上伊那郡高遠町兜城公園風景

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明治32(1899)年4月に上沼米太郎により発行された、上伊那郡高遠町兜城公園風景絵図。
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伊那市立図書館所蔵

update date: 2024.02.26

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  • 明十社(高遠製糸業)

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    明十社(高遠製糸業) 明十社ではないが高遠製糸工場跡 明十社(めいじゅうしゃ)は、長野県上伊那郡高遠町にあった製糸工場。高遠町における製糸工場は、明治6年小野寺正典が番匠町に60人取りの水車製糸器械を建築したのが始まりである。その後、明治8年に藤沢に「伊那館」が創立されたのに続き、明治10年(1877年)に小松清五郎などによって旭町に設立された。この年の出荷伝票によると生糸16梱半(1梱は56斤2分)を輸出している。明治23年6月当時の農商務相である谷干城も、同社の視察に来高する程で、上伊那製糸工場の王者を占めていた。また、明十社は糸取釜の開発を行なっており、半月型の製糸釜を開発し丸千(○の中に千)組製陶工場に依頼し制作を行ない、全国的に販売を行なった。 ■会社概要 資本金 7千5百円(明治16年当時) → 1万9千円(明治18年)職工数 120名(明治16年当時) ■出典 * 高遠町誌編纂委員会『高遠町誌 下巻』ぎょうせい、1979年* 「高遠のあゆみ」編集委員会『高遠のあゆみ』高遠町・高遠町教育委員会、1996年* 中村文彦『高遠こぼれ話』しんこう社、2004年  LocalWiki伊那:明十社(高遠製糸業) 出典:LocalWiki

  • 中村不折

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    中村不折 明治期に活躍した、洋画家・書家。伊那市高遠町に居住していた事がある。 ■生い立ち慶応2(1866年)年7月10日、東京京橋八丁堀に生まれる。幼名を鈼太郎という。父源蔵は上伊那郡平沢村(現在伊那市平沢)の網野家の生まれで、高遠の名門中村家のりゅうと結婚し、財産分けを受けて分家した。当時、父源蔵は江戸で書役を務めていたが、明治維新後書役が不用となったので、不折が5歳の時に郷里の高遠に帰り、諸町に居住した。家が貧しかったため、11歳で松本の商家の小僧、13歳で上諏訪町の呉服屋の年期奉公を務め、16歳に再び高遠に戻り菓子職人になる。しかし元来学問が好きなため、独学で数学を学び、さらに南画(日本画)を土地に居住の画家真壁雲郷、書を白鳥拙庵に師事し、18歳の時に小学校準教員の検定に合格し、教員となる。21歳の時に飯田小学校(現在の飯田市大手町小学校)に赴任する。その時の生徒の中に菱田春草がいた。 ■絵画勉強のために上京 19歳の時、長野の夏期講習に出席し師範学校教師、高野次郎に洋画の手ほどきを受ける。この時高野氏から「洋画を本格的に勉強するなら、東京に行くように」と勧められる。折から時事新報紙の広告欄に、小山正太郎が主宰する十一字会(後の不同舎)で研究生を募集することを知り、21歳の時に小山正太郎に師事するため、甲州街道を歩いて上京し、高橋是清の物置3畳間を借りる。 ■中村不折と正岡子規 明治27年、中村不折は正岡子規に初めて出会い、意気投合する。不折は、当時正岡子規が主幹していた新聞「新日本」の子規の句に小さな挿絵を添えて、紙面の刷新を図った。この後正岡子規を接点として挿絵画家、装幀家として多くの文学者との間に交流が生まれ、後に夏目漱石、島崎藤村、森鴎外らの諸作品が不折の装幀・挿絵によって大きな付加価値を与えられることとなる。一方、正岡子規にとって洋画家・不折の主張する写実という概念は新鮮なものであり、写実文を提唱して近代文学の革新を推進していく上で少なからず影響を受けたと言われている。 ■中村不折寿像 不折の還暦を祝い、洋画家を養成してきた太平洋画会の門下生一同が寿像贈呈したものである。胸像は、大正15年に門下生の堀進二が制作し、帝展に出品した後、翌昭和2年になって東京都台東区根岸の不折邸(現・台東区立書道博物館)に設置され、3月13日に除幕式が行われた。当時、この胸像と同じものが不折の故郷である高遠町(現・伊那市)に贈られ、高遠城址公園に据え付けられた。寿像はブロンズで作られており、台柱正面には、「中村不折先生寿像」(雪山書)と書かれた銅版、裏面には不折の功績を称え、寿像建設の経過が書かれた銅版がはめ込まれていたが、裏面の銅版はいつからか無くなっている。また、左手に持つ絵筆は3本とも途中から折損している。寿像が公園に設置されていた時は、幅212cm、105cm、85cmの各正方形、高さそれぞれ22cm、24cm、21cm3段の台座の上に、高さ127cmの胸像台が立ち、総高194cmの台座の上に胸像が据えられていた。寿像は長年の風雨にさらされ、胸部に亀裂を生じて来ており、老朽化と破損を防ぐため、文化庁の指導を受け、不折の作品を収蔵する信州高遠美術館内に平成20年3月に移転設置された。 ■参照:中村不折秀作集:平成14年3月、中村不折顕彰会企画発行伊那谷の生んだ芸術家たち:P159森鴎外と中村不折:赤羽貞雄信州高遠美術館所蔵品目録:高遠町教育委員会中村不折:森下正夫・松澤昭史 LocalWiki伊那:中村不折 出典:LocalWiki

