市街化過程および戦災図
「市街地発展図」(大阪市、1974年)に基づいて大阪こちずぶらり研究会が作成。基図は大阪市作成の大阪市域図(1990年ごろ)。1887(明治20)年、1907(明治40)年、1923(大正10)年、1940(昭和15)年頃の4段階の市街地発展に加え、戦災消失地域が表示されている。
update date: 2021.12.15
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『残す』『使う』『伝える』~旧小西儀助商店(2002年) no name
道修町には、船場豪商の面影を今に伝えるコニシ株式会社(旧小西儀助商店、平成13年に重要文化財に指定)があります。 コニシはこの社屋を保存するだけでなく事務所として使いながら、積極的にまちづくりイベントなどにも協働するなど、街にしっかりと根をおろしながら、使い・伝える活動を続けています。
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船場生っ粋の老舗「渋谷利兵衛商店」 no name
創業享保9年(1724)より高麗橋西詰に店を構える老舗婚礼儀式品店。戦前に中之島で結婚式場・花嫁学校を経営、ホテルで神前結婚式というスタイルを開発するなど、時代にあわせて総合ブライダルプロデュースを展開。水引飾りづくりから毛筆書、店内のディスプレイまで、全てを自らセンス良くこなされる9代目当主は、現代の船場商人の生き見本です。
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大阪市内最古の和菓子屋 御菓子司 高岡福信(たかおかふくのぶ) no name
大阪城内の寄人として豊臣秀吉公の御膳預りを勤めその経験を元に、寛永元年(1624年)土佐堀船町(現江戸堀)の北船場の地で菓子業を開始し、五代目文左衛門に至り京都禁裏の御用を承るに及び市内最古の老舗として390年余り手造りの味を守り続けている。
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秋の清水寺(明治時代)
京都の清水寺を摸して造られ、舞台から西大阪が一望できた。三つの樋から流れ落ちる水は、大阪市内唯一の滝であり玉出の滝と称されている。
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四天王寺の彼岸参り(明治時代)
饅頭笠に法被姿の人力車夫が赤毛布を持ちながら客を待つ姿や、茶店には御膳十三銭の看板もあり、明治時代の四天王寺参りの風景がしのばれる。
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新世界と通天閣(大正時代)
明治36年(1903)第5回内国勧業博覧会が開催され、数年後その跡にルナパークや通天閣が出来て、庶民的な匂いの強い大阪の名所となった。
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茶臼山の古墳(明治時代)
大阪市内では珍しい古墳で、四天王寺と共に古代からの上町台地の様子を今に伝えている。冬の陣では徳川方の、夏の陣では真田方が本陣を構えた。
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松屋町の奉祝風景(大正時代)
マッチャ町と親しまれる菓子や玩具の問屋街で、地方の人びとが仕入に集まった。絵は大正天皇即位の御大典の時のもので、市内でも格別の飾りつけであった。
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道頓堀筋の夜景(大正時代)
大正時代の道頓堀筋の夜はまことに賑やかで、人の流れは東は二ッ井戸、西は湊町辺りまで続いた。劇場の看板を見て歩くだけで楽しかった。
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心斎橋筋の商店街(大正時代)
南に道頓堀、北は新町遊郭が近く、船場問屋街の続きで、大阪一の老舗名店街。初代大阪市長は丸亀屋呉服店主・田村太兵衛氏で、町人都市の証拠である。
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戎橋の巡航船乗り場(大正時代)
道頓堀川には巡航船があたかも水上バスのような役割を果たし、橋上には人力車が走って、立体交通の模範のような場所。
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道頓堀川の夜景(大正時代)
赤い灯・青い灯と歌われ、道頓堀の川面に映るカラフルなネオン灯が美しい夜景をつくり出したのは大正の終り頃からであった。
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楽天地夕景(大正時代)
楽天地は明治末期の南の大火以後に建設された大正時代を象徴する大衆娯楽場で,裸電球を配したイルミネーションは当時の大阪人を驚かせた。
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長堀橋の朝景(明治時代)
長堀橋の南詰東には住友本邸があり、長堀川の北一帯は船場の問屋街、南側は島之内の高級住宅街が多かったために、豊かな大阪らしい町並であった。
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難波駅前風景(大正時代)
南海鉄道の発着駅。遠く和歌山県などのから来た人や,心斎橋・道頓堀界隈をブラつく人、難波新地のきれいどころなどが行き交う所であった。
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高津神社の正面(明治時代)
御神体は仁徳天皇。もとは大阪城付近にあったものを秀吉がこの地に移した。梅の名所でもあり、絵画にも描かれている。
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三軒家川畔の大阪紡績(明治時代)
絵は明治40年代の風景。当時この一帯は川幅が広く、船溜りの湊になっていた。左岸に見えるのが大阪紡績工場(現在の東洋紡)である。
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大阪築港桟橋(明治時代)
明治36年(1903)に大阪築港が完成し、チンチン電車が九条から桟橋まで開通した。翌年には日露戦争が起こり、多くの軍人がこの桟橋から出征した。
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尻無川の蛤取り(明治時代)
尻無川は非常に大きな川で、川尻と海の境がはっきりしないほどであった。絵の場所に行くには、船でなければ行けなかったらしい。
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安治川の秋に魚釣る人(大正時代)
大湊と呼ばれた安治川には遠海近海を問わず多くの貨物船が集まった。川畔の南岸には船が書きやすい小さな桟橋があって荷物の揚げ降ろしをした。
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安治川の磁石橋(明治時代)
明治6年(1873)帆船が通れるよう中央が回転する安治川橋(磁石橋)が出来た。しかし、10年ほど後の淀川大洪水の時に工兵隊の手で爆破された。
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千代崎橋と堀江川(大正時代)
跳ね橋だった千代崎橋も普通の橋にかわり、木津川には巡航船が通い出し、大きな商業看板も出現した。しかしまだ川には岸や浜もあり魚も泳いでいた。
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二階付電車(明治時代)
明治36年(1903)にチンチン電車が大阪ではじめて九条花園橋から築港桟橋まで開通し、その翌年大阪市自慢の二階付電車が走り出した。
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江之子島大阪府庁舎(明治時代)
明治7年(1874)に竣工。正面の破風と屋上中央のドームには金色に輝く菊花の御紋章が据え付けられた。設計はキンドルともウォートルスとも伝えられる。
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永代浜の雨風景(明治時代)
江戸時代から続く塩干魚や干鰯取引の中心地。後に中央卸売市場に吸収されるがこの絵が描かれた時はまだ商っていた。絵は静かで喧騒を感じさせない。
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雑喉場魚市の朝(大正時代)
江戸中期から続く市場で、京町堀川の西端北側から百聞堀川に沿う広い土地を占めていた。現金の流動が大きく、天神祭を支えたのもこの市場の力が大きい。
