兵衛が植えた桜の異称。右衛門兵衛が東海道の土山宿(現滋賀県)から持ち帰って植えた桜は、あでやかで美しくかったので、その名がつけられたという。城下の人々が苗を所望して珍重したというが、宝暦年間(1751-64)には枯れてしまったという。なお、この屋敷の跡地は、藩の財政を管轄する元締役の官舎として利用されたが、のちに柳御蔵の敷地となった。

  • 清学院

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    山伏。本尊は不動明王。片原清雲寺の末院。文久3年(1863)に本堂修復のため、城下町裏での夜念仏修行の許可を藩に願い出ている。

  • 御薬園跡

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    文政10年(1827)に浪人医師の岡玄伯が藩の庇護を受けて薬草を栽培するため設置した薬園。玄伯の死後、天保9年(1838)に閉園となった。

  • 地蔵堂

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    手前品治と呼ばれる集落にある地蔵。

  • 鳴橋

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    狐川の上に架かる橋。がたがた橋ともいう。

  • 狐川

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    狐川の名称は、夏の水が多い時に、洗濯しようとすると、たちまち水量が少なくなり、水が少ない日に川辺に物を置いていると突然激流となって流失する事があったことが、まるで狐が人をだますことに似ていることから名付けられてたとする説がある。

  • 手前品治

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    新品治町の西側に位置する集落。享保期(1716-36)以降に集落が形成されるようになったと推測され、侍屋敷とわずかに農家があった。この絵図でも、藩士が年貢地を買得などによって所有する自分屋敷(黄色地)がみられる。さらに町分として扱われる町庄屋構(赤の○)と、在構(赤の●)の年貢地が混在していたことがわかる。

  • げんこ(元交)の為登

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    寛永9年(1632)の国替えの頃、キリシタン医師の森元交という医師が住んでいたことにちなむ。元交の父は、南部越後守といって、池田輝政の時代には、三千石を拝領していた。元交は岡山池田家の家老伊木氏、土倉氏などの要請で備前へ診療に赴くなど南蛮医として活躍した(「万留帳」)。島原の乱以降に、江戸に移送され、キリシタンとして幕府から厳しい詮議を受け、将軍徳川家光から検分されることがあったという。のちには出牢したが、鳥取に戻ったかどうかは定かではなく、万治3年(1660)には元交の妻子が江戸へ引っ越している(「家老日記」)。なお、屋敷跡には、元交の霊をまつる八幡の社や墓石替わりの榎があった。現在の玄好町という町名は、元交にちなんでいる。

  • 三軒茶屋

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    安永~天明年間(1772~89)にこの場所にただ三軒の茶屋があったことにちなむ。その後大いに繁盛して、源兵衛・喜三郎という屋号を、著名な摩尼山の源兵衛茶屋にかけて、「摩尼に丸山喜三郎源兵衛」と童謡にうたわれたという。

  • 吉方御下屋敷

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    藩主池田家の分知家(分家)である西館池田家の別邸。敷地内には御殿、庭園、馬場、田畑などがあった。庭の意匠は「御物数寄」 と呼ばれた西館3代当主池田定就(1724-90)によるもので、大池の水は大口用水(山白川)の分流を引き入れたもの。 「吉方御下屋敷之図」鳥取県立博物館蔵

  • 塩納屋

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    吉方下屋敷の入り口付近にあった藩の塩蔵。鳥取城下に移入された塩は、江戸時代中期までは灘手の塩田で作られていたが、のちには衰微した。ただし、藩主が使用する御用塩だけは、明治まで陸上(岩美町)において製造された。江戸時代中期以降に、城下で流通した塩は、周防国岩国(現山口県岩国市)や下松(現山口県下松市)産で、船便で賀露港へ移入された。鳥取城下近郊には塩を貯蔵する施設が複数存在し、それらを管理する塩方役所(塩座とも呼ばれる)が二階町三丁目に設置された。城下で消費される塩は、藩の公定価格で販売された。【参考】塩の貯蔵施設と貯蔵量 二階町三丁目(9万750俵)、吉方御下屋敷内(8,300俵)、立川安長屋(2万5,360俵) 立川茶屋(8,530俵)、荒神山(浜坂)蔵(2万俵) ※ほかに賀露に納屋があった。

  • 寺町の埃捨(ゴミ捨て場)

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    安政の鳥取城下全図に記載されている7ヵ所のゴミ捨て場のひとつ。7ヵ所のゴミ捨て場のうち、5ヵ所は旧河道筋に設置された。なお、鳥取城下におけるゴミ捨て場所の規定が最初に出されたのは、寛文4年(1664)で、武家を対象としていた。

  • 山伏堀(薬研堀)

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    袋川の旧河道。かつて銀札場の前に山伏の宝門院が居住していたことから、「山伏堀」と呼ばれた。

  • 寺町

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    城下の外縁に慶安寺や妙要寺などの寺院を集めて整備された町。最勝院は明治3年(1870)に湯所へ移転した。

  • 大名小路

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    通りを挟んだ両側に筆頭家老の荒尾但馬家など、上級家臣の大きな屋敷が連なっていたことから「大名小路」と呼ばれた。道幅は8間(約14.5m)あった。

  • 二階町二丁目

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    町人地。桧物屋が多く居住していたことから、「桧物屋町」とも呼ばれた。桧物師たちは、曲げもの、指物、へぎ板、偶人(人形)などを作っていたという。現在でも町内に家具屋が残る。また伊勢(現三重県)の人で、鳥取藩に招かれて歌道を教えた衣川長秋(1765-1822)は当町に居住した。 二階町二丁目の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

  • 若桜口惣門

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    鳥取城下に9ヵ所あった惣門のひとつ。堀より内側は「郭内」と呼ばれ、家老をはじめ重臣たちの屋敷が配された。この「郭内」が池田長吉期に城下町として整備された範囲と推定されるが、詳細は不明である。惣門を自由に通行することはできず、町人が通行する場合には、許可証である門札が必要であった。

  • 太閤手植の松

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    現在の鳥取赤十字病院の敷地内にあった古松。伝承では、天正9年(1581)、羽柴秀吉による第二次鳥取城攻めのときに、秀吉が手植えした松という。

  • 牢屋敷

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    庶民を収容した監獄。建物は、塀覆のうえに忍返しを設けた構造で、奥と口の二棟があり、奥側を新牢といった。罪状によっては、この場所にて斬首となることもあった。

  • 御銀札場

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    藩札の発行や金貨銀貨の交換業務を行う役所。札座ともよばれた。延宝4年(1676)、材木町に設置されたが、宝暦4年(1754)に掛出の山伏堀の前に移転した。この一帯は袋川の旧河道が前後を通り、中洲のような地形となっていることから、「中嶋」とも呼ばれた。 鳥取藩の藩札 (鳥取県立博物館蔵) 「銀札場図」(鳥取県立博物館蔵)

  • 桶屋町

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    町人地。町名は、桶屋仁左衛門が当初居住していたことにちなむ。桶屋仁左衛門家は幕末まで桶屋を営んでいた。 天保~弘化期(1830-48)にかけて鳥取藩が実施した藩内全村の田畑地続全図と田畑地続帳の作成事業を担当した増井清蔵は、当町に居住した。寛永11年(1634)の竈数33、安永7年(1778)の家数112。 桶屋町の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

  • 中土手

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    道祖神(現前田神社)の少し上手から、挽木畷の角までの通り名。当初の中土手周辺には一軒の家もない田地の広がる場所であったが、享保期(1716-36)以降、しだいに武家の居住地として整備されていった。その際、土手の左右を盛り土して住居を建てていったため、平坦な道になったという。

  • 高見ノ丁

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    かつて西館池田家の家臣高見新右衛門がこの丁の東側に居住し、豪家であったため名付けられたという。高見家はのちに一本橋近くに移ったため、生駒ノ丁といわれるようになった。

  • 但馬殿橋

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    元禄期(1688-1704)まで下魚町と丹後片原町の間に架けられていた橋。袋川外にある荒尾但馬の下屋敷に渡る通行の便をはかるため、荒尾家が架けた橋ともいう。洪水で何度か流失しており、元禄以降は、昭和31年(1956)に現在の有門橋が竣工されるまで橋は架けられていなかった。なお、慶安以前の鳥取城下之図には「下魚ノ棚橋」との表記がある。 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

  • 御材木蔵

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    江戸廻りの材木置き場。かつては、据物切役三浦(山口)翁助の屋敷があった。翁助は、この場所で銀山の採掘を行った。その資金集めのため、湯所で万句寄(俳諧興行)、芝居、太平記講釈などを催した。また石切場の西には、鉱石を取るために掘られた穴(間府)があった。

  • 鯨胆屋敷

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    めあかしの市右衛門が居住したことにちなむ。鯨胆とは、市右衛門のあだ名でその大胆不敵さから名付けられた。のちには俳譜宗匠松井維仙(稲村三伯の兄)が住居した。

  • 長田社(長田神社)

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    鳥取の産土神とされる神社。長田大明神とも称した。『因府録』によると、社地は江崎上の惣門の上にあったとするが、『鳥府志』は、鳥取城内にあり、そこから移転したと推測する。東照宮の勧請に際して、神職の永江外記がその祭祀を行うため、上町に移された。同社は、池田長吉の時代から藩主の氏神で、鳥取生まれの池田家男子の産土神とされた。永江氏は、往古より栗谷に居住して当社や牛頭天王社(現栗谿神社)などの神社を統括した神職で、東照宮の神職にも任命され、藩内の神職を統括する惣幣頭を兼ねた。 大正13年(1924)に、上町から旧社地に近い東町一丁目に移った。

  • 寺町三軒屋

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    当初、三軒の侍屋敷が並んでいたため、このように呼ばれたものか。ただし、慶安以前の絵図には四軒の侍屋敷が描かれている。

  • 箕浦の為登(いと)

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    「為登」とは袋川右岸の土手筋に設けられた大小20ヵ所の石階段状の荷揚場。この為登は、箕浦家の屋敷が側にあったことから「箕浦の為登」と呼ばれた。また道沿いに妙要寺が立地していたことから「妙要寺の為登」とも呼ばれた。

  • 観音池

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    高浜十兵衛屋敷 の山手の平地にあった池。観音を祀る小堂があった。観音院(現鳥取市上町)の本尊は、寛永年間(1624-45)に同所より出現したと伝えられる。また天明年間(1781-89)の大雨後、タテ1間ヨコ3尺の古墳が出現し、箱のようなものの中から、石器や刀などが見つかった。このとき、高浜家の家臣が取り出したところ、気がふれてしまい、種々の祈祷をなしてようやく回復したという。こののち、同所を「なわ目」と呼んでだれも近寄らなかったが、ある時、高浜家の使用人がその辺りにてタケノコを採り食べたところ、腹痛で悶絶したという。人々はその古墳のたたりとして畏怖したという。 『因州記』鳥取県立博物館蔵

  • どんとの為登(いと)

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    広徳寺門前の土手筋を袋川の方へ注ぎ込む川のいと場の名称。「どんど」は、立川の山下や一本橋の筧から袋川へ流れ込む水が「どうどう」と凄まじい音であったことにちなむ。

  • 馬建場

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    馬の休憩所。砲術師範武宮丹治が神発流訓練のため、藩に要望して、安政5年(1858)に新設された。なお、神発流は、天保9年(1838)に水戸藩主徳川斉昭が考案した和洋折衷の砲術で、馬上射撃などを特徴とした。武宮丹治は、安政2年(1855)に水戸藩に留学して神発流を学び、門人たちに伝授した。

  • 永照寺

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    修験道の堂宇。本尊は不動明王。山伏の頭役を勤めた。弘化4年(1847)に京都から和多柳応という人物を招いて心学講釈を行った。

  • 立川一丁目

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    当初は法美郡立川村のうちで新町と呼ばれていたが、元禄11年(1698)に町奉行支配となり、町人地に加えられた。町名の由来は、因幡川の下流邑美部と法美郡の境を流れる「立川」が山下の沼に流れ込んでいたことにちなむという。正徳2年(1712)には広徳寺土手の通りに番所が設置され、毎夜在中から番人が出て警備を担当した。当町内に、法美郡・邑美郡境の杭が立てられていた。 宝永年間には陶器が焼かれたが、土が適さず取りやめになった。 安永7年(1778)家数71、町役人負担65人余、賦課比率の等級は下の上 明治9年(1876)家数84、人数344人 鳥取県立公文書館『鳥府志図録』より転載

