はこだてピースマップ デジタル【函館YWCA×北教大函館 奥平ゼミ】

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はこだてピースマップは、函館の街にひそむ戦争の記憶を地図と冊子にまとめ、
2017年に函館YWCAが刊行しました。
この度、その内容の一部を北海道教育大学函館校・奥平ゼミとのコラボでデジタル化しました。
オリジナル動画も作成し添付していますのでぜひご覧下さい。

update date: 2022.04.22

このマップ(地図)を見る

Number of spots : 16spots

  • 函館山(旧津軽要塞)

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    御殿山第二砲台の28cm榴弾砲射撃演習情景(大正年間) 御殿山第二砲台跡 明治31(1898)年、ロシアとの緊張が高まる中、津軽海峡の制海権、防衛を目的とし函館要塞が造られた。昭和2(1927)年、津軽要塞と改称して守備範囲を津軽海峡一帯に広げ、戸井の汐首岬砲台、本州側の大間崎砲台を完成させる。しかし航空戦力に対して砲台は全く対応できず、同20年7月の函館空襲では甚大な被害を受けた。函館山は軍事要塞ゆえに終戦まで一般人の入山は禁止され、周辺での撮影・写生も制限された。 今も山のいたるところに砲台跡や指令所跡などの要塞施設が残り、見ることができる。 函館山ロープウェイ株式会社

  • カール・レイモン(レイモンハウス・汎欧州)

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    レイモンハウス元町 ボヘミア(現チェコ共和国内)生まれのカール・レイモンは、函館の勝田コウと結婚して大正14(1925)年函館駅前にハム店を開いた。しかし、昭和13(1938)年に外国人という理由で工場や店が強制買収され、戦争中は資産も国籍も奪われた。戦後食肉業を再開するまで苦労が続いたが、晩年まで函館に住んで市民に愛された。現レイモンハウス元町店の「カール・レイモン歴史展示館」では、レイモンの波瀾万丈な人生をパネルで紹介している。 店舗のご案内 - 函館カール・レイモン

  • 函館要塞標柱(第一地帯標)

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    ①第一地帯標 南部坂・函館山ロープウェイ乗場前 撮影禁止区域を示す図 函館山は明治31(1898)年から要塞が築造されて以来、昭和20(1945)年の敗戦まで要塞として利用された。その間、「要塞地帯法」により一般人の立ち入りや写真撮影などが禁止され、要塞の区域を示すためにこの地帯標(標柱)が設置された。標柱には「明治三十二年八月十日」の日付があり、当時多数設置されたものと思われるが、現在確認されているのは5個所である。(以下、その他4か所の写真) ②日和坂・船魂神社鳥居手前 ③函館護国神社横・登山口入口 ④高龍寺の西側煉瓦塀付近 ⑤函館公園・旧市立函館図書館裏

  • 函館市青函連絡船記念館摩周丸

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    空襲を受ける青函連絡船 敗戦間近の昭和20(1945)年7月14・15日、東北、北海道地方はアメリカ軍戦闘機などによる攻撃を受けた。その際、古くから北海道と本州を結ぶ交通の要衝であった函館において、特に戦時下は食料、石炭供給などの重要な輸送手段であった青函連絡船が攻撃の標的となった。沈没・座礁炎上10隻、損傷は2隻、旅客・乗組員合わせて死者・行方不明者は430人に上るなど、壊滅的被害を受けた。また、連絡船以外の船舶も現在判明している限りで、軍用艦、民間船、大小合わせ166隻が被害を受け、死者は571人に上る。この空襲によって家族を失った船員家族、焼け出された市民は、戦後も苦しい生活を余儀なくされることとなったという。 摩周丸の情報はこちら

  • JR函館駅

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    昭和17年完成駅舎 現在の駅舎 空襲後の函館駅 昭和19(1944)年6月、空襲の激化に伴い、政府は都市から地方への学童疎開の方針を決定した。函館では同20年7月14・15日の空襲を契機に18校の国民学校の生徒が道南の9市町村へと函館駅から集団疎開した。当時の北海道の主要都市の中で、学童集団疎開を実施したのは、函館市だけである。同年7月25日に函館駅から第1陣の600人が出発し、その後まもなく敗戦を迎え、8月25日、この学童疎開は終了した。短期間の学童疎開とは言え、函館駅に帰還した子供たちの容姿は薄汚れ、痩せこけていたという。この学童疎開は、昭和17年に完成した4代目函館駅での出来事である。 函館駅の情報はこちら

