明石博高史跡マップ

明石博高史跡マップ thumbnail

明治期に産業や医療、理化学革新で京都を盛り立てようと奔走した明石博高(あかしひろあきら、1839~1910)。このマップ上では、国際日本文化研究センターが所蔵する古地図を背景に、明石にゆかりのある京都市内のスポット情報が表示されるほか、GPSを使った現在地情報の表示、マップの切替などができ、バーチャルな歴史体験が可能です。

update date: 2023.04.20

このマップ(地図)を見る

Number of spots : 32spots

  • 六角獄舎(ろっかくごくしゃ)

    show stroly map Show Stroly map

    京都市中京区六角通神泉苑西入ル南側因幡町 六角獄舎は江戸時代には六角牢屋敷と呼ばれ、未決囚を収容する京都町奉行所付属の施設でした。元治元年(1864)7月20日、禁門の変の京都大火の際、京都町奉行所官吏が過激な志士たちの脱走を恐れ、平野国臣など未決囚33人を獄舎の庭で斬罪に処しました。獄医をしていた師の桂文郁(以中)を介して平野と知り合った明石博高は、明治42年(1909)11月に平野ら刑死者の収骨地を確認、同年12月には『殉国志士葬骨記』を刊行しています。

  • 京都博覧会碑

    show stroly map Show Stroly map

    京都市左京区岡崎成勝寺町(みやこめっせ東側) 明治4年、熊谷久右衛門・三井八郎右衛門ら町衆が会主となり、最初の博覧会を西本願寺で開催。翌年からは半官半民の博覧会社が毎年開催し、明石博高は京都府博覧会掛として活躍しました。この京都博覧会碑はもともと、明治13年仙洞御所に、常設博覧会会場の竣工を記念して建てられもので、撰文は府知事槇村正直。裏面右側には町衆18名の氏名が明石ら京都府博覧会掛6名、上京・下京区長2名よりも大きく刻まれています。

  • ワグネル顕彰碑

    show stroly map Show Stroly map

    京都市左京区岡崎成勝寺町(府立図書館北側) ドイツ人化学者ワグネルは、明治初期のお雇い外国人として来日しました。大学南校で教授したのち、明治11年(1878)京都府に招かれ舎密局に着任、同局に新設された化学校で教授しました。陶磁器、七宝、石鹸、ガラス等の製造を指導し、京都の産業近代化に貢献しました。この碑はワグネルの業績を顕彰するもので、大正13年(1924)に岡崎公園で開催された東宮殿下御成婚奉祝万国博覧会参加五十年記念博覧会に際し建立されました。

  • 織工場(おりこうば)

    show stroly map Show Stroly map

    京都市中京区河原町通二条下ル東側 織工場おりこうばは明治7年(1874)京都府が明石博高の主管のもと旧角倉すみのくら屋敷跡に開設した織物技術伝習所です。前年京都府派遣留学生がフランスから持ち帰ったジャカード機(紋織り機)などの新式織機を設置し、明治8年全国から伝習生を募集しました。明治10年には織殿おりどのと改称し、明治20年、この年創立された京都織物会社に払い下げられました。

  • 島津製作所創業地

    show stroly map Show Stroly map

    京都市中京区木屋町通二条下ル西側 島津製作所の創業者初代島津源蔵(1839~1894)は、明石博高が創設に尽力した京都舎密局と地続きの木屋町通二条下ル西生洲町にしいけすちょうに居住し、明治8年(1875)3月、理化学器械製造工場を自宅で創業しました。舎密局でオランダ人薬学者ヘールツから冶金術を学び、後任のドイツ人化学者ワグネルの指導を受けました。源蔵の製造販売した理化学器械や鉱物標本は師範学校・小中学校の理科教育に大きく貢献しました。

