高座海軍工廠第三工場区アーカイブMap(試作版)

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・アーカイブMapは、地図上に情報をアーカイブし、情報を場所と結びつけることで、「情報の経験」を拡張しようとする試みです。
・このMapでは、高座海軍工廠第三工場区に関するできるだけ多くの情報を集め、それらをそれぞれに関わる場所と結びつけて紹介することを目指しています。
・内部を見学することができない芹沢地下壕内の360度画像、360度動画を見ることができます。
・本Mapの制作にあたり座間市教育委員会にご協力を賜りました。

update date: 2022.08.16

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Number of spots : 37spots

  • 「高座海軍工廠と台湾少年工」説明板 「高座海軍工廠と台湾少年工」説明板

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    (説明板の内容) 高座海軍工廠と台湾少年工 「雷電」を作った海軍の工場  太平洋戦争末期の昭和18(1943)年、現在の座間市東原一帯に海軍直属の工場が開設されました。この工場は当初は空C廠(くうしーしょう)と呼ばれていましたが、昭和19(1944)年高座海軍工廠として正式に発足しました。  この工廠の中心部は、およそ現在の相鉄線さがみ野駅から東中学校までですが、その敷地全体は当時の大和町、海老名町、綾瀬町にまたがり、組立工場のほかに将校宿舎・工員寄宿舎・倉庫・診療所などを含んでいました。  この工廠の従業員の約8割は台湾出身の少年工で、そのほかに軍人、学徒動員の学生、勤労女子挺身隊などが働いていました。戦後、フジヤマのトビウオとして有名になった水泳選手の古橋広之進さんや、作家の三島由紀夫さんもこの工廠に在籍していました。 台湾から来た少年たち  高座海軍工廠では、戦争末期に不足していた労働力を当時日本の統治下にあった台湾に求めました。台湾で行われた選抜試験には多くの少年が応募し、国民学校高等科や旧制中学校などを卒業した、十代の優秀な少年8,400人余りが、海軍軍属として海を渡って日本にやってきました。  少年工たちは、昭和18(1943)年から順次、現在の大和市上草柳(かみそうやぎ)にあった寄宿舎に入寮し基礎教育を受けた後、高座海軍工廠をはじめ群馬県の中島飛行機製作所や名古屋の三菱航空機など各地の工場へ派遣されました。その真面目な働きぶりと高い技術は派遣先の工場でも高く評価されました。  しかし戦局が厳しくなると労働環境は悪化し、中には空襲で命を落とした少年もありました。大和市上草柳の善徳寺には、亡くなった少年工60名の慰霊碑が建てられています。  昭和20(1945)年8月に終戦を迎え、少年工たちは台湾に戻ることになりました。翌年の帰国までの間、戦争直後多少の混乱はあったものの、少年たちは自治組織を結成し、秩序を守って整然と帰国しました。  千五、元少年工たちは厳戒令下の台湾でも懸命に努力して故郷の発展に尽くし、また苦労した戦時を過ごしたこの地を訪れ、若き日の思い出にふける人も少なくありません。 出典:石川公弘著『二つの祖国を生きた台湾少年工』、『座間市史』ほか 芹沢の地下壕  ここ芹沢公園の芝生広場の地面の下には、総延長約1.5kmに及ぶ「あみだくじ」状の地下壕があります。この地下壕は、激しさを増す空襲を避けて、高座海軍工廠の部品工場を移すために人力で掘り抜かれたものです。  また、この地下壕は「箱根東京軽石層」という白い特殊な地層が観察できる場所としても知られています。この地層は、約6万6千年前に起きた箱根火山の大噴火によって、軽石を含む火山灰が降り積もったものです。  現在は、地下壕の入口部分を見学することができます。 平成30年10月 座間市教育委員会

  • 「芹沢の地下壕」説明板 「芹沢の地下壕」説明板

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    (説明板の内容) 芹沢の地下壕 高座海軍工廠と地下壕  第二次世界大戦末期の昭和19(1944)年、現在の東原と大和市・海老名市の一部にまたがる地域に、本土防衛を遂行するための戦闘機「雷電」を製造する目的で高座海軍工廠(海軍に直属する工場)が建設されました。  地上施設の建設と並行して、日々激しさを増してゆく空襲を避け、工員と操業の安全を図るために、下栗原の目久尻川沿いや支流にあたる芹沢川の谷合の崖面に無数の地下壕(防空壕)が作られました。地下工場が3か所と地下物資倉庫が十数か所のほか、地下変電所や救護用ベッドを備えた壕もあったと伝えられています。  栗原の中丸地区(現在の芹沢公園)には、地下工場として、この地下壕が作られました。地下壕の中には、東西と南北に「あみだくじ」のように地下道が張りめぐらされ、その総延長は1,500メートルほどとなります・これは、赤土の関東ローム層を人力で掘り抜いたものです。  戦後は、米軍の進駐とともに、壕内にあった機械類や蓄えられていた物資などは撤収され、地下壕はその使命を終え、一時期マッシュルームの栽培などが行われました。  現在では、ほとんどの地下壕は埋められて、当時の姿を知ることはできなくなりました。そこで、埋められていないこの壕を残して、戦争の招いた悲惨さを忘れずに久遠の平和を祈念したいと思います。 箱根東京軽石層  地下壕の壁には、幅40cmほどの白い地層があります。この地層は「箱根東京軽石層」といい、約66,000年前に起きた箱根火山の最大級の噴火による火山灰で、軽石を主体とし、神奈川県を中心とする南関東一帯に降り積もったものです。白い地層の上の層は、噴火直後に起こった火砕流の堆積物で、高熱の火砕流に巻き込まれて炭化した木片や、大木が倒れた跡と推定されている構造も観察できます。  この地下壕は火砕流がこの地を通過したことがわかる貴重な場所です。(危険防止のため、一般公開は行っていません。) 平成28年11月 座間市教育委員会 ※参考(古い看板) (説明板の内容) 芹沢の地下壕  第二次世界大戦末期の昭和十九年(一九四四)、栗原の東原一帯と大和市・海老名市の一部にまたがる地域に、本土防衛のための戦闘機「雷電」を組み立てる高座海軍工廠(海軍に直属する工場)が建設されました。  これに合わせて、日々激しさを増してゆく空襲の被害を避け、工員と操業の安全を計るために、無数の地下壕が、下栗原目久尻川沿いや支流にあたる芹沢川の谷合いの崖面から、硬い赤土の関東ローム層に、人力によって長いトンネルのように掘り抜かれました。  これらの中に、地下工場が三か所と地下物資倉庫が十数か所のほか、地下変電所や救護用ベッドを備えた壕もあったと伝えられています。また、栗原の中丸地区にも、地下工場が一つ作られました。  しかし戦後、米軍の進駐とともに、壕内にあった機械類や蓄えられていた物資などが撤収されて、その使命を終えました。  その後一時期、一部の壕がマッシュルームの栽培などに利用されたこともありましたが、現在では、その多くは埋められて詳しく当時の姿を知ることはできなくなりました。そこで、埋められていないこの壕を残して、戦争の招いた悲惨さを忘れずに久遠の平和を祈念したいと思います。 平成二年三月 座間市教育委員会

  • 芹沢公園(中丸)北西入口 芹沢公園(中丸)北西入口

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  • 芹沢公園(中丸)西入口(駐車場) 芹沢公園(中丸)西入口(駐車場)

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  • 芹沢公園南入口 芹沢公園南入口

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  • 芹沢公園北東入口(駐車場) 芹沢公園北東入口(駐車場)

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  • 芹沢公園東入口(駐車場) 芹沢公園東入口(駐車場)

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  • 芹沢公園北東交差点 芹沢公園北東交差点

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  • 北端の主坑道西部 北端の主坑道西部

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    ・部品製作用の機械を設置したと考えられるコンクリート基礎が、床面に3ヶ所残っています。 ・基礎には機械を設置するための方形孔が見られます。 ・地下壕北部では、ケーブルを設置するための木煉瓦が少なくなります。 ・掘削時のツルハシの跡がよく分かります。 ・この辺りにも、戦後のマッシュルーム栽培の痕跡と考えられる横杭がみられます。 ・東京軽石層(黄色っぽい地層)が壁面の低い位置にあります。 ※画像をクリックしてください。 360度画像のポップアップウインドウが開きます。 ・さらに画面をクリックし、右下に現れるメガネ型アイコンを選択すると、PCでは全画面表示に、スマホではVR画面に変わります。 ・VR画面にしてからスマホをVRゴーグルに設置するとVR視聴が可能です。

