但馬城﨑湯嶋温泉之圖
この古地図は、明治16年8月に出版された絵地図です。編集兼出版人は京都市上京区橘町の山田謙之助、販売所は城崎町湯島西本町(現宮本町)の文昌堂と記されていますが、2軒とも現存していません。
絵地図の下に「湯嶋の湯は、舒明天皇の元年(629)に湧き出で、有名な医師である後藤艮山や香川太冲(修徳)に効能のある良湯とされているが、明治6年(1873)の春にフランス人技師(生野鉱山技師のコワニエか?)によって、科学分析されて泉質が明らかになった。また、大坂司薬場(国立医薬品食品衛生研究所の前身)の教師べ・ウドルワル氏の分析によってもそれが裏付けられた。以前は粗末な湯槽しかなかったが、明治15年(1882)の春に大改造して美しく、清潔になった。これによって城崎温泉は名実ともに天下最大一の効能がある温泉となった。」と書かれています。
この絵地図のほかにも、古くから城崎温泉は湯治場「但馬ゆしまのゆ」として知られており、たくさんの絵図や書物が残されています。この『但馬城﨑湯嶋温泉之圖』は、江戸時代から変わらない町並みをよく伝えており、当時の活気あふれる湯治場のようすがうかがえます。現在の城崎の景観の原点が、ここにあるのです。
update date: 2024.06.17
このマップ(地図)を見るNumber of spots : 20spots
-
四所神社
708年(和銅元)、当城崎郷の住人、日生下権守(ひうけごんのかみ)が神託を受けて四所明神を奉納したのが始まりとされています。四所神社は温泉祖神として、また湯嶋村の産土神として地域住民から信仰されています。祭神は、温泉守護神の湯山主神(ゆやまぬしのかみ)と、水の守護神の多紀津媛(たきつひめ)、多紀理媛(たきりひめ)、市杵島媛(いちきしまひめ)の四柱です。 10月15日の秋季例大祭は「城崎だんじり祭」として、14日の宵宮とともに温泉街が大いに賑わいます。今の本殿と拝殿は1927年(昭和2)に再建されたものです。(社殿は兵庫県登録文化財)
-
越中(えっちゅう)二郎塚
大谿(おおたに)川の河口近く、松ヶ﨑の舟着き場に「越中二郎塚」と描かれた小さな石塔が建っていいます。越中次郎(二郎)兵衛盛嗣(もりつぐ)(平盛嗣)は、平家屈指の勇将で知られる侍大将でしたが、壇ノ浦の戦い(1185年)で敗れ、但馬に落ち延びてきました。城崎郡気比庄(現豊岡市気比)に隠れ住んでいたと言われています。やがて源氏方に捕らえられ鎌倉に送られた盛嗣は、1194年(建久5年)、由比ヶ浜で斬首されてしまいました。 石塔は現在、弁天山山頂に移されており、1368年(応安元)作銘の古い宝篋印塔(ほうきょういんとう)として豊岡市指定文化財になっています。なお但馬各地には、平家の落人村とされる集落が各地に残り、彼にまつわる供養塔などもいくつか建っています。
-
地蔵湯
江戸時代後期に下ノ町の入口に開設され、おもに湯嶋村民が多数入浴していました。絵地図に描かれているように当初は川を挟んだ南側にあり、川の中から地蔵尊が出たと伝えられています。地蔵尊は建物のかたわらに祀られ、この湯の名前になったといいます。明治時代の複数の書物に、大谿川の中から湯が沸々と湧き出しており、ここに樋を設けて貯めて使う珍しい湯だったと記されています。 1899年(明治32)に、大谿川の北側にある湯島校兼議事堂の東隣である現在地に移されました。地蔵尊は現在も建物入り口近くに祀られ、地元の方々に大切にされています。 写真:明快なる建築美の地蔵湯(昭和初期)
-
王橋(おうはし)
