人と暮らしの伊那谷遺産マップ

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伊那谷には美しくも厳しい自然風土の中で、土木のものづくりを工夫して生活を営んできた先人の足跡が多く残されています。
土木ものづくりを振り返ることで先人が向き合ってきたことを再確認し、継承していくことは、地域の皆さんが地域課題を一つひとつ克服していくうえで役立つものと考えました。
天竜川上流河川事務所が進める治水・河川管理等の取り組みについて、これから先人の営みを踏まえて整理し、発信していくことで、防災や地域振興をより効果的に支援していきます。

・国土地理院使用番号:この地図制作にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を使用しました。
(承認番号:平成25情使、第72‐GISMAP31128号)

update date: 2024.03.19

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Number of spots : 108spots

  • 天龍村の霜月神楽(大森山諏訪神社)

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    ■天龍村の霜月神楽(大森山諏訪神社) (てんりゅうむらのしもつきかぐら) 命を蘇らせる春迎えのお祭り 毎年正月の1月3日から5日にかけ、向方(むかがた)地区(天照大神社 お潔(きよ)め祭)、坂部(さかんべ)地区(諏訪神社 冬祭)、大河内地区 (池大神社 例祭)で行われる冬祭り。いずれの祭りもかまどを築いて湯をたぎらせ、それを神々に献じてから人々に振りかけて魂を清め、同時に神歌をうたい、あるいは舞をまうという湯立(ゆだて)神楽の形式をとどめており、祭り全体から水の神聖さが伝わる。水を利用した神事は、様々な水象現象に繋がる。1978(昭和53)年、国重要無形民俗文化財に指定された。3地区のうち坂部は、仮面の舞など豊富な内容をもっている。 ◇冬至と霜月神楽 神楽は、本来、旧暦霜月の冬至の前後に夜を徹して行われた。冬至は、太陽の死と再生を想起させ、すべてが再生する重要な節目とされた。聖なる湯を沸かし浴びる天龍村の霜月神楽は、生命のよみがえりを願って行われる。 ◇神楽の特徴 天龍村・霜月神楽の特徴は二つある。一つは、湯立を厳粛に、くり返し行う点、もう一つは、湯立が特定の職掌だけでなく、集落をあげて大規模に行われる点である。

  • 雪祭

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    ■雪祭 (ゆきまつり) 雪は豊年のしるし 新野(にいの)の雪祭は、雪を稲穂の花にみたて、大雪(豊年)を願う祭り。祭り当日に雪が降ると豊年になるといわれ、新野に雪がないときであっても、離れた峠から雪を準備し、神前に供える。伊豆神社境内で行われ、田楽(でんがく)・舞楽・神楽(かぐら)・猿楽、田遊びなどの日本の芸能絵巻が徹夜で繰り広げられる。雪(水)への祈りは、豊年願いのほか、様々な水象現象に繋がっている。1977(昭和52)年、国重要無形民俗文化財に指定された。 ◇「雪祭」の命名 国文学者・歌人である折口信夫(おりぐちしのぶ)は、「雪祭」の命名者といわれ、全国に「日本の芸能を学ぶものは、一度見る必要のある祭り」と紹介した。 ◇祭りのオープニング 祭りは、見物人たちが薪などの棒で庁屋(出番を待つ支度部屋)の壁を叩き、「ランジョウ(乱声)、ランジョウ」と呼びかけることから始まる。悪霊を鎮める作法だったといわれている。

  • 善知鳥峠

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    ■善知鳥峠 (うとうとうげ) 伊那谷から松本平へ通じる峠 霧訪山断層の断層鞍部に位置する峠。太平洋側の伊那谷と、日本海側の松本平の中央分水嶺になっており、峠には分水嶺の碑もある。江戸時代から明治の初期までは、中馬街道の発着点の松本と飯田を結ぶ伊那街道の峠として人馬の往来で賑わった。そのため峠から北小野にかけての地区内には、馬の供養や安全祈願のために建てられた石の馬頭観音が非常に多い。 ◇うとうの語源 うとうの語源は、海鳥や能の善知鳥によるとの説がある。また、昔は峠の北側が急傾斜で、堀割り場であったので、地形による空洞(うとんぼ)であろうともいわれている。 ◇気象の違い 善知鳥峠は塩尻峠と同様に、分水嶺にあたることから、太平洋側の伊那谷と日本海側の松本平とでは気象が大きく異なる。特に、伊那谷側は雨が多いため、壁の際(きわ)に「しぶけ除け」と呼ばれる腰板を張り巡らした家も見られる。

  • 地蔵峠

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    ■地蔵峠 (じぞうとうげ) 武田信玄 三河進攻の峠 中央構造線の断層鞍部に位置する峠。標高1314m。大鹿村の青木川と飯田市の上村川の分水嶺となっており、古くから秋葉街道の中の難所の峠の一つだった。古くは「遠山峠」とも呼んだ。名前の由来となった地蔵は、元々は峠の南にある「堂屋敷」地籍に安置されていた、4基のうちの2基を大正時代頃に相次いで、この峠に移転したものという。 ◇歴史の中の秋葉街道 南北朝時代、南朝の皇子宗良親王(むねよししんのう/むねながしんのう)が地蔵峠を越えて、南の駿河地方に往来していたといわれる。また、戦国時代、武田信玄の軍勢が峠越えをして駿河方面に通り抜けたという軍道でもあった。 ◇塩の道 秋葉街道は、伊那市高遠から分杭峠、大鹿村、地蔵峠を越えて上村川や遠山川に沿って遠山谷を縦走している。太平洋沿岸産の食塩が、信州に入る重要な「塩の道」でもあった。

  • 牛首峠

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    ■牛首峠 (うしくびとうげ) 街道沿いの古い街並や石仏が往事をしのばせる 霧訪山断層の断層鞍部に位置する峠。昔、長者ヶ平の屋敷に住む娘が若い僧と恋仲になり、底無し沼に身を投じて命を落として以来、お供していた牛が暴れるようになったため、その首を落とし峠の中腹に葬った、というのがこの峠の由来といわれている。古くは、大久保長安により1616(元和2)年に整備された初期中山道(小野街道)でもあった。峠近くの前山には、当時築かれた江戸より60里の一里塚が1基現存する。 ◇小野街道 五街道の制により整備された。下諏訪宿から塩尻峠・洗馬を通らずに、岡谷から小野峠を越えて小野を通り、牛首峠を経て木曽の桜沢・贄川に至る街道。木曽谷の山林開発を促進する目的で、勘定奉行の大久保長安により開かれたといわれている。 ◇大久保長安(ながやす/ちょうあん) 徳川初期に幕府の勘定奉行として、軍政・財政・民政の各面で敏腕をふるった。佐渡金山開発などでその名を天下にとどろかせていたが、慶長18年(1613)に死去。その後、数々の不正があきらかとなり、大久保家は改易(士分以上のものの籍を除いて、その家屋敷等を没収すること)された。

  • 羽衣崎橋

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    ■羽衣崎橋 (はごろもざきばし) 自然美と調和した大アーチ 天竜川の名勝「羽衣崎」は、平岡ダム湖の湖面となる地にあり、山紫水明の渓谷の自然美と調和したニールセンローゼ形式が採用されている。平岡ダム湖岸道路開設事業の一環として1974(昭和49)年に完成。県最南端地域の生活を支える重要な道にある。 ◇ニールセンローゼ形式 ニールセンローゼ形式とは橋の形式の一つで、大アーチ部と路面部の桁を斜めのケーブルで結ぶのが特徴。斜め材がその姿を主張しすぎないため、背景の見通しがよく自然に溶け込むような印象を与える。 ◇山紫水明の渓谷美天竜川に遠山川が合流する場所にあり、天竜奥三河国定公園内に含まれる。豊かな渓谷景観に恵まれ、春は桜、秋には紅葉が楽しめる景勝地である。

  • 天竜橋

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    ■天竜橋 (てんりゅうばし) 車が走らない県道の吊り橋 長野県が管理する唯一のつり橋。天竜川右岸から秘境の無人駅JR飯田線為栗(してぐり)駅に通じる歩行者専用のつり橋である。駅前まで車は入れないが、駅前が県道為栗和合線の起点であるため、県道となっている。信濃の橋百選に選定されている。 ◇名所「信濃恋し」 天竜橋が架かる場所は、天竜川が和地野(わちの)川と万古川とが十字合流し、大きく蛇行している。急流で筏が上流へ押し戻された伝説から、「信濃恋し」といわれる名所となっている。 ◇為栗駅と天竜橋 為栗駅は1936(昭和11)年8月開業。天竜橋が最初に架けられたのも、その当時とみられている。現在までに2~3回、架け替えや修繕が行われている。

  • 南宮大橋

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    ■南宮大橋 (なんぐうおおはし) 中州を挟んだ二つの橋から巨大斜張橋へ この地は、古くは南宮峡と呼ばれる景勝地で観光船が発着するほど賑わっていた。1897(明治30)年に左岸の泰阜村温田(ぬくた)地区、右岸の阿南町御供(おども)地区が、中州(中ノ島)を境にそれぞれ木橋とつり橋の二つの橋を架けた(私設有料橋)。1951(昭和26)に南宮2号橋が架け替えられたが、同じ年、下流に平岡ダムが完成し、堆砂により河床が上昇した。1983(昭和58)年の台風災害では、冠水し阿南高校の生徒が帰宅困難となるなどの被害が出た。1995(平成7)年6月に水面から十分な高さを持つ斜張橋(しゃちょうきょう)「南宮大橋」に架け替えられた。信濃の橋百選に選定されている。 ◇中ノ島 昔は「南宮島」といい、南宮神社も祀られていた。付近の植物群落とは異なる松柏が茂り、島全体が天然記念物にも指定されていた。平岡ダム建設に伴い、洪水時には浸水するようになり、ダムと治水と天然記念物への配慮が課題になる一例となった。 ◇斜張橋 斜張橋とは塔から斜めに張ったケーブルを橋桁に直接つなぎ支える構造の橋。中ノ島に立てた高さ75mの主塔から、両翼を拡げたように張った計48本のワイヤーが橋を支える。

  • 中之橋

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    ■中之橋 (なかのばし) 最初期のカレンチレバー桁橋 我が国最初期の「鉄筋コンクリート製カンチレバー桁橋」の一つで、1932(昭和7)年に架設。県内では1931(昭和6)年に完成した大正橋(千曲市、現存せず)に次いで2番目に古い。完成当初は鉄筋コンクリート桁橋としては最大の支間長26mを誇った。阿知川の洪水に耐えうる永久橋として、1882(明治15)年架設のつり橋や大正年代の架け替えを経て建設された。信濃の橋百選に選定されている。 ◇生活道路 橋は、役場などが集まる阿智村中心部の駒場地区内にあり、阿智川が蛇行するところに掛かる。阿智中学校の生徒たちも使用する生活道路(村道)となっている。 ◇カンチレバー桁橋 連続する橋桁のうち、両側の桁を突き出して、その先端に中央の桁を渡す構造の橋。中央の桁の長さを大きくとることが出来る。

  • 北の城橋

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    ■北の城橋 (きたのじょうばし) 伊那峡に架かるつり橋 つり橋としては天竜川の最上流に架かる橋。たびたび水害に遭うため渡船が常用されていたが、1928(昭和3)年につり橋が架けられた。現在の橋は1958(昭和33)年7月の豪雨災害による崩落の後に修復されたもの。名前の由来は、中世の史跡「北の城(きたのじょう)」による。信濃の橋百選に選定されている。 ◇伊那峡 天竜川の川幅が狭まった宮田村と駒ヶ根市の間に「伊那峡」と呼ばれる渓谷がある。下流に大久保発電所が完成し、堰き止めた水によりダム湖ができて、豊かな水をたたえた伊那峡の景色をつくっている。 ◇生活道路 「5トンを超える車両は通行できない」という制限があり、板張り、交互通行など時代を感じさせる橋だが、天竜川両岸の住民の生活道路として欠かせない存在の橋。右岸周辺は、宮田村リバーランド天竜公園として整備されている。

  • 伊那路橋

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    ■伊那路橋 (いなじばし) 伊那谷と江戸を結ぶ街道の橋 江戸中期には架設され、伊那路と江戸を結び中馬輸送を支えた街道の橋。伊那路と中山道の下諏訪宿を最短で結ぶ岡谷道(諏訪道)の整備とともに往来が盛んになった。当時の橋は「大橋」と呼ばれており、経費を幕府が負担する「主要街道の橋」と位置づけられていた。現在の橋は1994(平成6)年に架け替えられたものである。信濃の橋百選に選定されている。 ◇旧伊那路橋 1877(明治10)年頃、伊那路橋と命名された。長さ63m、幅3.6mの板橋だった。その後、1933(昭和8)年には、長さ60m、幅5.5mのコンクリート橋となった。立体的な装飾が調和良く組まれた素晴らしいものだった。欄干および袖の部分は円形の縁取りの中に角丸の十字模様が大きく抜かれた見事なデザインだった。

  • めがね橋

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    ■めがね橋(長姫橋) (めがねばし/おさひめばし) 城下町・飯田の発展を支えてきた石橋 江戸時代、飯田城下町(現飯田市街地)は深い谷(谷川)によって南北に二分されていた。谷川に木橋が架けられたが、橋の南(堀端通り(現銀座通り))と、北(伝馬町)は急坂を上り下りしなくてはならなかった。明治維新後に飯田城が廃城になると、中馬によって物資が集まる交通の要衝として、馬車通行を想定し、橋の前後の坂を埋め立てることとなり、1878(明治11)年、谷川にアーチ型の石橋が完成した。かつての谷川橋が、この時、飯田城の古名を残すために「長姫橋」と改称されたが、その形状から「めがね橋」と通称された。1947(昭和22)年の大火後の改修で正式に「めがね橋」となった。信濃の橋百選に選定されている。 ◇長姫城の石 橋の設計は座光寺の今村真幸(まさき)が行い、施工には主に上郷村の人びとがあたった。 飯田町の士族は長姫城郭(飯田城の別称)の石を提供し、寄付金も出した。 ◇市街地の再開発 橋建設の際、深く台地をえぐっていた谷川の両岸にも土が盛られ、馬車や自動車が通行できるようになった。 同じ頃、城内には役所や学校が建てられるなど、市街地となった。 橋造りは、今でいう市街地再開発の一環で、近代の飯田の街の骨格をつくることとなった。

  • 虹橋

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    ■虹橋 (にじばし) 三峰川右岸の農業を支えた水路橋 1958(昭和33)年に完成した高遠ダムから取水した水は、かんがい水路を通り、三峰川両岸一帯へ運ばれ、約2,500haの農地を潤している。虹橋は、この水を三峰川右岸側へ運ぶための水路橋。用水は、左岸の伊那市高遠町小原から三峰川を水路橋で渡った後、右岸1号、2号幹線に分かれる。両岸が絶壁となっている場所を、アーチ型で渡り、建設当初から「虹橋」と呼ばれる。 ◇色彩検討会議 完成から半世紀近くが経過し、損傷が目立つようになったため、県営かんがい排水事業として2004(平成6)年に改修・補強工事が行われた。強度を高めたほか、地域住民による「色彩検討会議」で塗装色が決められた。管理道は、地域住民の歩道としても利用することから、安心して歩けるよう手すりの高さを120cmにした。 ◇高遠ダム 美和発電所で放流した水と藤沢川から取水した水を貯め、両岸の灌漑用水と下流の春近発電所の発電に、必要な量の用水を供給している。