  • 北端の2本の主坑道間、東から5本目の坑道 北端の2本の主坑道間、東から5本目の坑道

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    ・部品製作用の機械を設置したと考えられるコンクリート基礎が、床面に4ヶ所残っています。 ・それぞれ形態が異なっており、複数の種類の機械が設置されていた可能性があります。 ・地下壕北部では、ケーブルを設置するための木煉瓦が少なくなります。 ・掘削時のツルハシの跡がよく分かります。 ・壁の黄色っぽい帯状の地層は東京軽石層。約66000年前の箱根山の大噴火の堆積物です。 ※画像をクリックしてください。 360度画像のポップアップウインドウが開きます。 ・さらに画面をクリックし、右下に現れるメガネ型アイコンを選択すると、PCでは全画面表示に、スマホではVR画面に変わります。 ・VR画面にしてからスマホをVRゴーグルに設置するとVR視聴が可能です。

  • 北端の主坑道から北に伸びる坑道 北端の主坑道から北に伸びる坑道

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    ・こうした行き止りの坑道は、倉庫などに使われていたと考えられます。 ・ケーブルを設置するための木煉瓦は少数です。 ・掘削時のツルハシの跡がよく分かります。 ・東京軽石層(黄色っぽい地層)が壁面の低い位置にあります。 ※画像をクリックしてください。 360度画像のポップアップウインドウが開きます。 ・さらに画面をクリックし、右下に現れるメガネ型アイコンを選択すると、PCでは全画面表示に、スマホではVR画面に変わります。 ・VR画面にしてからスマホをVRゴーグルに設置するとVR視聴が可能です。

  • 南端の2本の主坑道の間、東から2本目の坑道 南端の2本の主坑道の間、東から2本目の坑道

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    ・この辺りには、ケーブルを設置するための木煉瓦はほとんどありません。 ・掘削時のツルハシの跡がよく分かります。 ・壁に刺さっている横杭は、戦後のマッシュルーム栽培の棚の痕跡と考えられます。 ・壁の黄色っぽい帯状の地層は東京軽石層。約66000年前の箱根山の大噴火の堆積物です。 ※画像をクリックしてください。 360度画像のポップアップウインドウが開きます。 ・さらに画面をクリックし、右下に現れるメガネ型アイコンを選択すると、PCでは全画面表示に、スマホではVR画面に変わります。 ・VR画面にしてからスマホをVRゴーグルに設置するとVR視聴が可能です。

  • 北から3本目と4本目の主坑道の間、東から4本目の坑道 北から3本目と4本目の主坑道の間、東から4本目の坑道

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    ・ケーブルを設置するための木煉瓦が多数見られます。 ・木煉瓦に取り付けられたケーブル固定用の磁器製碍子がよく残っています。 ・掘削時のツルハシの跡がよく分かります。 ・東京軽石層(黄色っぽい地層)が壁面の低い位置にあります。 ※画像をクリックしてください。 360度画像のポップアップウインドウが開きます。 ・さらに画面をクリックし、右下に現れるメガネ型アイコンを選択すると、PCでは全画面表示に、スマホではVR画面に変わります。 ・VR画面にしてからスマホをVRゴーグルに設置するとVR視聴が可能です。

  • 北端の2本の主坑道間、東から2本目の坑道 北端の2本の主坑道間、東から2本目の坑道

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    ・東壁に方形の窪み(壁龕)が作られています。棚などを設置していたと考えられます。 ・地下壕北部では、ケーブルを設置するための木煉瓦が少なくなります。 ・掘削時のツルハシの跡がよく分かります。 ・東京軽石層(黄色っぽい地層)が壁面の比較的高い位置にあります。 ※画像をクリックしてください。 360度画像のポップアップウインドウが開きます。 ・さらに画面をクリックし、右下に現れるメガネ型アイコンを選択すると、PCでは全画面表示に、スマホではVR画面に変わります。 ・VR画面にしてからスマホをVRゴーグルに設置するとVR視聴が可能です。

  • 北端の2本の主坑道間、東から4本目の坑道 北端の2本の主坑道間、東から4本目の坑道

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    ・部品製作用の機械を設置したと考えられるコンクリート基礎が、床面に2ヶ所残っています。 ・南端で壁が東側に拡張されており、そこに棚のようなものが置かれていた可能性があります。 ・地下壕北部では、ケーブルを設置するための木煉瓦が少なくなります。 ・掘削時のツルハシの跡がよく分かります。 ・東京軽石層(黄色っぽい地層)が壁面の比較的高い位置にあります。 ※画像をクリックしてください。 360度画像のポップアップウインドウが開きます。 ・さらに画面をクリックし、右下に現れるメガネ型アイコンを選択すると、PCでは全画面表示に、スマホではVR画面に変わります。 ・VR画面にしてからスマホをVRゴーグルに設置するとVR視聴が可能です。

  • 北から3本目の主坑道東部 北から3本目の主坑道東部

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    ・ケーブルを設置するための木煉瓦が多数見られます。 ・ケーブル固定用の磁器製碍子が残った木煉瓦もあります。 ・掘削時のツルハシの跡がよく分かります。 ・戦後のマッシュルーム栽培の棚の痕跡と考えられる横杭が壁にみられます。 ・東京軽石層(黄色っぽい地層)が壁面の比較的高い位置にあります。 ※画像をクリックしてください。 360度画像のポップアップウインドウが開きます。 ・さらに画面をクリックし、右下に現れるメガネ型アイコンを選択すると、PCでは全画面表示に、スマホではVR画面に変わります。 ・VR画面にしてからスマホをVRゴーグルに設置するとVR視聴が可能です。

  • 北から3本目と4本目の主坑道の間、東端の坑道 北から3本目と4本目の主坑道の間、東端の坑道

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    ・ケーブルを設置するための木煉瓦が見られます。 ・掘削時のツルハシの跡がよく分かります。 ・壁に刺さっている横杭は、戦後のマッシュルーム栽培の棚の痕跡と考えられます。 ・壁の黄色っぽい帯状の地層は東京軽石層。約66000年前の箱根山の大噴火の堆積物です。 ※画像をクリックしてください。 360度画像のポップアップウインドウが開きます。 ・さらに画面をクリックし、右下に現れるメガネ型アイコンを選択すると、PCでは全画面表示に、スマホではVR画面に変わります。 ・VR画面にしてからスマホをVRゴーグルに設置するとVR視聴が可能です。

  • 北から5本目の主坑道中央付近 北から5本目の主坑道中央付近

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    ・照明が設置され、坑口から中を見学できます。 ・この辺りでは、ケーブルを設置するための木煉瓦が散見されるようになります。 ・掘削時のツルハシの跡がよく分かります。 ・壁の黄色っぽい帯状の地層は東京軽石層。約66000年前の箱根山の大噴火の堆積物です。 ※画像をクリックしてください。 360度画像のポップアップウインドウが開きます。 ・さらに画面をクリックし、右下に現れるメガネ型アイコンを選択すると、PCでは全画面表示に、スマホではVR画面に変わります。 ・VR画面にしてからスマホをVRゴーグルに設置するとVR視聴が可能です。

  • 南端の坑道の出入口付近 南端の坑道の出入口付近

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    ・照明が設置され、坑口から中を見学できます。 ・奥に「雷電」の小型模型が置かれています。 ・この辺りには、ケーブルを設置するための木煉瓦はほとんどありません。 ・掘削時のツルハシの跡がよく分かります。 ・壁の黄色っぽい帯状の地層は東京軽石層。約66000年前の箱根山の大噴火の堆積物です。 ※画像をクリックしてください。 360度画像のポップアップウインドウが開きます。 ・さらに画面をクリックし、右下に現れるメガネ型アイコンを選択すると、PCでは全画面表示に、スマホではVR画面に変わります。 ・VR画面にしてからスマホをVRゴーグルに設置するとVR視聴が可能です。

  • 高座海軍工廠芹沢地下壕ビデオ 高座海軍工廠芹沢地下壕ビデオ

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    ※画像をクリックしてください(Youtubeに飛びます)。 ・約5分の動画です。 ・スマホの場合「一時停止」をしてからVRモードに切り替えてヘッドマウントディスプレイに取り付けるとVR視聴が可能です。 【注意】 ・画質を「1080s HD」(1920×1080)以上に設定しないと細部を見ることができません。 ・「2160s 4K」(3840×2160)まで画質を上げることができますが、5分で約1GBも使うようです(1080sでは約170MB、1440sでは約360MB)。 ・データ通信量が大きくなりますので、Wifi環境での視聴をお勧めします。

