池上秀畝作 旧高遠城之眞景 [明治27年(1894)]
池上秀畝(1874-1944)が描いた幕末の高遠城鳥瞰絵図。
秀畝は代々高遠藩絵師も勤めた高遠の商家に生まれました。
原画は伊那市立高遠町歴史博物館に収蔵されています。
update date: 2023.07.04
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旧馬島家住宅(きゅうまじまけじゅうたく)
■旧馬島家住宅(きゅうまじまけじゅうたく) 民俗資料館の一つであるこの建物は、江戸時代の中期の享保年間(1716~1735)から明治4年(1871)の廃藩置県までの150年余りを五代にわたって藩の眼科医を務めてきた馬島家の住宅で、当時の上級武士の住まいの特徴を残す建物は信州の中南信地方に多く見られる本棟造り(ほんむねづくり)と言われる、緩い勾配の板葺き切妻屋根の住宅です。当時武士の家は藩から貸与され、身分や職務が変わるとそれに見合った家に移るのが原則でしたが、この馬島家は藩から材料の支給をうけて天保15年(1844)に自分で建築した自分普請の建物です。藩医の住宅が現在も残されているのは県内では例がなく、全国的にも珍しいため県宝に指定されています。 民俗資料館「なつかし館・旧馬島家住宅・旧池上家住宅」: 0265-94-4044 開館9時~17時(入館16:30まで)毎週水曜・祝日の翌日、年末年始は休館
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殿坂(どのさか)
■殿坂(どのさか) 三峰川沿いの城下町(西高遠)から高遠城へとあがるメインストリート。お殿様が通る坂という意味で殿坂と呼ばれました。「信州高遠城之図」(作年未詳)には、殿坂(どのさか)という地名が記されています。坂の途中から階段の道を徒歩で登ると、遊歩道左手に今も残された石垣が目に入ります。江戸初期には城の東側の平地に、武家屋敷が多く作られ、城の正面である大手も今とは反対の東側、搦手(からめて)の位置にあったといわれています。やがて西側の台地の下の鉾持村からつながる町に生活圏が吸収されて城下町となり、城へあがる殿坂の途中にも武家屋敷が建てられたのでしょう。武士や城に用のある者だけが通る道ですから、伊那の平や城下町から武家町や杖突街道方面に向う人は、城の北側を迂回する「日影坂道」(ひかげさかみち)を通りました。
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太鼓櫓(たいこやぐら) /力石(ちからいし)
■太鼓櫓(たいこやぐら) 太鼓櫓(たいこやぐら) (明治後期撮影) 本丸にある太鼓櫓は明治45年(1912)に建て直されたものですが、江戸時代には城の裏手、東側の搦手門(からめてもん)の二階に太鼓が置かれていました(搦手門の説明もご覧ください)。明治5年の廃城によって搦手門が撤去されると、時の太鼓(現在高遠町歴史博物館に収蔵)は、三峰川の対岸である白山に新しく建てられた櫓へ移されました。しかし、明治8年(1875)、本丸跡に太鼓櫓と太鼓番小屋が建設されると、旧藩主の内藤頼直(ないとう・よりなお)公は、当時大金の百円を寄贈し、その利子を維持費として再び城内で太鼓が鳴らされるようになりました。また、平成22年(2010)には民俗資料館南側、高砂橋のたもとにミニ太鼓櫓が作られ内部を見ることができます。 ■力石(ちからいし) 太鼓櫓のそばに、青黒色でつるつるした石があります。力比べに使われた石で、もとは、本丸の藤原神社境内にありました。江戸時代、神社のお祭りには無礼講で武芸一般、女中衆の長刀(なぎなた)、相撲、力だめしが催され、動かした者がないといわれていたこの石を、山田与一という藩内一の力持ちが持ち上げ数歩歩いたという記録があります。その後、強力与一にあやかろうと、石をなでた手で男子の頭をなでる風習ができ、石はつるつる光るまでになりました。
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搦手門(からめてもん)