  • 大久保発電所

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    ■大久保発電所 (おおくぼはつでんしょ) 天竜川本川最初の発電所 下流に計画された南向(みなかた)発電所の工事用電源を確保するために、1926(大正15※)年11月から1927(昭和2)年9月にかけて、天竜川電力(株)がわずか10か月で建設した。(※大正15年は1926年12月25日まで昭和元年は、12月25日~31日の7日間のみ)天竜川本川にできた最初の発電所。高い落差を利用した発電所と異なり、落差が5.7mと低い全国でも珍しい発電所。多量の水の水圧を利用したダム式で、4台の水車が回転し発電する。大久保ダムは堰堤高約3.5m、長さ約26m。発電所はダムの約376m下流にある。南向発電所建設以後は、発電した1,500kwの電気を上伊那地区の家庭と工場に送っている。 ◇福沢桃介(ももすけ) 天竜川水系の電源開発(大久保発電所・南向発電所・泰阜ダムなど)を企画し、具現化した人。日本の電力王と言われる。九州・四国の電気軌道と水力発電などを手始めに、愛知・関西にも手を広げ、要職にあった会社は数十社に及んだ。天竜川の開発は地元住民の反対で、南向発電所以降は困難となった。 ◇南向(みなかた)発電所 駒ヶ根市吉瀬(きせ)より取水。1927(昭和2)年7月に着工、1929(昭和4)年2月発電開始。翌年には、大同電力(株)を通じて、東京変電所まで送電された。これが伊那谷に最初に建設された特別高圧送電線であった。

  • 小黒発電所

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    ■小黒発電所 (おぐろはつでんしょ) 伊那谷に電力を供給し100年 伊那谷に現存する一番古い発電所。小黒川上流に、長野電灯(株)が建設し1913(大正2)年に完成。1915(大正4)年、伊那電気軌道(株)へ譲渡され、伊那電気鉄道に電力を供給する等、上伊那地域の発展に大きく寄与した。現在は中部電力(株)が管理している。建設当時は、約2km上流の取水口から発電所の真上に見える水槽まで木の樋を使い、導水路延長1,358m、落差226mで、250kwの発電をしていた。現在は機械の取替えにより1,100kwの発電が可能である。2013(平成25)年に、運転開始から100年の記念式典が行われた。 ◇信州初の発電所は? 1898(明治31)年、長野電灯(株)は、長野市内を流れる裾花川に信州で最初の発電所となる茂菅発電所を建設した。当時は「水から火が灯れば、太陽が西から出る」と、発電を本気にしない時代であった。 ◇不買運動 長野電灯(株)より先に、伊那町(現伊那市)で「伊那電灯会社」の計画があったが、長野電灯(株)への権利譲渡という形で協議は決着した。しかし、赤穂村(現駒ヶ根市赤穂町)では、村営発電の意志が強く、長野電灯電力の不買運動騒動にまで発展した(赤穂電灯騒擾事件)。

  • 遠山の森林鉄道 梨元貯木場

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    ■遠山の森林鉄道 梨元貯木場 (とおやまのしんりんてつどう なしもとちょぼくじょう) 木材景気を呼び込んだ林鉄 梨元に営林署の貯木場が設けられ、木材を運び出すために使用された鉄道(1944(昭和19)年~1968(昭和43)年)。民間企業(5社)も、台車1台あたりの契約で営林署に使用料を払い、伐り出した木材を自社の機関車で運んだ。いずれも1965(昭和40)年ごろまでに事業を終えて撤収したが、土場の施設は1970(昭和45)年まで使用されていた。民間企業が伐採した木材を、営林署が運び出すのではなく、営林署に軌道使用料を払い、複数の企業が自前で列車を走らせていたという例は非常に珍しい。沿線ではインクラインが木材伐り出しに活躍した。鉄道は遠山川上流の西沢渡まで伸びていた。 ◇セメント輸送 遠山川および北又沢の水源地域における森林伐採は、山の荒廃と、大量の土砂が遠山川に流れ込む結果をもたらした。災害防止のために北又渡に砂防ダムを建設することとなり、1966(昭和41)年から工事のためにセメント輸送用の列車を走らせた。 ◇インクライン 鉄道の入れない急斜面に、ケーブルカーのように線路を敷いて、車両をワイヤでつなぎ、片方が上がれば他方が下がるようにしたもの。それを利用して木材を運び出した。森林鉄道の本線(北又沢左岸の上段)からインクライン上端まで400mの標高差があり、全国でも有数の規模であった。

  • 三峰川の森林鉄道跡

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    ■三峰川の森林鉄道跡 (みぶがわのしんりんてつどうあと) 地元住民の喜びと期待を運んで 三峰川沿い浦国有林にあった浦森林鉄道。1939(昭和14)年、赤石山系の豊富な森林資源を開発するため、宮内省帝室林野局(現農水省林野庁)管下の伊那営林署により建設された。現伊那市長谷の杉島貯木場を起点として、最盛期には塩見岳の麓、南荒川終点まで23.6kmが整備され、年間約3万m3の木材が搬出されていた。1959(昭和34)年8月の台風7号により、杉島貯木場も流出し、森林鉄道は全線にわたり壊滅的な被害を被った。その後、復旧工事が進められたが、1961(昭和36)年の三六災害で再び流出した。 1964(昭和39)年に桃の木~小瀬戸間に三峰川関連林道が、小瀬戸~荒川間にも林道が完成し、浦森林鉄道は廃止された。 現在は、一部軌道敷(レールなし)および鉄橋等は現存しているが、林道(管理者:伊那市)は、関係者以外通行不可となっており、見学できない。 ◇森林鉄道の恩恵 森林鉄道は木材の運搬のほか、地元の住民、一般の人も乗車できた。通学、通勤にも利用され住民生活は飛躍的に向上した。事業当時、小瀬戸温泉付近に森林作業関係者の家々が集まり、子弟は市野瀬で寮生活をしていた。一方、山岳地帯に敷設された危険な軌道のため、事故による犠牲者も出た。 ◇黒河内森林鉄道 伊那営林署管内には、1939(昭和14)年に黒河内森林鉄道も建設された。伊那市長谷黒河内の蟹坂貯木場(現保養センター仙流荘)を起点に小黒川に沿い、東谷からその先の作業線まで敷設(総延長19.8km)。1956(昭和31)年に、全線廃止された。

  • 千人塚公園 城ヶ池

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    ■千人塚公園 城ヶ池 (せんにんづかこうえん じょうがいけ) 戦国時代の戦乱の伝説地 千人塚のある土地は、数万年前、岩間断層の上側に形成された変位丘陵の凹地を利用して造られた台地である。1933(昭和8)年秋着工、翌春一期工事終了湛水開始、1939(昭和14)年完成。当時としては大規模な工事の末出来上がった灌漑用ため池。以後、このため池で温められた水が水田を潤すようになった。池の築造は、当時政府が国内で進めていた農村経済更正事業により展開されたもので、恐慌対策および失業者の救済目的も兼ねていた。2010(平成22)年、全国ため池百選に選定。 ◇千人塚の由来 戦国時代に山城があったが、織田軍の侵攻により落城し、その際に亡くなった兵士やその武具などがこの場所に埋められた。そこから「千人塚」と呼ばれるようになった』という伝承がある。 ◇岩間断層 飯島町高尾台から千人塚台地まで長さ5km、山ろく直下を直線的に走る断層。中央自動車道は岩間断層に沿っている。

  • 恩田井水

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    ■恩田井水 (おんだいすい) 豊かな水田地帯への変革 阿智村の伍和(ごか)地区は、地形が急峻で川が集落の遙か下を流れており、明治の頃まで井戸水の確保も困難な土地だった。漢方医の太田宗硯(そうせき)は、1860(万延元)年より地形測量を行い、別の流域にある恩田川から伍和へ水を引けることを確信した。太田宗硯没後、1894(明治27)年に恩田井水組合が工事を開始し、1898(明治31)年、日の入峠を越えて引き入れた延長6.5mの井水が完成した。その後、さらに井水は延長され、水田80haが灌漑されるようになった。 ◇井水の流れ 別水系の恩田川から水を取水し、北流する大沢川に一度落とす。その水が松沢山山腹を迂回しつつ、日の入峠を越え伍和の村に流れこむ。用水はサイフォン水路や、道路上に渡された高架橋井水などにも形を変え、村の隅々まで、末端は下條村まで潤している。

  • 西天竜幹線水路 流末の階段工(小沢のそろばん滝)

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    ■西天竜幹線水路 流末の階段工(小沢のそろばん滝) にしてんりゅうかんせんすいろ りゅうまつのかいだんこう (おざわのそろばんだき) 画期的な大工事 西天竜幹線水路の末端の水を小沢川へ落とすためにつくられた階段工。困難な工事の末、完成した。その後、用水の落差を活用した発電所が東側に設置されることとなり、発電所は1961(昭和36)年に完成した。用水路の水は導水管により発電所に入ることとなり、それ以来、階段工は使われなくなった。 ◇用水路の楽しみ 諏訪湖から流れてくるウナギやワカサギがときどき捕れたため、近所の子どもたちは楽しみにしていた。 ◇階段工とは 急な川底の勾配を階段状にすることで、水が流れるスピードを遅くする工夫がなされた工法。

  • 太田切川の井筋(下の井取水口)

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    ■太田切川の井筋(下の井取水口) (おおたぎりがわのいすじ/しものいしゅすいこう) 扇状地を潤す用水路 駒ヶ根市や宮田村は太田切川の扇状地上にあり、水を得ることが容易ではないため、農業用水や生活用水の確保に苦労してきた。そこで、扇状地上方の上流側で取水し、そこから用水路を掘って水を両岸の村へと送ることが考えられた。江戸時代には、太田切川の右岸に上の井、下の井、下平井、左岸に宮田井(黒川井)、丸山井の五用水がつくられた。 ◇太田切井 取水口の位置により、太田切川上流の「上の井」、下流の「下の井」の名があるが、両方をあわせて「太田切井」と呼ばれることもある。この用水の開削により、上穂・赤須(駒ヶ根市)などで広く米作りが可能になった。 ◇横井(上の井) 上の井は、取水口から約1kmは勾配に沿って流下するが、後に流れを南に変え、扇状地を横切るように木曽山脈山麓をほぼ等高線に沿って導き、広く流域へ給水している。そのため別名「横井」とも言われる。

  • 太田切川の井筋(宮田井取水口)

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    ■太田切川の井筋(宮田井取水口) (おおたぎりがわのいすじ/みやだいしゅすいこう) 扇状地を潤す用水路 駒ヶ根市や宮田村は太田切川の扇状地上にあり、水を得ることが容易ではないため、農業用水や生活用水の確保に苦労してきた。そこで、扇状地上方の上流側で取水し、そこから用水路を掘って水を両岸の村へと送ることが考えられた。江戸時代には、太田切川の右岸に上の井、下の井、下平井、左岸に宮田井(黒川井)、丸山井の五用水がつくられた。 ◇太田切井 取水口の位置により、太田切川上流の「上の井」、下流の「下の井」の名があるが、両方をあわせて「太田切井」と呼ばれることもある。この用水の開削により、上穂・赤須(駒ヶ根市)などで広く米作りが可能になった。 ◇横井(上の井) 上の井は、取水口から約1kmは勾配に沿って流下するが、後に流れを南に変え、扇状地を横切るように木曽山脈山麓をほぼ等高線に沿って導き、広く流域へ給水している。そのため別名「横井」とも言われる。

  • 太田切川の井筋(上の井取水口)

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    ■太田切川の井筋(上の井取水口) (おおたぎりがわのいすじ/かみのいしゅすいこう) 扇状地を潤す用水路 駒ヶ根市や宮田村は太田切川の扇状地上にあり、水を得ることが容易ではないため、農業用水や生活用水の確保に苦労してきた。そこで、扇状地上方の上流側で取水し、そこから用水路を掘って水を両岸の村へと送ることが考えられた。江戸時代には、太田切川の右岸に上の井、下の井、下平井、左岸に宮田井(黒川井)、丸山井の五用水がつくられた。 ◇太田切井 取水口の位置により、太田切川上流の「上の井」、下流の「下の井」の名があるが、両方をあわせて「太田切井」と呼ばれることもある。この用水の開削により、上穂・赤須(駒ヶ根市)などで広く米作りが可能になった。 ◇横井(上の井) 上の井は、取水口から約1kmは勾配に沿って流下するが、後に流れを南に変え、扇状地を横切るように木曽山脈山麓をほぼ等高線に沿って導き、広く流域へ給水している。そのため別名「横井」とも言われる。

  • 小渋ダム

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    ■小渋ダム 天竜川水系初のアーチ式コンクリートダム 1969(昭和44)年に竣工。1961(昭和36)年の三六災害後の対策で、小渋川に建設された高さ105mのアーチ式コンクリートダム。洪水調節・不特定利水による天竜川の治水のほか、下伊那郡竜東上段域の農地への灌漑と水力発電を目的とする国直轄の多目的ダム。小渋川総合開発事業の一環として、小渋第1発電所、第2発電所が小渋ダム築造にあわせて建設された。 ◇アーチ式コンクリートダム コンクリートを主材料として使用し、アーチ止水壁にかかる水圧を両岸の岩盤で支える型式のダム。上空から眺めると河川を横断する堤体が弧を描くように見える。 ◇天竜川の治水の要 堤体の厚みが、他のアーチ式コンクリートダムより薄い点が特徴。その薄さにもかかわらず、漏水量が非常に少なく、施工方法が秀逸だった事がうかがえる。美和ダムに匹敵する流域面積を持ち、美和ダムと共に、天竜川の治水の要となるダム。

  • 美和ダム

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    ■美和ダム (みわだむ) どっしりと構える重厚なダム 1959(昭和34)年に竣工。三峰川に建設された高さ69.1mの重力式コンクリートダム。洪水調節・灌漑・水力発電を目的とする、国直轄のわが国最初の多目的ダム(特定多目的ダム)である。中央構造線上に建設されている。近年、土砂堆積が進み堆砂率が悪化したため、上流から流れてくる土砂をダム湖に貯めず下流に流すバイパストンネルが建設された。 ◇重力式コンクリートダム 主にコンクリートを主材料として使用し、コンクリートの質量を利用してダムの自重で水圧に耐えるのが特徴である。ダムとしては最も頑丈な型式。地震・洪水に強く、地震や降水量の多い日本に最も適した型式でもある。 ◇美和発電所 長野県営電気事業初の発電所として1958(昭和33)年から運転開始。美和ダム直下に位置する。同ダムから発電用水を取水し、最大出力12,200キロワットの発電を行った後、高遠湖に放流している。

