Number of spots : 143spots
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矢田立場
矢田立場 江戸時代の矢田町は、東海道の立場(宿場と宿場の中間にあって、旅人が休憩する茶店などが集っている所)であった。「久波奈名所図会」には、「此立場は食物自由にして、河海の魚鱗・山野の蔬菜四時無きなし」とある。福江町へ曲がる角には火の見櫓(現在の火の見櫓は平成3年に再建したもの)もあった。現在でも、馬を繋ぎとめた鉄環のある家や連子格子のある家も見られる。 福江町も矢田立場の続きで、茶店や宿屋が多くあった。福江町の南端は、桑名宿の入口に当たるので、旅人を引止めるために、宿屋の人たちが集っている宿引小屋があった。また西国からの大名などが通行の際には、桑名藩からの役人が出迎えて、ここから案内をした。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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能古茶屋跡
能古茶屋跡 東海道随一と称された立場茶屋能古があった。 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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富田一里塚阯
富田一里塚阯 県指定昭和12年11月 昔、街道の両側に一里(約4キロメートル)ごとに土を盛り上げえのき等の樹木を植えて旅人の目じるしにしたものが一里塚である。すでに戦国末期に存在していたが江戸の初めごろから江戸日本橋を起点として五街道を中心に設けられていた。 しかし明治以降は、交通機関等の発達によりほとんど取り除かれてしまい、本市においてもその面影をみることができなくなった。古地図や文献によると四日市には富田・三ツ谷・日永・采女の四ヶ所にその跡が判明されており、これはそのうちの一つで日永の一里塚跡とともに県の史跡に指定されている。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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三ッ谷一里塚跡
三ッ谷一里塚跡 一里塚は、江戸時代の初め、幕府が東海道をはじめとする五街道を整備した際、江戸日本橋を起点として一里(約4キロメートル)ごとに街道の両側に土を盛り、榎や松を植えて旅人の目印にしたものである。 東海道の三ツ谷には、かつて一里塚があった。しかし、その場所は、昭和20年代に海蔵川が拡幅された際、川の中に取り込まれてしまった。「東海道文間之圖」(元禄3年〈1690〉)によれば、三ツ谷の一里塚は東海道が海蔵川に突き当たった辺りに記されている。 そこで、東海道宿場・伝馬制度制定400周年を記念して、この場所を一里塚跡とし、石碑を建てて後世に伝えることにした。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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日永一里塚跡
日永一里塚跡 「日永の一里塚跡」は、三重県指定記念物・史跡に指定され、指定当時は天白橋の北詰西側の榎の所在地と考えて標石が建立された。 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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日永の追分
日永の追分 道が左右に分かれているところを追分と言う。「日永の追分」は東海道と伊勢街道の分れ道である。 道路が拡張される前は伊勢街道の入口に道を跨いで伊勢神宮の二の鳥居が立っていた。この鳥居は安永3年(1774)久居出身で江戸に居た渡辺六兵衛と言う人が、江戸から京都へ行くとき、ここから伊勢神宮を遥拝するようにと思って立てたものである。鳥居は皇太神宮の遷宮に合わせて、20年ごとに建て替えられることとなっていた。今の鳥居は昭和50年に建て替えられたもので、最初の鳥居から数えて第九次の鳥居となる。 また、追分は東海道五十三次の四日市宿と石薬師宿との間にあって「間の宿」と言われ、神宮遥拝鳥居を中心に旅籠が軒を並べ、茶店も多かった。そして、間の宿は本宿に比して割安に宿泊することが出来、旅人からは歓迎されていた。「日永の追分」は昭和13年に三重県の史跡に指定され現在に至っている。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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采女一里塚跡
采女一里塚跡 ここは、丁度四日市宿から2里にあたる地点で、古絵図等にも明記されている。 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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中富田一里塚跡
中富田一里塚跡 一里塚は、慶長9年(1604年)に江戸幕府の事業として、東海、東山、北陸の三道に築かれた。 江戸、日本橋を起点として、36町を1里(約4キロ)として、1里ごとに塚を築き旅人の往来の目印とした。 享和3年(1803年)に作成された「東海道亀山宿分間絵図」によると、川俣神社の東隣に一里塚があったことが描かれている。 その近くに「御馳走場」と書かれた家があり、当時、東海道を往来する大名行列などの一行を接待する場所であったと考えられ、現在も「東百里屋(ともりや)」という屋号で呼ばれている家がある。この地から、江戸へおよそ100里(約400キロ)であったので、この屋号がつけられたと伝えられている。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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平野道の道標
平野道の道標 道の左側の民家の角。右側には高札場があった。 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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石柱
石柱 「従是西亀山領」と刻まれている。 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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和田一里塚跡
和田一里塚跡 野村一里塚とともに亀山市内に所在する旧東海道の一里塚で、慶長9年(1604)幕府の命により亀山城主であった関一政が築造した。 かつてはエノキが植えられており、昭和59年の道路拡幅までは塚の一部が遺されていた。現在の塚は、塚跡地の東側に近接する場所に消滅した和田一里塚を偲んで模式復元したものである。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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和田道標
和田道標 元禄3年(1690)、東海道から神戸・白子・若松(鈴鹿市)方面への分岐に建てられた道標である。正面に「従是神戸白子若松道」、左側面に「元禄三午庚年正月吉辰施主度会益保」と刻まれている。 『東海道分間延絵図』(文化年間・19世紀初頭)には、「脇道神戸城下町江二里半、白子町江三里、若松邑江三里三十四町」とあり、亀山城下から亀山領若松港へいたる重要な分岐点であった。 県内東海道の在銘道標の中で最も古いものである。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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野村一里塚跡
野村一里塚跡 一里塚は、江戸時代のはじめ、徳川幕府が江戸日本橋を基点とし、街道に沿って1里ごとに設けさせた里程標で、塚を築き、その上に樹木を植えた。 この一里塚は、東海道の一里塚の一つとして築造されたもので、もと街道をはさんで南北に塚があったが、大正3年に南側のものは取り去られ、北側の塚のみとなってしまった。 塚の上には、目通り幹囲5メートル、高さ20メートルの椋(ムク)の木がある。 本県における旧東海道においては桑名宿から坂の下宿の間に12ヵ所の一里塚が設置されていたが、いま、残るものは、この一里塚だけであり、わが国交通史上、貴重な遺跡として、昭和9年1月22日、国の史跡として指定された。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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東の追分
東の追分 関が歴史に登場するのは、7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのがはじめてで、これが地名の由来ともなっています。 慶長6年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は東海道五十三次で四十七番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整えられました。古文書によると天保14年(1843)には家数632軒本陣2、脇本陣2、旅籠屋42があったとされ(東海道宿村大概帳)鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として、また伊勢別街道や大和街道の分岐点として、江戸時代を通じて繁栄しました。 ここ東の追分は伊勢別街道の分岐点で鳥居は伊勢神宮の式年遷宮の際、古い鳥居を移築するのがならわしになっています。江戸方への次の宿は亀山宿です。道標には外宮(伊勢神宮)まで15里(60キロメートル)と刻まれています。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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関一里塚跡
関一里塚跡 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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縄生一里塚跡
縄生一里塚跡 縄生の中ほどの石柱が立つあたりにあった。往時は見事な一対の塚だった。江戸時代には街道の両側に榎が植えられ、高札場にもなっていた。 集落のはずれに安達酒造の酒蔵がある。いかにも歴史的な建物だ。店の奥に大正時代の木造2階建て洋館がある。当時はハイカラなものだった。 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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一ノ瀬一里塚跡