  • 芹沢地下壕・高座海軍工廠関係新聞記事 芹沢地下壕・高座海軍工廠関係新聞記事

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    【新聞記事】 1995年10月26日 産経新聞〔東京夕刊 総合〕 「【話の肖像画】五輪百年いまむかし 古橋広之進さん(3)」 2000年1月26日 毎日新聞〔朝刊 特集〕 「[本はともだち]図書館を使った「調べる」学習賞コンクール」 2004年7月20日 産経新聞〔東京・大阪朝刊 特集〕 「【凛として】(73)古橋広之進(2)豆魚雷」 2008年4月10日 読売新聞〔東京朝刊 気流〕 「[時代の証言者]水泳・古橋広之進(9)4年ぶりに水の感触」 2013年2月5日 朝日新聞〔朝刊 神奈川〕 「三島由紀夫の後半生描く 相模原の涌田さん、本出版」 2015年2月26日 朝日新聞〔朝刊 横浜〕 「(かながわの戦後70年 第2部 基地県の源流:1)敵の防波堤、若き日の覚悟」 2018年8月9日 朝日新聞〔朝刊 横浜〕 「元台湾少年工、続く交流 座間に顕彰碑 今秋75周年記念式典」 2018年11月16日 朝日新聞〔朝刊 横浜〕 「地下に延びる手掘り壕 座間で公開、軍需部品製造か」 2020年1月16日 朝日新聞〔朝刊 横浜〕 「戦闘機「雷電」の部品と確認 座間の民家で保存、市鑑定」 2020年1月18日 毎日新聞〔朝刊 神奈川〕 「寄贈:戦闘機「雷電」の部品を寄贈 座間市に大矢さん」 2020年1月18日 読売新聞〔東京朝刊 横浜〕 「戦時の技 座間に残る 戦闘機「雷電」部品 市へ寄贈」 2020年6月26日 朝日新聞〔朝刊 横浜〕 「戦闘機雷電、座間に部品残す 市民寄贈の操縦席前側外板、市役所で公開」 2020年7月9日 読売新聞〔東京朝刊 神奈川〕 「戦闘機・雷電が語る戦争 座間で部品を展示」v 【Web】 ・高座海軍工廠の工場跡リアルに 座間市がVR映像公開(20220511「カナロコ」) ・戦闘機「雷電」や台湾少年工も紹介 綾瀬で2年ぶり平和展(20210629「カナロコ」) ・旧日本海軍の戦闘機「雷電」 歴史伝える貴重部品を公開 神奈川・座間(20200909「THE SANKEI NEWS」) ・神奈川)戦闘機「雷電」の部品 座間市役所で公開(20200626「朝日新聞デジタル」) ・「雷電」部品、座間市役所で常設展 高座海軍工廠で生産(20200624「カナロコ」) ・座間で発見の戦闘機部品、鑑定根拠は… 航空史家が解説(20200120「カナロコ」) ・戦闘機「雷電」の部品を寄贈 座間市に大矢さん /神奈川(20200118「毎日新聞」) ・戦闘機「雷電」外板を寄贈 座間、大型部品発見は異例(20200118「カナロコ」) ・うちの庭に戦闘機「雷電」胴体 国内初確認「戦争の証」(20200116「朝日新聞デジタル」) ・戦争の悲惨さ 後世へ 30日まで「平和展」(20190625「カナロコ」) ・身近な戦争遺跡を紹介、座間 芹沢地下壕、30日まで(20190602 「カナロコ」) ・神奈川)旧日本海軍の軍事施設、報道陣に初公開 座間(20181116「朝日新聞デジタル」) ・戦争末期の秘密工廠、残るツルハシ跡 座間市が地下壕公開(20181115「カナロコ」) ・出征の息子、母の涙 「高座海軍工廠地下壕」テーマに紙芝居 若い世代へ経験随所に 座間・兼田さん18日に披露(20180814「カナロコ」) ・相模原で「戦争と平和展」 台湾少年工の手紙も展示 (20180812「カナロコ」) ・太平洋戦争を知る300点展示 綾瀬市役所で7月1日まで(20180628「カナロコ」) ・平和の祈り後世へ2日まで(20170702「カナロコ」) ・地域の文化遺産に道標 座間市教委(20170508「カナロコ」) ・太平洋戦争中の物品や資料並ぶ 綾瀬で平和展、体験講話も(20160702「カナロコ」)

  • 排土による爆風対策 排土による爆風対策

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    1947年10月24日(USA-R355-94:国土地理院地図・空中写真閲覧サービスを改変) 1949年2月21日(USA-R569-13:国土地理院地図・空中写真閲覧サービスを改変)  米軍が撮影した写真を見ると、地下壕出入口の前面の地面が広く白くなっていることがわかります。この白い範囲は、地下壕を掘削した際の排土(ズリ)が捨てられた場所です。  この排土の範囲をよく見ると、地下壕出入口から扇形に広がっていることがわかります。扇形の部分の北側に影ができている写真もあり、このことから地下壕出入口付近では排土が高く積まれていたことが推測されます。  地下壕は爆風の直撃に弱いため、出入口にはその対策が必要でした。芹沢地下壕では、出入口の前面に排土を積み上げることで、爆風の直撃を受けないようにしていたと考えられます。(安藤広道) 排土が確認できる範囲と想定される通路 排土による爆風対策(模式図)

  • 座間市の取り組み 座間市の取り組み

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    「ニュース」 ・戦闘機「雷電」部品用展示ケースの寄贈式と展示の開始(20200626登録)・日台交流の懸け橋に~マスク3,500枚他の寄贈(20200529登録) ・高座海軍工廠で作られた戦闘機「雷電」の部品~大矢隆男さんから市に寄贈~(20200122登録) ・高座海軍工廠元台湾少年工が市を表敬訪問(20191022登録) ・台湾高座友の会が市を表敬訪問(20190710登録)・企画展「写真でみる芹沢の地下壕」(20190611登録) ・郷土講演会「高座海軍工廠で作った戦闘機『雷電』」(20180126登録) 「広報関係」 ・「広報ざま」No.1105:お寄せください戦争体験談)(20200815刊)・「広報ざま」No.1032:語り継ぐ平和への願い(戦争体験者の話)(20170801刊) ・広報ざま小・中学生版「ざまっこ」みんなは芹沢公園に行ったことがあるかな?「芹沢公園の地下壕(大きな穴)」について調べてみましょう!(20190710刊) ・「座間むかしむかし」掲載内容一覧 ・座間市市勢ガイド:公共施設マップ(座間市の歴史) ・「座間市民便利帳」公園にでかけよう(郷土歴史書) ・芹沢公園 ・座間市坂道ウォーキングガイド 「定例記者会見」 ・平成31年2月18日(郷土講演会「戦争遺跡研究の進め方~高座海軍工廠芹沢地下壕から考える」を開催)(20190218登録) ・年頭記者会見:令和2年1月8日(郷土講演会 高座海軍工廠で作った戦闘機「雷電」)(20200110登録) 「議事録等」 ・令和2年度第1回座間市文化財保護委員会議事録(20200925開催) ・令和元年度 座間市市史編さん審議会議事録(20200326開催)

