高遠城下町絵図 [元禄10年(1697)]

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城下町全戸の戸主、間口、公課(役務)などが記載された絵図。
高遠町民俗資料館旧池上家に収蔵、展示されています。

update date: 2023.07.11

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Number of spots : 31spots

  • 鉾持神社(ほこじじんじゃ)

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    ■鉾持神社 鉾持神社 高遠城の守護神として代々の領主のあつい信仰を受けた神社です。この神社の起源は、奈良時代、養老5年(721)にさかのぼると伝えられます。諏訪国の国主、小治田朝臣宅持が伊那郡笠原に城館を築き、城の北北東の山へ武運長久、国土安全を祈って、伊豆・箱根・三島の三社を祀り、神祠を建立たといわれます。鎌倉時代に社が東高遠の北村に移されましたが、元暦元年(1184)さらに東高遠若宮に移り、文治元年(1185)、さらに現在地に移ったといいます。この折に整地作業で霊鉾が発掘されたので、以来この鉾を御神体として祀り、鉾持三社大権現と称しています。 □赤門と透かし塀 拝殿前に立つ赤門と透かし塀は、本殿が焼失した明和三年(1766)の火災を免れて残ったといいます。赤門は控え柱のある腕木門で、様式から元禄期(1688~1703)の建築とされ、大工技術の高さがうかがえます。

  • 建福寺

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    ■建福寺 会津藩祖保科氏の菩提寺です。高遠石工 守屋貞治(もりやさだじ)の六地蔵、三十三所観音が有名で、石仏の寺ともよばれます。 建福寺 □縁起・歴史 鎌倉時代に鎌倉の建長寺を開山した大覚禅師がこの地にやってきて鉾持山乾福寺を開創したのに始まり、南北朝の頃に最も栄えたと伝えられています。建長寺の建立も担った大工・職工集団、池上氏がこの地に移り住み、建福寺や高遠の街の建設に寄与したといわれます。高遠町図書館付近の番匠(ばんしょう)地区はこうした大工・職工集団が住みついた地域です。資料としては永禄年間(1558-1570)の記録が最も古いものです。その後、武田勝頼が天正7年(1579)駿河国清見寺住持東谷禅師を招へいし、中興開山したので、勝頼が中興開基とされます。後に保科氏が菩提寺とし、大宝山建福寺と改称されました。寺は何度か火事に遭い、庫裏は嘉永5年(1852)、本堂は文久2年(1862)に再建されたものです。 □中観音左右竜虎図(なかかんのんさゆうりゅうこず:非公開) 狩野興以(かのうこうい:?-1636)の描いた大作です。中幅が白衣観音で、左右に竜虎を配した三幅の掛け軸になっています。中幅の観音は岩壁の上にあぐらをかいていて、白衣をまとい、慈愛に満ちた表情をしています。それに対して、左右の竜虎は鋭い目つきでにらみつける虎と、空中から下りくる竜と、まさに対照的です。昭和25年国の重要文化財に指定されています。 中観音左右竜虎図(非公開) □保科家の墓 本堂の西に3基の大きな石碑があります。 これは元禄2年(1669)会津松平家の手によって再建されたもので、中央に保科正直、左が正光の墓標で、 右のものが正直の母の墓として会津藩で建てていますが、墓に刻まれている戒名は武田勝頼の母のものに なっています。 □勝頼母の位牌 武田勝頼の母は諏訪頼重と側室の小見(麻績)氏の娘で諏訪御寮人と表記されます。信玄が諏訪氏を滅ぼした時、14歳で武田信玄の側室になり19歳で勝頼をうみました。弘治元年(1555)に亡くなっていますので、建福寺開基後にこちらに墓を移したのかも知れません。 □仏足石 この、仏足石は天保6年(1835)2月に、浅間山金剛証寺の仏足石を模写し建てたものです。我が国最古のものとされる奈良薬師寺様式でつくられています。かたわらの歌碑には、仏を礼賛した仏足石歌二十一種が刻まれています。碑の裏には造立目的などが記されていますが、幕末の大変な時で、「国土の豊楽期せずして来たり、内外の災殃襄わずして去らんことを」と記されています。

  • 満光寺(まんこうじ)

