四谷地区二十九町会区域図
地形図の上に町会自治体の区域界と色の塗り分けをした図です。地区行事としての神社の例大祭の説明や四谷地区29町会の紹介や祭り半纏を見ることができます。
※この地図は東京都知事の承認を受けて東京都縮尺背景の地形図は縮尺2,500分の1の地形図を複製したものです。無断複製を禁じます。(承認番号)26都市基交測172号
※この背景の地形図は東京都都市整備局と(株)ミッドマップ東京が著作権を有しています。
update date: 2024.02.22
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大京町(だいきょうちょう) no name
18.大京町(だいきょうちょう) 大京町は、昭和18(1943)年に大番町と右京町が合併して成立しました。大番町は明治5(1873)年四谷大番町として成立。江戸時代には大部分が武家地でした。大番組の屋敷があったためその名がついたとされます。当時は東側の通りを表大番町、西側の通りを裏大番町といっていました。右京町は明治5(1873)年に安倍摂津守屋敷と中小の武家屋敷が一体となって成立したもので、そのなかには右京町、右馬殿横丁とよばれた地が含まれていましたが、町名の由来は諸説あり、定かではありません。町内には四谷第六小学校や慶応大学信濃町メディアセンター(北里記念医学図書館)があります。 ★大京神社の氏子
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信濃町(しなのまち) no name
13.信濃町(しなのまち) 信濃町は、昭和18(1943)年に東信濃町と西信濃町を合併して成立しました。永井信濃守下屋敷があったため、信濃町、永井原、信濃殿町と呼ばれていました。この永井信濃守下屋敷の東側とそのほかの武家屋敷を併合し、明治5(1873)年四谷東信濃町となりました。西信濃町は千駄ヶ谷村の西信濃町火薬庫を併合して明治24(1891)年に四谷西信濃町となりました。明治後期には信濃町駅ができました。練兵場付近に兵舎があり、軍人の往来が多かったため商店が多く繁栄していました。町内には民音音楽博物館や慶応病院(以前は大隊兵舎)があります。 ★須賀神社の氏子
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四谷一丁目(よつやいっちょうめ) no name
1.四谷一丁目(よつやいっちょうめ) 四谷一丁目は、昭和18(1943)年に伝馬町一丁目、麹町十一丁目、同十二丁目、尾張町、仲町一丁目を合併して成立しました。麹町十一丁目内の甲州街道沿いを竹町と呼びました。これは町内に竹を商うものが多いためとされています。また麹町十二丁目と四谷伝馬町一丁目との境は甲州街道の道幅が広くなっているため、大横町と呼ばれました。この大横町は明治、大正期の四谷における繁華街として知られています。 現在、町内にはJR・東京メトロ四ツ谷駅を中心に、四谷中学校、また様々な商店街が立ち並びます。 ★須賀神社の氏子
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片町(かたまち) no name
21.片町(かたまち) 片町は、明治5(1873)年に四谷坂町飛地、先手組屋敷を合併して市谷片町として成立しました。もともと市谷本村の一部で、古くは市ヶ谷本村片町と称する百姓町家でした。本村町が通りの両側が町家であったのに対し、通りの片側だけ町家であったことが町名の由来です。町内の東側に蓮池という溜め池があったため低湿地であり、武家がいなくなった後はしばらく田園でしたが、明治後期には埋め立てが進み、家々が並び建つようになりました。四谷地区内でもっとも小さい町のひとつです。 ★須賀神社の氏子
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花園町(はなぞのちょう) no name
