内藤新宿
江戸の町を原寸大で復元した地図。
江戸文書や明治初期の地図をもとに、武家屋敷や寺社などの形状と面積を割り出し、現代地図の上に書きこんだ。
共同出版
・伊那市立伊那図書館
・新宿区立四谷図書館
update date: 2024.02.13
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太宗寺(たいそうじ)
太宗寺(たいそうじ) 浄土宗。霞関山覚院太宗寺といいます。僧太宗が開いた草庵「太宗庵」が前身で、慶長元(1596)年頃にさかのぼると伝えられています。寛永6(1629)年内藤家五代藩主正勝の葬儀を行い、寛文8(1668)年、六代藩主重頼から寺地の寄進を受け創建されました。以後、内藤家の菩提寺となっています。甲州街道内藤新宿の仲町に位置し、江戸六地蔵の一つや閻魔像が庶民の信仰を集めました。 ■閻魔像(えんまぞう) 『閻魔像』制作時期:文化11(1814)年 ただし胴体は昭和8(1933)年(新宿区指定有形民俗文化財) 江戸時代より「内藤新宿のお閻魔さん」として信仰をあつめた閻魔大王の座像です。文化11(1814)年に安置されたと伝えられていますが、関東大震災により被損し、製作当初の部分は頭部を残すのみとなっています。昭和8(1933)年に現在の閻魔堂が再建された際に、左官技術者中西由造の指揮により制作されたようで、像の背中は省略され閻魔堂の壁面と一体化しています。胎内は空洞で、コンクリートにより全体の大まかな造形を行い、表面は漆喰を塗り彩色して仕上げています。かつては藪入りの閻魔大王の縁日が賑わい、露店が新宿追分(現・新宿三丁目交差点)あたりまで連なったといいます。また弘化4(1847)年には泥酔した男が像によじ登り、首のヒゲを引き抜きそのヒゲで目玉をくり抜いたところ、突然体がすくみ転倒し御用になるという事件がありました。世間では泥棒が捕まったのは、閻魔の霊験であると噂され、たちまち評判になりました。 ■銅造地蔵菩薩坐像(どうぞうじぞうぼさつざぞう) 『銅造地蔵菩薩坐像』制作時期:正徳2(1712)年 (東京都指定有形文化財) 右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠を持つ丈六(じょうろく)の地蔵菩薩坐像です。江戸に出入りする6つの街道筋におかれた江戸六地蔵の第三番として、深川の地蔵坊正元が発願し、江戸市中から約7万2千名の寄進者を募って造立されたものです。像本体や台座には、全体に寄進者名が刻まれています。鋳造は神田鍋町の鋳物師・太田正儀です。
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内藤家下屋敷
■内藤家下屋敷 作者不詳『高遠藩四谷下屋敷絵図』(江戸幕末に描かれた)伊那市立高遠町歴史博物館蔵 現在の新宿御苑一帯。徳川家康が関東に入国した直後の天正18(1590)年に拝領されたとされています。その領地は広大で、寛文10(1670)年以降、内藤新宿の開設のためその一部を差し出したり、他の大名や旗本の屋敷用地として交換したりと次第に狭まっていきましたが、幕末に至ってもなお約66,000坪という広大な面積を誇っていました。近代には大蔵省勧業寮試験場や宮内省植物御苑として利用されました。 玉川園(たまがわえん) 内藤家が高遠藩主になったのは元禄4(1691)年、七代目内藤清枚(きよかず)からです。そのころは、承応2(1653)年4月に開鑿(かいさく)を命じられた玉川上水が邸内を流れていました。九代目内藤頼由が移ったときに、玉川上水の余水を利用して玉川園が完成したといわれています。玉川園と名付けられたのは安永元 (1772) 年です。現在の新宿御苑内の玉藻池を中心とする日本庭園はこの玉川園の一部です。 駿馬塚の碑(しゅんめづかのひ) 内藤家の四谷屋敷拝領の伝承にかかわる石碑です。のちの信州高遠藩主内藤家の二代当主清成(きよなり)は、徳川家康の命により、所有している名馬に乗って代々木から四谷あたりを駆け巡り、褒美として四谷屋敷(現新宿御苑)を拝領しました。しかし名馬は疾走直後に息絶えたため、その供養として、伝承から200年あまりたった文化13(1816)年8月に、内藤家家臣の中家休昌と木下正敷が樫の古木の跡に塚を造り、碑を建てたとされています。碑は移され、現在は多武峯内藤神社境内の社殿に向かって右脇に建っています。建碑当初にあったという塚はなく、碑自体も明治以降に再建された可能性があるようです。碑の裏面には内藤家の家臣であった山下利章によって駿馬塚の由来が刻まれています。