一ノ瀬一里塚跡 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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西の追分
西の追分 関が歴史に登場するのは、7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのがはじめで、これが地名の由来ともなっています。 慶長6年(1601)に徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は東海道五十三次で四十七番目の宿場となり問屋場や陣屋などが整えられました。古文書によると天保14年(1843)には家数632軒本陣2、脇本陣2、旅籠屋42があったとされ(東海道宿村大概帳)鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として、また伊勢別街道や大和街道の分岐点として江戸時代を通じて繁栄しました。 ここ西の追分は大和街道との分岐点にあたり、東海道、京都方への次の宿は坂下宿で、鈴鹿峠を越えて京都へは19里半(78キロメートル)あります。また大和街道は加太越えをして伊賀から奈良に至ります。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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石薬師一里塚跡
石薬師一里塚跡 信長記には、天文9年(1540)冬、足利将軍が諸国に命じて40町を1里として一里塚を築かせ、その上に松と榎とを植えさせたという。(1町は約109メートル) 家忠日記には、慶長9年2月(1640)秀忠が東海道東山道、北陸道の三道に一里塚を築かせ、一里を36町に改めたという。 くたびれたやつが見つける一里塚(江戸時代の川柳)【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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京口門跡
京口門跡 亀山宿の西端、西町と野村の境を流れる竜川左岸の崖上に築かれた門である。 『九々五集』によれば、亀山藩主板倉重常によって寛文12年(1672)に完成したとされる。翌延宝元年(1673)に東町に築かれた江戸口門とともに亀山城総構の城門として位置付けられ、両門の建設によって東海道が貫通する城下の東西が画された。 京口門は石垣に冠木門・棟門・白壁の番所を構え、通行人の監視にあたっていた。また、門へ通じる坂道は左右に屈曲し、道の両脇にはカラタチが植えられ不意の侵入を防いだとされる。 大正3年、京口橋が掛けられたことで坂道を登る道筋は途絶えてしまったが、往時は坂の下から見上げると門・番所がそびえる姿が壮麗であったことから、 亀山に過ぎたるものの二つあり伊勢屋蘇鉄に京口御門 と謡われるほどであった。 歌川広重「東海道五拾三次」のうち『雪晴』をはじめとする風景画の舞台として著名である。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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亀山城跡
亀山城跡 伊勢亀山城は、文永2年(1265)若山(亀山市若山町)に関実忠が最初に築城し、元亀4年(1573)織田信長により関盛信が追放されるまで、関氏十六代の居城であった。ただし、関氏時代のうちに現在の位置に遷されたとされ、発掘調査においても戦国時代末頃の空堀が確認されている。 天正18年(1590)岡本宗憲が入城後、新たに築城したとされ、この城については、『九々五集』に本丸・二之丸・三之丸からなり、天守も建てられたと記される。 また、三宅氏が城主の時、丹波亀山城の天守を解体するよう命じられた堀尾忠晴が間違えて伊勢亀山城の天守を取り壊したと伝えられるが真偽のほどは定かではない。 寛永13年(1636)本多俊次が城主になると亀山城の大改修に着手し、東西700メートル、南北500メートルに及ぶ縄張りが確定する。城の外周は堀が廻り、一部は谷をせき止めて水堀とした。城内には本丸、二之丸、東三之丸、西之丸、西出丸の曲輪があり、本丸には将軍家旅館として整備された本丸御殿、二之丸には城主居館と藩庁を兼ねた二之丸御殿が設けられた。 亀山城の別名については唯一の出典である『九々五集』に姫垣を意味する「粉?城」と記されている。 城主は八家がめまぐるしく入れ替わったが、延享元年(1744)石川総慶が城主となると、以後は石川家十一代で明治維新を迎えることとなる。 明治6年の廃城令によりほとんどの建造物は取り壊され、現在は多門櫓と石垣、土塁、堀の一部が残されているに過ぎない。多門櫓は、県下で原位置のまま遺存する唯一の城郭建築として昭和28年に三重県指定文化財に指定された。また、石坂門は近年の発掘調査により石垣基礎の一部が発見され歴史博物館前庭に移設されており、わずかではあるが往時の姿を偲ぶことができる。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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江戸口門跡
江戸口門跡 延宝元年(1673)、亀山城主板倉重常によって築かれた。 東西120メートル、南北70メートルで、北側と東側に堀を巡らし、土塁と土塀で囲まれた曲輪を形成し、東端には平櫓が1基築かれていた。曲輪内は3つに区画され、それぞれが枡形となっていた。この築造には領内の村々に石高に応じて人足が割り当てられ、総計2万人が動員されている。 西側の区画には番所がおかれ、通行人の監視や警固にあたっていた。ただ、江戸時代前期においてはこの位置が亀山城下の東端と認識されていたことから、江戸口門は東海道の番所としてではなく、城下西端の京口門とともに、亀山城惣構の城門と位置づけることができよう。 現在は往時の状況を示す遺構は存在しないが、地形や地割、ほぼ直角に屈曲した街路にその名残をとどめている。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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浜田城跡
浜田城跡 文明2年(1470年)、田原美作守忠秀が浜田城に築いた城で、築城以後107年間にわたり浜田家が在城したが、天正3年(1575年)6月、滝川一益の攻略により落城しました。現在は、鵜の森神社境内に土塁の一部をとどめるのみであるが、城跡周辺は鵜の森公園として市民の憩いのオアシスとなっています。 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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桑名城
桑名城 戦国時代、この付近には伊藤氏が支配する東城と呼ばれる城がありました。戦国末期、桑名地方は織田信長に平定され信長の家臣滝川一益(かずます)の支配を受けました。豊臣秀吉の時代には、一柳右近や氏家行広が治めました。 桑名城に初めて天守閣が築かれたのは文禄4年(1595)で、伊勢神戸城(現在の鈴鹿市神戸)の天守閣を移したといわれています。 桑名に本格的な城郭が築かれたのは慶長6年(1601)です。徳川家康は関ヶ原の戦いの翌年、徳川四天王の一人で腹心の本多忠勝を桑名に配置しました。忠勝は東城があった所を中心に縄張りを行い、近世城郭を造りました。同時に城下町の整備も行い、大山田川・町屋川の流れを変えて外堀に利用し町の守りとしました。忠勝の行ったまちづくりを「慶長の町割り」と呼びます。 桑名城は揖斐川を利用した水城で、城内から船で川に出ることができました。天守閣は四重六層の勇壮なものでしたが元禄14年(1701)の大火で焼失し、以後は再建されませんでした。門や櫓の数は多く、享和3年(1803)の記録には、本門や路地門などを合わせて63カ所、櫓は95カ所とあります。 しかし、幕末戊辰の役(1868)の時、桑名藩は旧幕府方に付き、藩主松平定敬(さだあき)は東北地方を転戦し、最後は五稜郭で降伏しました。その間に国元は新政府軍に降伏し、無血開城して市内は兵火を免れました。新政府軍は天守閣の代わりとなっていた三重の辰巳櫓(たつみやぐら)を焼き払い、桑名城落城のしるしとしました。その後桑名城の石垣は取り払われ、四日市築港の資材とされました。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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幡龍櫓
幡龍櫓 桑名城には、元禄大火後に再建された時点で51の櫓があったと記録されています。このなかでも、川口にある七里の渡に面して建てられていた幡龍櫓は、東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名のシンボルでした。歌川広重の有名な浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いています。 幡龍櫓がいつ建てられたかは定かではありませんが、現在知られているうちで最も古いとされる正保年間(1644~48)作成の絵図にも既にその姿が描かれています。幡龍の名が文献に初めて表れるのは、享和2年(1802)刊の「久波奈名所図会」で七里の渡付近の様子を描いた場面です。この絵では、単層入母屋造の櫓の上に「幡龍瓦」と書かれており、櫓の形はともかく、この瓦の存在が人々に広く知られていたことを思わせます。 「幡龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことです。龍は水を司る聖獣として中国では寺院や廟などの装飾モチーフとして広く用いられています。幡龍櫓についても、航海の守護神としてここに据えられたものと考えられます。 文化3年(1806)刊の「絵本名物時雨蛤」という書物「臥龍の瓦は当御城門乾櫓上にあり、この瓦名作にして龍影水にうつる。ゆへに、海魚往ずといへり。」とあって、桑名の名物の一つにこの瓦を挙げています。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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舟会所・問屋場跡