■搦手門(からめてもん) 高藩探勝:高遠歴史博物館蔵 搦手門は、城の裏手を守る門。搦手門の先には武家町が広がります。高藩探勝(こうはん たんしょう)絵巻に描かれた「搦手御門」には、槍をたてた番所に控える武士、小姓を従え下城する武士、日影坂道を通り、里へ向かう城下の人々の姿が見えます。今は城址を横切り城下町へはすぐですが、当時はお城の山を大きく迂回して武家町と城下町を往き来していたのです。搦手門は廃城の時に払い下げられ、今も岡谷市内久保寺の山門として使われています。 ■登城太鼓(とじょうだいこ) 江戸期には、搦手門の二階には太鼓があり、太鼓番が太鼓を打って、時を知らせたり、藩士に登城を知らせたりしていました。太鼓の音は遠くで田畑や山の仕事をしている藩士にもよく聞こえたそうです。「曽祖父から伝わる話では、登城の太鼓が鳴ると北村の田んぼから上がり、足を洗って土手に置いた袴と着物を着て刀をさげ、登城したそうだよ」と東高遠の矢澤さん。太鼓櫓が現在の本丸跡内に移ってからも、時を告げる太鼓は鳴りつづけ、第二次世界大戦の後もしばらくの間続いていたということです。「今も、ドーン、ドーン、ドーン、ドン、ドン、ドン...という音をはっきりと覚えているよ」 (※『花畑雑記』に太鼓の鳴らし方などが書かれています。参考にしてみてください。)
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二ノ丸(にのまる)
■高遠閣(たかとおかく) 高遠閣(たかとおかく)上棟 昭和11年(1936) 高遠閣は、高遠城址公園入り口(旧二ノ丸門)近くの二ノ丸跡にある木造二階建ての楼閣風の建物です。昭和11年(1936)に、池上秀畝ほか高遠出身者四人の寄付金で建築され、公会堂や花見の休憩所として使われてきました。大きな入母屋造りの屋根と千鳥破風をもつデザインは、かつての高遠城郭建築へのオマージュでしょう。大規模な和風木造建築としての価値から、国の登録有形文化財として登録(平成14年)されています。 ■二ノ丸の遺構(にのまるのいこう) 高遠閣の背後には大きな土塁が残っています。堀の外から見ると、高遠閣の建物の基部は見えません。城は深い堀(空堀)と土塁で守られていたのです。江戸時代の絵図では、土塁の上に塀が設けられています。天正十年(1582)の武田軍と織田軍の戦いでは、山側に陣をひいた織田軍は、この土塁と堀を越えて高遠城に攻め入ったのです。高遠城址公園への入口は、かつて二ノ丸門があったところで、ここにも盛り上げられた土塁が残っています。二ノ丸門も堀も廃城の際に払い下げられました。二ノ丸門は岡谷市の個人宅にありましたが、伊那市に寄贈され、現在解体保存されています。 ■厩(うまや) 二ノ丸には厩がありました。城下には「桜の馬場」(現高遠小学校)、「柳の馬場」(三峰川と藤沢川の合流地の対岸)、「紅葉(もみじ)の馬場」(藤沢川の城下町側右岸)、「法幢院(ほうどういん)馬場(外馬場)」(現・南門から出た所)の四つの馬場がありました。かつて、法幢院曲輪には馬場へと続く馬場先門があり、今も二ノ丸から法幢院曲輪の間の堀に、一段高く土盛りされた馬道が残っています。法幢院廓馬場は今も道路として面影を見ることができます。
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新城藤原神社(しんじょうふじわらじんじゃ)
■新城藤原神社(しんじょうふじわらじんじゃ) 本丸内にある神社で、藤原神社と新城神社の二つの神様を一緒にお祀りしています。藤原神社は、藩主内藤家のルーツである藤原氏の始祖・藤原鎌足と内藤家代々の御霊を祀っています。新城神社は、武田信玄の五男で高遠城主であった仁科五郎盛信(にしなごろうもりのぶ)の御霊を祀っています。仁科五郎盛信は、天正10年(1582)織田信長軍との高遠城の戦いで壮絶な戦死を遂げ、城の南対岸、五郎山に葬られました。この御霊供養のため天保2年(1831)城内に神社が造営されました。なお、城跡から東へ徒歩10分ほどの桂泉院には仁科五郎盛信の位牌が祀られています。
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東高遠 武家町 (ひがしたかとお ぶけまち)
■武家町(ぶけまち) 昭和32年(1957)撮影 搦手門を出た堀の外側は藩士たちの住む武家屋敷地でした。今も土地割は江戸時代とほぼ変わらず、古い石垣や井戸も残っています。どの屋敷跡にも柿木・栗の木が残って、昔非常食として藩主が植えさせたものの残りです。「今も春になれば、庭の畑の土手からは「ねんべる」(野蒜のびる)や「ユリ根」や「山ウド」が自然と出てくる。子どもの頃は、手伝いでそれを採ったものだけれど、母からは一か所ばかりとらないでと言われたものだ。武士の日常の食卓には、そんなものが並んだのだろうね。長い暮らしの中で人の手でつくられ、保たれてきた自然の恵みだ」「絵図には土塀が続くように描かれているが、曽祖父からの話では、生垣だったと聞いている。「からたち」や「うこぎ」など刺のある木が植わっていたそうで、今も生け垣に残っているよ。