26.花園町(はなぞのちょう) 花園町は、昭和48(1973)年に住居表示が実施され、新宿一丁目に合併するとともに、新宿一・二・三丁目境を調整、新宿二丁目の南西部の一角は同二丁目に併合されました。現在、花園町の名前は町会名として残されています。江戸時代、花園町は内藤新宿北裏町の一部であり、大正9(1920)年の四谷区編入に伴い成立しました。北裏町内の鎮守である花園神社からとった名称とされています。当初は現在の新宿三丁目にありましたが朝倉筑後の守下屋敷に囲い込まれたため、移転されました。花園小学校と隣接する花園公園一角には、明治の名落語家三遊亭円朝の旧居跡の碑があります。 ★花園神社の氏子
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三栄町(さんえいちょう) no name
6.三栄町(さんえいちょう) 三栄町は、昭和18(1943)年に箪笥町、新堀江町、北伊賀町が合併して成立しました。三町がともに繁栄することを願ってこの町名が名付けられました。織田信長が本能寺で討たれた際に、徳川家康の伊賀超えに同行したことで知られる伊賀者たちが半蔵門前に屋敷を拝領するも、そこが御用地となったため、寛永12(1635)年に甲州街道南北に替地を拝領しました。伊賀者の拝領町屋敷であったことから、「伊賀町」の総称がつけられました。現在、町内には四谷保健センター、新宿歴史博物館があります。 ★須賀神社の氏子
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本塩町(ほんしおちょう) no name
5.本塩町(ほんしおちょう) 本塩町は、昭和18(1943)年に塩町一丁目、本村町、七軒町を併合して成立しました。塩町一丁目は江戸時代の四谷塩町一丁目に、明治5(1872)年に付近の武家屋敷を編入したものです。四谷塩町一丁目は、寛永14(1637)年の島原の乱に際して大伝馬町(現在中央区)の馬込勘解由(まごめかげゆ)・佐久間善八が人馬御用を勤め、これに対する褒美として、翌15(1638)年に大伝馬町が四谷伝馬町一から三丁目、同塩町一から三丁目にあたる火除地を拝領したものでした。もとの大伝馬塩町にならって四谷塩町一丁目としました。甲州街道からみて裏側だったため、通裏塩町といわれました。現在、町内には本塩町児童館、本塩町地域交流館があります。 ★須賀神社の氏子
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若葉一丁目(わかばいっちょうめ) no name
8.若葉一丁目(わかばいっちょうめ) 若葉一丁目は、昭和18(1943)年に南伊賀町及と仲町二・三町目を併合して成立しました。若葉の青々と繁茂する活気とたくましい発展力を願って町名が変更されました。江戸時代、四谷の地名の由来とも伝えられる四軒の旧家の一つ梅屋がありました。その名は同家の屋敷内に梅の木が数多く植えられていたことによります。町の中央には鉄砲組の組屋敷があったことから鉄砲坂という橋があります。また赤坂から千駄ヶ谷へ通じていた奥州街道沿いの目印であった老松『朝日松』があったことから、朝日橋という陸橋が今もあります。町内には学習院初等科があります。 ★須賀神社の氏子
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荒木町(あらきちょう) no name
15.荒木町(あらきちょう) 荒木町は、明治5(1873)年に高須藩松平家上屋敷と周辺の武家屋敷を併合して成立しました。町名は荒木横町があったことに由来します。町内には、高須藩松平氏が摂津の守だったことにちなみ「津ノ守(つのかみ)坂」という坂があります。上屋敷内には池が整備され、庭園には高さ4メートルほどの滝がかけられました。高須藩松平家の屋敷は明治以後上地され、池の周囲には茶屋が並び遊覧地となりました。明治時代には芝居小屋も建ち、料理屋が次第に増え花街となりました。現在も路地が続き、雰囲気のある居酒屋や小料理屋が軒を連ね、独特の風情が残っています。 ★須賀神社の氏子
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新宿園(しんじゅくえん) no name
