Kyoto (1930)

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備考・「昭和4年4月1日印刷 昭和4年4月5日發行」とあり・「昭和5年1月10日改正版發行」の朱印あり・洛外名所里程図、大津市全図、嵐山附近図を付す

update date: 2019.02.18

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  • 島原大門

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    嶋原大門は、京都の花街である嶋原の東入口にあたる大門で、京都市の登録有形文化財。 嶋原は、寛永17年(1640)に六条三筋町から移転したわが国初の幕府公認の遊女街。 当初は東側の大門のみであったが、享保17年(1732)に西門が設置された。 大門は明和3年(1767)に現在地に付け替えられた。 [1] 周囲を塀と堀で囲み、大門を一か所に設ける当初の構成は、江戸の吉原、大阪の新町と同様に、遊里を隔離し、遊女を疎外する目的で作られている。 [2] 大門外には、近世、遊郭を訪れる客に、顔を隠すための編み笠を貸した編み笠茶屋があった。また、大門口を入ったところには出口の茶屋という、客を待たせ、揚屋の門口まで送っていく施設もあった。 [3] 八つ時(午後二時頃)に大門を開くことを八門(やつもん)と言った。 [4] [1]^ 「京都市の文化財」1992年 京都市文化観光局 [2]^ 「国史大辞典」 [3]^ 「デジタル大辞林」 [4]^ 「日本国語大辞典」 ◆江戸時代二代目吉野太夫のエピソード(輪違屋) 本名 松田徳子 諸芸に秀でた名声が、遠く中国に及んだといわれています。 あるとき小刀鍛冶屋の弟子という男が、座敷に上がろうとしますが身分不相応ということで門前払いされていました。なんと島原に3年通い詰めたそうです。太夫は自ら座敷に招き入れ、男は歓喜の涙を流しその翌日身投げして果てたといいます。よほど太夫に魅せられたのでしょう。 太夫は1631年、紺灰業の豪商・灰屋(佐野)紹益に26歳で身請けされ、その妻となり38歳の若さで生涯を終えました。 高神常照寺の吉野門(赤門)を寄付した 太夫は内八文字を踏んで歩く。この様子を「太夫道中」といいます。

  • 輪違屋

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  • 角屋

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