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西長堀川畔の材木市(明治時代)
材木の集散地で、川岸にある材木置場からは雨の日など新鮮な木の香が漂ってきて爽やかな雰囲気があり、北岸の柳並木と共になにわ情緒の一つであった。
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阿弥陀池の初冬風景(明治時代)
植木市の名所にもなっていて、4月8日の紋日は各地から盆栽や鉢植が集められ、門前町の堀江遊郭と共に正月に次ぐ繁盛日となった。
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冬の四つ橋(明治時代)
西横堀川と長堀川が交わるところに井桁状に架かる四つの橋。小西来山の句に"涼しさに四つ橋を四つ渡りけり"とある。
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新町の郭夜景(明治時代)
江戸時代には大坂で唯一の幕府公認の遊郭。明治に入っても賑わいは続いたが、松島遊郭ができたことや大火の影響で次第に商業地となっていった。
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住吉浜辺の高灯籠(明治時代)
日本最初の灯台で、鎌倉時代末期に海運業者が献じたと伝えられる。近くに蛤茶屋があり、潮干狩り時分には随分賑わった。夕日に染まる海が遠望される。
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天神祭船渡御風景(大正時代)
水上の祭典として有名な天神祭は、京都の祇園祭,東京の神田祭とともに日本三大祭の一つに数えられる。戦前の船渡御は、鉾流橋北詰の鳥居から船に乗組んだ。
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梅田ステンショ(明治時代)
梅田のステンショを東から俯瞰。駅前には旅館が並んでいて、人力車が幅を利かせており、自動車は全くめずらしい乗物であった。
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曽根崎新地の瓦斯灯屋(明治時代)
明治42年(1909)の北の大火までは曽根崎を南北に蜆川が流れ、蜆橋や桜橋などがあって、浄瑠璃の曽根崎心中の面影が残り、茶屋の格子先には角行灯が掛かっていた。
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中之島の蛸の松(明治時代)
堂島川の南岸、田蓑橋と玉江橋の間にあった老松。四方に張り出した枝が蛸の形に似ていたので付けられた。多幸の松とも書かれる。
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大江橋から鍋島浜を見る(明治時代)
手前が木橋の大江橋。対岸の土蔵は鍋島藩の蔵屋敷。明治以前にはこの浜は京都の四条河原、江戸の両国と併せ、三大納涼地として賑わった。
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大江橋から控訴院を見る(大正時代)
大江橋を走る画中の電車は初期11型のチンチン電車。橋詰には巡航船乗り場の立看板がある。鍋島浜も川浜の原形を残し船が着岸している。
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鉾流橋の天満宮鳥居(大正時代)
明治の末年、ある商店が大鳥居と共に天神祭の鉾流神事を行う斎船の乗船場を整備して献納した。以後神事がこの橋付近で行われたのが橋名となった。
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中之島公園から生駒山を望む(大正時代)
幕末の『浪花百景』には淀川から望む生駒山を描いた絵が多い。この絵は『明治・大正大阪百景』のなかで唯一の生駒山が主人公のもの。
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天神橋の納涼と夜店(明治時代)
夏の夜の夕涼み。水の上には納涼船、橋の上にはそれを見る人びと。子供たちは、大人と共に夜店をひやかし、甘酒やあめ湯・びわ湯などを飲む。
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天満青物市の朝(明治時代)
承応2年(1653)にこの場所に移転して以来、明治30年(1897)まで市内唯一の青物市場であった。なにわの子守唄は"ねんね頃市天満の市よ"ではじまる。
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天神橋商店街の雨後風景(大正時代)
南の心斎橋に次ぐ商店街。街道の歴史も古く、近くに天満宮があるので、夜は南の道頓堀界隈に匹敵する賑やかな通りとなった。
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桜宮神社観桜(明治時代)
神社の周囲に数百本の桜がある桜の名所。大川をはさんだ対岸には造幣局の桜も咲き、人びとは花を楽しんだ。神社の北裏には貸し馬や見世物興行などがあった。
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道修町の薬問屋街(大正時代)
内外の薬品を一手に集めた町。薬品の製造所は別な場所にあり、商品流通のセンターの役を果たすと共に、問屋金融として現金流通の役割も果たしていた。
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久宝寺町の小間物問屋(大正時代)
うだつと古い看板は老舗の象徴で、問屋街では看板と老舗が幅を利かせていた。商品の製造は町工場で行い、それを船場の問屋街で消化していた。
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東横堀川のまがり(明治時代)
大川から入りこんだ川の水は美しく、この一帯は綿布の晒しや染物工場があり、高い物干しに多くの白布が干されている風情はよき画材でもあった。
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高麗橋櫓番所跡(明治時代)
江戸時代、この橋の両詰には櫓番所屋敷が両側にあり、種々の御触れ書が掲示される制札場があった。明治初年、大阪では最初の鉄橋に架けかえられた。
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高麗橋川畔の蔵並(明治時代)
東横堀川の、大川より本町橋の間の岸には白壁の土蔵が並び,船場商家の物資の備蓄場として、大阪の経済力を誇示する景観を示していた。
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本町橋詰の蔵屋敷(明治時代)
西町奉行所があった所で、城内の米蔵とも記されている。明治時代に勧業博覧会が開催され、その後博物場や動物園が造られた。
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馬場町の老樟樹(大正時代)
本町通りの北側に残る老樹。後ろには陸軍参謀司令部がある。明治の初年には理化学教育の拠点、大阪舎密局が造られた。
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砲兵工廠京橋門の雷雨(大正時代)
森ノ宮から鴫野、京橋辺りまで、兵器を造る砲兵工廠という広い工場があった。軍国主義的な考えは家庭を軍人の砲兵工廠とした。
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天満橋の巡航船乗り場(明治時代)
安くて乗り心地がよい巡航船は大阪の大量輸送機関の草分け。天満橋は巡航船の起点で、上流は鴫野行、下流は市中の各川を循環した。
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八軒家の船着場(明治時代)
大川の南岸、天神橋の東にあるなだらかを浜が八軒家浜。淀川三十石船の発着場で、付近に旅寵が8軒あったのが名前の起こりという。
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絵になる御堂筋・平野町 no name
御堂筋の拡幅工事と同時期に建設されたガスビルは、昨年登録有形文化財に指定されました。その8階の南東角、当時大阪随一の商店街であった平野町通りと、新しい大阪の大動脈になるであろう御堂筋を見守る位置にある欧風レストラン「ガスビル食堂」。ガスビルとともに今年七十周年を迎えます。(2007年制作)
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三休橋筋のビーナス no name
三休橋筋と長堀通交差点のランドマーク。こんなに大きな像を置こうと思った建築主に拍手!