  • 荒川大崩壊地

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    ■荒川大崩壊地 (あらかわだいほうかいち) 豪雨のたびに徐々に崩壊 荒川岳前岳の頂上近くから一気に崩れている大崩壊地。豪雨のたびに崩壊が発生している。崩壊した土砂の大半は、渓流に堆積し、その後の豪雨により土石流化して下流へ流下する場合が多いと考えられている。崩壊地から供給された岩石が堆積して、広大な「広河原(ひろがわら)」を形成している。 ◇広河原とは 主として荒川大崩壊地から供給された岩石が堆積して形成された広大な地。河原の幅約200~300m、長さ約1.5kmほど、標高約1,300~1,600m。前沢家古文書の記録によると、広河原の一部は1740~1760年代頃に形成されたと考えられる。 ◇榑木(くれき) 江戸時代初めから約140年間、大河原村・鹿塩村は、サワラを原木とした「榑木(くれき)」と呼ばれる小木材(屋根板や曲物の原材料)を、年貢として幕府に納めていた。榑木は、小渋川、天竜川を経て、河口の静岡県掛塚まで運ばれ、さらに江戸まで船で運ばれた。

  • 前茶臼ナギ

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    ■前茶臼ナギ (まえちゃうすなぎ) 小渋川へ供給される土砂の一大生産源 小渋川上流上沢に位置する前茶臼山東側に広がる崩壊地。前茶臼山断層に関連して、崩壊が生じている。地質的には秩父帯でジュラ紀の緑色岩・チャート・砂岩・泥岩の互層により構成されており、1898(明治31)年及び1929(昭和4)年に大災害が発生したと伝えられている。 ◇崩壊した要因は 前茶臼山の大崩壊は、小渋川の支流上沢の上流に位置する。この位置は、西に戸台構造線、東に仏像構造線、北に小渋断層、南に茶臼断層と、構造線や断層に挟まれたくさび状の部分にあたることから、崩壊の原因は、このような地質構造にあると考えられている。 ◇ナギ ナギとは山をナギ落としたような崩壊地のこと。1898(明治31)年7月に前茶臼山の斜面が大崩壊した。上沢直下にあった小渋湯温泉が被災し、死者10名にのぼる被害が発生した。

  • 七釜砂防堰堤

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    ■七釜砂防堰堤 (ななかまさぼうえんてい) 荒川大崩壊地からの土砂を調節 仏像構造線(中央構造線に沿うように連なる断層)の位置につくられた砂防堰堤。荒川大崩壊地から流出する土砂を調節するため、高さ28m、堤長122.5m、計画貯砂量121万m3の砂防ダムとしては大規模なダムが1984(昭和59)年に完成した。基礎岩盤が深いため堰堤の基礎処理として簡易ケーソン工法を使用している。この工法の堰堤は全国的に珍しい。 ◇ダムサイトの地質的特徴 ダムサイト付近は、河床砂礫層が厚く、基礎岩盤が深い。基礎岩盤が深い場合には、これに対処するための基礎工法は大がかりなものとなるため、できるだけ経済的な工法を用いるよう設計された。 ◇ケーソン工法とは水中や軟弱地盤に大きな構造物を作る場合、鉄筋コンクリートなどで筒または箱(ケーソンcaisson)状の構造物を作り地中に埋めて基礎とする工法。

  • 日向沢砂防堰堤

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    ■日向沢砂防堰堤 (ひなたさわさぼうえんてい) 「農救事業」による砂防堰堤 1933(昭和8年)、飯島町七久保日向沢に砂防堰堤が建設された。景観や強度への配慮から間知石積ではなく野面石積とした堰堤。また法切、基礎工事にも工夫を施した。本事業は昭和前半の大不況期に農民を労働者として雇用して救済する「農救事業」により行われた。 ◇間知石積・野面石積とは 間知石積とは、工業規格で規定された大きさに加工した角錐型の石材を用いた石積。野面石積とは、自然石を用いて、石肌の風合いを活かし、面をそろえた石積。 ◇日向沢の出水 日向沢は、長さ10kmほどの前沢川の支川で規模は大きくないが、伊那谷でも特異な暴れ川であり、土石流が頻発している。七久保の日向沢の出口には、土石流により運ばれたとされる巨岩「遠見石」が残されている。1923(大正12)年に発生した日向沢の土石流は、飯田線の鉄橋を破壊し、旧片桐村役場や住宅25戸を流失させる被害をもたらした。

  • お志茂の水除け

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    ■お志茂の水除け (おしものみずよけ) 前沢川の土石流から屋敷と田畑を守る 前沢川は土石流の頻発する河川で、下流右岸の田島地区新井は、たびたび災害に見舞われた。前沢川の土石流の氾濫原にあったと考えられる松村家(屋号お志茂・松村理兵衛の分家)は、水害から屋敷や、下流の田畑を守るため、上流側に向けて鋭角に石を積み船形にした水除けを造った。場所は、理兵衛堤防の西250mの位置にある。 ◇前沢川の土石流 前沢川の上流部は、岩石が風化し崩れやすい市田花崗岩で、山間部を下る土石流は、流域に大きな被害をもたらした。中でも1923(大正12)年の土石流災害では飯田線鉄橋が破壊され、旧片桐村役場や住宅25戸が流失し、集落が上段域へ移転した。 ◇前沢川の堤防 前沢川の本堤防は、江戸時代の絵図にも石積みの堤防や聖牛が組まれたことが描かれており、天竜川への合流点付近で50mに渡り石積みが残る。控えの堤防は、耕地側に40mほど引き下げた場所にあり、前沢川合流点から上流に260mに渡り残る。堤防の保存状態は良く、1923(大正12)年の水害時にも、この堤防が近隣の家を救った。

  • 座光寺石川除

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    ■座光寺石川除 (ざこうじいしかわよけ) 村を守る川除 天竜川を挟んで対岸にある伴野堤防により跳ね返された激流は、座光寺村めがけて直進していき、座光寺石川除を造る契機となった。伴野堤防完成より22年後の1831(天保2)年に完成した。1961(昭和36)年に発生した三六災害によって、惣兵衛堤防と伴野堤防は多くが失われたが、座光寺石川除の保存状態は極めて良い。 ◇現存する堤防 現在は市道の道路端、耕地の真ん中に位置している。1831(天保2)年、村で建設資金を集めて完成させた堤防は、1835(天保6)年に約76mに渡り崩れ、現在残っているのは1868(明治元)年のもの。 ◇新田開発 石川除の完成以来、河原新田が急速に開発された。用水は市田村より引水され、この石川除付近より分水されたのち、新田を潤した。

  • 伴野堤防

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    ■伴野堤防 (とものていぼう) 組織で造り上げた堤防 惣兵衛堤防と天竜川を挟んで対岸にある伴野村は、惣兵衛堤防からの水はねによる激流によって、たびたび大災害を被り、川除け(堤防)は幾度も流出した。1883(明治16)年、松尾千振(ちふる)は伴野村有志による「開墾組(かいこんぐみ)」を組織し、堤防建設を進めた。その後も、堤防補強・修理が行われ、1904(明治37)年に伴野堤防が完成した。 ◇石碑 1961(昭和36)年に発生した三六災害によって、伴野堤防は壊滅的な被害を受けた。昔の伴野公園に松尾千振と開墾組の石碑がある。 ◇開墾組 1883(明治16)年に開かれた、河原土地所有者の集会の折、松尾千振は村人に堤防修復の必要性を説き、有志33名とともに「開墾組」を作った。堤防工事途中に、松尾千振は39歳の若さで亡くなってしまったが、「開墾組」が意志を引き継ぎ、堤防を完成させた。

  • 三信鉄道

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    ■三信鉄道 (さんしんてつどう) 東海地方と結ぶ要路 現JR飯田線の「天竜峡~三河川合(愛知県新城市)(約70km)」区間で、1937(昭和12)年に全線開通した。 天竜川の侵食による険しい峡谷に沿って造られており、トンネルが数多い。 そのため日本の鉄道史に残る難工事となった。鉄道は、泰阜ダムや平岡ダムの建設資材の運搬などにも大きな効力を発揮した。為栗駅の北西には、信濃の橋百選に選定されている万古川橋梁がある。 ◇川村カ子ト 北海道の多くの鉄道で測量技士を勤めた川村カ子トがアイヌ測量隊を率いて断崖絶壁での測量作業をやり遂げ、難工事の末に完成させたとの逸話もある。工事には朝鮮人労働者も多く従事していた。 ◇万古川橋梁 為栗駅側に車道はなく、歩行者用の天竜橋を渡っていかなければならない。万古川橋梁のたもとまでも、歩道があり歩いていくことができる。

  • 田切地形/田切地形のビューポイント

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    ■田切地形/田切地形のビューポイント (たぎりちけい) 交通の難所・文化的な境界線を形成する 天竜川の河岸段丘や断層崖を横断するように流れる太田切川や、中田切川、与田切川などが、段丘面を激しく侵食して形成した地形で、伊那谷の田切地形は全国的に最も顕著であることで知られる。田切地形を一望することができるビューポイントとして、陣馬形キャンプ場が挙げられる。 ◇断層地形 以前は伊那谷は「河岸段丘」と呼ばれる地形であり、天竜川が土地を階段のように削ってできたと考えられていた。しかし、最近の研究によって、段丘は、活断層によって地盤が隆起してできてきたことがわかった。 ◇田切 田切(たぎり)の由来は、水が突っ切って流れるその流れ方の「たぎる」が語源とも言われている。中央アルプスの上昇によって造られた扇状地は、西山からたぎり落ちる川の水によって浸食し、深い谷を作っていった。

  • 理兵衛堤防

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    ■理兵衛堤防 (りへえていぼう) 千石の地を守る堤防 中川村にある、松村理兵衛忠欣(まつむらりへえただよし)、常邑(つねむら)、忠良(ただよし)の三代にわたって天竜川に築かれた堤防。1808(文化5)年に完成。天竜川および前沢川の大水のたびに決壊し、そのつど補強や増築を繰り返してきた。2010(平成22)年、護岸工事の際の調査で、前沢川の堆積物の上に造られた石堤が発見された。理兵衛堤防の初期のものと考えられ、一部はそのままの状態で埋め戻し、一部は移築復元されている。 ◇水害常襲地帯 天竜川と前沢川が合流するこの地点は、増水時に本川の水流の勢いに支川の水流が跳ね返されて逆流、上流側の農地が水浸しになる水害常襲地帯だった。洪水のたびに大きな被害を受け、住民は高台への移住を余儀なくされていた。 ◇天竜功業明神 堤防を作った忠欣・常邑・忠良の親子三代を崇めた呼び名。

  • 上蔵砂防堰堤

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    ■上蔵砂防堰堤 (わぞさぼうえんてい) 天竜川唯一のアーチ式砂防堰堤 1954(昭和29)年に小渋川に築かれた天竜川流域で唯一のアーチ式砂防堰堤。(堤高23m、コンクリート造) 1959(昭和34)年および1961(昭和36)年の洪水で底が抜けたが、アーチの石積みはそのまま残っていた。 2009(平成21)年に国有形文化財に登録された。 ◇形状 ダムサイト周辺は川幅18m程度の狭窄部となっている。堤体が受ける堆砂圧、水圧などの力をアーチ型堤体と両岸の岩盤で支える形状となっている。

  • 粟沢川掘り抜き

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    ■粟沢川掘り抜き (あわさわがわほりぬき) 川筋を変える大工事 市野瀬集落の中を流れる粟沢川は、氾濫を繰り返し、集落はたびたび洪水に見舞われた。1843(天保14)年、名主馬場孫左衛門が藩の許可を得て、城山の南の尾根を掘り抜き、粟沢川の流路を三峰川へ繋げるように変更する大工事を実施した。 ◇掘り抜き工事 掘り抜き工事は1844(弘化元)年に完成をみたが、その後も川筋の整備は続けられ、新堤防の強化は続けられた。最終的に工事の完了届けがされたのは28年後の1871(明治4)年である。 ◇城主の墓 1549(天文18)年に建立された。城主一瀬越前守直忠の墓(宝篋印塔)は、城山に続く尾根にあったが、粟沢川の掘り抜き工事の際、上流の道路脇に移転されており、案内看板もある。

  • 川路郷家屋移転記念碑

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    ■川路郷家屋移転記念碑 (かわじのさとかおくいてんきねんひ) 想い起こす三六災害 三六災害により、川路地区の家屋は壊滅的な打撃を受け、災害後移転した。1966(昭和41)年に現在の堤防が完成し、家屋の移転が終わったことを記念して記念碑が建てられた。川路駅周辺の旧国道沿いには170戸が移転した跡地に塀や門が残されている。 ◇三六災害とは 1961(昭和36)年に起きた梅雨前線による豪雨災害。洪水災害と土砂災害の組み合わせにより、死者99人、行方不明者31人、浸水戸数12,452戸におよぶ大規模災害が発生。川路地区にも未曾有の大水害をもたらした。 ◇川路地区では 災害処理にあたり、災害後の不衛生な状況の中で伝染病が起こることを恐れ、殺菌や消毒をこまめに行った結果、川路地区では一人も伝染病患者を出すことはなかった。

  • 三六災最高水位標

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    ■三六災最高水位標 (さぶろくさいさいこうすういひょう) 土砂に埋まった川路 天竜川総合学習館(かわらんべ)前にある三六災害時の最高水位を示す標柱。地上から3~4mの高さまで水位が上昇したことが示されている。当初は、旧川路駅前に源實朝(みなもとのさねとも)八大龍王の鎮魂碑と並んで建っていたが、2002(平成14)年、治水事業が終わった折りに、石柱浸水位線が示す標高376.8m位置の現場所に移転された。 ◇源實朝(みなもとのさねとも)鎮魂碑 「時によりすぐれば民のなげきなり 八大龍王雨やめたまへ」1211(建暦元)年の水難の際、源實朝が悲嘆に暮れる農民の姿を見て、水を司る神の八大龍王に祈りを捧げ詠んだ和歌。現在は現川路駅前の公園に建てられている。 ◇最高水位 天竜峡の右岸にも、 三六災害時の最高水位標が建っている。