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内藤新宿(ないとうしんじゅく)
内藤新宿(ないとうしんじゅく) ■内藤新宿(ないとうしんじゅく) 『江戸名所図会 内藤新宿』(新宿歴史博物館蔵) 品川宿、千住宿、板橋宿と並ぶ、江戸四宿のひとつ。江戸の最初の出入口の宿場であった。元禄11(1698)年に内藤家の下屋敷の一部が上地されて、甲州街道に宿場町が設置。「内藤新宿」と呼ばれました。甲州街道では、参勤交代の大名は高島、高遠、飯田の三藩だけに限られていました。その他、将軍献上のお茶壺行列が通るくらいで、交通量は東海道や奥州街道などと比較してそれほど多くはありませんでしたが、「内藤新宿」は江戸と近郊農村地帯を結ぶ文化的・経済的拠点として大変な賑わいを見せました。
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天龍寺(てんりゅうじ)
天龍寺(てんりゅうじ) 曹洞宗。護本山天龍寺といいます。遠洲倉見領西郷村(現・静岡県掛川市)にあった法泉寺が前身です。同寺を菩提寺とする戸田忠春の娘が徳川家康の側室となり、二代将軍秀忠を生んだため、家康の江戸入府時に牛込納戸町に移転、旧地に近い天龍川にちなんで寺号を改めました。開山は小田原最乗寺五世春屋宗能和尚、開基は戸田忠春親娘です。天和3(1683)年2月類焼し現在地に移転。江戸城の表鎮護寛永寺(おもてちんごかんえいじ)に対し裏鎮護(うらちんご)と称され、高い寺格でした。 ■やぐら時計 『やぐら時計』制作時期:不明(新宿区指定有形文化財) 箱型の本体の上に、時を知らせるために打つ鐘を取り付けたいわゆるオランダ時計で、櫓(やぐら)にのせてあるため「やぐら時計」と呼ばれてます。常陸笠間藩主牧野備後守貞長の寄進によるもので、同時に奉納した梵鐘(ぼんしょう・時の鐘)は、この時計をもとについたといます。 時計本体は鉄製の箱で、鈴柱(りんばしら)に椀を伏せたような形の鐘が取りつけられ、蝶型の止め金具で止められています。棒天府(ぼうてんふ)は一挺で、横腕と重りは失われています。文字盤は24時間制でローマ数字が用いられているが、これは明治6(1873)年の改暦後に付け替えられたものと思われます。文字盤の中央には牧野家の三つ柏紋が付いており、柏の葉の一端が針となっています。(24時間制のため針は1本)。本体の下からは、動力用・鐘用の重りが2個ずつ紐で下げられており、そのため高さ1mほどの櫓(やぐら)にのせてあります。 ■時の鐘(ときのかね) 『時の鐘』制作時期:明和4(1767)年(新宿区指定有形文化財) 昭和4年に「やぐら時計」とともに常陸笠間藩主牧野備後守貞長により奇進された梵鐘で、江戸の町に時刻を告げる「時の鐘」として使用されました。多摩郡谷保町(現・国立市)の鋳物師・関孫兵衛門種久の作で、天龍寺には孫兵衛の発行した領収書(代金56両1分、銀13匁)も残っています。梵鐘の表面には銘文が刻まれており、それによるとこの鐘は、牧野守成貞が元録13(1700)年に寄進した初代、寛保2(1742)年に寄進された二代目に続く三代目の鐘で、すべて「時の鐘」として使用されていたことがわかります。このあたりは江戸市中の西の端にあたり、武士が登城する際に時間がかかるため、明け六つ(午前6時頃)の鐘を少し早めについたといわれ、また内藤新宿の遊郭で遊んだ人々を送りだす「追い出しの鐘」としても親しまれました。
