高遠城再現絵図 其の参:東から高遠城城郭を望む
高遠東側の上空から高遠城郭・伊那谷・中央アルプス方面を鳥瞰した高遠城再現パース(perspective: 遠近法・透視図)です。
伊那市日影出身の空間デザイナー池上典さんの作品です。
高遠城は日本100名城のひとつで、国の指定史跡です。
池上 典(いけがみ・のり)
空間デザイナー、沖縄県立歴史博物館などの公共施設、小田急百貨店など商業施設、サンリオピューロランドなどレジャー施設などの空間デザインを手がける。昭和18年生まれ。伊那市日影出身
update date: 2024.03.21
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城下町
■城下町 (じょうかまち) 近世の平地の城下町は、城を中心に家臣屋敷、それを取り巻き町人町というのが一般的です。しかし、平山城である高遠の城下町は、そうした城下町の区割りとは違っています。高遠城は段丘の上にあり、城と同じ台地の東側に家臣団の武家町が配置され、城下町は西側の下の段に作られています。 近世初期までは、城の東側に城下町が形成されており、その頃、現在城下町のあるところは、諏訪から杖突峠を越えて高遠を通り、伊那街道伊那部に通ずる藤澤街道の一宿駅でした。 その後、城の大手門より一直線に見通しのできる新しい町を造り、城下町となっています。 【高遠城下町絵図もご覧ください】
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相生・多町
■相生・多町 (あいおい、たまち) 高遠町内は、文久3年(1863)大火に見舞われました。その前に起きた、天保火災の復興に極度の緊縮政策をとっていた藩は、ここで180度政策を転換し、開放策をとることになります。 そこで弁財天橋(今の天女橋)を渡った三峰川の対岸に観光・遊興の観光施設を造り、地方の財貨を町方に集め、これによって町方の復興を図ろうとしました。 そのため土地の希望者には無償で土地を与え、家屋の建築費、木材なども貸与するなど大幅な助成をして、新町建築の計画を立てたのです。 この事業を推進するために藩では新たに潤暖係を設け、潤暖係おいて「ゆるめ方」(規制緩和)に関する政務を行わせ、町方の復興を進めました。町名は初め「弁才天向新町」と呼んでいましたが、文久4年(1864)には現在の町名である「相生町・多町」と命名されました。 【相生・多町地図につきましては文久3年 町割図をご覧ください】 【相生・多町地図につきましては文久3年 地割図をご覧ください】 【相生・多町地図につきましては、明治2年 町割図をご覧ください】
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経ヶ岳(中央アルプス)
■経ヶ岳(きょうがたけ) 木曽山脈(中央アルプス)の北端にある標高2,296mの山。その昔、慈覚大師が信濃に下向していた折、霊木を得てそれに十一面観音像を刻み、その木片にお経を書いて納めたので経ヶ岳と呼ばれ、“経”のつく山では日本最高峰の山です。
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木曽駒ヶ岳(中央アルプス)
■木曽駒ヶ岳(きそこまがたけ) 伊那谷から見る中央アルプスは、前衛の低山がほとんどなく山麓から急激に迫り上がり、そのまま主稜線に登りつめる姿が特徴です。春が来ても稜線付近には遅くまで雪が残り、雪が消え始めるとさまざまな雪形が現れ、伊那谷の人々はこれを農作業の指標としていました。その中でも有名なものは「種蒔き爺」や「島田娘」と呼ばれ農家の種まき時期の目安として地元の人々に口伝されています。
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権兵衛峠
■権兵衛峠(ごんべいとうげ) 「花の高遠案内」表紙 この地方には民謡「伊那節」が残っています。「木曽へ木曽へと つけ出す米は 伊那や高遠の 伊那や高遠の なみだ米 ソリャコイ アバヨ なみだ米とは そりゃ情けない 伊那や高遠の 伊那や高遠の あまり米 ソリャコイ アバヨ 」 貴重な米を木曽に送らなければならない領民の嘆きが唄われています。木曽は米の生育に適した土地が少なく産米が少なく、古くから伊那谷から米を木曽地方に運んでいました。この峠は険しい峠道であり、馬も通れませんでした。その峠を整備し、米不足の木曽へ伊那谷の米を運ぼうと木曽側、伊那側の協力により元禄9年(1696)に完成しました。以後は、伊那からは米が木曽からは漆器なが運ばれました。 <' />