舟会所・問屋場跡 (舟会所跡) 舟会所は宮および佐屋へ渡る旅人のために渡船の手配をする事務所であった。旅人はこの舟会所に乗船の申込みをして料金を支払い、乗船した。現在は跡地は定かでない。 (問屋場跡) 問屋場は東海道を旅する旅人のために人足や馬を手配する事務所で人馬継問屋場とも人馬会所とも言う。宿場町には必ず設けられていた。現在は跡地は定かでない。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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本陣跡・脇本陣跡
本陣跡・脇本陣跡 むかし、この辺りから泊の集落までは、東海道の両側に低い土手が築かれ、その上に、大きな松の木が並んで植えられていた。 その間には、家は一軒もなく、縄手(なわて)と呼んでいた。この松は、その縄手に植えられていたものが残った貴重なものであり、往時の東海道や日永の歴史の一端を今に伝えるものとして、大切に維持しなければならない。 縄手の道の幅は、土手も入れて、約5間(9メートル)であった。松の木が無くなった現在の道幅とほぼ一致する。因みに、旧東海道の道幅は、3間(約5.5メートル)で、現在も変わっていない。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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吉津屋見附跡
吉津屋見附跡 江戸時代の始めは、この付近は吉津屋町に属しており、東海道上に吉津屋門と番所があって、吉津屋見附と言った。のち鍛治町として独立したので、鍛治町門(または小字名の七つ屋門)と言う。ここの道路は四角形の三辺をまわる升形道路となっていた。この升形道路は現在でも使われており、石取祭車が通る道である。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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七曲見附跡
七曲見附跡 桑名城下の南端の見附であり、東海道上に七曲門(または釘貫門とも言う)と番所があった。ここは東海道が川口町から7度曲がった所なので七曲(ななまがり)と言った。門の位置は現在の日進小学校の西端あたり、番所は消防車庫のあたりにあったと思われる。門の南は升形道路になっていたが、現在は廃止されている。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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陣屋跡
陣屋跡 四日市町は江戸時代、享保9年(1724)~享和元年(1801)の大和郡山藩領時代を除き、天領(幕府領)であった。便宜上、享保9年以前を第一次天領時代、享和元年以降を第二次天領時代という。慶弔8年(1603)幕臣水谷九左衛門光勝が竪町の東側に代官所を築き、幕府領支配の拠点とした。代官所は江戸時代を通じ、この地を移動することはなかった。第一次天領時代は、九左衛門を初代として24代の代官が任命されている。大和郡山藩領時代にも、やはり付近の藩領を支配するためここに代官が派遣された。第二次天領時代になると、信楽代官多羅尾氏の支配を受けて、出張陣屋が置かれた。多羅尾氏は1500石の旗本で、代々信楽代官を勤めたが、四日市陣屋へは手付・手代を派遣して支配にあたらせた。手付・手代の数は、天保10年(1839)には信楽詰20人、江戸詰9人、四日市詰2人であった。陣屋の建物自身には時期によって変更があったようであるが、詳細は不明である。なお、陣屋の建物は明治維新後、度会県支所、安濃津県支所さらに三重県庁となったが、明治9年(1876)の伊勢暴動の際にすべて焼失した。 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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庄野本陣跡碑
庄野本陣跡碑 庄野宿は東海道五十三次の45番の宿場で寛永元年(1624)に設置された本陣は沢田家で間口14間1尺奥行21間1尺面積229坪7合畳数197畳半板敷44畳半あった。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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伊藤本陣跡
伊藤本陣跡 伊藤本陣は、川北本陣と並んで東海道関宿の中心的な役割を果たした。本陣とは宿駅に設けられた大名や公卿高僧など身分の高い人々の休泊する宿を指すようになった。伊藤本陣は間口11間余、建坪69坪、西隣の表門は唐破風造りの檜皮ぶきであった。現在残っている街道に面した部分は家族の居住と大名宿泊時に道具置場に供する建物である。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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京町見附跡
京町見附跡 京町の西端の東海道上に京町門があり、その南側に番所があって、ここを京町見附と言い、旅人を監視していた。また北側には郷方役所(のちの市役所跡)があった。門の西は外郭堀で橋はなく、東海道は南に曲り、さらに東へ曲り、もう一度南へ曲がる升形道路となっていた。現在は門も番所も役所も升形道路も廃止されている。なお外郭堀には明治時代に京橋がかけられた。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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本陣・脇本陣跡
本陣・脇本陣跡 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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菰野道の起点
菰野道の起点 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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東海道名残の一本松
東海道名残の一本松 むかし、この辺りから泊の集落までは、東海道の両側に低い土手が築かれ、その上に、大きな松の木が並んで植えられていた。 その間には、家は一軒もなく、縄手(なわて)と呼んでいた。この松は、その縄手に植えられていたものが残った貴重なものであり、往時の東海道や日永の歴史の一端を今に伝えるものとして、大切に維持しなければならない。 縄手の道の幅は、土手も入れて、約5間(9メートル)であった。松の木が無くなった現在の道幅とほぼ一致する。因みに、旧東海道の道幅は、3間(約5.5メートル)で、現在も変わっていない。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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杖衝坂
杖衝坂 杖突坂とも書き、東海道の中でも急坂な所で、日本武尊が東征の帰途、大変疲れられ「其地より、やや少しいでますにいたく疲れませるによりて、御杖をつかして、稍に歩みましき、故其地を杖衝坂といふ」(『古事記』)とあり、その名が称されるようになり、加えて、芭蕉の句「歩行ならば杖つき坂を落馬かな」により、その名が世に知られることになった。また、坂を上がりきった所には、尊の足の出血を封じたとの所伝から血塚の祠もある。 この場所にある二つの井戸は、坂の上手を「弘法の井戸」、下手を「大日の井戸」と言われ、前者は弘法大師が水に困っている村人に、杖で指し示されて掘ったところ清水が湧き出た井戸であると伝えられ、後者は、坂の中腹左側にあった大日堂に備える閼伽水を汲み上げた井戸と、地元民の間では伝承されている。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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太岡寺畷
太岡寺畷 東海道で最も長いといわれた太岡寺畷。かつては、左右に松並木が続き、現在は桜が植えられ、春には鈴鹿川と調和した美しい風景が広がっています。 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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筆捨山
筆捨山 そのむかし、画家の狩野元信が旅の途中でこの山を描こうと筆をとったところ、山の風景が刻々と変わってしまうことに絵を描くことをあきらめ、筆を投げ捨てたことからこの名がついたと伝えられます。江戸時代から名勝として世に知られ、浮世絵で坂下宿のほとんどのものが筆捨山を描いています。 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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観音山
観音山 亀山市指定名勝。 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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高札場
高札場 高札場は、法度掟書などを書いた「高札」を掲示した場所で各村の庄屋宅前とか人通りの多い辻など村や宿場ごとに一ヶ所設けられていた庶民に法令などの趣旨を徹底させるためであった。 庄野宿資料館には人馬賃銭の規定、人倫の奨励、その他禁制など実物五枚が展示されている。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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高札場跡
高札場跡 高札とは、幕府や藩の法令などを板に墨書したもので、この板札を掲げる場所を高札場と呼びます。高札場は、法令などを広く人々に公示するばかりでなく、通行の際には敬意を表させるなど、幕府の権威を誇示する意味も持っていました。 江戸時代のこの場所は、大手門前で東海道が直角に折れて広場となっており、亀山宿の高札場はここに設けられていました。 ここから江戸まで104里、庄野宿まで2里、関宿まで1里半あります。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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関宿高札場