ウコギの葉は食用になるしね」と矢澤さん(東高遠) ■久保川通り(くぼかわどおり) 雨が降ると水が川のように流れたためその名がつきました。東高遠の武家屋敷地の地下には久保川通りあたりを最底辺にして、すり鉢のような形に不透水の白土層が広がり、月蔵山から流れる水が集まります。城下は藤沢川や三峰川から水路で水を引いていましたが、武家町は高台にありながら、井戸から水を確保することができたのです。 ■東高遠の町名(ひがしたかとおのちょうめい) 廓内、横町、久保川町、板町、荒町、大北、山の神、花畑、鍛冶村、宮の下、大屋敷などの地名がありました、明治26年(1893)にすべて改名してしまい、一番~六番までの漢数字の通し番号を町名としました。その後、四番は花畑に、六番は鍛冶村という地名に戻されました。
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大手門の枡形(おおてもんますがた)
■大手門(おおてもん) 昭和31年(1956)撮影 かつて大手門(追手門)とその枡形(ますがた)が置かれた場所です。今も、枡形の石垣が保存されています(平成14年(2002)、発掘調査の上復元)。高遠城には石垣がほとんど用いられていませんので、大手門の姿は、急な殿坂(どのさか)を上がって城にあがる人を圧する威容だったでしょう。大手門枡形から70mほど城址公園に向かって歩くと、左手にかつての大手門が移築されています。廃城で現・伊那市富県北福地の個人にわたりましたが、昭和26年(1951)に三ノ丸跡に長野県立高遠高等学校が建設され、その正門として昭和29年(1954)に寄贈されたました。高遠高等学校も昭和59年(1984)に移転し、今は門だけが残っています。この間に大きく手が加えられており、江戸時代のままではありませんが、風雪に耐えた木肌に昔の姿がしのばれます。
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進徳館(しんとくかん)
■藩校「進徳館」(しんとくかん) 明治42年(1909)撮影 万延元年(1860)、高遠藩最後の藩主内藤頼直(ないとう・よりなお)が、藩校の師範役となる中村元起(なかむら・げんき)の進言により、三ノ丸にあった家老内藤蔵人(くろうど)の空き屋敷を改築して三ノ丸学問所として開校したのが進徳館のはじまりです。 江戸期には多くの藩が藩士やその子弟を教育し、それぞれの藩の士風を確立し伝えるために藩校を開きました。藩校というと、儒学を中心とした国学・漢学の教育を思い浮かべますが、進徳館のように19世紀後半に入って設立された藩校では、内憂外患の時代を反映して、殖産興業や富国強兵に重きを置いた「実学」が尊重されました。高遠では「高遠の学」といわれるほどに、昔から教育が大事にされてきました。藩校がつくられる前から阪本天山(さかもと・てんざん)や中村元起の父、中村元恒(なかむら・もとつね)などが私塾を設けたり、郷土の資料を編さんし、藩の学風を興していました。進徳館は「高遠の学」の集大成、象徴ともいえる藩校です。進徳館でいう「実学」は、単に技術を学ぶということとも違います。教えられた学問をどのように実生活に反映させるかに重点をおいていたのが特徴といえるでしょう。 本館の建物では教場を使って儒学の勉強が行なわれたほか、生徒や教授の控室、孔子を祀る聖廟などもありました。本館内の最も北には習字などの手習いをする筆学所があり、8~15歳までの生徒は毎日通いました。また、武術の稽古場は本館の北側に設けられました。現在残っている建物は、往時の約半分の規模となっています。 高遠藩は小石高の藩であったにもかかわらず、進徳館は信州の藩校の中でももっとも生徒数が多くいました。明治5年(1872)に廃校となりましたが、それまでの短期間に明治維新以降の新しい国のかたちを描き、運用することとなる有意の人材を多く輩出しました。唱歌の編纂や東京音楽学校(現東京藝術大学)の設立などに活躍した伊澤修二など、日本の教育制度確立に進徳館と「高遠の学」が果たした役割は小さくありません。今も「教育の信州」といわれる歴史の原点の一つがここにあるのです。 ■進徳館図書 進徳館には藩主から頒与された蔵書などが収蔵され、その数は7千余巻あったといいます。明治維新以降、この蔵書は筑摩県に移管され、その一部は火災で焼失するなど紆余曲折を経ながらも、散逸することなく受け継がれ、現在は伊那市立高遠町図書館に収蔵されています。また、高遠藩学を興した中村元恒・元起親子が編さんした信濃の歴史・地理などの集大成「蕗原拾葉」(ふきはらしゅうよう)をはじめとし中村家の蔵書、「希月舎文庫」(きげつしゃぶんこ)などの資料も同図書館に収められています。 伊那市立高遠町図書館: 0265-94-3698火~土: 午前10時~午後8時、日: 午前10時~午後5時 開館毎週月曜・祝日の翌日・年末年始休館