  • 米子荒尾家屋敷

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    禄高1万5000石の筆頭家老荒尾家の屋敷。大名小路の東側から北側にかけての広い区画を占めた。表門の左右には数十株の松並樹があり、見事な枝ぶりをみせた。また屋敷の南角には、武具庫と呼ばれる櫓があった。 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵 荒尾家 荒尾但馬は通称米子荒尾、米子城を預けられた鳥取藩内随一の重臣。 荒尾氏は、元尾張国知多郡荒尾谷(現愛知県東海市)の土豪で、池田恒興に荒尾美作守善次の娘が嫁して輝政を生み、その後池田家に仕えた。池田忠継が岡山藩主となった時、善次の子成房・隆重の二人が家老として忠継に付けられた。この二人が、のちに米子と倉吉の両荒尾家の祖となった。 光仲幼少の頃は、成房の子成利(但馬)と実弟で隆重の養子となった嵩就(志摩)を中心に藩政が行われた。

  • 法泉寺

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    法華宗の寺院。山号は富中山。宝暦12年(1762)12月に格式を円城院(宝珠院)の次とされ、八ヶ寺の一つとされた。本尊は釈迦如来。開基は日渡。寛永9年(1632)の国替えに際して、鳥取の王日谷に移り、慶安3年(1650)の東照宮の勧請に伴い現在地に移ったとされる。『因州記』によると、移転の当初は、田の中にあったので、「田中の法泉寺」と呼ばれ、山号の富中山は、田の文字に冠を置いて、富の字を用いたとする。境内には、池田光仲の末娘伊佐子姫の墓や位牌所があった。また武田信玄が護持したとも伝える八幡菩薩像が祀られていた。 伊佐子姫 初代藩主池田光仲の末娘で、母は側室上野厚恩院(お勾の方)。元禄3年(1690)に病気となり、光仲は、法泉寺の上人に平癒の祈祷を命じたが、その甲斐もなく5歳で死去した。以後、法泉寺が位牌所となり、法要が営まれた。

  • 内丹後口御門(杉浦の惣門)

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    郭内9つの惣門のひとつ。かつて杉浦家の屋敷があったことから「杉浦の惣門」とも呼ばれた。明治6年(1873)には、惣門の内側に南杉浦町と北杉浦町の2町が成立した。

  • 貴法院(貴宝院)

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    修験の堂宇。本尊は観音。慶応2年(1866)に牛王寺と改めた。明治元年(1868)には、牛王寺の男子が鳥取藩で編成された新国隊に入隊している。

  • 二階町四丁目

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    町人地。商家が軒をならべ、文化7年(1810)には奈良屋という商人が、久能寺焼物問屋を命じられている。また同町の鹿野街道筋に薬舗を構えた成教屋(平井家)は、庶民に心学を講話する道場「成教舎」を運営し、安政3年(1856)には、因幡国を廻る許可を藩から得ている。成教屋は、安政6年(1859)にコレラが流行した際に薬を施行し、藩からの称美を受けた。 鳥取県立公文書館『鳥府志図録』より転載

  • 円相院

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    真教寺の塔頭。立川三丁目の肥後が谷には同院の庵があった。

  • 本町一丁目

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    城下町拡張により、姫路から町名を移したという。町寄合所があり、享保9年(1724年)には、町御用場が移転してくるなど、町政の中枢機能を担う場所となった。町内には、御用職人(白銀師)浅見氏の拝領屋敷などがあった。寛延元年(1748年)閏10月には、町内の丁子屋市郎兵衛が米相場の安定を目指し、米相場所の設置を藩に願い出ている。 本町一丁目の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

  • 元魚町一丁目

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    町人地。町名は藩から魚町に指定されたことによる。 元魚町一丁目の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

  • 片原一丁目

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    町人地。町名は一方が掘に接していたことに由来する。 片原一丁目の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

  • 片原二丁目

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    町人地。横町に、竃(くど)作りの者が住んだことから、「くど屋町」ともいわれた。 片原二丁目の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

  • 河端二丁目

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    町人地。当初は藩によって宿屋町に指定されていたが、のちに宿屋は姿を消した。 河端二丁目の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

  • 旧町御用場

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    享保9年(1724)の黒川火事で焼失し、隣りの本町一丁目に移転した。

  • 広徳寺の封彊(どて)

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    池田光政の城下普請によって惣構として築かれたという土手。土手の南側には御押屋敷があった。

  • 法美往来

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    城下と岩井郡蒲生(現岩美町)までを結んだ道。蒲生峠の先で但馬往来に通じていた。但馬道、岩井往来、国府道、雨滝道などと呼ばれていた。『因伯古城跡図志』(鳥取県立博物館蔵)によると、立川大橋から蒲生村までの距離はおよそ6里(24km)であった。幕末には立川・宮下・楠城に継場があった。一里塚は宮下・谷・殿・下木原・雨滝・法勝寺にあった。 元禄6年(1693)に池田光仲が奥谷(国府町)の廟所に葬られてからは、参詣の道として整備されていった。

  • 御小人屋敷

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    御小人は、町村から徴発された人夫を指し、各役所で雑役に従事した。小屋は栗谷にあったが、元禄5年(1692)頃に、立川へ移った。湯所にも同様の小屋があり、立川を「上」、湯所を「下」の小屋といった。

  • 和田家下屋敷

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    禄高5,500石の着座和田家の下屋敷。かつてこの屋敷地を拝領したときに、往来筋を取り入れたことがあったようで、住民はこの屋敷内を通りぬけて、材木町の為登に行くことが習わしのようになっていたという。

  • 丸山二軒茶屋

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    浜坂道と摩尼道の分岐点。宝永年間(1704~11)に2軒の茶店ができた。その一軒にはお万という娘がいて、往来の人に茶を汲んで出したので、「お万茶屋」と呼ばれるようになった。 『鳥府志』(鳥取県立博物館蔵)

  • 源太夫松

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    観音院の山域にあった松。四方を見晴らすことが出来る場所にあったので、多くの人びとが遊興した。また近在の人は、この松を目印に方角をみたという。名の由来は、剣豪深尾角馬の高弟で、白井源太夫という藩士が、毎夜この松の下に来て尺八の練習をしたことにちなむという。

  • 御勘定所・在御用場

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    勘定所と在御用場は、もともと丸の内や城下に分散していたが、寛延年間(1746-51)になって侍屋敷のあった当地に集約された。配置は、北東側に金銀の出納を司った勘定所があり、その南に在方村落の支配役所である在御用場があった。また御勘定所・在御用場と東側の裏判所は、それに付属する御会所を含めて「三役所」とも称された。なお、勘定所のあった敷地には明治18年(1885)まで県庁が置かれていた。 「御勘定所・在御用場・裏判所・御会所之図」 鳥取県立博物館蔵。4つの施設を描いた平面図

  • 箕浦家屋敷

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    箕浦家は、初代の箕浦近江が池田輝政に仕えた譜代の重臣で、知行高2,000石を拝領した。幕末の当主である箕浦近江は、学校奉行などを歴任した。箕浦家屋敷の跡地には、明治22年(1889)に因幡高等小学校女子部が置かれ、のちに久松尋常小学校となった。学校の通用門として使用されていた武家門は、昭和11年(1936)に、鳥取県師範学校の増改築にあたって、校門として尚徳町へ移築された。

  • 擬宝珠橋

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    お堀端の表門(「中の御門」)に架かる大手橋。形状はアーチ状の太鼓橋で、橋巾は5m、長さは約37mあった。明治30年(1897)頃までに取り壊されたが、江戸時代後期のものと思われる欄干の柱の擬宝珠が現存し、鳥取県立鳥取西高等学校で保管されている。平成23年度に実施された発掘調査から、江戸時代の橋脚の位置が判明した。こうした成果を踏まえ、2018年に木造橋として復元された。 「鳥取新府久松金城」鳥取県立博物館蔵

  • お堀端(桜の馬場)

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    お堀端は、元和年間(1615-24)に鳥取藩主の池田光政が、桜を植樹させたことから、「桜の馬場」と呼ばれた。毎年5月5日には、桜の馬場を中心に、騎馬の若い武士を沿道の町人たちが竹で打ったり、石を投げたりして威嚇する奇祭「幟ねり」が行われた。 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

  • 高砂屋

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    高砂屋は、池田家の国替えにより、岡山から鳥取へ移住したと伝える商家。元大工町には、明治時代の中頃に移り住み、綿商いを行った。建物は、市街地に現存する数少ない商家で、土場や帳場といった基本構成を備えつつ、二階座敷の長押や覧場などに意匠をこらしている。平成19年(2007)7月31日に国の有形文化財に登録された。

  • 藩校尚徳館

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    鳥取藩の藩校。「学館」、「学校」などとも呼ばれた。 創立は宝暦7年(1757)で、主に士分以上の嫡子や庶子が学んだが、士分以下でも聴講することができた。敷地内の御文庫は、和漢の書物があり、閲覧することができた。また若桜街道側には、枝葉が15間(約27m)も張り出した大榎があり、街道の半分を覆っていたという。 幕末に入ると、水戸藩から養子に入った12代藩主池田慶徳が規模を拡張し、砲術稽古場や馬場、孔子を祭る聖廟などが整備された。万延元年(1860)に慶徳が校内に建てた「尚徳館記」の石碑は、場所を鳥取県立図書館の脇に移されて今も残っている。尚徳館は、明治3年(1870)に廃校となった。 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵 「学館図」(鳥取県立博物館蔵) 幕末に拡張される以前の学館を描いたもの。

  • 水道井戸

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    唯家屋敷の東角にあった井戸。鳥取城下にはさまざまな井戸が存在したが、この井戸は、武家地の共用として使用された水道井戸。初代藩主池田光仲の時代に整備され、当初は10ヵ所であったが、江戸時代後期には、20ヵ所に倍増した。

  • 騎射場

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    文政7年(1824)5月、古海御旅所南の畑地に新設された騎射の稽古場。在府中の藩主池田斉稷が藩士荒木又之進に命じたもの。又之進は、小笠原流の騎射を学び、鳥取で藩士たちに伝授した。東側に3ヵ所のアヅチを築き、中通りに騎射場があった。最初の訓練日には老若男女を問わず多くの見物人で賑わったという。

  • 瓦師仁兵衛屋敷

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    瓦師仁兵衛の先祖は、池田輝政に仕え、慶長15年(1610)の名古屋城普請で瓦製造に従事した。その活躍を称えて徳川家康から輝政を通じて書状を頂戴したという(「御感状御書御褒美等所持之面々覚書之写」大雲院蔵)。仁兵衛の子孫は、池田家に奉仕する瓦師として淡路、岡山、鳥取と移動した。

  • 御手製瓦場

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    文化9年(1812)の火事(佐橋火事)以前に、瓦を製造する藩施設として設置された。製造は普請方が担当し、燃料となる薪は円護寺の御建山の松が用いられ、材料の土は、出来薬師周辺の屋敷地を収公しながら確保していた。 かつては瓦町・田中・出来薬師の特定の瓦屋しか製造できなかったが、のちに在郷での製造が許可されたことにより、価格も下落し、文化の火事以後は、城下でも茅葺きよりも瓦屋根が主流になった。また、三都の瓦に比べても品質が良いとの評判があったという。

  • 丸山石標(みちしるべ)地蔵

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    高さ四尺(約1.2m)ほどの自然石に、正面は地蔵菩薩を刻んだ道標。ここから摩尼山麓まで、1町(109m)ごとに33体の石標地蔵があり、参詣者の便りとした。道標には、 「右ハまにみち、是より三十四丁、たしま山みち、まにへかければ四丁のまわり、左ハたしまはま道、文化七午年六月日」と刻まれている。 『鳥府志』(鳥取県立博物館蔵)

  • 田嶋村(たのしまむら)

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    村名は田野嶋村とも記され、京都から兵乱を逃れて来住した村田・入野・中嶋の三領主にちなむとする(『因幡志』)。 山名氏の守護所が布施天神山にあった時代には、邑美郡の交通の要所として栄えたという(『雪窓夜話』)。江戸時代は上村・下村に分かれており、安政5年(1858)の村高は526石余、竈数は129であった。また行徳村と並び大根・蕪の産地であった。

  • 玄忠寺

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    浄土宗の寺院。山号は深心山。永正年間(1504-21)に深心大忠によって創建されたという。6世の品蓮社九誉寿哲無道を中興開山とする。本尊阿弥陀如来は、恵心僧都の作と伝えられる。『因幡志』などでは当初湯所にあったとするが、『鳥府志』は根拠がないとする。現在地に移転する以前は下横町にあって、堀に囲まれた風景が優れていたことから、玄忠寺八景が選定された。万治3年(1660)に、出来薬師から起こった火事により全焼し、現在地に移転した。境内には剣豪荒木又右衛門の墓などがある。 荒木又右衛門の墓 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

