水都大阪まちあるきマップ

水都大阪の象徴的スポットである「水の回廊」の魅力を詰め込んだマップです。大阪の水辺の見どころスポットが表示されますので、水辺のまちあるきにご活用ください。
すべてのスポット情報
107件のスポット
橋

東横堀川に架かる大阪初の鉄橋。1604年には擬宝珠をもつ立派な橋となっていました。現在の橋は1929年に架け替えられたもので、欄干の擬宝珠や西詰にあった櫓屋敷を模した親柱が、橋の歴史を物語っています。 公式HP

九之助橋の架かる東横堀川は、大坂城外堀として豊臣秀吉により、1585年に開削されたものと言われています。江戸時代初期の慶安~万治年間(1648~1660)の絵図には、既に九ノ介橋として記載されていることから、最初の橋は東横堀川の開削後しばらくのちに架橋されたものと考えられています。橋名は、関係者の人名に由来するものと想像されますが、その由来は不明のままとなっています。 本橋の西詰北側には、住友家の銅吹所(銅の精錬所)があり、鋳物屋、鍛冶屋などの工業の町でした。対岸の東詰は、幕府御用瓦師、寺島家の請地で多くの瓦ふき職人や瓦仲仕が住んでいました。 木橋であった九之助橋は、第1次都市計画事業により1926年、上路アーチ形式の永久橋に架け替えられ、さらに改修しアーチ形式や御影石積みの 親柱など旧来の景観を保全するよう配慮し、照明灯は1926年当時のものをモチーフとしてデザインとしています。公式HP

旧松島(西区本田一丁目)辺りは、尻無川の分流点にあたり、江戸時代には寺島と呼ばれていました。川沿いには造船所が多く、時々進水の祝いがあって賑やかであったといいます。寺島の北端には松の古木があって松の鼻とも呼ばれ、この風景を賞するため遊客を乗せた船が集まりました。 明治の初めに川口に居留地が造られたこともあって、松島には市中の遊所を集めて、大阪最大の遊所が開かれました。この開発を促進するため明治2年に松島橋が架けられました。この橋は明治18年の大洪水によって流されたため、直後に鉄杭をもった木桁橋が架けられました。 松島橋が現在のような近代橋になったのは、戦前の都市計画事業です。3径間のゲルバー式の鋼桁橋という当時の一般的な形式が採用されています。公式HP

明治41年6月に長堀川北岸を通る市電の東西線が木津川を超える、松島橋と千代崎橋の間に新しく市電専用の橋として伯楽橋が架けられました。橋長67.7m、幅員8.2mの規模を持っており、市電は橋の西詰めから木津川沿いに南下していました。伯楽の名はその昔、この付近にあったとされる伝説の島の名前からとられたと言われています。 その後、戦前の都市計画事業によって、昭和15年に架替えられました。橋長は65メートル、幅員は23メートルで、上部工は三径間連続の鋼鈑桁となっています。西大阪のように地盤の悪いところで、連続桁が採用されたのは珍しいことです。連続桁は基礎の不同沈下に弱い面を持っているため、伯楽橋では橋脚と橋台の基礎が一体構造でつくられ、弱点をカバーしています。 現在の橋は、平成18年に拡幅し架け替えられています。公式HP

中之島公園の東西に分かれたバラ園に架けられたアーチ橋で、公園の中にはバラ園が存在し、バラにちなんで付けられた名前となっています。現在の橋は1990年に完成しました。橋の北側は堂島川で、南側は土佐堀川となっています。公式HP

江戸時代、中之島には諸藩の蔵屋敷が建てられ、船場との連絡のために土佐掘川には多くの橋が架けられていました。栴檀木橋もそうした橋の一つでした。橋名の由来は『摂津名所図会』ではこの橋筋に栴檀ノ木の大木があったためとされていますが、詳細は不明となっています。 明治になっても木橋のままであった栴檀木橋は1885年の大洪水で流失し、再び架けられたのは1914年のこととされています。これは1904年に、大阪府立図書館が建てられ、明治末には大阪市庁舎の建設が決定されるなど、橋が再び必要となっていたためであろうと言われています。 その後、1935年に架け替えられた橋は桁の高さが一定のシンプルな美しさを強調した設計でした。1985年、新しい橋に架け替えられましたが、旧橋のイメージを大切にしながら橋面などは大阪府立中之島図書館や大阪市中央公会堂など、背景にある歴史的建築物との調和を考えてデザインされました。 また、センダンノキをモチーフにした欄間パネルが取付けられており、由来碑と大正時代の親柱は橋梁の橋詰に設置され、橋の歴史が一目でわかるようになっています。公式HP