関宿高札場 高札場とは、幕府の法度や掟書、宿場の決まりなどを掲示した場所です。 関宿の高札場は、江戸時代に描かれた数々の絵図を見ても、関宿中町北側(現関郵便局)にありました。当時この敷地は、「御茶屋御殿」と呼ばれ、江戸時代初期においては本陣の役割を果たす施設でしたが、関宿に本陣が確立されてからは、亀山藩の施設として番所などが置かれていました。 関宿高札場は、この御茶屋御殿の街道に面した位置にあり、街道に面した間口11間余のほぼ中央に、枡形状の土塀に囲まれてあり、高札場の建設、高札の付け替えなどは亀山藩が行っていました。 『東海道宿村大概帳』によると、関宿高札場には八枚の高札が掲げられており、その内容は、生活にかかわる様々な規範、キリシタン禁令や徒党・強訴などの禁止といった幕府の禁令、隣接宿場までの人馬駄賃の規定などでした。 明治時代になると、各地の高札場は撤去されますが、関宿の高札場も、明治10年、関宿中町伊藤家の土蔵建築の際、旧高札場の石、土、瓦等を残らず処分したことが当家文書にあり、周囲の土塀なども含めすべてが撤去されたことがわかります。 この度、関宿の町並み保存に取り組んでいただいている「関宿町並み保存会」、「関宿案内ボランティアの会」、「関町観光協会」の三団体より、高札場復元のご要望をいただき、また、復元場所を所有する日本郵政公社及び関郵便局の多大なるご理解・ご協力を賜り、宿場町の重要施設のひとつである高札場の復元が実現したものです。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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琴の橋(桐の橋)
琴の橋(桐の橋) かつて天皇家の秘宝のひとつに和琴の「鈴鹿川」がありました。このことは鈴鹿川にかかる桐の橋板から作られたことからこの名があり、「平家物語」にも登場しています。藤原俊成が「鈴鹿川桐の古木の丸木橋これもや琴の音に通うらん」と詠んだこの橋は古町にかかる小橋のこととする説があります。 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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理左衛門橋
理左衛門橋 昔、椋川がしばしば氾濫し、多くの家屋が浸水したため、安永年間(1624~44)ごろ、亀山藩士生田理左衛門が私財を投げうって水流を南へ変え、橋を架け替えた。現在は、川合椋川橋という。 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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七里の渡し跡
七里の渡し跡 桑名宿と宮宿(現名古屋市熱田区)の間は江戸時代の東海道唯一の海路で、その距離が七里(約28キロ)あることから、七里の渡と呼ばれました。七里の渡は、ちょうど伊勢国の東の入口にあたるため、伊勢神宮の「一の鳥居」が天明年間(1781~1789)に建てられました。 七里の渡の西側には舟番所、高札場、脇本陣駿河屋、大塚本陣が、七里の渡の南側には舟会所、人馬問屋や丹羽本陣があり、東海道を行き交う人々で賑わい、桑名宿の中心として栄えました。 昭和33年(1958)、七里の渡跡は三重県指定史跡となりました。昭和34年(1959)には伊勢湾台風によって、この付近は甚大な被害を受けました。現在では七里の渡跡の前に堤防が築かれたため、七里の渡跡の風景は、江戸時代とは異なる表情を見せています。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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北大手橋
北大手橋 桑名城の堀にかかる橋。欄干の両側には安藤広重の東海道五十三次 「桑名七里の渡し」などの陶板浮世絵6枚がはめこまれています。 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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町屋橋跡
町屋橋跡 江戸時代、ここ安永は桑名入口の立場(旅人が休憩する茶店が集まっている所)であり、また町屋川の舟運の舟着場でもあったので、大いに賑い、茶店では街道名物の安永餅を売っていた。 この地点から対岸の縄生(三重郡朝日町)の間に町屋橋がかかっていた。寛永12年(1635)にはじめて架橋され、川の中州を利用した大小二本の板橋であったり、一本の板橋であったり、しばしば変わっている。案内図の橋は江戸時代中頃のもので、中央は馬が退避できるように幅がやや広くなっていた。 昭和8年(1933)国道一号線の橋がかけられ、旧東海道の町屋橋は廃止された。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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河原谷橋
河原谷橋 沓掛と伊勢国最後の宿・坂下の境界。下の橋ともいう。 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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内部川
内部川 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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天白橋
天白橋 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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鹿化橋
鹿化橋 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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三滝川
三滝川 三滝橋を渡ると四日市宿に入る。安藤広重の描いた三重川は、この三滝橋あたりだといわれている。当時は、川遊びや夕涼みなどの憩いの場であった。 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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海蔵川
海蔵川 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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一里塚橋
一里塚橋 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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朝明川
朝明川 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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光明寺
光明寺 江戸時代街道に面して山門があった。七里の渡船が遭難した際に亡くなった旅人の供養碑が残る。 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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十念寺
十念寺 浄土宗。古くは朝明郡切畑(現三重郡菰野町)にあったが、室町時代に桑名へ移り、慶長町割の際に現在地に移る。県指定文化財として祭礼図屏風(江戸時代初期の作と思われる)市指定文化財として当麻曼荼羅図、仏涅槃図、森陳明之墓がある。森陳明(1826~69)は明治維新の際に、桑名藩が敗北した責任をとり、藩を代表して切腹した。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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願証寺跡
願証寺跡 願証寺は元は桑名郡長島にあり、浄土真宗の重要な寺であった。長島一向一揆の中心であったが、織田信長に攻められて廃寺となる。のち当地に再興した。約1万坪(33,000㎡)の広大な境内があった。しかし、正徳5年(1715)高田派への改派をめぐり、内部紛争となり、次第に衰退してしまった。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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若宮八幡神社
若宮八幡神社 祭神 大鷦鷯尊(仁徳天皇) 1300年ほど昔 大海人皇子が伊勢路に潜行された頃、この地は海の底であったと考えられるが、次第に陸地化が進み肥沃の田地が広がり住人の姿が現れた。 寛政8年(1796)石高344石余、戸数22戸(朝明郡絵図控)文久3年(1863)(南組家数人別目録)戸数43戸とあり次第に村落の形成を見ることができる。 しかしこの地に出現した十四川は、度重なる氾濫によって人々を苦しめた。十四に曲がりたるが故に十四川と名付けられたという説もあるくらいである。 神社発祥の頃は不明なれど、荒ぶる川を鎮めんがため、八幡神社を勧請し、神の加護を得て、川の改修をはかってきた。現代の川筋は昔のそれとはまるで違ったものとなり、人々の苦労の跡を偲ばせている。 明治40年(1907)12月25日、政令により、若宮八幡神社は村社鳥出神社に合祀された。昭和56年(1981)新社殿建立、鳥出神社より祭神を迎え再祀した。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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薬師寺
薬師寺 五十一代平城天皇の大同年間(806~10)の頃、このあたりに百薬に手を尽くしてもなお治らない疫病が流行し諸人は大変苦しんでいた。このことを東国の旅の途中に知った弘法大師は、ここに足を止め、薬師如来を彫り、開眼した。すると、たちまち夕立の雲の晴れるがように諸人の難病は平癒していった。 諸人は弘法大師に感謝するとともに、城山にお堂を建ててこの薬師如来を祀ったという。 その後、茂福城主朝倉下総守盈盛は、ここを菩提寺として、大伽藍を建立し、報乳山洪恩寺と号したが、永禄10年(1567)に、滝川一益の兵火にかかって焼失した。このとき本尊は自ら火中を逃れて、門前の松に避難され光明を放っていたのである。諸人は再度の奇跡に深く感じて、翌年現在地に草庵を結び本尊を祀った。 その後、桑名船場町の十念寺の芳誉上人によって、再建されたと伝えられている。 現在、本尊薬師如来は秘仏として扉は閉ざされている。当地唯一の尼寺である。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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茂福神社