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三光院稲荷(さんこういんいなり)現・花園神社(はなぞのじんじゃ)
三光院稲荷(さんこういんいなり)現・花園神社(はなぞのじんじゃ) 社伝によると、江戸時代以前に大和国吉野山より勧請(かんじょう)した稲荷社で、もとは現在の新宿3丁目交差点付近にありましたが、寛永年間(1624~44年)に朝倉筑後守宣正の下屋敷となったため現在地に移転したといいます。当時は四谷追分稲荷と呼ばれたようですが、そのあと別当寺の名をとった三光院稲荷、または近くにあった尾張徳川家別邸の花園に関連して花園稲荷と呼ばれました。昭和40(1965)年に花園神社と改称、毎年暮れには酉の市で賑わいます。 ■唐獅子像(からじしぞう) 『唐獅子像』制作年代:文政4(1821)年(新宿区指定有形文化財) 文政4年に内藤新宿の氏子たちによって寄進された区内で唯一の銅造の唐獅子です。靖国通り側の(1821)参道に雄(阿形・あぎょう)・雌(吽形・うんぎょう)一対で置かれています。頭は4部分(上頭部・顔・後頭部・たて髪)に分けて鋳造し、体も胴から後足、前足、尾の3部分をそれぞれ左右に分けて鋳造したものを接合しています。石造の台座は、上段にしめ縄の浮き彫りが表現され、下段には銅板に銘文が刻まれています。それによるとこの唐獅子は、彫物師・佐脇主馬の製作した原型により、鋳物師・初代村田整珉が鋳造したもので、台座は石工本橋吉兵衛の製作です。また発願者である内藤新宿の吉田屋善三郎・尾張屋林蔵・近江屋吉右衛門、援助者の若狭屋太兵衛・東力甚蔵、世話人の嶋名屋五郎兵衛らの名前も記されています。
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田宮稲荷神社(たみやいなりじんじゃ)現・田宮稲荷神社跡
田宮稲荷神社(たみやいなりじんじゃ)現・田宮稲荷神社跡 『田宮稲荷神社跡』(東京都指定旧跡) 田宮稲荷神社は、鶴屋南北の戯曲『東海道四谷怪談』のモデルになったお岩と田宮伊右衛門が信仰したという神社です。江戸時代には幕府御先手組(おさきてぐみ)の組屋敷があったところで、御先手組同心であった田宮家の屋敷内に祀られた稲荷社を起源とします。 お岩は寛永13(1636)年に没した実在の人物で、『東海道四谷怪談』の話とは異なり、夫伊衛右門との仲は睦まじく、30俵3人扶持ちの苦しい家計を支えるために奉公に出て家を再興したといいます。その時にお岩が信仰したのがこの稲荷社で、次第に周囲の人々も信仰するようになりました。嘉永2(1849)年の『江戸切絵図』には於岩稲荷(おいわいなり)と記されており、幕末には独立した神社として信仰されていたことがわかります。明治5(1872)年頃に田宮稲荷神社と改称しましたが、明治12(1879)年の四谷左門町の大火で類焼。翌年信仰のあった歌舞伎関係者の引きもあり、現在の中央区新川に移転しました。それ以来新川を本社とし、左門町は飛地境内社(とびちけいだいしゃ)となり、小さな社殿が建っています。
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法雲寺(ほううんじ)
法雲寺(ほううんじ) ■梵鐘(ぼんしょう) 『梵鐘』制作年代:文政4(1821)年(新宿区登録有形文化財) 法雲寺第4世順意が、桝屋、長谷川氏、飯田氏、江藤氏らからの喜捨を受け、享保8(1723)年に完成した戸鋳物師・河合兵部藤原周徳の鋳造による銅造の梵鐘。 竜頭は中央に宝珠を持つ両頭式。上帯は無文、下帯は連続唐草文を鋳出。撞座は八葉複弁の蓮華文で、竜頭の長軸線上の縦帯に2個配されています。 池の間一区と二区に鋳造年や鋳物師・寄進者名などが陰刻され、また撞座のある縦帯に「南無阿弥陀仏」と陽鋳されています。 本梵鐘は、江戸鋳物師による梵鐘鋳造の減少期において、精功かつ精悍に仕上げられた竜頭や乳の形状の入念さなど、同時期の技術的特徴をよくあらわしています。江戸鋳物師・藤原周徳は宝永8(1711)年の正受院梵鐘の作者でもあります。