  • 伏見鉄工所

    show stroly map Show Stroly map

    京都市伏見区向島中之町 伏見鉄工所は、明治6年(1873)に京都府が伏見向島の観月橋南詰に完成させました。宇治川を利用した水車動力で農機具、織機、印刷機、蒸気機械などを製作。洋式の溶銑炉・送風機・鋳床・ボールバンク(錐盤)・ダライバンク(旋盤)・シカールバンク(削平盤)などが完備していました。京都府の政策転換によって明治14年(1881)に明石博高らに払い下げられましたが、明治22年(1889)頃、経営難により閉鎖されました。

  • 清水寺田村堂(きよみずでら たむらどう)

    show stroly map Show Stroly map

    京都市東山区清水寺 明石博高は清水寺成就院住職で勤王僧の忍向(月照、1813~1858)に国学を学びました。清水寺の開山とされる征夷大将軍坂上田村麻呂(758~811)を祭った開山堂(田村堂)を訪ねとき、明石は本尊田村麻呂将軍の古来の木像は天保年間(1830年代)に紛失し江戸の武家が所有しているという忍向上人の証言を聞かされました。探索の結果、所在が判明。明治12年(1889)購入に成功し、明治13年12月に盛大な還座式が行われました。

  • 厚生病院(明石博高邸)/明石湯

    show stroly map Show Stroly map

    京都市中京区河原町蛸薬師東入ル北側 明石博高は、慶応2年(1866)に開業した蘭方医でした。明治3年から13年まで京都府の官僚として勧業・衛生事業を推進。明治14年に京都府の政策転換を受けて退官後は、市井の医師にもどり、明治16年、河原町通蛸薬師東入ル旧土佐屋敷内の私邸に「私立厚生病院」を開業。同病院では、施術のほか煎剤から乳剤、軟膏類に至るまで種々の薬を処方し、急患だけでなく入院患者にも対応し、貧困に苦しむ者には無償で施療施薬を行いました。

  • 明石湯

    show stroly map Show Stroly map

    京都市中京区西木屋町通真橋上ル西側(クスノキの北側) 明石博高は、青年時代から各地の鉱泉・温泉の化学分析に取り組み、庶民のための温泉療法を研究しました。明治6年に円山吉水弁天堂の南に「吉水温泉」を、京都府を退官した明治14年には、自宅南の官有地に「明石湯」を開業。「明石湯」は明治24年に旧土佐屋敷内(旧立誠小学校北門の向かい)の私邸に移り、その後所有者は変わりましたが、西木屋町通真橋上ル西側の「明石湯」とともに、昭和40年代まで地元民に親しまれました。

  • 京都癲狂院(てんきょういん)

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    京都市左京区南禅寺福地町南禅寺方丈 療病院掛となった明石博高は一部の寺社における加持祈禱に頼った精神疾患患者治療を改善するため、明治8年(1875)7月、南禅寺方丈に府立仮癲狂院てんきょういんを創設しました。日本最初の公立精神病院です。その設立には禅林寺前住職東山天華らの熱心な募金活動がありました。初代院長には真島利民が就任し、療病院のドイツ人医師ヨンケルも診療しました。経営難のため明治15年(1882)に廃院となりました。

  • 療病院(りょうびょういん)

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    京都市東山区粟田口青蓮院 明治5年(1872)、木屋町にできた仮病院は同年11月に青蓮院に移り、そこでは診療と医学教育が行われました。明治13年(1880)から本院に発展し、河原町広小路に開院しました。聖徳太子創設の療病院にちなんで命名された京都初の洋式病院・療病院には、ドイツ人ヨンケル、オランダ人マンスフェルト、ドイツ人ショイベという3人の優秀な医師が相継いで着任し、現在の京都府立医科大学附属病院のルーツとなりました。

  • 療病院(りょうびょういん)

    show stroly map Show Stroly map

    京都市中京区御池通木屋町東入ル北側 明石博高は、明治3年(1870)閏10月京都府に出仕するや、外国人医師を招聘し洋式病院と医学校を設立するよう建議しましたが、府は財源難でした。翌10月、参事の槇村正直、顧問山本覚馬の賛成を得て療病院設立の府令が公示されるや、明石は旧知の岡崎願成寺住職・与謝野禮嚴をはじめ有力寺院にかけ合い資金調達に奔走。明治5年(1872)9月に京都療病院(当時は仮病院)が開設され、ドイツ人医師らによる診療が始まりました。