大谿川にかかる湯嶋村で一番大きな木橋です。橋は太鼓橋状で幅も広く、格子状の欄干も描かれています。大谿川は汐入川(しおいりがわ)で低湿地を流れているので、絵図にある松ヶ崎の舟着場で小さな舟に乗り換えると王橋のたもとまで入ることができました。王橋の両脇には4基のガス燈が、道沿いにも規則的に並んでいます。王橋北詰には一ノ湯に入湯する順番を待つための湯名控所や汲湯場、水場などが設られています。王橋から四所神社までの間は中ノ町と呼ばれ、湯嶋村で一番賑わった場所でした。 現在の王橋は1927年(昭和2)に鉄筋コンクリートと御影石で造られ、同年11月に渡り初め式も執り行われました。王橋は愛宕橋、柳湯橋、桃島橋、弁天橋の太鼓橋4基とともに、2015年(平成27)に国登録有形文化財になりました。
-
詠帰(えいき)亭
「水明樓」や「玄武洞」などを命名した柴(野)栗山は、油筒屋(ゆとうや)敷地内にあった蜂須賀家の建物にも「詠帰亭」と命名しました。彼が1807年(文化4)6月に訪れた際に書いた直筆が額装して残されています。栗山は1736年(元文元)、三木郡牟礼村(現高松市牟礼町)生まれの人で、32歳で阿波藩蜂須賀公に使え、その後請われて江戸幕府の儒官となりました。 現在の詠帰亭は、1925年(大正14)の北但大震災(北但馬地震)後に再建されたものです。(詠帰亭などは国登録文化財) 建物は現在、非公開です。
-
一ノ湯
湯嶋村の中心に構える浴場で、当時は、一の湯・二の湯、カギ湯・新湯(しんゆ)・三の湯・瘡湯(かせゆ)、常(じょう)の湯の7つの浴槽がありました。 一の湯・二の湯は泉源が同じで、江戸時代中期の医師、後藤艮山と『一本堂薬選』を著した弟子、香川太冲(修徳)が日本一の良湯で効験があると称賛したため、それ以降、浴客が一番多い外湯でした。当時はまだ混浴で、女性は湯巻をして入ったそうです。新湯・三の湯・瘡湯はやや温度が低く硫黄臭があって少し白濁、常の湯は温度が高くて一の湯・二の湯と同様、無色透明で清潔だったとされています。 レントゲン学の第一人者で、温泉学にも業績のあった医学博士藤浪剛一が1942年(昭和17)に来湯し、「海内(かいだい=日本国内のこと)第一」とした香川修徳を称えて書かれた「海内第一泉」を刻んだ石碑が、一の湯の東庭に立っています。 写真:広壮を極むる一の湯(昭和3年竣工、昭和6年撮影)
-
木造三階建て旅館が建ち並ぶ
絵にも描かれているように、この頃すでに三階建の旅館が建ち並んでいました。しかも小如の屋根は草葺きか板葺きが主流だったにもかかわらず、ほとんどの建物の屋根は瓦葺きになっています。 細部をよく見ると、1871年(明治4)に初輸入されたガス燈も大谿川両岸に並んでいます。また通りには大八車や、明治初年に発明されたばかりの人力車も描かれています。二つの人力車夫組合があって、それぞれの組の印半纏に紺の股引をはき、ばっちょう笠を被ってカラカラと威勢のいい音を立てて旅館の玄関に駆け込んだものだと語られています。 1881年(明治14)、明治政府の要人だった井上馨や山縣有朋などが来湯するなど、城崎温泉は全国にその名を知られるようになっていました。 写真:三階建旅館が建ち並ぶ下ノ町あたり(明治後期)
-
温泉寺
道智上人開山の温泉守護の寺。大師山中腹にある本堂の建立は1834年(至徳元)で、温泉寺本堂として国の重要文化財に指定されています。秘仏である本尊は、木造十一面観音立像で、三十三年に一度、三年間のご開帳があります。次のご開帳は2051年まで待たなければなりません。十一面観音立像を造られた仏師にまつわる言い伝えは、温泉寺を訪ねて教えていただくのが一番です。 明治時代終わり頃までは、湯治に訪れた者はまず温泉寺に参詣して寺から湯酌を受け、入浴中大切に使用していたといいます。温泉寺は1925年の大地震で受けた被害があまり大きくなかったため、建物をはじめ仏像や絵図、古文書など多数の宝物が今も大切に保存されています。(薬師堂は国登録文化財) 写真:温泉寺本堂(昭和初期)
-
鴻(こう)ノ湯