  • 高座海軍工廠 高座海軍工廠

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     高座海軍工廠は、アジア太平洋戦争末期に相鉄線さがみ野駅の北側にあった、航空機生産のための海軍直属の軍需工場です。1943(昭和18)年5月1日に「海軍航空技術廠相模野出張所」として開設され、1944(昭和19)年4月1日に海軍工廠となり、高座海軍工廠と名付けられました。 高座海軍工廠想定図(国土地理院『地図・空中写真閲覧サービス』より作成) 高座海軍工廠(国土地理院『USA-R2390-119』1949年を改変)    さがみ野駅と国道246号の間に、六工場と呼ばれた6棟の大きな工場があり、ここを中心に局地戦闘機「雷電」が生産されていました。六工場の北に、さらに大型の第七工場を建設する計画だったようですが、これは基礎を設置しただけで中断したようです。 六工場の周囲には、総務部、倉庫、烹炊所、工員養成所、女子寮、防空監視所、テスト用滑走路などのさまざまな施設が展開し、これらの間を相模鉄道から延びる軌道が走り、南東には首都圏防空の拠点となっていた厚木飛行場に続く幅広の道が敷設されていました。    1944(昭和19)年7月、絶対国防圏の一角であるサイパン島が陥落し本土空襲の危険性が高まると、工廠の東西に空襲を避けるための疎開地区が複数建設されていきました。芹沢公園一帯は第三工場区と呼ばれるエリアにあたり、芹沢川の谷に面する台地の地下に5ヶ所の大型地下壕が掘削されました。芹沢地下壕は、その中央に位置する最大規模の地下壕で、部品製造を担っていました。  高座海軍工廠、及び工廠の南に展開していた厚木飛行場と相模野航空隊の開設は、現在の綾瀬市、座間市、大和市に及ぶ広大な土地の強制的とも言える買収を伴っていました。諸施設設立後も、住民には、従業者の募集、従業者の居住施設の提供、食糧をはじめとする生活物資の供給などの密接な関係が求められ、これら海軍諸施設の開設によって、一帯の人々の暮らしは一変したと言われています。(安藤広道)   参考文献:『綾瀬市史7 通史編 近現代』『座間市史5 通史編下巻』『座間の語り伝え=外編1・軍事施設の進出=』『大和市史3 通史編 近現代』 ※参考文献からの抜粋(クリックしてください) 座間市教育委員会生涯学習推進課市史編さん室 1983『座間の語り伝え=外編1・軍事施設の進出=』より 高座海軍工廠 (1)工廠の設置 昭和十二年一九三七)七月、慮溝橋事件に端を発した日中戦争は、一応その戦線も中国大陸、並びにその周辺の海域に限られていた。ところが昭和十六年十二月、アメリカ・イギリス両国への宣戦布告によって、戦域は太平洋・東南アジアさらにはインド洋方面へと急速に広まっていった。  この大戦、初めのうちは日本軍の素晴しい活躍によって、快進撃をすることができた。それは強力な空軍機の援護のお陰であったともいえる。 諸戦において日本空軍の威力を知らされたアメリカは、その豊富な物量にものを言わせて各種軍用機の生産に力を入れた。昭和十七年末から反撃に転じたアメリカは、次第に態勢のばん回に努めたので、戦況は日に日に日本の不利となり、南方洋上をはじめ各地に点在していた日本の軍事拠点は、次々と撤退を余儀なくされた。  これより前、軍はいろいろな場合を考え、それに対応できるよう軍事基地や軍需工場の確保に努めていた。そして、京浜地区の防衛のために海軍は、綾瀬村に厚木航空隊の基地を(昭和十六年)、さらに隣接した座間町栗原の東原に高座海軍工廠を建設したのである。  海軍部内では内々検討をしていたと思われるが、昭和十七年ごろ横須賀海軍航空技術廠総務部内に「空C廠準備委員室」が設けられ、ここで工廠建設計画が着々と進められていた。翌十八年一一月、大和町草柳に「空C廠相模野出張所」が開設された。この出張所は工場建設の中枢的な役所で、工廠の工事は急ピッチに進み、開廠式を迎えることになった。  昭和十九年五月十五日、高座海軍工廠の開廠式が執り行われた。式の当日、工廠長田中実海軍少将をはじめ、航空技術関係者、工廠勤務者、さらに地元関係者が参列して厳粛に行われたという。  最初、地元の人はこのエ廠を「空C廠」と呼んだ。この呼び名は海軍部内の計画の時、名付けられたものがそのまま民間に伝えられたもので、正式には「高座海軍工廠」といい、昭和十八年三月に命名された。 (2)工廠の用地 高座海軍工廠の用地買収の話がささやかれ始めたのは、昭和十四、五年ごろからで、千歳商会が土地の測量をし、反当たり六百円で買ったとか、大和航空という会社が大和境の入谷分、現在のひばりが丘の尖りを三〇町歩買いに来たとか、いろいろな噂がとんだ。こうした会社が海軍工廠のできることを当て込んで、思惑買いをしたものかどうかはっきりしない。  その後、正式に軍の用地として買収の話が進められ、土地売り渡し承認の最終其会がもたれたのは、昭和十七年七月ごろのことで、座間・海老名・綾瀬・大和の関係者が綾瀬小学校に召集された。この時の会議の模様は判然としないが、軍刀をちらつかせた憲兵が数人この席に立ち合ったという。  軍への売り渡し価格は、反当たり最低が三五〇円、最高が六〇〇円ぐらいで、土地によって格差があり、桑の木等については士地代とは別途に、いくばくかの補償費が支払われるとのことであった。農家にとって生活の基盤である農地を手放すことは耐え難いことであったろう。  しかし、 「本日、即答できないものは、改めて明日横須賀の海軍鎮守府に出頭し、事情を申し述べるように」 とのことで、誰もが仕方なしと諦めて、この強制的な用地買収に応じ、同年八月十日、東原一帯は工廠用地となった。  こうして軍は用地を確保したものの、少しでも農民の気持を和らげようとしたのであろうか、広い農地の買収に応じた農家には、高座海軍工廠名をもって感謝状が出されている。  写真の感謝状は下栗原の中村才一さん宛のもので、「当廠建設ニ際シ父祖伝来ノ士地ヲ欣然提供シ……云々」とある。つまり、父祖伝来の土地を喜んで提供し、戦力増強に大きな貢献をしたので心から感謝すると述べている。感謝状はほかでも見受けた。  こうして買収された工廠用地の総面積は、約八〇町歩(七九・三ヘクタール)といわれたが、実際は座間地内だけでも概算九〇町歩海老名地区を併せると優に一〇〇町歩を越えていたと思われる。 (3)工廠の施設  工廠では主に飛行機がつくられたが、この広大な用地内に、どのような施設が、どのような形に配置されていたのであろう。  故大矢高義氏がその記憶をたどって書いてくれた見取図を参照に説明する。  まず、南正門を入ると左に工廠の一切を総括する二階建の総務部の庁舎があり、この北側に守衛本部、また道路を隔てた東側には印刷工場、公用車、消防自動車を格納する車庫が並び、東門を入った所に納品検査所が限かれていた。こういった建物は主に海老名側に建てられていた。さらに敷地の西方、現在の渋谷栄氏前のT字路、ここが西の正門で、ここを入った右側の座間地域内に、傷病者の治療に当たった底務部が設閥されていた。  守衛本部の前にあった組みたて工場を周囲の人々は、高い塀越しに棟が六つ並んで見えたので「ろくこうば(六工場)」と呼んだ。  そのうち一番南にあった第一工場は鉄骨で組み立てられ、ほかの工場の二倍の大きさを持ち、屋根の部分だけが二棟になっていた。ここが中央胴体に主翼頭部尾部を取り付け、機全体の組み立てを完成する工場であった。  ほかの四棟はそれぞれ木造の工場で、一棟の大きさは約二七〇〇坪(八九二〇㎡)くらいで、飛行機のエンジンを中心とした頭部の組み立て、尾翼のある後方部分の組み立て、など各部分を専門に組み立てていた。  この工場群は、現在の県営東原団地から、岡本理研ゴム工場にかけて並立していた。またこの東側には、座間地域から海老名地域にかけて、木造平家建の機械倉庫四棟、さらに現在の昭光化学付近には烹炊場が設置され、工員の給食に当たり、敷地の北端、現在の東中学校辺りに工員の養成所があって、主として本島人(台湾人)の少年工の技術の育成に努めた。この養成所で何百名くらいの少年工が学び、どのような教育過程のもとでその育成が行われたか明らかではない。  このほか工廠内の施設として、ガスタンク二碁、地下ポンプ場、敵機の来襲に備え、防空監視所、高射砲二門配備の陣地二ケ所、避難用防空壕、郵便局等々が設賀されていた。なお、見取図には鍛工工場と治具工場も示されているが、これはいずれも建設中のもので、実際には、作業が行われないまま終戦を迎えたという。また、現在の桜並木は当時四〇メートルの幅員をもつ滑走路で、ここを雷電の滑走テストに使用した。  施設は単に敷地内だけでなく、工廠周辺にもおよび、各種の施設が設けられていた。大和町の草柳地区には、男子工員を収容する木造二階建の宿舎―二棟が立ち並び、ほかに大浴場、海軍共済病院、食糧・茶菓・被服等を扱う物質部などがあった。 