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勢州桑名城之図(三重ぶらり)

勢州桑名城之図(三重ぶらり)

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北大手橋 城下から桑名城への出入口。升形が残る。 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

通り井跡 江戸時代の水汲井戸の跡。現在は道の真ん中に「井」と書かれた石が埋め込まれている。 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

神戸櫓跡 文禄のころ(1592-1596)、一柳直盛が城主になった際に城郭が築かれ、伊勢神戸城の天守閣を移したといわれている。 江戸時代、初代藩主本多忠勝は城を拡張し、本格的な近世城郭を築いたが、神戸城の天守閣は櫓としてそのまま残され「神戸櫓」と呼ばれた。 【現地案内板より】 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

七曲見附跡 桑名城下の南端の見附であり、東海道上に七曲門(または釘貫門とも言う)と番所があった。ここは東海道が川口町から7度曲がった所なので七曲(ななまがり)と言った。門の位置は現在の日進小学校の西端あたり、番所は消防車庫のあたりにあったと思われる。門の南は升形道路になっていたが、現在は廃止されている。 【現地案内板より】 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

桑名城跡 戦国時代、この付近には伊藤氏が支配する東城と呼ばれる城がありました。戦国末期、桑名地方は織田信長に平定され信長の家臣滝川一益(かずます)の支配を受けました。豊臣秀吉の時代には、一柳右近や氏家行広が治めました。 桑名城に初めて天守閣が築かれたのは文禄4年(1595)で、伊勢神戸城(現在の鈴鹿市神戸)の天守閣を移したといわれています。 桑名に本格的な城郭が築かれたのは慶長6年(1601)です。徳川家康は関ヶ原の戦いの翌年、徳川四天王の一人で腹心の本多忠勝を桑名に配置しました。忠勝は東城があった所を中心に縄張りを行い、近世城郭を造りました。同時に城下町の整備も行い、大山田川・町屋川の流れを変えて外堀に利用し町の守りとしました。忠勝の行ったまちづくりを「慶長の町割り」と呼びます。 桑名城は揖斐川を利用した水城で、城内から船で川に出ることができました。天守閣は四重六層の勇壮なものでしたが元禄14年(1701)の大火で焼失し、以後は再建されませんでした。門や櫓の数は多く、享和3年(1803)の記録には、本門や路地門などを合わせて63カ所、櫓は95カ所とあります。 しかし、幕末戊辰の役(1868)の時、桑名藩は旧幕府方に付き、藩主松平定敬(さだあき)は東北地方を転戦し、最後は五稜郭で降伏しました。その間に国元は新政府軍に降伏し、無血開城して市内は兵火を免れました。新政府軍は天守閣の代わりとなっていた三重の辰巳櫓(たつみやぐら)を焼き払い、桑名城落城のしるしとしました。その後桑名城の石垣は取り払われ、四日市築港の資材とされました。 【現地案内板より】 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

三之丸御殿(新城)跡 本丸と堀を隔てて北にあり、城主が居住する御殿がたてられていた。跡地は現在吉之丸コミュニティパークとなり、本多忠勝像が建てられている。 【「志るべ石」(桑名市教育委員会)より】 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

南大手橋 かつての桑名城への出入り口。現在の橋は、元の位置よりやや南。 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

京町見附跡 京町の西端の東海道上に京町門があり、その南側に番所があって、ここを京町見附と言い、旅人を監視していた。また北側には郷方役所(のちの市役所跡)があった。門の西は外郭堀で橋はなく、東海道は南に曲り、さらに東へ曲り、もう一度南へ曲がる升形道路となっていた。現在は門も番所も役所も升形道路も廃止されている。なお外郭堀には明治時代に京橋がかけられた。 【現地案内板より】 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

三崎見附跡 三崎通の西端には、江戸時代まで三崎御門があった。御門の外は城下の外郭堀だった。 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

蟠龍櫓 桑名城には元禄大火後に再建された時点で51の櫓があったと記録されている。川口の七里の渡に面して建てられていた蟠龍櫓は、東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名のシンボルであった。 【現地案内板より】 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