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    ■満光寺(まんこうじ) 満光寺 この寺は天正元年(1573)浄土宗の岌往上人(ぎゅうおうしょうにん)によって開創されました。一時・浄土寺(じょうどじ)と改称されましたが、享保17年(1732)より満光寺にもどりました。このため、元禄10年(1697)絵図には浄土寺と記されています。元禄以後は、城主内藤家の菩提寺となりました。元文4年(1739)に再建したときに、善光寺になぞられて、本堂、山門には科(しな)の木を用いたので、「伊那善光寺」「信濃の科寺」などとも呼ばれます。京都総本山知恩院の直末、録所として触頭職を与えられ宗門を支配し、多数の末寺を有してきました。 □極楽の松庭園にある樹齢数百年の古松は「極楽の松」と言われています。この松を一目みるだけで、極楽往生出来ると言われています。 □保科左源太の墓高遠城の藩主保科正光(1561-1631)には子供がいませんでした。甥の左源太に家督を継がせるつもりで、養子にしましたが、後に徳川二代将軍徳川秀忠の側室の子、保科正之(徳川家光の腹違いの弟・会津松平藩祖)を養子にすることになました。このため、正光は左源太の処遇に頭を痛めたのですが、左源太は正光より早くこの世を去りました。左源太の五輪塔は高遠にある五輪塔のうち、銘があるものとしては一番古い五輪塔です。 □桧水井跡高遠三名水の一つである檜水(ひのきすい)の井戸(いど)がありました。城下町に貴人(きじん)の訪れたときには、この檜水(ひのきすい)をもって茶をたて接待(せったい)することをならわしとしていました。また別名を福寿水(ふくじゅすい)とも称して「常飲(じょういん)することによって長命(ちょうめい)を保ち、福を授(さず)かる」とされ、大切にされていいましたが、明治の大火の折、埋没(まいぼつ)してしまいました。 □阿弥陀如来立像この仏像は寺伝によりますと、鎌倉時代に生きた工藤祐経(くどうたすけつね)の子犬房丸(いぬぼうまる)が伊那に配流になったときに持参した工藤家の守り本尊だと言われています。寺の古文書には鎌倉時代の有名な仏師、快慶の作だと記されています。 □内藤家の墓所元禄4年(1691)幕府の命により内藤清枚(きよかず)が高遠に移封され3万3千石を与えられました。以後、8代180年にわたって高遠を内藤家が治めました。ここには内藤家の人びとの「奥つ城」があります。

  • 鐘楼門

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    ■鐘楼門 鐘楼門 梵鐘(昭和17年頃) ■満光寺鐘楼門豪壮を誇った満光寺は明治32年(1899)に花火がもとで灰燼に帰しましたが、この鐘楼門だけは難を逃れました。鐘楼を兼ねた山門で、延享元年(1745)、三州長篠の住人の作といわれています。中には元文4年(1739)に松本の鋳物師が鋳造した鐘がありましたが、太平洋戦時中に供出され、代わりに門の安定を保つために石が吊るされていました。現在、その石は門の左端に置かれています。昭和40年(1965)に立派な鐘を復元することができました。

  • 高遠警察の外壁タイル

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    ■高遠警察の外壁タイル 高遠警察署(昭和47年) 高遠警察は、昭和47年(1972)に高遠警察署は伊那警察署に統合され、伊那警察署高遠幹部警察官派出所となり現在地(殿坂)に移動するまでは、高遠町の入口、高遠駅の隣にありました。この当時の警察署(昭和9年建築)の外壁には、諏訪の片倉館や伊那の上伊那図書館にも使われている、高遠の陶器工場、丸千組のスクラッチタイルが用いられ、大正-昭和初期に普及し始めたモダンな外観の建物でした。

  • 袋小路跡

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    ■袋小路 江戸時代の城下町の中には街の防御のために行き止まりの「袋小路」が作られていました。高遠の城下町にも、袋小路があり、その地区は袋町といいます。 その袋町がいつから袋町でなくなったのか、「いてふ屋資料」の日記手比加恵によると、天保5年(1834)6月の記録に: 「一.六月町方道幅定まる。但し本町を通り雨落とを、幅四間、中溝に成る、但し裏町は三間幅、鉾持町より袋町へ往来の道できる。尤も幅四尺、平日は詰切り、小松屋米蔵と藤屋八百右衛門の間へ開き其の東側にて惣方融通」 と書かれていますので、袋町から鉾持町へ通り抜けられるようになったのは、天保5年(1834)6月ということがわかります。