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旧高遠城之眞景 池上秀畝 画(きゅうたかとおじょうのしんけい いけがみしゅうほ)
■「旧高遠城之眞景」 池上秀畝・画 (高遠町歴史博物館所蔵) 明治27年(1894)、池上秀畝が父で同じく画家の池上秀花の描いた高遠城絵図や話をもとにして、幕末の高遠城を描いた絵図です。高遠城は明治5年(1872)の廃城により建物や塀などのほとんどが撤去されており、秀畝は高遠城を直接見たことがありません。城門や建物は、父秀花の絵図を参考にして描いたといわれています。 ■池上秀畝(いけがみ・しゅうほ) 明治7年(1874)~昭和19年(1944) 日本画家・帝国美術院会員。高遠城下、横町の商家に生まれました。四条派画家で、藩主御抱え絵師だった池上秀花の子です。父や荒木寛畝(かんぽ)に学び、南北両派の画風を研究して、花鳥・山水を得意としました。大正3年(1914)から三年連続で文展特選。大正8年(1918)から開催の帝展では審査員を務めています。 屋外でスケッチする秀畝 池上秀花「高遠城絵図」 秀畝が参考とした絵図で、構図もそっくりです。絵図はパノラマ鳥瞰図としてデフォルメされていますが、現地で今も残る地形や石垣などと比べてみても、実際に近い描写がされていることがわかります。
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本丸(ほんまる)
■高遠城 日本100名城のひとつに数えられる国の指定史跡。その名が歴史上の記録に現れるのは戦国時代の天文16年(1547)で、以来、明治5年(1872)の廃城まで300年以上存続しました。築城時期については諸説あり南北朝時代から続くとも言われています。伊那の平に流れ込む三峰川(みぶがわ)と藤沢川の合流地点の段丘上に位置し、高遠城跡の東にそびえる月蔵山(がつぞうざん:1192m)からは麓に広がる平地によって平城のように見えます。しかし、北・南・西の三方からは落差80メートルの急峻な段丘の上に建つ天然要塞の平山城であることがわかります。伊那の平から見ると、南アルプスとその前山の端に兜のような形に見え、別名兜山城とも呼ばれていました。 高藩探勝:高遠歴史博物館蔵 「郭上鶴」:「高藩探勝(こうはん たんしょう)」絵巻下巻第七景) 久かたの 空になれきて いく千よもここにかさねん つるのけごろも (城戸勝政) 鶴(内藤家)が(前領地の摂津から)はるか彼方の高遠の地にやってきて、ようやくこの地に慣れ親しんできた。鶴が高貴な羽毛で身をまとうように、内藤家もこの地で代を重ねていってほしいものだ。 戦国時代以降、多くの領主がこの城と地域を治めました。江戸時代だけでも保科氏(保科家2代藩主、保科正之は徳川家光の異母弟で、のちに会津松平家始祖となる)、鳥居氏、内藤氏の3氏が城主となりました。この絵は江戸時代中期・寛保3年(1743)に内藤家の2代藩主・頼卿(よりのり)の命によって作られた絵巻「高藩探勝」の一景で、当時の本丸のようすが描かれています。 「高藩探勝」は高遠町歴史博物館に収蔵されています(ただし、常設展示ではありません。)【お問合せ】0265-94-4444 複製は伊那市立高遠町図書館に所蔵しています【お問合せ】0265-94-3698
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問屋門(とんやもん)
■問屋門(とんやもん) 二の丸跡から本丸跡へ桜雲橋(おううんきょう)を渡ったところにあるのは問屋門です。この門は、昭和23年(1948)に、城下町にあった問屋(西高遠本町、福祉センター「やますそ」の付近)の門を移築したものです。江戸期には、堀を渡ったところに桝形があり、堀の側に冠木門(かぶきもん)、内側に本丸門(櫓門)の二つの門がありました。この二つの門は、廃藩置県で高遠城が廃城になった際に払い下げられ、現在も伊那市富県(とみがた)地区の個人宅に現存しています。
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自分坂(じぶんざか)
■自分坂(じぶんざか) 高遠城へ勤務している武士たちが、登城するのに本道を行くのは、大まわりになり時間がかかった。そこで城に急用ができたとき、少しでも早く駆けつけるために若宮あたりに住む侍たちが、「自分」たちだけで道を造りました。それからこの道を誰いうとなく「自分坂」というようになったといわれています。 ■鉄砲矢場(てっぽうやば) 自分坂の途中に細長い平地が今も残っています。絵図では「鉄砲矢場」と記されており、鉄砲の試射、稽古をする場であったことが推測されます。
