Number of spots : 83spots
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田崎国民学校の空襲
鹿屋市 2018『広報かのや』No.302号(2018年8月)
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司令部壕関係資料
鹿屋市 2017『広報かのや』No.279(2017年8月号) 安藤広道 2020『慶應義塾大学日吉キャンパス一帯の戦争遺跡の研究II』慶應義塾大学文学部民族学考古学研究室
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西大手町の地下壕ほか
「佐世保海軍施設部 引渡目録 5/6 接収目録 但し鹿屋地区(含 高山及垂水)(1)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08010900500(原資料:防衛省防衛研究所)48頁より ※西大井町の谷一帯には、この図のように地下壕をはじめとする夥しい数の軍の施設が作られていました。ただ、略図であるため、航空写真や現地との対比は困難です。(安藤広道)
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マメガヅカ
「「ゼロ戦」と「マメガヅカ」」小手川清隆(『大隅』第63号 大隅史談会 2020年 103‐111頁)(Box) 小手川清隆さんのご好意により、全文をお読みいただけるようになりました(要Box、ダウンロードはできません)。
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爆弾集積所の爆発事故
「進駐軍管理下の日本軍爆弾集積所の爆発」小手川清隆(『大隅』第64号 大隅史談会 2021年 205‐212頁)(Box) 小手川清隆さんのご好意により、全文をお読みいただけるようになりました(要Box、ダウンロードはできません)。
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第22航空廠引渡目録
「第22海軍航空廠 引渡目録」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08011027900(原資料:防衛省防衛研究所) ※この資料で第二十二海軍航空廠の諸施設の概要を知ることができます。(安藤広道)
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野里駅北のセメント倉庫
「佐世保海軍施設部 引渡目録 5/6 接収目録 但し鹿屋地区(含 高山及垂水)(2)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08010900600(原資料:防衛省防衛研究所)9頁より ※大隅野里駅の北側の建物はセメント倉庫だったようです。(安藤広道)
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西原掩体壕跡
検出された掩体壕の基礎部分の平面図 バイパス建設に伴う1987・1988年の発掘調査で、無蓋掩体壕と誘導路の痕跡が検出されました。郷之原町一帯では、無蓋掩体壕の地上部分は失われていても、地下の基礎部分や誘導路が残っていることを示す重要な調査事例と言えます。発掘調査報告書は、以下のリンクからダウンロードできます(掩体壕の報告は、第5分冊に掲載)。報告書には、原田盛雄さんによる郷之原町一帯の掩体壕などの記録も掲載されています。(安藤広道) 鹿児島県教育委員会 1990 『鹿児島県埋蔵文化財発掘調査報告書52:中ノ原遺跡(Ⅱ)中原山野遺跡 西原掩体壕跡 前畑遺跡5・6』鹿児島県教育委員会 原田盛雄氏による郷之原一帯の掩体壕の分布図
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野里国民学校国旗掲揚台
「戦争末期、人間爆弾・桜花作戦を行った神雷部隊は野里国民学校を宿舎としていました。 国旗掲揚台には、機銃掃射の弾痕が残っています。」・所在地:鹿屋市野里町(朝日神社隣)・駐車場:あり・トイレ:なし(鹿屋市「鹿屋に残る戦跡」より引用) ※画像をクリックしてください。 Youtubeに飛びます(3Dデータ) 鹿屋よかとこ探訪『【Part1】残していきたい記憶〜特攻出撃前数日間を過ごした『野里国民学校跡地』〜』2020年8月7日 ※画像をクリックしてください(Youtubeに飛びます)。 ・『黒しばわんこの戦跡ガイド』 鹿屋市野里町に残る「国旗掲揚台跡」 2021年2月26日
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基地内に残る防空壕