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追分(おいわけ)
追分(おいわけ) 歌川広重(初代)画『名所江戸百景 四ツ谷内藤新宿』(新宿歴史博物館蔵) 追分とは街道の分岐点のことです。甲州街道(甲州道中)、青梅街道の二つの街道がここから別れていました。四谷大木戸から西に向かって標高が高くなっているため見通しもよく、交通の要所となり、高札場(こうさつば)が設けられていました。徳川家康が江戸に幕府を開いたのは慶長8(1603)年ですが、翌9年に全国統制・経済交流を目的として五街道の整備を開始しました。その一つ甲州道中は、府中・勝沼などを経て下諏訪で中山道に合流するもので、三十三次の宿場が設けられました。現在の新宿通りは甲州道中の一部です。
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四谷大木戸(よつやおおきど)現・四谷大木戸跡
四谷大木戸(よつやおおきど)現・四谷大木戸跡 ■四谷大木戸(よつやおおきど) 『江戸名所図絵 四谷大木戸』(新宿歴史博物館蔵) 甲州道中の江戸出入口の関門として、元和2(1616)年この地に大木戸が設置されました。両側に石垣が築かれ、石畳を敷いています。当初は大木戸門があったといわれますが、文政12(1829)年の『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』の挿絵では見られません。 寛永13(1636)年に、四谷見附の御門が完成すると、大木戸に馬改番屋(うまあらためばんや)が設けられ、出入りする荷物を検査しました。番屋は四谷寄りにあり、突棒・刺股などを置き門番が警備に当たりました。この番屋は地元の四谷塩町3丁目の町持ちの番屋として設けられたもので、諸経費は町の費用でまかないました。しかし、寛政3(1791)年、町入用節減令が出されたため、塩町3丁目は町奉行に馬改の免除を申請し、翌年これが認められたため廃止となりました。石垣・石畳は残されていましたが、明治9(1876)年に撤去され、当時をしのぶ遺構は現在は残っていません。(東京都指定旧跡)
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田安家徳川家(たやすとくがわけ)現・田安稲荷神社・鎮護稲荷神社
田安家徳川家(たやすとくがわけ)現・田安稲荷神社・鎮護稲荷神社 徳川家御三卿(ごさんきょう)の一つです。8代将軍徳川吉宗(よしむね)の二男宗武(むねたけ)を祖とします。宗武は国学者・歌人として知られていますが、享保14(1729)年に徳川を姓とし、翌年江戸城田安門内に屋敷を与えられました。これを田安屋形(やかた)と称したため田安家とよばれます。延享3(1746)年には10万石の領地を与えられ、将軍の家族の一員として待遇されました。田安家の下屋敷がこの付近にありました。
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成覚寺(じょうかくじ)
成覚寺(じょうかくじ) ■子供合埋碑(こどもごうまいひ) 『子供合埋碑』造立時期:万延元(1860)年(新宿区指定有形文化財) 江戸時代に内藤新宿の旅籠屋におかれた飯盛女(実際には遊女)の惣墓(そうぼ・共同墓)に建てられた供養碑で、万延元(1860)年に口入れ屋の山口屋祟七が中心となり、内藤新宿の旅籠屋が建立したものです。かつて成覚寺は「投げ込み寺」と呼ばれ、年季途中で病死した飯盛女が多数葬られました。 ■旭地蔵(あさひじぞう) 『旭地蔵』制作時期:寛政12(1800)年(新宿区指定有形文化財) もとは旭町(現・新宿4丁目)の玉川上水北岸にあったため旭地蔵と呼ばれています。地蔵の座る蓮華座の下には円筒状の台石があり18名の戒名が刻まれています。玉川上水への入水自殺者を供養する目的で建立されたもので、このうち14名は7組の男女一組になっており、成さぬ仲を悲しんで心中した遊女と客の名だそうです。明治12(1879)年に成覚寺に移されました。