27.新宿園(しんじゅくえん) 新宿園は、遊園地「新宿園」の跡地に造成された住宅地に入居した有志によって、昭和6(1931)年に結成された町会です。靖国通りに面した新宿五丁目の一部を占めます。江戸時代には出雲母里藩松平家の下屋敷でしたが、明治末年、新宿将軍と呼ばれた相場師浜野茂が入手し、手入れした庭園になりました。西武グループの創業者である堤康次郎は大正12(1924)年に遊園地「新宿園」をつくり劇場(白鳥座)、映画館(孔雀館)、演舞場(鴎座)を設け、野外ではサーカスを催しましたが、大正15(1926)年には閉鎖されました。現在、新宿園の痕跡は残されていません。 ★花園神社の氏子
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四谷三丁目(よつやさんちょうめ) no name
3.四谷三丁目(よつやさんちょうめ) 四谷三丁目は、昭和18(1943)年に伝馬町三丁目、塩町二丁目、忍町を合併して成立しました。甲州街道南側であった忍町は、昔は一面の原野でした。文禄元(1592)年、徳川家康は中野での放鷹の折に通り、高木九助の手付20名に居屋敷として与え、鷹の道筋であるため町人を置くようにと命じたといいます。町内には二代将軍徳川秀忠が鷹狩の途中に休息した長善寺(通称笹寺)があります。現在、町内には東京メトロ丸の内線の四谷三丁目駅を中心に四谷消防署や消防博物館、 また様々な商店が立ち並びます。 ★須賀神社の氏子
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新宿二丁目(しんじゅくにちょうめ) no name
23.新宿二丁目(しんじゅくにちょうめ) 新宿二丁目は、昭和48(1973)年に住居表示の実施に伴い、新宿一・ニ・三丁目境を調整して成立しました。江戸時代には甲州道中の両側に内藤新宿仲町(なかちょう)、その南の玉川上水との間に内藤新宿仲町裏町があり、仲町の北側には太宗寺とその門前町、武家地などがありました。仲町には大名・公家・幕府役人などが宿泊・休息するための本陣や宿場間の荷を運ぶ人場を扱う問屋場などがありました。太宗寺は内藤家第五代正勝の葬儀を行って以来、道化との縁を結び、江戸の菩提寺として歴代藩主や一族の墓がおかれていました。 ★花園神社の氏子
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新宿四丁目(しんじゅくよんちょうめ) no name
25.新宿四丁目(しんじゅくよんちょうめ) 新宿四丁目は、昭和27(1952)年に新宿四丁目と改称しました。江戸時代には、四谷天龍寺と四谷天龍寺門前、四谷長延寺門前がありました。天龍寺は江戸の町に時刻を告げる「時の鐘」を撞いたことで知られています。明治初年に四谷天龍寺門前、四谷長延寺門前が合併して広島町となり、明治2(1869)年に天竜寺境内を編入して内藤新宿南町となりました。大正9(1920)年の四谷区編入時に改称し、現在の名称になるまで旭町と呼ばれていました。半纏に書かれている「雷電」は、四丁目にあった雷電(らいでん)稲荷を表しています。昭和8(1933)年に花園神社と合祀されました。 ★花園神社の氏子
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愛住町(あいずみちょう) no name
17.愛住町(あいずみちょう) 愛住町は、明治5(1873)年に町域北部と西部にある寺地と武家地を併合して成立しました。町内には、舟町との境に菱屋横丁、その西を浄雲寺横丁、その西を湯屋横丁という横丁が通っています。町名の由来は、隣人を愛し協力し合って住む街にしたいという念願を表わしたと推測されています。町内には、現在も浄土真宗正応寺をはじめいくつかの寺院が軒を並べ、寺町の風情を色濃く残しています。また、四谷第四小学校跡に地元住民らによって運営されているパブリックスペース・四谷ひろばがあります。 ★須賀神社の氏子
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新宿一丁目(しんじゅくいっちょうめ) no name