座間地内には、ひばりが丘三丁目に女子工員の宿舎が建てられた。また下栗原から芹沢谷戸にかけて無数の地下壕が掘られ、地下工作工場三ケ所、地下物資倉庫十数か所、なかには救護用ベッドを準備した壕もあった。さらには、地下変電所・水源井・医薬品倉庫などが設備されていた。  こうした工廠の設備工事は、馬渕組・藤木組・大倉土木・戸田組の四社が担当したというが、どのような設備をどの社が請負って工事したかは、はっきりしない。(46-51頁) (中略) (6)工廠に働く人々  工員の総数は約一万名と言われたが、実際には少し足りなかったという。  その内訳は以下のとおりだった。   工廠長 田中 実少将   総務部 部長 安田忠吉大佐       軍人 三〇名       一般職員 一〇〇名   内地工員 一七八〇名   台湾出身工員 七八〇〇名   学徒動員 四〇名   女子挺身隊 一二〇名  このうち、学徒動員というのは、戦争が深刻化するにつれ、中等学校以上の学生が強制的に軍需工場等で勤労奉仕させられたもので、高座工廠の場合は、厚木高女・藤沢高女の女子生徒二〇名ずつ計四〇名が、昭和十八年三月横須賀鎮守府の命を受け、主として事務系の仕事を分担、奉仕した。  なお、学徒動員については、単に女子学生だけでなく、厚木中学校など近隣の男子学生が動員されていた。 当時、大学の農学部の学生でこの工廠へ動員された新田宿の波多野脩さんは、仕事の様子を次のように話してくれた。 動員された者は、主として工場作業についたが、私は農業作業にまわった。台湾少年工共ども農業作業班を編成し、杉浦酉蔵さん(中栗原・故人)の指揮下に工場内にサツマ芋・大根等の栽培に従事した。  戦時中あらゆる物資の不足している折のこと、購入した化学肥料がどうもおかしい、普通、鍬に錆が出るとか、舐めてみると何か感触があるものだ。ところがそうした反応が全然ない。今、想えば肥料と偽ってガラスの粉を買わされたのかもしれない。こうして作られた野菜類だから、収穫の程は想像できよう。  約一万名に近い工員が、全員この工廠で働いていたのではなく、籍をこの工廠に置いて、半数ほどの工員は、中島飛行機の小泉製作所、三菱名古屋の大江工場、さらには川崎航空機の尼崎工場及び姫路工場などに派遣された。そのほとんどは台湾工員で、内地工員がその責任者となって出張先の工場で働いたという。 (7)雷電の生産  工廠では、部品の製作にも当たったが、各地の工場から部品を取り寄せて、それを組み立てる、いわゆる組み立てを主体にしていた。エンジンは仙台の多賀城から取り寄せ、県内の平塚や小田原にも部品の発注工場があった。高座工廠で組み立てられた海軍機は、子どもたちの歌にまでうたわれた「雷電」である。雷電には一一型・二一型・三三型の三機種があって、ここでは、日本建設の協力によって二一型が生産された。  二一型は一一型に改良を加えたもので、その一号機は昭和十八年十月、三菱航空機が製作したという。 この戦闘機は、局地防衛の任務を帯びていて、上昇力に優れ、強力な二〇ミリ機関砲四門を備え、高々度を飛ぶことができた。「キーン」という雷電特有の飛行音を響かせながらB29爆撃機の迎撃用として大活躍をした。  この工廠で生産された雷電は、開廠から終戦までに数十機といわれ、第一組み立て工場で、すっかり組み立てられ整備された飛行機は、両翼を二つに折りたたみ、滑走して東門を通り原木基地に運ばれた。ここで二〇ミリ機関砲や弾薬などを取り付け、第一線へと配属されていった。  第一線といっても、厚木基地の三〇二航空隊(雷電部隊)に編入され、首都防衛に大活躍したものと想像される。  なお、B29の来襲が激しくなってきたころ、二一型機を改良した性能の高い三三型の生産をするよう軍の命令をうけたともいわれているが、この工場で生産したかどうかはっきりしない。 (8)工廠余話 イ、慰霊塔建立  高座工廠について追跡調査をしていた時、郷里を遠く離れた異郷の地で、はかなく死んでいった台湾工員の霊を弔う慰霊碑が建てられていることを知った。  場所は大和市上草柳の善徳寺境内で、その碑を建てた方は、現在、平塚市富士見町にお住いの早川金次さんである。 早川さんは戦時中、海軍の航空技手として高座工廠に勤務され、若い台湾工員と共ども汗を流して雷電の生産に努められた。戦後、平塚の地に会社をつくられ、現在はその経営に専念されている。  早川さんは、戦時中、苦楽を共にし異郷の地で亡くなった部下の工員のことが忘れられず、昭和三十八年十一月、私財を投じて慰霊碑を建立され、その冥福を祈られた。それから後は、春秋二回の彼岸の日には、はるばる善徳寺に詣で、菩提を弔うことを欠かされないという。  また、早川さんはたびたび台湾に渡り、工員の家庭を慰問されている。なかには、九〇才を越したお婆さんが、いざり寄って皺くちゃのか細い手を差しのべてすがり付くと、なんと言って慰めていいやら途方にくれてしまうという。早川さんはこうした人たちを救えないものかと、厚生省援護局に出頭してその窮状を訴えたが、援護の術は遂に得られなかった。  早川さんは、本年も、また来年も慰霊碑の前にぬかずき、今は亡き工員の冥福を祈られていることであろう。(56-58頁) 座間市 2014『座間市史5 通史編下巻』より 高座海軍工廠は航空機による戦闘が戦局の帰趨を決定するという認識から、海軍航空機生産の一大工場として急きょ建設されることになった。それは厚木航空隊の開隊・飛行場の建設と整備兵の養成機関である相模野航空隊の設置とも関連し、この地域全体が海軍軍都として機能することにもなり、座間地域南部に高座海軍工廠の中心部分が置かれることとなった。この地域は海軍の軍都建設計画の対象地域になり、実際に一部では工事も始められていた。大和村の町制実施からは少し遅れたが、綾瀬村・渋谷村が戦時下に町となった。  高座海軍工廠は、一九四二(昭和十七)年九月七日に横須賀海軍技術廠内に空C廠設立準備事務所が設置されて建設の準備が開始された。その後、一九四三(昭和十八)年五月一日に海軍航空技術廠相模野出張所として設置され、翌一九四四(昭和十九)年四月一日に高座海軍工廠が正式に発足した。設置地域の用地として相模原町(旧座間町内)、海老名・大和・綾瀬村内の広大な土地が買収された。土地買収は一九四二年七月二十五日に実施された。  この工場は当初は大型・中型機の機体生産工場として計画された。計画では工廠で働く人が四万人余になる計画であった。しかし、労働者・技術者・資材不足もあり、実質的には大型機の生産はできずに戦争末期に迎撃用の戦闘機「雷電」を百数十機生産したに過ぎなかった。  最も生産体制が整った一九四五(昭和二十)年になると、ここで働く人びとは一万人を超えることとなった。特徴的なことは、この工場に動員された台湾少年工たちのことである。総数は七七〇〇人余であり、指導的な役割を果たした中学生以外は小学校を卒業したばかりの少年たちであった。彼らは寒さと食糧不足の中で多くの労苦を経なければならなかった。この少年たちは全国の航空機生産工場に派遣されたが、名古屋の三菱重工に派遣された少年たちは空襲で大きな被害を受けた。また、高座海軍工廠敷地内でも空襲によって死者が出た(なお、台湾少年工たちは大半が一九四六〈昭和二十一〉年一月に横須賀港から台湾に帰国した。現在、大和市内善徳寺に日本人工廠技術者によって慰霊碑が建てられており、現在でもかつての台湾少年工たちの訪問が絶えない)。  この少年工の指導と工場生産の中堅幹部となるために、この地域の若い人びとの中には、六か月の訓練を受けた後に工廠に就労した人もいた。工廠に就労した人びとの中には海軍の技師などが近在に下宿する場合もあった。また、学徒動員者として働いた人の中には、県内や富山の高等女学校から動員されてきた女学生や、戦後に水泳で有名になった古橋広之進などがいた。  戦争末期には空襲を恐れて日本全体の工場の地下化が開始されたが、高座海軍工廠も例外ではなく周辺に大規模な地下工場が建設された。この地下壕では実際に生産も行なわれ、冬には空気孔からは白い蒸気が立ちのぼっていたといわれる。この大規模な地下壕は一九六〇年代の半ばまで残っており、県全体では一五六〇箇所、座間町内には二〇箇所も残されていた。なお、現在は多くが埋め戻されている。  この地下壕建設工事には多くの朝鮮人労働者も各地から動員された。座間地域だけではなく厚木飛行場を含めた諸施設の工事に働いた朝鮮人は数千人に達していたと思われる。この人びとは、一部は帰国したが戦後もこの地域で暮らして大和町内に民族学校を設立し、それまで禁止されていた朝鮮語の教育などを行なった。 座間地域は戦時下に村内に陸軍士官学校が建設され、陸軍軍都計画に組み込まれて町となったが、軍都計画下で相模原町に合併されるという事態となった。その後、海軍工廠の建設によって町域は軍事色に染まることとなった。