  • 学成寺

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    日蓮宗の寺院。山号は光照山。本尊は仏法僧三宝。創建時期は天正7年(1579)とされ、もとは現在の日香寺(鳥取市馬場町)の場所にあった。寛永15年(1638)、池田光仲の生母三保子(日香、芳春院)の位牌所となり、承応4年(1655)には二十五年回忌の法事を執行した。しかし、寛文5年(1665)4月の火事で焼失し、同年末に高浜十兵衛預り屋敷があった現在地へ移った。馬場町の旧地は、芳春院の寺地として新たに創建された日香寺が祭祀とともに引き継いだ。

  • 長栄寺

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    日蓮宗の寺院。山号は久遠山。『鳥府志』によると、鹿野橋のほとりに三知坊という道心者があり、景福寺の隣りに仏壇を構えて題目修行したのがはじまりとされる。慶安3年(1650)以前の絵図では、「法花寺」と記載がある。天保7年(1836)の飢饉では、死者43名が葬られた。

  • 桂林山大雲寺

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    曹洞宗の寺院。山号は桂林山。善久寺の末寺。享保12年(1727)に善久寺が丸山へ移った後に創建された。寺側の働きかけにより檀家には鳥取に居住する但馬国出身者が多かった。明治3年(1870)、大雲寺は廃寺となり、丸山から善久寺が移った。

  • 新品治町

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    享保8年(1723)に、長栄寺前と玄忠寺前の町屋が新品治町と定めてられて成立。町名はそれ以前に属していた邑美郡品治村にちなむ。成立時の竈数は72。安永7年(1778)の家数は65。寺町に次ぐ寺院の集中地区で、大雲寺、長栄寺、学成寺、玄忠寺があった。明治以降、品治村などと合併して富桑村となったが、大正12年(1923)に鳥取市へ合併された。 新品治町の標幟 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵 「鳥取市街大切図」鳥取県立博物館蔵

  • 景福寺

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    曹洞宗の寺院。山号は瑞松山。倉吉荒尾家の菩提寺。開祖は通幻寂霊禅師(1322-91)。摂津多田荘(現兵庫県猪名川町)の領主平尾景勝が室町時代に創建し、その後、姫路城主池田輝政の重臣荒尾志摩守隆重が、慶長7年(1602)に姫路に景福寺を建立した。荒尾家と景福寺は、池田家の転封に従って岡山、鳥取と移り、摂津・姫路・岡山・鳥取の景福寺が「四景福寺」と呼ばれた。境内には、倉吉荒尾家一族の墓所があるほか、戦国末・江戸前期の武将後藤又兵衛一族、『鳥府志』の著者である岡島正義、藩絵師として活躍した土方稲嶺、鳥取藩二十二士のひとり中井範五郎、その二十二士に斬殺された黒部権之介らの墓もある。

  • 新鋳物師町

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    元和5年(1619)城下拡張にともなう町割で、町人地となった。倉吉荒尾氏・津田氏の下屋敷、景福寺などがあった。 寛永11年(1634)の竈数は22、安永7年(1778)は38 新鋳物師町の標幟 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

  • 宝殿の社(火伏神社)

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    はじめは元鋳物師町の小路を30mほど入ったところにあった。元鋳物師町と新鋳物師町の両町は火を扱う家業が多く、火伏の神様として崇敬された。明治元年(1868)に大森神社に合祀されたが、同12年(1879)に再興された。

  • 元鋳物師町

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    元和5年(1619)、城下拡張にともなう町割で、下構二十町の一町としてつくられた。町名は、鋳物師が居住して、鍋釜の製造を行っていたことに由来する。 町の西側に新しくつくられた新鋳物師町に対し、元鋳物師町と称した。町内に御船宮や船魂明神、宝殿の社(火伏神社)などがあった。また明治時代には戸長役場が置かれた。 寛永11年(1634)の竈数14、安永7年(1778)45 元鋳物師町の標幟 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

  • 御船宮

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    藩主専用の御座船をはじめ、藩の御用船を格納した船倉。船は引堀を作り、茅葺屋根の下に格納された。 施設内に、航海安全の神様である船魂明神を祀っていたことから御船宮と呼んだ。毎年正月13日には鏡開きを行い、船頭・水主が酒を飲みながら船歌を歌った。 御船宮 『元禄以前の鳥取城下絵図』鳥取県立博物館蔵

  • 立川二丁目

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    元禄11年(1698)に町奉行支配となり、町人地の一つに加えられた。 町内に烏芋田の字名があるように、宝暦頃(1751-64)までは沼田があって蓮や烏芋が植えられていた。のちに沼田は埋め立てられて商家が立ち並んだ。また挽木畷は直角に曲がった道が、臼の挽木に似ていたことにちなむという。 安永7年(1778)家数110、町役人負担130人余、賦課比率の等級は下 明治9年(1876)家数110、人数427人 鳥取県立公文書館『鳥府志図録』より転載

  • 鹿野街道

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    鳥取城下から鹿野(現鳥取市鹿野町)に向かう道であることから鹿野街道、鹿野往来と呼ばれた。城下から鹿野に向かう道は、鹿野口の惣門を出て、町人地を通り、袋川に架かる鹿野橋を越えて、行徳村を抜け、古海の渡しから千代川を渡った。

  • 若桜街道

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    鳥取城下から若桜(現鳥取県八頭郡若桜町)に向かう道であることから若桜街道、または若桜往来と呼ばれた。城下から若桜宿方面へルートは、若桜口の惣門を出て、町人地を南西に進み、若桜橋を渡ってすぐ東に曲がり、袋川にそって吉方村へ東に進むのが本来の経路であった。しかし、江戸時代中頃には、江崎下惣門から、大榎町、御弓町の武家屋敷地を経て、一本橋渡って吉方村に至る経路が一般的となった。

  • 智頭街道

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    鳥取城下の大手通り。智頭宿(現鳥取県智頭町)に向かう道であることから、智頭街道もしくは智頭往来と呼ばれた。なお智頭街道(海道)というときは、智頭口の惣門から今町までの範囲を指す場合もある。また上方に向かう主幹道路であるため、上方往来、上方道とも呼ばれた。鳥取藩の参勤交代はこの街道を利用した。

  • 割場

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    人割場ともいった。御作事に附属し、足軽・御小人、あるいは日雇など、公用の人夫はここで人員をまとめ、各所に割り振りされた。

  • 三役屋敷

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    三役とは、藩主の行列につく駕籠、御手廻、御道具を担当する者で、主に町や村の若者が雇用された。とくに藩主の駕籠かきは、「御六尺」とも呼ばれ、身長は5尺8寸(約176㎝)以上の若者と規定されていた。空き屋敷となっていた江戸時代中頃には、化物屋敷と呼ばれ、いくつかの怪談話も生まれた。その一つは、妖怪が出ると噂を聞いたある武士が、屋敷にしのんでいたところ、夜更けに若い女性たちが現れて、庭で踊っていたが、しばらくすると姿が消えた。その後、黒い物体が現れたので、武士が切り伏せたところ、それは古狸で、以後は妖怪も出なくなったというものである。 藩主の駕籠かき 「御予参行列絵図」鳥取県立博物館蔵

  • がたがた橋

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  • 大谷屋敷

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    寛政7年(1795)8月29日に発生した洪水(乙卯水)では、この場所に屋敷のあった大谷平次兵衛の居宅が海まで流され、一家が全滅するという悲劇が起こった。

  • 堀切れ

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    新品治町の端にある土橋付近の呼称。狐川が蛇行する地点で、洪水の時はとくに激流となった。

  • 美田清七屋敷

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    寛永11年(1634)に伊賀上野の鍵屋の辻で、義兄(姉婿)荒木又右衛門の助太刀を得て、弟源太夫の仇討ちを果たした渡辺数馬の子孫にあたる美田清七の屋敷。数馬の養子となった八右衛門の代に「渡辺」から「美田」に改姓しており、清七は、7代目の当主にあたる。

  • 元魚町二丁目

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    町人地。魚店が軒を連ね、両側から日筵が突き合うばかりに張り出していたという。当町と元魚町三丁目に肴問屋場が置かれ、1ヵ月交替でこれを勤めた。

  • 河端三丁目

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    町人地。当初は、飴・たばこを商う町であった。慶安3年(1650)、因州東照宮の勧請のときに、上町の宿屋と入れ替えが行われ、宿屋町となった。日本最初の蘭和辞典『ハルマ和解』を完成させた藩医の稲村三伯(1758-1811)は、町医者の子として当町で生まれた。

  • 河端四丁目

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    町人地。河端三丁目と同様に宿屋町を形成した。 鳥取県立公文書館『鳥府志図録』より転載

  • 元魚町三丁目

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    町人地。元魚町二丁目と同様に、料理屋が軒を連ね、また竹輪などの製造が盛んで「因幡の食い倒れ」といわれた。幕末には、城下屈指の豪商である米・間物問屋の大谷文治郎が大きな店舗を構えていた。 鳥取県立公文書館『鳥府志図録』より転載

  • 荒神(快長院)

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    修験の寺院。かつてこの場所に大榎があり、その下に祠を建てて荒神を祀っていた。また鳥取城内の青木局は、快長院が管理し、毎年4月・8月・12月にはお浄めのため登城した。この付近の字名を「荒神屋敷」といい、城下でもとくに人通りが少ない場所であったという。

  • 大榎の町

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    武家屋敷地。町名は、町角の屋敷にあった榎にちなむ。 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

  • 鹿野町

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    町人地。町名の由来は、鹿野に続く道筋の起点にあたるためという。当初は武家屋敷地の下台町を含めて下片原町といった。のちに町人地のみを鹿野町と称するようになった。 鳥取県立公文書館『鳥府志図録』より転載

  • 三明院

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    修験道の堂宇。本尊は不動明王。地内には、荒尾家の蔵から銀子を盗んで美作に追放された「おくら」という狐を、文化年間(1804-18)に三明院が荒尾家の許可を得て祀ったおくら稲荷があった。

  • 延寿院

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    修験道の堂宇。下横町の北側にあり、本尊が青面金剛であることから、庚申堂と呼ばれた。元禄7年(1694)には庚申堂修復のため、因幡・伯耆での万人講を藩に願い出ている。また元禄10年(1697)には庚申の開眼供養を浜坂村(現鳥取市浜坂)で行っている。慶応2年(1866)に護国山天王寺と改めた。

  • 古玄忠寺(玄忠寺の跡)

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    万治3年(1660)まで、玄忠寺が建っていた場所。堀に囲まれた風景が優れていたことから、玄忠寺八景が選定された。万治3年の出来薬師火事で全焼し、新品治町に移転した。移転後は寺跡は、武家屋敷地となった。

  • 明光院

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    真言宗の寺院。山号は高瀬山。かつては、法郷山薬師寺といった。寺伝では天長元年(824)に弘法大師の開基とされ、広大な境内と塔頭を有する寺院であったというが、宮部継潤の時代に洪水で流失し、江戸時代に再建された。承応年間(1652-55)に千代川から掘り出した薬師仏を本尊とし、出来薬師と呼ばれるようになった。

  • 大森神社

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    旧村社。大森大明神と称された。祭神は大己貴神・少名毘古那神・事代主神。氏子域は袋川対岸の鹿野町、下魚町、茶町、湯所の武家屋敷地に及んだ。

  • 顕功寺

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    黄檗宗の寺院。江戸時代中期に米子荒尾家によって創建された。寺領は200石。毎年7月16日の晩から行われた焔口(えんく)では、多くの参詣で賑わった。

  • 大下の丁

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  • 棒鼻

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    城下の最南端に位置する今町二丁目に接し、その呼称が示すとおり、町のはずれにあった。並木松が植えられ、枡形が築かれていた。

  • 御押屋敷

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    御押屋敷とは、藩主の行列の前後で先払いや警備にあたる下級藩士。定数は12~15名。御押屋敷は立川のほか、宮内惣門内の2ヵ所にあった。

  • 臼屋が横

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    行き詰まりの丁。丁名は、この入ロに搗臼を製造する職人が居住していたことにちなむ。

  • 道祖神(現前田神社)

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    江戸時代は道祖神、サイノカミなどと呼ばれた。明和2年(1765)に遷宮されたという記録がある(『因州記』)。神主は井上家で、明治元年(1868)に前田社、同7年(1874)に現在の名称になった。境内には嘉永7年(1854)5月寄進の石の手水がある。