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樹林寺(じゅりんじ)
■樹林寺(じゅりんじ) 高遠城主だった保科正光(徳川家光の義理の兄弟保科正幸 養父)が、徳川家康の命に従って下総多胡一万石の城主となった際、多胡には樹林寺という寺がありました。霊夢によって夕顔の中から取り出したという霊験あらたかな観音様がご本尊でした。正光はこの観音様を深く信仰したので、慶長6年(1601)高遠に帰る時、名刹樹林寺の観音堂の下の土を運んで、高遠城の鬼門に当たる位置に樹林寺を建てました。夕顔観音を写しとって本尊とし、保科家の祈願寺としたのです。真言宗のお寺で、伊那八十八カ所の札所です。紫陽花:7月に咲く 友好町村20周年記念に植樹 ■宝筐印塔 年代不詳 基壇正面に「千百年御忌」、裏面に「昭和九年(1934)十二月 再興清水滝次郎 当山十六世宥賢代」とあり、基壇は造りかえられた事がわかります。基壇上の塔の年代は不明ですが、江戸期のものと考えられます。この塔の左右に二基の丸彫像が座しています。左:弘法大師像 天保五甲午年(1834)三月二十一日一千年御忌右:法印貴宣像 文化四丁卯年(1807)二月二十日この宝筐印塔は、高遠探勝にも描かれています。 高遠探勝:高遠町歴史博物館蔵 ■夕顔観音 下総多胡一万石には樹林寺という寺があり、霊夢によって夕顔の中から取り出したという霊験あらたかな観音様が祀られています。夕顔の上に立つおだやかな仏像。火事の中、夕顔にくるまって焼けなかったという逸話もありますが、下総多胡の樹林寺の夕顔観音は焼失して今はありません。現在は大日如来が本尊ということです。
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諏訪社(すわしゃ)
■諏訪社(すわしゃ) 昭和55年(1980)高遠町町宝指定建御名方命(たてみなかたのみこと)を祀っています。天正年間(1573~1592)に仁科五郎盛信が高遠城に入場した時、城内の法憧院曲輪に勧請し、城の鎮守としたと伝えられます。保科正光が現在の位置に移し、高遠藩板町村の氏神としました。現在の社殿はその頃建てられたもので、手摺の擬宝珠に「元和7年(1621)辛酉八月吉日」と刻まれています。移築の際に前の様式をもとにして建てたようで、鎌倉、室町の様式を伝えています。 ■建御名方神 御祭神 建御名方神は、父大国主命、母沼河比売命の皇子とされ、出雲朝廷最後の実力者剛力無双の神といわれました。大和朝廷との戦いの後、国を譲り、信濃の国(長野県)諏訪の海(諏訪湖)に定住し、開拓を始め、住民に農耕や養殖の業を伝え、五穀豊穣を祈らせる神となり、諏訪大社の御祭神となっています。建御名方命は軍神なので、肉を供えてから食してもよいとの伝えもあります。 ■諏訪社階段脇・秋葉街道常夜灯 文化14年(1817) 秋葉山を詣でるときの道しるべでした。 ■土俵 相撲の由来播磨守は、建御名方神の剛力武勇にあやかり、神社創建を機に、境内に土俵をつくって力自慢を奨励し、相撲を奉納しました。以来諏訪神社の相撲は伝統行事として継承され、秋の祭礼に奉納されるようになりました。
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峰山寺(ほうざんじ)
■峰山寺(ほうざんじ) ■本堂 文覚上人ゆかりの寺。建久6年(1195)に大雲山文明寺を建立七堂峨伽藍容姿を本堂に安置したことにはじまるといいます。永享元年(1429)野火のために類焼し、本尊は仮堂に安置されました。 ■不動堂 文明5年(1473)に不動堂を建立して文覚上人が刻んだという言われている不動尊を奉安しました。成田不動・薩州不動と共に日本の三不動の一つとも称されています。 ■鳥居家の墓 不動堂の前に高さ約250センチという巨大な五輪塔が2基建っている。これは、寛永13年(1636)保科正之が山形に栄転したあと、山形から鳥居忠春入部した鳥居忠春(左側)と忠春の生母(右側)の墓である。 ■中村弥六の墓 天保2年(1845)に中村元起の四男に生まれ、幼少期より学者の父に漢学を習い、続いて進徳館に学ぶ。明治4年(1871)東京開成学校(東大の前進)に入学してドイツ語を学んだ。明治12年(1879)にドイツ留学して林学・林政を学び明治15年(1882)帰国。明治32年(1898)、日本発の林学博士第一号の学位を得ています。