江戸時代、肥後橋の北詰の中之島に肥後藩の蔵屋敷があり、このあたりは肥後島町と呼ばれていました。1657年の「新板大坂之図」には肥後殿橋とあり、古くはこう呼ばれたこともあったと言われています。肥後藩の蔵屋敷は元禄時代になって中之島西部の越中橋北詰へ移転しましたが、橋名と町名はそのまま残りました。 肥後橋が渡辺橋の通りに移ったのは1888年に鉄橋化されたときからです。1885年の洪水で流失した後、渡辺橋と共に鉄橋で架けられました。肥後橋・渡辺橋の通りは、1874年にすでに造られていた大阪駅へのメインストリートであったため、早くに鉄橋化されたものと思われます。 1926年に第一次都市計画事業によって完成した橋は、中央部がスパン27.0mの鋼アーチよりなっており、両側に橋台兼用のコンクリートアーチがありました。意匠の様式はスパニッシュルネッサンス式と呼ばれており、河川上の橋脚の位置に豪華な飾塔を立て、非常に華やかで、かつ重厚な作りの橋でした。 この橋も戦後になって四ツ橋線の地下鉄工事に伴って架け替えられました。円盤状の支柱をもつユニークな高欄をもっていたが、1994年に橋面と高欄部の改装が行われ、より華やかなデザインのものになりました。公式HP

木津川の分流点に昭和橋が架けられたのは昭和7年のことです。この路線は計画道路梅田九条線(土佐堀通)に当たっており、市電路線でもありました。主橋部には支間長69mのタイドアーチが適用されましたが、橋が土佐堀通りから川口へ斜めに渡るため、67度近い斜橋となっているため斜めになったアーチ橋という大変設計の難しい構造となっています。 大きな橋体の重量を支える基礎には、軟弱地盤であることを考慮に入れ、長さ22~25mの木杭が、両側で千本以上も打ち込まれています。 宮本輝氏の『泥の河』は、この橋の描写から物語が始まっています。公式HP

初代の千代崎橋は明治5年に架けられましたが、中央の桁が引込式の可動橋となっていたため、そろばん橋とも呼ばれ、随分話題となりました。木津川には高い帆柱をもった船がさかのぼったため、舟運と陸上通行を両立させる工夫がなされました。また、この橋の反りは大きく、端部の最急勾配は18%にもなっていました。 この珍しい橋も明治18年の大洪水によって破壊され、その後に鉄柱をもった普通の木桁橋が架けられたのが、港の機能が次第に下流へ移っていったことを示すものと言えます。 千代崎橋は松島橋、伯楽橋と同様に戦前の都市計画事業によって、現在の橋に架け替えられました。なお、地盤沈下によって橋が低くなったこともあり、昭和31年に嵩上げ工事が行われています。公式HP

工業地帯として発展していた現在の大正区の区域(当時は西区の一部)と、対岸の大阪市街地を結ぶ目的で、1915(大正4)年に架設された初代の大正橋は、当時の日本では最も長いアーチ橋でした。大正時代に架橋されたため「大正橋」と命名されました。1932年に新設された「大正区」の区名は、当橋に由来すると言われています。 都市化が進むなか、渡し以外に川を渡る手段がなかった地域住民は、架橋とともに市電の敷設拡充を強く望みました。その要望から生まれた旧大正橋は、市電の軌道分も含めて幅員が19m、支間長が91.4mという破格のサイズでした。このような大スパンになったのは、当時、上流にあるガス会社の原料用石炭輸送が船によって頻繁に行われており、その点に配慮をしたためでした。このアーチ橋は、戦後になって変形と揺れがひどくなりました。地盤沈下や荷重増加に伴い、橋台の不等沈下や東詰橋台の後方への水平移動などが起こり、徐々に危険な状態となっていきました。 1952年から本橋の耐荷力調査、橋台基礎土質調査などが行われ、1956年からは調査結果に基づく補強工事(国庫補助補修工事)を行い、老朽橋の維持管理に努めました。一連の補強工事に関しては、小西一郎京都大学教授ら第一線の学者や技術者が多大な貢献をされており、現在、わが国の橋梁工学の分野で活躍中の多くの方々が、当時、学生や研究生の立場から実験、解析などに参加されています。 1966年から、都市計画道路泉尾今里線の拡張整備に伴い、この旧大正橋の架け替えが2分割で施工された。第1期工事分として、1969年に新橋の半幅が下流側に完成し、交通が切り替えられました。第2期工事は、先に在来橋撤去が、1971年に行われ、1974年には、第2期に架設された半幅と、第1期分の桁が連結され、大正橋は、わが国初の3径間連続のプレストレスしない合成箱桁形式として生まれ変わりました。 橋長は約80m、幅員は41mあり、戦後著しく進んだ大阪市の合成桁技術の一つの到達点を示す橋であるといえるでしょう。なお、第2期工事は取付け道路の嵩上げに多大な日数を要し、全面開通は1977年1になりました。 橋の欄干には、ベートーヴェン作曲・交響曲第9番『歓喜の歌』の楽譜がデザインされており、歩道にはメトロノームとピアノの鍵盤がデザインされています。公式HP