  • 鳥取城

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    寛永9年(1632)の国替え以降、鳥取池田家が廃藩置県に至るまで居城とし、藩政を展開した政庁。鳥取城の構造は久松山(標高263m)の山頂部にある山上の丸と、山麓にあって内堀に囲まれた山下の丸からなっている。 山下の丸は中央の二の丸に藩主居館や、城の象徴ともなった御三階櫓がある。東に位置する三の丸は、3代藩主池田吉泰以降の居館となり、南端の御櫓では、家老を中心とした藩政が行われた。 廃藩置県後、鳥取城は陸軍省の所管となり、明治12年(1879)に御三階櫓や三の丸御殿などの建物が解体された。 「鳥取新府久松金城」鳥取県立博物館蔵 明治12年頃の鳥取城(絵葉書)鳥取県立博物館蔵

  • 肥後ヵ谷

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    谷の呼称は、『鳥府志』によると「銃匠の辻肥後」、『因幡志』によると「大筒の冶工辻肥後椽」が、国替えの際に、屋敷を拝領したことから呼ぶようになったとする。しかし、鳥取藩の記録には、江戸時代前期から「いもじ肥後」の名前がみえ、その末裔とみられる辻与惣左衛門の屋敷が同地にあることから「鋳物師(辻)肥後」が名称の由来であった可能性も考えられる。また『鳥府志』では、それ以前には「弥三ヶ谷(やさがたに)」と呼ばれていたとする。

  • 御中間屋敷

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    中間とは下級武士の総称で、「三役の者」といわれた三役は、藩主の御道具持、藩主の御手廻り、藩主の御駕龍かきを指す。いずれも大名行列に加わるため、見栄えのよい町や村の次男・三男から雇用した。それぞれに身長制限(御道具171cm、御手廻168cm、御駕龍174cm) などの雇用条件があり、それらを満たした屈強な若者が選ばれた。

  • 神明の社

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    白河陰陽師戸田家が奉仕した社。祭神は神明(天照大御神)・春日大明神。戸田家は尾張国(現愛知県)から、寛政10年(1798)に鳥取藩の召し抱えとなり、諸祈祷を行った。享和元年(1801)、行徳村に屋敷を拝領し、祭壇所とした。御祈祷御用として揚羽蝶紋付の幕・桃灯を渡され、社殿の金具には手彫りの葵と揚羽蝶紋を付けることが許可された。また社殿の修理も藩によって行われた。 明治以後、無格社「春日神社」と改め、大正元年(1912) 品治神社に合祀された。

  • 清鏡寺(子安地蔵)

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    山号は東光山。明暦3年(1657)、修験者の自得院(慈徳院)黙龍が観音院内に借地し、清鏡院を建立。本尊は2尺ほどの地蔵で子安地蔵といった。開帳は13年に一度の丑年であった。このほかに、聖徳太子像が安置され、元禄11年(1698)に開帳が行われた。また若桜より移された稲荷社があった。享保7年(1722)に観音院末寺となった。幕末には無住の状態が続き、明治3年(1870)に廃寺とされた。

  • 湯所上ノ丁

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    武家屋敷地。幕末には、山池田家、石上家、高浜家、野間家、村山家、津田家、猶村家、加須屋家、戸田家、宮城家などの屋敷があった。

  • 長田神社

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    鳥取の産土神とされる神社。長田大明神とも称した。『因府録』によると、社地は江崎上の惣門の上にあったとするが、『鳥府志』は、鳥取城内にあり、そこから移転したと推測する。東照宮の勧請に際して、神職の永江外記がその祭祀を行うため、上町に移された。同社は、池田長吉の時代から藩主の氏神で、鳥取生まれの池田家男子の産土神とされた。永江氏は、往古より栗谷に居住して当社や牛頭天王社(現栗谿神社)などの神社を統括した神職で、東照宮の神職にも任命され、藩内の神職を統括する惣幣頭を兼ねた。 大正13年(1924)に、上町から旧社地に近い東町一丁目に移った。

  • 鹿野橋

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    元和年間(1615ー24)に鳥取藩主池田光政の城下拡張整備によって袋川に架けられた城下五橋のひとつ。城側の枡形に「内市」、川外に「外市」が設置された。江戸時代には、現在の橋よりやや下流に架橋されていたが、大正9年(1920)の鹿野街道の直線化にともない現在の場所に移ったという(『 明治大正のころ』)。この橋の近隣は鳥取城下でもっとも繁華な場所のひとつであった。

  • 内市・外市

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    元禄8年(1695)6月に青物市として開市。開市当初は川外にあった「外市」(現鳥取市南町)のみであったが、しだいに繁華となり、城側の枡形にも「内市」がたてられた。江戸時代後期には、外市と内市が5日ずつの交代で朝市を立て、休日は元旦と9月17日(東照宮祭礼日)だけであった。 この内市・外市には、鹿野街道や伯耆往来を使って高草・気多郡の農民が作物を出荷し、その帰りに同所で物を購入し帰村していった。そのため、茶町や元魚町の鹿野街道筋の商家は繁昌し、城下でもっとも重要な商業地となった。明治以後も、市は続けられ、多くの問屋が軒を連ねたが、昭和27年(1952)の鳥取大火後は再編がすすみ、昭和48年(1973)4月の鳥取市条例による鳥取市公設地方市場(現鳥取市安長)をもって約280年の歴史に幕を閉じた。 鳥取青物朝市場(絵葉書) 鳥取県立博物館蔵

  • 龍王社(現品治神社)

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    品治下分の産土神。龍王大明神と周防大明神を祀り、毎年6月には社家の田川伊勢が龍王大明神の祭礼行事を行った。また、龍王社付近の地名を龍王嶋といった。『鳥府志』によれば、品治の下分の産土神で、手前品治・新品治町、新茶屋・柳原、向品治の大概が氏子であったという。明治以降、品治神社と改称した。 『因州記』鳥取県立博物館蔵

  • 御会所

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    鳥取藩の役所のひとつ。機能は大きく付込会所と御吟味会所とに分かれた。付込会所は塩・味噌・炭・薪など鳥取城の御台所向の諸賄を管理し、御吟味会所は罪人の吟味を行った。また敷地内には水道の井があり、水道谷から引き込まれた上水はこの役所で管理された。

  • 瑞光寺

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    興禅寺の末寺。山号は天性山。瑞光寺は、鹿野(現鳥取市鹿野)にあった興国寺を前身とし、本寺の龍峯寺が黄檗に改宗したことにより、瑞光寺と改号した。元禄13年(1700)に鹿野から新品治町に移り、さらに寛延年間(1748-50)に当地に移転した。ちなみに、前身の興国寺は、鹿野で謹慎生活を送った池田光仲の叔父池田輝澄(1604-62)の正室天性院殿の御菩提所。

  • 龍峯寺

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    臨済宗の寺院。山号は広徳山。池田家の菩提寺で、四ヶ寺のひとつ。興禅寺の創建により、元禄14年(1701)に新たな寺地で再建されることが決まり、宝永4年(1707)、現在地に堂宇が完成した。養源院(池田恒利)、護国院(池田恒興)、国清院(池田輝政)、龍峰寺(池田忠継)、清泰院(池田忠雄)の位牌を納め、追善供養などを行った。

  • 日香寺

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    日蓮宗の寺院。山号は妙囿山。寛文7年(1667)に池田光仲の母芳春院の菩提所として創建された。なお寺号と山号は芳春院の院号「芳春院殿妙囿日香大姉」に由来する。正徳4年(1714)には寺格を八ヶ寺の首位に格付けられた。 同寺には2代藩主池田綱清の夫人長源院、娘慶春院、養女豊光院の位牌が安置された。弘化4年(1847)9月の長源院150回忌では、寺宝の仏舎利が開帳された。

  • 大隣寺

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    臨済宗の寺院。山号は龍徳山。寛永9年(1632)の国替えにより、岡山から移転した。山号は、龍峰寺と広徳寺からとったもの。文化年間(1804-18)には、大隣寺の山で採取した白土が、焼き物や瓦の材料に利用された。境内には、藩校尚徳館の初代学館奉行となった箕浦靖山(文蔵)の墓などがある。

  • 栗谿神社

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    江戸時代には、栗谷牛頭天王と呼ばれた。6月と9月の祭日には、町方の氏子が江崎の町端より栗谷の奥まで捧燈を立連ねたという。明治初年に栗谿神社と改称した。

  • 岡崎家屋敷

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    鳥取藩士岡崎家の拝領屋敷。現在の鳥取市内に残された数少ない武家屋敷のひとつで、天保期(1831-45)に建築されたとものと推定される。岡崎家は、寛文年間(1661-73)に鳥取藩に召し出され、7代にわたって仕えた。7代当主の岡崎平内は、明治14年(1881)の鳥取県再置運動に会長として尽力し、のちに初代鳥取市長となった。

  • 沢の為登(いと)

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    安永年間(1772ー80)以降、鳥取藩士沢氏の屋敷があったことにちなむ。それ以前は、「本郷の為登」とも呼ばれた。

  • 手習所跡

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    宝暦9年(1759)から同12年(1762)まで、士分以下の子弟に対し、習字を教える手習所があった。浪人の竹内仲良が指導にあたった。宝暦7年(1757)に開学した藩校尚徳館との関連が推測される。

  • 未舗装の道

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    現在では珍しくなった未舗装の道が残る区間。

  • 若桜街道

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    鳥取城下から若桜宿(現八頭郡若桜町)方面に向かう道筋であることから若桜街道、もしくは「若桜往来」と呼ばれた。城下から若桜宿方面へルートは、若桜口の惣門を出て、町人地を南西に進み、若桜橋を渡ってすぐ東に曲がり、袋川にそって吉方村へ東に進むのが本来の経路であったが、江戸時代中期には、江崎下の惣門から、大榎町、御弓町を経て、一本橋から吉方村に至る経路の方が一般的となった。

  • 光明寺

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    浄土宗の寺院。山号は正眼山。一説には湯所村の端から移転したと伝えるが、確証はない。境内には、荒木又右衛門の弟子で、寛永11年(1634)に伊賀上野で、鳥取藩士渡辺数馬の仇討ちを助太刀した岩本孫右衛門の墓がある。孫右衛門はのちに鳥取藩士となり、寛文8年(1668)に死去した。

  • 妙圓寺

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    浄土真宗の寺院。山号は真光山。池田光政の時代に八東郡より移転した。当初は金龍山真光寺と号しており、慶安以前の絵図にも「真光寺」と記されている。元禄期(1688-1704)に「妙圓寺」と寺号を改めた。元禄13年(1700)には、浜坂(鳥取市)での梵鐘鋳造を藩に願い出ている。

  • 荒木家屋敷

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    幕末に鳥取藩士荒木家の屋敷があった場所。幕末の当主である荒木又之進は900石を給された。初代の又右衛門は、日本三大仇討ちの一つに数えられる「鍵屋の辻の決闘」で有名な剣術家。義弟で岡山城主池田忠雄の臣渡辺数馬を助太刀し、寛永11年(1834)11月に、伊賀上野(現三重県伊賀市)の鍵屋ノ辻で仇敵の河合又五郎を討ったのち、鳥取藩に引きとられたが、ほどなく急死した。墓は市内の玄忠寺にある。婿養子が荒木家を継ぎ、鳥取藩士として幕末まで続いた。現在は、黒住教大教所となり、地内には又右衛門を祀る「荒木神社」がある。なお、この場所に初代又右衛門の屋敷があったわけではない。

  • 一行寺の為登

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    一行寺に通じる道の為登であったことからつけられた名称。

  • 嶋屋

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    元魚町二丁目の角にあった商家。通称「角嶋屋」。智頭街道は、嶋屋の前で鍵形に曲がっていたので、この地点は「嶋屋の角」と呼ばれていた。嶋屋は灯油や晒蝋を商っていたが、蝋座の御用を勤め、天明6年(1786)には町年寄役に就任した。嘉永3年(1850)には、蝋座御用の功績により「八田」姓を名乗ることが許された。明治以降も洋品雑貨を扱ってきたが、鳥取大火後の智頭街道直線化によって、昭和30年(1955)に閉店した。