  • 民俗資料館 池上家

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    ■商家 池上家 商家 池上家 池上家は文禄年間(1592~1596)に瀬戸物や小間物を商い、その後、酢や醤油の醸造販売も行ないながら、代々町問屋、名主を務めた家です。建物は商家として町内で最も古く、近世の典型的な商家として貴重なものです。所蔵されている古文書も多く、中には伊能忠敬の高遠測量時の資料などもあり、高遠町の生き証人ともいえます。現在は、民俗資料館になっており、中を見学できます。JR高遠駅(バス停)の観光案内にご相談ください。

  • 鍵の手

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    ■鍵の手 古地図上では、建福寺前と建福寺からの道が本町通りを越える場所の2か所に鍵の手がみられます。建福寺前の道は現在は緩やかに蛇行するように形成されていますが、暗渠となっている水路が、ここで「鍵の手」に直角に曲がっている様子は今も見ることができます。「鍵の手」は、袋小路などと同じで、敵の軍勢の進行をおくらせ、城下町を防御するための構造です。鍵の手に水場などの一般生活や庚申塔などの宗教施設を組み込んでランドマークになっていることも多くあります。景観的にもアイストップ(視点を止める)になるため、町並みがより奥深く、印象深い空間になっています。

  • 二十二夜様

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    ■二十二夜様 二十二夜様 西高遠の天女橋の手前にあります。いかにも神のよってきそうな岩に、延命地蔵菩薩や如意輪観音像などいくつもの石仏が置かれています。中央の高いところにある格子戸の御堂の中に「二十二夜」と文字を刻んだ自然石があります。御堂の中においでの貞治が彫ったお地蔵さんは本当に優しいお顔です。ここでは、今も二十二夜様の祭りが行なわれていて、7月22日の月の出を待って、願をかけ、「お立ち待ち」と称して、月が出るまで立ちつくします。高遠の住人には今も信仰の心が受け継がれているのです。

  • だるま市

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    ■だるま市 だるま市 鉾持神社で旧暦正月14日(現在は2月11日)に作物が豊作であるよう、五穀豊穣を祈る祈年祭りがあります。14日市と呼ばれ、年の最初に催されるお祭りで、各地から集まった農家が作物の種を交換したといわれます。いつしか参お道に縁起物の「福だるま」の露店が並ぶようになり、現在では「だるま市」と呼ばれるようになりました。

  • 丸千組跡

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    ■高遠焼窯業:丸千組 丸千組 かつてはここに窯業の会社がありました。農業の余暇に陶業を研究し、製糸用の陶製鍋を制作したのが始まりです。これが製糸の繰糸に適していると評判になり、明治19年には工場を設け、その後、朝日村(現:辰野町)の陶工・橋本関蔵・林豊治郎・小松辰治郎の三氏と共同経営にして丸千組が組織されました。瀬戸や多治見の新技術の導入により、高遠の産業として発展し、最盛期には8本の登り窯を構えました。昭和の初めになると、普及し始めた鉄筋コンクリート造り建物用の外壁タイルを製造しはじめました。きっかけになったのは、上諏訪の片倉館(昭和3年1928)、旧上伊那図書館(現:伊那市創造館 昭和5年1930)の外壁スクラッチタイルで、東京工科学校から技術者を招きこれを開発しました。いずれも森山松之助が設計した建築物で、今も現存しています。また、高遠にも高遠閣の玄関床・旧河南(かなみ)役場の外壁などとしての残され、今も見ることができます。現在の丸千組跡地には新しく住宅が建ち並び、当時の面影は残されていませんが、町内のあちらこちらには、陶製糸取り鍋が、石積みや植木鉢として使われているのを見ることが出来ます。

  • 駒せり場跡

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    ■駒せり場跡 高遠公園にて最後の馬市(昭和31年8月) 伊那谷は奈良時代から続く馬の産地であり、高遠藩も生産育成に努力しました。高遠藩の駒せり場には、間口一四間(25㍍40㌢)、奥行十間(18㍍20㌢)の小屋があり駒せりが行われました。また同時に、領内の農家で生まれた仔馬の検査などを行い、駒せりは三才馬で毎年三月に行われたのです。町の名はセリ町と呼ばれていましたが、慶応2年(1866)に梅町と改名しました。戦後の高度成長が始まるまで、馬は農耕、運輸等に大変重要なものでした。馬市は、高遠城址公園に場所を移し,昭和31年(1956)まで行われていました。