  • 丸千組跡

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    丸千組 丸千組で焼かれたスクラッチタイル(破片) 伊那市高遠町に明治35(1902)年から昭和30(1955)年まで釜業を行なっていた会社である。 ■歴史明治35(1902)年に伊藤金太郎により諸町に丸千組を創業。丸千組は、傾斜度15度9連登り窯があり、創業当初は火鉢、兜鉢、植木鉢など日用雑器を焼いていた。 製糸業が盛んだったころは製糸用陶製鍋を製造していた。釜にて使用した、土は金井原(伊那市高遠町)・天神山(伊那市笠原区)から採取。 ■丸千組の登り窯 斜面を利用し、設置。 「大正7~8年ころ100人くらいの労力。昭和15年、タイルも中止、糸とりがまに全力15~16人」との記録がある。※引用文献 『伊那路』第38巻10号 【丸千組が製造したタイル】 ■伊藤金太郎 創業者である伊藤金太郎は、13歳の時に伊藤常蔵に就いて陶芸を学び、明治維新後に旧高遠藩士 神谷真七郎らが資金を繰り出して盛進社を創めるにあたり、常蔵繰糸用陶鍋を作ろうとして成功しないことを見ており、釜業について研究し知識豊かになり、明 治34(1901)年に美篶村笠原の土の陶土を使い繰糸鍋を試作したところ、土質が極めてよく評判になり、明治35(1902)年に丸千組を創業した。 ■丸千組の製造したタイルを使った建築物 ◇旧上伊那図書館(現:伊那市創造館) 市指定有形文化財  辰野町出身の製糸家・武井覚太郎により寄贈された。現在も伊那市創造館として一般市民に利用されている。建築年:昭和5(1930)年築 ・設計者:森山松之助   ※引用文献 『浪漫あふれる信州の洋館』信濃毎日新聞社 ◇片倉館 国指定重要文化財製糸業片倉組の創立50周年を記念して建設された。現在も入浴棟及び会議棟が一般に利用されている。 建築年:昭和3(1928)年築 ・設計者:森山松之助   ※引用文献 『浪漫あふれる信州の洋館』信濃毎日新聞社 ◇旧岡谷市庁舎(現岡谷市消防庁舎)国登録有形文化財   建築年 昭和10(1935)年設計者:三苫繁・実施行:岡谷組   ※引用文献 岡谷市民新聞2014年1月18日 ◇高遠閣 (登録有形文化財)・玄関床 ・昭和11(1936)年築◇高遠小学校玄関(現存せず)◇高遠電燈株式会社本社(現存せず)・大正14(1925)年築、3階建て棟梁:竹内三郎・ 左官:福島為吉引用高遠町誌(下)高遠町誌刊行会伊那市ふるさと百科  LocalWiki伊那:丸千組 出典:LocalWiki

  • 無地の碑

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    無地の碑 無地の碑 無字の碑は、長野県伊那市高遠町東高遠の高遠城址公園二ノ丸に建立された石碑である。この石碑は、昭和24年に有志により当地の名士である、伊澤多喜男を顕彰するために建立された。生前、伊澤多喜男は東京市長や台湾総督などの重要職を勤める一方で、郷土である高遠を愛し治山治水に力を尽くしたこともあり、郷土の人々はその功績を永く顕彰すべきと頌徳碑の建設を計画したが、それを耳にした伊澤が「生存中に頌徳碑などまかりならぬ」と断固として承知しなかったため、一切の字を刻むこと無く建てられた。 ■伊澤多喜男 高遠町(現伊那市高遠町)に明治2(1869)年に生まれた。伊沢修二の弟で、警視総監・貴族院議員・台湾総督・東京市長・枢密顧問院などを務めた政治家。 ■歴史 父は、高遠藩士・祐筆・画家である勝三郎文谷。母は、多計。兄修二とは、年が18離れていて修二が24歳で愛知県師範学校長に就任時に名古屋に引取られ、付属小学校へ入学したが、兄修二が渡米したので高遠へ帰り、進徳小学校にて学ぶ。明治14(1881)年、兄修二アメリカから帰国により校長を務める東京師範学校(現・筑波大学旧制前進校の一校)へ入学。次いで慶應義塾に入り19歳で卒業し大阪第三中学校に入学するまでの間、兄修二の元で勉学に励む。 LocalWiki伊那:無地の碑 LocalWiki伊那:伊澤多喜男 出典:LocalWiki

