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  • 古代水洗厠舎(トイレ)

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    鵜ノ木地区の外れで発見された奈良時代の水洗トイレです。立派な建物に水洗施設を備えた機能的な古代トイレは、現在のところ秋田城跡でしか確認されていません。沈殿槽堆積物(未消化の種子や糞虫の死骸など)の分析から、当時の食文化が推測され、大陸からの来訪者が使用した可能性が指摘されています。平成21年に復元されました。 URL オフィシャルサイト

  • 古代沼

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    秋田城外郭東門を出て、南方側にみえる古代の沼地。堆積していた泥炭層から、人面墨書土器(じんめんぼくしょどき) や人形(ひとがた)など、まじないに関わる遺物が多く発見されています。 URL オフィシャルサイト

  • 両津八幡神社

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    両津と八幡の合祀社で、両津の名称は河川2流と船の着く地を意味しているといわれます。縁起によると、天応元年(781)に出羽の按察使(あぜち)(役人)・小黒麿(おぐろまろ)、武将・紀古佐美(きのこさみ)らが応神天皇を祭神として建立したのが始まりとされています。延暦年中に安部黒縄により坂上田村麻呂の2寸2分の像が安置されると、その後はこの地を支配した安東氏らの豪族が武神として崇めたといわれます。現在の外旭川地域の神田や八幡田といった地名は、かつて、そのあたりまでが神田領(しんでんりょう)であったことの名残です。 URL オフィシャルサイト

  • 五輪ノ塔

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    寛永20年(1643)に、久保田の豪商森九蔵が建立した供養塔。灯りをともし、港を出入りする船の目印にしたと言われています。文化元年(1804)と同7年には地震で2度倒壊し、現在の塔は昭和42年(1967)に高清水公園内に復元された4代目です。この塔に至る坂道は五輪坂と呼ばれています。

  • 焼山(やけやま)浄水場跡

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    焼山浄水場は、昭和24年(1949)に建設されました。蛭根配水場から送られてきた工業水道に、ろ過・塩素消毒を行い、旧国道に布設された配水管から、土崎・寺内地区へ給水していました。今は役目を終え、一部の設備はほぼ当時の姿で現存しています。 URL オフィシャルサイト

  • 東門院跡

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    東門院は、京都聖護院(天台修験の本山)末寺で四天王寺に属し、古四王社の神宮寺(神社に付属して建てられた寺院や仏堂)として管理していました。佐竹氏支配の時に東門院は聖護院と縁を切り、真言宗に転化しました。明治になって、神仏分離の結果古四王神社として独立し、国弊小社に列せられました。

  • 旭さし木

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    推定樹齢約1,200年の巨木で、市内で1番古いと言われています。菅江真澄の「水のおもかげ」によると、昔この地域に住んでいた「旭」という長者の家の目印であったことから、この名前が付いたと言われています。明治19年(1886)の俵屋火事により、幹の一部が空洞化していますが、枯死を免れ徐々に樹勢を回復し、立派に葉を茂らせる生命力には驚かされます。昭和48年(1973)に市天然記念物に指定されました。 URL オフィシャルサイト

  • 高清水霊泉

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    7世紀中頃、越国(現北陸地方)守の阿倍比羅夫(あべのひらふ)が高清水岡に越王(古四王)を祀ったところ、突如湧き出したといわれる霊泉で、地名「高清水」の由来となりました。古四王神社の御手水として使用され、かつては周囲の清流にサンショウウオが生息するほど澄んだ水で、古代の武将が飲み水として利用したともいわれます。(※現在は飲み水として使用できません。)霊泉の傍らには聖観音立像が安置されており、訪れた人々によって霊水が捧げられ、今も大切にされています。

  • 旧馬口労町碑(きゅうばくろうまちひ)

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    現在、外町の南に位置する馬口労町は、寛永6年(1629)に寺内の前城から移された町です。昭和7年に前城に石碑を作りましたが、目立たなかったことから平成14年に馬口労町町内会の方々が、石碑を人目の付かない場所から現在の後城道路沿いに建て直しました。 URL オフィシャルサイト

  • 二ツ五輪(ふたつごりん)