  • 郵便局

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    ■郵便局  現在、島村利正の小説碑が建てられています。 「城址のある町」の冒頭自筆原稿が彫られています。

  • 高遠城下町

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    ■高遠城下町 たかとほは山裾のまち古きまちゆきあふ子等のうつくしき町                  田山 花袋 (大正5年/1916年8月) 高遠の町は山裾に広がる城下町です。古い町屋の建物のわずかに残る白壁と黒鉄色の瓦に統一された町の真ん中を通る国道361号線が昭和年に拡幅され、 ■下屋造り/切羽造り  西高遠は、平地が比較的少ないので、町の中では川にせり出すように家々が建てられています。 川岸や崖状のところなどに崖造りした家では、家の床下にも部屋を設けています。

  • 牢屋跡(ろうやあと)

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    ■牢屋跡(ろうやあと) 元禄時代にはここに牢屋があったことがわかります。

  • 高遠石工 守屋貞治の六地蔵、三十三所観音

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    ■高遠石工 守屋貞治の六地蔵、三十三所観音 建福寺山門前の石段のかたわらに、江戸時代の名工・守屋貞次(1765-1832)が彫った六地蔵、三十三所観音が安置されています。三十三所観音は、西国三十三ヶ所の観音霊場(紀伊国那智山青岸渡寺~美濃国揖斐郡谷汲山華厳寺)の寺の本尊が収められています。経典や儀軌に基づきながら、形式的にならず、写実的な表現で個性的であり精神性も感じられる貞治の石仏は高遠の各所に今も見られます。彼の足跡は、信州一円はもちろん関八州、東海、遠くは山口までおよび、その石仏が残されています。 □昔の面影の残る小道 三十三所観音を見ながら、鉾持神社前までの山際、昔の面影をたどり、高遠の街を見渡しながら、かつて「かさんどう」とよばれた道の散歩はいかがでしょう。ここは昔「笠ぬぎの里」と言っていました。昔ここに白山権現がまつられていた頃、その前を笠をぬがずに通ると笠を取られて、とがめがあったことから名付けられたといいます。また、建福寺門前から大通りまでの小路は幕末から昭和初年まで「近江屋小路」といいました。建福寺前には、今も昔の鍵の手の形のままに残る水路の様子などを見ることができます。

  • 初めて通った電話線

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    ■高遠初の電話線 高遠に初めての電話線(大正五年頃)  大正5年(1916)に高遠に電話線が設置されました。 現在もこの場所に、NTTの交換所が設置されています。 ちなみに、並行して走る電線は大正2年に地元有志により設立され、戸台発電所を建設、地域に電灯を灯した高遠電灯株式会社がひいたものです。

  • 高遠劇場跡

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    ■高遠劇場 高遠劇場 かつての桜町は、三味線の音も流れる高遠の繁華街でした。ここには映画や演劇を見せる「高遠劇場」がありました。

  • 読書楼

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    ■読書楼 武家屋敷の面影を残しているこの建物は、藩校・進徳館の師範代で、幕末には藩の郷代官も勤めた北原安定(やすさだ)の家です。明治8年(1875)私塾を開き、讀書楼(どくしょろう)と名付け、漢籍(かんせき)、経書(けいしょ)、西洋史、国史などの教授を行っていました。この塾は明治30年(1897)まで続きました。高遠藩には、江戸時代以来、進徳館に連なるこのような私塾が多くありました。読書楼は開塾の期間も長く、組織もよく整っていて高遠私塾の代表的な所です。

  • 武家屋敷跡

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    ■武家屋敷跡 清水町の北、満光寺の東方を、組屋敷として比較的身分の低い藩士を住まわせて 杖突街道から城下町に入る人や物資の監視をしていました。現在、組屋敷の通りは当時の様子を思わせるような小路が今も見ることができます。