  • 青柳小学校

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    天皇行幸 青柳国民学校 現在の小学校 昭和11(1936)年に来函した天皇の来校時、青柳尋常小学校には「御座所(天皇休み所)」が設置され、同16年、天皇来校を記念した「行幸記念碑」が、敷地内に建てられた。同じく敷地内には天皇皇后の「御真影」と教育勅語謄本を納めた奉安殿もあり、生徒は最敬礼が義務付けられ、天皇崇拝に利用された。 同16年、全国の尋常小学校は国民学校と改められる。毎月1日の興亜奉公日(「国民精神総動員」の一環で同14年から実施)になると、全員がご飯と梅干しだけの「日の丸弁当」を持参して、道路や神社等の清掃などの勤労奉仕に励んだ。 函館市立青柳小学校(函館の建築再訪)‐ 関根要太郎研究室

  • 函館市公民館

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    現在の函館市公民館 昭和12(1937)年日中戦争勃発後、戦争は全国民を巻き込んだ総力戦となっていった。総動員体制を組織的に主導する「大政翼賛会」が全国的に拡大し、同16年には函館支部の発会式が行われた。翌17年には翼賛運動推進のための実戦部隊として「函館市壮年団」が組織され、団結式が青年会館(現函館市公民館)で行われた。戦意高揚、戦時生産力の強化など翼賛体制の熱が高まるにつれ、憲兵や住民同士による監視も強まり、市民生活は息苦しいものになっていった。 函館市公民館 - 観光スポット - はこぶら 体制翼賛三国同盟市民大会(昭和15年新川小学校にて)

  • 函館護国神社

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    函館護国神社へ行進する学徒たち 明治2(1869)年終結の箱館戦争の新政府軍戦死者を弔うため設営された招魂場がその後函館招魂社となり、昭和14(1939)年には「函館護国神社」となった。英霊を祀るための護国神社は太平洋戦争戦時下に戦勝祈願の参拝の場ともなった。戦争末期には学徒出陣で現在の北海道教育大学函館校・北海道大学水産学部の2校に当たる学生らが徴兵され、学生らは護国神社を参拝した後、戦地などに向った。また当時、学徒動員により多くの学生が全国各地で勤労奉仕を行った。農村で援農を行った学生もおり境内には「学徒援農記念碑」が残されている。 函館護国神社 招魂場碑 学徒援農記念碑 現在の護国神社

  • 函館公園

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    カール・レイモンの動物園 どうぶつ碑 公園全景 函館公園は明治12(1879)年11月に開設された総合公園である。昭和13(1938)年に、動物飼育施設が開設され、食肉加工業カール・レイモンが飼っていたライオン2頭(猛夫、レイ子)が寄付された。しかし戦局が悪化した同18年、えさ不足や危険防止のためとして「戦時猛獣処分」が動物園に発令され、ライオンやヒグマなどが処分され、子どもたちを悲しませた。園内にはこれまでに死んだ動物を弔う「どうぶつ碑」が建っている。園内の「函館公園こどものくに」は日本最古の観覧車があり、現在も子どもたちに人気のスポットである。 函館公園こどものくに

  • 道営谷地頭団地(旧陸軍津軽要塞司令部)

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    谷地頭団地(要塞司令部跡) 司令部内火薬庫 明治33(1900)年、日清戦争後の軍備拡張に伴い、函館要塞司令部が千代ヶ岳の函館要塞砲兵大隊内に置かれた。その3年後、谷地頭に移転し、津軽海峡防衛を目的として対ロシア戦に備えた。昭和2(1927)年に津軽要塞司令部と改称し、本州側大間崎、竜飛崎にも大砲を備え、津軽海峡を挟む一帯を指揮下に入れた。同16年に津軽要塞重砲兵連隊となり、潜水艦などの警備にあたった。函館八幡宮の前と汐見町(現青柳町)には司令部幹部の陸軍官舎が併設されていた。 津軽要塞(旧函館要塞)の地図

  • 五島軒本店

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    中央埠頭に上陸する進駐軍 (昭和20年10月4日) レストラン五島軒本店 昭和20(1945)年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し、敗戦を迎えた。それにより、日本が連合軍の占領下に置かれることになり、日本各地で占領が始まった。函館には同年10月4日にアメリカ軍およそ6000人が上陸を開始し、レストラン五島軒本店は接収され、そこに進駐軍司令部が置かれた。 五島軒 〈公式サイト〉