1893年、久左衛門町と九朗右衛門町を結ぶ本橋が架けられました。「大阪府誌」では新蛭子橋と書かれており、橋長が39.4m、幅員6.1mの木橋とされています。その後、1920年にほぼ同規模の木橋に架け替えられ、1932年に大規模補修が行われたましたが、戦災で焼け落ちたと言われています。 戦後の1951年に地元の協力により、木造鉄骨の橋が架橋され、ヒノキ造りの高欄は朱色の美しいものであったといわれています。現在の橋は、橋長39.7m、幅員7.0mで、1963年に架けられました。 1992年に歩道設置ならびに橋面整備が行われ、2007年に道頓堀川水辺整備事業に併せ改修工事(歩道拡幅、橋面整備、耐震対策、修景整備)を行い、2008年に完成しました。先代の橋の高欄が朱色であったことから、フレームに朱色を取り入れ、歩道には白御影石、地覆には黒系の塗装を施し、高欄フレームの朱色と調和を図っています。さらに、高欄にはガラスではさみこんだ和紙のパネルをはめこみ、夜間には高欄外側からの照明により和紙を浮かび上がらせています。公式HP

この橋の東南角で歌舞伎の小屋を開いた興行師の大坂太左衛門に、橋の名前は由来すると言われており、道頓堀の芝居町を中心にして周辺の町々の負担でこの橋は維持されてきました。織田作之助の作品に『女の橋』『船場の娘』『大阪の女』という三部作がありますが、ストーリーの節目に太左衛門橋が一場を構成する重要な役割を与えられています。 太左衛門橋は昭和になっても狭い木橋のままでしたが、大阪大空襲の際に焼失し、地元の人々によって復旧されました。 近年は、道頓堀川の水辺整備に合わせて、橋の西側と東側に側道橋が整備されましたが、整備にあたっては、有識者から成る道頓堀川遊歩道・橋梁デザイン検討委員会において、橋のデザイン検討を行っています。今回改修した橋は、その名前が、かつてこの地で歌舞伎の興行を行っていた興行師に由来することや、多くの芝居小屋があったことから、木を基調とする歴史的な意匠を取り入れた橋となりました。公式HP

江戸時代、現在の新鴫野橋とほぼ同じ位置に鴫野橋という公儀橋がありました。この橋は大坂城の城内にあり、一般の人々が利用できない公の性格の強い橋でした。初めて架けられた時期は明確ではありませんが、豊臣時代の城絵図や冬の陣・夏の陣を描いた絵には見あたらず、この時期にはまだ架けられていなかったものと思われます。 明治になって弁天島の地が軍の用地となり、橋も陸軍の施設となったため、橋に関する詳細は伝えられていませんが、この時期に鉄橋になりました。その後の新鴫野橋は、橋長約55m、幅員8mの規模で、昭和10年3月に架け替えられたものと伝えられています。 近くの寝屋川には、地名から鴫野橋と命名された橋がありますが、戦後、軍管理の橋が大阪市に引き継がれる際に新鴫野橋と命名されたため、公儀橋の鴫野橋とは場所が入れ替わってしまいました。近年の発掘調査で発見された大坂城の石垣の配置からも、古い鴫野橋が現在の新鴫野橋とほぼ同じ位置に架けられていたことが確認されています。 現在の橋は昭和63年に架け替えられたもので、擬宝珠(ギボシ)が付けられ、由来碑も整備されています。公式HP

源八橋が架かる大川(旧淀川)には、江戸時代初期からの長い歴史をもつ”源八渡”がありました。与謝蕪村は”源八をわたりて梅のあるじかな”という句を詠んでいます。右岸の天満側は大阪城代配下の役人の官舎街、左岸の都島区側は農村地帯でしたが、京街道に近いため多くの利用者があったと思われます。 都島区一帯は明治に入ってものどかな田園風景がみられましたが、1935年に城北運河の開削により、周辺の工業開発がにわかに進みました。源八橋は、第二次都市計画事業として架橋されたもので、1936年に完成しました。 橋の形式としては、6径間のゲルバー式鋼板桁が採用されています。新しい橋の名前をつけるにあたっては、由緒ある”源八”の名前を残すよう地元からの強い陳情があり、この名が採用されました。 昭和30年後半から自動車が急増し、源八橋も交通渋滞が定常化したことから、1971年になり、東行きの左折レーンを増やすため、橋の半分だけが上流側へ拡幅されました。 また、1999年には、再度の拡幅と橋面の改装工事が行われ、同時に、顕彰碑も設置されています。公式HP