  • 見学可能出入口(第7主坑道東出入口) 見学可能出入口(第7主坑道東出入口)

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    注意)内部に立ち入ることはできません。出入口から中の様子をご覧ください。  奥の方に、高座海軍工廠で生産されていた局地戦闘機「雷電」の小型模型が見えます。

  • 見学可能出入口(第6主坑道東出入口) 見学可能出入口(第6主坑道東出入口)

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    注意)内部に立ち入ることはできません。出入口から中の様子をご覧ください。  照明により地下壕の規模(奥行)がよく分かります。

  • 台湾少年工記念碑 台湾少年工記念碑

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    (記念碑の内容) (表) 台湾少年工顕彰碑 八千の台湾少年雷電を 造りし歴史永遠に留めん 高座日台交流の会 石川 公弘北に対き年の初めの祈りなり心の祖国に栄えあれかし台湾万葉歌人元少年工 洪 坤山朝夕にひたすら祈るは台湾の平和なること友の身のこと元伊勢原高等勤労挺身隊 佐野 た香二〇一八年一〇月二〇日台湾高座会留日七五周年歓迎大会記念石川創一謹書(裏)台湾少年工顕彰碑の由来 先の大戦中、航空機生産の労働力不足に直面した日本海軍は、その供給源を向学心に燃えていた台湾の若者に求めました。新鋭戦闘機(雷電)を生産しながら勉学に励めば、旧制工業中学の卒業資格を与え、将来は航空機技師への道を開くとの条件に、多くの台湾少年が応募し、選抜試験を突破した八千四百余名が、海を渡って高座海軍工廠のあったこの地(神奈川県高座郡)にやってきました。 戦局はすでに下り坂で、彼らが求めた勉学の機会はほとんど無く、その上新設の高座海軍工廠には十分な設備が無かったため、大半が全国各地の航空機工場へ派遣され、慣れない寒さやひもじさに耐えながら懸命に働き、非常に高い評価を得ました。しかし米軍機の空襲などで六十名に上る尊い犠牲もありました。 一九四五年八月十五日の敗戦により、志半ばで帰国した彼らを待っていたのは、四十年の長きにわたる戒厳令下の厳しい生活でしたが、それにも耐え抜き、戒厳令が解除されると直ちに同窓組織・台湾高座会を発足させ、李雪峰氏を会長にして日本との密度の高い交流を重ねてきました。 二〇一八年は、台湾からの第一陣が日本本土へ上陸した日から数えて七五年になります。私たちはこの機に台湾高座会留日七五周年歓迎大会実行委員会を組織し、台湾高座会の戦時下の貢献と戦後における台湾最大の親日団体としての活動に感謝の意を表するため、台湾少年工顕彰碑建立を計画しました。 なお、台湾高座会の皆さんが今もこの高座の地を「第二の故郷」と呼ぶのは、工廠のあった高座の地の多くの農家のお母さんたちのやさしさに源があるようです。この顕彰碑は当時の農家のお母さんたちへの感謝の碑でもあります。二〇一八年一〇月二〇日(平成三十年十月二十日)台湾高座会留日七五周年歓迎大会 会長 衆議院議員 甘利 明

  • 西老場の地下壕 西老場の地下壕

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    「東老場には互いに壕内で連絡できる八本程の壕が東方に向って掘られ、西老場谷の奥にも二本西に向って掘ってあった。そのうちの一本は曽根英治さんの畑の下を通り、相武台と長後を結ぶバス路線の道路脇に換気孔が造られていた。こうした壕は、物資の格納に使われていたようである。」(『座間の語り伝え=外編1・軍事施設の進出=』58頁より)

  • 東老場の地下壕 東老場の地下壕

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    「東老場には互いに壕内で連絡できる八本程の壕が東方に向って掘られ、西老場谷の奥にも二本西に向って掘ってあった。そのうちの一本は曽根英治さんの畑の下を通り、相武台と長後を結ぶバス路線の道路脇に換気孔が造られていた。こうした壕は、物資の格納に使われていたようである。」(『座間の語り伝え=外編1・軍事施設の進出=』58頁より)

  • 芹沢(中丸)地下壕 芹沢(中丸)地下壕

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    「特殊なものとして、中丸地区に掘られ、地下工場に使用した壕がある。下段略図は、この壕の近くに住んでいられた大矢菊次郎さんが大変苦労されて作ったもので、貴重な資料としていただいた。壕の内部構造が綿密に記され、その全容をうかがうことができる。  この図を見ると、南の端の一本はほかの壕との連絡がない。これは恐らく東老場の谷から西老場の谷への通路として掘られたものだろう。ほかの六本は互いに連絡し合い、横にも数本づつの壕が設けられている。東西に掘られた六本の壕のうち三本は、南端のものと同様二つの谷を突き抜けているのが眼につく。このような形に造られていると、壕の中の空気は外の空気と交流して、特に竪穴の換気孔を設ける必要がなかった。それでここに造られた地下工場には、ほかの壕のような息抜き孔が一ヶ所もなかった。  壕の内部は素掘りで、鍛冶に使う機械を据え付けた所は、下にコンクリートがうってあったという。なお、この地下工場で何を製作していたかわからないが、多い時には二〇〇~三〇〇人くらいの台湾工が作業していたらしい。また、この地下工場の真上の畑で農耕をしていた人は、ガーン・ガーン!と鉄を打ち合うような音がかすかに聞こえたと話している。」(『座間の語り伝え=外編1・軍事施設の進出=』58頁より)

  • 米軍による航空写真 米軍による航空写真

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    『USA-R2390-119』に地下壕の位置を合成 ※下の4点の写真は、タイトルのリンクをクリックすると、最初に国土地理院地図・空中写真閲覧サービスのトップページに飛びます。・同意を求められた場合は「同意する」をクリックしてください。・トップ画面を閉じて、もう一度下のリンクをクリックすると、高解像度表示の航空写真を閲覧できます。 ・Damage assessment photo intelligence reports of Far Eastern targets filed by area and contain all available information on the area: Tokyo Report No. 3-a(20), USSBS Index Section 7(1944年11月24日撮影:国立国会図書館) ・USA-M46-A-5VV-51(1946年2月15日撮影:国土地理院地図・空中写真閲覧サービス) ・USA-R355-94(1947年10月24日撮影:国土地理院地図・空中写真閲覧サービス) ・USA-R2390-119(1949年1月10日撮影:国土地理院地図・空中写真閲覧サービス) ・USA-R569-13(1949年2月21日撮影:国土地理院地図・空中写真閲覧サービス)

  • さまざまな眼差し:高座海軍工廠や芹沢地下壕はどのように語られているか さまざまな眼差し:高座海軍工廠や芹沢地下壕はどのように語られているか

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    Webサイト 「まめこぞうの旅 座間の歴史探検」 ・第14話 高座海軍工廠 前編(20020228更新) ・第15話 高座海軍工廠 中編(20030326更新) ・第16話 高座海軍工廠 後編 地下工廠跡(20030407更新) ・第17話 地下の空洞(20030525更新) ・第27話 雷電が座間に残っていた(20050524更新) 「内地への機銃掃射(ガンカメラ)映像・改」 ・厚木飛行場への攻撃【前段】(20110120更新) ・厚木飛行場への攻撃【後段】(20110207更新) 「近代史跡・戦跡紀行~慰霊巡拝―日本の近代と慰霊の地を巡りしサイト―(戦跡紀行ネット)」 ・高座海軍工廠跡地散策(座間)(20190310更新) ・高座海軍工廠の地下壕と台湾少年工顕彰碑(芹沢公園・座間)(20211226更新) 「知の冒険 世の中は思った以上に面白い!」 ・なぜここに?神奈川県大和市にある台湾亭に秘められた歴史とは!?(20200404更新) 「中華特急のスローライフ」 ・芹沢の地下壕(20210306更新) 「帝都を歩く」 ・台湾少年が造った雷電「高座海軍工廠中丸地下工場跡」(20220206更新) 「ようこそ!山へ!」 ・戦時の記憶・遺産 芹沢の地下壕(芹沢公園)(20200201更新) 「座間市立東地区文化センター あすなろ大学」 ・学習日誌(20220214更新) 「料識亭(ころんぶすのたまご)」 ・相武台公民館にて「台湾少年工と高座工廠」 「セローの歩き方」 ・神奈川 座間市 芹沢地下壕の雷電(20200220更新) 「アナクロおやじでぃッ」 ・地下壕(20220318更新) 「あの町この街あるこうよ」 ・座間市芹沢公園の地下壕(20190126更新) 「暮らしのノートITO」 ・地下工場跡・芹沢公園(座間市)/戦争遺跡探訪=盛丘由樹年(20190609更新) 「みなせ文芸の会」 ・雑事記(30) 戦争遺跡探訪(7)江の島にて(盛丘由樹年『みなせ』82号 28-45頁) 「くまこのガウガウ日記」 ・芹沢公園の地下壕にある戦闘機(20181110更新) 「We Love Zamaさんのアルバム」 ・【芹沢地下壕に置かれた雷電】(20181022更新 Facebook) 「World Orgs」 ・高座海軍工廠 中丸地下工場跡 書籍・雑誌 浜田弘明 2017『相鉄沿線の不思議と謎』実業之日本社(電子書籍もあります) 鼠入昌史 2021『相鉄線はなぜかっこよくなったのか』交通新聞社(電子書籍もあります) YouTube 神奈川県座間市芹沢公園の戦争遺跡『高座海軍工廠』の地下壕に眠る雷電(旅ストリー 20220526更新) 昼間心霊スポットに行ってみた(芹沢公園)(deathtopia1000 20220310更新) 芹沢公園(心霊アイドルりゅうあ 20211121更新) 芹沢公園探訪(日本戦跡協会 20210715更新) 戦争遺跡 高座海軍工廠(趣味チャン 20210625更新) おじ散歩No.14「座間市芹沢公園、地下壕跡へ!」(ニャンコ軍曹 20210419更新) 座間地下壕跡に「雷電」... 旧日本帝国海軍(部活M 20210126更新) 芹沢公園に雷電を作っていた地下壕を見に行ってみました(趣味迷走中 20201002更新) 戦争遺跡 雷電 芹沢公園の地下壕に隠された戦闘機を撮る! 高座海軍工廠(絶景屋 20200121更新) 芹沢の地下壕 奥にはゼロ戦??(brianman1955 20190511更新)