  • 一行寺

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    浄土宗の寺院。山号は三昧山。戦国期には栗谷(鳥取市)にあったとされ、池田家の鳥取入部後に、現在地に移転したという。慶安以前の絵図には「市行寺」とある。寺内には、室町幕府創立の功臣として伯耆・出雲など5カ国の守護となり、山陰に勢力を振った山名時氏の寿塔とされる基壇が残されている。ただし、基壇の銘にある応安4年(1371)4月17日は、時氏の死後にあたるため、史実との間で齟齬がある。また境内には、鳥取藩の上級家臣である福田家の墓所がある。 福田家 福田家は、山城国(現京都府)の土豪出身で、のちに池田家に仕え、江戸前期には、幕府に対して人質(証人)に差しだすなどした。そのため藩内では3番目に高い格式である「証人上」として禄高3,500石を給された。また黒坂(鳥取県日野町)に陣屋を持ち、自治的な政治を行った。

  • 真教寺

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    浄土宗の寺院。山号は久松山。江戸中期に池田家が由緒ある寺として待遇した八ヶ寺のひとつ。鳥取城下で一番古い寺院とされる。寺伝によると、天文14年(1545)に布施天神山城主の山名誠通が、久松山に鳥取城を築城する際に、鎮守として建立したと伝えられる。また本尊の阿弥陀如来は、銀山(鳥取県岩美町)から移されたものという。天正9年(1581)、羽柴秀吉による鳥取城攻めで、敗れた吉川経家は、真教寺で切腹したとされる。 寺地は、関ヶ原の戦い後に移転した。天和2年(1682)に良正院(徳川家康の娘、池田輝政の夫人)の位牌所となった由緒により、八ヶ寺となった。正徳元年(1711)に真教寺が火元となり、茶町まで1,300軒余が焼亡した火事は俗に「真教寺火事」と呼ばれた。また、天明5年(1785)には、周防国岩国(現山口県岩国市)の吉川家によって新調された吉川経家と殉死者の位牌が納められた。

  • 山手口の惣門(湯所上の惣門)

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    城下に設けられた9つの惣門のひとつ。門外は、湯所上ノ丁となる。

  • 養源寺

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    浄土真宗の寺院。山号は慶雲山。寺伝によると、美濃国大垣(現岐阜県大垣市)に創建され、開基は大垣城主池田恒興の家臣上田氏の子(慶心大和尚)と伝えるが定かではない。また池田家の転封とともに鳥取に移転したとするが、慶安以前の絵図には描かれていない。寺号は、池田恒興の父恒利の院号養源院から賜ったという。文化9年(1812)には、本山の西本願寺と末寺との間で教義をめぐる争いとなり、養源寺を含む因幡6ヵ寺が、幕府の寺社奉行に呼び出され、取り調べを受ける事件があった。天保11年(1840)には、養源院(池田恒利)の御霊屋と本堂を再建するため、子供芝居・曲馬等の興行を藩に願い出ている。 「池田恒利画像」 鳥取県立博物館蔵

  • 教蓮寺

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    浄土真宗の寺院。山号は慈光山。寺伝では、良正院の病気平癒を祈願し、池田家の転封にともなって鳥取に移転したというが、慶安以前の絵図には寺地は描かれていない。一方、藩の記録では、元禄7年(1694)に備後の僧が持ってきた聖徳太子絵伝の公開を願い出ていることから、この間に、若桜町に移転したものと考えられる。寺内には良正院の御霊屋があった。鳥取藩士の多賀屋氏、城戸氏などの菩提寺であったが、その後丸山へ移転し、さらに明治22年(1889)に高草郡吉岡村(現鳥取市吉岡温泉町)へと移転した。

  • 福善院

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    真言宗。山伏。湯所にあった清教寺の末院。本尊は不動明王。享保4年(1719)に、3代藩主池田吉泰の公子(4代宗泰)誕生を祈祷し、初御目見を許された。これをきっかけに、火事・喧嘩の人足役を免除された。秋葉大権現を祀り、防火の神として信仰を集めた。 「池田宗泰画像」 鳥取県立博物館蔵

  • 最勝院

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    真言宗の寺院。山号は薬王山。高野山多聞寺の末寺。八ヶ寺の一つ。寺伝によると、天正期(1573-93)には、池田輝政の祈願所として「宝蔵院」と称した。池田家の転封に従って、姫路、岡山、鳥取と移転した。岡山時代に寺号を「宝寿院」と改めており、慶安以前の絵図にも「宝寿院」と記載がある。最勝院と改号したのは、宝永6年(1709)のことである。池田家の祈願所として、公子女誕生の際には、安産の祈祷を命じられた。明治3年(1870)に湯所にある養寿院と合併し、同地に移った。

  • 仏法院

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    修験道の堂宇。美作玉林寺(岡山県津山市)の末院。本尊は青面金剛。元治元年(1864)には、博奕宿として町人に提供したことが発覚し、関係者が追放に処された。

  • 元大工町

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    町人地。池田光政が鳥取入部後に城下町を拡張するために呼び寄せた浪人辻新右衛門や、大工を居住させたことが町名の由来となった。交通の要衝にあり、城下有数の繁華街となった。このため、のちには大工はほとんど住んでいなかった。 寛永11年(1634)の竈数は40、安永7年(1778)の家数は77、明治9年(1876)は家数70。 元大工町の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

  • 烏芋田

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    『鳥府志』によるとある老人の説として、宝暦頃(1751~1764)までは深田があり、クワイが植えられていたためこの名が付いたという。

  • 挽木畷

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    カギ型に曲がった道が、あたかも石臼の挽木に似ていたため名付けられたという。また江戸時代中期の鳥取藩士上野忠親は、池田長吉による鳥取城普請の際に、天神山から滝山までの間で伐採した木材を引いた道であったとしている。 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

  • 立川三丁目

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    元禄11年(1698)に町奉行支配となり、町人地に加えられた。安政3年(1856)に国産座の御手掛を勤めた木綿方八重原屋吉太郎などの商人が居住した。文化7年(1810)に矢津村から起こった火事は、南風に煽られて立川一円を焼き、三丁目の町屋は残らず焼失した。 安永7年(1778)家数50、町役人負担70人余、賦課比率の等級は下 明治9年(1876)家数72、人数243人 鳥取県立公文書館『鳥府志図録』より転載

  • 竹野屋が横手

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    往来筋より肥後ヶ谷へ入る脇道をいう。竹野屋は大庄屋を勤める旧家。

  • お虎が横手

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    霊光院(現大雲院)横の脇道。文化元年(1804)7月に、西館池田家の家臣鈴村文左衛門の娘とらが、何者かに殺害されたことから、その後になって、通りの名になったという。

  • 大井津

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    松之丸の尾根下にあった古い井戸。涸れることがない名水であったが江戸時代後期には廃されて、跡形もなくなった。 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

  • 荒尾の紅梅

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    文化9年(1812)の火事(佐橋火事)以降に西館池田家屋敷が移るまで、この地には荒尾家や矢野家の武家屋敷があった。荒尾家と矢野家の屋敷の堺には、紅梅の大樹あって、城下の人々は、この花が咲くのを目安として、湯山池にたなご釣に行っていた。ちなみに紅梅は、文化9年(1812)の火事で屋敷とともに焼亡した。 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

  • ブタの家

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    寛永9年(1632)の国替えの頃に、ひそかに城下のブタを食したことが発覚し、処罰を受けた家に対する俗称。

  • 山伏松

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    羽田家の屋敷にあった古樹で、羽柴秀吉の鳥取城攻め以前からあったという。羽田家の屋敷には、正蓮という者の霊魂が現れ、龍峰寺の堤宗和尚によって苦労から救われたという話が伝わる正蓮塚があったとされ、後年に、屋敷の松の下から山伏の道具が掘り出されたことから、この松が「山伏松」と呼ばれた。しかし、弘化2年(1845)に雪の重みで根元より折れてしまった。 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

  • 鳥取藩二十二士河田佐久馬の幽閉地

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    鳥取藩二十二士のひとり河田左久馬(1827-98)は、慶応元年(1865)の3月から9月までの間、同姓の河田氏の屋敷内に幽閉されていた。河田左久馬は、廃藩置県後の明治4年(1871)に、鳥取県の初代権令(県知事に相当)として鳥取に赴任した。

  • 中ノ丁

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    上町の裏に位置する武家屋敷地。「小中ノ丁」や「吉方中ノ丁」ともいう。歌仙屋敷 武家屋敷36軒が建ち並んでいたことから、三十六歌仙にちなみ歌仙屋敷と呼ばれた。

  • 揚屋

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    苗字付以上の武士で未決囚を収容した牢屋。袋川の土手際の西に位置し、もとは藩士の屋敷であったという。

  • 新町

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    町人地。城下町拡張の際に、何らかの理由で町の成立が遅れたため、新町と名付けられたという。「沖の新町」ともいった。 新町の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

  • 三軒屋町

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    町人地。町名は、町割のときに民家が3軒あったことに由来する。寛永9年(1632)の国替えの後、本町四丁目に合併されたという。町の大半は武家屋敷地が占めた。

  • 三軒屋の為登(いと)

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  • 箕浦家武家門

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    もとはお堀端にあった上級家臣箕浦家の表門。明治22年(1889)以降は、因幡高等小学校女子部や、久松尋常小学校の通用門として使用されていた。昭和6年(1931)の校舎改築に伴い、取り壊されようとしていたが、地元有志の尽力で保存が決まり、昭和11年(1936)に、鳥取県師範学校の校門として現在地の尚徳町へ移築された。その後、県立図書館の新築に伴い、解体修理されて現在に至る。なお、移築前の表門は、腰下を下見張りとし、出窓が設けられていたが、現在は、「ナマコ壁の四半張り」となっている(『とっとり建築探訪』1998年)。鳥取市指定保護文化財。

  • 湯所中ノ丁

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    湯所中の惣門(馬場口の惣門)の門外に位置した武家屋敷地。寛永9年(1632)の国替え以前からある古い武家屋敷が多く残っていたという。馬場があったため、惣門は「馬場口」とも呼ばれた。馬場は、のちに湯所上ノ丁に移ったが、寛政初年(1789)に山田源治兵衛が馬場を設けたことにより、天保期(1831-45)には再びこのあたりが馬場になったという。 幕末には、斉藤家、渋谷家、加須屋家、平野家、安倍家、大久保家、伊藤家、松田家、佃家、羽原家、西山家、小橋家、那須家、高木家などの武家屋敷があった。

  • 馬場(輪)

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    元文年間(1736-41)以前には「馬場」と呼ばれる屋敷があった。『鳥府志』などは用途を不明としているが、中ノ丁馬場で使われた馬の繋ぎ場と考えられる。馬場の廻りには薮がめぐらされていた。

  • 山白川(大口用水)

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    千代川右岸の平野部を潤す用水。円通寺取水堰から取水し、馬場村(現在の倉田八幡宮があった村)付近で分岐する。一方は、吉成や古市、富安を流れ、末流がそれぞれ狐川と梶川(今はないが、梶川通りとしてその名を残す)となった。他方は、大路・雲山を経て吉方ヘ流れ込んだ。この水路は享保年間(1716-36)に吉方村に住む近江屋安兵衛が私財を投げ打ち開削したもの。 なお、弥生橋通りを流れる山白川は、昭和27年(1952)の鳥取大火後の都市再開発により改修されたもの。

  • 品治村

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    江戸時代から明治10年(1877)まで存在した村名。村高393石。安政5年(1858)の竈数は32。 元禄年間(1688-1704)に枝郷として正式に成立。村は「上品治村」と「下品治村」に分かれる。上品治は瓦町と吉方村の間にあたり、通称「田中」と呼ばれる集落が本浄寺の裏手にあった。また、下品治は行徳村と田島村の間にあり、伯耆往来沿いの「新品治町」が、享保8年(1723)に独立した。のちに安長の渡し場に続く「新茶屋」も町分として村の管理を離れた。 品治村は、町裏、町端と呼ばれる城下町続きの村落であるが、江戸時代後期には町場化が進み、農民の屋敷はほとんどなく、武家屋教や商家が建ち並ぶ地域となった。その状況を『因幡誌』は「郭外の町並に続きて士農工商交々として農民は計ふる程もなし」としている。 田中 品治村のうち、「上品治村」と呼ばれた集落の通称。「田中村」とも。現在の弥生町あたり。「田中」という通称は、下品治あたりから田んぼしかない当地に移り住んだ農民久三郎のことを、近村の者が「田中(田んぼの中のという意)の久三郎」と呼んだことにちなむという。『鳥府志』は、慶長頃(1600年代初頭)には集落が形成されていたと推測する。刀工の浜部家や日置兼先家の自分所持屋敷があった。 田中の地蔵 もとは木造で、江戸時代後期に石仏に改められた。ただし、現在の石仏と同じものかは不明。もともとあった木造地蔵は、夜泣き地蔵と呼ばれた牧谷村(岩美町)の石仏と同作であるという。鳥取大火ののち現在地(弥生公園内)に移された。