大阪城新橋は、1983年に開催された大阪城築城400年祭に間に合わすべく、約10ヶ月という短縮工期で完成されました。京橋ターミナルから、祭りの主要会場であった大阪城公園や大阪城ホールへ至るアクセス路となっており、大阪城歩行者専用道整備の一環(第1期工事)として第二寝屋川に架設された橋です。また、災害時に北部方面から大阪城公園への避難路の役割も果たしています。工期短縮とともに、周辺景観との調和という課題を負っての設計と施工となりました。公式HP
水門
船着場
船着場周辺施設

開業13周年。大阪の真ん中に位置しながらすぐそばの喧騒を忘れさせられてしまうほど穏やかな空気が流れるこの場所は、都会に残る豊かな自然と、これからの暮らしの形が調和する憩いの空間として、愛されています。BANKSは「3つのブロック」「3つのテーマ」で構成されており、EAST棟はアパレル、CENTER棟ではフード&ドリンク、そして、WEST棟ではグッズ&アクセサリーを展開。幅広いサービスを提供中です。「BANKS」という言葉には「土手、堤防、堆積」などといった意味があり、江戸時代の中之島は天下の台所、情報と文化の発信地として発展。人々が集い暮らしが形成された、発展の歴史と施設を重ね合わせています。公式HP
中之島LOVE CENTRAL
船着場周辺施設

恋人や愛する家族、友だちと過ごすレストラン、カフェは、水辺の空間も楽しめるベストビュー。ウエディングスペースや、水都大阪の魅力を発見するクルージングも。公式HP
中之島公園(ローズポート)
船着場周辺施設

大川が分流する中之島一帯は、水都大阪を代表する風景となっています。多彩なバラが咲き誇るバラ園には、船着場「ローズポート」があります。剣先の大噴水も見ものです。公式HP
美術館・図書館

大阪と世界の近現代美術および近現代デザインを収集方針とする美術館です。大阪の実業家・山本發次郎(1887~1951)の収集作品約600点をはじめとする約6000点でコレクションを構成しています。公式HP

1977年、現代美術を中心とした作品の収集・展示を目的として開館、2004年に新築された。建物のデザインは竹の生命力と現代美術の発展・成長をイメージしており、歴史と文化の街中之島における新たな文化拠点となっています。公式HP
こども本の森 中之島
美術館・図書館

無限に広がるような大きな本棚に、色とりどりの表紙。テラスでひときわ目を引く「青リンゴ」は、建築家、安藤忠雄によるフォトジェニックなオブジェです。入館は事前予約が必要。大人だけでも入館できます。公式HP
観光スポット・施設
中之島フェスティバルシティ
観光スポット・施設

中之島の中心に、高さ200mの「中之島フェスティバルタワー」「中之島フェスティバルタワー・ウエスト」がそびえたち、新しいランドマークとなっています。ビル内にはレストラン・ショップ、ホテル、フェスティバルホールがあります。公式HP

同時通訳設備や大型映像設備を備えた特別会議場や各種会議室のほか、約2750名収容可能なホールなど、さまざまな催事ニーズに対応できる施設です。施設内には飲食店舗もあり、どなたでも気軽にご利用いただけます。公式HP

元は1925年に竣工した地上8階、地下1階、塔屋1階のネオ・ロマネスク様式のビルでしたが、老朽化により立て替えられました。現在のビルは2013年に竣工され、旧ダイビル本館の外観復元や内部デザインが取り入れられています。公式HP
MIRAIZA-OSAKA JO
観光スポット・施設

大阪城本丸広場の歴史的建造物「旧第四師団司令部庁舎」(もと大阪市立博物館)が、飲食店や物品販売店などが揃う複合施設として生まれ変わりました。屋上に行けば、天守閣を最も身近に感じながら、食事が楽しめます。公式HP
津波・高波ステーション
観光スポット・施設

高潮被害の写真や映像と音による津波疑似体験により、津波や高潮の怖さを知り、その猛威から自分の身を守る、避難方法などの正しい知識を身に付けることができる情報基地。公式HP
江之子島 文化芸術創造センター
観光スポット・施設

日常におけるアートとの触れ合いや、クリエイターと企業、市民、府民との交流の場を設けることをテーマに、企画展やイベント、セミナーなどを開催している。公式HP



























