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熊野街道新旧道路全図(三重ぶらり)

熊野街道新旧道路全図(三重ぶらり)

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菅相寺 臨済宗妙心寺派。地元では「愛宕の天神さん」と呼ばれ親しまれている。寺伝によると、正保4年(1647)頃、天神社の別当寺として創立され、天和3年(1683)山田(伊勢市)中山寺雪潭和尚を開山としたという。明治26年(1893)の大火により地蔵堂を残して寺は焼失、現在の建物はその後の再建である。 松阪市指定有形文化財の石造天神森之碑(本居宣長撰)、千方牛和尚図(曾我蕭白筆)がある。 【現地案内板より】 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

伊佐和神社 『松阪市史』(松阪市)によれば、明治40年、八重垣神社に周辺の神社を合祀し伊佐和神社と称したという。 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

裹寺(つつみ寺) 天台宗。『花岡郷土史』(山田勘蔵著)によれば、応永元年(1394)、伊勢国司北畠顕泰が八柱神社境内に創建した普門寺が元寺であるという。後世の寺伝によると、寛文4年(1664)に祐覚上人が荒廃した堂宇を中興し、元禄17年(1704)に本堂を建立したという。慶応3年(1867)真祐上人が亡くなり無住職・無檀家になり廃寺となった。その後明治12年(1879)に再興された。 【現地案内板より】 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

浅間神社 八太町公民館の裏手にある。北側には、秋葉山大権現、亀井地蔵大士がある。 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

牛庭神社 『松阪市史』(松阪市)によれば、式内牛庭神社であるという。かつて「牛峯神社」と称したが、明治30年に牛庭神社と改められた。 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

射和寺跡 射和寺はもと真言宗の寺院で福竜院と号し、北畠国司家の菩提所であった。享保元年(1716)射和寺と改称した。明治10年(1877)無檀無住のため廃寺。 跡地には国指定重要文化財の地蔵菩薩坐像を収めた大日堂がある。 【『松阪市史』(松阪市)及び現地案内板より】 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

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道標

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道標 和歌山街道と熊野街道の分岐点。『郷土はなおか』(松阪市立花岡公民館)によれば、明治19年に熊野街道の大改修が行われ、この地点が熊野街道の起点となったころ記念として建てられたものではないかという。一時行方不明になっていたが、昭和51年新町筋の拡幅工事完成後、現在地に戻されたという。「左くまのみち 右和か山みち」と刻まれている。 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

甘棠亭(かんとうてい) 安永3年(1774)に石井家の離れとして母屋の西南に建てられたもので、近世の大庄屋の接客空間がうかがい知れる建物である。所有者の石井家は江戸時代、紀州藩地士であり、代々大庄屋を勤め、五人扶持を給されていた家柄であった。松阪市指定文化財。 【現地案内板より】 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

北出橋 名古須川に架かる。 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

代官屋敷跡 寛文10年(1670)紀伊徳川家の家臣三浦長門守が松阪領代官として赴いたときに邸宅を構え、以来明治4年三浦権五郎の代まで代官屋敷として使用されていた。建物は取り壊されたが、古井戸は現在も残っている。 【『郷土はなおか』(松阪市立花岡公民館)より】 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

道標

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道標 山室道と熊野街道の分岐点。明治40年建立。「右 本居大人奥墓山室山道」と刻まれている。裏面には「万代に匂う朝日のさくらかな」という可同の句が刻まれている。 【『郷土はなおか』(松阪市立花岡公民館)より】 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

焼橋

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焼橋 金剛川に架かる。旧駅部田(まえのへた)村と旧久保村の境界。『飯高郡山室村地誌』には「八鬼橋」と記されている。国道42号線の開通に伴い架け替えられたものと思われる。 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

改良された新道 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

水田の間を通る旧道 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

八太橋 孫川に架かる。『神都名勝誌』(東吉貞 編)によれば、「八太」は「治田」の訛ったものだという。 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

常夜燈 街道東側に建つ。 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

鐘突池 灌漑用のため池。大字中万にある。『松阪市史』(松阪市)によれば、面積45平方キロメートルという。 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

神山池(下池) 大字射和にあり、俗に下池と呼ばれる。『松阪市史』(松阪市)によると、天保14年(1843)、土砂に埋まりほとんど灌漑の用をなさない状態になっていたものを、竹川竹斎が改修したのだという。 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

新道と旧道の分岐点 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

道標

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道標 旧両郡橋へ向かう曲がり角に立つ。「☞ 久ま野ミち」「☜ まつ坂みち」と刻まれている。 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

両郡橋 櫛田川に架かる。明治21年(1888)に初めて木造の橋が架けられた。多気郡と飯野郡(その頃射和は飯野郡であった)の両郡を結ぶということから「両郡橋」と名付けられた。 その後、明治41年(1908)に赤いレンガを積み上げた橋脚の新しい橋が架けられ、現在の橋は昭和32年(1957)に架け替えられたものである。 現在の橋の約40m上流には、明治41年に架けられた橋の橋脚と思われる遺構が残っている。 【『わたしたちの多気町史』(多気町・多気町教育委員会)より】 【旧両郡橋の橋脚と思われる遺構】 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

国分家(射和) 江戸時代に松阪商人に先駆けていち早く江戸に進出し、醤油、味噌商を営んで、江戸屈指の豪商に数えられた。かつての豪商の面影を偲ぶことができる。 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

射和文庫 幕末から明治初頭にかけて、経世家竹川竹斎が、人材育成のために、多額の私費をつぎ込んで国内の文献を集めて開設した私立図書館。関係資料は県指定文化財となっている。 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.