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    文字が判別できないほど風化がすすんだ石碑ですが、慶長19年(1614)に隣国の藩主最上義光にそむき、土崎に隠れ住んでいた安彦左衛門尉蔵人兄弟を菩提する文字が読み取れます。はじめ雄物川を望む岸壁の上に建立しましたが、臨海道路や臨海工業団地造成により、大小路地内の道路端に移設されました。

  • 菅江真澄翁(すがえますみおう)の墓

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    江戸時代後期の紀行家・管江真澄は三河国(現愛知県)に生まれ、天明5年(1785)に秋田に入りました。その旅の日記と地誌類『管江真澄遊覧記』は、歴史や民俗研究の貴重な資料であり、重要文化財となっています。文政12年(1829)に仙北で没しましたが、遺言により、親交が深かった寺内の田村神社神主・鎌田正家の墓域に葬られました。昭和37年に秋田市の史跡第1号に指定されています。 URL オフィシャルサイト

  • 空素沼(からすぬま)・空素沼神社

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    その昔、オオカミが集まったことから「狼沢(おいぬさわ)」や、この沢に入って帰る者がいなかったことから「帰らずの沢」などと呼ばれていたそうです。9代藩主佐竹義和の時代、日照りが続き、補蛇寺の徳善住職、赤田の是山和尚、天徳寺の義産和尚がこの沼の主に雨乞いの祈願をしたところ、霊験あらたかだったので、ここに3頭の龍神を祀りました。それが現在の空素沼神社です。神秘的な伝説がたくさんある、秋田市のパワースポットです。

  • 護国神社

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    明治2年(1869)に、秋田藩最後の藩主佐竹義堯(よしたか)が高清水の地に「招魂社(しょうこんしゃ)」として創建し、戊辰戦争の戦役者の御霊を祀ったことに始まります。明治32年(1899)に久保田城跡に再建され、昭和15年には秋田県護国神社と改称し、旧社地である現在地に遷座。第2次大戦後の一時期、軍国主義施設として廃止されることを防ぐため、高清水宮と称し、「イザナギの命・イザナミの命」を合祀しましたが、昭和27年(1952)には再び秋田県護国神社に改称されました。 URL オフィシャルサイト

  • 伊藤永乃介の歌碑

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    伊藤永之介は秋田市出身の小説家。上級学校への進学がかなわず、銀行に勤めながら雑誌投稿を始めました。大正13年(1924)に同郷の金子洋文を頼って上京すると、「文芸戦線」などに評論、小説を発表し本格的に文筆活動を開始。農村を題材とした作品を多く執筆し、昭和11年(1936)に濁酒の密造を題材とした「梟(ふくろう)」が芥川賞候補となるなど、当時の生産文学の一翼を担いました。戦後も社会主義作家クラブの中心的存在として活躍し、のちに映画化された「警察日記」などの作品を発表しました。晩年の永之介が好んで記した言葉「山美しく人貧し」と刻まれた歌碑は、昭和35年に建立されました。

  • 秋田城跡歴史資料館

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    秋田城は奈良時代から平安時代にかけて東北地方の日本海側(出羽国(でわこく))に置かれた大規模な地方官庁でした。東日本の古代城柵は、当時の律令国家が各地に暮らしていた蝦夷の支配や総括を目的として、越後(えちご)・出羽(でわ)・陸奥(むつ)国に設置されました。秋田城はその中でも最北のもので、行政機関・軍事機関・北方交易・交流の役割があるほか、西の文化の終着点かつ北の文化の窓口であり、当時の国家の重要な施設の一つでした。秋田城跡資料館では、そのままでは読めない1,200年前の秋田城へあてた手紙(漆紙文書)や木簡の文字を赤外線カメラにより見ることができる、全国で唯一のコーナーがあるほか、兵士が実際に使用した武器や武具の展示、秋田城で生活していた人々が使った土器や陶磁器、全国的にも貴重な和同開珎銀銭などを展示しております。貴重な出土品の数々をぜひご覧ください。 URL オフィシャルサイト

  • 伽羅橋(きゃらばし)

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    伽羅橋にまつわる伝説はいろいろありますが、その1つは、ある時浪速の舟人が夕暮れに火縄を振ってこの橋にさしかっかたところ、火種を落としてしまい橋の一部を焦がしてしまいました。するとあたりによい香りが漂ったので、船に木を積んで津の国(現在の大阪府や兵庫県周辺)へ行き、それを売って大いに利益をあげました。以来、この橋を伽羅橋(または香炉木橋)と呼ぶようになったというものです。