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植木鉢ビル no name
朝顔やゴーヤもびっくりの壁面緑化。ビルの名前はオーガニックビル。
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末吉橋 no name
橋の欄干の個性的なデザインに注目し、東横堀川界隈のサインを提案します。ここは末吉橋。大阪の橋の多くはまちが寄付し管理する「町橋」だったのですが、この末吉橋も豪商末吉孫左衛門が架けたと伝わる町橋でした。昭和四十六年、長堀川が埋立て時に拡幅されて現在の姿になっています。
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久宝寺橋 no name
橋の欄干の個性的なデザインに注目し、東横堀川界隈のサインを提案します。ここは久宝寺橋。豊臣時代に架けられた古い橋です。現在の橋は昭和十四年完成。欄干のアーチ状のデザインが特徴的で、鋳鉄製の街灯も美しい橋です。
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本町橋 no name
橋の欄干の個性的なデザインに注目し、東横堀川界隈のサインを提案します。ここは本町橋。大正二年完成の大阪市内最古の橋。船場の中心街である本町と大阪城を結ぶ重要な橋で、東横堀開削(1585年)直後に架けられたようです。橋脚部のエンタシスの石柱を模した飾り、バルコニー、鋳鉄製の欄干など、デザインも特徴的。 ※参考資料:大阪の橋(松村博著)
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平野橋 no name
橋の欄干の個性的なデザインに注目し、東横堀川界隈のサインを提案します。ここは平野橋。大正時代頃までは幅員4.5mの木橋でした。現在の橋は昭和十年完成で、当時世界初の特殊な構造形式が採用されています。 ※参考資料:大阪の橋(松村博著)
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今橋 no name
橋の欄干の個性的なデザインに注目し、東横堀川界隈のサインを提案します。ここは今橋。江戸時代に両替商が集まるまちが形成され、現在の金融街「北浜」へと引き継がれています。現在の今橋は戦後に架け替えられたものであり、『浪速の名橋五〇選』に選定されています。
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高麗橋野村ビルと堺筋 no name
堺筋は御堂筋よりも歴史が古く、昔は市電が走り百貨店が並ぶ、大阪のメインストリートであった。その堺筋の重要な景観要素のひとつがこの高麗橋野村ビルである。[2001.Yasushi Shino]
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綿業会館と三休橋筋 no name
大阪・船場の中心部を南北に貫く三休橋筋に残る近代建築の代表がこの綿業会館。繊細なデザインと建物スケールが三休橋筋の良好な景観を生み出している。 [2001.Yasushi Shino]
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旧小西儀助商店と道修町通り no name
江戸時代からの「薬のまち」である道修町。現在でも薬品会社本社の集積があり、薬の神様「少彦名神社」がある。そこに明治時代からの姿をとどめているのがこの旧小西儀助商店である。 [2001.Yasushi Shino]
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生駒ビルディングと平野町通り no name
船場は東西の「通り」に沿ってまちが形成され、堺筋や御堂筋が拡幅されるまでは、平野町通りが大阪のメインストリートであった。生駒ビルディングの姿は、その平野町の歴史を物語っている。 [2001.Yasushi Shino]
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大手橋 no name
橋の欄干の個性的なデザインに注目し、東横堀川界隈のサインを提案します。ここは大手橋。橋の西側が行き止まりで南北どちらへ行くか迷ったことから、明治末期頃までは「思案橋」と呼ばれていたそうです。大正十五年に現在の橋に架け替えられました。
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難波橋の十一時(2001年) no name
豊臣秀吉の時代にかけられたとされる難波橋ですが昔は現在の橋の場所から1本西の難波橋筋にかけられていました。 現在の橋は大正4年にかけられたもので、水上公園の一部を飾るものとして設計されたため華麗な照明灯、市章を組み込んだ高欄やライオン像など、大正初期の粋を凝らしたデザインとなっています。
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淀屋橋の十四時(2001年) no name
江戸時代に豪商淀屋が架けたといわれている淀屋橋は、大阪市民に最も愛されている橋の一つです。現在の橋は、昭和5年からはじまった御堂筋の拡幅にともなって、デザイン懸賞募集によって選ばれました。
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大阪で現存する最古の橋、本町橋(2003年) no name
本町橋は現存する大阪の橋の中では最も古い橋で、大正2年(1913年)に架けられた、鋼アーチ橋としては日本最古のものです。 阪神高速道路が東横堀の上を覆うようになってからは、東横堀川全体が薄暗い景観になってしまいましたが、卒寿を迎えた本町橋は今もなお美しい姿を保っており、西詰の濱田屋珈琲店あたりからは華麗な石の彫刻で飾られた橋脚や、めずらしい修景板を持った堂々たる姿を見ることができます。
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おおさかの橋たち~天神橋 no name
中之島の東端にかかる天神橋は豊臣秀吉のころ初めて架けられ、天満宮が管理していたことから天神橋になったと伝えられています。現在の橋は松屋町筋の拡幅に合わせて、昭和9年に架設されたものです。
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東横堀川の歴史の表舞台「高麗橋」 no name
江戸時代に東海道五十七次の終着点で、東詰は西日本の主要街道の基点だった高麗橋。現在も「里程元標跡地の碑」が残ります。明治期には大阪初の鉄橋となり、見物客が絶えなかったそうです。近松門左衛門の浄瑠璃の舞台、大阪名物かき船発祥の地など、様々な逸話が残っている高麗橋は、今も昔も東横堀川の歴史の表舞台です。
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蟹島築地から眺める東横堀川 no name
東横堀川は、 文禄3年(1594)に大坂城のお堀として開削された大阪最古の堀川で、天明3年(1783)には土佐堀川からの入口右岸に張り出すように蟹島築地がつくられました。中之島・東横堀川が望めるその先端にはかつて料亭「多景色楼」があり、今でもそこに立つビルからは、高速道路とビルに囲まれたまちなかの水辺が見渡せます。
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「曲がり」を見守る曲渕地蔵尊 no name
「川沿いの浄国寺を避けて開削した」「大坂城の外堀にふさわしく曲げてみた」など、由来に諸説ある「曲がり」。その右岸に祀られた曲渕地蔵尊は、阪神高速道路の建設によって浄国寺が移転する際に放置されましたが、近年地元の尽力により再び大切に祀られました。今でも毎年夏には地蔵盆の灯りがともります。
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大阪都心河川ではここだけ?!石積みの護岸 no name
高度経済成長期に高いコンクリート護岸が整備された東横堀川ですが、ほんの一部だけ石垣護岸が残っています。昭和初期ごろのものか?なぜここだけ残っているのか?なぞは深まりますが、かつての水都大阪の姿を偲ぶことができる数少ないスポット。見つけにくいですが、是非あなたも探してみてください。