  • 三界萬霊塔/六地蔵

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    ■三界萬霊塔/六地蔵 (さんかいばんれいとう/ろくじぞう) 未の満水で亡くなった人々を弔う 高森町市田の三界萬霊塔(さんかいばんれいとう)には、未(ひつじ)の満水(1715(正徳5)年)で亡くなった多くの人々や獣などの冥福を祈る言葉が彫ってある。1695(元禄8)年に松岡山安養寺の了渓禅師が建立した。六地蔵は宝永年間(1704~1710年)に建立されたが、未の満水で流され、1841(天保12)年に再建された。 ◇三界とは 欲界(欲の世界)・色界(物質の世界)・無色界(精神だけの世界)の三つの世界を指し、発生から死滅まで繰り返している世界で、三界萬霊塔はこの世の生き物全ての霊をこの塔に宿させているものである。 ◇山崩れと巨石 現在、堂所、川底、天白、上川原、市田橋付近から下市田まで、川尻の日影、出砂原等に折り重なって残る巨石は、すべて1715(正徳5)年の山崩れによって不動滝付近から押し流されてきたものだと伝えられている。この時におびただしい人が難に遭ったといわれ、三界萬霊塔は、その人々を供養したものと伝えられている。

  • 大西山崩壊地

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    ■大西山崩壊地 (おおにしやまほうかいち) 山が動いた 1961(昭和36)年6月23日から降り続いた未曾有の豪雨により、伊那谷全域に被害をもたらせた三六災害が発生した。大鹿村では6月29日に、小渋川沿いにある大西山が大崩壊した。崩壊は高さ450m、幅500m、厚さ15mに渡り、大量の石や土砂が小渋川の堤防よりもはるかに高い山津波となって対岸の家屋に押し寄せた。濁流によって約30万㎡の宅地や田畑が消失し、家屋40戸が流され、42名の命が奪われた。 ◇大西山とは 長野県下伊那郡大鹿村と豊丘村の境にある山。標高1,741m。天竜川水系の小渋川と青木川の合流点付近に位置している。 ◇大鹿村の地形・地質 大鹿村は南北に中央構造線が通っている。中央構造線の西側一帯の岩石はもろくて崩れやすい鹿塩マイロナイトで、大崩壊をひきおこす。集落のある東側一帯ははく離しやすい結晶片岩で地すべりの多発地帯であった。

  • 鳶ヶ巣大崩壊地/鳶ヶ巣大崩壊地ビューポイント

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    ■鳶ヶ巣大崩壊地/鳶ヶ巣大崩壊地のビューポイント (とびがすだいほうかいち) 大規模な山腹崩壊地 大鹿村の上蔵地区から見える、面積が30haにも及ぶ大崩壊地。明治以前から崩壊が続いており、土砂が小渋川をせき止め、たびたび災害を引き起こした。押し出された土砂が小渋川に削られ、何層にもなった礫層が川沿いに見られる。大鹿村上蔵(わぞ)の福徳寺(ふくとくじ/国重要文化財)付近から崩壊地が望め、案内看板もある。 ◇赤ナギ 谷底からざっくりと山肌がえぐり取られ、下方末端は一直線に本流に達し、斜面は40度を超す。崩壊地は蛇紋岩の崩れで、風化した赤い色を見ていた昔の人は「赤ナギ」と呼んでいた。 ◇復旧工事 事業開始当初は、崩壊による土砂止めなどの山腹工を試行したが、傾斜が急で乾燥した土壌のため、森林復旧は進まなかった。現在は、表土に資材を吹き付ける工法などの新緑化技術を採り入れて復旧成果をあげている。

  • 百閒ナギ/百閒ナギのビューポイント

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    ■百間ナギ/百間ナギのビューポイント (ひゃっけんナギ) 国内屈指の崩壊壁 与田切川の源流部に存在する「百間ナギ」と呼ばれる大崩壊地は、すり鉢窪カールによるモレーン堆積物の砂礫が日夜崩れている。礫層の厚さは60mに達し、現在も常に土砂の流出が続いている。道の駅・花の里いいじま付近など、盆地一帯から大崩壊地を望むことができる。伊那谷は、盆地底から氷河地形を望むことができる、わが国唯一の場所。 ◇伊那谷の地形・地質 伊那谷は、東西を急峻な山脈に囲まれている上に、構成する地質が花崗岩類や片麻岩といった風化を受けやすい岩石が多い上、山の起伏が大きいため、崩壊地が多く分布している。 ◇花崗岩とは 花崗岩は結晶粒子が大きく、かつ鉱物結晶の熱膨張率が異なるため、温度差の大きい所では表面がぼろぼろになりやすい(風化しやすい)。風化が進むと非常にもろく崩れやすくなる。

  • 四徳集落跡

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    ■四徳集落跡 (しとくしゅうらくあと) 土石流の押し流された集落 中川村の四徳集落周辺地域は、小さい谷が網の目のように広がる丘陵地帯で、三六災害時には土石流が起こり、小渋川合流点で河床が約10m上昇した。四徳集落では80戸のうち61戸が被災し、7名が死亡した。人々は集団移住を余儀なくされ、700年に及ぶ集落の歴史に終止符を打った。今ではカラマツからなる林に戻っている。 ◇四徳地域の地形・地質 四徳地域の地質は、風化するとマサ土となる花崗岩が主で、もろく崩れやすい土地である。三六災害では、大雨でこのマサ土が土石流となって流れた。 ◇マサ土とは 花崗岩が風化して崩れてできた粗い砂。強い降雨により多量の砂が流れ出す為、花崗岩地帯の多くが砂防指定地や保安林に指定され、土砂災害対策 が講じられている。

  • 北川集落跡

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    ■北川集落跡 (きたがわしゅうらくあと) 土砂に埋没した北川集落 大鹿村の鹿塩川沿いにあった北川集落は、三六災害が発生した1961(昭和36)年6月27日、豪雨による土 石流で39戸の民家と北川分校が土砂の下に埋まった。 さらに、29日には西山が地すべりを起こし、鹿塩川を一時的に堰き止めた。鹿塩川に架かっていた橋の取り付け部分が流され、コンクリート部分だけが門のように残る。 ◇北川地区 多いときには110戸もの家があったというが、昭和36年の災害(三六災害)当時は39戸だった。三六災害時には、村人は集団キャンプをして救助を待った。1.5km程北に中央構造線の北川露頭がある。 ◇北川分校 鹿塩小学校北川分校は、土石流に襲われ、いち早く破壊されてしまった。一方、大花沢からの土石流で鹿塩川の河床が上昇し、川沿いの民家は土砂に埋没してしまった。分校は1962(昭和37)年に閉校。北川集落はこの水害を機に、1963(昭和38)年に廃村となった。

  • 夜泣き石

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    ■夜泣き石 (よなきいし) 未の満水で亡くなった子供の声 未の満水(ひつじのまんすい/1715(正徳5)年)の際に、野底川上流の山崩れによって土石流が発生した。この土石流によって野底川の上流から松川合流点付近まで全長7mにもおよぶ巨石が運ばれてきた。子どもが下敷きになって亡くなり、子どもの泣き声が聞こえてきたので、供養のために石の上に地蔵を祀ったとされる。 ◇未の満水(ひつじのまんすい) 川路村水防史によると『1715(正徳5)年6月17日から雨が降り始め、18日未明より豪雨となり、19日夕方4時前後にようやく天竜川の水が引き始めた。川除け374間(673m)、落橋3箇所、道路5箇所に被害が出た』と記されている。この年が未年だったため、この名が伝わる。    ◇夜泣き石伝説 夜泣き石(よなきいし)は、石にまつわる日本の伝説の一つ。各地にさまざまな夜泣き石が存在する。大別すると、泣き声がする、子どもの夜泣きが収まるとの伝説に分かれる。

  • 夜泣き地蔵/出砂原の大石

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    ■夜泣き地蔵/出砂原の大石 (よなきじぞう/ださらのおおいし) 出砂原の夜泣き地蔵石 未の満水(ひつじのまんすい/1715(正徳5)年の際の土石流で、大島川上流から流されてきた高さ3mの大石。受難者を供養するために二基の地蔵があり、夜泣き地蔵石とも呼ばれている。石の横を通ると赤ん坊の泣き声が聞こえ、地蔵様を建てたら泣き止んだと言い伝えられている。 ◇出砂原(ださら) 「出砂原」の地名が、大島川からの土砂流出の多さを物語っているように、この地域の人々は大島川からの土砂流出と天竜川の出水とに翻弄されてきた。    ◇大石の上の地蔵 出砂原の六地蔵は1841(天保12)年に再建されたものであるが、初めに建立された六地蔵は未の満水で流された。  この時流されずに残った地蔵が、この大石の上に祀られているのではないかと伝えられている。  この大石は民家の裏庭にあり、人目に付きにくい場所にあるが、市田駅前の店舗(学習塾)の裏を回って近づ くことができる。  後方の道からも見ることができる。

  • 遠山の埋没林

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    ■遠山の埋没林 (とおやまのまいぼつりん) 埋没林が語るもの 714(和銅7)年の大地震で山が崩れ、遠山川の堰き止め湖に木々が埋没した。現在は、当時の埋没林が河床に露出しており、南信濃大島、畑上、大淵などで見ることができる。これらの木のほとんどは、直径50cm以上の大木で、中には直径1m以上の巨木や樹齢700年以上のヒノキもあった。 ◇埋没林の状態 土砂の中から姿を現した埋没木の数は50数本にも達し、その半数は立ったままの姿で地中に埋もれていた。  他の地域の埋没木と比べると新鮮な色を保っており、その心材の強度も現生木に劣らない状態であった。  その理由は遠山川の清流に浸されていたためと思われる。     ◇埋没林の展示 埋没していた樹木の一部は、南信濃自治振興センターや旧木沢小学校、『梨元ていしゃば』に展示されている。

  • 平岡ダム

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    ■平岡ダム (ひらおかだむ) 太平洋戦争中の負の歴史を語るダム 1951(昭和26)年に完成した発電用ダム。戦前に建設・計画された天竜川流域のダムの中では、最大の高さ(62.5m)であり、天竜川が作り上げてきた渓谷がそのままダム湖となっている。太平洋戦争の時代に中国・朝鮮半島の人々や敵対する米国・英国の連合国軍の捕虜を強制的に使役して建設した歴史を持つ。 ◇負の歴史 ダム建設は、太平洋戦争直前の1940(昭和15)年に着工されたが、戦時下の労働力不足を補うため、朝鮮・中国の人々や、米国・英国などの捕虜を強制労働させる事態となり、多くの犠牲者を出した。    ◇慰霊・鎮魂碑 ダムの近くには中国人犠牲者に対する慰霊碑が、また、天竜中学校のグラウンド横には、米英の犠牲者を弔う鎮魂碑がある。  平岡ダムは、多くの犠牲者とともに負の歴史を背負うこととなった。

  • 河原弁天(後ろ向き弁天)

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    ■河原弁天(後ろ向き弁天) (かわらべんてん/うしろむきべんてん) 元文の弁天公事(くじ)を知る 弁天橋下流左岸の河原の自然石の上に祀られ、出水規模の目安にされてきた。天竜川通船の盛んだった江戸時代、商いを営む人たちが祀ったと伝えられる。1738(元文3)年の大洪水で村境の争い(元文の弁天公事)が起こったとき、大岡越前守忠相が裁許を下した判決は「大岡裁き」と呼ばれている。 ◇元文の弁天公事(べんてんくじ)とは 1738(元文3)年徳川八代将軍吉宗の時代、5月の大雨で天竜川が氾濫したとき、後ろ向き弁天のある弁天社付近の湾曲部分の堤防が決壊、本流が右岸側の飯田藩の島田村へ流れ込んだ。この破堤で、元の川と新しい本流の間に「中島」が出現したことに端を発し、飯田藩と左岸側の美濃高須藩の村々との間に起きた境界線争いのこと。 ◇大岡裁きとは 後ろ向き弁天は「元文の弁天公事」の出来事を今に伝えている。この時の裁許状と絵図(裁許状の裏面)が松尾自治振興センターに保存されている。

  • 西天竜幹線水路 円筒分水工群

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    ■西天竜幹線水路 円筒分水工群 (にしてんりゅうかんせんすいろ/えんとうぶんすいこうぐん) < 地域の宝 用水路と分水工 西天竜幹線水路から水を分けるために設けられた分水施設群。水田の面積に応じた穴の数により公平な水の供給ができるようになった。現在、円筒分水工が35基活用されており、大小の分水を加えると実に83基に上るとされる。2006(平成18)年に土木学会選奨土木遺産に認定された。 ◇西天竜幹線水路とは 1906(明治39)年に関係市町村が天龍用水路期成同盟会を結成。以来22年の歳月をかけ、1928(昭和3)年に完成した。以前は段丘上ほぼ全ての土地が、樹林と桑畑であった。水路完成後は、幹線水路東側から国道153号線西の段丘上が一面水田となった。 ◇散水のしくみ 標高650mから915mまで、ポンプと送水管で水を吸い上げ、いったん水槽に貯められた水が、大小の送水管を通り畑へと散水される。

  • 東天竜一貫水路

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    ■東天竜一貫水路 (ひがしてんりゅういっかんすいろ) 低位段丘上への用水路建設 辰野町平出の天竜川左岸で取水される、総延長9,140mの幹線用水路。1927(昭和2)年に用水に取水する頭首工が建設された。頭首工の表面は、自然石を配置し、堤体はカーブしている。東天竜用水路頭首工は日本の近代土木遺産(現存する重要な土木構造物2800選)に選定されている。 ◇東井筋 東天竜一貫水路の元となった上平出の北の諏訪境から取水する上井筋は、1859(安政6)年にほぼ完成した竜西側の西井筋と区別され、東井筋とも呼ばれた。 ◇堤体のカーブ 取水口から両岸を結ぶ床固工は、アーチ状の美しい曲線形となっている。これは、流水を取水口と魚道に集中させるとともに、床固工を越えた流水を河道中央部に集めるために考え出された形状である。このような形状は、急流の河川にみられ、自然に習った先人達の知恵を垣間見ることができる。

  • 竜西一貫水路

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    ■竜西一貫水路 (りゅうさいいっかんすいろ) 水不足と水争いをなくし、生活を支える 1969(昭和44)年に完成した総延長24kmの西天竜一貫水路とほぼ同規模の大用水。南向発電所(中川村)の放水路から取水し、天竜峡川路、大明神原に至る。これにより、天竜川右岸の扇状地上は、諏訪湖の下流近くから天竜峡に至るまでのほぼ全域が灌漑されることになった。毛賀沢水路橋・胡麻目沢水路橋、田沢水路橋などがある。 ◇頭首工の合口化 天竜川西岸にある竜西一貫水路は、それまで天竜川に8箇所あった頭首工を合口化し、農業経営の合理化と食料増産を目的として建設された。 ◇北原米太郎 座光寺の北原米太郎は、1891(明治24)年に座光寺河原の開発にあたり、20年後に座光寺村河原地区に10数町歩を開いた。1887(明治20)年頃には竜西一貫水路の構想(「一貫水路計画通過地見取り図」)を立て、1906(明治39)年頃には小渋川合流点の下流約4km地点から飯田松川まで導水する計画を練っていた。現在の竜西一貫水路はこの計画のルートにほぼ沿っている。