茂福神社 祭神 建速須佐男命ほか八柱 応永28年(1421)摂津守政平が越前朝倉よりこの地に赴任すると、建速須佐男命と天照皇大神をお祀りした。祭祀を引き継いだ城主茂福掃部輔盈豊は永禄10年(1567)伊勢長島城で謀殺され茂福城も落城した。その後、盈豊の遺志は受け継がれ祭祀が続けられてきて茂福の産土神となった。 明治42年(1909)鳥出神社へ合祀となり、従来からの祭りの日には御神霊を御輿で奉迎し、現在の茂福神社を御旅所として祭りを行ってきた。昭和25年(1950)鳥出神社から分社、正式に茂福神社として再祀、祭神を旧社に奉還して現在に至る。 境内には、鳥居・石灯籠・狛犬・太鼓橋など、石造物が多く奉納されている。古くは寛文12年(1672)を始めとして明治・大正・昭和と時を追って奉納されていて、この地の人々の信仰の篤さをしのばせている。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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大宮神明社
大宮神明社 当社は永宮さんとも呼ばれ、主祭神として天照大御神を祀る。 昔は現在の南高校のある岡山の麓まで海があって、その海辺に舟付明神があった。垂仁天皇の時代に倭姫命が天照大御神を伊勢の地にお遷しする際にこのお社に一時お留まりになったという伝えもある。その舟付明神が400年ほど前に炎上し、当時出来つつあった道路(東海道)に遷ってきたのがこのお社である。 例祭は10月の体育の日である。この日には獅子舞があり、現在では八幡獅子が家々を回って獅子を舞わしている。 本殿の右横には大己貴命、少彦名命を祀る摂社二柱大神社(センキさんとも言う)があり、病気を直す神様として有名である。 6月30日には那護志大祓があり、一般には「輪くぐり」といって茅の輪をくぐると夏負けしないという言い伝えがあり、近在近郷から老若男女が大勢参拝し、夜店がぎっしり並んで大変な賑わいで、有名な祭りとなっている。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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興正寺
興正寺 登城山の麓に寺院が所在した時は、天台宗であったが、高田専修寺真慧上人の布教により、浄土真宗高田派となった。滝川一益が日永興正寺に寺領を寄進し、諸役を免除した「天正三年十二月日」(1575)の古文書をはじめ中世・近世文書が多くある。これらは一切見せていないが『日永山興正寺史』に収録されている。刊本は、四日市市立図書館に収蔵する。境内には、古谷久語の碑がある。 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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両聖寺
両聖寺 もとは天台宗林光山西教院と称したが1248(宝治2)年に浄土宗となった。浄土宗鎮西派である。寺号もその後、両聖寺と改めた。 本尊の阿弥陀如来像は、伊勢安国寺(四日市市西日野町・跡地は県指定史跡)のものであったと伝えるが往時に焼失している。境内に八幡社があったがその鳥居や江戸期の庭園が今も保存されている。境内には、「天正九年三月九日古梅洞源」(1581)等、戦国時代末の墓石が多い。実蓮寺に伝わる滝川一益の母の墓碑もここに所在するのかと推測される。 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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日永神社
日永神社 当社は昔は南神明社といい、主祭神として天照大御神を祀る。日永神社という単称が許されたのは明治40年からである。 創祀は鎌倉時代の建仁年間(1201~1204)といわれているが、天正年間(1573~92)に織田信長の兵火に罹り、創立沿革の記録や神宝類も焼失し、いつ創祀されたか不明である。 以前は拝殿の右側に松の老木があり、国難があると樹皮が変色して人々を驚かせ、神木として崇められていたという言い伝えがあったが、その木は今はない。 当社は神戸藩主本多家の崇敬が篤く、本多家は当社に家紋を献納され、現在も紋章の付いた備品が残っている。 明治40年には岡山白髭社・日吉神社・追分神明社を、また明治41年には池鯉鮒社・山神社・天満社・事比羅社・土大神社の無格社を、更に明治44年には稲荷社を合祀して現在に至っている。 例祭は10月の体育の日である。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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観音禅寺
観音禅寺 本堂の1737(元文2)年3月の棟礼によれば、臨済正宗35世鎮堂元傑が開創し、四日市町浜町の森本長八忠雅の喜捨によって本殿・庫裡・方丈が建立されたという。棟礼の裏には、1806(文化3)年に再建されたことがうかがえる。 山門も1800(寛政12)年の再建である。黄檗宗で、寺には多くの黄檗山萬福寺の高僧の墨書や絵画が保存されている。本尊の千手観音立像は、木造・彫眼で像高98.5㎝あり、平安時代後期11世紀頃の作である。 「隠元騎獅象」は、絖本着色(上質の絹地に着色したもの)の画像である。他に、大鵬筆の「墨竹図」や東嶺筆の「払子図」などがある。 「詩巻」・「学字」や一行書など多くある。「詩巻」は黄檗山萬福寺の第5代住持作で、全長19mにも及ぶ絵本墨書である。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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大治田神明社
大治田神明社 境内に山の神がある。前を旧川尻道が通っている。 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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石薬師寺
石薬師寺 江戸から101里34丁7間、元和2年(1616)に宿場となった。それまでは高富村と称していた。 現在は鈴鹿市石薬師町である。石薬師の地名はこの絵にある高富山瑠璃光院石薬師寺の霊験が広く知れ渡っていたことから、村名を石薬師と改めその由来としている。 御本尊は弘法大師が一夜のうちに爪で彫ったと言われている薬師如来で、同寺の本堂は寛永6年(1629)に時の神戸城主・一柳監物直盛によって再建された。この石薬師寺の正面の道を東へ行くと源範頼を祀る御曹司社がある。その御曹司社の前の道を南へ少し行くと右側に「蒲桜」がある。源範頼は、平家討伐の時、石薬師寺に戦勝祈願をし鞭にしていた桜の枝を地面に逆さにしたそれが芽をふいて育ったと伝えられている地元では「逆さ桜」と呼んでいる。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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真福寺
真福寺 浄土真宗本願寺派。 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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川俣神社
川俣神社 庚申塔、山神、献燈(1803年)がある。 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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大御宝神社
大御宝神社 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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慈恩寺(旧長福寺)
慈恩寺(旧長福寺) 「慈恩寺縁起」によると本寺は神亀5年(728)聖武天皇の勅願によって、僧行基が野村に創建した薬師寺(長福寺)に自作の薬師如来を安置したことに始まると伝えられる。文明4年(1472)兵火により焼失。永正8年(1511)寺観を整え、天正3年(1575)には法相宗から浄土宗に改宗したが、その際、薬師如来を阿弥陀如来に改作したといわれる。 天正11年(1583)羽柴秀吉の亀山攻撃で再び焼失。 正徳6年(1716)に至り長福寺を慈恩寺と改称した。 文化2年(1805)本堂が全焼したが、本尊は焼失を免れ、現在に至る。 本尊は像高161.9センチ。頭体のほとんどをヒノキの一材から彫成し、内刳は施さない。両肩や衣文等、部分的に木屎漆を用いて塑形し、漆箔仕上げとする。 制作年代は平安初期の9世紀初頭に遡るものと思われ、重厚で緊張感あふれる作風を示している。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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布気皇舘太神社
布気皇舘太神社 延喜式巻九「伊勢國鈴鹿郡十九座並小布氣神社」とあり、垂仁天皇18年の 創始にかかる式内社です。 社名の皇舘とは、垂仁天皇の御宇、天照大御神が忍山に御遷幸の折、大比古命が神田・神戸を献じたことに由来し、野尻、落針、太岡寺、山下、木下、小野、鷲山の七ヶ村を神戸郷といいました。 九々五集巻第六上には、「高野大神宮 関氏より続テ亀山御城主御氏神三社之内 神辺七郷惣社ノ宮(略)宮地長八十間横百聞」とあり、また同書の巻第九の巻末に記述の「舘殿御由来」には「抑勢州鈴鹿郡神戸庄皇舘多賀ノ宮は豊受皇太神宮の荒魂の御神なり 夫レ神戸と申侍るは 人王十代崇神天皇七かのへ寅歳奉勅命て 諸国所々に御舘を改め 其郡の宗廟として荒魂の御神を社の神戸なり」とあります。 布気皇舘太神社は、時代によっていろいろな名で村人に親しまれたが、明治41年近郷の小社・小祠を合祀し、現在の社名となりました。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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昼寝観音
昼寝観音 観音庵内にある。 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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地蔵院
地蔵院 関宿の特徴をもっともよく表す景観は、鈴鹿の山々を背景にした地蔵院の屋根を中町の町並み越しに見たところです。 地蔵院は古くから関の中心で東海道はここで緩くカーブしています。 ここから東の方、中町は宿場の中心で様々な意匠の町屋が集っています。 また、西方、新所では軒高さの比較的低い家が多く、落着いた町並みをつくっています。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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観音院