九華公園 昭和3年(1928)、楽翁公(松平定信の隠居後の号)没後100年祭を記念して、桑名城跡の本丸・二之丸一帯を公園として整備した。 桑名城はその形から「扇城」と呼ばれていた。桑名城跡には九華(きゅうか)公園という名前が付けられているが、「九華」は「くわな」と読ませ、江戸時代から使われていた。これは中国に九華扇という扇があり、扇城の名と「くわな」の読みにかけてつけられたということである。 【現地案内板より】 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

吉津屋見附跡 江戸時代の始めは、この付近は吉津屋町に属しており、東海道上に吉津屋門と番所があって、吉津屋見附と言った。のち鍛治町として独立したので、鍛治町門(または小字名の七つ屋門)と言う。ここの道路は四角形の三辺をまわる升形道路となっていた。この升形道路は現在でも使われており、石取祭車が通る道である。 【現地案内板より】 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

七里の渡し跡 尾張の宮の宿より海路七里の渡しがあった。伊勢湾台風後に作られた防波堤により、当時の面影は余り残っていない。天明年間(1791~89)に建てられ、以来伊勢神宮の遷宮ごとに建て替えられている伊勢神宮一の鳥居や、安政3年(1856)と刻まれた常夜灯(多度大社から移されたもの)がある。県指定史跡。 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

辰巳櫓跡 桑名城本丸の東南角にあり、三重櫓であった。元禄14年(1701)天守閣が焼失し再建されなかったので、以後はこの辰巳櫓が桑名城のシンボル的存在であった。 明治維新のとき、降伏のしるしとして新政府軍に焼き払われた。 【現地案内板より】 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

天守閣跡 本丸の東北角にあり、本多忠勝時代に建設された。四重建(内部は六層)、一番下の重は8間(約14.4メートル)×6間(約10.8メートル)の広さであり、高さは石垣を含めて9間5尺6寸(約17メートル)であった。 元禄14年(1701)の大火で町内・城内の大半が焼失し、天守閣も焼失して以降再建されなかった。 【「志るべ石」(桑名市教育委員会)より】 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

桑名城城壁 堀川東側の城壁の一部が川口町の揖斐川に面する川口樋門から南大手橋に至る延長約500メートルにわたり現存している。積石の状態は乱積で、野面積み、打込はぎの2方法によっており、刻印を刻んだ積石も多く見かけられる。片町に面したところには出隅、入隅があった。桑名市指定史跡。 【現地案内板より】 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

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長圓寺 浄土真宗本願寺派。古くは江場村にあったが、慶長町割の際に現在地へ移った。桑府名勝志、久波奈名所図会は桑名市指定文化財。これらは第11代住職魯縞庵義道によるもので、義道が考案した「桑名の千羽鶴」は1枚の紙で連続した多数の鶴を折るもので、これも桑名市指定文化財となっている。 【現地案内板より】 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

報恩寺 浄土宗本願寺派。もとは江場村にあたという。安永3年(1774)建築の本堂は戦災で焼失し、昭和23年(1948)に再建。 【「志るべ石」(桑名市教育委員会)より】 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

海蔵寺 たびたび水害をもたらした木曽・揖斐・長良三大河川の治水工事により薩摩藩士85名が犠牲となった。この工事によって長年荒れ狂った大河川が制御されたが、工事終了後、大幅な予算超過と多数の藩士を失った責任を負い切腹した奉行平田靭負の墓碑を中心に24義士の墓がある。 【現地案内板より】 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

銅鳥居 寛文7年(1667年)、金250両を出して作られたもの。「勢州桑名に過ぎたるものは銅の鳥居に二朱女郎」と謡われた。桑名の代表的産業である鋳物産業のシンボル的存在。県指定文化財。 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

天武天皇社 壬申の乱(天武天皇元年(672))の際に大海人皇子(のちの天武天皇)が桑名に駐泊したことにちなみ建立されたという。古くは新屋敷にあったといわれるが、寛永12年(1635)新屋敷を武家屋敷としたため、鍋屋町南側に移転。その後鍋屋町北側の現在地に移った。天武天皇を祭祀する全国唯一の神社。 【現地案内板より】 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