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法幢院馬場
■法幢院馬場(ほうどういんばば) 高遠藩には、馬場(馬の調教場)が四カ所ありました。法幢院馬場はそのうちのひとつです。
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桜の馬場
■桜ノ馬場(さくらのばば) 【高藩探勝_桜の馬場部分】 高遠藩には、馬場(馬の調教場)が四カ所ありました。桜ノ馬場はそのうちのひとつです。この馬場には桜が植わっていたので桜ノ馬場と呼ばれていました。高遠城は、明治5年(1872)に廃城となり城の建築物や樹木などは競売に付されてしまいました。それを悲しく思った藩士達は、小原の桜ノ馬場に植わっていた桜を城址に移し植えました。これが現在桜で有名な高遠城址公園の始まりです。
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小原
■小原(おばら) 小原集落は、三峰川扇状地を大沢川が南北二つに割っていて、明徳年間(1390~1393)にはこの大沢川の右岸段丘先端に小原城がこの地方の豪族、小原太輔により初めて築いたといわれています。今では城の堀や土塀などは、みな埋められて一切が消滅おり、畑の片隅に立てられている立札がそこに城があったことを伝えています。 「朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、それで身上つぶした♪」 とコミカルに歌われている会津民謡「会津磐梯山」に登場する小原庄助は、小原庄右衛門光俊の孫であるという。小原庄右衛門は、当時の高遠城主 保科正之が寛永13年(1636)最上城に移封になった際に一族ごとこの地を去っていますので庄助も同じく移っていき会津の人々に親しまれていたのではないでしょうか。
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紅葉ノ馬場
■紅葉ノ馬場(もみじのばば) 高遠城には馬場(馬の調教場)が 4カ所ありました。紅葉ノ馬場はそのうちのひとつです。
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柳馬場
■柳ノ馬場(やなぎのばば) 高遠城には馬場(馬の調教場)が 4カ所ありました。柳ノ馬場はそのうちのひとつです。
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鉾持桟道
■鉾持桟道(ほこじさんどう) 「鉾持除け」 高藩探勝(部分) 伊那方面から高遠の町へ入ってくると、南側の玄関口になる鉾持桟道は、かつて人馬を容易に通さない天下の難所でした。 三峰川から切り立っている花崗岩の壁がその通路を完全に遮断し通行を困難にしていました。 天正13年(1924)の冬、当時の藩主保科正直が、家康の命を受けて北信小諸へ出陣していた時のこと。 松本の小笠原はその留守を襲おうと大軍を率いて高遠へ迎い、合戦がこの除けを舞台に行われました。保科軍は小笠原軍を打ち破り、家康から褒賞を得たという逸話があります。また、飯田藩主が参勤交代の折りには、鉾持参道を通過して杖突峠に向かうと伝令が飯田のお城に送られ、殿様の無事通過を報告したといいます。
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伊那部
■伊那部 (いなべ) 高遠から西を望むと、三峰川の流れる先に天竜川沿いに広がる伊那の平を見通すことができます。そして、その向こうには経ヶ岳、木曾駒ヶ岳、空木岳などの中央アルプスがそびえています。天竜川に沿って南北に走る三州街道は、信濃と三州(三河)を結ぶ街道で、伊那街道ともよばれます。中山道の塩尻宿を起点として、天竜川沿いに伊那谷を南下し下伊那の駒場・根羽を経て、三州(三河)の岡崎で東海道に合流する街道であり、北は善光寺、南は伊勢へと繋がる信仰の道でもありました。また、農民たちの馬による駄賃稼ぎから発展したといわれる中馬が盛んであったので、この街道は「中馬の道」ともよばれています。高遠からまっすぐに伊那街道に向かい、天竜川を渡った先に伊那部宿があります。江戸時代までの上伊那地域(伊那谷の北半分)の中心は高遠でした。明治になり、高遠城が廃城になり職を失なった武士の一部は伊那へと移り住み、商業をおこします。その後、明治45年(1912)に伊那電氣鐵道の辰野-伊那間が開通し、行政や経済の中心は、高遠より伊那へと移って行きます。 【伊那電氣鐵道沿線案内図もご覧ください。】