観音院 古くは関西山 福聚寺と言います。 嵯峨天皇の御代(820)に開創されたと言われ中世土地の豪族関氏の祈願寺として栄えました。当時は城山の西方に在り戦国末期兵災にかかりすべてのものは焼失しましたが幸い御本尊一躰は難を免れました。 徳川家江戸幕府を開くにあたり「先規の例により将軍の武運長久を祈願すべし」と観音山と仏供田を残されたのであります。寛文年間に至り(四代家綱-1665)当地にお堂を建立し関西山観音院と号するようになりました。 当院は東海道関宿の守り仏として後には観音山に西国三十三ヶ所の霊場を開き人々の篤い信仰によって支えられて来ました。今は関町内の信徒講員によって外護せられ昭和50年4月、平成23年3月当宇の大修理が行われました。 八千とせにたのまぬ人もみちびけよ鈴鹿の?の十一面観世音【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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弁財天社
弁財天社 橋のたもとに祀られている。 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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地蔵堂
地蔵堂 中にはかつて真福寺にあった薬王院のものと思われる位牌が並ぶ。 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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光徳寺
光徳寺 浄土宗。古くは泡州崎念仏道場と称した。明治7年(1874)進善学校(日進小学校の前身)が当寺で開かれた。県指定史跡の沼波弄山墓がある。沼波弄山(1718~77)は桑名船馬町の商人で、万古焼の創始者である。また、大阪の市岡新田を開発した市岡宗栄(1664~1714)や、万古焼継承者加賀月華(1888~1937)の墓がある。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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田村神社跡の石柱
田村神社跡の石柱 杉木立の中に立つ。 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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片山神社
片山神社 片山神社は、延喜式内社で、元は三子山に祭祀されていたが、火災により永仁2年(1294)に現在の場所に移された(『片山神社縁起』)とされる。明治以前は「鈴鹿明神」『鈴鹿権現』等と呼ばれ、『室町殿伊勢参宮記』(応永31、1424)にも「鈴鹿姫と申す小社の前に」と記されている。 東海道は、このあたりから「鈴鹿坂八丁二十七曲り」の急坂が始まり、「東の箱根峠、西の鈴鹿峠」と言われた街道の難所、鈴鹿峠へと続く。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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誓正寺
誓正寺 真宗高田派。 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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福蔵寺
福蔵寺 当山は、天台真盛宗(本山は滋賀県大津市坂本 西教寺)に属します。 草創は天正11年、織田信長郷三男信孝公の菩提寺として創建されました。 本堂のご本尊は阿弥陀如来です。 本堂右のお堂は観音堂で、馬頭観世音菩薩不動明王、元三大師をお祀りし道中の安全と関宿の繁栄を祈願しております。 表門横のお堂は薬師堂で御本尊は元千光寺の薬師如来で、幾多の変遷を経て明治43年当山に移されたもので、関宿の守護仏として厚く信仰されております。 裏門横には仇討烈女、関の小萬の墓と碑があります。 客殿奥には英照皇太后(孝明天皇后)がご宿泊された書院が現存します(非公開)【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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関神社
関神社 明治5年頃、この神社は熊野皇大神社と呼ばれていた。 関氏の祖、実忠が紀伊国熊野坐神社の分霊を勧請したものと伝えられ、境内の梛(ナギ)の木は、それに縁があるものと思われる。 江戸時代には、熊野三所大権現と呼ばれた。 元和7年(1621)修造、その後寛永14年(1637)更に元文4年(1739)にも大修理が行われた。 又、明治時代まで新所にも、笛吹大神社があり江戸期、笛吹大明神と呼ばれ、もと鈴鹿山麓の総社として加行山に鎮座されていたが、文明11年(1479)各郷が分離して新所村のみの氏神となった。 その他古厩に大井神社、久我に白石神社、宇佐八幡宮等周辺に小祠が多数あったが、明治42年7月23日に合祀され、同年9月関神社と改称された。 昭和27年12月1日「宗教法人」関神社となった。 毎年7月20日すぎの土・日曜日に、神輿渡御・山車曳きが行われる。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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諏訪神社
諏訪神社 祭神は建御名万富命・積羽八重事代主命である。神社は、東海道に面する。1202(建仁2)年に信州諏訪神社より勧請する。1873(明治6)年の神社格列によって県社として指定された。 1841(天保12)年7月建立の春日形の石灯籠には、熱田宮渡しへの安全祈願が刻まれ、当地の四日市湊や宮渡しの廻船問屋等の名がみえる。 例祭日は、1879(明治12)年以来、9月26・27日に行われてきたが、1964(昭和39)年からは、大四日市まつりに移行した。例祭には、現在三重県指定有形民俗文化財の鯨船山車・大入道山車などをはじめ、多くの練り物が繰り出した。 境内には、菅原神社・金刀比羅神社・稲荷神社・事代主神社・八幡神社・正成神社・山津見神社などがある。1908(明治41)年に旧四日市市内43社を諏訪神社へ合祀している。 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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仏性院
仏性院 山号は当初中浜山であったが、明治43年宝光山と改号した。浄土宗鎮西派光運寺末寺で、本尊は阿弥陀仏木立像。 萬治元年の創立で、開山恵心比丘が光運寺住職伴旧上人の弟子であった関係上同寺の末寺となったものである。 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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伊勢国八幡神社跡
伊勢国八幡神社跡 八田三丁目には、八田の常夜燈がある。1902(明治35)年の建立であるが、米洗川の河川改修や道路拡幅工事等で少しずつ北方へ移動させられた。八幡神社は、1907(明治40)年頃に志氐神社へ合祀したが、今もその跡地に地蔵堂が立つ。これは羽津村への北の結界地蔵である。八幡神社跡一帯は、かつて朝明郡八幡村として一村を形成していた。1889(明治22)年には羽津村八幡となったが、1941(昭和16)年羽津村の四日市市への合併により「八田町」となった。 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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八幡神社址
八幡神社址 祭神 応神天皇 「富田六郷氏神記」に「八幡大菩薩は弘安2年(1279)2月15日、富田地頭佐原豊前守政盛によって、東富田に勧請される」と記されている。これが、富田西町の八幡神社の起こりである。更に「氏神記」には「社地東西16間2尺、南北8間、面積145坪、本村の元標より北の方、字茶屋町に鎮座す」とあり、かつてはこのあたりの地を八幡と呼んだと伝えられている。 明治42年(1909)鳥出神社に合祀され、社殿址に『八幡神社址』の石碑が建立された。昭和40年(1965)頃現在の社殿が再建され西町の産土神として戻された。 昔は、東海道五十三次富田立場の西端が八幡の森で、昼でも暗く鬱蒼と樹木が繁っていたと伝えられている。 現在では当時をしのぶ面影はないが社殿西に数百年を経た椋木の古木が名残をとどめている。また、境内には力石も残されている。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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三光寺
三光寺 当寺院は浄土真宗本願寺派の寺であり、山号を木下山と称し、平安時代末期、時の後鳥羽院守護職としてこの地を治めた蒔田相模守宗勝の墓碑のある寺として知られている。 承久3年(1221)法名を祐善と号した宗勝が示寂し、時の富田郷木下にあった江戸報徳寺(真言宗)の分地に埋葬された。子々孫々その菩提を弔い、十一代正了の折り、真宗八代門主蓮如上人の教理にふれ、一宇の坊舎を建立したのが、この寺院の開基と伝えられている。 江戸徳川氏の御代(慶長11年)、長福寺の寺名をもって本願寺の末寺に列し現在地に寺院を建立するも、寺名が時の幕府に忌避され、享保2年(1717)三光寺と改名され、翌年に寺院御堂が建立された。130年後、安政大地震により破壊され、明治20年(1887)に再建されるも昭和37年(1962)の火災により焼失、現在の堂宇は昭和47年に建立されたものである。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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長明寺
長明寺 当寺は浄土真宗本願寺派の寺である。 創立年代・開基など不明であるが、寺誌によれば、もと真言宗潮音寺と称し、近郷の豊田村(現三重郡川越町豊田)に字長恩寺があり、この地を当寺の旧地と伝える。文明17年(1485)画像本尊を下付されたというから、この頃に真宗に改宗したのであろう。下って、慶長9年(1604)現在の寺号を公称し、寛永元年(1624)に木仏の許可を得て寺院化したようである。のち慶安4年(1651)領主松平隠岐守より現在の寺地を賜わり、翌年に寺基を移し今日に至っている。 境内は濠と築塀がめぐり、参道正面入口に文化3年(1806)に築造された参詣橋が架かり、その奥に昭和初年に建立された山門が建つ。山門をくぐると、正面中央に、昭和31年(1956)再建された入母屋造の大規模な本堂がある。山門左脇に建つ鐘桜は寺誌では延宝年間(1673~80)に建立したと伝える。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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真光寺