22.新宿一丁目(しんじゅくいっちょうめ) 新宿一丁目は、昭和48(1973)年に住居表示の実施に伴い、大正9(1920)年に成立した新宿一丁目に花園町を合併するとともに、新宿一・ニ・三丁目境を調整して成立しました。江戸時代には甲州道中の両側に内藤新宿下町(しもちょう)が、その北側に百人組与力大縄地がありました。内藤新宿下町は元禄12(1699)年の内藤新宿開設時に成立しました。大正9(1920)年の四谷区編入に伴い、「内藤」が省略され新宿一丁目となりました。現在、町内には丸の内線の新宿御苑前駅や四谷消防署御苑前出張所があります。 ★花園神社の氏子
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四谷二丁目(よつやにちょうめ) no name
2.四谷二丁目(よつやにちょうめ) 四谷二丁目は、昭和18(1943)年に麹町十三丁目、伝馬町二丁目、伝馬町新一丁目を合併して成立しました。町内には四谷の地名に由来するといわれる旧家四軒のうちの一軒、茶屋が代々居住していました。この家は当初茶屋を開いていましたが、のち旅館を設け、陸付(運送業)を営むようになりました。陸付になってから多摩川の漁師から鮎なども届き、将軍御成の際に鮎を献上していたそうです。現在でも町内には箪笥店、碁盤店などがあり、老舗の有名専門店が多いことで知られています。 ★須賀神社の氏子
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左門町(さもんちょう) no name
12.左門町(さもんちょう) 左門町は、昭和18(1943)年に左門町に平長町が併合して成立しました。当初の左門町は、明治5(1873)年に通称左門殿町とされる武家屋敷が四谷左門町となったものです。江戸時代には幕府先手組頭諏訪左門の組屋敷があり、左門殿町といわれていました。南に二カ所、東北に一カ所の木戸があり、明治期になり左門町となったといわれています。同地は「四谷怪談」の基となった「お岩伝説」発祥の地です。町内には「鬼横丁」があり、昔お岩がここを通った際、夜叉のような様子であったことからそのようによばれています。 現在、町内には四谷警察署があります。半纏の文様は左門町の氏神である須賀神社の例大祭が両社祭とよばれていることに由来します。 ★須賀神社の氏子
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舟町(ふなまち) no name
16.舟町(ふなまち) 舟町は、明治5(1873)年に北側の寺地と南側の武家屋敷を併合して成立しました。町名は大船健造のために大木を伐り出した「舟板横町」が町内中央にあったことに由来します。荒木町との境の通りを杉大門というのは、かつて全勝寺には大門があり、門にいたる横丁に杉の並木があったためです。かつて四谷には杉林が多く、杉材の産地でした。杉の若木の皮をはいで、足場に使う「四谷丸太」として出していました。集散地は四谷でしたが、明治以後、生産地が次第に高井戸や杉並方面に移り、その後は青梅方面に移りました。町内には「山県大弐の墓」がある全勝寺、「阿弥陀如来座像」で有名な西迎寺があります。 ★須賀神社の氏子
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消防博物館
消防博物館 (東京消防庁消防防災資料センター) 江戸時代から現代までの消防の歴史が学べるミュージアムです。いろは48組の各組の纒や消火活動に試用した道具、江戸の町並みを再現したジオラマは見応えがあります。
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坂町(さかまち) no name
7.坂町(さかまち) 坂町は、明治5(1873)年四谷坂町と伊賀町飛地やその他を合わせて四谷坂町となり、明治44(1911)年に「四谷」の冠称が取られて坂町となりました。江戸時代、大きな蓮池という沼があり、三代将軍家光はたびたび鷹狩にきていました。この道筋に50人の武士たちが屋敷を拝領していましたが、土地が低く水がたまる場所があって道が悪いため、武士たちの願い出によって埋めたてられ、町屋になりました。現在も町内には、家康入府時に土地の安永を祈って坂の横丁に建立された桝箕(ますみの)神社があります。 ★須賀神社の氏子
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南元町(みなみもとまち) no name