・海上自衛隊鹿屋基地内の防空壕について(第1報告)(くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク 代表・肥後考古学会幹事 高谷和生)
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第二飛行機格納庫
現在も使用されている格納庫です。
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1ビル(鹿屋航空基地庁舎)
(準備中) ・アメブロ『海とひこうき雲-日本海軍好きのゆるゆる日記です。』 エアメモ2013 その5 ~山本五十六からの手紙 2013年6月4日
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海軍境界杭
このあたりの基地のフェンスに沿って、海軍の境界杭が数本残っています。
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基地内に見える掩体壕
コンクリート製掩体壕の一部が見えています。田崎掩体壕と同じタイプの倉庫だと思われます。(安藤広道) ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2017年3月3日
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田崎掩体壕
「鹿屋基地の南側に、軍事用の資材をいれていたと思われる掩体壕が残っています。」鹿屋観光協会HPより引用 ・所在地:鹿屋市田崎町・駐車場:なし・トイレ:なし ※画像をクリックしてください。 Youtubeに飛びます(360度映像) ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2017年3月4日 以上、2022年7月29日撮影
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外国人納骨堂
「鹿屋市古前城町の市営緑山墓地に外国人納骨堂がある。太平洋戦争中に鹿屋を中心とした大隅の軍事施設建設に従事した強制連行者ら二十人が眠る。 納骨堂は、鹿屋市の在日韓国人・故伊藤平吉さん=日本名、一九〇四ー九八年=が同市に働き掛け、一九六二(昭和三十七)年四月建立された。伊藤さんは鹿児島に連れてこられた朝鮮人労働者の“統括役”の現場監督だった。伊藤さんは当初、約四十人分を納骨。その後、身元が判明した半数を本国に帰した。それでも残った二十人のうち十四人は名前すら不明だ。」(南日本新聞社編『戦後60年 かごしま戦争遺跡 記憶の証人』2006年:35頁より引用) ・所在地:鹿屋市古前城町 ・朝鮮新報「鹿児島県で強制連行犠牲者追悼式/「外国人納骨堂」に20柱の朝鮮人遺骨」(2016年12月26日 部分) ・朝青鹿児島Facebook「「外国人納骨堂」追悼式・美化活動」(2020年4月11日)
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第ニ飛行機倉庫基礎
2022年春に発見された巨大なコンクリート製の基礎列です。第22海軍航空廠の第二飛行機倉庫の北壁の基礎列であることが分かりました。調査後、撤去されました。(安藤広道) ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2022年3月14日 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2022年3月4日 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2022年2月7日
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大隅野里駅跡
「昭和20年3月19日の空襲により貨物が爆発し、多くの犠牲者が出ました。昭和62年に国鉄大隅線は廃線となり、線路跡は自電車歩行者占用道路(フィットネスパース)として利用されています。」<(鹿屋市観光協会HPより引用) ・アメブロ『海とひこうき雲-日本海軍好きのゆるゆる日記です。』 鹿児島の旅 国鉄大隅線 大隅野里駅跡 2012年8月5日
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基地内にあった掩体壕
(準備中) ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2018年12月2日 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2018年7月16日
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鹿屋基地に関する映像・ニュース