  • 燈篭祭

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    ■燈籠まつり(とうろうまつり) 燈籠祭(昭和25年) 燈籠祭(平成22年) 9月23日には豊作と無病息災を感謝する灯籠まつりが開かれます。各家が笹竹にほおずき提灯を灯し、町全体が幻想的な朱の光に満たされます。その中を各町内ごとにそろいの花笠、はっぴ姿で三味線や笛太鼓で「高遠ばやし」を奏でながら練り歩く姿は、江戸の粋を感じさせます。また、昼間には、高遠ばやしとともに2台の山車(屋台)が紅白の綱に引かれて運行します。このうちの1台、仲町の山車は文政5年(1822)に大工の宮下氏が造ったもので、諏訪の名工立川氏の彫刻が見事な装飾となっています。2台の山車は高遠歴史博物館に常設展示されています。 ■高遠ばやし 高遠ばやし 近年の高遠ばやし 毎年9月23日に行われている、「灯篭祭り」に町内を巡回します。高遠ばやしの故事来歴は不明ですが、各町内がそれぞれ「松ばやし」「傾城ばやし」などの曲を持っています。往路はテンポの緩い「本ばやし」、帰りはテンポの速い「帰りばやし」が演奏されます。地域の音が薄れてきていますが、高遠には独自の音楽が現在に伝承されています。

  • 米高岩

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    ■米高岩 米高岩(昭和45年) 米高岩(こめだかいわ)といって、昔の人びとは川の水量をこの岩ではかり水位の高いときは、水害で米が獲れず、米の価格が高くなるといい伝えていました。

  • 大島二番井(六道二番井)

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    ■大島ニ番井(六道ニ番井) 御馬行橋(昭和30年) 安政4年(1857)に高遠藩は、農業用水のために、伊東伝兵衛に大島二番井の掘削を命じています。このニ番井は高遠町の御馬行橋(おやらいばし)下で藤沢川を堰き止め、高遠の街中を地下で通し、鉾持桟道下の断崖を通過して現在の美篶方面へ水を引いていました。しかし、水量が少なく当初の計画地域まで水を引くことはできませんでした。その後、慶応2年(1866)に現在の高遠ダムのあたりから三峰川の水をひき入れ、高遠城の断崖の下を導水して、藤沢川の取り入れ口に合流させ水量を補給しました。この井筋は現在では使用されていませんが、御馬行橋(おやらいばし)下にある取り入れ口はコンクリートで止められていますが確認することができます。また、池上秀畝の高遠城絵図に描かれている高遠城崖下の三峰川沿いの水路もその跡を対岸から見ることができます。

  • 高砂町

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    ■高砂町 高砂町拡張工事前(昭和31年) 現在の高砂町は、昔は下り町(さがりまち)とよばれました。当時は、今より急坂で、橋も、もっと低い位置にありました。高藩探勝絵巻を見るとその様子がよくわかります。高砂町(たかさご)と改名したのは慶応元年(1863)です。

  • 西の枡形

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    ■西の桝形 城下警護と防衛のため、この沢の橋(長さ4㍍24㌢、巾3㍍32㌢)の手前に広い空地を設け周りに石垣を築いて枡形とし、備えていました。橋を渡ると高札場(こうさつば)があり、そこから西の方には、南側の方だけに家屋があったことから片羽(片端(かたは)町といわれていました。 □鉾持神社 社地崩壊 明治18年(1885)7月昼12時、突如として鉾持神社に大きな山崩れが発生しました。神社額堂と本社石段の間より抜け出した泥水は、片羽町と鉾持横町との境から三峰川まで押し出ています。この当時警察署は枡形のあったところにあり、警察署にあった半鐘も押し流され、今も発見されていません。

  • 郷宿 松田屋跡

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    ■郷宿 松田屋跡 松田屋 この宿には、明治37年(1904)南アルプスを踏破中の日本アルプスの父、英人ウエストンが投宿しました。高遠を訪れた多くの名士もこの松田屋に宿泊しています。江戸時代の郷宿で、中に入ると、家紋を染めた紺ののれんのなどがありましたが、昭和58年(1983)火事により焼失してしまいました。 □ウェルター・ウェストン 日本アルプスの命名者で英国の宣教師であり、登山家です。高遠には明治25年(1892)に初めて宿泊し、その年に赤石山脈を踏破して、南アルプスと名付けています。最初に泊まった晩は、満員で宿が取れず、警察にたのんで、商人の家にようやく泊まることができたといいます。

  • 津止番所跡

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    ■津止番所跡 高遠城下町には、鉾持口、島畑口、清水口に津留番所があり、通行人の検問のほか一定の期間内、米が町に出入りするのを厳重に検査しました。この検査の基準となる条目が定められ、延享二年(一七四五)各番所へ出されています。ここは三つの番所のうち「島畑口」の番所跡です。