  • 川外大工町

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    袋川の外側に、智頭橋から南東方向に延び、吉方村と接する町。元和5年(1619)に起立された城下四十町のひとつ。町名は、城下町建設のため、大工を集住させたことにちなむ。はじめにできた大工の集住地を元大工町あるいは古大工町といったのに対し、袋川の外側にあることから「川外大工町」と呼ばれた。また「川向」とも呼ばれた。 川外大工町周辺 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵 御旗屋敷(お幟屋敷) 御旗の足軽屋敷があった。

  • 本浄寺

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    日蓮宗の寺院。山号は清光山。鳥取藩士加藤家の菩提寺として慶長6年(1601)に創建された。もとは岡山にあったが、国替えにともない鳥取へ移転した。鳥取では当初、王寺谷にあったが、因州東照宮建立にあたり現在地へ移ったという。昭和27年(1952)の鳥取大火によって焼失。墓地は円護寺へ移転し、跡地は弥生公園となった。境内には雖井蛙流(せいありゅう)の祖である剣術家・深尾角馬(1631-81)の墓所があり、納骨堂には鳥取県再置運動に活躍した鳥取県士族の足立長郷(1844-1920)がまつられている

  • 若桜橋

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    鳥取城下より若桜宿(現八頭郡若桜町)へ向かう若桜往来にかかる橋。城下より吉方村へ通じる本道であったが、一本橋が整備された江戸時代中期には、一本橋から袋川を渡り、内吉方、御弓町、江崎町、元大工町を通る別ルートが利用されるようになり、若桜往来筋は衰微したという。 明治以後、架け替えられた橋欄は、「菊」の形に似ていたことから、「菊橋」とも呼ばれていた。現在の橋は昭和30年(1955)竣工。

  • 吉方村

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    室町時代には京都嵯峨禅恵院領(恵林寺塔頭)で、戦国時代には一部が町場化していた。 江戸時代初期には「上吉方」と「下吉方」に分かれていたが、元禄年間(1688-1704)以降に「吉方村」とされた。村高は1,076石。 うち200石は興禅寺領。安政5年(1858)竈数411、家中屋敷185。明治9年(1876)の戸数964、人口3,427人。 『鳥府志』によると、上町の観音院を吉方の観音院と称したことから、城下が形成される以前は上町の周辺までが下吉方村に含まれていたと推定している。幕末には、袋川をはさんで城下側を「内吉方」、外側を「外吉方」と称した。 城下に近接した「村」であった吉方村には、中土手とよばれる地域をはじめとして古道具屋、質屋、蝋燭屋、呉服商など数多くの商人が集住していた。同村を代表する商人である平野屋甚五郎は文化14年(1817)に藩内の油屋総元締役、文政元年(1818)には国産方世話役、繭の糸取場支配、藍製法方御用、翌2年には産物取捌方世話役を仰せつけられた。藍製座の地所は、平野屋が提供していた。 村内には、西館下屋敷、五十人屋敷(在下奉行屋敷)、早道屋敷(飛脚屋敷)、鉄砲足軽屋敷など、下級藩士の居住施設が多く集まっており、士農工商が混在する状態を『因幡誌』は「今の城下の町と一つに成て士農工商軒を並へ差別なし」と記している。

  • 浄宗寺

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    浄土真宗の寺院。山号は紫雲山。国替えにより、岡山から鳥取に移転した。学成寺の末寺林光坊(のちの日香寺塔頭林乗院)が、寛文5年(1665)に寺地を移転し、そのあとに浄宗寺が入ったという。

  • 智頭橋

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    現在の元町と瓦町の間に架かる橋。橋名は智頭街道にちなむ。参勤交代路にあたるため、他の橋よりも高く構えられ、長さは15間(27m)あった。城側には寛文4年(1664)に敵の侵入を食い止めるための枡形が築かれた。また川端二丁目との間に通称「くぎぬき」と呼ばれる大木戸があり、近辺には番小屋や土手筋に馬場があった。寛文4年には、高砂屋六兵衛店の南隣に、高さ2尺の岩垣が築かれ、柿葺屋根の制札場が設置された。そのため同所は「札の辻」と呼ばれた。智頭橋手前の城側を「薮片原」といい、武家屋敷地であった。そのため智頭橋を別名「薮片原橋」ともいった。明治8年(1875)に長さ12間2尺、幅1丈5尺の擬洋風橋に掛け替えられた。 智頭橋付近 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵 鳥取智頭橋(絵葉書) 鳥取県立博物館蔵

  • 馬場口の惣門(湯所中の惣門)

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    城下に設けられた9つの惣門のひとつ。門外の土橋を渡ると、湯所中ノ丁に至る。中ノ丁に馬場があり、馬場口の惣門と呼ばれた。側には門番小屋が設置された。 「鳥取新府久松金城」鳥取県立博物館蔵

  • 瓦町

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    地名の由来は、この地に初めて瓦師が居住したことにちなむ。町内に御用瓦師の半七・久太夫・仁兵衛の拝領屋敷があった。町の大部分は鉄砲屋敷と分知家(分家)である東館池田家の下屋敷が占めた。 鳥取県立公文書館『鳥府志図録』より転載

  • 瓦町下屋敷

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    鳥取藩池田家の分知家(分知)にあたる東館池田家(3万石)の下屋敷。元禄年間(1688-1704)に成立したと見られ、御殿と広大な庭園を持つ別荘地であった。庭園は池泉や築山をもつ贅を尽くした典型的な大名庭園。屋敷内に鎮座していた稲荷は、尾白稲荷として現存する。明治4年(1871)の廃藩置県によって屋敷は池田家の手を離れた。 「瓦町の下屋敷を描いたとされる絵図」鳥取県立博物館蔵 衆楽園(新地) 明治4年(1871)、川端四丁目の豊岡仁治が「子女の遊歓所」を作り上げようと計画し、翌年、「衆楽園」と名付けて一般に開放したところ、演芸・曲芸・音曲、弾弓・投玉などの小屋が建ち並び、2ヵ月ほどで50以上も集まったという。明治6年(1873)に火災が起こり、下屋敷の遺構も焼失し、大名庭園の名残はほとんど姿を消した。 「因州衆楽園之図」(鳥取県立公文書館蔵) ※写真は鳥取市歴史博物館展覧会図録「大名たちの庭園」より転載。

  • 蝋座

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    明和2年(1765)、蝋の生産や売買を統制するために設置された藩の役所。当初は二階町にあったという(『江戸時代の因伯 上』) 。蝋の生産も同じ場所で行われていたが、安政年間(1855-60)に法美郡宮下村仮田河原(現鳥取市国府町宮下)に工場を新設した。文化10年(1813)には、藍の売買も管轄することになったほか、一時、藩内の産物は蝋座が管轄することとなった。 生蝋はハゼの実を絞ったもので、ろうそくなどの原料となるものであった。蝋は京・大坂から移入されていたが、藩がハゼの栽培を推奨し、製造された蝋の専売制を敷き、国産品として内外へ販売した。文化年間(1804-18)には米子にも蝋座が置かれ、その利益は藩財政に大きく寄与した。

  • 品治町

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    鹿野橋を越えた川沿いに延びる片側町。町名は「本寺町」とも記される。元和5年(1619)に起立された城下四十町のひとつ。町名は品治村にちなむとする説(『鳥府志』)、昔あった本寺という寺院によるという説(『因幡民談記』)がある。安永7年(1778)の家数は115であった。 町内には、真言宗の宝珠院(円城院)と理白寺、龍王社(現品治神社)といった寺社、御船宮や竹蔵など藩の施設があった。 鳥取県立公文書館『鳥府志図録』より転載

  • 理白寺

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    真言宗の寺院。山号は清浄山。「祇園」とも呼ばれた。寛保3年(1743)創建。当初は宝珠院(当時は円城院)の末寺であったが、安永2年(1773)に、公家・勧修寺家の持ちとなった。多くの借屋を有していたようで、その長屋は「祇園長屋」と通称された。明治維新後、廃寺となり、宝珠院と合併した。

  • 竹蔵

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    藩の用度役である裏判所の蔵。公用の炭や縄などを保管した。竹蔵という名は、かつて蔵のまわりが竹薮であったことに由来するという説(『鳥府志』)がある。 竹蔵前の袋川左岸の土手には、「雁木」と呼ばれる階段状に石組みされた船着きがあり、藩主が船で瓦町の東館下屋敷に向かう際に利用した。

  • 智頭古道

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    鳥取城主宮部氏の時代(1581-1600)以前に利用された古道。その当時に鳥取城から智頭方面へ向かうために道は、竹蔵の右手あたりにあったという。道は池田長吉の時代(1600-1617)に南へ変更されたと推定されている。 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

  • 鳥取東照宮(旧樗谿神社)

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    慶安3年(1650)、初代藩主池田光仲によって日光東照宮の分霊が勧進され、王寺谷の谷山を切り崩して、社殿が建立された。社格は藩内の最高位で、神主は長田大明神の神職永江家が勤めた。別当寺として淳光院(大雲院)が置かれて、東照宮を管理した。明治元年(1868)に、新政府が全国の神社に発布した神仏分離令により、大雲院との分離が行われ、大雲院は御神体を含む祭祀具の大部分を伴って当地からの移転した。残った東照宮は、明治7年(1874)より樗谿神社と改め、池田忠継・忠雄・光仲を合祀した。さらに明治11年(1878)に最後の藩主となった12代池田慶徳を合祀した。平成23年(2011)に樗谿神社から鳥取東照宮と改めた。 東照宮では毎年御幸神事が行われた。承応元年(1652)9月17日の初神事では、神輿の前後に藩士による騎馬240余騎、鳥取町人等の練り物、麒麟獅子が城下町郊外の古海御旅所まで城下を練り歩いた。その賑わいは隣国でも広く知られるところとなり、「因幡の千貫目祭」と称された。 「東照宮祭礼絵巻」鳥取県立博物館蔵 建造物 昭和27年(1952)に本殿・唐門・幣殿・拝殿が国の重要文化財に指定された。惣奉行は荒尾大和成直で、大工は幕府お抱えの棟梁木原木工允など。木工允は、日光東照宮、浅草寺などを手掛けた当代一流の棟梁。用材は総ケヤキ造りで、本殿・唐門の一部には彩色塗、本漆塗がほどこされる。簡素だが細部には桃山風の飾り金具を用いるなど美しさのなかに威厳を備えている。 『因幡民談記』鳥取県立博物館蔵 石燈籠 随身門と石段の間に20基の石灯籠が現存する。石灯籠は荒尾家や和田家など上級家臣のみが献灯を許された。 宝物群 東照宮の宝物は、藩主池田家、藩士、領民らの奉納品が多く、大まかに美術工芸品、近世絵画、古文書、仏像、祭礼道具などに分けることができる。 美術工芸品のなかには、池田家の藩主が納めた甲冑、神剣として奉納された太刀、葵の家紋が入った蒔絵の机などがある。 近世絵画としては、幕府の御用絵師として、江戸城などの障壁画を手がけた狩野探幽画の「三十六歌仙扁額」、家老の荒尾志摩によって寄進された「鷹図」などがある。また大雲院には、神仏を対比させて描いた仏画や、江戸の寛永寺より納められた徳川家康画像などが伝わっている。 古文書には、日野郡の豪農緒形四郎兵衛が大雲院に寄進した紙本金字法華経など鎌倉時代の宝物も含まれている。また、大雲院に伝わる薬師三尊の懸仏は、御正体として東照宮の拝殿に掛けられていたもので、神仏混淆の様相をうかがうことができる。

  • 上町

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    因州東照宮の勧進によって整備された町。通称「権現堂」という。かつては農村であったが、池田光政による城下町拡張に際し、田畑が潰されて武家屋敷になったという。 町内の住民は東照宮の御用を勤めるため、諸税が免除され、上町の一里四方における飴・煙草の専売が許された。『因幡志』によると、田畑を失った住民は宿屋を稼業としたが、東照宮の勧請に際して、河端三丁目と四丁目に移転し、河端四丁目の飴・煙草屋が上町に移り、わずかに残っていた農民は小西谷に移転させられたとする。 もとは両側町であったが、享保20年(1735)に起こった「長田火事」以降は、片側町となった。長田火事は、長田社下の商家天王寺屋伝三郎の借屋煙草屋久右衛門方より出火し、大雲院、芳心寺、日香寺、栗谷の興禅寺など数百軒が類焼した。晒場 上町の煙草屋の女性たちが、副業として谷奥から流れてくる堀水を使って綿布を晒し、長田神社の下の芝生に干していた場所。名水で晒した布はことのほか白くなったという。 上町の標幟 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