  • 竜東一貫水路

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    ■竜東一貫水路 (りゅうとういっかんすいろ) 竜東地域の段丘上へ水供給を 県営灌漑排水事業」として建設された一貫水路。小渋ダムから松川町生田部奈までは発電用水と共用であるが、生田から農業用として分派し、飯田市下久堅まで流れる用水路。1967(昭和42)年着工、1979(昭和54)年に完成したこの用水路により、既成田407ha、開田141ha、畑地238haの計786haが灌漑されるようになった。 谷を渡る箇所には、虻川水路橋や小川サイフォンを見ることができる。 ◇高位段丘地域 竜東地域の段丘上の人々は、南アルプスの前山である伊那山脈に水源を依存してきたが、伊那山脈から流出する13の支・渓流の水量は極めて少なく、さらにこれらの各支川は、段丘面と河床との高低差が100~200mに達する深い谷をつくっているため、各村は用水確保に困難をきたしていた。 ◇山間地帯の用水路 幹線水路は山間地帯を貫くため、総延長距離16.7kmの96%が隧道(10.9km)と逆サイフォン部分(5.2km)で占められ、開渠・暗渠等はわずか0.6kmである。

  • (旧)深沢川水路橋

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    ■(旧)深沢川水路橋 (きゅうふかさわがわすいろきょう) 用水から道路へ、役割変わったラーメン橋 西天竜幹線水路事業で深沢川(箕輪町)の谷を越えるために造られた水路橋。1927(昭和2)年に完成した。日本の近代土木遺産(現存する重要な土木構造物2800選)及び信濃の橋百選に選定されている。 ◇地元の要望で 旧)深沢川水路橋は11径間の鉄筋コンクリートラーメン構造の橋。しかし、管理の大変さから1938(昭和13)年にはサイフォン(水路を地下に潜らせて谷を渡る)による仕組みに切り替わった。この時点で水路橋の役目は終わったが、地元の強い要望で町道(重量制限6t)に転用されている。 ◇ラーメン構造 ラーメン (Rahmen) とは構造形式のひとつで、長方形に組まれた骨組み(部材)の各接合箇所を剛接合(柱と梁が一体化したように接合)したもの。ドイツ語で『額縁』の意

  • 伝兵衛五井(小原井筋・竜勝寺沢水路橋)

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    ■伝兵衛五井(小原井筋・竜勝寺沢水路橋) (でんべえごい) 村々を富ませた伝兵衛五井 伊東伝兵衛が手がけた、黒河内新井筋(お鷹岩井筋)、小原井筋、大島二番井、鞠が鼻井筋(伝兵衛井筋)、上伊那井筋(伝兵衛堰)の五井(ごい)。伊東伝兵衛が書き残した図面が伊東家に残されている。 ◇維持・管理 三峰川扇状地左岸は鞠が鼻井筋(伝兵衛井筋)、小原井筋などによって、扇状地右岸は、大島二番井などの開削によって開発されたが、その後も、復旧・再建工事など、多くの人々の努力による維持管理や改良が必要であった。 ◇伊東 伝兵衛 江戸時代後期、1801(享和元)年に現在の伊那市長谷杉島の旧家に生まれ、水利事業に大きな功績を残した。

  • 伝兵衛五井(黒河内新井筋)

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    ■伝兵衛五井(黒河内新井筋) (でんべえごい) 村々を富ませた伝兵衛五井 伊東伝兵衛が手がけた、黒河内新井筋(お鷹岩井筋)、小原井筋、大島二番井、鞠が鼻井筋(伝兵衛井筋)、上伊那井筋(伝兵衛堰)の五井(ごい)。伊東伝兵衛が書き残した図面が伊東家に残されている。 ◇維持・管理 三峰川扇状地左岸は鞠が鼻井筋(伝兵衛井筋)、小原井筋などによって、扇状地右岸は、大島二番井などの開削によって開発されたが、その後も、復旧・再建工事など、多くの人々の努力による維持管理や改良が必要であった。 ◇伊東 伝兵衛 江戸時代後期、1801(享和元)年に現在の伊那市長谷杉島の旧家に生まれ、水利事業に大きな功績を残した。

  • 伝兵衛五井(大島二番井)

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    ■伝兵衛五井(大島二番井) (でんべえごい) 村々を富ませた伝兵衛五井 伊東伝兵衛が手がけた、黒河内新井筋(お鷹岩井筋)、小原井筋、大島二番井、鞠が鼻井筋(伝兵衛井筋)、上伊那井筋(伝兵衛堰)の五井(ごい)。伊東伝兵衛が書き残した図面が伊東家に残されている。 ◇維持・管理 三峰川扇状地左岸は鞠が鼻井筋(伝兵衛井筋)、小原井筋などによって、扇状地右岸は、大島二番井などの開削によって開発されたが、その後も、復旧・再建工事など、多くの人々の努力による維持管理や改良が必要であった。 ◇伊東 伝兵衛 江戸時代後期、1801(享和元)年に現在の伊那市長谷杉島の旧家に生まれ、水利事業に大きな功績を残した。

  • 伝兵衛五井(鞠ヶ鼻随道跡)

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    ■伝兵衛五井(鞠ヶ鼻随道跡) (でんべえごい) 村々を富ませた伝兵衛五井 伊東伝兵衛が手がけた、黒河内新井筋(お鷹岩井筋)、小原井筋、大島二番井、鞠が鼻井筋(伝兵衛井筋)、上伊那井筋(伝兵衛堰)の五井(ごい)。伊東伝兵衛が書き残した図面が伊東家に残されている。 ◇維持・管理 三峰川扇状地左岸は鞠が鼻井筋(伝兵衛井筋)、小原井筋などによって、扇状地右岸は、大島二番井などの開削によって開発されたが、その後も、復旧・再建工事など、多くの人々の努力による維持管理や改良が必要であった。 ◇伊東 伝兵衛 江戸時代後期、1801(享和元)年に現在の伊那市長谷杉島の旧家に生まれ、水利事業に大きな功績を残した。

  • 伝兵衛五井(鞠ヶ鼻井筋/水路改修記念碑)

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    ■伝兵衛五井(鞠ヶ鼻井筋/水路改修記念碑) (でんべえごい) 村々を富ませた伝兵衛五井 伊東伝兵衛が手がけた、黒河内新井筋(お鷹岩井筋)、小原井筋、大島二番井、鞠が鼻井筋(伝兵衛井筋)、上伊那井筋(伝兵衛堰)の五井(ごい)。伊東伝兵衛が書き残した図面が伊東家に残されている。 ◇維持・管理 三峰川扇状地左岸は鞠が鼻井筋(伝兵衛井筋)、小原井筋などによって、扇状地右岸は、大島二番井などの開削によって開発されたが、その後も、復旧・再建工事など、多くの人々の努力による維持管理や改良が必要であった。 ◇伊東 伝兵衛 江戸時代後期、1801(享和元)年に現在の伊那市長谷杉島の旧家に生まれ、水利事業に大きな功績を残した。

  • 木曽山用水(入れ口)

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    ■木曽山用水(入り口) (きそやまようすい) 日本海への水を峠越しで引いた命の用水 奈良井川の源流白川より水を取り、権兵衛峠まで山腹を等高線に沿うようにして導き、峠を越えて北沢川へ流すための水路。経ヶ岳山麓扇状地上の四箇村(与地・大萱・中条・上戸(あがっと))は幕府領であり、高遠藩が水利権を持つ小沢川から取水ができず、灌漑用水に恵まれていなかった。小沢川下流の高遠領三箇村(御園・山寺・西伊那部)と幕府領である四箇村との用水確保の水争いは、1730(享保15)年頃から140年余に及んだ。1871(明治4)年、廃藩置県により筑摩県となり、水争いを治めるために県から派遣された本山盛徳(権中属(県の役職))により、小沢川の支川北沢川からの引水の許可がおりた。これは江戸時代には考えられない画期的なことであった。与地と大萱は、北沢川の赤岩と平岩からそれぞれ水を引いた。しかし、中条・上戸の村が小沢川から水を引くには充分な水量がなかったため、木曽谷の水を為替水の仕組みを利用して北沢川に流し取水することを計画した。1883(明治16)年、延長約12kmの用水路(木曽山用水(別名:上戸中条井))が完成した。

  • 御子柴艶三郎による井戸

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    ■御子柴艶三郎による井戸 (みこしばつやさぶろうによるいど) 命をかけた横井戸 扇状地末端の上荒井地区の水不足は深刻で、水争いが絶えなかった。1898(明治31)年、御子柴艶三郎は私財を投げ打ち、神に命を捧げる約束のもと横井戸を掘り、苦労の末に水脈を発見。1900(明治33年)12月、約束通り命を絶った。この井戸は思いのほか水量が多く、一帯の約40haが水田となった。水神宮・碑・穂坂式分水タンクなどが現存する。 ◇総延長 「水神宮」の両脇に2~5号井があり、1号井で合流した後に地表に出て分水槽へと流れこむ。 隧道の総延長は約600m。 ◇断層崖 艶三郎を祀った祠が「水神宮」の脇にある。 この祠は小黒川断層の断層崖に建てられており、横井戸が断層崖に掘られたことがよくわかる。横井戸の技術は、水の得られない砂漠で発達した技術で、シルクロードから伝来した。

  • 御子柴艶三郎による井戸(水神宮)

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    ■御子柴艶三郎による井戸(水神宮) (みこしばつやさぶろうによるいど) 命をかけた横井戸 扇状地末端の上荒井地区の水不足は深刻で、水争いが絶えなかった。1898(明治31)年、御子柴艶三郎は私財を投げ打ち、神に命を捧げる約束のもと横井戸を掘り、苦労の末に水脈を発見。1900(明治33年)12月、約束通り命を絶った。この井戸は思いのほか水量が多く、一帯の約40haが水田となった。水神宮・碑・穂坂式分水タンクなどが現存する。 ◇総延長 「水神宮」の両脇に2~5号井があり、1号井で合流した後に地表に出て分水槽へと流れこむ。 隧道の総延長は約600m。 ◇断層崖 艶三郎を祀った祠が「水神宮」の脇にある。 この祠は小黒川断層の断層崖に建てられており、横井戸が断層崖に掘られたことがよくわかる。横井戸の技術は、水の得られない砂漠で発達した技術で、シルクロードから伝来した。

  • 名古山の水除け

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    ■名古山の水除け (なごやまのみずよけ) 水害から家を守る 南信濃の南和田名古山のゆるい斜面は、遠山地震(1718(享保3)年8月22日 M7.0) による斜面崩れや、飛び石によってできたものである。その礫斜面を後世の人たちが石積みにして畑や屋敷をつくってきた。江戸時代につくられた水除けの堤防が残っている家があり、昭和の初めの土石流でも家を守った。 ◇名古山では 山からの土砂を跳ね返し、家を守るために造られた。そのため、水除けの向きは土砂の方向に対して斜めに造り、家を守る形となっている。 ◇水除けとは 水を防ぐための設備や道具。堤防のことを指す場合もある。

  • 姑射橋

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    ■姑射橋 (こやきょう) 四代にわたる橋の歴史 天竜川随一の景勝地「天竜峡」に架けられた、四代にわたる歴史のある橋。三六災害時の「天龍川氾濫最高水位之碑」が設置されている。信濃の橋百選に選定されている。 ◇姑射橋(こやきょう)の歴史 【初代姑射橋】1877(明治10)年竣工。舟下りの際、周りの景色にとけ込んだ初代姑射橋に多くの著名人が感激し、宣教師ウェストンはイギリスにも紹介した。 【二代目姑射橋】1905(明治38)年竣工。つり橋。 【三代目姑射橋】1932(昭和7)年竣工。鉄平石張りコンクリートアーチ。長く人々に親しまれたが、1961(昭和36)年の洪水を機に撤去。橋の門柱と袖垣は、川路小学校と龍江小学校の校門として移設されている。 【四代目姑射橋】1971(昭和46)年竣工。鋼ランガー桁。

  • 南原橋

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    ■南原橋 (みなばらはし) 鵞流峡に架かる橋 天竜川で最初に洪水でも流されない定橋が架けられたのが、南原橋。1870(明治3)年に完成した初代の南原橋は、橋脚を使わない「はね橋」構造であった。川幅が30間(54m)と比較的狭いが、断崖絶壁の鵞流峡に橋を架ける仕事は容易ではなかった。南原橋右岸川岸には、はね木を支えたと思われる穴が開いている。左岸側にある橋場稲荷境内には、1928(昭和3)年に建てられた南原橋の碑がある。 ◇はね橋構造 はね橋は、岸の岩盤に穴を開けてはね木を斜めに差し込み、中空に突き出させる。その上に同様に何本も重ねて遠くはねだしていく。この上に板を敷いて橋にする。この手法により、橋脚を立てずに架橋することが可能となった。 ◇橋の歴史 はね橋は洪水の際、岩盤に支えてあるはね木が水圧によって破壊され、流失してしまう。そのため、6代目の南原橋は吊り橋に代わっている。9代目の南原橋は当時東洋随一の規模と言われ、吊橋は鵞流峡の景観を一層高めた。現在の12代目の橋は、1975(昭和50)年竣工。

  • 北の沢眼鏡橋

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    ■北の沢眼鏡橋 (きたのさわめがねばし) 煉瓦造りのアーチ橋 北の沢川(辰野町)の谷を最短ルートで渡ることができるように造られた橋。1889(明治22)年に完成。橋台が石積み、アーチ部は煉瓦積みで、「眼鏡橋(めがねばし)」と呼ばれた。国登録有形文化財及び信濃の橋百選に選定されている。 ◇田切地形 伊那谷を南北に縦断する三州街道(現国道153号)は、河岸段丘がつくる多くの田切地形のため、渡河に苦労してきた。この地は、伊那谷最北の田切地形である。 ◇近代化遺産 戦後の改良で道自体が役割を終え、放置されていたが、近代化遺産として近年注目されるようになった。道路上からは見えないが、沢へ下る道も整備されて容易に見学できるようになった。また、下流側にはアーチ型の橋面が残っている。

  • 坂戸橋

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    ■坂戸橋 (さかどばし) 優美なアーチは国の文化財 春は桜のトンネル 1933(昭和8)年に完成した優美な鉄筋コンクリートアーチ橋。建設当時、鉄筋コンクリートアーチ橋としては、我が国最大のスパンを誇った。コンクリートでありながら木彫の面取りを採り入れ、柱は上に細くそそり立つ。2010(平成22)年に国の登録有形文化財に登録され、信濃の橋百選に選定されている。 ◇橋への要望 坂戸は古くからの渡船場だった。つり橋が架けられたのは明治時代だが、危険な上に維持管理に苦労した。大正期からは堅固で安全な橋の架設の要望が高まった。 ◇現在 橋の完成を喜んだ住人たちは、周辺に多くの桜やツツジを植えた。その後の努力もあり、春は橋詰が桜のトンネルのようになり、ドライバーがひと休みするほどの名所となっている。