明治23年(1890)の国会開設に際し当選し、国会議員として10回当選30年に渡り政治活動を行いました。また明治32年(1898)フィリピンの独立運動を支援し、兵器を送ろうとした布引丸が沈没して国際問題になり、その責任を問われて世の非難受けたこともありました。昭和4年(1929)、76歳で没しました。 ■中村元恒の墓 高遠藩の財政向上のため田畑の開墾を奨励しようとしたが、反対派のザンソにより黒河内(長谷村)に幽閉され 嘉永4年(1851)74歳で没しました。特別な計らいにより、彼の遺骸は城下の峰山寺に葬ることが許されました。 墓標の前には門人から供えられた灯籠が立っています。(息子:元起は進徳館の創設者。)
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桂泉院(けいせいいん)
桂泉院の前身は、法幢院(ほうどういん)といって城内の法幢院曲輪(くるわ)にありました。天正10年(1582)、織田信長による武田攻略の高遠城の戦いは、信玄五男・仁科五郎盛信の奮戦を後世に伝えました。戦い済んで、法幢院の住職は、織田信忠が進攻途中に飯田市伊賀良の開善寺から陣鐘がわりに奪ってきた梵鐘を打ち鳴らし、敵味方の法要を営んだといいます。その後、法幢院は現在の地に移り桂泉院と改名し、梵鐘は今も鳴り続けています。 高遠探勝:高遠町歴史博物館蔵 ■桂泉院落葉:「高藩探勝(こうはん たんしょう)」絵巻下巻第十四景 ところから あはれもふかし 山寺の落葉くちゆく 庭のふゆ霜(信尹) 法幢院ゆかりの所柄であるだけに「もののあわれ」も格別であることよ。この寺の庭に散った落ち葉が、時の流れの経過とともに朽ちていくように、それぞれの歴史もいつか忘れ去られていくのだろうか。 ■准胝観音菩薩像(じゅんていかんのんぼさつぞう)【守屋貞治作】 山門を入る正面玄関の向かって・右に座るのが准胝観音・左に座るのが延命菩薩。准胝とは清浄という意味で、この観音様に祈願すれば災難を除き・命をながく病を除き、子供も授かるといいます。 ■位牌堂: 仁科五郎盛信の位牌 長野県歌「信濃の国」(浅井冽・詩、北村季晴・曲)に「旭将軍 義仲も 仁科の五郎 信盛も」とうたわれている仁科五郎盛信の位牌が祀られています。位牌堂は昭和56年(1981)仁科五郎盛信の400年遠忌を記念して建立され、中には仁科五郎盛信、小山田備中、渡辺太夫、諏訪はなといった諸士の位牌が安置されています。 ■文学の小径(峰山寺~桂泉院) 桂泉院から峰山寺にかけて今井邦子・吉屋信子・円地文子・若山喜志子の新たな歌碑や句碑が建てられ文学の散歩道になっており、そこから、高遠城址が望めます。城址の桜を遠望する、ちょっと違ったお花見のおすすめポイントでもあります。
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法幢院曲輪(ほうどういんぐるわ)
■法幢院曲輪(ほうどういんぐるわ) ここにはかつて法幢院というお寺がありましたが、一般人でも参詣できるように、城中から出て、現在の桂泉院になりました。桂泉院まで約700m、旧武家町を通って散策をお楽しみください。かつて、法幢院曲輪には馬場へと続く馬場先門があり、今も二ノ丸と法幢院曲輪の間の堀を横断する、一段高く土盛りされた馬道が残っています。
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無地の碑(むじのひ)
■無字の碑(むじのひ) 二列目右から3番目が伊澤多喜男 (昭和22年(1947)頃) 二ノ丸には「天下第一桜碑(昭和9年(1934)内田孝蔵建立)」「荻原井泉水歌碑」などの石碑があります。この中でも目を引くのは、碑の表面に何も書かれていない「無字の碑」です。高遠出身で大正から昭和にかけて和歌山、愛媛、新潟県の各知事、貴族院議員、台湾総督、東京市長、枢密院顧問官、警視総監を経て政治家となった伊澤多喜男の頌徳碑として町の有志が建てたものです。 昭和8年(1933)に頌徳碑建立の話を聞いた多喜男は「政治家というものは、今はどうであっても、後々どんなことが起こらんともわからん。まして自分などは、何一つとして碑面に録するような事跡を残してはいない。後世批判があっては相済まんと許可しませんでした。それで、昭和10年(1935)に文字のない碑が建てられたということです。伊澤多喜男の兄には日本の音楽教育の父、伊澤修二がいます。また、劇作家飯沢匡(いいさわただし)氏は多喜男の実子です。伊澤兄弟の生まれ育った頃の下級武士たちのくらしを偲ぶには、伊澤修二生家を訪れてみてはいかがでしょう。高遠城址公園から東へ400mほどです。