  • 集書院(しゅうしょいん)

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    京都市中京区三条通東洞院東入ル北側 明石博高の建議により、明治5年(1873)9月、東洞院三条上ルに竣工開館した公立図書館です。この年5月、貸本業の大黒屋太郎右衛門、御用書林村上勘兵衛、儒者三国幽眠らが、隣接する旧教諭所(維新前、経書を庶民に講義した民間学問所)跡地に開設した私立図書館・集書会社が基礎となりました。府は明治6年5月から運営を集書会社に委託。明治9年(1876)府の管理となり、後の府立図書館に受け継がれました。

  • 西本願寺書院

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    京都市下京区本願寺門前町 明治新政府は各府県に博覧会開催を奨励しました。京都では熊谷久右衛門、三井八郎右衛門、小野善助の3名が会主となり、明治4年(1871)10月に西本願寺書院で、最初の博覧会を開催。終了後に富裕な町衆が出資して結成した「京都博覧会社」は、さらに明石ら京都府博覧会掛が参加し、半官半民の会社となりました。この会社主催の第1回京都博覧会は知恩院・建仁寺・西本願寺の3会場で、翌5年2月10日から80日間、開催されました。

  • 女紅場(にょこうば)

    show stroly map Show Stroly map

    京都市上京区丸太町橋西詰南側 女紅場にょこうばは明治初期に京都に設立された女子教育機関の総称です。「女紅」はもともと女性の手仕事をさす言葉でした。明石博高の尽力もあり、明治5年4月土手町通丸太町下ル旧九条家河原殿に設立された新英学校女紅場は上流家庭の女子を対象とするエリート校で、後に京都府立京都第一高等女学校に発展しました。これに対し各小学校区には市中女紅場が設けられ、裁縫・手芸を教えました。また別に、遊女女紅場もありました。

  • 療病院(りょうびょういん)

    show stroly map Show Stroly map

    京都市上京区河原町通広小路上ル梶井町 粟田口青蓮院の仮病院が開院してから9年目の明治13年(1880)年7月、現在京都府立医科大学附属病院のある広小路梶井町に療病院の本院が竣工。用地購入費と建築費は明石博高による懸命の募金活動に負うところが大きく、明治7年10月に起工式が行われました。現在、府立医科大学の本部棟前に立つ「療病院碑」(明治13年12月、京都府知事槇村正直撰文)に明石博高の名前はありません。碑文は京都博覧会碑と同じく、岡野伝三郎刻です。

  • 明石博高(あかしひろあきら) 生誕地

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    京都市下京区四条通堀川西入ル唐津屋町530番地 天保10年(1839)10月4日、明石博高ひろあきらはこの地で薬種商を営む明石弥平の子に生まれました。5歳のとき父を亡くした明石は、嘉永4年(1851)3月から安政6年(1859)2月まで、8年3ヶ月、祖父弥助から西洋医学と東洋医学の両方を学び、慶応元年(1865)に蘭方医の新宮涼閣や新宮涼民、幕府医官柏原学而、さらに儒医の桂文郁らと、京都医学研究会を組織。翌年には有志と煉真舎という理化学研究会を起こしました。

  • 御所内病院

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    京都市上京区京都御苑内施薬院三雲宗順邸 明治元年(1868)正月、鳥羽伏見の戦いが始まるや、明石博高は戦場に駆けつけ、戦傷者救護に奔走しました。同年3月、明石ら医学研究会の会員たちは、代々典薬頭てんやくのかみをつとめた錦小路頼言よりことに建議して、太政官に病院設置の上申書を提出させ、御苑内施薬院三雲宗順邸(烏丸通一条下ル東側)が下賜されるや、明石は錦小路家執事で洋医の木村得正と相談。同年4月、病院を開設し医務を担当しました。