  • 観音院

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    天台宗の寺院。補陀洛山慈眼寺観音院。本尊は正観音。近世には乾向山大雲院末。八ヶ寺のひとつで、末寺は立川清鏡寺、谷村(国府町)円城寺。 寛永9年(1632)の国替えにあたり、備前岡山光珍寺の住職宣伝法印が供を命じられ、栗谷に祈願所雲京山観音寺を建立。池田長吉の時代に城山の岩窟より掘り出されたと伝えられる観音を本尊とした。この観音は城山の守り本尊として崇敬されており、城内安全の祈願所となった。池田光仲は、ことのほか本尊正観音を信仰したと言われる。 慶安3年(1650)の因州東照宮勧請に際し、現在地を拝領して観音院と改称した。 当院の池泉鑑賞庭園は、国指定名勝に指定されている。また境内には、鳥取藩お抱え力士・佐渡ヶ嶽澤右衛門の墓などがある。 『無駄安留記』鳥取県立図書館蔵 4代目佐渡ヶ嶽澤右衛門墓 安永元年~文政7年(1772ー1824)。北栄町北条島出身の力士。 大坂萩ノ戸芳之助の弟子となり、寛政9年(1797)江戸に下り武蔵野浪之助を名乗り、同11年に鳥取藩のお抱え力士となる。文化3年(1806)、31歳で幕内に入幕し、以後13年間幕内に在位した。最高位は前頭筆頭。文政元年(1818)に引退して4代目佐渡ヶ嶽澤右衛門を襲名。佐渡ヶ嶽部屋の親方となり、雲州の横綱稲妻雷五郎をはじめ多くの有名力士を育てた。

  • 広徳寺

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    臨済宗の寺院。山号は龍峯山。寛永9年(1632)の国替えにより、岡山から鳥取に移った。当初の寺地は栗谷にあった。慶安2年(1649)、因州東照宮の勧請の際して現在地に移された。鳥取藩の着座家である両池田家(山ノ池田、下タ池田)の菩提寺となった。池田一門の墓 山ノ池田 池田恒興(勝入)の長男之助の系統。長久手の戦いで戦死した之助の長男由之(岡山藩天城池田家の初代)の四男之政が正保元年(1644)に召し出された。以後、着座家として幕末までつづいた。久松山の麓(現鳥取市立北中学校敷地内)に屋敷があったため、「山ノ池田」と通称された。 下タ池田 池田輝政の次男利政の次男知利が、寛永19年(1642)に召し抱えられた。以後、着座家として幕末までつづいた。屋敷が鹿野街道筋にあり、「山ノ池田」と区別するため「下タ池田」と呼ばれた。 鎌倉十七(畔柳左茂右衛門) 江戸時代の鳥取藩お抱え力士。寛永の末に奥州で生まれ、相模国鎌倉で育ったと伝えられる。万治~延宝期(1658-81)が全盛期であった。名前の由来は、鎌倉で開かれた勧進相撲に優勝したときの年齢が17歳であったためという。池田光仲の時代に相撲衆として召し抱えられ、万治元年(1658)の「組帳」(分限帳)には「畔柳左茂右衛門」とあり、130石が与えられている。65歳の時、藩主の御前で明石志賀之助と相撲を取り、見事に勝ったと伝承されている。 法美・邑美の郡境 広徳寺付近は、法美と邑美の郡境とされていたが、その位置については江戸時代から諸説がある。

  • 江崎町

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    城下町形成以前から存在した町場。町名の由来は、山側から突き出た山鼻の下に沢があり、この地形から江ヶ崎としたという。上町・丹後片原町とともに城下の三大町のひとつで、城下筆頭の町であった。武家屋敷に隣接した立地から、商業が栄えた。 町は上の町、下の町、竪町の3つからなり、下の町で売られていた串に刺した焼き餅が名物で、当町の幟となっていた。 江崎町の標幟 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

  • 秋里屋(竹内家)

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    藩内屈指の商人で、鳥取の町年寄を勤めた。備前浪人の竹内武左衛門が、元和頃(1614-25)に高草郡秋里村に住み、3代のちの権兵衛が享保7年(1722)に茶町に移り、出身村にちなみ「秋里屋」と号した。天明5年(1785)より藩の米問屋御用を命ぜられ、度々藩へ銀子を貸し出すなど、町年寄として重きをなした。 寛政7年(1795)、洪水により袋川に掛かる橋がすべて流され際に、自費で架け替えを行った功績により苗字を許され、「竹内」姓を名乗るようになった。

  • 外丹後口の惣門(湯所下の惣門)

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    城下に設けられた9つの惣門のひとつ。脇には門番小屋が置かれた。門外の材木町や外丹後町に通じる惣門であることから材木町口、もしくは外丹後口とも呼ばれた。また湯所下ノ丁に至るには、門外から堀に架かる土橋を渡った。 『因州記』鳥取県立博物館蔵

  • 天徳寺

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    曹洞宗の寺院。山号は万年山。寺の前身には諸説あるが、山湯山(鳥取市福部町)にあった天台宗寺院城福寺と言われる。天文8年(1539)に現在地に移った。同寺は城下でも有数の伽藍を誇り、多くの末寺を持っていた。明治31年(1898)、同39年(1906)に本堂など伽藍を焼失した。大正3年(1914)に本堂は再建されたが、昭和27年(1952)の鳥取大火で再び焼失した。現在の本堂は東町の武徳殿を移築したもの。 元鋳物師町にあった顕功寺(廃寺)の石地蔵 山門そばの観音の石仏(観音講による寄進) 移築以前の大日本武徳殿(絵葉書) 鳥取県立博物館蔵

  • 山屋敷

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    養寿院の奥にあった武家屋敷地。城下の拡大に伴い、武家屋敷地となった。

  • 道祖神乢(サイノタワ)

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    山屋敷より円護寺へ抜ける峠の名称。乢(タワ)は、尾根のくぼみ部分を指す。峠の途中に道祖神(サイノカミ)が祀ってあったという。本来は、サイノカミノタワというべきをサイノタワと略して呼んでいた。古名を「天徳寺口」という。 『鳥府志』県公文書館蔵

  • 下厩

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    鳥取城内にあった上厩(現鳥取県立博物館内)に対して、湯所にあった厩を下厩といった。もとは武家屋敷であったが、万治3年(1660)に若桜城主山崎氏の厩を移動させたものという。 十数騎の馬をつなぐ施設があった。 「下厩図」鳥取県立博物館蔵

  • 袋川旧河道

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    江戸時代後期になると、堀の左右が住民たちによって埋め立てられ、町人地の一部に組み込まれていった。 「外堀埋り地に建家懸り候場所絵図」 鳥取県立博物館蔵

  • 福井屋

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    新鋳物師町にあった商家。安政5年(1858)12月に、福井屋の一室で、のちに桜田門外の変に参加する水戸藩の関鉄之助らと、藩の改革派安達清一郎らと秘密会談が行われた。関たちは、朝廷から水戸藩に下された勅書「戊午の密勅」を西国諸藩に通知し、大老井伊直弼の水戸藩に対する弾圧に抗するため、鳥取藩改革派との連携を求めた。

  • 福田家屋敷(福田丹波邸)

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    禄高3,500石の上級家臣福田家の拝領屋敷。敷地面積は、1,800坪に及び、令和5年(2023)まで現存していた主屋は文政元年(1818)に建てられた。主屋の広間に面する庭は、久松山を借景とし、邸内には躙り口のない茶室がある。福田家 福田家は、山城国(現京都府)の土豪出身で、のちに池田家に仕え、江戸前期には、幕府に対して人質(証人)に差しだすなどした。そのため藩内では3番目に高い格式である「証人上」として禄高3,500石を給された。また黒坂(鳥取県日野町)に陣屋を持ち、自治的な政治を行った。

  • 智頭口の惣門

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    郭内に9ヵ所あった惣門のひとつ。大手筋の門として参勤交代では、御城代が藩主を送迎した。

  • 智頭街道

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    鳥取城下の大手筋。鳥取から智頭宿や上方に至る道であったことから「智頭往来」・「上方往来」とも呼ばれた。参勤交代の道として利用され、藩主通行の際には、壮麗な行列をひと目見ようと、藩内から人々が押し寄せた。

  • 本町

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    薬研堀から数えて、最初の両側町であったことからこの町名になったという。一丁目と二丁目は御用商人や職人が居住し、城下町の町政を司る町御用場があった。

  • 石井稲荷

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    鳥取城下で最も古い由緒を持つ町人石井家が勧進したとされる稲荷。石井家は、戦国期に播磨から因幡に移り、守護大名山名氏の配下となった。山名氏の内紛によって帰農し、江戸初期には鳥取を代表する町人として活動した。

  • 渡辺右源吾屋敷

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    渡辺右源吾は200石取りの鳥取藩士。火業の者(花火師)であった。屋敷内で試射を行っていたが、江戸時代後期には玉目が大きくなったため、郊外の古海河原で行うことが多かったという。 渡辺屋敷の側には大口用水の末流が袋川に流れ込み、その小川に架かっていた小橋を「渡辺橋」と呼んでいた。

  • 外堀

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    寺町の妙要寺から出合橋出口までの堀の総称。郭内と郭外を分ける堀として、もともと流れていた袋川の旧河道を利用し、若桜口から鹿野口惣門までの間は、堀が開鑿されている。江戸時代後期には住宅から流れ込む土砂の堆積や、近隣に住む武士や町人が勝手にゴミを捨てる行為によって、堀は埋まっていく傾向にあったようである。現在、堀は埋め立てられているか、暗渠となっている。 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

  • 梅翁院

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    曹洞宗の寺院。山号は祥雲山。鳥取藩士小泉仁兵衛俊明を開基として江戸時代後期に創建された。明治の鳥取市政に大きな影響をもった立川町の実業家吉村徳平(1843-1912)の墓所などがある。

  • 藍座

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    染色に用いた藍玉を製造する藩営工場。文化期(1804-18)に鳥取と米子に藩営の藍製座が創設された。鳥取藍製座は吉方の川端に設置され、因幡地方の葉藍を取り集め玉藍を製した。藍座では、当初阿波(徳島県)から職人を招聘していたが、のちに青谷(鳥取市青谷)の職人が製藍にあたった。同所で作られた玉監は鳥取町人に販売された。天保期(1831-45)に入ると損益も大きくなり、鳥取町人岩見屋与一郎・倉松屋源兵衛などの請け負いとなるが、天保7年(1836)に建物は売却され、その後に廃止された。

  • 行者堂

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    赤松八幡宮の別当でもあった山伏多聞院(清教寺)の持宮。役行者を祀る二間四方の小さなお堂があった。行者堂の脇道は「行者堂越」と呼ばれ、山越えすると丸山の善久寺の秋葉社(現城北体育館の側)に出た。現在は、多聞院(清教寺)の墓などが残る。また安政6年(1859)には東側が石切場に指定されている。 『無駄安留記』鳥取県立図書館蔵

  • 愛宕の下

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    愛宕社の下に位置する街区。江戸時代のはじめは百姓家が多かったが、享保年間(1716-36)以降、商家が多く立ち並ぶようになったという。

  • 金剛院将軍寺

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    真言宗の寺院。山号は愛宕山。本尊は千手観音。雁金山の裾野に金剛院(将軍寺)があり、その中腹に愛宕勝軍地蔵大権現を祀る愛宕社が鎮座する神仏混合の寺院であった。 愛宕社は、鹿野雲龍寺より移したとも、八東郡新興寺村(八頭町)より移したともいう。愛宕地蔵は鳥取藩家老鵜殿家の家臣市橋十左衛門の作。愛宕社は火伏の神として知られ、鳥取城の鬼門除けと火伏の祈祷を行い、毎年正・5・9月に祈祷札を藩へ献上した。 寺伝によると社殿は雁金山山頂にあったが、鳥取藩主池田光政によって、中腹に社殿を新築し移動したとされる。寛永14年(1637)に社殿修復が行われた。元禄6年(1693は)に江戸の知足院火の番を三度無事勤めたとして、愛宕堂を新しく建てた。毎年6月24日の愛宕会式には、城下や近郊の村々から人々が集い賑わった。昭和27年(1952)の鳥取大火で焼失し、現在の仮本殿となった。 『無駄安留記』鳥取県立図書館蔵 「鳥取新府久松金城」鳥取県立博物館蔵