法盛寺(ほうじょうじ) 西本願寺別院。江戸時代には休泊を引き受けた。 【絵葉書】桑名法盛寺 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

十念寺 浄土宗。江戸時代には境内も広く、休泊を引き受けた。県指定文化財「金地着色祭礼図屏風」などがある。 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

寿量寺 慶長13年(1608)、上洛の途中で亡くなった絵師狩野光信の墓がある。光信は江戸城の障壁画を描いた絵師。 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

光徳寺 江戸時代には休泊を引き受けた。万古焼の創始者沼波弄山の墓がある。 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

光明寺 江戸時代街道に面して山門があった。七里の渡船が遭難した際に亡くなった旅人の供養碑が残る。 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

傳馬公園(願証寺跡) 願証寺は元は桑名郡長島にあり、浄土真宗の重要な寺であった。長島一向一揆の中心であったが、織田信長に攻められて廃寺となる。のち当地に再興した。約1万坪(33,000㎡)の広大な境内があった。しかし、正徳5年(1715)高田派への改派をめぐり、内部紛争となり、次第に衰退してしまった。 【現地案内板より】 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

長寿院 桑名藩主松平定行の夫人が亡くなった時、実家の宗旨が臨済宗であったため、陽向院の宗旨を改め、菩提寺とした。5代目藩主となった松平定綱は、夫人の法号「長寿院殿月窓貞泉大禅定尼」をとって寺名を「長寿院」と改めた。長寿院墓は桑名市指定史跡。 【現地案内板より】 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

春日神社楼門 【絵葉書】(桑名名所)春日神社楼門 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

常信寺 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

北桑名神社 江戸時代初めより現在地に鎮座し「三崎神明社」とも「今一色神明社」とも称された今一色の産土神。明治41年(1908)、太一丸神明社、佐乃富神社と合祀され北桑名総社北桑名神社と改称した。 【現地案内板より】 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

桑名別院本統寺 「御坊さん」と呼ばれ親しまれている。境内には松尾芭蕉が貞享元年(1684)に宿泊した際に詠んだ句「冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす」の句碑が建てられている。 【現地案内板より】 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

春日神社(桑名宗社) 桑名の産土神。毎年8月に行われる石取祭は桑名最大の年中行事。 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

浄土寺 永承4年(1049)海中から出現した地蔵尊を安置したのが始まりといわれている。慶長の町割りで現在地に移り、桑名藩主本多家の菩提寺となった。藩主本多忠勝が葬られ、本多忠勝本廟となっている。 【現地案内板より】 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

真如寺 曹洞宗。寛永12年(1635)松平定綱が桑名へ移封のときに、遠州掛川の光山和尚を招いて建立された。 【「志るべ石」(桑名市教育委員会)より】 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

顕本寺 日蓮宗。のちの桑名城内三之丸の地にあったが、慶長町割の際に現在地に移った。境内墓地には水谷九左衛門光勝(四日市代官)墓、吉村又右衛門宣充(桑名藩家老)墓などがある。 【「志るべ石」(桑名市教育委員会)より】 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

菅原神社 はじめは南向きにあったが、のち西向きとなり、旧東海道に面した。明治42年(1909)、天武天皇社に合祀されたが、戦後現在地に移り、東向きとなっている。 【「志るべ石」(桑名市教育委員会)より】 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

最勝寺 浄土真宗本願寺派。もとは桑名郡長島坂手村にあったが、のち現在地に移った。浄土寺、照光寺(いなべ市大安町)とともに伊勢三大寺といわれた。戦災で焼失し、昭和38年(1963)に本堂再建。 【「志るべ石」(桑名市教育委員会)より】 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.

楊柳寺 曹洞宗。壬申の乱(672年)のときに、後の持統天皇が滞在されたとも伝えられるが、所在地はたびたび移動している。建物は戦災で焼失し、仮堂が再建されている。 【「志るべ石」(桑名市教育委員会)より】 (c) 2013 Mie Burari. All rights reserved.