真光寺 浄土真宗本願寺派。山号を桔梗山という。大同2年(807)、最澄が天神山の西北、お坊カ谷に天台精舎として創建、興国元年(1340)に本願寺第三世覚如上人の教化を受けて、浄土真宗に改宗した。明暦3年(1657)には、桑名藩主松平定良公が有馬温泉の帰途病死し、町屋川の洪水のため足止めとなったため、遺体を3日間安置した。本堂前にある松平家の梅鉢の定紋入り大手水鉢は、万治3年(1660)に定良の従兄の子定重から、また、鐘撞堂は定重の孫定賢から返礼として拝領した物である。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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晴雲寺
晴雲寺 浄土真宗大谷派。江戸時代江戸へ下る大名はこの寺で衣服を改め桑名城下へ入ったという。 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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城南神社
城南神社 御祭神 天照大御神 配祀 豊受比賣命外五柱 御由緒 当神社は、垂仁天皇の御代皇女倭姫命天照大御神の御杖代として御神慮のまにまに大和の国より日出づる伊勢の国に御巡幸ありし時、御停座の旧地と伝承されております。 桑名の神戸でもあり、伊勢の神宮との御縁故殊の外深い御社であります。 古来 神宮式年遷宮ごとに皇大神宮一ノ鳥居乃び古殿舎の一部を拝戴改築の古例になっております。 例祭 10月17日【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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立坂神社(矢田八幡社)
立坂神社(矢田八幡社) 桑名藩主本多忠勝の宗敬深く、以後代々の藩主の保護を受ける。もともと矢田八幡社と称しているが、明治以後は式内立坂神社と称す。戦災を免れ、昔の風情を残している。 門前から約250m離れた東海道筋に石造鳥居がある。【桑名市ホームページより】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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天武天皇社
天武天皇社 壬申の乱(672年)の際に大海人皇子(のちの天武天皇)が桑名に駐泊されたことにちなみ、建立された神社。古くは新屋敷の地にあったといわれるが、寛永12年(1635)新屋敷を武家屋敷としたため、鍋屋町南側に移転。のち鍋屋町北側の現在地に移る。市指定文化財として固山備前介藤原宗次銘の刀がある。天武天皇を祭祀する全国唯一の神社。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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本願寺跡
本願寺跡 当寺の由来は不詳ですが、江戸時代は本願寺村があり、古くからの古刹であったと思われます。境内に俳聖松尾芭蕉の門人である各務支考(俳号東華坊など)の分骨供養塔である「梅花仏鏡塔」があります。 支考は蕉門十哲の一人で美濃派の創始者であり、美濃国だけに限らず近国に多数の門弟を抱えていましたが、支考が享保16年(1731)美濃国で亡くなると、桑名の美濃派俳階の指導的立場にあった雲裡坊杉夫は支考の墓に参詣しやすいよう分骨を受けこの地に鏡塔を建立しました。 他に松尾芭蕉の「今日斗り人も年よれ初時雨」や雲裡坊から続く桑名の俳句結社「間遠社」の歴代社長句碑10基があります。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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長円寺
長円寺 浄土真宗本願寺派。古くは江場村にあったが、慶長町割の際に現在地へ移る。市指定文化財として、桑府名勝志、久波奈名所図会、桑名の千羽鶴がある。これらは当寺第十一代住職魯縞庵義道(1834没)の作品である。桑名の千羽鶴は1枚の紙で連続した鶴を多く折る、珍しい方法である。境内に大阪相撲の千田川善太郎(1804没)の墓がある。【現地案内板より】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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寿量寺
寿量寺 妙延山と号す。日蓮宗。元は今一色にあったが、慶長町割の際に現在地へ移る。江戸城の障壁画を描いた狩野光信は江戸から京都へ帰る途中に、慶長13年(1608)6月4日桑名で没し、当寺に葬った。入口すぐ南側に「狩野光信墓」の小さな五輪塔がある。境内には明治2年(1869)銘の仏足石があり、寺宝として「銅磬」、「日蓮聖人御本尊」がある。建物は戦災で焼失。のち鉄骨木造建で本堂を再建。【桑名市ホームページより】 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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双筆五十三次 桑名
双筆五十三次 桑名 1855年(安政2年)歌川広重、三代歌川豊国 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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五十三次名所図会 桑名
五十三次名所図会 桑名 1855年(安政2年)歌川広重 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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東海道五拾三駅 桑名
東海道五拾三駅 桑名 1865年(慶応元年)歌川立祥 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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東海道 桑名
東海道 桑名 1863年(文久3年)歌川芳形 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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東海道名所之内 桑名蜃気楼
東海道名所之内 桑名蜃気楼 1863年(文久3年)歌川周麿 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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狂歌 東海道五十三次 桑名
狂歌 東海道五十三次 桑名 1840年頃(天保11年頃)歌川広重 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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狂歌 東海道五十三次 四日市
狂歌 東海道五十三次 四日市 1840年頃(天保11年頃)歌川広重 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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五十三次名所図会 四日市
五十三次名所図会 四日市 1855年(安政2年)歌川広重 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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東海道五拾三駅 四日市
東海道五拾三駅 四日市 1865年(慶応元年)歌川立祥 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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東海道 四日市
東海道 四日市 1863年(文久3年)歌川芳艶 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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東海道五十三次之内 四日市之図
東海道五十三次之内 四日市之図 1836年(天保7年)歌川国貞 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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東海道名所之内 四日市追分
東海道名所之内 四日市追分 1863年(文久3年)二代歌川広重 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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狂歌 東海道五十三次 石薬師
狂歌 東海道五十三次 石薬師 1840年頃(天保11年頃)歌川広重 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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東海道五拾三駅 石薬師
東海道五拾三駅 石薬師 1865年(慶応元年)歌川立祥 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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保永堂版 東海道五十三次之内 石薬師
保永堂版 東海道五十三次之内 石薬師 1833~1834(天保3~4年)歌川広重 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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東海道名所之内 石薬師 其二