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自證院(じしょういん)
自證院(じしょういん) ■阿弥陀三尊種子板碑(あみださんぞんしゅじいたび) 『阿弥陀三尊種子板碑』造立時期:弘安6年 (新宿区指定有形民俗文化財) 山型の下に二条線が切り込まれ、天蓋の下に梵字で阿弥陀(キリーク)・観音(サ)・勢至(サク)の三尊の種子が蓮台を配して刻まれています。最下部に弘安6(1283)年の年紀が刻まれており、区内に現存する最古の板碑であることがわかります。
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西念寺(さいねんじ)
西念寺(さいねんじ) 家康の長男信康(家康の命により自害)の菩提を弔うために服部半蔵正成が創建した寺院です。西念寺には半蔵(1542~96)愛用の槍が奉納されています。 ■服部半蔵の槍 『服部半蔵の槍』制作時期:不明 (新宿区指定有形民俗文化財) 身(刃)は両鎬造(りょうこうづくり)、現在は全体に錆びて赤銅色となり、地金はまったく見ることができません. 穂先は安政2(1855)年の大地震の際に先端が折れ、失われています。柄は木製で黒漆塗り。身の接合部には胴製の筒金がはめられ、そのほかの部分は全体に栴檀(せんだん)を巻き、漆で仕上げられ銅金2本が付けられています。柄についても昭和20(1945)年5月空襲から避難する際に折れて約1mほどが失われ、その際に火をかぶったため半面が焼けて炭化しています。この槍は元亀3(1572)年の三方ヶ原の戦の戦功により、徳川家康より拝領したものとの伝承があり、幕末に半蔵の子孫から西念寺に奉納されました。 ■服部半蔵の墓 『服部半蔵の墓』 (新宿区指定史跡) 「鬼の半蔵」と呼ばれた戦国時代の武将服部半蔵正成(1542~96)の墓地です。家康の三河以来の旧臣で、江戸入府後は江戸城西門近くに居を構え警備に当たったといい、半蔵門の名はこれに由来します。
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牛頭天王社稲荷大明神(ごずてんのうやしろいなりだいみょうじん)現・須賀神社(すがじんじゃ)
牛頭天王社稲荷大明神(ごずてんのうやしろいなりだいみょうじん)現・須賀神社(すがじんじゃ) もともと稲荷神社で、清水谷(今の赤坂)にありましたが寛永11(1635)年に江戸外堀普請のために現在地に移転したといわれています。寛永20(1644)年、神田明神内に祀っていた須佐之男命(すさのおのみこと)を合祀し、御両社として祀るようになり、「四谷天王社」といわれてきました。明治元(1868)年に須賀神社と改称されました。「須賀」名前は須佐之男命が出雲で八俣の大蛇(やまたのおろち)を討ったという故事に基づいています。 ■三十六歌仙絵 大岡雲峰・千種有功 『三十六歌仙絵(さんじゅうろっかせんえ) 柿本人麻呂』 大岡雲峰・千種有功 『三十六歌仙絵(さんじゅうろっかせんえ) 柿本人麻呂・小野小町』 制作時期:天保7(1836)年 (新宿区指定有形文化財) 須賀神社に伝来する三十六歌仙絵で、三十六歌仙を一人一枚の絵に仕立てています。現在は額に入れられ、社殿内に掲げられています。当時画家として著名であった四谷大番町(現・大京町)に住む旗本大岡雲峰(おおおかうんぽう)(1764~1848)の絵と、和歌や書画で人気を博した公卿千種有功(ちぐさありこと)(1749~1854)の書により、天保7(1836)年に完成し、奉納されたもので、四谷の総鎮守として信仰を集めた須賀神社隆盛を物語っています。
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西迎寺(さいこうじ)