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緑のトンネル no name
昔あった緑のトンネル。いまの街路樹が早く前のトンネルのように育ってほしい。
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堺筋本町の緑 no name
堺筋本町の交差点は隅切りが大きくて大きな街路樹が植わっている。雑踏の中のオアシス的空間。
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三休橋(大正8年ごろ) no name
三休橋は長堀川にかかっていた橋で、名前の由来は江戸時代、長堀川に架かる橋の中でも往来が多かった心斎橋・中橋・長堀橋の三つの橋を休めるために建設されたためといわれています。 1964年(昭和39年)長堀川の埋立に伴い撤去されましたが、名前は三休橋筋という筋の名前として残っています。
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大日本製薬ビル no name
道修町通りの南側。1930年築の大日本製薬ビル。 撮影年次不詳 (清水ゆう子さん提供)
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塩野香料と塩野義製薬 no name
道修町通の北側。手前は塩野香料、奥に大正13年築の塩野義製薬、さらに奥には藤澤薬品。 撮影年次不詳 (清水ゆう子さん提供)
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伏見町通りから三越を望む no name
伏見町通 魚の棚筋から東を望む、三越が遥かに見える。 昭和12年 (清水ゆう子さん提供)
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伏見町の家並み no name
伏見町4丁目(現3丁目)の北側の家並み(現三菱UFJ銀行南側)。 明治20年頃 (清水ゆう子さん提供)
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駿河屋 no name
淡路町通の北側、八百屋町筋角に立つ駿河屋。奥の瓦屋根は白園書院。 撮影年次不詳 (清水ゆう子さん提供)
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心斎橋筋からみた北出時計店 no name
心斎橋筋と北久太郎町通の角から北を望む。時計塔は明治30年築の北出時計店。北久太郎町通は現在の中央大通の一部。 昭和4年 (清水ゆう子さん提供)
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本町通・堺筋の交差点 no name
北西角より南東を見る。 左は船場警察署(大正3年築)、中央は呉服木綿商の稲西合名会社。 大正期 (清水ゆう子さん提供)
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堺筋 no name
堺筋、安土町付近から北を見る。左手前は野村銀行(現りそな銀行)、その向こう隣は白木屋百貨店、右側建物は日本共立貯蓄銀行。 昭和初期 (清水ゆう子さん提供)
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藤澤樟脳 no name
道修町と丼池筋の北西角あたり。 撮影年次不詳 (清水ゆう子さん提供)
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建設中の船場センタービル no name
船場センタービルの工事現場。昭和43年12月 万博関連事業のひとつとして昭和45年に完成した。 「昭和の大阪」(産経新聞社)
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戦後の丼池筋 no name
繊維問屋が集まる丼池筋。 昭和29年3月 「昭和の大阪」(産経新聞社)
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地下鉄工事中の御堂筋 no name
昭和初期の地下鉄工事中の御堂筋。地下鉄工事は昭和5年起工した。 左奥に建設中の大阪ガスが見える。 (清水ゆう子さん提供)
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淀屋橋付近 no name
淀屋橋南詰と御堂筋を南方向に望む。 昭和10年頃 淀屋橋は昭和10年5月に竣工した。 (清水ゆう子さん提供)
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「新清水紅葉坂瀧」南粹亭芳雪画
京都の清水寺を模して建立された大坂の清水寺。境内の西側の崖に柱を組み上げて作った舞台がある。高台の地であるため全市街が見渡せた。絵は寺の真下の玉出の滝。滝を浴びる信者の参詣が多かった。
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「戎島天満宮御旅所」一珠齋國員画
後に川口になる戎島にあった天満天神の御旅所。毎年七月二十五日の天神祭には、御旅所に神輿が渡御され、周囲は多数の見物客で賑わった。風水害の被害により明治初年に松島に移転された。
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「川口雑喉場つきじ」一養齋芳瀧画
川口は船番所や船蔵、船手屋敷があった場所で、明治になると居留地が設けられた。木津川を挟んで東側が江之子島、さらにその東に雑喉場町があった。絵は川口の北側にあった船番所、橋は﨑吉橋か。
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「安治川ばし」一珠齋國員画
現在の中央卸売市場の南に架設された橋。下手の岸には千石を越す諸国の船が横付けされ、ここで荷は小舟に積み替えられて市中に運ばれた。絵には大坂の物資輸送の拠点のダイナミックさが表れている。
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「柴島(くにじま)晒堤」一珠齋國員画
柴島は、古来、晒の特産地だった。晒は着色しない白い長布、一般に木綿を指すが麻もある。淀川右岸は晒業者の絶好の干場で、一面の雪のごとき白布の眺めは、退屈な船旅をする者の眼を楽しませた。
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「長柄三頭(みつがしら)」一珠齋國員画
長柄から淀川と中津川との分岐地点に突き出た砂洲。風光明媚な場所として知られていた。絵の手前、渡しが浮ぶのが淀川、横断しているのが砂州。その向こうが中津川。
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「毛馬」南粹亭芳雪画
淀川と中津川が分岐する辺り、淀川左岸の村。長柄側に渡る毛馬渡しがあった。蕪村生誕の地で、ふるさとを詠んだ「春風や堤長うして家遠し」「菜の花や月は東に日は西に」の句がある。
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「天満樋の口」南粹亭芳雪画
淀川から天満堀川へ流れ込む水の取入れ口。ここから北長柄の三ッ頭に至る淀川堤防は、木村堤と呼ばれ、対岸の桜宮と並んで桜の名所であった。近くには源八渡しがあった。
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「川崎ノ渡シ月見景」南粹亭芳雪画
淀川右岸の現在の造幣局一帯の土地。天満川崎ともいう。この渡しで淀川を越え、鯰江川の備前島橋、寝屋川の京橋を渡って京橋口門前に出た。この付近からのぞむ大坂城はすばらしいものであった。
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「京橋」南粹亭芳雪画
大坂城の北側、寝屋川に架けられた橋、京街道がこの橋を起点としている。東海道五十七次の終点であり、大坂の玄関口として賑わった。高欄擬宝珠の立派な公儀棟。京橋の北語には川魚市場があった。
