日光御成道「川口宿」散策マップ

このMapは、徳川将軍の日光社参に利用された御成道の宿駅である「川口宿」を辿り、僅かに残された文化財を中心に、さらには周辺の寄りたくなる見所を紹介するためのものです。
なお川口宿は合宿で、荒川を挟んだ対岸東京都北区の岩淵宿と合わせて一宿として扱われています。本陣・脇本陣各1、旅籠屋10。当宿は月のうち1日から15日まで勤め、16日から晦日までは岩淵宿が勤めています。
ベースとなる「川口宿絵図面」(永瀬洋治家文書)は、天保14(1843)年7月代官関保右衛門役所へ提出されたもので、同4月には12代将軍家慶による最後の日光社参が行われています。黒でくっきりと書き入れられているのは荒川水除の堤道です。堤外や街道周りは灰色で示された畑地ですが、堤内は黄色で示された田方が多くを占めています。
本Mapは、川口市教育委員会協力のもと、高崎経済大学地域政策学部西沢淳男ゼミナールが作成しました。
update date: 2025.04.02
このマップ(地図)を見るNumber of spots : 31spots
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金山権現社跡
ここには江戸時代に鋳物師の守護神として崇拝された権現社がありましたが、江戸時代建立の社殿は明治時代に合祀された後に遷座し、現在は川口神社境内に八雲社社殿として鎮座しています。 リンク:川口市文化財解説
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川口宿絵図碑
宿出口から錫杖寺へ至る参道との分岐点にあたるところにある小公園に建てられた碑と御成道の解説版がある。川口宿は、本郷追分から二つ目の宿駅です。宿の機能には運輸・通信・宿泊などがあり、最も重要なのは、公用で通行する貨客に対して人馬を提供し、これを輸送することでした。日光御成道の宿駅の役割として、川口宿は荒川を挟んだ一つ目の宿である岩淵宿と合宿になっていました。合宿とは二つの宿で一宿分の業務を行う宿のことで、半月ごとに業務を交代で行っていました。
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鎌倉橋
鎌倉橋は荒川に沿う舟戸ヶ原を流れる小川に架かっていた土橋で、中世の鎌倉街道中道に架けられた橋でした。江戸時代から昭和初期まで残されていましたが、荒川の河川改修等により消滅しました(現市立南中学校内)。なお橋の存在を記念した石碑が南中学校前の本一商店会入口近くの緑地に建てられています。
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永瀬昌文家住宅主屋
国の登録有形文化財である鋳物業者の住宅。南正面の木造二階建、入母屋造桟瓦葺で正面東端に切妻造洋瓦葺の別棟が突出して接続する。内部は一階に居間等、二階に客間を配し、別棟に洋風の玄関と応接間を設けている。 リンク:文化遺産オンライン
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シャンドワゾー本店
川口を代表する行列の出来る有名パティスリー。ケーキ・チョコレートなどを販売する本店。近くには、ジェラートを中心としてイートインのあるグラシエショコラティエがあり、散策の疲れを癒やしに訪れてみては。なお焼き菓子は川口市のふるさと納税品にもなっています。 リンク:お店のHP
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光のプリズム
平成5年(1993)に川口駅前に完成した、市民憩いの場です。人々がのびのびと、自分の目的のために歩き楽しむ。その象徴的なものが、この立方体のオブジェです。
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川口神社(氷川社)
社伝によると、平安時代の天慶年間、武蔵国足立郡司武芝によって、武蔵一の宮氷川神社を分祀勧請したものと伝えられています。当社は氷川大明神と称し、昔から領主や民の崇敬を集めてきた川口の鎮守です。江戸時代には、産土神として西宝山大慈院延命寺を別当寺とし、また、名主宇田川家によって社殿の再建や修造が行われました。 リンク:川口市文化財解説 神社HP
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鋳物問屋鍋平別邸
旧鋳物問屋鍋平別邸の庭園は、昭和16年(1941)頃に、現在の姿に離れの完成と共に整えられたものと思われます。庭園は南側に主庭、東側に側庭、正門に広がる前庭に分かれます。川口特有の豊かな水を利用した池泉回遊式日本庭園で、当時は吹き井戸を利用し、滝を配するなど、水景に特徴を持たせたつくりで、戦前期の東京下町地区を中心に流行した庭園尾特色をしていま色濃く残しています。 ※こちらの文化財は非公開です。 リンク:川口市文化財解説別邸主屋 川口市文化財解説別邸離れ 川口市文化財解説庭園
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善光寺
荒川の渡し場の北(現河川敷)に位置する善光寺は真言宗の寺院で、御朱印高10石。建久8(1197)年定尊が信濃の善光寺の阿弥陀三尊を模鋳したものを安置し開創、信濃の善光寺と同様「一光三尊阿弥陀如来」を本尊としました。信濃の善光寺と同じ御利益があるとされ、江戸市民の信仰を集めました。江戸市民は江戸近郊で手軽に善光寺参りができるとあってこぞって参詣しました。金銅勢至菩薩立像は県の有形文化財、元亨2(1322)年銘宝篋印塔は市の有形文化財です。 ※「江戸名所図会」(国立国会図書館デジタルコレクション) リンク:善光寺HP
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川口宿本陣門