西迎寺(さいこうじ) ■阿弥陀如来座像(あみだにょらいざぞう) 『阿弥陀如来座像』制作時期:元録7(1694)年 (新宿区指定有形文化財) 定印(じょういん)を結び、蓮華座上に座る丈六(じょうろく)の銅造阿弥陀如来座像です。かつては光背を伴っていましたが現在は失われています。正面の蓮弁(れんべん)には銘文があり、それによるとこの像は元録7(1694)12月10日に完成されたもので、大檀那の旗本伏見勘七為智の寄進により、西迎寺第九世住職・信誉超入上人が造立し、作者は元禄期に活躍した鋳物師・椎名伊予守重廣と兵庫重長であることがわかります。
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長善寺(ちょうぜんじ)/笹寺(ささでら)
長善寺(ちょうぜんじ)/笹寺(ささでら) 長善寺は天正3(1575)年の開創されました。通称「笹寺」と呼ばれています。二代将軍徳川秀忠が鷹狩りの途中に休息した際に熊笹が繁る様子を見て、「笹寺」と命名したといわれています。 ■めのう観音像 『めのう観音像(かんのんぞう)』制作時期:不明 (新宿区指定有形文化財) めのう観音像は右手で玉を、左手で蓮華を持ち、般座上(いわくら)に坐る観音菩薩像です。赤めのうを材料としている点がきわめて珍しく、通称めのう観音と呼ばれています。小さな宝冠や像と一体の盤座、前後左右数条に分かれた毛髪の表現など、わずか5cmたらずの小像ながら細密な仕上がりです。容貌はまぶたや耳などに厚みがあり、豊麗で柔和な表情の中にどこか大陸風の印象も受け、明代の中国で制作された可能性も考えられます。寺伝によるとこの像は秀忠の夫人崇源院の念持仏(秀忠自身の念持仏ともいわれる)で、秀忠とゆかりのある長善寺に寄進されたと伝えられています。
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林光寺(りんこうじ)
林光寺(りんこうじ) ■高僧先達連座画像(こうそうせんだつれんざがぞう) 作者不明『高僧先達連座画像』制作時期:南北朝時代 (新宿区登録有形文化財) 浄土真宗信者の信仰があつい聖徳太子およびその侍臣、真宗系の高僧の肖像を配置した連座画像です。絵柄は中央に上から法念上人(源空)と恵心僧都源信を廃し、左右に西仏・信性・親鸞・聖覚・(不明)・法善・真仏・信空の8名の先徳を配列しています。源信の下には仏教の先達である聖徳太子をおき、その周囲に小野妹子・蘇我・馬子・日羅上人・百済博士学哿・阿佐太子・恵慈法師ら太子と縁の深い人物が取り巻く形で配置されています。各像主は大きく重なりあうように描かれ、表情は個性的です。制作年代や作者は不明ですが、絵絹(えぎぬ)の劣化具合や僧侶の袈裟等の表現、また法然が比較的下に配置されている様式からみて、南北朝時代頃の作品と推定されます。
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一行院(いちぎょういん)
一行院(いちぎょういん) ■板碑(いたび)7枚 『板碑』制作年代:各々異なる (新宿区登録有形民俗文化財) 板碑は、鎌倉から室町時代に主として関東地方で造立された板石塔婆で、秩父産の緑泥片岩(りょくでいへんがん)を使って作られる場合が多い。一行院に伝来する7枚の板碑は、完形のものは1枚もなく、一部が残存するに過ぎません。
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正受院(しょうじゅいん
正受院(しょうじゅいん) 浄土宗。明了正受院願光寺といいます。文禄3(1594)年に現在地に創建されました。開山は正受乘蓮和尚ですが、開山の由来や開基などはよくわかりません。幕末にはやった奪衣婆像が安置されているほか「針塚」という供養碑があります。毎年2月8日に行われる「針供養」は有名です。 ■奪衣婆像(だつえばぞう) 小野篁(おののたかむら)『奪衣婆像』制作年代:江戸時代初期(推定)(新宿区指定有形民俗文化財) 通称「綿のおばば」として、信仰をあつめた奪衣婆像です。咳止めや子どもの虫封じに霊験があるとされ、当時咳止め祈願の御礼参りには綿を奉納しました。 像底のはめ板には「元禄十四辛己年七月十日 奉為当山第七世念蓮社順誉選郭代再興者他」との墨書きがあり、元禄14(1701)年に正受院第七世住職選郭が修復したことがわかります。