舒明(じょめい)天皇の時代(在位629~41)、村はずれの大きな松の木の下で、1羽のこうのとりが水たまりで傷をいやしていたが、何日かたって飛び立ったのを村人が見つけ、水たまりに近寄ってみるとこんこんと湯が沸いていた。という温泉発見の鴻の湯伝説が生まれたところです。 絵には湯嶋村の村はずれに描かれており、城崎温泉で一番古い外湯とされています。ところが、江戸時代まではこうのとりの伝説の名所としては知られてはいましたが、入湯する人はほとんどいなかったようです。外湯として整備されたのは明治時代に入ってからです。 写真:鴻の湯(明治中期)
-
裏ノ湯
下ノ町の裏通りの山裾に立地していましたが、とても効能がある湯で、痔病や腫れ物、外傷によく効き、歩行困難な人が毎年数人も立って歩けるようになったと言われています。 中国杭州にある景勝地、西湖(せいこ)から移したという古い大きな柳の木の下にあったことに由来して、「柳湯」と名付けられるようになりました。1954年(昭和29)に大谿川沿いの現在の場所に移転されて現在に至っています。 写真:柳湯(明治末期)
-
蓮成寺(れんじょうじ)
浄土真宗本願寺派の寺で、寛文年間(1661~1672)、豊岡市中陰にある信楽寺(しんぎょうじ)宗徹上人が、隠居して中ノ町の旧本住寺の東隣に庵を結んだのが始まりとされています。1677年(延宝5)に伽藍を創建し、1797年(寛政9)頃に現在地に移ったようです。絵地図には草屋根の寺として描かれています。 現在の本堂は1925年の震災で全焼し、1936年(昭和11)に再建されました。(本堂は国登録文化財)
-
湯嶋舟
平安時代から江戸時代後期まで「但馬ゆしまのゆ」を訪れるのは、京都から福知山ー宮津ー久美浜を通り、対岸の楽々浦(ささうら)から円山川を舟で渡るルートが主流でした。1733年(享保18)に木版印刷で出版された『但馬湯嶋道之記』によると、この頃すでに豊岡ー湯嶋間の船便があったとされています。 江戸時代後期になると湯治客の多くは出石、豊岡、納屋(なや)(豊岡市納屋)、寄宮(よのみや)(養父市八鹿町寄宮)にあった舟着場から湯嶋舟を利用して来湯しています。湯嶋舟は数人から十数人乗りの貨客兼用の乗合舟で、城崎に鉄道が開通する1909年(明治42)以降も、しばらくは利用されていたようです。
-
豊岡街道/城崎川
今は一級河川として知られる円山川ですが、以前は大川や蓼川、豊岡川などと、また下流部を地名から「城崎川」とも呼んでいました。その陸路である豊岡街道は円山川左岸川端の狭い道しかなく、陸路を行く人はまれでした。特に、今の玄武洞駅あたりから奈佐小橋、森津、一日市北側に通じる道は「灘の悪路」「森津の手石渡し」などと呼ばれる粘土層の段丘が続く、狭くて曲がりくねった難路でした。荷物を積んだ馬も通いにくく、利用する旅人は少なかったようです。 1881年(明治14)になってやっと豊岡ー津居山間の県道改修が行われ、人々の往来が増加していきました。
-
今津 水明樓(すいめいろう)
絵地図の下方、城崎川(円山川)の河畔に大きな松と、二階建ての建物と蔵が大きく描かれています。この建物は元は臨川亭という料理茶屋でした。1807年(文化4)、ここを訪れた柴(野)栗山が、2階から見下ろす円山川の水面に映える月と、周囲の山々の美しさを称賛して「半夜水明樓」と名付けました。栗山(りつざん)は江戸時代後期の朱子学者で、寛政の三博士の一人と言われていた著名な学者です。「玄武洞」「二見無限水」も彼が命名しました。栗山が来湯して以来、名所となり、湯治に訪れる文人墨客は競ってここを訪れたそうです。ところが、明治時代中期には荒れてしまい、明治時代後期の鉄道敷設工事で取り払われてしまいました。庭先に小さく描かれている2基の石碑は、現在、東山公園の入り口近くに移設されています。 写真:圓山川に臨みて明媚なる水明樓跡の風光(大正年間)