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「廣田星ヵ池稲荷」南粹亭芳雪画
広田神社の境内。かつて不作に困った村人が今宮戎に祈ったところ、戎神の力で厄害をもたらす悪星がこの池に落ちたのでこの名がついたという。一説には聖徳太子の時代に星が落ちたことからともいわれる。
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「安居天神社(神社)」南粹亭芳雪画
四天王寺の僧が祀り安井天神社と称したが、のちに菅原道真が九州に左遷されたときここで船待ちしたという伝えから安居天神社となった。天王寺西門の逢坂に面し、真田幸村がここで戦死したといわれる。
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「堀川備前陣家」南粹亭芳雪画
大川から開削された天満堀川に治った綿屋町には備前岡山藩の蔵屋敷があった。絵の右奥が舟入と思われる。このあたりの堤を妙見堤といい、桜の名所として知られていた。
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「しりなし漆づつみ甚兵衛の小屋」南粹亭芳雪画
漆堤は尻無川河口近くの泉尾(いずお)新田を水害から守るために築かれた。堤防の強化と防風のため櫨(はぜ)が植えられ、紅葉の秋には市中の人びとで賑った。甚兵衛はこの地の渡し守。
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「勝曼(鬘)(しょうまん)院愛染堂」南粹亭芳雪画
四天王寺の別院で、本尊として愛染明王を安置しており、聖徳太子が開いた施薬院に始まると伝えられる。愛敬、開運、商売繁昌の神で、大坂夏祭のさきがけとして六月三十日に愛染祭の宵宮が行われる。
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「今宮蛭子(えびす)宮」一養齋芳瀧画
今宮戎神社のこと。もとは、漁師が漁神を祀ったものであったが、中世に入り市の守護神として商売繁昌を祈るようになった。祭礼のときには大声で「参りました、参りました」と呼ぶ風習があった。
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「うらえ杜若(かきつばた)」南粹亭芳雪画
浦江了徳院の聖天堂には、この辺りがまだ海岸だった頃、漁師の網にかかって海中から出現したと伝えられる歓喜天が安置される。境内の池は杜若で有名で、芭蕉も来訪し、句を残している。
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「覺(鶴)満寺之夕景」南粹亭芳雪画
寺伝によると、長年廃れていた寺を猟師瓦林鶴林が長年の殺生を悔いて南方村に再興、その後また荒廃していたのを大坂の豪商が譲り受け当地で再興したという。しだれ桜の名所として遠近に聞こえた。
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「四天王寺伽藍」一珠齋國員画
南面する金堂を中心に背後に講堂、前に五重塔、中門が一直線に配置され、周囲を回廊が囲む。百済の伽藍配置様式をそのまま残し四天王寺様式といわれる。絵の右半分を占めているのは五重塔。
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「茶臼山雲水」南粹亭芳雪画
邦福寺、雲水が多数出入りしたため通称雲水寺。建物は中国風の造りで、庭には桜や紅葉が多数植えられ、方丈からの眺望はことのほかすばらしく来観者が絶えなかった。普茶料理が名物。
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「御勝山」南粹亭芳雪画
御勝山は前方後円墳。当初は岡山と呼ばれたが、大坂夏の陣で徳川方が勝ったことから御勝山と改められた。付近には眺望をさまたげるものがなく、大坂東部をのぞむ景勝の地として知られていた。
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「舎利寺」一養齋芳瀧画
寺伝によれば聖徳太子の創建。戦国時代末期にこの地であった合戦で荒廃。その後、徳川家綱が黄檗山万福寺に当地を与え復興させた。境内には、西国三十三カ所観音霊場が石造りで再現されている。
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「壽(寿)法寺」一養齋芳瀧画
堂島の油問屋夫婦が土地を寄進して開かれた寺。別名紅葉寺といわれたほど楓樹が多く、季節になれば景色を楽しもうとする人びとで賑った。また、境内の糸桜は有名であった。
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「天王寺增(増)井」一養齋芳瀧画
大坂の井戸水は塩気を含むなど不良のものが多かったが、天王寺近辺だけは良質の水に恵まれ、とりわけ増井清水は名泉一つであった。ここの水は大坂に上水道ができるまで飲料水として売られていた。
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「鐵(鉄)眼寺夕景」南粹亭芳雪画
難波村支配の寺があり、熊本出の鉄眼和尚を住持として招き再興を図った。鉄眼は、窮民支援を乗り越え、念願の仏教経典の集大成の木版を完成した。京都の黄檗山内に印刷所を造り事業を展開した。
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「北の太融寺」一珠齋國員画
天満には、西寺町、東寺町が東西に連なり、西寺町の北側には太融寺を中心とした寺院群があった。弘法大師の創建といわれ、大坂恒例のお大師めぐりの第一番札所としても知られ、善男善女で賑った。
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「永代濱(浜)」一養齋芳瀧画
海部堀が南の阿波座堀に直角につながるあたり一帯で、塩干魚や干鰯(ほしか)取引の中心地。干鰯が盛んに肥料として利用されるようになり、北国から運ばれてきた大量の干鰯のほとんどがここで取引された。
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「あみだ池」一養齋芳瀧画
和光寺境内の池。古代に百済から伝来した仏像が廃仏派によって棄てられたが、救われ善光寺本尊となった。池の名はそこから。絵は放光閣で夜の常燈明の灯は美しく、蓮の名所としても知られていた。
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「新町廓中九軒(くけん)夜櫻(桜)」一養齋芳瀧画
大茶屋が軒を並べ、夜桜の風情は遠近に知れわたり、特に桜並木のもとを練り歩く太夫道中には多数の見物客が詰めかけた。絵は道路沿いの桜堤の石垣。千代女の句に「だまされて来て誠なり初桜」。
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「天保山」南粹亭芳雪画
別名目印山、安治川大浚(さらえ)の土砂で築かれた高さ約十八メートルの小山。花見、冬の雪見、夏の遊船などと一年中楽しめ、多くの遊覧客で賑った。手前は澪標(みおつくし)、航路を示す日本の標識。
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「下安治川随見(瑞賢)山」南粹亭芳雪画
貞享元年(一六八四)、河村瑞賢が九条島を開削し安治川を開通させた。この際運び出された土砂が南岸に積まれ小山となった。ここに松が植えられ航行する船の目印となり、波除山または瑞賢山と呼ばれた。
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「野中観音桃華盛り」一養齋芳瀧画
難波寺、行基作と伝えられる本尊の十一面観世音菩薩が人びとの信仰を集めた。参詣の人びとが墨汁をかけた墨掛地蔵尊も祀られる。このあたりは桃畑が多かく花の頃ともなると行楽客で賑いを示した。
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「西照庵月見景」南粹亭芳雪画