制作時期はこれよりややさかのぼるものと考えられます。 幕末に起こった事件や巷の話、瓦版の記述などを記した「藤岡屋日記」によると、弘化4(1847)年、正受院に押し入った泥棒が奪衣婆の霊力により体がすくみ召し捕られました。さらに嘉永元(1848)年12月には奉納された灯明の火が引火したのを奪衣婆自らもみ消したという評判がひろがり、翌嘉永2年春にかけて参詣人が群集し、大いにはやったそうです。しかし、あまりにはやりすぎたため寺社奉行の取り締まりが行われ、それ以後は正月と7月16日しか参詣が許されなくなりました。
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水道碑記(すいどういぶしみのき)
水道碑記(すいどういぶしみのき) ■水道碑記(すいどういぶしみのき) 玉川上水開削の由来を記した記念碑。この場所に玉川上水の水番所があったことを記念して建てられました。西座真治(にしざしんじ)(履歴・建立の動機等は不明)が発起人となり、篆字を徳川家達、撰文を肝付兼武、書を金井之恭、刻字を井亀泉が担当し、明治18(1885)年に碑が完成しました。しかし真治が急逝したため計画は一時中断し、10年後の明治28(1895)年に真治の妻の努力により、現在地に建てられました。玉川上水は江戸市中の飲料水や武蔵野の農業用水を確保するため、承応2(1653)年に開削したもので、江戸の町人庄右衛門・清右衛門兄弟に幕府が請け負わせ、兄弟はその功により玉川の姓を許されたと伝えられています。上水は多摩川中流の村に堰を設けて取水し、四谷大木戸水番所まで約43kmは堀割で、水番所から江戸市中へは石樋(せきひ)・木碑(もくひ)を地下に埋設して給水しました。 ■四谷図書館(指定管理者:紀伊國屋書店・ヴィアックス共同事業体) 「地域に密着した図書館」をミッションにかかげ、四谷地区の諸団体と連携し、地域資料や情報を収集整理し、広報紙の発行をはじめとする情報発信を行っています。また四谷地区教育機関とともに読書活動の啓蒙を行っています。地域の課題解決のためにレファレンスにも力を入れています。電話:03‐3341‐0095 開館9時から21時45分まで(日・祝日は18時まで)。毎週月曜(祝日の場合は火曜)、第2木曜、特別図書整理日、年末年始は休館。
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内藤八ツ房とうがらし(ないとうやつふさとうがらし)
■内藤八ツ房とうがらし(ないとうやつふさとうがらし) 江戸時代、各大名は敷地内を畑作化することで野菜の自給自足体制を整えていました。内藤藩では下屋敷でとうがらしやかぼちゃが作られました。このとうがらしの品種は「八ッ房」といい、房が丸く上に向かって成長します。秋になると内藤新宿から大久保方面に真っ赤な絨毯を敷き詰めたような光景が見られたそうです。文政7(1824)年に出された江戸およびその近郊の農作物が記録された『武江産物志』に内藤宿の特産物として「番椒(ばんじゃ)」が紹介されています。この「内藤とうがらし」を復活させようと、地域住民によって運営されている四谷地区協議会では、スローフード江戸東京(現・おいしい水大使館)の協力のもと、平成22年度より活動が進められています。夏から秋にかけて四谷地区内で内藤とうがらしを見ることができます。
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策の池(むちのいけ)
策の池(むちのいけ) ■策の池(むちのいけ) 『四ツ谷伝馬町新開遊覧写真図』(明治時代、新宿歴史博物館蔵) 美濃高須藩松平摂津上屋敷の庭園内で策の池(むちのいけ)と呼ばれ、後に公園となりました。その源泉は策の滝(津の守の滝)として、明治の中頃まで滝見の人でにぎわい、東京名物に数えられました。策の池(むちのいけ)の名は徳川家康が鷹狩りで策を洗った伝説からで、現在は地元が津の守弁財天を祀っています。通称かっぱ池ともいわれています。