-
マンダラ湯
温泉寺縁起帳』によると、717年(養老元)、諸国を巡っていた道智上人がたまたまこの地を訪れ、氏神四所神社に詣ったところ、四所明神からある神託を受けました。その神託を受けて北西にある三椙樹(3本の杉)の下で一千日の修行を行い、720年(養老4)の結願(けちがん)の日に、その場所から温泉が湧いたと記されています。これが曼陀羅湯で、城崎温泉の始まりとされています。 絵地図には湯名控所や汲湯場、水場が描かれ、二階建のマンダラ湯には一番・二番の二槽があって、一日交代で幕湯(混浴を避けるために入口に幕を張って遮ったもので、時間を決めて入ることができた)としていました。 写真:善美を盡(つく)せる曼陀羅湯(昭和3年竣工)
-
極楽寺
室町時代初め、応永年間(1394~1428)に創建された臨済宗大徳寺派の禅寺で、万年山極楽寺といいます。一時荒廃していましたが、1628年(寛永5)、出石生まれで当時、宗鏡寺内に住まわれていた沢庵禅師によって再興されました。沢庵禅師は江戸や京都を往復しながら、帰但のたびに湯嶋の湯を訪れ、極楽寺を宿としたと考えられています。 「来る春を 深雪の底に ひきよせて 冬ひとしおの 出湯なりけり」(沢庵作) 左隅にある「獨鈷水」(どっこすい)は、寺の裏にあって道智上人加持の水とされ、無病長寿の水で、いまも茶の湯に用いられています。この絵地図には本堂が描かれていますが、実際には1871年(明治4)に焼失しており、再建されたのは1918年(大正7)でした。被災を免れた山門の高欄には、火災の焦げが今も残されています。(本堂は国登録文化財)
-
湯島校兼議事堂
現在の地蔵湯の場所に念願の湯島小学校の校舎が建ったのは、1884年(明治17)2月のことでした。絵にあるように、中央に望楼がある西洋風の近代的な二階建校舎でした。校内には湯嶋村役場の議事堂も置かれました。この絵地図の発行は1883年(明治16)6月で、新校舎の着工は同年9月。校舎はまだ完成していないはずですが、描かれています。しかもその図形は完成後の校舎とよく似ています。 完成してからも、生徒数が増加するたびに増改築されていったこの校舎も手狭になり、1911年(明治44)、弁天山山麓(現城崎モータープール)に新築移転することになりました。
-
本住寺
天文年間(1532~1555)日寿上人によって開祖された法華宗本隆寺派の寺。1653年(承応2)、豊岡城主杉原氏にの寄進を受けて中ノ町に伽藍を創建しましたが、1797年(寛政9)、温泉津を祀る四所神社の鬼門にあたる日和山山麓(東山公園下)に移されました。 1925年の震災によって本堂や庫裡など全て焼失してしまったため、庫裡は震災の翌年、本堂は1931年(昭和6)に再建されました。(本堂は国登録文化財)
-
モモシマ(桃嶋)村
湯嶋村の北側の谷部には大きな入江(桃嶋浦)があり、この村では古くから漁業で生計を立てていました。また「桃源水」(とうげんすい)という良水が湧出していたため、水質が悪かった湯嶋の村民は、モモシマ坂を越えて足繁くこの水を汲みに通ったと言いいます。 村は江戸時代前期から新田開発によって農地が広げられ、1874年(明治7)には戸数51軒、人口260人の村になりました。
-
御所湯
現在は、四所神社の西隣に移転していますが、元は、現西村屋さんぽうの場所にありました。南北朝時代に記された歴史物語『増鏡』に、1267年(文永4)、後堀河天皇の姉である安嘉門院(1209~83)が入湯されたという記述があります。御所湯という名はこの由来を元に付けられたとされています。 江戸時代まで西隣に陣屋があり、代官しか入れない2槽の陣屋湯(殿の湯ともいう)がありましたが、明治時代の初めに合併されて、一番、二番、三番と3つの湯槽になりました。 写真:優雅なる御所の湯(昭和6年竣工)