  • 函館どつく造船所(旧函館船渠)

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    現在の函館どつく株式会社入口 明治29(1896)年に「函館船渠(せんきょ)」の名で創業し、2016年に120周年を迎えた。太平洋戦争戦時下には軍需工場であったが労働力不足が深刻となると、学生や女子の勤労動員に加え、昭和18(1943)年からは函館少年刑務所の受刑者からなる「造船奉公隊」や外国人捕虜が就労した。 当時の捕虜の人々の様子「敗戦間近の同20年7月14・15日、東北、北海道地方はアメリカ軍戦闘機などによる攻撃を受けた。函館方面へ飛来した戦闘機の数は延べ、209機に及び、軍需工場であった函館どつくやその周辺は大きな被害を受けた。(函館どつく,2021)」

  • 旧函館検疫所台場措置所(旧函館俘虜収容所)

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    当時の捕虜の人々の様子 函館検疫所は防疫体制の強化を図るため明治18(1885)年に建てられた。昭和17(1942)年、函館検疫所構内に函館俘虜収容所が開設され、同20年に空知郡美唄町に移転するまで存在した。収容者は主にジャワ島などの南方戦線から移送された英・米・蘭・豪人で、延べ2000人が収容された。捕虜たちはわずかな食事だけで、夜遅くまで厳しい監視下での過酷な労働を強いられたため、函館だけでも40人以上の死亡者がでた。検疫所の建物は現在ティーショップとして活用されている。 ティーショップ夕日の詳細 現在は市内にある永全寺の敷地内に、収容所として使われた建物が移築保存されている。

  • 旧駒止町付近(空襲)

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    空襲により大きな被害を受けた函館駅 敗戦が間近の昭和20(1945)年7月14・15日に青森県沖から飛び立ったアメリカ軍戦闘機延べ209機によって、函館市内の西部地区、特に軍需工場のある函館どつくやその周辺の旧駒止町一帯(元の西中学校付近)や函館駅前、松風町にも爆弾が投下された。函館市街地の被害者だけでも122人に上った。さらに本州と北海道とをつなぐ青函連絡船も壊滅的被害を受けた。この被害を受け、学童集団疎開や建物強制疎開が開始された。 近くの称名寺境内には「第二次世界大戦 函館空襲戦災跡地 戦災者慰霊碑」が建立されている。 現在の駒止町の様子

  • 船見公園(常盤尋常小学校跡)

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    北海道綴方連盟の人たち 昭和初期から作文を通して日常生活を見つめ、教育全体の改革を目指す「生活綴方運動」が全国で始まる。北海道では昭和10(1935)年に北海道綴方教育連盟が発足するが、きっかけとなったのが常盤尋常小学校教員の小笠原文次郎が雑誌に掲載した同校児童の「ナット売り」という作文である。しかし戦時下、言論弾圧・教育統制が強まる中、綴方運動や作文の内容が社会矛盾を強調し過ぎるとして、昭和15・16年にかけて同連盟所属の教員55人が治安維持法違反容疑で検挙され12人が起訴された。函館では小笠原文次郎ら7人の教員が検挙され、有罪になった。その後、このような生活綴方の実践はなくなり、戦争のための教育一辺倒になっていった。   後にこの北海道綴方教育連盟事件は三浦綾子の「銃口」の題材になっている 公園内には常盤小学校(旧常盤尋常小学校)跡の石碑がある

  • 函館盲唖院跡(ヘレン・ケラー)

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    講演会ポスター 来函の記事(北海タイムス) 盲唖院入口跡  函館盲唖院は明治時代の函館訓盲院を引継ぎ、篠崎清次や佐藤在寛らの献身的な努力によって設立、運営されていた。大正14(1925)年には正式に「函館盲唖学校」として認可され、本校舎が函館公会堂裏に落成した。昭和12(1937)年に来日していたヘレン・ケラーはここを訪問し、生徒等と交流した。彼女の来日は、障がい者の人権について啓蒙的役割を果たしたばかりでなく、満州事変で悪化した日米関係において親善の役割を担うものでもあった。しかし来日中に日中戦争が始まり、ケラーは急遽、帰国した。