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絵島の囲み屋敷(えしまのかこみやしき)
■絵島の囲み屋敷(えしまのかこみやしき) 大奥御年寄として権勢を誇った絵島(天和元年(1681)-寛保元年(1741))が、絵島事件(絵島生島事件)のため生涯幽閉された屋敷を当時の図面をもとに復元したものです。高遠町歴史博物館に併設されています。 【絵島】 絵島は六代将軍徳川家宣の側室である月光院に仕えました。月光院は七代将軍家継の生母であり、絵島は32才で大奥女中の最高位、大年寄となり権勢を振るいました。 【絵島事件】 正徳4年(1714)、絵島は月光院の名代として、他の奥女中とともに前将軍家宣の墓参に寛永寺、増上寺へ参詣。その帰路山村座(現歌舞伎座周辺)に芝居見物に寄り、その後も座元の部屋で飲食をし、門限を過ぎて帰城しました。このことを公務をおろそかにしたとして咎められ、さらには歌舞伎役者生島新五郎との密会を疑われ、絵島は死罪、生島、山村座長らは遠流、絵島の兄白井平右衛門は斬首など厳しい評決が下されました。しかし、月光院の歎願もあり、絵島は内藤駿河守の領地、高遠への幽閉となったのでした。お世継ぎや権力をめぐり権謀術策のうずまく大奥で、その犠牲になったとも言われますが、高遠に在ること28年、61歳で亡くなり遺言により高遠の蓮華寺に葬られました。その墓は長く忘れられ荒れ果てていましたが大正5年に高遠を訪れた田山花袋が再発見しました。 ■高遠町歴史博物館(たかとおまちれきしはくぶつかん) 本絵図、「旧高遠城之眞景」 池上秀畝・画が収蔵されています。絵図、書、「高遠の学を表す」文物、武具…。高遠は歴史的産物の宝庫です。縄文時代から現在まで、高遠の歴史やくらしをテーマにした多様な展示をお楽しみください。また、毎年9月に行われる鉾持(ほこじ)神社の灯篭祭りに巡行されている山車(江戸時代)も見ることができます。 高遠町歴史博物館: 0265-94-4444開館9時~17時(入館16:30まで) 毎週月曜・祝日の翌日・年末年始は休館
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伊沢修二生家(いさわしゅうじ せいか)
■伊沢修二(いさわ・しゅうじ) 嘉永4年(1851)~大正6年(1917) ◆高遠から東京へ 明治日本の近代教育制度確立に活躍しました。特に唱歌の編さんなど音楽教育を確立し、東京音楽学校(現・東京芸術大学)初代校長も務めました。 高遠藩の下級藩士の子だくさんの貧しいくらしの中で育った修二ですが、学問好きな父や、母の実家の影響を受け、幼い頃から学問に親しみ、藩校進徳館では優秀な成績を収め、寮長を命ぜられています。 15歳を過ぎると、藩士としての勤めに励み、鼓笛隊で鼓手を務めたり、幕末の動乱の中、江戸や京都で、藩主や幕府の警固に当たっています。勤めを終えて高遠へ戻ると、江戸や京都で買い求めた洋書に学び、やがて明治2年(1869)8月、19歳の修二は東京へ向かって、故郷を後にしました。須田経哲(泰嶺)の学僕となり、中浜(ジョン)万次郎やアメリカ人の牧師から英語を学び、高遠藩貢進生として大学南校(現:東京大学)へ進みます。 ◆日本からアメリカへ その後文部省へ出仕し、明治7年(1874)に、24歳で愛知県師範学校長に任命されると、体育遊戯などさまざまな教育法を考案、実践します。その結果、教師育成のための師範学科調査のためにアメリカ留学を命ぜられ、神津専三郎(小諸藩出身)や高嶺秀夫(会津藩出身)らと共に渡米します。 明治8年(1875)、マサチューセッツ州ブリッジウォーター師範学校(現・Bridgewater State University)に入学し教育理論を学びました。在学中はボストンに通い、自らの英語発音の矯正のためにグレアム・ベルから聴覚障害者のための視話法を学び、最も不得意だった音楽の補習のためにメーソン・ルーサー・ホワイティングからは西洋音楽を学びます。これが帰国後の教育制度構築のための人的ネットワークとなります。時あたかも電話発明中のベルの研究室で、修二が電話を試したという逸話をベルが書き残しています。電話を通じて話された英語以外の言語の最初が日本語ではないかといわれています。翌年にはボストンのハーバード大学理学部に移り、自然科学の造詣を深めます。帰国後、日本ではじめて進化論の本を翻訳出版してもいるのです。明治11年(1878)5月、アメリカから帰国した修二は、様々な職を歴任し、教育行政官として教員養成、体育・音楽教育、盲唖教育など未開拓の分野を精力的に開拓していきました。 ◆伊沢修二と音楽教育 アメリカ滞在中修二たちの上申により、文部省は、明治12年(1879)10月に音楽取調掛を創設し、修二をその任に当たらせます。音楽取調掛として修二が推し進めたのは、①東西の音楽を折衷して新曲を作る事。②将来国楽を興すべき人物を養成する事。③諸学校において音楽を実施する事。の3点でした。留学時代の恩師、メーソンやドイツ人、エッケルトの協力を得ながら、明治14年(1881)には『小学唱歌集初篇』を編集発行しました。また、音楽取調掛は4年制の音楽専門教育機関としての機能も果たし、明治20年(1883)には、官立東京音楽学校(現・東京藝術大学)へと発展し、初代校長には修二が就任しました。修二が築いた音楽教育の礎は、現在まで引き継がれています。 ■伊沢修二(いさわ・しゅうじ)生家 伊澤修二の生家は石置きの屋根で、大家族には狭そうな簡素なつくりです。この時代、武家の家は藩からの貸与であり、役職・身分などが変わると、相応な家に移り住んだということです。「御家中屋敷絵図」によると、修二の生家は「大屋敷裏長屋、東より壱軒目」とあり、「大屋敷長屋」といわれるように、今も案内看板によって捜さなければわからないほど奥まったところにあります。昭和43年(1968)に旧高遠町が買上げ、町宝に指定されました。家の前には頌徳碑が建っています。
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犬走跡・外堀(いぬばしり・そとぼり)
■犬走跡(いぬばしり) 三ノ丸北側(進徳館裏~駐車場~日影坂道)には今も「犬走」の跡が確認できます。犬走りとは、城壁や土塁などと堀の間の傾斜面に1メートルほどの幅の平坦な道をめぐらした城の防備施設です。傾斜を登る攻め手の行動が鈍り、また、城郭の上からその姿を見通すことができるため、上から弓矢・鉄砲・石などで攻撃しやすくなります。 ■外堀 三ノ丸東側にある堀は、城内の堀の中でも最も深く掘られています。天然の要害、高遠城を攻めるには東側の平地から攻め入るのが最も平易であり、また、城下と城を分ける意味もあったと思われます。実際、天正10年(1582)の織田・徳川軍の武田攻めでは三の丸、二の丸の堀をこえて高遠城を攻略しています。
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勘助曲輪(かんすけぐるわ)
■勘助曲輪(かんすけぐるわ) 大手門を上がったところにある、広い曲輪で、現在は駐車場になっています。かつては本丸との間に堀がありましたが、昭和26年(1951)に高遠高等学校を建設する際に埋め立てられました。戦国時代この地を治めていた高遠氏が、天文14年(1545)の武田信玄との戦に敗れ、武田信玄が新たに城を造り変えました。信玄が、甲斐から諏訪を経て伊那谷さらには駿河、遠江に抜ける要衝として築いたこの城が、江戸時代の高遠城の直接の出発点といえます。この際、信玄の軍師であったといわれる山本勘助が新たな高遠城の縄張り(設計・築城)にたずさわったということから、勘助曲輪と名づけられたようです。曲輪の北方(駐車場入り口)にはかつて家老の武家屋敷があり、現在もそのことを示す石碑が建っています。
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天下第一桜(てんかだいいちのさくら)
■天下第一桜碑 昭和9年(1934)の除幕式 昭和9年(1934)に高遠出身の医師内田孝蔵(うちだ・こうぞう)により建てられました。 (大正11年(1922)撮影) 廃藩置県で廃城となった高遠城は管理する者もなく荒れるままになっていました。見かねた藩士たちが明治8年(1875)、桜の馬場(現・高遠小学校)の桜を城址に移植したのが「天下第一の桜」、桜の名所の始まりです。今では1500本以上のタカトオコヒガンザクラが咲き誇ります。今も桜守(さくらもり)を中心に街の人々が丹精して守り、育てています。
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天山屋敷跡
■天山屋敷跡 現在の警察派出所の所には阪本天山が住んでいた屋敷がありました。阪本天山は延享2年(1745)高遠城の東、荒町に生まれ、幼時から砲術師範の父について学問・砲術を学びます。中でも大砲の製造、操作が得意で「周発台」という左右上下回転自在の台座を発明(動く大砲としては世界初)天山は高遠藩学を起したが、反対派のために3年間閉門を命じられました。その後56歳で高遠を出て、長崎平戸藩において藩士の教育に当たっていたが享和3年(1803)病に冒され59歳の時に長崎で没した。