  • 小渋橋

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    ■小渋橋 「伊那谷三六災害」を記憶する3連アーチ 三六災害の際に発生した大西山の大崩壊は、42名の命を奪った。三六災害で一帯が賽の河原と化した中で、変わらぬ姿で架かっていた3連アーチの橋。アーチと桁側面のへこみがしっかりと造られ、コンクリート橋の外観を引き締めている。2011(平成23)年に国の登録有形文化財に登録され、信濃の橋百選に選定されている。 ◇川の合流点 南アルプス赤石岳に発する小渋川が狭い峡谷から解放され、大鹿村大河原で青木川と合流する少し上流に架かる橋が小渋橋である。 ◇現在 以前は国道152号の橋だったが、その座を下流の新橋に譲り、現在は村道橋となっている。

  • 時又港

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    ■時又港 (ときまたこう) 隆盛を極めた通船業 通船の最盛期を迎えた明治の終わりから昭和の初めにかけて、天竜川は伊那谷と遠州地方をつなぐ重要な水の道として栄えた。 時又付近の川瀬は深く緩やかに澱み、絶好の船着場であった。 その後、各所に設けられた発電ダムにより、水の道は分断されて終焉した。現在の時又港は、観光遊船(弁天港~時又港)の到着場所として利用されている。 ◇定期客船 明治時代に入ると、鉄道の普及や道路の整備によって、通船にも変化がみられた。1891(明治24)年の宣教師ウェストンの船下り以降、時又の名は海外にまで知れ渡った。乗船客の増加に伴い、定期客船が時又~中ノ島(現浜松市)間を月に12回運航するようになった。 ◇舟下りと積荷 下り便に米や柿等の荷物と乗客とを1船に乗せ、旅客は船下りを楽しみ、上り便には和紙の原料のコウゾ、魚、茶、塩等が積まれた。現在の時又は、高い石堤ができ、昔の通船の港としての面影はほとんど残されていない。

  • 千畳敷カール

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    ■千畳敷カール (せんじょうじきかーる) 山の麓から見える氷河地形 千畳敷カールは、宝剣岳直下に広がるU字形の氷河地形のこと。駒ヶ根市の町中から見える。伊那谷は日本で唯一、盆地底から氷河地形が見える場所である。氷期には、千畳敷は一年中氷に閉ざされ、氷が谷沿いに流れていた。カールはそのときの氷河によって作られた地形である。カールの先端には、氷河によって押し出された石や土が固まってできたモレーンとよばれる大きな丘がある。 ◇雪崩 カール壁ではしばしば雪崩が起きるが、モレーンの上部では雪崩が起きる心配がないため、標高2,612mにあるロープウェイの終着駅はモレーンの上に作られている。 ◇お花畑 千畳敷カールには、高山植物の種類が豊富で見事なお花畑がある。植物の分布は、ほぼ標高2500mを境にして亜高山帯と高山帯に分かれる。カールを底から登山道に沿って稜線に上がっていくと、群落の変化がよくわかる。

  • 霞堤

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    ■霞堤 (かすみてい) 霞がたなびく三峰川の堤防 堤防の一部を切り、下流側の堤防を田んぼや村のある方へ斜め上流に延ばし、ある程度の長さにわたって上流からの堤防と並行するようにした治水構造物。洪水の一部を氾濫源に逆流するように導き、堤防の決壊を防ぐとともに洪水を調節する効果がある。 ◇肥沃な土砂 霞提の優れた点として、洪水で運ばれる土砂は、もともと上流の山林で形成された肥沃な土壌であり、それをそのまま下流に流すことなく、営農区域に蓄積する機能を有したことも挙げられる。農業さらに広くはエコロジーの視点を持った治水法として再評価されている。

  • 伊那街道(三州街道)

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    ■伊那街道(三州街道) (いなかいどう/さんしゅうかいどう) 馬による物資の交易 中馬の道 伊那街道は別名三州街道とも呼ばれる。中山道の塩尻宿から分岐し、辰野、伊那、駒ヶ根、飯田と南下、阿智村、浪合、平谷、根羽の各村、杣路峠を経て三河足助を経由し、岡崎で東海道に合流する。中馬で荷駄を運ぶ通商の道として、江戸時代には盛んに利用された。現在の国道153号線は、ほぼこの道筋をたどっている。浪合には復元された関所跡がある。 ◇脇街道 1593(文禄2)年、豊臣秀吉により開設。その後、1600(慶長5)年に徳川家康が五街道として木曽街道・甲州道中を開いたため、伊那街道の宿駅は飯田・高遠藩支配となり、その機能も特権も縮小され、脇街道として庶民や商人に利用されることになった。関所が少なく武家の通行もわずかで、古代より沿道に集落が開かれていたことから、旅人には便利であった。 ◇中馬 目的地まで付け通しで物資の輸送をする馬のことで、最初は街道周辺に住む農民の駄賃稼ぎとして始まった。川船に対して岡船とも呼ばれ、街道での物資輸送の主な担い手となった。

  • 泰阜ダム

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    ■泰阜ダム (やすおかだむ) 天竜川流域で古い歴史を持つダム 1935(昭和10)年に完成。天竜川流域でのダム開発は、大久保発電所・南向発電所についで泰阜ダム、平岡ダムが続く。工事のために、三信鉄道(現飯田線)が敷設された。日本の近代土木遺産(現存する重要な土木構造物2800選)に選定されている。 ◇戦時下の建設 第二次世界大戦前の1932(昭和7)年から工事が始まり、完成は戦時下の1935(昭和10)年。戦時色が強まる中、中京圏の電力需要を賄うことを目的に、地形面と補償問題を考慮した結果、泰阜村の門島地区が選定された。堤高36.9m、最大出力52,500kwは、当時国内最大の水力発電所であった。 ◇堆砂と洪水 土砂の河床への堆積とダムの堰上げに起因して、地元の人々は天竜峡の河床が上昇、洪水が頻発するようになったと訴え、ついに1950(昭和25)年の水害を契機に「泰阜ダム撤去」運動が起こった。堆砂率は1993(平成5)年で80.4%に達している。

  • 惣兵衛堤防

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    ■惣兵衛堤防 (そうべえていぼう) 古の治水構造物 中村惣兵衛により、1752(宝暦2)年に完成した堤防。大川除堤防、惣兵衛川除とも呼ばれる。出水ごとに補強工事が施され、明治以後、上下流に数条の堤防も新設された。1961(昭和36)年に発生した三六災害によって、惣兵衛堤防は破堤した。現在は「嘉永の水天宮(1850(嘉永3)年建立)」と「惣兵衛翁供養塔」(1854(安政元)年建立)が残る。 ◇堤防の石 惣兵衛堤防に使われた巨石は、1715(正徳5)年の未の満水の際に、大島川からの土石流によって運ばれた石であり、堤防建設現場へそりに乗せて運んだものであった。 ◇用水路の開削 堤防工事とあわせて用水路の開削が行われ、水口(取り入れ口)・水門なども造られた。この用水路は、市田では大井(天竜井あるいは間夫井)とも呼ばれ、座光寺では内井・中水門、上郷では前川・中川・大水門と呼ばれる。

  • 大橋

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    ■大橋 (おおはし) 東西南北の主街道が交差する要衝 古くは通船の船着場であった場所。今昔とも往来の要衝にあるこの橋は、近隣では大きさも際立っていたことから、自然に「大橋」の名が定着した。この橋の記録は、織田軍の侵攻(1582(天正10)年)の記述がある『下条記』に「伊那部前之橋」とあるのを筆頭に、『信濃国絵図』(1647(正保4)年)や絵巻『高藩探勝』(1743(寛保3)年)にも描かれるなど、古くから記録が残っている。長い期間「木橋」だったが、1933(昭和8)年に永久橋となった。信濃の橋百選に選定されている。 ◇陸運・通運 橋を通る道は国道361号。右岸の入舟で国道153号と交差する。東は高遠、西は権兵衛トンネルを抜けて木曽路の中山道(現国道19号)へと通じ、交通の要所であった。右岸の入舟には船着場があり、物資の集積地としての役割を果たしていた。 ◇伊那大橋 大橋が正式名称だが、伊那大橋とも呼ばれている。1885(明治18)年に本格的な木橋が架設され、1916(大正5)年に架け替えられた。その後架け替えられた橋が現在の橋である。

  • さんよりこより(川手の天伯社)

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    ■さんよりこより(川手の天伯社) 古風伝える天伯祭 美篶の川手地区の天伯様と富県桜井の天伯様に伝わる七夕祭りで、三峰川の洪水を鎮める目的で毎年8月7日の七夕祭の日に行われる。伝承によれば、室町時代の中期、1427(応永34)年、藤沢片倉(現高遠)に居られた天伯様が洪水によって富県桜井に流れ着き、その後再び洪水によって美篶川手に流れ着いた。これを縁として、桜井と川手に天伯様をお祀りしたのがはじまりとされ、足利時代の1472(文明4)年から続いていると言われている。 ◇川渡り 大人二人が鬼に扮し、子供たちは飾り竹を持って「さんよりこより(さぁーよってこいよぉーの意)」と唱えながら鬼の周りをぐるぐると周る。鬼が太鼓を叩くと、子供達は手にした飾り竹で鬼を滅多打ちにし、その後、ご神体の御輿をかついで三峰川を渡り、川手の天伯様から桜井の天伯様へ向かう。 ◇洪水を鎮める 洪水を起こす疫病神(鬼)を叩きつぶし、洪水を鎮める神事とされ、「さんよりこより」と呼ばれるのはかけ声からきたもの。

  • さんよりこより(桜井の天伯社)

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    ■さんよりこより(桜井の天伯社) 古風伝える天伯祭 美篶の川手地区の天伯様と富県桜井の天伯様に伝わる七夕祭りで、三峰川の洪水を鎮める目的で毎年8月7日の七夕祭の日に行われる。伝承によれば、室町時代の中期、1427(応永34)年、藤沢片倉(現高遠)に居られた天伯様が洪水によって富県桜井に流れ着き、その後再び洪水によって美篶川手に流れ着いた。これを縁として、桜井と川手に天伯様をお祀りしたのがはじまりとされ、足利時代の1472(文明4)年から続いていると言われている。 ◇川渡り 大人二人が鬼に扮し、子供たちは飾り竹を持って「さんよりこより(さぁーよってこいよぉーの意)」と唱えながら鬼の周りをぐるぐると周る。鬼が太鼓を叩くと、子供達は手にした飾り竹で鬼を滅多打ちにし、その後、ご神体の御輿をかついで三峰川を渡り、川手の天伯様から桜井の天伯様へ向かう。 ◇洪水を鎮める 洪水を起こす疫病神(鬼)を叩きつぶし、洪水を鎮める神事とされ、「さんよりこより」と呼ばれるのはかけ声からきたもの。

  • 遠山の霜月祭(和田・諏訪神社)

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    ■遠山の霜月祭(和田・諏訪神社) (とおやまのしもつきまつり) 伊那谷の民俗芸能 上村と南信濃に伝わる湯立神楽。両部神道による湯立祭りで、清和天皇の859~876(貞観年中)年に宮廷で行われていた祭事を模した湯立が、ほぼ原形のままで伝承されていると言われている。1979(昭和54)年に国重要無形民俗文化財の指定を受けた。12月上旬から翌年1月上旬までの1ヶ月間に、両村合わせて13の神社で行われている。(1神社は休止中) ◇湯立て神事 この神楽は伊勢神宮の内外で行われていた湯立神楽の系統を引く。天井に神降臨の座を示す白蓋を吊し、そのまわりにさまざまな切り紙を引きまわし、白蓋の下に大釜を据えて湯を立てる。その湯を神々に献ずるとともに、神の息吹のかかった湯を参集した人々に振り掛け、人々の魂を洗い清める。 ◇神事に込められた意味 神事の中心は水にかかわる湯立であり、神事全体を通じて防災意識がみられる。

  • 遠山の霜月祭(尾野島・正八幡神社)

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    ■遠山の霜月祭(尾野島・正八幡神社) (とおやまのしもつきまつり) 伊那谷の民俗芸能 上村と南信濃に伝わる湯立神楽。両部神道による湯立祭りで、清和天皇の859~876(貞観年中)年に宮廷で行われていた祭事を模した湯立が、ほぼ原形のままで伝承されていると言われている。1979(昭和54)年に国重要無形民俗文化財の指定を受けた。12月上旬から翌年1月上旬までの1ヶ月間に、両村合わせて13の神社で行われている。(1神社は休止中) ◇湯立て神事 この神楽は伊勢神宮の内外で行われていた湯立神楽の系統を引く。天井に神降臨の座を示す白蓋を吊し、そのまわりにさまざまな切り紙を引きまわし、白蓋の下に大釜を据えて湯を立てる。その湯を神々に献ずるとともに、神の息吹のかかった湯を参集した人々に振り掛け、人々の魂を洗い清める。 ◇神事に込められた意味 神事の中心は水にかかわる湯立であり、神事全体を通じて防災意識がみられる。

  • 遠山の霜月祭(木沢・正八幡神社)

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    ■遠山の霜月祭(木沢・正八幡神社) (とおやまのしもつきまつり) 伊那谷の民俗芸能 上村と南信濃に伝わる湯立神楽。両部神道による湯立祭りで、清和天皇の859~876(貞観年中)年に宮廷で行われていた祭事を模した湯立が、ほぼ原形のままで伝承されていると言われている。1979(昭和54)年に国重要無形民俗文化財の指定を受けた。12月上旬から翌年1月上旬までの1ヶ月間に、両村合わせて13の神社で行われている。(1神社は休止中) ◇湯立て神事 この神楽は伊勢神宮の内外で行われていた湯立神楽の系統を引く。天井に神降臨の座を示す白蓋を吊し、そのまわりにさまざまな切り紙を引きまわし、白蓋の下に大釜を据えて湯を立てる。その湯を神々に献ずるとともに、神の息吹のかかった湯を参集した人々に振り掛け、人々の魂を洗い清める。 ◇神事に込められた意味 神事の中心は水にかかわる湯立であり、神事全体を通じて防災意識がみられる。

  • 遠山の霜月祭(中立・稲荷神社)

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    ■遠山の霜月祭(中立・稲荷神社) (とおやまのしもつきまつり) 伊那谷の民俗芸能 上村と南信濃に伝わる湯立神楽。両部神道による湯立祭りで、清和天皇の859~876(貞観年中)年に宮廷で行われていた祭事を模した湯立が、ほぼ原形のままで伝承されていると言われている。1979(昭和54)年に国重要無形民俗文化財の指定を受けた。12月上旬から翌年1月上旬までの1ヶ月間に、両村合わせて13の神社で行われている。(1神社は休止中) ◇湯立て神事 この神楽は伊勢神宮の内外で行われていた湯立神楽の系統を引く。天井に神降臨の座を示す白蓋を吊し、そのまわりにさまざまな切り紙を引きまわし、白蓋の下に大釜を据えて湯を立てる。その湯を神々に献ずるとともに、神の息吹のかかった湯を参集した人々に振り掛け、人々の魂を洗い清める。 ◇神事に込められた意味 神事の中心は水にかかわる湯立であり、神事全体を通じて防災意識がみられる。