・「特攻の基地 世代交代で薄れる記憶」 『戦跡-薄れる記憶-』2016年8月15日 ・「鹿児島の特攻基地 川端康成や山岡荘八“記録員”の作家たちは」 『NHK NES WEB』2022年6月26日 ・「鹿児島の特攻“記録員”川端康成 再生と祈りの文学の出発点は」 『かごしまWEB特集』2022年8月26日 ・「鹿屋に疎開した母の姉の話」 『戦争の記憶~寄せられた手記から~』 ・「1通の遺書から浮かび上がってきたものは…」 〔茨城ニュース いば6〕[シリーズ戦跡]いばらきeye 放送日 2020年4月22日 ・「あの日 昭和20年の記憶「進駐軍が吐き捨てたガムを口に」」 〔あの人の戦争体験〕坂上二郎さん(コメディアン)放送日 2005年8月25日 『〔証言記録 兵士たちの戦争〕「重爆撃機 攻撃ハ特攻トス~陸軍飛行第62戦隊~」』 「本編」 ・「爆撃機での沖縄特攻」 前村 弘さん(陸軍飛行第62戦隊)収録年月日 2009年3月1日・3日 ・「特攻機上で米機銃弾で負傷」 森 迪さん(陸軍飛行第62戦隊)収録年月日 2009年3月6日 ・「3トンの爆弾を積む爆撃機」 加藤 善道さん(陸軍飛行第62戦隊)収録年月日 2009年3月2日 ・「離陸すら危うい特攻機」 平井 武夫さん(陸軍飛行第62戦隊)収録年月日 2009年3月3日 ・「機動部隊発見できずに帰還」 花道 柳太郎さん(陸軍飛行第62戦隊)収録年月日 2009年3月8日 ・「沖縄への特攻から生還」 佐野 仁さん(陸軍飛行第62戦隊)収録年月日 2009年4月8日 ・「特攻で戦死した兄の手紙」 山下 昭さん(陸軍飛行第62戦隊)収録年月日 2009年3月11日 『〔証言記録 兵士たちの戦争「“人間爆弾” 桜花 ~第721海軍航空隊~」』 「本編」 ・「特攻兵器への疑問」 湯浅 正夫さん(第721海軍航空隊)収録年月日 2010年9月14日 ・「“死に場所がなくなる”」 鈴木 英男さん(第721海軍航空隊)収録年月日 2010年9月10日 ・「桜花 訓練中の事故」 佐伯 正明さん(第721海軍航空隊)収録年月日 2010年9月16日 ・「人間爆弾 桜花」 浅野 昭典さん(第721海軍航空隊)収録年月日 2010年3月12日 ・「募る死への不安」 堂本 吉春さん(第721海軍航空隊)収録年月日 2010年9月15日 ・「“桜花を切り離した”」 菅野 善次郎さん(第721海軍航空隊)収録年月日 2010年9月8日 ・「第一次桜花特攻 全滅」 野口 剛さん(第721海軍航空隊)収録年月日 2010年9月9日 ・「桜花隊 帰還せず」 友井 達さん(第721海軍航空隊)収録年月日 2010年9月13日 ・「“この世の終わりと思った”」 渡部 亨さん(第721海軍航空隊)収録年月日 2010年9月17日 ・「桜花の組み立て」 片岡 茂寿さん(第721海軍航空隊)収録年月日 2010年9月7日 『[BSプレミアム]零戦 ~搭乗員たちが見つめた太平洋戦争~』 「特攻出撃・会敵せず帰還」 柳井 和臣さん(海軍特別攻撃隊 第721海軍航空隊 ゼロ戦搭乗員)収録年月日 2015年4月4日、6月23日 『特集「巨大戦艦 大和 ~乗組員たちが見つめた生と死~」』 「大和の護衛に出動」 植松 眞衛さん(戦艦・大和 ゼロ戦搭乗員)収録年月日 2012年6月7日
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爆弾集積場の爆発事故
「終戦後大隅各地に布陣した陸海軍は戦後の処理を行った。ところが戦後処理班の手により、大隅地区のあらゆる爆弾、弾薬類は郷之原のバッツに次々と集められた。バッツは、郷之原と松原の低地である。戦時中は飛行機の誘導路が造られ、飛行機の隠れ場所としては絶好の場所であった。 十一月八日、午前十時頃、突然大きな爆発音とともに大きな火災が発生した。場所はバッツであった。弾薬に火が付き、次々と爆弾や弾薬が爆発し始め、爆発音はものすごい花火大会のように鳴り響き、市街までをも揺るがした。その爆風は、周辺のあらゆる物を吹き飛ばし、破片は郷之原、大浦(松橋)に雨あられの如く降り注いだ。丘一つ越えた郷之原上部落は、戦時中は被害をほとんど受けなかったにもかかわらず、終戦後二ヶ月余りで大空襲を受けた以上の惨事にみまわれたのである。農作業の人々は家に帰ることもできず、家にいた人たちは戦時中使っていた防空壕に身を潜め殆どの家財道具を持ち出すことができなかった。当時は、まだ藁屋根の家が多く、真っ赤に焼けた破片が降り注ぎ、あっという間に火の手が上がり、綱をきって逃げ出す牛もあった。しかし、逃げ遅れた牛は焼死しており、その数は相当数に上った。この時の犠牲者は、畑目の○○さん只一人が焼死された。家屋のほとんどは全焼したが、○○○○氏宅一軒だけは焼け残った。」 (『郷土史 郷之原』郷之原を語る会、1992年、100・101頁より:原本は鹿屋市立図書館で閲覧できます。)
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桜花を見た