旧川口宿本陣の表門は入り組んだ路地の奥にあります。もともとは街道に面していました。
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旧田中家住宅
味噌醸造や材木商等を営む資産家であった四代目田中徳兵衛によって大正時代に建設された三階建の洋館。昭和初期に増築された和館とともに国の重要文化財として指定されています。 ※耐震改修工事のため令和7年1月から当面の間、休館しています。 リンク:旧田中家住宅HP 川口市文化財解説・旧田中家住宅煉瓦塀 川口市文化財解説・旧田中家住宅文庫蔵 川口市文化財解説・旧田中家住宅洋館 川口市文化財解説・旧田中家住宅和館
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随泉寺
天文11年(1542年)に頼誓上人によって開山された真言宗智山派の寺院。阿弥陀如来を本尊としています。昭和49年(1974)に、弘法大師生誕1200年事業として、客殿・庫裡が建立されました。平成4年(1992)には、開山450年を迎え、大本堂、書院を建立しました。真言密教の道場として済生利民(あらゆる人々を救済する)の役割を果たしてきました。境内には、土日午後限定営業の一休庵というカフェがあります。令和5年(2023)より11月に地域のハンドメイド作家やグルメが集う心温まるMotogo Marche(もとごうマルシェ)が開催されています。 リンク:寺のHP 一休庵のInstagram
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「空からの火」碑
夫や息子を兵隊に取られ、幼子と共に内地に残された母親の苦悩を忘れぬよう、そして二度と悲惨な戦争は起きないよう祈りを込め、昭和59(1984)年に建てられた像です。出征後の守りを任された母子。征ってしまった家族の安否も分からぬ中、東京大空襲によって全てを燃やし尽くされた彼らは空上に何を思っているのでしょうか。なお同緑地内には「鎌倉橋の碑」が建てられています。
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旧白門通り&旧芝﨑平七邸
明治6(1873)年、当時の川口町で最初の小学校である川口小学校(現本町小学校)が旧芝﨑平七邸の離れに開設され、この小学校の校門が洋風の白いアーチ状であったことから白門小学校と呼ばれるようになり、親しまれていました。大通りも近いことから人の行き来も多く当時とはまた違った華やかさがあります。
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永瀬孝男家住宅
大正11(1922)年に建設された、類例の少ない自家発電施設と永瀬氏の居館。煉瓦塀の圧迫感溢れる通路は人が一人ギリギリ通れる程度の広さ。その煉瓦の堅牢さと通路の細さに、眠っていた子供心がくすぐられます。そこを抜ければ突如として現れる、凛と聳えるその建物たちの姿に息を呑むことでしょう。※私有地内に無断立ち入りはしないで下さい。 リンク:文化遺産オンライン 洋館 文化遺産オンライン 和館 文化遺産オンライン旧発電所 文化遺産オンライン 納屋 文化遺産オンライン煉瓦蔵 文化遺産オンライン 土蔵 文化遺産オンライン煉瓦塀
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裏町通り
金山町と本町一丁目の境を南北に走るこの通りは、江戸時代には10軒の鋳物屋が存在し、鍋や釜など日用品を製造していました。付近には営業する川口最古の鋳物工場である永瀬留十郎工場や国の登録有形文化財である旧鋳物問屋鍋平別邸(元川口市母子父子福祉センター)が存在し、当時の様子を今に伝えています。※母子・父子福祉センターは令和3年3月31日をもって運営を終了しており、見学は出来ません。
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錫杖寺
養老元(717)年に行基が本堂を建立したとされる真言宗の寺院、御朱印高20石。2代将軍徳川秀忠以降日光社参の際の将軍小休所とされます。境内には幕末の大奥年寄瀧山家の墓所もあり、荘厳な雰囲気から当時の面影が偲ばれます。山門は日光社参の際に休息に立ち寄る将軍の御成門として通常は閉じられていました。現在の山門は明治期に宇都宮城から移築されたものです。なお川口鋳物師長瀬氏鋳造の寛永18(1641)年銘のある銅鐘は、県の文化財に指定されています。 リンク:川口市文化財解説 錫杖寺HP
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凱旋橋跡
日露戦争終結の翌年、明治39年(1906)年5月13日に挙行された川口町(現川口市)出身兵士の凱旋祝賀会に際し、パレードの通過点として造られた橋の遺跡。今でこそほんの一部しか残っていませんが、目を閉じれば当時の歓声が響き渡るような感覚に。100年以上の歴史が感じられるような造りです。 リンク:川口市文化財解説
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18ポンド カノン砲
嘉永5(1852)年に津軽藩から依頼を受けた鋳物師・増田安次郎が、後の講武所砲術師範役を勤めた高島秋帆と協力して作り上げた物の復元品。工場の片隅に置かれたこの砲には、復元ながら言い知れぬ迫力感が感じられました。ここでしか手に入れられないパンフレットもあるので是非足を運んでみては。全長3.5メートル 重量3トン 口径15センチ 射程距離2500メートル リンク:増幸産業株式会社HP
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岩淵八雲神社