14.南元町(みなみもとまち) 南元町は、昭和18(1943)年に南町と元町が合併して成立しました。迎賓館裏門前の道路に、江戸時代には鮫河橋という橋がありました。下を流れる桜川は以前は大きな川で、日比谷が東京湾の入江だった時には、このあたりまでその入江が入り込んでいたといいます。町内北東部は鬼門だったため百姓町屋開発当初から、除地(年貢諸役を免除された土地)が置かれていました。この除地は櫓下(やぐらした)と呼ばれました。町方の支配が進むと、け組持ちの火の見大櫓が建てられました。櫓はその後大破しましたが、里俗に櫓下と唱えられていました。現在、町内のみなみもと町公園には生物を育む場として「ビオトープ」があります。 ★須賀神社の氏子
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若葉二丁目(わかばにちょうめ) no name
9.若葉二丁目(わかばにちょうめ) 若葉二丁目は、昭和18(1943)年に四谷寺町と鮫河橋谷町二丁目を合併して成立しました。四谷寺町は四谷西念寺門前、同安楽寺門前、同愛染院門前、同東福院門前と西念寺、真成院、蓮乗院、安楽寺、愛染院、東福院の各境内地、および西念寺東隣の旧武家屋敷を合わせて成立しました。これらの寺院は、江戸城外堀普請によって麹町にあった寺がここに移されたものです。また町内一円は「入・り」とよばれていました。これは古くは豊島の入江の角であったためと伝えられています。現在、町内には区内でも数少ない銭湯「若葉湯」があります。 ★須賀神社の氏子
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三光町 no name
29.三光町(さんこうちょう) 三光町は、昭和53(1978)年に住居表示実施によって新宿五丁目となりましたが、西側の旧名が三光町でした。現在、三光町の名前は町会名として残っています。江戸時代には武家地であり、明治2(1869)年に内藤新宿の北部裏側の町という意味で、花園町とともに内藤新宿北裏町となりました。大正9(1920)年に四谷区編入の際、内藤新宿北裏町の東部が花園町になり、西部の飛地が番衆町と三光町になりました。花園神社の別名「三光院稲荷」からとったものです。 ★花園神社の氏子
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須賀町(すがちょう) no name
11.須賀町(すがちょう) 須賀町は、昭和18(1943)年に須賀町と南寺町が併合して成立しました。西側を除く三方を崖に囲まれた武蔵野台地に位置しています。元は武家地で、明治後期でも官史などが多く住んでいました。南寺町は、江戸城の工事のため麹町にあった寺院が転入した地です。町名となっている須賀神社は江戸時代には稲荷社、天王社でした。天王社が小さな祠建てて祀っていましたが次第に繁盛してきたため、寛永21(1644)年に願い出て稲荷社と合祀し、稲荷・天王合社となり、明治維新後に須賀神社になりました。町内には現在も多くの寺院があります。 ★須賀神社の氏子
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大京神社 no name
大京神社(住所:大京町6番地) 【神社紹介】現在地にもともと右京稲荷という神社があり、右京町でお祭りが行われていました。火事が多かったので、火伏せのために昭和10(1935)年に元鮫河橋南町にあった秋葉神社を合併しました。昭和24(1949)年に右京町町会と大番町町会が合併されて、大京町町会が発足し、昭和42(1967)年に右京神社から大京神社へと改称されました。 【例大祭】 戦災で消失した神社の社殿が昭和28(1953)年に完成し、祭礼が行われるようになりました。例大祭には半纏をまとった人々が集い、須賀神社からの神主が御霊を神輿に入れるところから始まります。2日間かけて大京町1番地から32番地まで子どもたちが神社神輿を担いで巡ります。 【氏子町会】大京町(だいきょうちょう)
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須賀神社 no name