「あの日は、大姶良の青年学校へ通学していた昭和二十年、確かな月日は覚えていませんが四月末か、五月の上旬だったように思います。その日の実習作業も終わり級友と一緒に帰る途中のことでした。 空襲の危険を避ける為に、第二航空隊の所を通って帰らず、横山集落を通り「きこだ」を経て霧島ヶ丘下の物影が多い所伝いに、麓のえんたい壕「飛行機を待避しておく所」までくるとその一角に、いつもは見かけない小さな飛行機の形をしたのが置いてある。なんだろうと話し乍らよく見ると、その姿形からして「特攻機人間魚雷」だと気付いたのです。 近くから見るのは初めてだったのでその時はびっくりしました。恐いながらも級友と少し近付いてしばらく見ていましたが、いつあるかわからない空襲が気がかりで、その場を急ぎ足で帰ったのです。」 (『山下集落史』山下集落史編さん委員会、1997年、38頁より:原本は鹿屋市立図書館等で閲覧できます。)
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野里駅の惨事
「 野里駅の惨事 鹿屋市市史・平成七年発行の八四三頁に、「三・十九午後惨事空襲警報が出て、午後十時に解除、野里駅など破壊され死傷者八十人」と記載されている。 この野里駅の死傷者の中に、高須出身で二級先輩で、駅員であった、故〇〇〇〇(十七歳)が殉職した。 この空襲で、国鉄職員十七人が殉職した。内女性二人で、西俣小高等科卒の、故○○○〇〇さん十四歳もいた。 当時、野里駅に勤務していて、命拾いをした同級生の、「○○○○さん」(平成十一年死亡)は、次のように証言している。 「艦載機の来襲で防空壕に退避した。機銃掃射が終わり壕から出てみると、機関士が足を負傷していた。軍需物資を満載した貨物車が火災を起こし、消火作業と軍需物資搬出のため、駅員・予科錬生(海軍)・労務者(朝鮮半島出身者)など百数十人が当たっていた。私は、駅長から被害の様子を鹿屋駅に連絡するように命令された。行く途中ですごい爆発音が聞こえ振り返ると黒煙が上がっていた。 鹿屋駅に連絡後帰ってみると、駅も貨物車お救出に当たった人も全て吹き飛ばされ、人体は黒焦げになっていた。」と話した。 真実を知りたい 「野里駅の惨事」については、多くの犠牲者八十人以上出ているのに、鹿屋市市史には「軍事・鹿屋航空隊・鹿屋市の戦災」の欄に僅か二行に纏められている。 多くの犠牲者を出したのに詳しい記録がないのは、空襲による被害でなく、駅構内の軍需物資の搬出中に起きた大事故であったので、秘密裏に処理されたものと思われる。 駅には、他に航空燃料・秘密兵器の人間爆弾もあった。 (中略) 空襲後に消火作業に当たり、県内で最大の犠牲者を出したのは野里駅だけである。」 (「高須は戦場だった」立元良三『高須町民 私の戦争体験』戦争を風化させない高須町民の会、1999年、59・60頁より引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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九死に一生を得た
「昭和二〇年の三月二〇日前後は、野里をはじめ鹿屋市が米軍による大空襲を受けております。私も米軍機に狙われ九死に一生を得た思い出があります。 私達は汽車通学をしていましたので、三月十八日のご前八時半ごろだったと思います。私と〇、それに○○と〇の四人でした。野里駅の少し手前の通称「ぎい山」の所で立ち止まり、上空で繰り広げられていたアメリカのP51かグラマンと、有軍機の空中戦を見ていました。 急旋回から急上昇しながらの切り返しなど、追いつ追われつの華麗な巴戦に見とれているうちに、敵機と有軍機の見分けが付かないようになります。突然そのうちの一機に「パッ」と白煙があがり激しい黒い煙を吐きながら落ちてきます。○○が、「あれは敵機だ」と言う声に「やったあバンザイ」と歓声が挙がります。 しかし、飛行機の高度が下がり目を凝らしてよく見ると、翼に鮮やかな日の丸のマークが見えるではありませんか。「あいやあいや有軍機やらい」と束の間の喜びは落胆に変わりました。 我にかえると、金属性特有の軽快な爆音が聞こえて来ます。見回してみると大津の方から私たちがいる方向を目掛けて飛行機が低空で突っ込んで来ます。 明らかに私たちを狙っている様子に、無我夢中でそばの溝に飛び込みました。その瞬間「プス、プス」と機銃弾が突きささる音がします。遠ざかる爆音に頭を上げてみると、日常的な空襲によって見慣れているグラマンでした。 起き上がってみると、私たちが伏せていた所から一間(約二メートル)も離れていない土手に、等間隔で付いている機銃掃射の弾痕による穴がありました。敵機は空中戦に見とれている私たちを、少し離れた上空で旋回しながら狙っていたものと思われます。いま考えますと敵機が、動かない的をはずしたのも腑に落ちないところがあります。近付いて非戦闘員の少年であることが分かり、わざと外したのかも知れません。いずれにしても、九死に一生を得た終戦の頃の思い出です。」 (『山下集落史』山下集落史編さん委員会、1997年、110・111頁より:原本は鹿屋市立図書館等で閲覧できます。)