  • 遠山の霜月祭(下栗・捨五社大明神)

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    ■遠山の霜月祭(下栗・捨五社大明神) (とおやまのしもつきまつり) 伊那谷の民俗芸能 上村と南信濃に伝わる湯立神楽。両部神道による湯立祭りで、清和天皇の859~876(貞観年中)年に宮廷で行われていた祭事を模した湯立が、ほぼ原形のままで伝承されていると言われている。1979(昭和54)年に国重要無形民俗文化財の指定を受けた。12月上旬から翌年1月上旬までの1ヶ月間に、両村合わせて13の神社で行われている。(1神社は休止中) ◇湯立て神事 この神楽は伊勢神宮の内外で行われていた湯立神楽の系統を引く。天井に神降臨の座を示す白蓋を吊し、そのまわりにさまざまな切り紙を引きまわし、白蓋の下に大釜を据えて湯を立てる。その湯を神々に献ずるとともに、神の息吹のかかった湯を参集した人々に振り掛け、人々の魂を洗い清める。 ◇神事に込められた意味 神事の中心は水にかかわる湯立であり、神事全体を通じて防災意識がみられる。

  • 伊那市諏訪形の獅垣

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    ■伊那市諏訪形の猪垣 (いなしすわがたのししがき) 農作物食害を防ぐ 江戸時代、イノシシやシカなどによる農作物への被害を防ぐために、藤沢川から大田切川に至る標高700mの地域に造られた柵。現在は、伊那市史跡の猪垣が残り、土手の上に乱杭を連ねた木柵が復元されている。 ◇動物たちとの闘い 昔の人が動物から農作物を守るために闘い続けてきたことを示す貴重な資料となっている。このような猪垣は、西山山麓に多く構築されたものとされる。 ◇村総出の再普請 1808(文化5)年、諏訪形の発案で宮田3か村(中越、下牧、表木)と赤木村と共同で行った再普請は大規模で、全体で延べ7200人余。諏訪形だけでも延べ2600人余の人手が出て修築が行われた。

  • 遠山の霜月祭(中郷・正八幡宮)

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    ■遠山の霜月祭(中郷・正八幡宮) (とおやまのしもつきまつり) 伊那谷の民俗芸能 上村と南信濃に伝わる湯立神楽。両部神道による湯立祭りで、清和天皇の859~876(貞観年中)年に宮廷で行われていた祭事を模した湯立が、ほぼ原形のままで伝承されていると言われている。1979(昭和54)年に国重要無形民俗文化財の指定を受けた。12月上旬から翌年1月上旬までの1ヶ月間に、両村合わせて13の神社で行われている。(1神社は休止中) ◇湯立て神事 この神楽は伊勢神宮の内外で行われていた湯立神楽の系統を引く。天井に神降臨の座を示す白蓋を吊し、そのまわりにさまざまな切り紙を引きまわし、白蓋の下に大釜を据えて湯を立てる。その湯を神々に献ずるとともに、神の息吹のかかった湯を参集した人々に振り掛け、人々の魂を洗い清める。 ◇神事に込められた意味 神事の中心は水にかかわる湯立であり、神事全体を通じて防災意識がみられる。

  • 遠山の霜月祭(程野・八幡神社)

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    ■遠山の霜月祭(程野・八幡神社) (とおやまのしもつきまつり) 伊那谷の民俗芸能 上村と南信濃に伝わる湯立神楽。両部神道による湯立祭りで、清和天皇の859~876(貞観年中)年に宮廷で行われていた祭事を模した湯立が、ほぼ原形のままで伝承されていると言われている。1979(昭和54)年に国重要無形民俗文化財の指定を受けた。12月上旬から翌年1月上旬までの1ヶ月間に、両村合わせて13の神社で行われている。(1神社は休止中) ◇湯立て神事 この神楽は伊勢神宮の内外で行われていた湯立神楽の系統を引く。天井に神降臨の座を示す白蓋を吊し、そのまわりにさまざまな切り紙を引きまわし、白蓋の下に大釜を据えて湯を立てる。その湯を神々に献ずるとともに、神の息吹のかかった湯を参集した人々に振り掛け、人々の魂を洗い清める。 ◇神事に込められた意味 神事の中心は水にかかわる湯立であり、神事全体を通じて防災意識がみられる。

  • 遠山の霜月祭(小道木・熊野社)

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    ■遠山の霜月祭(小道木・熊野社) (とおやまのしもつきまつり) 伊那谷の民俗芸能 上村と南信濃に伝わる湯立神楽。両部神道による湯立祭りで、清和天皇の859~876(貞観年中)年に宮廷で行われていた祭事を模した湯立が、ほぼ原形のままで伝承されていると言われている。1979(昭和54)年に国重要無形民俗文化財の指定を受けた。12月上旬から翌年1月上旬までの1ヶ月間に、両村合わせて13の神社で行われている。(1神社は休止中) ◇湯立て神事 この神楽は伊勢神宮の内外で行われていた湯立神楽の系統を引く。天井に神降臨の座を示す白蓋を吊し、そのまわりにさまざまな切り紙を引きまわし、白蓋の下に大釜を据えて湯を立てる。その湯を神々に献ずるとともに、神の息吹のかかった湯を参集した人々に振り掛け、人々の魂を洗い清める。 ◇神事に込められた意味 神事の中心は水にかかわる湯立であり、神事全体を通じて防災意識がみられる。

  • 遠山の霜月祭(八日市場・日月神社)

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    ■遠山の霜月祭(八日市場・日月神社) (とおやまのしもつきまつり) 伊那谷の民俗芸能 上村と南信濃に伝わる湯立神楽。両部神道による湯立祭りで、清和天皇の859~876(貞観年中)年に宮廷で行われていた祭事を模した湯立が、ほぼ原形のままで伝承されていると言われている。1979(昭和54)年に国重要無形民俗文化財の指定を受けた。12月上旬から翌年1月上旬までの1ヶ月間に、両村合わせて13の神社で行われている。(1神社は休止中) ◇湯立て神事 この神楽は伊勢神宮の内外で行われていた湯立神楽の系統を引く。天井に神降臨の座を示す白蓋を吊し、そのまわりにさまざまな切り紙を引きまわし、白蓋の下に大釜を据えて湯を立てる。その湯を神々に献ずるとともに、神の息吹のかかった湯を参集した人々に振り掛け、人々の魂を洗い清める。 ◇神事に込められた意味 神事の中心は水にかかわる湯立であり、神事全体を通じて防災意識がみられる。

  • 松川プール

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    ■松川プール (まつかわぷーる) 「丘の上」の市民プール 1925(大正14)年、鼎村の本田亥太郎(ほんだいたろう)が私有地を提供し、松川の水を引き入れた「松川プール」を建設した。松川プールは周辺の学童・生徒や多くの住民に利用され、水泳大会が開かれたほか、プールサイドに植えられた桜が花見の名所にもなり、飯田市郊外の身近な行楽地であった。 ◇水不足 飯田市中心部は台地上に立地し、生活用水の確保が大きな課題であった。そのため、プールなどに使える水はなく、周辺の河川やため池で水泳をしていた。 ◇現在は 水質の問題や設備が充実したプールの要望が高まり、1960(昭和35)年、飯田市民プール建設に伴い、松川プールはしだいにその役割を終えた。現在は池になり、敷地はブライダル施設、周辺は桜の名所となっている。

  • 治部坂峠

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    ■治部坂峠 (じぶざかとうげ) 三州街道の最高標高地点 標高1,187m。治部坂峠は、阿智村(旧浪合村)と平谷村との境にある国道153号線で、三州街道の最高標高地点である。交通史としては、古くは1533(天文2)年に記録があり、1554(天文23)年には、武田信玄が伊那攻略のための軍用道路として改修した。1593(文禄2)年、飯田城主京極高知により平谷が宿場として制定され、中馬(馬の背に荷を乗せ運ぶ輸送手段)の宿として繁栄した。1891(明治24)年、三州街道として開通し、運送馬車が通行するようになり、1923(大正12)年に、初めての自動車(トラック)が通行した。 ◇上村街道 平谷から鷹巣を越えて岐阜へ出る道を上村街道といい、室町中期以降には京都へ行く重要な道であった。街道沿いには上村街道で一番美しい石像といわれる「一番観音」(1901(明治34)年)が建立されている。 ◇関所の移転 1556(弘治2)年、武田信玄により現平谷村に信濃で最初の関所「滝之沢関所」が設置された。この場所は東西の谷が狭まり交通の難所であったため、1621(元和7)年に阿智村浪合の町頭へ移転し、1721(享保6)年には水害にあい、1722(享保7)年現在の関所跡のある地に移転した。

  • 権兵衛峠

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    ■権兵衛峠 (ごんべえとうげ) 木曽谷と伊那を結ぶ 権兵衛峠は経ヶ岳と駒ヶ岳連峰の鞍部に開かれた標高1,522mの峠。中仙道が通り宿場の多い木曽は、稲作に適さない地形のため米が不足していた。そこで木曽の牛方・古畑権兵衛が宿場側の意を受け、伊那谷より米の移入をスムーズにするため木曽谷と伊那谷との交通路として改修した。難工事の末、1696(元禄9)年に開通。財政難の高遠藩が借財のために領内の年貢米を木曽に送り出したという背景もあった。 ◇牛方と宿役人 峠開通計画の推進者は、古畑権兵衛だけでなく、福島宿の薬種屋の扇屋や、年寄永井三右衛門、宮越宿の年寄斎藤治右衛門らを中心とした木曽11 宿の宿役人であった。彼らは木曽で不足する米を、伊那から大量に搬入しようと考えた。これと木曽の牛方の駄賃稼ぎの要望とが一致して、新道の開削が計画されたと思われる。 ◇旧名は鍋掛峠 権兵衛は自らも道路改修に参加し、2 年をかけて24km に渡る道路を完成させた。米だけではなく文化や信仰の交流も容易になったその功績は大きく、いつしか鍋掛峠から権兵衛峠と呼ばれるようになった。

  • 分杭峠

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    ■分杭峠 (ぶんぐいとうげ) 古来文化移入の交通路 伊那市と下伊那郡大鹿村との境界に位置する標高1,424mの峠。静岡県浜松市の秋葉神社へ向かう街道として古くから利用された秋葉街道の峠の一つであり、重要な交通路であった。秋葉街道は、西日本の地質を内帯と外帯に二分する中央構造線の断層谷を利用した街道であり、分杭峠は中央構造線の谷中分水界にあたる。 ◇名の由来 江戸時代、高遠藩が領内を明確にするため峠上に「従是北(これよりきた)高遠領」と刻んだ石柱を建てた。これが当時の鹿塩村(幕府領)と市野瀬村(高遠領)を分ける分杭となった。明治の頃、陸地測量部の1/50,000地形図作成の際に「分杭峠」と明記され、名前が定着した。 ◇ゼロ磁場 有名な気功師によって世界有数の「ゼロ磁場」が発見された。科学的な判断はともかく、磁場に多くの人が癒しを求めて訪れる。

  • 杖突峠

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    ■杖突峠 (つえつきとうげ) 展望すばらしい峠 伊那市高遠町と茅野市の境界にある峠。標高1,247m。国道152号が通っている。杖突峠の西南西に位置する「守屋山」は諏訪大社のご神体であり、かつてこの峠では神降ろしの儀式が行われていた。降りてきた神がはじめてその杖を突く場所がこの峠であるとされたことから、杖突峠という名がついたとされる。 ◇杖突街道 高遠~杖突峠~諏訪大社上社を結ぶ街道。戦国期の軍用路として、江戸期には年間6000駄の物資を運ぶ中馬道として、さらには諏訪大社や秋葉山への信仰の道であった。古い面影を残す風情ある街道筋。 ◇急カーブの先に 諏訪側から峠に入る道はカーブの多い急斜面。糸魚川-静岡構造線の断層崖のためであるが、道中、カラマツ林が続き、芽吹きや紅葉の頃は特に美しい。登りきって「七曲」付近の展望台(峠の諏訪側1km)から見る眺望は絶景である。

  • 秋葉街道

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    ■秋葉街道 (あきはかいどう) 歴史の道・信仰の道 秋葉街道は、近世中・後期から、火防(ひぶせ)の神としても知られる秋葉神社参詣のために盛んに利用された道。①高遠町的場-長谷-分杭峠-大鹿村-地蔵峠-南信濃-青崩峠-遠州に至る道筋②飯田市八幡-飯田市下久堅・上久堅-小川路峠-南信濃で合流、の二つの道筋がある。秋葉信仰が広まる前から存在していた古い道で、諏訪からは、太平洋への最短経路であった。古来より、天竜川など大きな川は越えることが困難であった。中央構造線に沿う道は、直線でかつ、大きな川がないため東西間の交通路として盛んに使用された。 ◇秋葉街道の歴史 縄文期から、海へ出る道、海から塩を信州へ運ぶ道、さらに西日本との交流の道として利用されてきた。中世南北朝争乱時代、戦国動乱期には、いずれも戦場への軍用路とされた。江戸時代からは秋葉神社参詣としての往来が盛んとなった。この街道には多くの城館跡、神社、遺跡、伝説が残されている。 ◇山で採れる塩 秋葉街道沿いの大鹿村鹿塩(かしお)に湧き出る水には、海水と同じ濃度の塩分(1Lに30g)が含まれる。海水に含まれるニガリなどはなく、純粋な食塩水に似る。塩泉は海の岩板が下へ入り込んでいく時、地下深くまで沈み込んだときに搾り出されてくる。

  • 北川露頭

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    ■北川露頭 (きたがわろとう) 高さ5mの断層が間近で見られる 大鹿村を南北に貫く中央構造線北端、鹿塩川沿いに位置する中央構造線露頭。領家(りょうけ)変成帯(向かって左側)の花崗岩などと三波川(さんばがわ)変成帯(向かって右側)の緑色片岩などとの間に2列の異色の断層破砕帯が観察できる。長野県天然記念物に指定されている。2013(平成25)年10月、史跡名勝天然記念物指定に指定された。 ◇地質を学ぶ ■露頭:地層や岩石が直接露出している崖や河床のこと。■中央構造線:西南日本の中央部を横断する我が国で最も長大で重要な構造線(断層)。■領家変成帯/三波川変成帯:中央構造線により北側の内帯(領家変成帯)と南側の外帯(三波川変成帯)に変成岩帯が分かれている。名称はいずれも地名に由来する。■断層岩:断層に沿って、地下深くまで両側の岩石が変成岩(断層運動による高い圧力や温度により、新しい鉱物や組織がつくられ姿や形をかえた岩石)となっている。