須賀神社(住所:須賀町5番地) 【神社紹介】もともとは稲荷神社で、清水谷(現在の赤坂)にありましたが、寛永11(1635)年に江戸城外堀普請のために現在地に移転したといわれています。寛永20(1644)年、神田明神内に祀っていた須佐之男命(すさのおのみこと)を合祀し、御両社として祀るようになり、「四谷天王社」と呼ばれていました。明治元(1868)年に須賀神社と改称されました。「須賀」の名前は、須佐之男命が出雲で八俣の大蛇(やまたのおろち)を討ったという故事に基づいています。 【例大祭】 本祭と陰祭を交互に毎年行っています。本祭の場合、神社神輿の渡御が行われます。翌年の陰祭では各町内の町会神輿を一堂に集め、連合渡御が行われます。本祭の際には神輿の屋根に、天王神社の氏子地区では鳳凰を、稲荷神社の氏子地区では宝珠を付けます。これは戦前まで2つの神社それぞれに神輿二基を渡御させていた名残です。須賀神社例大祭は今でも「両社祭(りょうじゃまつり)」と呼ばれています。 【神輿の担ぎ方】 須賀神社の氏化18町会は「四谷担ぎ(千鳥担ぎ)」と呼ばれる担ぎ方をします。神輿を水平に保ち、上下に揺らさないようすり足で担ぎます。先頭の担ぎ手は、棒の先端を首の後ろで受け止め、両手を添え、足を前方に出して押し戻すような体勢をとります。掛け声も神輿の流れを促す、「サッサー、サッサー」や「オイッサ、オイッサ」と小刻みな阿蘇運びに合う調子になっています。また疲れがきた時には「ドシタイ、ドシタイ」と担ぎ手を鼓舞します。 【氏子町会】四谷(よつや)一丁目から四丁目、本塩町(ほんしお)、三栄町(さんえいちょう)、坂町(さかまち)、若葉(わかば)1丁目~三丁目、須賀町(すがちょう)、左門町(さもんちょう)、信濃町(しなのまち)、南元町(みなみもとまち)、荒木町(あらきちょう)、舟町(ふなまち)、愛住町(あいずみちょう)、片町(かたまち)
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多武峯内藤神社 no name
多武峯内藤神社 (住所:内藤町1-8) 【神社紹介】江戸初期に初代内藤清成氏が屋敷内の地(新宿御苑)に多武峯内藤神社は家祖である藤原鎌足公と藤原氏の氏上様である春日大社より分霊を祀るため、神社を草創しました。明治16(1883)年に新宿御苑の地より現在地へ遷座移築され、一般の参拝も許可されるようになりました。昭和28(1953)年内藤家より、境内他、社殿並びに付属物の奉納をいただき、町民の手によって神社が維持されるようになりました。昭和42(1967)年に多武峯内藤神社と改称されました。境内には、新宿区登録有形文化財に指定されている駿馬塚があります。開運・強精の祈願所として有名です。徳川家康が内藤清成に、馬で一息に回れるだけの土地を授けるといい、南は千駄ヶ谷、北は大久保、西は代々木、東は四谷の広大な土地を走ったところで、愛馬は疲れ果てて死んでしまったといわれています。後に供養のため駿馬塚を建てたとのことです。 【例大祭】 寛政4(1792)年に十二代内藤頼以(よりもち)が多武峯内藤神社の再興を命じ、初代内藤忠政ほかの藩主をお祀りして5月25日と11月28日が大祭日となりました。現在は5月17日前後の土日が大祭日となっています。境内の神楽殿では、里神楽が現在でも奉納されています。大祭では半纏をまとった人々が集い、土曜日は子どもたちによる太鼓演奏、日曜は神社神輿をこどもたちが担ぎ町会を巡ります。 【氏子町会】内藤町(ないとうまち) 文章執筆協力:内藤町町会 監修 内藤家
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花園神社 no name