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3月18日の空襲
「昭和二十年三月十八日朝、私の耳をつんざく大砲みたいな音がしました。 「志布志湾にアメリカ軍が上陸したのでは」と考えていると、道路の向かい側かた〇〇〇〇叔父さんが「空襲やっど、早よっ防空壕に入らんか」と大きな声で知らせてくださいました。艦載機が郷之原丘の上空を旋回して、航空隊めがけて突っ込み、機銃を撃ちながら爆弾を落とす、あっちこっちの高射砲陣地から迎え撃つ音を防空壕の中で、生きた心地もしない状態で一日中聞きました。 あんな激しい空襲は後にも先にもありませんでした。やがて鹿屋航空隊から特攻機が出撃するようになりました。私の家には、東京から持ち帰った姉のミシンがあったので、二十歳位の明日とも知れない特攻隊員が、「マフラーの端を縫ってくれ」と言って遊びにきました。岩手県の軽石さんは、「義姉の弟に似ている」と言って可愛がられました。 兵隊さんたちは「僕たちは日本の将来のために死んで行くから、君たちはそれを忘れないでくれ」と女学生だった私達に言われたのを思い出すたびに目頭が熱くなります。」 (『郷土史 郷之原』郷之原を語る会、1992年、102頁より:原本は鹿屋市立図書館で閲覧できます。)
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鹿屋基地に関する語り・手記など
・「親の雑誌 電子版 THE梅北四郎」2020年1月 鹿児島県在住・1925年生まれ 学徒動員で鹿屋航空隊へ 小鹿酒造協業組合設立 ・『鹿児島ぶら歩き』 「鹿児島海軍航空隊に関する新聞記事」2022年6月8日
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野里町一帯の戦争遺跡
・野里町一帯には、無蓋掩体壕が1基が残存しています。 【野里町無蓋掩体壕1】 ・大半が埋没していますが、ほぼ完全なかたちで残っていると考えられます。 ※画像をクリックしてください。 Youtubeに飛びます(360度映像) ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2017年2月16日
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郷之原町一帯の戦争遺跡
・郷之原町一帯には、小規模な無蓋掩体壕が1基が残存しています。 【今坂町無蓋掩体壕1】 ・ごく小規模な無蓋掩体壕の片袖一辺が残っています。
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今坂町一帯の戦争遺跡
・今坂町一帯には、無蓋掩体壕が1基が残存しています。 【今坂町無蓋掩体壕1】 ・やや小型ですが、ほぼ完全なかたちで残っている無蓋掩体壕です。
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田崎町一帯の戦争遺跡
・田崎町一帯には、かつて多数の無蓋掩体壕作られ、それらをつなぐ誘導路が敷設されていました。 現在、無蓋掩体壕2基が残存していることが確認されています。 【無蓋掩体壕1】 ・ほぼ完全なかたちで残っている無蓋掩体壕です。 全幅:約51m 全長:約38m 内幅:約29m 奥行:約28m 残存高:約3.5m 田崎町無蓋掩体壕1模式図 ※画像をクリックしてください。 Youtubeに飛びます(360度映像) 【無蓋掩体壕2】 ・東辺の掩体が失われていますが、北辺と西辺の遺存状態は良好です。
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王子遺跡資料館
「この資料館は、昭和56年から59年にかけて国道220号線バイパス工事に伴い実施した王子遺跡(弥生時代の遺跡、今から約2000年前)の出土品を展示した資料館です。発掘調査時に移設した竪穴住居跡や棟持柱付掘立柱建物跡の展示や、甕(かめ)や壺(つぼ)などの土器や敲石(たたきいし)や石鏃(せきぞく)などの石器、やりがんななどの鉄製品が展示してあります。」・所在地:鹿屋市北田町11110番地1・開館時間:9時~17時・休館日:12月29日~1月3日・入館料:無料・駐車場:あり(鹿屋市文化会館)・トイレ:あり(鹿屋市文化会館ほか)(鹿屋市「王子遺跡資料館」より引用)
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観光物産総合センター
◆鹿屋市観光協会HP ◆鹿屋市の紹介ページ ◆鹿屋の戦争遺跡紹介 ※こちらから、鹿屋平和学習ガイドによる戦争遺跡ツアー(団体・個人)の予約もできます。 ・アメブロ『海とひこうき雲-日本海軍好きのゆるゆる日記です。』 鹿児島の旅 海軍カレー 2012年8月6日