生玉寺町の南、尼寺月江寺の裏門西にあった料亭。座敷からは大坂市街より西海まで見渡せ、ことに夕日のながめは美観であった。庭は京都の円山に倣ってつくられ、紅葉の名所にも数えられていた。
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「佐太村天滿(満)宮」南粹亭芳雪画
淀川中流部左岸、佐太村の菅原道真にちなんだ神社。狂言「菅原伝授手習鑑」の舞台でもあり、京街道を往来する人びとの参詣が絶えなかった。淀川をゆく船人も遠くに鳥居を拝み柏手を打った。
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「江口君堂」一珠齋國員画
寂光寺、遊女妙の庵室に由来する尼寺。奈良時代末期、和気清麻呂の手で淀川と神崎川が結ばれ、河口部の神崎、淀川との分岐点の江口が繁栄し、平安後期にはいずれも遊女の集う歓楽地であった。
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「野田藤」一養齋芳瀧画
野田村の春日社周辺の咲く野田藤は、1メートルを越す豊かな房の美しさが特徴で、江戸時代には吉野の桜、高雄の紅葉とともに三大名所といわれた。戦後、奇跡的に残っていた古木から藤が再生された。
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「茨(いばら)住吉」一養齋芳瀧画
江戸初期、香西誓雲が九条島開発の際に勧請した神社。開発当時付近に茨が群生していたことからこの名が出たといわれる。「にぎやかに街の栄える土地」という意味の衢壌(くじょう)が後に九条となった。
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「松屋呉服店」一養齋芳瀧画
大丸百貨店の前身。大丸ははじめ大文字屋と号し伏見京町の発祥。大坂店は松屋破産後継承したものといわれるが、商標は大文字屋ゆかりの〇に大を用いた。接客に工夫を凝らし、義商としても知られる。
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「四天王寺」南粹亭芳雪画
聖徳太子が創建したわが国最古の寺院。寺名は四天王寺大護国寺。度重なる戦乱や災害で古い建物はことごとく失われた。今日の中心伽藍は戦後に再建された。大阪の総仏壇として庶民の信仰を集めている。
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「四天王寺合法辻」南粹亭芳雪画
四天王寺西方の閻魔大王堂のある地名。地名の由来は、昔、四天王寺学校院があったからとも、聖徳太子が物部守屋と仏法について合論したからとも伝えられている。人気の仇討狂言の舞台でもあった。
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「河堀口(こぼれぐち)」南粹亭芳雪画
四天王寺東南の河堀稲生神社付近の景。四天王寺七宮の一つで、和気清麻呂等が平野川の水を大阪湾に通そうとして堀川を掘った際、この神社に祈願したと伝えられる。河堀口は、そのときの川跡である。
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「生玉辨天池夜景」南粹亭芳雪画
生国魂神社東門前には南側に白蓮、北側に紅蓮の池があり、蓮見の名所であった。池中に弁財天の祠があったことから弁天池と呼ばれた。また、境内には桜樹が多く、生玉の夜桜は賑いを見せた。
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「道頓堀太左衛門橋雨中」南粹亭芳雪画
太左衛門橋の名は、橋の際に大坂太左衛門の芝居小屋(角座)があったことから名づけられた。芝居町と北の花街宗右衛門町(そえもんちょう)を結ぶ橋で、絵も色香が漂う物語性を感じさせる。
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「十三中道(じゅうそのなかみち)」南粹亭芳雪画
中国街道と能勢街道の分岐となる三叉路。すぐ南に十三渡しがあり、中津川を越えて大坂と結んだ。周辺には、荷運びサービスの人馬継立所や脇本陣のほか、旅籠屋が二十軒ほどあったといわれる。
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「木津川口千本松」南粹亭芳雪画
木津川は、安治川とともに諸国の廻船が大坂に入る港口で、諸船の便のために石の堤防が築かれた。この木津川の左岸に、千本松と呼ばれた松原があり、天の橋立、三保の松原と並び称された。
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「茶臼山」南粹亭芳雪画
茶白山は前方後円墳で、大坂冬の陣では徳川家康の、夏の陣では真田幸村の本陣となった。その裾にある河庭池は、和気清麻呂が内水の排水のために上町台地を開削しようとして失敗した跡地とも言われる。
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「野中観音桃華盛り」一養齋芳瀧画
難波寺、行基作と伝えられる本尊の十一面観世音菩薩が人びとの信仰を集めた。参詣の人びとが墨汁をかけた墨掛地蔵尊も祀られる。このあたりは桃畑が多かく花の頃ともなると行楽客で賑いを示した。
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「住よし大和橋」一養齋芳瀧画
大和川に架かる橋で、紀州街道の堺への入口にあたる。住吉大杜の大祓の祭りでは、ここで住吉と堺の人びとの間で神輿の受け渡しが行われた。その時の数百の松明の灯が遠くからもみることができたという。
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「住吉本社」一珠賓園長画
古来より航海守護、祈雨その他の神として朝廷、武家から庶民にいたるまでが崇敬してきた。この辺りは風光にすぐれ、熊野詣の道にあたっていたため、古くから往来が盛んで風流人も多く訪れたという。
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「住吉反橋(そりはし)」一養齋芳瀧画
住吉大社正面の蓮池にかかる橋で、球橋、太鼓橋とも呼ばれ、豊臣秀頼の創設と伝えられている。絵に見えるように、境内には奉献された多くの石燈籠があり、多くが頼山陽、池大雅など名家の筆蹟を持つ。
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「淺澤の弁戈天」一養齋芳瀧画
住吉大社の南門の外にある末社、弁財天を祀る。ここから南にかけては清水の沸く大きな池があり浅沢と呼ばれ、奈良の猿沢、京都の大沢と並ぶ名勝であった。杜若(かきつばた)が古来より有名。
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「住よし五大力」一養齋芳瀧画
住吉大社北門の外に神宮寺があり、五大力菩薩画が安置されていた。住吉明神みずから描いたものと伝えられ、多くの人々の信仰を集めた。今も「五・大・力」と書かれた小石をお守りにする風習がある。
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「住吉岸姫松」一養齋芳瀧画
帝塚山から住吉の海岸にかけての紀州街道の東、上町丘陵に連なっていた一連の松。古今集にも詠まれている。左へ行けば日本橋、右は和歌山。手前に描かれているは「こつま南京」というカボチャの蔓。
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「天下茶やぜさい」一養齋芳瀧画
秀吉が休息した茶屋があったことから付けられた地名。名薬「和中散」を商う是斎(ぜさい)という大きな薬屋があり、床几をおいて往来の人を休ませ、薬を湯に立てて施したという。柱の後に和中散の字。
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「吉助牡丹盛り」南粹亭芳雪画
松井吉助は大坂を代表する植木屋。植木屋は他に下寺町や天満などにもあった。吉助の宅地には種々の植物が植えられ森のようであった。とりわけ夏の牡丹と秋の菊花を人びとに公開したため大いに賑わった。
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「長町裏遠見難波蔵」一珠齋國員画