花園神社(住所:新宿5-17-3) 【神社紹介】江戸時代以前に、大和区に吉野山より勧請した稲荷社で、もとは現在の新宿三丁目交差点付近にありましたが、寛永年間(1624~44)に朝倉筑後守宜正(よしまさ)の下屋敷となったために、現在地に移転したといわれています。当時は追分稲荷神社と呼ばれたそうですが、その後別当寺の名をとった三光院稲荷、または近くにあった尾張徳川家別邸の花園にちなんで花園稲荷と呼ばれました。昭和40(1965)年に花園神社と改称されました。 【例大祭】大正9(1920)年に現在の新宿四丁目の鎮守であった「雷電(らいでん)稲荷」を合祀しました。8町会の神輿は神社の御輿倉庫に保管されています。各町会には大人神輿や子ども神輿があり、それぞれ各町内を渡御(とぎょ)します。一方、神社神輿の渡御は隔年ごとの本祭で行われます。 【神輿の担ぎ方】 花園神社の氏子である8町会は「江戸前担ぎ」と呼ばれる担ぎ方をします。つま先をたて、腰で調子を取りながら、「ソイヤ、ソイヤ」と掛け声をかけながら進みます。神輿が上下に揺れるのが上手な担ぎ方と言われています。 【氏子町会】新宿一丁目~四丁目、花園町(はなぞのちょう)、新宿園(しんじゅくえん)、番衆町(ばんしゅうちょう)、三光町(さんこうちょう)、計8町会
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鳩森八幡神社 no name
鳩森八幡神社(住所:渋谷区千駄ヶ谷1-1-24) 【神社紹介】その昔、めでたいことの前兆としての白雲がたびたび現れ、それを不思議に思った村人が林の中に入っていくと、数多の白鳩が西を指して飛び去ったという言い伝えから、鳩森と名付けられました。慈覚大師(円仁)が関東を布教中の貞観2(860)年、村民の強い願いにより、神功皇后や応神天皇の像を祭神としてつくり添え、正八幡宮として奉ったと伝えられています。 【例大祭】 例大祭では町会所有の神輿が町会内を巡ります。3年に一度の本祭では、各町会の神輿一堂に集め連合神輿渡御が行われます。霞ヶ丘町会も長らく参加していましたが、町会員の高齢化のため、平成24(2012)年で神輿を出すのは最後にしたそうです。例大祭では氏子による舞踏や薪能が奉納されます。 【氏子町会】霞ヶ丘町(かすみがおかまち)
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霞ヶ丘町(かすみがおかちょう) no name
19.霞ヶ丘町(かすみがおかちょう) 霞ヶ丘町は、明治24(1891)年に千駄ヶ谷村の川向霞が丘と宇甲賀町が合併して四谷霞丘町となり、昭和18(1943)年に霞岳町になり、平成15(2003)年に現在の名称に変更されました。町名は四谷が昔、霞村とよばれており、その中でもこのあたりは東京市中で特に標高が高いところに位置していることから名付けられたとされます。江戸時代、町の東南部に江戸城の大手三門を守る甲賀百人組の組屋敷がありました。その北西には幕府の火薬庫(焔硝蔵:えんしょうくら)がありましたが明治になると陸軍火薬庫となりました。現在、国立競技場を有し、四谷地区内で二番目に広い面積をもつ町です。 ★鳩森神社の氏子
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新宿三丁目(しんじゅくさんちょうめ) no name
24.新宿三丁目(しんじゅくさんちょうめ) 新宿三丁目は、昭和48(1973)年に住居表示の実施に伴い、新宿一・ニ・三丁目境を調整、新宿二丁目、角筈一丁目・二丁目の一部を併合して成立しました。江戸時代には、甲州道中の両側に内藤新宿上町(かみちょう)、内藤新宿添地町、武家地がありました。新宿三丁目の東部は内藤新宿の宿場部分、西部は角筈村に属し大部分が武家地でした。東部は明治2(1869)年に内藤新宿三丁目となりますが、大正9(1920)年の四谷区編入に伴い、「内藤新宿」が省略され新宿三丁目となりました。現在、町内は新宿駅も含み、百貨店や各種の娯楽施設、飲食店街が軒を並べています。 ★花園神社の氏子
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若葉三丁目(わかばさんちょうめ) no name
10.若葉三丁目(わかばさんちょうめ) 若葉三丁目は、昭和18(1943)年に谷町一丁目を若葉三丁目に改称しました。この土地は周囲が高く、低地だったので谷町と称されました。明治5(1872)年に鮫河橋谷町と元鮫河橋北町、および同表町の一部を合わせ、これに近隣の旧武家屋敷地・寺地を編入して、南半分を鮫河橋谷町一丁目、北半分を同二丁目としました。一丁目となったのは鮫河橋谷町の南飛び地、元鮫河橋北町の南部、元鮫河橋表町の一部、元鮫河橋陽光寺門前といった町屋、円応寺、法善寺、陽光寺でした。現在、町内にはマンションや昔ながらの家屋や商店が立ち並びます。 ★須賀神社の氏子