東海道名所之内 石薬師 其二 1863年(文久3年)歌川国福 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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狂歌 東海道五十三次 庄野
狂歌 東海道五十三次 庄野 1840年頃(天保11年頃)歌川広重 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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末廣五十三次 庄野
末廣五十三次 庄野 1865年(慶応元年)歌川国輝 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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狂歌 東海道五十三次 亀山
狂歌 東海道五十三次 亀山 1840年頃(天保11年頃)歌川広重 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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五十三次名所図会 亀山
五十三次名所図会 亀山 1855年(安政2年)歌川広重 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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末廣五十三次 亀山
末廣五十三次 亀山 1865年(慶応元年)歌川国輝 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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東海道之内 関
東海道之内 関 1863年(文久3年)二代歌川国貞 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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狂歌 東海道五十三次 関
狂歌 東海道五十三次 関 1840年頃(天保11年頃)歌川広重 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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東海道五拾三駅 関
東海道五拾三駅 関 1865年(慶応元年)歌川立祥 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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「丸清版・隷書東海道五十三次」より(坂の下)
「丸清版・隷書東海道五十三次」より(坂の下) 1847年-1851年頃(弘化4年-嘉永4年頃)歌川広重 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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「丸清版・隷書東海道五十三次」より(亀山)
「丸清版・隷書東海道五十三次」より(亀山) 1847年-1851年頃(弘化4年-嘉永4年頃)歌川広重 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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「丸清版・隷書東海道五十三次」より(石薬師)
「丸清版・隷書東海道五十三次」より(石薬師) 1847年-1851年頃(弘化4年-嘉永4年頃)歌川広重 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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「丸清版・隷書東海道五十三次」より(庄野)
「丸清版・隷書東海道五十三次」より(庄野) 1847年-1851年頃(弘化4年-嘉永4年頃)歌川広重 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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「丸清版・隷書東海道五十三次」より(四日市・日永村追分 参宮道)
「丸清版・隷書東海道五十三次」より(四日市・日永村追分 参宮道) 1847年-1851年頃(弘化4年-嘉永4年頃)歌川広重 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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「丸清版・隷書東海道五十三次」より(桑名・七里の渡舟)
「丸清版・隷書東海道五十三次」より(桑名・七里の渡舟) 1847年-1851年頃(弘化4年-嘉永4年頃)歌川広重 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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「丸清版・隷書東海道五十三次」より(関)
「丸清版・隷書東海道五十三次」より(関) 1847年-1851年頃(弘化4年-嘉永4年頃)歌川広重 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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保永堂版 東海道五十三次之内 阪之下
保永堂版 東海道五十三次之内 阪之下 1833~1834年(天保3~4年)歌川広重 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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東海道五拾三駅 坂の下
東海道五拾三駅 坂の下 1865年(慶応元年)歌川立祥 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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五十三次名所図会 坂の下
五十三次名所図会 坂の下 1855年(安政2年)歌川広重 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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狂歌 東海道五十三次 阪之下
狂歌 東海道五十三次 阪之下 1840年頃(天保11年頃)歌川広重 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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国輝 末広東海道五十三次 関
国輝 末広東海道五十三次 関 1865年(慶応元年)一雄斎国輝 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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保永堂版 東海道五十三次ノ内 関
保永堂版 東海道五十三次ノ内 関 1833年(天保4年)歌川広重 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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保永堂版 東海道五十三次之内 亀山
保永堂版 東海道五十三次之内 亀山 1833~1834年(天保3~4年)歌川広重 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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保永堂版 東海道五十三次之内 庄野
保永堂版 東海道五十三次之内 庄野 1833~1834年(天保3~4年)歌川広重 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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東海道五拾三駅 庄野
東海道五拾三駅 庄野 1865年(慶応元年)歌川立祥 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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五十三次名所図会 庄野
五十三次名所図会 庄野 1855年(安政2年)歌川広重 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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夫婦石(雄石・雌石)
夫婦石(雄石・雌石) 羽津の立場茶屋や高札場が所在した場所で、明治前半には、村役場や学校などが設けられていたところである。 東海道から志?神社への参道の鳥居が立つ北側に男性、道路反対側の女性の夫婦石があり、かつては伊勢参宮客が志?神社へも縁結びの参拝をしたところから発祥した。鳥居北側には、八幡神社の境内にあった享保年間(1716~36)の燈籠や常夜燈が集められている。 関西鉄道が開通するまでは、街道を歩く人の砂ぼこりが大変だったと伝えられ、土鈴を売る店、茶店などが軒を並べていた。 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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岩屋観音
岩屋観音 高さ18mの巨岩に穿たれた岩窟に、万治年間(1658-1660)に実参和尚によって道中の安全祈願のために阿弥陀如来、十一観音、延命地蔵の三体の石仏が安置されました。 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.
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無名の地蔵
無名の地蔵 街道左側。このあたりには、山崎屋、井筒屋、堺屋、伊勢屋などの6軒の茶屋があった。地蔵が立っているのは鉄屋跡。 © 2013 Mie Burari. All rights reserved.