日本橋から南に下がる堺筋の西側に長町という細長い町があった。ここには傘をつくる家が多くあり、浪花の名物となっていた。遠くの白壁の塀で囲まれた難波御蔵は飢餓対策で設けられた幕府の米蔵。
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「道頓堀角芝居」一珠齋國員画
道頓堀の南側、日本橋から戎橋までの間は芝居側と呼ばれ、芝居小屋が密集する大坂随一の繁華街であった。絵の角芝居は歌舞伎座で、橋は太左衛門橋。堀沿いには茶屋と船着き場が見える。
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「二軒茶や風景」一珠齋國員画
大坂から奈良に通じる奈良街道の起点にあたるため、伊勢参宮や大和巡りに向かう旅人や見送りの人びとでいつも賑わっていた。街道の両側に二軒の茶屋があり、多くの人に利用された。
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「大江はしから鍋しま風景」一珠齋國員画
中之島と堂島を結ぶ大江橋から眺める佐賀鍋島藩蔵屋敷の白壁は見事なものであった。ダイナミックな構図の絵の右隅が舟入で上部に橋が架けられている。高い帆の船がここまで来ることができた。
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「兩(両)本願寺」一珠齋國員画
両本願寺とは、本派本願寺(西本願寺)に属す津村別院(北御堂)と大谷派本願寺(東本願寺)の別院の難波別院(南御堂)のこと。江戸にも両本願寺がある。南御堂前は松尾芭蕉終焉の地である。
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「兩(両)本願寺」一珠齋國員画
両本願寺とは、本派本願寺(西本願寺)に属す津村別院(北御堂)と大谷派本願寺(東本願寺)の別院の難波別院(南御堂)のこと。江戸にも両本願寺がある。南御堂前は松尾芭蕉終焉の地である。
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「玉江橋景」一珠齋國員画
堂島川五橋の一つの反り橋。橋の南側は諸藩自慢の松の枝が川面をおおい絶佳の地であった。反りの大きな橋の中央からは四天王寺の五重塔が眺められ、落語「鷺とり」に場面を提供している。
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「宗禪(崇禅)寺場々」一珠齋國員画
場々は馬場で、崇禅寺に西門前に広がっていた。ここで起きた仇討ちを題材とした浄瑠璃が好評を博し、以来ゆかりの地として有名になった。寺内には足利義教の墓の他、細川ガラシヤ夫人の墓もある。
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「北瓢亭」一珠齋國員画
曽根崎新地は宝永5年(1708)に成立し米商人などの有興場所として繁栄した。ここにあった料亭の一つ。広大な敷地の中に多くの座敷や茶店が配され、庭には滝や池があり、贅をつくしたものであった。
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「濱村鬼子母神」一珠齋國員画
南浜村の日蓮宗慶住院にあった。子宝、安産、夫婦和合の祈願に霊験あらたかとして、遠方からも多くの参詣客がおしかけ、付近に茶屋や料理屋ができるほどであった。現在は高槻市摂津峡に移転。
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「三井呉服店」一珠齋國員画
三井越後屋呉服店は三越の前身。間口およそ半町、店の向いの北側には支店が軒をならべた。糸店、べっこう店、紙店、紅白粉店などがあり、嫁入道具の一切をととのえることができたという。
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「川崎御宮」一珠齋國員画
大坂の陣の戦功により摂津大坂藩の藩主となった松平忠明は、大坂再建に取り組み、その一環として、日光に勝るとも劣らない東照宮を天満川崎の地に造営した。豊臣追慕の念を忘れさせる意図もあった。
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「あみ島風景」一珠齋國員画
旧京橋を渡り備前島橋で鯰江川を越えると備前島、ここを東に行くと網島、北に行くと川崎の渡し。近松の『心中天綱島』の舞台、大長寺がここにあった。城と清流と山並み、大坂第一の景勝地であった。
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「天滿(満)ばし風景」一珠齋國員画
この橋のあたりは、大坂城に近いことから手にとるように城が眺められ、また近くには八軒家浜があり舟着場として賑った。江戸時代を通じて架橋地点は現在地より一筋東であった。遠景は生駒の山。
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「三大橋」一珠齋國員画
手前から難波橋、天神橋、天満橋。浪花の三名橋と呼ばれいずれも官が造った公儀橋。どの橋からも大坂城が望まれ、川の清流、周囲の青松などまるで画のような景で、とくに朝日の昇る様が賞せられていた。
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「筋鐘御門」一珠齋國員画
大坂城の京橋ロと京橋の間にあった門、三之丸(北外曲輪)への入り口。鴫野の弁財天への近道だったため開門されることがあった。現在大阪砲兵工廠化学分析所の建物がある場所の近くにあった門である。
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「産湯味原池(あじひらのいけ)」南粹亭芳雪画
産湯稲荷には大坂屈指の大桃林があり、人びとが清遊を楽しんだ。描かれた味原池は、緑豊かな上町台地の中にあって、池の向こうには大阪城、さらにその奥に北摂の山並みを望むことができる。
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「錦城の馬場」一珠齋國員画
江戸時代、大坂の人びとは、大坂城を錦城、城の追手門前の広場を馬場と呼んでいた。明治初年まで、生玉麦門前に馬場先の地名が残っていた。ちなみに、大坂城の現在の地名は馬場町である。
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「今橋つきぢの風景」一珠齋國員画
今橋(手前)は今橋通り、葭屋(よしや)橋(奥)は土佐堀通りに寄り添うように架かっていた。葭屋橋の下で大川から東横堀川が分かれており、この二つの川の分岐点の西側の三角形の地帯を古くは蟹島新地と呼んだ。
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「八軒屋夕景」一珠齋國員画
江戸時代には三十石船の発着地で、当初旅寵屋が八軒あったところからその名が出たといわれる。平安の頃から、京都の人びとは淀川を下り、この地で上陸して四天王寺や遠く熊野に参詣した。
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「さくらの宮景」一珠齋國員画
現在の造幣局の方から見た桜宮の風景。現在では桜の名所は造幣局側になったが、当時、付近は桜宮堤と呼ばれ桜の名所地であった。とくにここから見る淀川の水がきれいで、文人墨客にも好まれた。
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「堂じま米市」一珠齋國員画
淀屋橋の南詰、淀屋の門前で発祥した米市が、元禄十年(一六九七)堂島新地開発とともに堂島に移り、永く米相場の所在地として全国の人々に堂島の名を植えつけた。米穀取引所は戦時中に閉鎖された。
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「鮹(蛸)の松夜の景」一珠齋國員画
江戸時代、中之島には各藩の蔵屋敷が軒を並べ、邸前にはそれぞれ自慢の松が植えられていた。特に、広島藩邸前の蛸の松、久留米藩邸前の鶴の松が有名であった。これらの松は明治末年には姿を消した。