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鹿屋海軍航空基地について
【鹿屋海軍航空基地の概要】 ・1936年、海軍鹿屋航空隊の開隊とともに、その原駐基地として造られました。 ・1941年には、真珠湾作戦を立案した「鹿屋会談」が行われた場所としても知られています。 ・1945年の沖縄戦では、米軍艦船に対する航空特攻作戦の中心となりました。この基地から450機あまりの航空機が特攻作戦に出撃し、908名が命を落としたと言われています。 以下、八巻聡さんの『鹿児島県の戦争遺跡 航空基地編』(八巻聡2000)より、概要を引用します。 ・建設年:1940年 ・主任務: 作戦・教育(錬成・整備) ・滑走路: 1760×50m、 1700×50m、 500×50m(コンクリート) ・格納庫: 25475㎡、14364㎡ ・掩体壕: 小型有蓋 10基、 中・小型無蓋 200基 ・収容施設: 作戦:士官245名 兵員2550名、 教育:士官233名、兵員6016名 ・工場施設:有り ・教育施設:有り ・送信所・方位測定所:無し ・基地施設: 指揮所・通信所・弾薬庫・ 燃料庫・倉庫・魚雷調整場 航空基地概要 戦場における航空機による攻撃の有効性が認められてきた時期に艦上戦闘機及び陸上攻撃機の基地として昭和11年に建設された。日中戦争初期には第1連合航空隊司令部が置かれていた。 大戦末期には第5航空艦隊の司令部が置かれ、菊水作戦を行う中心基地となった。 また、基地の近くには鹿屋海軍工廠も置かれており、兵器の改良・開発も行われていた。 ・Wikipedia「鹿屋航空基地」 ・桜と錨『海軍砲術学校』「鹿屋航空基地」2018年4月29日 「【動画付き】零戦、特攻基地跡の鹿屋を飛行 主催者「優れた技術と平和考える機に」」 西日本新聞 2016年1月27日 「「美談にしてはいけない」送り出された10代の特攻隊」 西日本新聞 2020年5月29日 「鹿児島県鹿屋航空隊本部」 『西日本新聞フォトライブラリー』 『半世紀の鹿屋航空隊 戦前編』(米永代一郎 南九州新聞社 1989年)(Box) 鹿屋航空隊に関する基本文献です。ただ、鹿屋市立図書館など僅かな図書館でしか閲覧できません(国会図書館にもありません)。このたび、南九州新聞社のご好意により、全文をお読みいただけるようになりました(ダウンロードはできません)。
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ゆかりの人びと
『大東亜戦争秘記 戦藻録』宇垣纒日記 ・Wikipedia「宇垣 纒」 『最後の帝国海軍』世界の日本社 1950年(中公文庫版あり) ・Wikipedia「豊田副武」 提督小沢治三郎伝刊行会『提督小沢治三郎伝』原書房 1969年 ・Wikipedia「小沢治三郎」 「敗戰のころ〈昭和二十年の自畫像〉」をめぐって 1955年発行の『新潮』八月號 70・71頁に掲載された、全体で1500字ほどの短い手記です。そのなかの一部(500字ほど)に、川端が海軍報道班員として鹿屋にいたころ(1945年4月24日~5月24日)のことが記されています。 「忘れることが出來ない」とあるように、川端が特攻隊員の姿に強い衝撃を受けたことが読み取れます。 ただ、私がこの文章で注目するのは、「特攻隊の攻撃で、沖繩戰は一週間か十日で、日本の勝利に終るから」というくだりです。 多胡吉郎さんの『生命の谺-川端康成と「特攻」』(2022年)によると、川端に鹿屋赴任の打診があったのは4月10日ころ、菊水1号作戦、第1次航空総攻撃が行われた直後です。 川端を訪ねたのは、海軍によく出入りをしていた、『台湾時報』という雑誌の東京支局長の吉川誠一氏でした。このくだりからは、吉川氏のような海軍をよく知る人たちの間でも、当時、ここに書かれているような大規模特攻作戦の戦果に対する評価、そして期待感が広まっていたことを読み取ることができそうです。 以下、鹿屋赴任時の部分を引用します。(安藤広道) 「 二十年の四月、私は初めて海軍報道班員に徴用され、特攻隊基地の鹿屋飛行場に行つた。今急になにも書かなくていいから、後々のために特攻隊をとにかく見ておいてほしい、といふ依頼だつた。新田潤氏、山岡荘八氏と同行した。 特攻隊の攻撃で、沖繩戰は一週間か十日で、日本の勝利に終るからと、私は出發を急がせられたが、九州についてみると、むしろ日々に形勢が悪化が、偵察寫眞などによつても察しがついた。艦隊はすでになく、飛行機も不足も明らかだつた。私は水交社に滞在して、將校服に飛行靴をはき、特攻隊の出撃の度に見送つた。 私は特攻隊員を忘れることが出來ない。あなたはこんなところへ來てはいけないといふ隊員も、早く歸つた方がいいといふ隊員もあつた。出撃の直前まで武者小路氏を讀んでゐたり、出撃の直前まで安倍先生(能成氏、當時一高校長)によろしくとことづけたりする隊員もあつた。 飛行機は連日爆撃されて、ほとんど無抵抗だつたが、防空壕にゐれば安全だつた。沖繩戰も見こみがなく、日本の敗戰も見えるやうで、私は憂鬱で歸つた。 