  • 西来院(せいらいいん)

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    曹洞宗少林山と号し、羅漢さんとも呼ばれています。もと藤倉にある補蛇寺2世良雄和尚の閑居寺が廃絶したものを、寛政年間に秋田藩9代藩主佐竹義和がこの地に再興させました。神社の裏山は、三十三番の巡拝地となっており、境内には万魚供養碑、筆塚などの石碑が多く建立されています。寺宝に県指定有形文化財「涅槃図」と市指定有形民俗文化財「熊野観心十界曼陀羅図」があります。 URL オフィシャルサイト

  • 旧羽州街道

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    羽州街道の景観は、「秋田街道絵巻」(伝・荻津勝孝 筆)に描かれています。久保田城下から土崎への道は通称・八橋街道とも呼ばれ、茶屋や古跡のある風情に富んだ景観で、旅人にとっては旅情豊かな街道だったと想像されます。 URL オフィシャルサイト

  • 仙台藩殉難碑

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    慶応4年(1868)7月4日に、奥羽白石同盟にもとづき、仙台藩から送られた特使・志茂又左衛門、副使山内富治ら11人が茶町(現秋田市大町)の宿舎の幸野屋と仙北屋で久保田藩士らに暗殺されました。明治3年(1870)に草生津川刑場に埋められていた11名の亡骸は戦後に掘り起こされ、西来院に改葬されました。明治21年(1888)10月に当時秋田市に在住していた宮城県人竹内貞寿氏を中心とした有志が、勝海舟の揮毫による慰霊碑を現在地に建立しました。

  • 石龍神社

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    久保田藩の治水事業の責任者で、六群の水難を治めて功績があった那珂惣助は、都に行く途中、瀬田(大津)の龍神に4度にわたって本国の水難除けをお祈りしました。享保16年(1731)、惣助が藩に願って湯沢で手にした石龍をこの地に祀ったのが神社の始まりとされています。神社の付近一帯は根笹山古墳と呼ばれていますが詳細は不明です。また、祠は古墳の石棺を利用したものだという説もありますが、定かではありません。

  • 古四王(こしおう)神社

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    創建は奈良時代にさかのぼりますが、詳細は不明。桓武天皇の延暦年間(782〜806)に坂上田村麻呂が蝦夷平定の折、この宮に立ち寄り再興したと伝えられています。聖武天皇の代に、諸国に国分寺が置かれましたが、秋田城鎮護のため四天王寺が創建され、境内に四王堂が祀られた古四王神社として継がれました。四王堂は、その後四天王寺を継承する東門院に合祀し、古四王大権現と称されました。明治15年に国弊小社に列せられ、本県最高の社格でした。祭日は5月7日。同名の神社は、越後から奥羽にかけて20社ほどあるそうです。 URL オフィシャルサイト

  • 田村神社

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    延暦22年(803)に古四王大神のお膝元に田村麻呂将軍の宮を造営し、里人は大獄丸を射止めたものといわれる白羽の矢を2本祀り、武神として崇め祀りました。田村堂の神官・鎌田正家は、管江真澄の支援者でした。 URL オフィシャルサイト

  • 越前谷人形工房

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    4代目越前谷さん曰く、一番大事なことはボーッと考えることだそうです。土崎曳山祭り間近の6、7月にしか見ることのできない、人形造りの風景です。

  • 児桜貝塚(こざくらかいづか)

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    高清水丘陵の東南端、標高約30mに立地する縄文時代前期(約5,500年前)の貝塚。日本海側では数少ない貝塚の一つで、大木式土器様式の土器分布を考えるうえで貴重な遺跡です。この地域は、現在はこざくらと呼んでいますが、古くは「ちござくら」と呼ばれていました。古四王宮大祭の時、稚児の舞が行われたところから、また児桜というめでたい花が咲いていたことが地名の由来であると言われています。 URL オフィシャルサイト

  • 三吉神社遥拝殿(ようはいでん)

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    五輪坂(五輪の塔の北側)に建っています。戊辰の役の際、藩主義尭が赤沼の三吉神社に戦勝祈願をしたところ、霊験があり勝利したことから、秋田藩士中川伝也が土崎以北の住民の参詣の便を図り、明治4年(1871)この地に拝殿を建立しました。 URL オフィシャルサイト