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    ・綾瀬市 2003『綾瀬市史7通史編近現代』 ・石川公弘 2013『二つの祖国を生きた 台湾少年工』並木書房 ・郭 亮吟 2008『緑の海平線~台湾少年工の物語~』(映画) ・座間市 2014『座間市史5 通史編下巻』 ・座間市教育委員会生涯学習推進課市史編さん室 1983『座間の語り伝え=外編1・軍事施設の進出=』 ・張良澤・張瑞雄・陳碧奎編 1997『高座海軍工廠 臺灣少年工寫眞帖』台湾文史叢書61 前衛出版社・東 俊賢 2021『台湾少年工が語る台湾史』個人出版 ・野口 毅 1999『台湾少年工と第二の故郷 高座海軍工廠に結ばれた絆は今も』展開社 ・藤田賀久 2017「高座海軍工廠と台湾少年工―日台関係史の一断面」『多摩大学グローバルスタディーズ学部紀要』第9巻 13-30頁 ・彭 炳耀 2003『造飛機の日子―台湾少年工回顧録』新竹市政府 ・保坂治男 1993『台湾少年工 望郷のハンマー』ゆい書房 ・大和市 2002『大和市史3 通史編 近現代』 ・大和市役所管理部庶務課 1995『高座海軍工廠関係資料集―台湾少年工関係を中心に―』大和市史史料叢書5 ・劉 嘉雨 2018『僕たちが零戦をつくった 台湾少年工の手記』潮書房光人新社 ・林 景淵 2021『高座海軍工廠 八千四百名台灣少年赴日造飛機的歷史』南天 ※Web ・國家文化記憶庫「高座海軍工廠」臺湾文化部 ・陳 柏棕「臺灣囡仔造飛機:臺灣少年工」台湾歴史事件21 國立臺湾図書館 ・台湾高座会留日70周年歓迎大会 ・大和市「高座海軍工廠と台湾少年工(1)」(20220201更新) ・大和市「高座海軍工廠と台湾少年工(2)」(20220201更新) ・大和市「台湾亭」(20220201更新)

  • 高座海軍工廠関係資料 高座海軍工廠関係資料

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    ・綾瀬市 2003『綾瀬市史7通史編近現代』 ・安藤広道 2020「戦争遺跡研究の進め方―高座海軍工廠芹沢地下壕から考える」『慶應義塾大学日吉キャンパス一帯の戦争遺跡の研究Ⅱ』慶應義塾大学民族学考古学研究室 35-45頁(座間市教育委員会 2021『座間むかしむかし』第43集に再録) ・櫻井眞一郎 2006『スカイラインとともに』わが人生2 神奈川新聞社(電子書籍もあります) ・座間市 2014『座間市史5 通史編下巻』 ・座間市教育委員会生涯学習推進課市史編さん室 1983『座間の語り伝え=外編1・軍事施設の進出=』 ・大和市 2002『大和市史3 通史編 近現代』 ※Web ・横須賀海軍建設部『髙座工廠次期戰備施設計画位置図』 (防衛研究所デジタル史料展示 戦史史料・戦史叢書検索にて「厚木航空基地 高座海軍工廠地図」として閲覧可能) ・2復艦本整理部 1945『高座海軍工廠 疎開施設全般図』 (防衛研究所デジタル史料展示 戦史史料・戦史叢書検索にて「高座海軍工廠 疎開施設全般図」として閲覧可能) ・『位置図』 (防衛研究所デジタル史料展示 戦史史料・戦史叢書検索にて「高座海軍工廠 位置図 1/25000」として閲覧可能) ・海軍省 1945『高座・相模海軍工廠 引渡目録』 ・Damage assessment photo intelligence reports of Far Eastern targets filed by area and contain all available information on the area: Tokyo Report No. 3-a(20), USSBS Index Section 7

  • 東京軽石層 東京軽石層

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     芹沢地下壕は、東京軽石層と呼ばれる地層がたいへん良好な条件で観察できる場所としても知られています。  東京軽石層は、約66000年前の箱根山の大噴火によって堆積した軽石層で、箱根東京テフラ(Hk-TP)と命名されています。関東ローム層を構成する武蔵野ローム層の下部に広く見られ、古くから地層の年代を特定する重要な地層とされてきました。  地層は、露頭をはじめ工事や発掘で掘削した場所などで、二次元的な断面として観察するのが一般的です。これに対し芹沢地下壕では、縦横に走る坑道の全ての壁で東京軽石層の観察できるので、この地層の堆積の様子を立体的に捉えることができるのです。(安藤広道) 【資料】 高木 孝・瀬尾為明・村井公一・古川 修・笠間友博 2013「綾瀬市深谷南および座間市栗原の地下壕で観察された箱根東京テフラ」『神奈川自然誌資料』第34号 神奈川県立生命の星・地球博物館 1-10頁 笠間友博 2009「箱根火山6万6千年前の大噴火と謎」『自然科学のとびら』第15巻4号 神奈川県立生命の星・地球博物館 26・27頁