特攻隊についても、一行も報道は書かなかつた。」 ・Wikipedia「川端康成」 ・西日本新聞me「川端康成と鹿屋特攻隊 鶴丸哲雄」 2022年8月13日(有料記事です) ・NHK 鹿児島ニュースWeb「鹿児島の特攻基地 川端康成や山岡荘八“記録員”の作家たちは」 2022年6月26日 ・読売新聞オンライン「「特攻隊員を忘れることができない」...戦争末期に鹿屋基地に滞在、作品への影響たどる 川端康成没後50年」 2022年5月28日(有料記事です) ・『生命の谺 川端康成と「特攻」』多胡吉郎 現代書館 2022年 ・朝日新聞デジタル「【新聞と戦争・アーカイブ】表現者たち:6」 2021年12月7日(有料記事です) ・川端康成学会 公式ウェブサイト「第46回大会「川端康成と鹿児島」発表題目・要旨」 2019年7月27日 ・「川端康成における戦争体験について -「敗戦のころ」を手がかりに-」 『ソシオサイエンス』Vol.17 早稲田大学先端社会科学研究所 2011 pp.95-110 「最後の従軍」(朝日新聞 1962年8月6~10日、9月19日掲載) ※『いざさらば我はみくにの山桜ー「学徒出陣五十周年」特別展の記録』靖国神社 1996年 166-180頁に採録されています。 ・Wikipedia「山岡荘八」 ・産経新聞ニュース「人間爆弾「桜花」最後の証言(4)沖縄陥落 迫る出撃「日本は勝ち抜けると本心から思うか」山岡荘八の質問に西田中尉は答えた…」 2018年8月16日 ・朝日新聞デジタル戦跡連載②若きプロ野球選手「最後の10球」 2020年10月18日 ・NHK 鹿児島ニュースWeb「鹿児島の特攻基地 川端康成や山岡荘八“記録員”の作家たちは」 2022年6月26日 ・『評伝 山岡荘八』清原康正 講談社 2012年(電子書籍) ・Wikipedia「西村 晃」 ・Wikipedia「石丸進一」 ・朝日新聞デジタル戦跡連載②若きプロ野球選手「最後の10球」 2020年10月18日 ・アメブロ『海とひこうき雲-日本海軍好きのゆるゆる日記です。』筑波海軍航空隊⓪ 石丸進一 海軍少尉 2014年3月19日
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田崎国民学校に関する証言
【証言1】田崎国民学校の空襲 「昭和20年、私は13歳でした。初めて空襲があった3月18日の朝は寒く霜が降りていました。飛び起きると飛行機が空中戦をやっていました。日本は勝つものだと教えられていましたが、空中戦の途中で火が付いて落ちた飛行機は、日本の零戦でした。 4月8日の日曜日、田崎国民学校が空襲にあった日のことをよく覚えています。その日は曇りで暖かい日でした。 私は高等科2年(現在の中学2年生)でした。同級生は92人で、全校生徒は700人から800人いたと思います。前日の4月7日が入学式でした。 その頃学校では、うさぎ・豚・やぎ・にわとり・牛を飼っていました。最上級生だった私たちは牛の当番でした。 朝8時過ぎに学校に行き、同級生の中村君と一緒に、学校東側の実習田へ、牛を引いて運動させに行きました。 そこはレンゲ草が繁茂していたので、牛に食べさせました。もう1人の同級生の牧野君が来なかったので、家に呼びに行こうということで、大正橋の近くの桜の木に牛をつなぎ、その同級生のいる集落まで向かった時です。空襲警報のサイレンが鳴りました。 私たちは、慌てて牛を走らせて引き返し、学校の正門にたどり着きました。その時、鍵をもって奉安殿に行かれる途中の大石先生に会いました。「牛を早く牛舎に入れて、奉安殿の横の防空壕に入らないか」と言われましたが、牛を牛舎につなぎ、私たちはそれぞれの家に帰りました。私の家は学校から100mの場所にありました。帰る途中、私の叔父・末盛が警防団服を着て鐘を叩きに警防団詰め所へ走って行く後ろ姿を見かけました。それが叔父を見た最後の姿となりました。 家に帰ると、姉2人が洗髪などをするために釜でお湯を沸かしているところでした。これは危ないと思い、慌てて水をかけようとした途端、ドドドンという大音響と爆風で、一瞬にして真っ暗闇になりました。何秒か何分経ったかわかりませんが、気がついた私は釜小屋の戸袋に吹き飛ばされていました。自宅と牛小屋はすべて吹き飛び散乱している状態でした。 幸いにして私は怪我なく無事でしたが、「助けてくれ」という姉の悲鳴を聞き竹山に行くと、爆風の破片で背中を負傷していたので、着物で止血し防空壕へ連れて行きました。 爆弾は、学校とその周辺にいくつも落とされていました。大石先生は御真影を抱いたまま校長住宅下の防空壕で、中村先生は小使室と職員室の渡り廊下で亡くなったそうです。学校の奉安殿も、爆弾の直撃を受けていました。もし、横の防空壕に入っていたら死んでいたと思うと、ぞっとします。 避難警鐘を打ち鳴らしていた叔父は、警鐘台から降りる途中に爆弾の破片で左足を負傷し、出血多量で死にました。当時の永田市長が現場に見舞いに来られ、「やられたかよ!しもたなぁ」と言われたことを覚えています。 