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「解舟(ときふね)町」一珠齋國員画
阿波堀川南岸にあり、古船を解体し、その古材を商ったり、古材で作った風呂桶や井戸側などを売る店があった。解体した古船を繋留した有様は、特に雪の朝などは山水画にも似て風流人に喜ばれた。
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「浪花橋夕涼」一珠齋國員画
浪花橋(難波橋)は浪花三名橋の一つ。江戸時代の難波橋は、現在地の一筋西にあたる難波橋筋に架かっていた。大坂の夏はむし暑く、人々は大川端に出て涼をとった。なかには小舟に乗って涼む者もいた。
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「眞(真)言坂」一珠齋國員画
生国魂神社には社院・僧院が十院あり、北の高津表門筋から登る坂の両側に真言六院があったところから、この坂は真言坂と呼ばれるようになった。院は明治元年(一八六八)の神仏分離ですべて廃止された。
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「天神祭り夕景」一珠齋國員画
天神祭は、およそ千年前から菅原道真の命日である七月二十五日に毎年開かれる大阪天満宮の例祭で、水上を渡る船渡御(ふなとぎょ)の行列の絢爛豪華さは他に類が無く、日本三大祭の一つにあげられている。
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「松のはな」一珠齋國員画
木津川と尻無川にはさまれた寺島先端の俗称。ここに植わる老松の長枝を水上に垂れる姿に雅趣があり、明治元年(一八六八)に当所で開発された遊所松島の名はこの老松に因んだものともいわれる。
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「新町店つき」一珠齋國員画
新町は、京都の島原、江戸の吉原に比べられるほどの傾城町で、湿地を開発し、市内各地に散在していた遊所を集めた地であるためこの名がある。「店つき」とは遊女屋の表に面した格子の部屋を指す。
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「生玉繪(絵)馬堂」一珠齋國員画
上町台地にある生国魂神社の絵馬堂(生玉舞台ともいう)からは、大坂三郷の家並みばかりでなく、遠く六甲、淡路の山々が一望できた。神社に参詣した人々は、必ずこの絵馬堂に立ち寄ったという。
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「源八渡し口」一珠齋國員画
源八渡しは、古くから天満と桜宮を結ぶ唯一の交通機関であり、渡しを中心とした淀川両岸には桜が植えられ花見で賑わった。また、中野の梅園も有名。昭和十一年(一九三六)近代橋の源八橋が架設された。
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「北妙見堤」一珠齋國員画
南方からの入堀だった天満堀川を東西に開削した堀で結び大川の水を導入した。大塩平八郎の乱後の窮民救済を兼ねた事業と言われる。妙見堤はその間の堤で、桜樹が植えられ、花見時には多数の人で賑った。
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「天滿(満)市場」一珠齋國員画
堂島の米市場、雑喉場の魚市場とともに大坂三大市場の一つである青物市場。近在の農民達が、石山本願寺の門前で市を開き、野菜を売り出したのかはじまりである。昭和に入って中央卸売市場に合併された。
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「住吉高とうろう」一珠齋國員画
住吉大社の西の大鳥居をでて真直に西へ進むと、川がありそこに橋が架かっていた。その橋のたもとにあった常夜燈が高灯籠。橋を渡ると間もなく海岸に出た。この川はのち十三間堀となった。
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「高津(こうづ)」一養齋芳瀧画
仁徳天皇を祀る神社で、「民のかまど」の逸話から高台に設けられている。古典落語の舞台として知られ、古くから大坂町人の文化の中心として賑わった。眺めを楽しむために遠眼鏡が茶店に置かれた。
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「梅やしき」一養齋芳瀧画
大坂有数の梅の名所で、梅の花の咲き匂う頃には、風流人が集まり歌を詠むなど、多数の遊興客で賑った。近くには四天王寺の塔、遠くには葛城金剛が望まれた。明治になると高級住宅が立地した。
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「佐奈田山三光宮」一養齋芳瀧画
真田山(佐奈田山)は、大坂冬の陣の際、真田幸村が出丸を築いた場所とされる。この山の頂にある神社が三光神社。ここから遠く生駒、金剛の連山も望まれ、景勝の地としてもてはやされた。
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「增(増)井浮瀨(瀬)夜の雪」一養齋芳瀧画
清水寺横の清水坂に料亭浮瀬(うかむせ)があり、亭内からの眺望がよく庭も立派で文人に好まれた。大きな鮑の貝盃で知られる。また付近一帯に七名泉があり、増井の泉はこの一つである。
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「天滿(満)天神(神)地車(だんじり)宮入」一養齋芳瀧画
地車宮入は、天神祭宵宮のハイライトで、宮入の順番を争うほどであったが、幕末頃から衰えた。現在は、天満市場が奉納する「三つ屋根」地車が、陸上の行列である陸渡御に加わって宮入りする。
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「雑喉場(ざこば)」一養齋芳瀧画
魚市場で、天満青物市場とともに、食品市場の双璧。魚市場は、はじめ堺筋あたりにあったが、船便が悪いために鷺島に出店が設けられ、これが定着したものである。雑喉(雑魚)とは大衆魚のこと。
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「四ツ橋」一養齋芳瀧画
四つ橋は、西横堀川と長堀川が交叉していた場所に架けられていた、炭屋橋、上繋橋、吉野屋橋、下繋橋の四橋のことで、水面をロノ字に囲む。観月にも納涼にも適していたため、古来有名であった。
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「長堀石濱」一養齋芳瀧画
長堀川の佐野屋橋の東側に石屋の密集地区があった。絵は南岸堀江側の石浜を描いたものである。諸国の石材がここに集り、石灯台、石水盤、とくに石灯篭づくりが盛んだったという。
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「廣田社(社)」一養齋芳瀧画
今宮戎神社の北にある今宮の守護神。広田といわれた境内は広く、江戸時代は鬱蒼とした森で、社地の西方には紅白の萩が植えられ、萩の茶屋と称された茶店があり、人びとの遊興の地にもなっていた。
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「福しま逆櫓(さかろ)松」一養齋芳瀧画
どの方向へも転回できるように船のへさき付ける櫓が逆櫓。義経が平家追討のための船出にあたって、家臣と逆櫓をつけるべきかどうか松の根元に腰かけて激諭したことから名付けられたという。
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「森の宮蓮如松」一養齋芳瀧画
森之宮神社は、用明天皇が祭神。絵の松は、蓮如上人が堺に逗留したとき当社に参詣し、教勢繁栄のためこの松の下で祈願したところから、蓮如上人祈松と名づけられた。
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「長堀財木市」一養齋芳瀧画
材木市のこと。もともとは船場にあったが、江戸時代に入り、立売堀や西長堀のあたりが中心になった。とくに、北堀江には材木の生産地土佐藩の蔵屋敷があり、長堀浜には有力な材木商が密集していた。