  • 靖國招魂碑

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    靖國招魂碑 靖國招魂碑 長野県伊那市高遠町にある高遠城址公園内南郭に明治30年(1897)に建てられた碑。 発起者 本郡各寺院筆 者 彰仁親王建 立 明治30(1897)年1月18日 各寺院・本部所 在 高遠城址公園南郭 ■歴史 日清戦争終了1年後の明治30(1897)年1月18日、明治維新後の戦没者および満蒙開拓人殉職者の慰霊を目的として、上伊那仏教会・上伊那尚武会が中心となり建設された碑である。その後、第2次世界大戦の敗戦により米軍が進駐し、長野県庁にマッカーサー(米軍総司令官)の名により教育部ができ、昭和23(1948)年4月ケリー将校が高遠町役場へやって来た際に黒河内町長と面談した際にマッカーサーの命令といい、「公園内にある靖国招魂碑と、それに付属する一切の戦争遺産と思われるものを全部撤去」と要求され消失の危機が生じた。この碑を長く守ってきた高遠町の元軍人関係の人々により結成された高遠町八日会であったが、その報告を受け急遽八日会を開催し町には関係なく八日会の責任において夜になってから、裏側に大きな穴を掘って碑を埋めることを全員の賛成により実行した。昭和28(1953)年に日米講和条約が締結され、それまで6年間土中に埋められていた招魂碑を再び掘り出すことを、ハ日会が中心となり東部靖国会、町内の商店街篤史が寄付金を集め再建された。この際に文字に埋め込まれた金箔はすべてはがれてしまった言われている。 ■価値ある招魂碑 碑文には「靖国招魂碑」と刻まれているが、「靖国」という言葉で呼称されている慰霊碑については、東京・九段の靖国神社と、高遠城址公園にある招魂碑だけであると言われている。 LocalWiki伊那:靖國招魂碑 出典:LocalWiki

  • 高遠学校

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    高遠学校 高遠学校とは、現在の高遠町図書館の位置にあった、小学校である。 ■高遠学校創立まで 信州高遠藩の藩校である進徳館が、明治5年(1871年)廃藩置県に伴って廃校になった後、同年7月高遠県学校となる。しかしやはり同年11月には府県の統合が行われ高遠県が筑摩県に統合されたため、高遠県学校も廃校となる。明治5年8月に、西高遠建福寺を仮校舎として、筑摩県管内第十八小校が創設される。これは筑摩県の学校創設勧奨により、郡内東部一円を学区として早々に開設された郷学校である。これらの県が創設した学校に対し、明治5年に政府が制定した「学制」に基づいた学校が必要になり、第十八小校は廃止され、明治6年に時雍(じよう)小校と改称された。このとき同校より分離して東高遠西竜寺に新徳学校が開設された。こうして高遠には東西にそれぞれ一校づつ小学校が設立された。明治19年統合されるまで13年間、高遠町にはこの二校制が続いた。その間、新徳小校は明治7年に新徳館跡に移転され、明治8年には「東高遠学校」「西高遠学校」とそれぞれ改称された。また、明治11年に西高遠学校は満光寺に移った。両校の合併は両地区民の感情・校舎の位置などの難題が絡んで容易にまとまらなかった。明治17年に西高遠学校が現在の高遠図書館がある位置に校舎の新築を始め、明治18年に落成、開校式をあげた。これにより明治5年以来続いていた仮校舎住まいに終止符を打った。明治19年に東高遠学校や、近隣の上山田・下山田・勝間の5校が合併統合し上伊那郡立高遠学校として発足した。義務教育の推進により、明治14年には児童の出席率が68%程度だったものが明治18年には96%となった。 ■尋常高等小学校 明治21年、小学校令の実施により、上伊那郡立高遠尋常小学校となった。このとき高等科が分離して上伊那郡立高等小学校の高遠分教場となった。明治25年上伊那郡立高等小学校が廃止されるとふたたび高等科と合併し、上伊那郡立高遠尋常高等小学校となり。この後昭和16年高遠国民学校と改称されるまでこの校名が続いた。明治24年には校舎増築を行う。明治30年代になると子守学級、特別学級(製糸工女対象)などを開設して修学困難な子女への教育普及を考えた。明治20年代は国家主義の高揚期であった。やがて日清・日露戦争へと発展し、出征兵士の見送りや軍人の武勇伝、戦死者の町葬儀への児童・生徒の参加が多くなった。 LocalWiki伊那:高遠学校 出典:LocalWiki