  • 博覧会場

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    京都市上京区京都御苑内 京都博覧会の会場は第2回(明治6年)以来、毎年、御所内を会場とし、仙洞御所や大宮御所を借りて開催されました。明治13年10月には明石博高の主導のもと、仙洞御所の南の空地に常設の博覧会会場が新築竣工し、京都博覧会の沿革を記した「博覧会碑」が建てられました。

  • 仙洞御所(せんとうごしょ)

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    京都市上京区京都御苑内 京都御苑内の仙洞御所は安政6年(1854)焼失後、再建されず、林泉だけが残っていました。京都舎密局で理化学を教えていたオランダ人薬学者ヘールツは、明治8年(1875)頃、明石博高と協力して、仙洞御所の跡地に西洋式の「自然史博物館本館」を計画しましたが、実現しませんでした。

  • 京都府庁

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    京都市上京区下立売新町西入ル(明治2~4年) 明治初年、東京奠都てんととともに京都の経済は大きく衰退し、京都府はこの低迷から脱却するために、官民一丸となって様々な近代化事業に着手しました。京都府庁は、明治2年(1869)10月、東町奉行所跡(西ノ京職司町)から下立売新町西入ル薮之内町の現在地に移転し、その司令塔となりました。

  • 京都府庁

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    二条城(明治4~18年) 京都府庁は、明治4年(1871)6月から14年間は二条城に移り、明治18年(1885)6月に下立売新町西入ル薮之内町の現在地に戻り、京都府京都中学校の元校舎を利用しました。

  • 合薬会社(ごうやくかいしゃ)

    show stroly map Show Stroly map

    府庁前東南角 医薬分業を早くから唱えた明石博高は、薬業者を組織して京都合薬会社を設立させ、明治7年(1874)9月から上京区(現在の府庁前)・下京区(小田原町松原下ル)にそれぞれ、模範的な薬局「アポテーキ」(オランダ語アポテークapotheekによる)を開業させました。「アポテーキ」ではオランダから医療機器薬品類を購入し、医師の処方箋による調剤が行われましたが、医薬分業は定着せず、明治14年舎密局せいみきょくとともに廃止されました。

  • 療病館(りょうびょうかん)

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    京都市東山区祇園神幸道南側 明石博高は明治2年(1869)4月に開設された大阪舎密局で、オランダ人医師ハラタマに理化学を、同じくオランダ人軍医ボードインに生理学などを学びました。ボードインから教えられ検黴(梅毒検査)の必要性を痛感した明石は、祇園のお茶屋「一力」主人・杉浦治郎右衛門の助力を得て、明治3年(1870)7月、祇園神幸道南側に「療病館」を建設しました。当初、私立病院として建設・運営されましたが、9月に京都府に移管しています。

  • 勧業場(かんぎょうじょう)

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    京都市中京区御池通河原町上ル東 明治4年(1871)2月、京都府は産業振興政策を統括する中枢機関として、河原町二条下ル一之舟入町、元長州屋敷跡に勧業場を設置しました。前年閏10月に京都府に出仕した明石博高は、この年1月17日、勧業掛を申し付けられ、欧米の新技術・新制度を導入して、舎密局せいみきょく、授産所、養蚕場、製糸場、牧畜場、鉄具製工場(伏見鉄工場)、製紙場、博覧会社、西陣物産会社など各種生産・製造施設、諸組織を続々と創設しました。

  • 舎密局(せいみきょく)

    show stroly map Show Stroly map

    京都市中京区土手町通竹屋町下ル鉾田町 舎密局せいみきょくは、明治初期に設立された官立の理化学教育研究機関です。舎密局の「舎密」は、フランス語のchimie(シミー、化学)由来のオランダ語chemie(シェミー)の音訳です。政府は大学設立構想に基づき、明治2年(1869)大阪に舎密局を創立。ここで化学を学んだ明石博高は、翌3年京都府に仕官するや、府立の京都舎密局を設置。お雇い外国人のヘールツやワグネルとともに理化学教育を推進しました。