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番衆町(ばんしゅうちょう) no name
28.番衆町(ばんしゅうちょう) 番衆町は、昭和53(1978)年に住居表示実施によって新宿五丁目となりましたが、東側の旧名が番衆町でした。現在、番衆町の名前は町会名として残っています。江戸時代には武家地であり、江戸時代に番士(将軍直属の軍団である書院番の隊士。江戸城門の警備、江戸市中の巡回などに従事)が住んでいたことから、街の南側を東西に走る道沿いの地を通称で表番衆町といい、北側の東西道を裏番衆町とよびました。明治2(1869)年に内藤新宿番衆町として成立した後、大正9(1920)年の四谷区編入に伴い、「内藤新宿」が省略され番衆町となりました。 ★花園神社の氏子
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内藤町(ないとうまち) no name
20.内藤町(ないとうまち) 内藤町は町名が表しているように、江戸時代の高遠藩主内藤家江戸屋敷跡の一隅にできた町です。明治5(1872)年、内藤家の屋敷地約12万坪のうち、玉川上水の吐水流(現在の旧渋谷川暗渠)以西の約9万8千坪が大蔵省勧農寮内藤新宿農業試験場(現在の新宿御苑)に寄贈され、以東の地に内藤家とその旧家臣や農民が居住しました。内藤町は、明治11(1878)年に公布された郡区町村編成令で「四ッ谷内藤新宿1丁目1番地から10番地」と定められ、新宿御苑は11番地とされました。その後、明治24(1891)年東京府令で、「四ッ谷内藤町」と改称され、大正9(1920)年に四谷区編入時に「内藤町」となり、ここに現在の町名「内藤町」が誕生しました。そして昭和22(1947)年3月に四谷区、牛込区、淀橋区が合併して、新宿区が誕生、新宿区内藤町として現在に至っています。明治当時の内藤邸の内外には小梅の林、現在の6号地一帯は丘で杉、栗の林が茂り、からたちの四つ目垣が見られたとのことです。10・11号地の谷沿いには竹藪、神社付近には茶畑・桑畑があったようです。また御苑との境には渋谷川が流れ、明治6(1873)年内藤家がこの川から神社の西側に通ずる掘割を設け、水車を造営しました。それに伴い、町内に米屋や馬力運送店などが出来て、次第に人口も増加してきました。明治20(1887)年には、佐賀県人・真崎仁六がこの水車の動力を用いて鉛筆の製造を始め、月星鉛筆の商標で市販しました。これが三菱鉛筆の前身で、現在内藤児童遊園に鉛筆の碑が建っています。戦後もこの渋谷川には多摩川の落ち鮎・はや・鮒などが生息し、夏には数多くの蛍やトンボが飛び交っていたそうです。しかし昭和38(1963)年この川も暗渠になり、そんな情緒も消えてしまいました。 昨今話題の「内藤とうがらし」は、江戸屋敷(現在の新宿御苑)内で栽培されていましたが、明治時代に御苑内の農地がなくなり姿を消してしまいました。平成21(2009)年に復活プロジェクトが誕生し、現在では四谷地区のいたるところで栽培され、内藤かぼちゃと共に、江戸野菜の一つとして脚光を浴びています。町内には、多武峯内藤神社、四谷区民センター、(四谷図書館、四谷特別出張所、四谷地域センター、四谷区民ホール、水道局新宿営業所)都立新宿高校があります。 ★多武峯内藤(とおのみねないとう)神社の氏子 文章執筆協力:内藤町町会 監修 内藤家
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四谷四丁目(よつやよんちょうめ) no name
4.四谷四丁目(よつやよんちょうめ) 四谷四丁目は、昭和18(1943)年に塩町三丁目と永住町を合併して成立しました。町内にあった四谷大木戸は甲州道中を往来する人々をただす目的で元和2(1616)年に町の西方(のちの内藤新宿との境付近)に設けられたといわれています。大木戸は寛政4(1792)年に撤去されました。また四谷通り(現在の新宿通り)北側西部には、宝暦6(1756)年に徳川御三卿の一つ田安家の下屋敷が設けられていました。現在、町内には東京おもちゃ美術館、国際交流基金、韓国文化院があります。 ★須賀神社の氏子