  • 芹沢(中丸)地下壕 芹沢(中丸)地下壕

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    整備された地下壕の出入口   第三工場区の中央に位置する最も大きな地下壕で、東西に伸びる8本の主坑道とそれらを斜めにつなぐ多数の坑道で構成されています。幅・高さともに3mほどの断面かまぼこ型の坑道からなり、総延長は約1.5kmに達します。全て素掘りのままで、コンクリートや木材によって補強された箇所はありません。一帯は谷戸が台地下の岩盤層に達していないため、やや軟質な関東ローム層(武蔵野ローム層)中に構築されているのも特徴のひとつです。坑道内には発破等を使用した痕跡は認められず、全て手作業で掘削したと考えられます。壁から天井には掘削時のつるはしの跡が全面に残っています。  この地下壕は部品工場だったとされていますが、なかで行われていた作業の詳細は、まだ明らかになっていません。ただ、地下壕内には、各種ケーブルを設置するための木煉瓦や、機械を設置していたコンクリートの基礎など、使用時の痕跡が随所に残っています。それらの分布をみると、機械の基礎は地下壕北部のみで確認され、木煉瓦列は中央部に集中しています。一方、南部には木煉瓦がほとんど見られません。こうしたことから、地下壕内がいくつかの機能空間に分かれていたことが推測できます。 木煉瓦と碍子  木煉瓦の分布模式図  部品製作用機械の基礎  機械基礎の分布模式図   戦後、この地下壕は、一時期マッシュルーム栽培に使用されていました。地下壕全体に残る壁に刺さる横杭は、マッシュルーム栽培用の棚の痕跡と考えられます。  なお、この地下壕は、武蔵野ローム層の下部に存在する東京軽石層(TP)がよく観察できる場所としても知られています。東京軽石層は、約66000年前の箱根山の大噴火の堆積物です。(安藤広道) 参考文献:『綾瀬市史7 通史編 近現代』『座間市史5 通史編下巻』『座間の語り伝え=外編1・軍事施設の進出=』 ※参考文献からの抜粋(クリックしてください) 『座間の語り伝え=外編1・軍事施設の進出=』より (4)工廠の地下壕  工廠の地下壕は、施設のところで触れたが特殊な施設なので、ここでは改めてその構造について述べてみたい。  ご承知のように地下壕は、敵機の襲撃を避け、工員の身を守り、操業の安全を計るためのもので、ここでは横穴式に作られている。  谷あいの崖・傾斜地を横に奥深く掘ったもので、中には数百メートルにおよぶものがあって、どの地下壕にもたいてい息抜き孔が付いていて、換気に配慮がなされていた。  特殊なものとして、中丸地区に掘られ、地下工場に使用した壕がある。下段略図は、この壕の近くに住んでいられた大矢菊次郎さんが大変苦労されて作ったもので、貴重な資料としていただいた。壕の内部構造が綿密に記され、その全容をうかがうことができる。  この図を見ると、南の端の一本はほかの壕との連絡がない。これは恐らく東老場の谷から西老場の谷への通路として掘られたものだろう。ほかの六本は互いに連絡し合い、横にも数本づつの壕が設けられている。東西に掘られた六本の壕のうち三本は、南端のものと同様二つの谷を突き抜けているのが眼につく。このような形に造られていると、壕の中の空気は外の空気と交流して、特に竪穴の換気孔を設ける必要がなかった。それでここに造られた地下工場には、ほかの壕のような息抜き孔が一ヶ所もなかった。  壕の内部は素掘りで、鍛冶に使う機械を据え付けた所は、下にコンクリートがうってあったという。なお、この地下工場で何を製作していたかわからないが、多い時には二〇〇~三〇〇人くらいの台湾工が作業していたらしい。また、この地下工場の真上の畑で農耕をしていた人は、ガーン・ガーン!と鉄を打ち合うような音がかすかに聞こえたと話している。  このほか、東老場には互いに壕内で連絡できる八本程の壕が東方に向って掘られ、西老場谷の奥にも二本西に向って掘ってあった。そのうちの一本は曽根英治さんの畑の下を通り、相武台と長後を結ぶバス路線の道路脇に換気孔が造られていた。こうした壕は、物資の格納に使われていたようである。 (5)秘密裏に行われた設備工事  市の文化財保護委員で、この調査団のメンバーの一人でもある飯島忠雄さんの話を紹介する。飯島さんは、昭和十四、五年ごろから軍の徴用工として、陸軍士官学校をはじめ、各所にあった軍関係の水道工事に携わっていた。  昭和十九年の三月ごろ、陸軍士官学校で徴用エとして水道工事をしていた私は、司令部から突然呼び出しを受け、高座海軍工廠内で秘密の工事をするように命令され、その場で水道工具一切を軍のトラックに積み込んで現場へ向った。工廠入口に着くと私は剣道の防具面で目かくしをされ、どこをどう通ったか降ろされた所は地下壕の中だった。  ここで一枚の図面を渡された。見ると壕内に据えつけられた四台の機械に、給排水の設備をする作業であった。壕に降りた時から海軍の下士官が付き添い、作業中はもちろん、用便にもついてきた。便所は大変簡単なもので、コモ(ワラで荒く織ったムシロ)を覆った仮のものだった。午前と午後に一回ずつの休憩が与えられた。寝る時は寝台で、風呂にも入ることができず顔も洗えなかった。兵隊が交替で、昼となく夜となく、いつも監視の目を光らせていた。  四日ほど壕の中で作業を続けて、ようやく四台の機械に冷却する装置を取り付けることができた。今、考えてみると、そこはおそらく下栗原の地下壕であったようだ。  後に、陸軍士官学校から、この時の工事の手当として四〇円支給された。これは当時の一ヶ月の給料を上回る金額で、その折作業については絶対秘密を守るよう確約させられた。(51-54頁) (中略) ロ、茸の栽培  終戦後一〇余年、中丸地区に掘られた地下壕を利用した人に軽部さんがいる。  この方は、昭和三十三年ごろから西洋松茸(マッシュルーム)の栽培をこの壕で始めた。事業は順調に進み、生産量も年を追って増加して三年後には、一日百貫(三七五kg)くらい出荷できるようになった。販売先はアメリカで、日本の商社(三井商事)の手を通じて行われた。  西洋松茸の栽培に自信をもった軽部さんは、壕内を棚式に改造して、大量に生産しようと計画した。そして壕内に竹を使って何段かの棚を作り、多収穫を夢にえがいて乗り出した。ところが生産がピタリと止まってしまった。  驚いた軽部さんは、どうしてこのような結果になったのか、いくら考えてもわからない。そこで、この道の専門家の大谷希六博士に原因の究明をお願いした。博士が詳しく調べたところ、棚に使った竹の雑菌が付いていて、その菌が繁殖して茸の菌を食べ、全滅したことがわかった。この雑菌は壕の壁などにも付き、茸の栽培は無理だろうとのことであった。軽部さんは、止むなくこの壕での茸の栽培を断念し、昭和三十六年、ここを引き揚げていかれたという。(58・59頁) ※芹沢地下壕の存在意義についての私見 「芹沢地下壕を保存する意味はどこにあるのか」 「芹沢地下壕にはどんな価値があるのか」  こうした質問をよく受けます。私自身は、芹沢地下壕に関心をもつあるいは関係をもつ人たちが、それぞれの立場から考え、対話し、答えを出していくことが重要だと思っており、そのためにこのアーカイブMapを作っています。ただ、結構頻繁に聞かれるので、ここで私の意見をごく簡単に記しておきたいと思います。  私は、芹沢地下壕をはじめとする日本各地に残る大規模地下壕は、戦争が泥沼にはまっていくさまを実感する場として大きな意味を持っていると考えています。  日本列島の大規模地下壕は、そのほとんどが大戦末期に構築されたものです。すでに敗戦が必至となるなか、一撃講和という負のスパイラルに陥り戦争を継続したことで、日本列島のみならずアジア・太平洋各地において、市民を含むとてつもない数の犠牲者を出し続けていた時期にあたります。吉田裕さんによると、アジア太平洋戦争の大日本帝国国民の死者310万人のうち、約91%が1944年以降の死者だったといいます(『日本軍兵士』)。佐藤宏一さんは、約半数の150万人以上が1945年に亡くなったと推定しています(『戦死者日暦』)。さらに中国やフィリピンをはじめとするアジア・太平洋各地の市民の犠牲者はこれらの数字を大きく上回っていました。  「戦争は、起こすのは簡単だがやめるのは極めて難しい」(『ギリシア・ローマ名言集』)といいます。日々膨大な数の犠牲者が出ていることを知りつつも、大日本帝国は、戦闘機生産の場所を粗雑で劣悪な環境の地下壕に移してまで戦争を継続しました。  芹沢地下壕は、そうした戦争が泥沼化していった状況を物語る物的証拠です。芹沢地下壕に触れ、なぜ戦争をやめられなかったのか、あるいは始めてしまった戦争がどのような悲惨な状況をもたらすのかに思いを巡らすことは、現代を生きる我々にとって、とても大きな意味をもつのではないかと考えています。(安藤広道)

  • アーカイブMapについて アーカイブMapについて

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    【概 要】 ・「アーカイブMap」は、地図上に情報をアーカイブし、情報を場所と結びつけることで、「情報の経験」を拡張しようとする試みです。 ・このMapでは、高座海軍工廠第三工場区に関するできるだけ多くの情報を集め、それらをそれぞれと関わる場所に結びつけて紹介することを目指しています。 ・広く情報を収集し紹介することにしていますが、違法性が疑われる内容、違法な行為や危険な行為につながるおそれのある内容、人を傷つけるおそれのある内容などを含むと私が判断したWebサイトやメディアについては、紹介を見合わせることにしています。 【使用方法】 ・地図上のアイコンをクリックすると、写真や動画、解説のウインドウがポップアップします。 ・アバターはGPSと連動していますので、使用者が地図の範囲に入ると現在位置が分かります。地図の範囲外にいる時にはGPSは連動しません。 ・地図下辺中央の地球マークをクリックすると、地図がオープンストリートマップに切り替わります。 ・さらに画面右下に表示されるレイヤーマークをクリックすると衛星画像も選択できます。必要に応じて切り替えてください。 【著作権等】 ・ここに掲載している文章の著作権については、それぞれの文末に記してあります。書籍や資料等からの引用については、引用元を明記しました。また引用元がWeb上で公開されている場合は、引用元のリンクを貼りました。 ・ここで使用している写真や図(リンク先を除く)の二次利用、あるいは元データの利用を希望する場合は、それぞれに記した機関や個人に問い合わせをお願いします。機関名、個人名の記載のない写真や図については自由にお使いいただいて結構です。 ・文章については、表記や内容の調整・統一等を行っていません。また、執筆者の意見を重視しているため、ひとつの場所であっても異なる説明が載っている場合があります。 ・地図は「座間都市計画基本図」(座間市教育委員会提供)を元に作成しました。 【お問い合わせや情報提供】 ・このマップに関するお問い合わせ・ご意見、またマップに掲載できそうな情報のご提供は、 こちら からお願いします。 ・フォームは、お名前とメールアドレスの記入を必須としておりますので、ご了承ください。 ・私の判断でお答え・お応えできない内容としたものについては、回答、連絡、Mapへの掲載を控えさせていただくことがございます。また、諸般の事情により回答や情報の掲載までに時間がかかることもあります。併せてご了承ください。 【その他】 ・Map作成にあたり、座間市教育委員会から多くのご協力を賜りました。記して感謝申し上げます。 ・このMapは、諸事情により予告なく公開を停止することがあります。 ・このMapの管理者・責任者は、慶應義塾大学文学部 安藤広道です。 ・近現代史や戦争遺跡に対する私の向き合い方については、以下の文献をご参照ください。 ・安藤広道 2014「日吉キャンパス一帯の戦争遺跡研究の序-近現代史研究と戦争遺跡研究をめぐる備忘録-」『慶應義塾大学日吉キャンパス一帯の戦争遺跡の研究』慶應義塾大学民族学考古学研究室 1-6頁 ・安藤広道 2020「近現代考古学の可能性」『経済史研究』第23巻 大阪経済大学日本経済史研究所 33-56頁 ・安藤広道 2020「日吉キャンパス一帯の戦争遺跡研究の「破」―「現われ」と「真摯さ」の公共考古学に向けて―」『慶應義塾大学日吉キャンパス一帯の戦争遺跡の研究Ⅱ』慶應義塾大学民族学考古学研究室 1-12頁