  • 円山枝垂桜(まるやましだれざくら)

    show stroly map Show Stroly map

    京都市東山区円山町 明石博高は現在、円山公園のシンボル的な存在である枝垂桜の初代を伐採から救いました。八坂神社は明治元年(1868)の神仏分離令までは神仏混淆で「祇園社」と呼ばれました。分離令のため、社内の6寺院は取り壊されました。京都府勧業課の官僚であった明石博高は明治10年頃、そのひとつ宝寿院建内氏の庭に残されていた桜の老樹が伐採されそうになっているところを5円で買い取り、府に寄付しました。これが円山枝垂桜のルーツです。

  • 吉水温泉(よしみずおんせん)

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    京都市東山区円山町(吉水弁天堂南方高地) 円山公園の東端にある時宗安養寺の塔頭たっちゅう六坊は「六阿弥ろくあみ」と呼ばれ、幕末までそれぞれ遊興施設として親しまれました。若い頃から各地の温泉・鉱泉の化学分析を行い、温泉療法を研究していた明石博高は明治6年(1873)、吉水弁天堂南方の春阿弥しゅんあみを買い取り、明治9年(1876)に金閣寺を模した三層楼の「吉水温泉」を開業しました。眺望の良さと有馬温泉の泉質を再現したボイラー式人工温泉によって、人気を博しました。

  • 豊国神社唐門(ほうこくじんじゃ からもん)

    show stroly map Show Stroly map

    京都市東山区茶屋町 現在、豊国神社の社殿の前にある国宝唐門は伏見桃山城の遺構で、明石博高の寄進によるものです。幕府の庇護を受けていた南禅寺は明治維新で荒廃し、徳川家の寄進により二条城から塔頭金地院に移築されていた桃山城の大唐門も売りに出されました。これを知った明石博高はその隠滅を恐れて購入。明治8年12月、大仏殿跡に豊国神社を再興することが決まるや、大唐門の寄進をきめ、その解体移築費に私財約2000円を投じました。

  • 小野蘭山顕彰碑

    show stroly map Show Stroly map

    京都市左京区下鴨半木町 京都府立植物園大芝生地北東角 小野蘭山(1729~1810)は御所の周囲を転々としながら私塾・聚芳軒で40年余り本草学を講じ、日本博物誌の集大成『本草綱目啓蒙』(1806)を著しました。幕命により寛政11年(1799)71歳で、江戸に移り幕府医学館で教授。京都舎密局で理化学を教えたヘールツは『新撰本草綱目』序文(1876)を京都で執筆し、蘭山の科学的精神を高く評価しました。顕彰碑は、平成22年(2010)11月、小野蘭山没後二百年記念事業として建立されました。

  • 山本読書室

    show stroly map Show Stroly map

    京都市下京区油小路五条上ル 山本読書室は儒医山本封山ほうざんが1784年に開いた私塾です。その次男で小野蘭山の門人、山本亡羊(1778~1859)が長男榕室、次男秀夫、3男章夫あやお(1827~1903)ら5人の子に経営を分担させ、本草漢学塾として発展しました。明石博高は亡羊の門人で儒医の桂以中(文郁)と一緒に、万延元年(1860)4月8日、山本章夫の海紅亭塾に入門。明石と山本章夫は明治5年(1872)の京都博覧会開催にともに尽力しました。

  • 舎密局麦酒醸造所(せいみきょく ビールじょうぞうしょ)

    show stroly map Show Stroly map

    京都市東山区清水寺音羽の滝南側 江戸時代に長崎出島のオランダ人が飲んでいたビールは19世紀の初めに広く知られるようになりました。それを「麦酒」と訳し、製法を紹介したのは京都の蘭方医広川獬かいの著『蘭療方』(1804)です。京都舎密局では、明治3年(1870)からビール醸造法を研究し、明治10年(1877)に、荒廃した清水寺の塔頭栄春庵と慶閑庵の跡地(音羽の滝の南、現在の尾形乾山記念碑に面した道路脇の空地)に、府営の麦酒醸造所を建てました。