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  • 西総門(京口門)跡

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     大垣城の総堀の内側には、本町、中町、魚屋町、竹島町、俵町があり、その町屋を縫うように美濃路が通っていた。西方に位置する西総門は、京都方面にあたることから「京口門」とよばれた。この門をもうけ、総堀に橋を架けることによって、有事の際外部との交通を遮断をするなど、防御がはかられた。門の近くには2重の櫓がもうけられ、土塀がめぐらされた。

  • 南口門跡

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     大垣城の南にあり、「南大手門」とも言われ、町屋の竹島町に通じていた。

  • 明治初年大垣城(大垣商業学校撮影)

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     大垣城は別名、巨鹿城ともいわれる。昔このあたりに大きな鹿が棲息していたことから、名付けられた。「死相」に通ずることから、四層四階建てという全国的にみても珍しい造りであり。関ヶ原合戦の際には、西軍を率いた石田三成の本拠地となるなど、歴史上からも貴重な城であった。昭和11年国宝に指定されたが、昭和20年7月の空襲でおしくも焼失した。戦後、再建の気運が高まり、昭和33年再建に着工し、翌年完成した。 

  • 家老屋敷(大垣商業学校撮影)

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     郭町の南はずれにあった家老屋敷は、明治43年に安八郡役所になったが、今の大垣城ホールに移転した。その後、聖公会の幼稚園、ついで美濃ミッションとなった。写真の左側には、郵便局が見えるが、こちらは戦後まで残った。

  • 飯沼欲斎邸跡

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     飯沼欲斎は1783年伊勢亀山西町に西村本平に生まれた。父は大垣商人で大垣新町の町年寄だった。欲斎は幼いころから都に出て広く学問を修め、志を高く持ち立派な人間になることを夢見ていたので、12歳の時、母の実家(大垣竹島)のもとにゆき、親類の医師の門下に入り医学を修めた。後に小野蘭山が幕府の命によって諸国へ薬草採取の旅をした途中、美濃へ立ち寄ったので入門し、植物学を修得した。その後、本業の医学を修めるかたわら、諸国をまわって植物の研究に努めた。28歳のとき単身江戸に上って宇田川榕庵の門人となり、医学と蘭学を研究した。1856年に『草木図説』のうち「草本の部」20巻を著わした。日本産植物を写生したもので、植物図鑑とも称すべきものである。彼は日本における従来の植物学から西洋式の近代植物学への開拓者の1人だり、「日本のリンネ」ともよばれる。 

  • 本陣跡(大垣商業高等学校撮影)

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     本陣は宿場のほぼ中央に位置し、大名や宮家・公家・幕府役人などの貴人が利用した休泊施設である。大垣宿本陣は、永禄の頃沼波玄古秀実が竹島町を開き、はじめて本陣を創立したと伝えられる。以後、本陣役は、宝暦5年(1755)には玉屋岡田藤兵衛が勤め、天保14年(1843)には、飯沼定九郎が問屋を兼ねて勤めた。

  • 辰之口門跡

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     侍屋敷八幡曲輪に通じていた。藩主戸田氏庸は天保11年辰之口門外に学問所をもうけ、のちに致道館さらに敬教堂と改称した。藩主氏彬のときに規模が拡大され、藩校から多くの学者、文人が生まれた。

  • 東総門(名古屋口門)跡

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     東総門は名古屋方面にあることから、名古屋口門と呼ばれた。明け六つに開かれ、暮れ六つに閉じられた。この門をもうけ、総堀に橋を架けることにより、有事の際外部との交通を遮断することで防御がはかられた。門の近くには2重の櫓が設けられ、土塀が巡らされた。ここには、中山道赤坂宿へ向かう門も併設された。

  • 清水口門跡

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     侍屋敷の八幡曲輪に通じている。大垣祭りのとき、この門から山が城内へ曳きいれられた。かつてこの門の近くに大垣の三清水の1つがあり、城主の御用井戸として保護されたが、明治5年に壊された。現在、清水口の門は、飯沼欲債の別邸平林荘跡の正門として、移築されている。

  • 竹橋口門跡

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     大垣城七つ口の1つ。大垣祭りのとき、山が清水口門から城内へ曳きいれられ、城主に掛け芸を行ったあと、この門から城外へ曳き出された。

  • 高札場跡(大垣商業学校撮影)

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     本町1丁目には大垣宿の高札場が設けられた。江戸時代における法令の伝達手段として木板に墨で書かれた高札があり、これを掲げた場所を高札場といった。この高札場は昭和になっても依然として、掲示板として使用され続けた。(「歴史と文化の交差路 大垣を歩く」)

  • 大手門跡

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     大垣城の東にあり、大垣城の正門である。町屋の本町に通じていた。現在、廣嶺神社が建てられており、神社の東の水路がかつての内堀である。城主氏家直元のとき、松の丸にすんでいた松井喜右衛門に替え地をさせ、この地の警護を命じている。

  • 脇本陣跡

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     脇本陣は本陣の補助的役割を果たす宿泊施設である。大垣宿では本町大手門北側にあって、もと関ヶ原の合戦で大垣城を守った7騎の1人松井喜右衛門によって創設された。その後、戸田家の大垣入封に伴って上田家がつとめるようになった。

  • 問屋場跡

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     宿場において人馬の継立の業務を行ったのが、問屋場である。ここへは問屋役をはじめ、その助役の年寄、事務担当の帳付、馬指や人馬指が詰めていた。大垣宿の問屋場は本町にあったが、寛文の頃この竹島町へ移ってきた。問屋役は飯沼家が本陣役と兼務してつとめていた。