  • 安康露頭

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    ■安康露頭 (あんこうろとう) 全く異質の岩石が接する断層が観察できる 大鹿村を南北に貫く中央構造線南端、青木川沿いに位置する、幅約30mにおよぶ巨大な中央構造線露頭。 安康は地名。 領家(りょうけ)変成帯(向かって左側)の花崗岩などと三波川(さんばがわ)変成帯(向かって右側)の緑色片岩などとの間に2列の異色の断層破砕帯が観察できる。長野県天然記念物に指定されている。2013(平成25)年10月、史跡名勝天然記念物指定に指定された。 ◇地質を学ぶ ■露頭:地層や岩石が直接露出している崖や河床のこと。■中央構造線:西南日本の中央部を横断する我が国で最も長大で重要な構造線(断層)。■領家変成帯/三波川変成帯:中央構造線により北側の内帯(領家変成帯)と南側の外帯(三波川変成帯)に変成岩帯が分かれている。名称はいずれも地名に由来する。■断層岩:断層に沿って、地下深くまで両側の岩石が変成岩(断層運動による高い圧力や温度により、新しい鉱物や組織がつくられ姿や形をかえた岩石)となっている。

  • 松川第一発電所

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    ■松川第一発電所 (まつかわだいいちはつでんしょ) 伊那谷初の電気事業 1899(明治32)年飯田電灯(株)は、米国製発電機を使って伊那谷で最初の発電所(松川第一発電所)を建設した。天竜川支流松川の流れを利用。最大出力75kW。1930(昭和5)年に廃止され、現在は、発電に使う水を通した導水路(石積み)が左岸に残っている。 ◇水車ランナー 2003(平成15)年、松川第一発電所で使用されていた水車ランナー(羽根車)2個が発見された(中部地方に残る最古の水車)。1個は中部電力飯田営業所に展示されている。 ◇導水路跡松川第一発電所の取水口は、現在の松川第三発電所放水口あたりにあり、導水路の下流にはきれいに整えられた石組みの水槽跡も見つかった。1916(大正5)年に、増設し、石造りに造り替えられたので、その時に建設されたものと推測される。

  • 切石公園

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    ■切石公園 (きりいしこうえん) 日本唯一、氷河によって運ばれた巨石が点在 この公園を中心に、「切石」「重ね石」「地蔵石」「袋石」「ござ石」「蛇石」「小袋石」という七つの巨石(七名石)が点在する。氷河の力と、洪水の力によって、駒ヶ岳の千畳敷から運ばれてきた石である。太田切川扇状地を造る巨石は、約10万年前以降、中田切川まで広がっている。当時の太田切川扇状地の広がりは広大であった。七名石のひとつ、切石の直下には活断層があり、地盤の山側が高くなっている。地盤の動きで直上の巨石が割れたものと考えられている。 ◇迷い子石(まいごいし) 七名石は、約2万年前に氷期の氷河により千畳敷カールからしらび平まで運び出され、後の山つなみによって駒ヶ根高原へ運び出されたものと考えられている。こうした石を迷い子石といい、ヨーロッパではよく見られる。 ◇周辺の様子 公園の周辺は夫婦池という二つの池が中心にある。池ができる前は牧場であった。柵をめぐらすため植えたカラマツが南側に見事な並木として残っている。

  • 深見池

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    ■深見池 (ふかみいけ) 田園の中の素朴な池 深見池は最大深度8.5m、周囲700mの天然の湖。伊那谷では最大の天然湖である。1662(寛文2)年の大地震の時にできた大きな地すべりの窪地に七つの池ができ、それがひとつになってできたといわれる。この時の地すべりは第三紀層地すべりであり、土塊は天竜川対岸の我科まで届いている。周囲が丘に囲まれていて風による水の循環が少ないため、夏期には水面下4mより深い層には酸素が届かず、硫化水素を含むようになる。水中の硫酸イオン量が多い火山や汽水地域でないにもかかわらず、夏期の光合成硫黄細菌層が発達するのは大変珍しい。国際学会でも発表され、「LAKE FUKAMI IKE」として国際的にも著名。 ◇光合成硫黄細菌 光合成を行って生育する細菌。硫化水素などを利用するので酸素を放出しない。深見池では深さ4~6m付近で厚い層をつくり、窒素・リン酸などの栄養分を消費するため、アオコの発生が少なく水の汚濁が進まない。 ◇祗園祭 水田に囲まれ段丘のくぼみにできた大きな水たまりといった感のあるこの池で、7月第4土曜日に行われる祗園祭。神事を行った後、湖上から花火を打ち上げる。県指定無形民俗文化財。

  • 大平峠

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    ■大平峠 (おおだいらとうげ) 伊那と木曽、ふたつの谷を結ぶ 飯田市と南木曽町の境にある峠(標高1,385m)。大平街道は伊那と木曽、両方の谷を最短距離で結ぶ街道で、大平峠と飯田峠の二つの峠がある。この道は16世紀後半から活用され、1755(宝暦5)年に飯田藩主堀親長が改修した後は、清内路峠より距離的に近い大平峠が人馬の往来で栄えた。大平には旅籠、休み茶屋、問屋もできて宿場町の機能を持つようになった。明治・大正には大平宿として隆盛した。しかし、飯田線の全線開通、自動車輸送の発達により宿場としての機能は衰え、1970(昭和45)年、集落は集団移住し、廃村となった。 ◇県民の森 標高1,300mに広がる高原で、美しい天然林の中に散策路も設けられ、南アルプス、御嶽山、遠方には乗鞍岳も見える。県民の森周辺の池はモリアオガエルの産卵池としても有名である。(開園期間5月~11月) ◇大平宿をのこす会 集団移住した当時のまま残されている民家には、どの家にもいろりがあり、宿泊施設として貸し出されている。 昔ながらの生活体験ができる。 観光面の効果や宿場の遺構として文化的な価値も高いが、会の発端は自然保護活動が目的であった。

  • 天龍村の霜月神楽(池大神社)

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    ■天龍村の霜月神楽(池大神社) (てんりゅうむらのしもつきかぐら) 命を蘇らせる春迎えのお祭り 毎年正月の1月3日から5日にかけ、向方(むかがた)地区(天照大神社 お潔(きよ)め祭)、坂部(さかんべ)地区(諏訪神社 冬祭)、大河内地区 (池大神社 例祭)で行われる冬祭り。いずれの祭りもかまどを築いて湯をたぎらせ、それを神々に献じてから人々に振りかけて魂を清め、同時に神歌をうたい、あるいは舞をまうという湯立(ゆだて)神楽の形式をとどめており、祭り全体から水の神聖さが伝わる。水を利用した神事は、様々な水象現象に繋がる。1978(昭和53)年、国重要無形民俗文化財に指定された。3地区のうち坂部は、仮面の舞など豊富な内容をもっている。 ◇冬至と霜月神楽 神楽は、本来、旧暦霜月の冬至の前後に夜を徹して行われた。冬至は、太陽の死と再生を想起させ、すべてが再生する重要な節目とされた。聖なる湯を沸かし浴びる天龍村の霜月神楽は、生命のよみがえりを願って行われる。 ◇神楽の特徴 天龍村・霜月神楽の特徴は二つある。一つは、湯立を厳粛に、くり返し行う点、もう一つは、湯立が特定の職掌だけでなく、集落をあげて大規模に行われる点である。

  • 天龍村の霜月神楽(天照大神宮)

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    ■天龍村の霜月神楽(天照皇大神宮) (てんりゅうむらのしもつきかぐら) 命を蘇らせる春迎えのお祭り 毎年正月の1月3日から5日にかけ、向方(むかがた)地区(天照大神社 お潔(きよ)め祭)、坂部(さかんべ)地区(諏訪神社 冬祭)、大河内地区 (池大神社 例祭)で行われる冬祭り。いずれの祭りもかまどを築いて湯をたぎらせ、それを神々に献じてから人々に振りかけて魂を清め、同時に神歌をうたい、あるいは舞をまうという湯立(ゆだて)神楽の形式をとどめており、祭り全体から水の神聖さが伝わる。水を利用した神事は、様々な水象現象に繋がる。1978(昭和53)年、国重要無形民俗文化財に指定された。3地区のうち坂部は、仮面の舞など豊富な内容をもっている。 ◇冬至と霜月神楽 神楽は、本来、旧暦霜月の冬至の前後に夜を徹して行われた。冬至は、太陽の死と再生を想起させ、すべてが再生する重要な節目とされた。聖なる湯を沸かし浴びる天龍村の霜月神楽は、生命のよみがえりを願って行われる。 ◇神楽の特徴 天龍村・霜月神楽の特徴は二つある。一つは、湯立を厳粛に、くり返し行う点、もう一つは、湯立が特定の職掌だけでなく、集落をあげて大規模に行われる点である。

  • 入船船着場

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    ■入舟船着場 (いりふねふなつきば) 通船の北の拠点 江戸時代から船着場として利用された場所。明治になって通船が盛んになり、運行も多く行われた。明治30年代になると、坂下と時又間の定期通船も始まった。大橋のたもとにあり、弁財天宮の脇に1971(昭和46)年建立の史跡標柱が残されている。 ◇街道の交差点 伊那街道、金沢街道、権兵衛峠を経て木曽に通ずる街道の分岐点で、天竜川まで100mという好立地にある。各街道から運ばれてきた品物を、この入舟の地で船に積み換え、下伊那竜東などの村々へ大量の物資として運搬・供給した。 ◇定期通船 1826(明治26)年、南箕輪村の加藤敬亮は入舟と別府・時又に発着場を置いて、坂下(入舟)~時又間を下り5時間、上り30時間を費やして、月12回貨物を運搬した。現在は、通船も船着場としての利用もされていない。

  • びったら橋

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    ■びったら橋 (びったらばし) 氾濫との戦いを物語る 江戸時代末期まで、諏訪湖の排水を妨げるような橋を架設することができなかったことから、川の中に石を置き、その上に板を渡して渡った。板が安定するように石の上に平らなくぼみを彫り、増水時、板が浮いても流れないように、綱を石の穴に通して結んだ。通行人が歩くと、橋板がたわんで川面を「びたびた」と打つため、「びったら橋」といわれたという。 ◇諏訪湖の氾濫 江戸時代、諏訪湖はよく氾濫した。このため、諏訪藩は、流れを妨げるものを天竜川に設置することを認めなかった。橋も認められず、渡し舟か、びったら橋が頼りだった。 ◇橋原橋 旧蹟年代記」によれば、橋原橋について「弘化二巳年(1845(弘化2)年)始テ天竜川ニ長サ三十二間(約57.6m)ノ橋掛ル」とあり、この年の橋原橋の架設によって、びったら橋は取り払われた。

  • 遠山の霜月祭(上町・正八幡宮)

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    ■遠山の霜月祭(上町・正八幡宮) (とおやまのしもつきまつり) 伊那谷の民俗芸能 上村と南信濃に伝わる湯立神楽。両部神道による湯立祭りで、清和天皇の859~876(貞観年中)年に宮廷で行われていた祭事を模した湯立が、ほぼ原形のままで伝承されていると言われている。1979(昭和54)年に国重要無形民俗文化財の指定を受けた。12月上旬から翌年1月上旬までの1ヶ月間に、両村合わせて13の神社で行われている。(1神社は休止中) ◇湯立て神事 この神楽は伊勢神宮の内外で行われていた湯立神楽の系統を引く。天井に神降臨の座を示す白蓋を吊し、そのまわりにさまざまな切り紙を引きまわし、白蓋の下に大釜を据えて湯を立てる。その湯を神々に献ずるとともに、神の息吹のかかった湯を参集した人々に振り掛け、人々の魂を洗い清める。 ◇神事に込められた意味 神事の中心は水にかかわる湯立であり、神事全体を通じて防災意識がみられる。

  • 夜川瀬地区の氾濫

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    ■夜川瀬地区の氾濫 (よがわせちくのはんらん) 土砂により造られた夜川瀬地区 1718(享保3)年の地震(遠山地震)により、盛平山(もりへいざん)の北斜面が崩落した。この時にできた山が出山(正しくは出震山)であり、亡くなった人の供養塔(片町家の墓標)もある。遠山川が堰き止められて天然ダムができ、のちに決壊し、遠山川沿いにある和田集落の対岸の夜川瀬に土砂が流出・堆積して、氾濫原をつくった。 ◇夜川瀬地区 714(和銅7)年の大地震により、山体崩壊が起きた。夜川瀬は、この時の山崩れにより流されてきた岩石で造られている。(埋没林のできた由来も同じ地震)。夜川瀬の地名の起源はわからないが、1718(享保3)年の遠山地震以前から使われている古文書がある。 ◇遠山地震とは 1718年(享保3)7月26日(現在の暦で8月22日)に発生した遠山谷を震源とする直下型地震。中央構造線の活動によるとされる。

  • 木曽山用水

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    ■木曽山用水 (きそやまようすい) 日本海への水を峠越しで引いた命の用水 奈良井川の源流白川より水を取り、権兵衛峠まで山腹を等高線に沿うようにして導き、峠を越えて北沢川へ流すための水路。経ヶ岳山麓扇状地上の四箇村(与地・大萱・中条・上戸(あがっと))は幕府領であり、高遠藩が水利権を持つ小沢川から取水ができず、灌漑用水に恵まれていなかった。小沢川下流の高遠領三箇村(御園・山寺・西伊那部)と幕府領である四箇村との用水確保の水争いは、1730(享保15)年頃から140年余に及んだ。1871(明治4)年、廃藩置県により筑摩県となり、水争いを治めるために県から派遣された本山盛徳(権中属(県の役職))により、小沢川の支川北沢川からの引水の許可がおりた。これは江戸時代には考えられない画期的なことであった。与地と大萱は、北沢川の赤岩と平岩からそれぞれ水を引いた。しかし、中条・上戸の村が小沢川から水を引くには充分な水量がなかったため、木曽谷の水を為替水の仕組みを利用して北沢川に流し取水することを計画した。1883(明治16)年、延長約12kmの用水路(木曽山用水(別名:上戸中条井))が完成した。

  • 太田切川 橋場礎石

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    ■太田切川 橋場礎石 (おおたぎりがわはしばそせき) 多くの逸話が残る 春日街道 春日街道は江戸時代初期に完成した街道。その街道沿いの太田切川に架けられた「はね橋」橋脚の礎石(そせき)。1968(昭和43)年2月、河川工事実施中に川のほぼ中央より発見された。礎石は河床に埋没している巨石(高さ約3m、幅約4.5m)に深さ13㎝、径35㎝の柱穴が穿(うが)ってある。この礎石によって春日街道の太田切川橋場跡が明確になった。この橋は、上野橋または北原橋と呼ばれており、明治中期まで光前寺への参拝道路であった。春日街道橋場跡碑が駒ヶ根側と宮田村側に建てられている。 ◇春日街道 1601(慶長6)年、飯田の小笠原秀政が春日淡路守を工事奉行として着工、7年後に完成させた道。伊那街道の西、段丘と西駒山麓の間の平地を飯田から上伊那に入り、辰野町まで続く道。豊臣・徳川による争いがあったこの時代に開削された、村落も宿駅もない原野を一直線に走る街道。開削された理由については、さまざまな逸話が残っているが、はっきりわかってはいない。