日光御成道の宿場として栄えた岩淵宿の鎮守社だった神社。祭神として須佐之男尊が祀られています。境内には、本殿、幣殿・拝殿、神楽殿、末社水神社が配置されています。祠の右側には「寛政十二庚申正月吉日」の年紀が刻まれています。また、勝海舟が荒川で足止めされたときに書いたとされる大幟旗を所蔵。現在、本祭は末社水神社の祭礼とともに隔年ごとの6月第一土曜・日曜に行われています。 リンク:神社公式Instagram
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岩淵宿問屋場跡
かつて岩淵宿の問屋場があったとされる場所に置かれた石碑。
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旧岩淵水門(赤水門)
かつて氾濫を繰り返した荒川の要として、大正5年(1916)から8年をかけて建設されました。パナマ運河建設に携わった青山士が工事を監督しました。昭和30年代の改修工事で赤色に塗られたことから「赤水門」呼ばれています。現在は、水門としての役目を終えています。令和6年国の重要文化財として指定されました。 リンク:岩淵水門のパンフレット 北区観光HP
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岩淵渡船場跡
この周辺に岩淵宿から荒川(川巾60間=109m)を渡り、川口宿に向かうための渡船場があり、馬舟・歩行舟各一艘で渡していました。江戸時代には、ここが川口宿の飛地であったため「川口の渡し」とも呼ばれます。渡船場は奥州との交通上の拠点として、古くから利用されており、源頼朝の挙兵に合わせて、弟の義経が奥州から参陣する途中、ここを渡ったと伝わっています。渡船場は明治以降も利用され、明治38(1905)年からは常設の船橋が架けられましたが、昭和3(1928)年に新荒川大橋が開通すると船橋は撤去されました。なお将軍の日光社参の際は、幅3間(5.4m)、長65間(118m)の板橋を架けて通しました。※絵図は筑波大学デジタルコレクションより
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平柳蔵人居館跡
平柳蔵人の居館跡。『新編武蔵風土記稿』によると、岩付城主太田資正の家臣に平柳蔵人という者がおり、この地に居住し周辺を領有していたとされます。平柳蔵人は永禄7年(1564)に、北条氏康と戦った鴻ノ台の合戦で討死したと記されます。江戸時代には武蔵国平柳領元郷村のように行政単位の呼称の由来ともなりました。 リンク:川口市文化財解説
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川口鋳物工業協同組合
明治38年(1905)に川口の鋳物業者が集まり、前身の「川口鋳物業組合」を設立したのが始まり。大正3年(1914)には組織を改め、「川口鋳物同業組合」を組織。昭和24年(1949)の中小企業等協同組合法の施行に伴い、協同組合に移行。鋳物製品の品質・技術力の向上、販路の拡大を通じて、鋳物業の経営基盤の強化を目的としています。 リンク:川口鋳物協同組合HP
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正覚寺
曹洞宗の寺院。この地を領した岩付太田氏の家臣平柳蔵人の開基で、この寺に墓所があったとされます。領家の実相寺には蔵人の法名などの過去帳が残っていると伝えられています。
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大泉住宅和館・洋館
株式会社大泉工場の敷地内に昭和13年(1938)頃に建設された和洋館並列住宅。初代社長である大泉寛三が第5代川口市長に就任し、その後に衆議院・参議院議員を務めたこともあり、洋館は迎賓、接客のために使用されました。和館は初代社長の住居として活用されていました。現在洋館は本社事務所として改修、国の登録有形文化財に登録されました。敷地内には、新しい食文化の発信地としてオーガニック&サステナブルな1110カフェ&BAKARY、日本で唯一の発酵スパークリングティー「KOMBUCHA_SHIP」の醸造所や農場もあります。他に登録有形文化財の特別見学ツアー&和館で行うリラクゼーションヨガなども行われています。 リンク:大泉工場 1110 CAFE/BAKERY Instagram 見学ツアー
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焼菓子ハミングトコリ
2022年に開店したクッキー・マフィンなどが美味しい小さな焼菓子店。お店の前にある赤いベンチが目印。不定期で開店し、営業日は焼菓子 ハミングトコリのInstagramから確認できます。 リンク:Instagram
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元郷馬頭観音
道路や旅行馬(交通機関)の守御本尊。弘化2年(1846)に金子惣次郎によって作られたといわれています。
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元郷圦ノ口庚申塔
文政11年(1828)に建立されたもので、方角と地名が刻まれた道標でもあります。
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昌國利器工匠具刃物博物館
世界的な盆栽用具のブランド「株式会社 昌國」本社に併設された、日本で唯一の刃物ミュージアムです。日本で最初の盆栽専用の鋏の創始者である初代昌國氏の後を継ぎ、平成5年(1993)に鋏類の研究に関して科学技術庁長官賞を受賞し、平成6年黄綬褒章を受章したことを記念して二代目昌國氏により開館され、現在は3代目昌國さんが館長を務められています。 リンク:会社のHP