  • 国産座役所

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    嘉永5年(1852)、藩政改革の一環として国産品を奨励するため、蝋座役所の向かいに国産座役所が新設された。国産座は、元治元年(1864)に蝋座と合併し、産物会所が置かれた。

  • 湯所神社

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    荒神と呼ばれていた湯所村の氏神。祭礼は9月28日に行われた。社殿の奥には滝があった。 『無駄安留記』鳥取県立図書館蔵

  • 湯所下ノ丁

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    湯所下の惣門(外丹後口の惣門)の門外の武家屋敷地。幕末には、浅井家、名越家、伏屋家、大島家、紅林家、松沢家、関家、乾家、村上家、円山家、赤坂家、遠藤家、重松家、岡本家などの屋敷があった。

  • 平井権八屋敷跡

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    歌舞伎・講談・浄瑠璃などで有名な平井(白井)権八のモデルとなった江戸時代前期の浪人平井権八の屋敷があったとされる場所。権八は元鳥取藩士とされるが、実在を確認できる記録は今のところ発見されていない。しかし江戸時代後期には、一般に因幡と言えば、平井(白井)権八の出身地というイメージが定着していたようである。 白井権八の錦絵(個人蔵)

  • 喧嘩屋敷丁

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    地名は、寛文6年(1666)に、この場所に屋敷地があった高浜権右衛門と西田古左衛門の遺恨により、高浜が西田を討ち果たしたことに由来するという。なお、喧嘩屋敷丁と呼ばれる以前の地名は伝わっていない。同地にあった武家屋敷は、石黒家、山下家、北村家、中村家、上橋家、岸本家、西垣家、岡田家、伊丹家、米村家、吉田家、堀家、宮脇家、後藤家、岡野家、中村家など

  • 鉄炮稽古場

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    天保13年(1842)に新設された足軽の砲術訓練場。藩の荻野流砲術家の古田平兵衛が足軽共取立役を命じられ、毎年4月から7月まで、毎月3日の鉄炮稽古が実施された。その後も砲術訓練場として利用され、文久2年(1862)には「整武館」と改称した。

  • 天神

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    富安村に鎮座する天満宮。『因幡志』によれば、昔、京都の北野天神より勧請し、近辺を北野と称したという。祭日は6月25日。 昭和10年(1935)に北野神社と改称した。現在の天神町は当社にちなむ。なお、天神のある富安村は、品治村の南、智頭往来の東に集落が位置し、全村高500石は、因州東照宮領であった。

  • 智昌院

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    山伏。本尊は弁財天。住職は秀法。毎年6月16日には本尊弁財天と不動尊の開帳を行った。

  • 西館池田家屋敷跡

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    藩主池田家の分知家(分家)にあたる西館池田家の屋敷地。鳥取藩には2つの分知家があり西館池田家は、初代藩主池田光仲の5男清定を祖とする分家の大名である。元禄13年(1700)に新田1万5000石を分与されて成立。幕末には、200人余りの家臣がいたが、領地をもたず、本家から蔵米を支給された。また江戸にあった藩邸の地名をとって「鉄炮洲家」とも呼ばれた。文化9年(1812)の火事(佐橋火事)で焼失し、現在の県庁がある場所に移転し、跡地は幕末まで火除け地とされた。 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

  • 鵜殿家中屋敷

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    禄高6,000石の着座鵜殿家の中屋敷。貞享期(1684-88)には、初代藩主池田光仲の子清勝(万之助)が居住した。その後、因幡国の地誌『因州記』を著した野間宗蔵が住み、安永年間(1772-80)には、鵜殿家の中屋敷となった。

  • 御小人小屋

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    御小人は、町村から徴発された人夫を指し、各役所で雑役に従事した。小屋は栗谷にあったが、元禄5年(1692)頃に、立川へ移った。湯所にも小屋があり、立川を「上」、湯所を「下」の小屋といった。

  • 浄覚寺

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    浄土真宗の寺院。山号は妙広山。川端一丁目の端にあり、若桜街道が行き当たる場所に位置した。享保5年(1720)の石黒火事後に江崎町から移転した。

  • 悪水抜き

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    町の境界線に設けられた排水路。大きさは、町によって違いがあるが、基本は幅4間(7.2m)、長さ24間(63m)とされた。

  • 埃捨(ゴミ捨て場)

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    安政の鳥取城下全図に記載されている7ヵ所のゴミ捨て場のひとつ。7ヵ所のゴミ捨て場のうち、5ヵ所は旧河道筋に設置された。なお、鳥取城下におけるゴミ捨て場所の規定が最初に出されたのは、寛文4年(1664)で、武家を対象としていた。

  • 籾蔵

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    凶作に備え、藩が幕末に設置した籾の貯蔵蔵。この場所は、文化9年(1812)の火事(佐橋火事)以前は、西館池田家の屋敷であったが、大火後によって焼失したため、以後は火除け地となっていた。幕末に入り、三の丸増築にともなって籾蔵が設置された。平成21年(2009)に実施された発掘調査の結果、遺構が良好な状態で残されていることが判明した。 籾蔵の絵図 「御普請所御建物平面図」鳥取県立博物館蔵

  • 千手院

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    修験道の堂宇。本尊は不動明王。

  • 本良院

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    修験道の寺院。寛政6年(1794)に、大破していた本堂と庫裏を建立するため、30日間の夜念仏を行った。

  • 常忍寺

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    日蓮宗の寺院。山号は鷲峰山。寛保元年(1741)に芳心寺(鳥取市馬場町)の末寺として創建。寺号は、伯耆退休寺(大山町退休寺)内の西来院の末寺泰楽寺の古号をもらい受けた。創建には初代藩主池田光仲の夫人芳心院(茶々姫)の強い遺言があったとされる。芳心院の実家は紀州徳川家で、その母養珠院は日蓮宗を崇敬し、かねてより日蓮の庇護者で因幡国法美郡冨城郷(現鳥取市国府町)出身の冨木常忍(1216~99)の生地に寺院を建立することを望んでいた。その願いは果たされずに芳心院へと継承され、ようやく実現したのは芳心院没後のことであった。延享4年(1747)常忍が開基した正中山法華経寺(千葉県船橋市)の客席寺院とされ、さらに寛政元年(1789)には幕府の直触寺院とされるなど、高い格式を有した。 現存の本堂は文政元年(1818)に建てられ、天保年間に改築したもの。本堂の部材は紀州徳川家から寄進された桜材とされる。国の登録有形文化財。

  • 荒尾志摩下屋敷

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    倉吉荒尾家の下屋敷。文久3年(1863)8月17日、京都・本圀寺で藩主側近を斬殺した河田左久馬ら激派の二十士は、慶応元年(1865)9月から翌2年7月末まで、この屋敷に幽閉されていた。

  • 椿谷

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    谷の呼称は、古い椿の木があったことに由来するという。また江戸時代前期の地誌『因幡民談記』によると、かつてこの谷は「喧嘩谷」とも呼ばれていた。その由来は、池田長吉による鳥取城改修の際に、石垣工事を担当していた役人同士が喧嘩となり、この谷で打ち果てたことによるという。また同所には、互いに勝負がつかず、しばしの休息をとった「腰掛石」があったという。 延宝6年(1678)7月に、鐘鋳の場所に定められ、寛文12年(1672)には真教寺の鐘、宝永7年(1710)には日香寺の鐘を改鋳した。また『因州記』によると、宝永2年(1705)、作州(現岡山県北部)より七左衛門という職人がやってきて、椿谷の土を用いて皿器や茶碗を焼いていたが、翌年には廃窯したという。

  • 下横町

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    町人地。かつて町の北側に玄忠寺があったので、玄忠寺横町とも称した。なお、玄忠寺は、万治3年(1660)の火事で焼失し、新鋳物師町に移転した。また蛙町(下魚町)から入る町なので、蛙町横町とも呼ばれた。 鳥取県立公文書館『鳥府志図録』より転載

  • 魚町尻の為登(いと)

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  • 魚町尻

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    武家屋敷地。慶安以前には土手際に御船頭屋敷があり、万治年間(1658~1661)には御抱え相撲取りの屋敷があったという。

  • 七曲り

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    三軒茶屋から下流の丸山まで袋川が蛇行していることから、七曲りと呼ばれた。

  • 小松原

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    古市から続く並木松の土手。田嶋より下の並木松は元文5年(1740) に植えられたといわれ、上よりも小ぶりな松が多かったため「小松原」と呼ばれた。

  • 興禅寺

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    黄檗宗の寺院。山号は龍峯山。鳥取藩池田家の菩提寺。前身の龍峰寺の創建は天正12年(1584)、小牧長久手の戦いで戦死した池田之助(輝政の兄)の乳母広徳院が、その菩提を弔うため、岐阜城下に妙心寺派の龍峰山広徳寺を開山したことに始まる。池田輝政の代に三河吉田に移り、寺号を広徳山龍峰寺と改めた。その後は、池田家の転封に従って、姫路、岡山、鳥取と移転した。 寛文8年(1668)に第4世堤宗和尚が、妙心寺派を離れ、黄檗宗に転じたが、離籍を認めない妙心寺との間に紛争が生じた。元禄7年(1694)に、龍峰寺の寺号を妙心寺に返し、「龍峰山興禅寺」と改称した。四ヶ寺のひとつで、大雲院に次ぐ寺格を与えられた。幕末に至るまで藩主の葬儀を執り行った。境内には寛永11年(1634)に伊賀上野の鍵屋の辻で,義兄荒木又右衛門の助太刀で,弟の仇討ちを果たした渡辺数馬の墓や、剣豪の臼井本覚や猪多伊折佐の墓などがある。また書院北側の山裾には、池泉鑑賞式の庭園(県指定名勝)がある。また本堂は御霊屋を改造したもので、国の登録有形文化財に指定されている。 『無駄安留記』鳥取県立図書館蔵 龍峰寺時代の境内図 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

  • 芳心寺

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    日蓮宗の寺院。山号は大宝山。もとは正福寺と称し、岡山城下から現在地に移転した。宝永5年(1708)に、江戸で死去した芳心院(池田光仲の夫人)の遺志により、鳥取の位牌所となり、分骨が行われた。正徳3年(1713)には、藩から寺領米30俵が給されるようになり、寺号も芳心寺と改めた。翌年には八ヶ寺の寺格を与えられた。江戸時代には、本慈院と完龍院の塔頭があった。芳心院の墓所がある区画は、安政の鳥取城下全図に「御廟」と記されている。また境内の庭園は、山本宗珉の作と伝わる。 『無駄安留記』鳥取県立図書館蔵 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

  • 久松寺養寿院(現最勝院)

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    真言宗の寺院。山号は如意山。明治3年(1870)までは現在の最勝院の地にあった。寺伝によると、天長9年(832)弘法大師開基とされ、もとは久松山の山頂にあったという。 本尊は行基作(法道上人とも)の「山中薬師」で久松山の鎮守とされていた。古くから鳥取にあった寺院で、池田光政の藩主時代には祈願寺であったという。享和元年(1801)より、藩主へ正月、五月、九月に祈祷札を献納するようになった。明治3年(1870)、寺町にあった最勝院と合併した。 同寺には、弘法大師お手植えの松と伝えられる「臥雲松」という鳥取第一の名木があったが、明治26年(1893)に枯死した。また、寺から眺める城下の景観は美景とされ、桜の季節には多くの参詣客で賑わった。 『無駄安留記』鳥取県立図書館蔵 芭蕉翁笠塚 明和9年(1772)の建立。碑文は肥後国人吉(熊本県人吉市)の滄平と鳥取の俳人たちが建てたもの。養寿院には俳諧を楽しもうと、多くの俳人たちが集った。 木山牛頭天王 養寿院の鎮守堂。『無駄安留記』によると、半日亭の上にあり眺望がよく、嘉永年間(1848-54)以後荘厳が加えられたという。「木山さん」と呼ばれ、毎月19日、20日の祭日には多くの参詣者で賑わった。半日亭 嘉永年間(1848-54)に建てられた展望台。西は大山、鷲峰山、湖山池などを見渡すことができた景勝地。桜の季節には多くの文人墨客が集った。城下周辺で高所に位置する風光明媚な場所は、同地のほか源太夫山(立川)や愛宕社(湯所)などがあった。なお、同所からの眺めは鳥取藩士正墻適処によって半日亭八勝と命名された。 『無駄安留記』鳥取県立図書館蔵