  • 高遠町図書館

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    ■高遠町図書館 高遠進徳図書館及び美術館 この図書館の前身は2館あります。一つは、明治41年(1908)創立の「高遠図書館」。この図書館は、高遠小学校職員が主体となり、同窓会、青年会と連絡し、町内一般有志と高遠出身在京者と連携して館友を募りました。  もう一つは「高遠進徳図書館及び美術館」。こちらは大正元年(1912年)伊澤修二が中心となり、内藤頼助(内藤家嗣子)を委員長として、高遠出身在京者によって企画され、郷土文化開発の為に広く縁故者に賛同してもらい設立されました。その後2つの図書館が大正9年(1921年)7月に併合し町立高遠図書館が誕生しました。大正9年(1910)に発足より昭和初期まで続いた図書館は、第二次大戦中は図書購入も出来ない状態になり活動は停滞しました。その後、昭和61年10月に文化センター併設の図書室が出来るまで高遠町図書館には空白の時間があります。

  • 高札場跡

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    ■高札場跡 藩政時代法度、禁制、重要犯人の罪状など大事な通達は板札に書いて人通りの多い目立つ場所に高く掲示していました。ここは城下町の中心で人馬の往来も頻繁、問屋の前で重要な所です。高札場は他にも城下町入口の西の枡形手前にありました。

  • 問屋役所

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    ■問屋役所(とんややくしょ) 問屋門(昭和15年頃) 近世高遠藩の中心地「問屋役所」のあった所で、屋敷は間口四六間四尺(二十四㍍八十㌢)、奥行四十六間五尺(八十五㍍十㌢)あったといいます。問屋の門は城址公園二ノ丸から本丸に入る桜雲橋のたもとに移築されています。 この役所には、一人の問屋役と二人の町名主が一ヵ月交代で勤めており、これを町方三役人と言っています。 公用の荷物、宿泊、人馬の継ぎ送りは、町内の伝馬役、人足役の者が当たり、この荷物、人馬は上りは四日市場宿、栗田宿まで、下りは伊那部宿まで届けていました。伊那街道から甲州街道に通じる高遠城下町の問屋は、他の宿場町の問屋と異なり、前記の仕事だけではなく町民や地方農民からの陳情などを藩に取りつぐ中間連絡や町政も勤め、町方行政の最高機関でありました。

  • 蓮華寺

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    ■蓮華寺 蓮華寺ははじめ長遠寺といって、高遠から杖突峠(つえつきとうげ)に向かう途中の藤沢郷(現:藤沢区)の北原にありました。延文5年(1360)に妙顕寺三世の大覚大僧正妙実上人により開創されたといいます。保科正之の父である正直が高遠城主だった時、城下のセリ町(現:梅町)に寺を建立し、正之が母の墓を建てて菩提寺としました。その後、慶安4年(1651)に当時の城主鳥居忠春の寄進により現在地に移転しました。 □七面堂 本堂後法の丘にあります。 城主鳥居忠則が延宝8年(1680)に、徳川幕府4代将軍家綱の位牌堂を建立し、 後に日蓮宗総本山の身延山:久遠寺の総鎮守である七面明神を祀って名を七面堂と改めたといいます。 □絵島の墓 正徳4年(1714)に大奥御年寄、絵島は将軍家宣の命日に月光院の名代として芝の増上寺へ代参しました。その帰りに一行は絵島が馴染みにしていた俳優生島新五郎のいる山村座へ繰り込んで芝居見物をして、刻限に遅れて帰城しました。これが、問題になり絵島は一度は死罪になりましたが月光院の口添えにより高遠藩へお預けとなりました。絵島が仕えた将軍の生母月光院と前将軍の正室であった天英院との派閥抗争の犠牲になったともいわれます。その後、絵島は寛保元年(1741)高遠花畑の囲み屋敷で61年の生涯を閉じました。遺体は遺言によって蓮華寺に葬られ、墓は本堂裏七面堂東に安置されています。 絵島囲み屋敷は、高遠歴史博物館内に復元され、見学することができます。 高遠町歴史博物館: 0265-94-4444開館9時~17時(入館16:30まで) 毎週月曜・祝日の翌日・年末年始は休館