それから終戦を迎えるまで、家を失った私たちは防空壕での生活を送りました。 今の年齢まで生きられた私は、運が良かったのだと思います。戦争は絶対に起こしてはいけません。平和であることが何よりも大切なことです。」(『広報かのや』2018年8月号より) 【証言2】 田崎国民学校の空襲 「戦争が始まった昭和16年から1~2年は勝ち戦が続いていました。嬉しかったのはシンガポールが陥落した時。ゴムの産地ということもあり、女子生徒だけにゴムまりの配給があったからです。しかし戦況が悪くなると、学校に弁当を持ってこれなくなり、学校の校庭に植えた芋の代用食だけになるなど、学校生活も厳しくなりました。 昭和20年4月、私は田崎国民学校の高等科1年(現在の中学1年生)でした。4月8日は、下堀の生徒に週番がまわってきた日でした。学校に行って、職員室を掃除し各教室を見回り、花を飾りました。学校に水道がなかったので、近くの池の水を汲むのも週番の仕事でした。 水汲みから帰り着いた時、職員室で出勤していた大石先生と中村先生に会いました。「あなたたちはまだいたんですか。空襲警報が出ているので早く帰りなさい」と大石先生から言われたので、私たち4人は慌てて学校を出ました。 学校の近くには急坂があり、坂の上には鉄道が通っていました。その坂を上りかけた時です。ドーンという音がして、上から何か降ってきました。私たちはビックリして左に杉山があったので山の中に駆け込みました。そこは集落の人たちた避難していた防空壕の入口でした。その入口まで走った時、大きな爆風を受けました。上から横から何が降ってくるかわからず、倒れこんで防空頭巾をかぶった頭を4人で合わせました。私は「死ぬときは4人一緒。怖くはないよ」と自分に言い聞かせました。 飛行機の音がしなくなるまでどのくらい時間が過ぎたかは分かりません。音がやむと、防空壕に避難していた人たちが次々と出てきました。「学校が空襲を受けたらしい」という話しを聞き、すぐに学校のほうへ引き返してみました。東の校舎は残っていましたが、西の校舎は倒れていました。奉安殿も爆弾で見る影もなく吹き飛んでいました。火災は起きていませんでした。学校にいた先生たちがどうなられたか気にはなりましたが、自分のことで精一杯で、学校を後にして走り出しました。 もしあの時杉山に入らなければ、たぶん命はなかったでしょう。なぜなら、直前まで前を歩いていた男の人が、首が無い状態で亡くなっているのを見たからです。私たちは怖くて何がなんだかわからず、走り去ることしかできませんでした。 永野田に通じる松林の県道に差し掛かった時です。近くの山の上から飛行機が3機、音をたてて飛んできました。米軍機が引き返してきたと思うと生きた心地がしませんでした。道路脇の茶畑に隠れてのぞくと、飛行機に日の丸が見えました。今のうちに帰り着かねばと、1里以上もある畑の中の道を懸命に走りました。 なんとか家に帰り着くと、親の顔を見るなり、思い切り泣き出したことを覚えています。家には近所の人たちが集まっていました。私の顔は爆風ではれていたそうです。 大石先生と中村先生が亡くなったことは、あとで聞きました。自分の命よりも奉安殿の御真影のほうが大事だった時代でした。2人の先生方の生前の最後の姿・様子が今でも忘れられません。戦争がいかに怖いものか、子ども心に感じた当時の記憶は、私の心から消えることはありません。」 (『広報かのや』2018年8月号より)
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第五航空艦隊司令部に関する証言
【証言1】司令部壕の建設 「・僅か4日違いで海軍へ 旧制鹿屋中学校(現鹿屋高校)を卒業後は陸軍に入隊することになっていたのですが、入隊4日前に海軍施設部に合格したため、18歳で海軍に入りました。佐世保で建築技工士として勉学の傍ら、訓練をみっちり受けました。1年後には武官転用試験を受けて、下士官となりました。・司令部の壕造りを指揮 昭和20年1月、故郷・鹿屋へまさかの赴任。配属された部隊は軍人が隊長以下6人のみで、あとは約600人の工員でした。工員の大半は朝鮮半島出身者で、3つの中隊に分かれ、壕造りや採石・採砂、基地滑走路の補修等に当たりました。 私が中隊長として任されたのは地下壕造り。赴任当初は、これが第五航空艦隊の司令部の壕になるということは知りませんでした。隊長から「シラスは崩れやすいから掘るのは難しい」と言われましたが、「私はシラス台地で育った男だから、小さい頃から扱いは慣れている」と答えたのを記憶しています。 地下壕造りは工員約200人が3交代制で24時間行われる突貫工事。しかも終わりの見えない工事でした。工員は一生懸命に働いていましたが、重労働であったため、少しずつ目標を決めて、達成したらその都度休みを入れるように心掛けました。 私たちは地下壕近くの民家を接収して寝泊りしていたのに対し、工員は郷之原の宿舎から現場を往復する毎日。工員の外出・外泊は原則禁止でしたが、独断で許可証を発行し、息抜きをさせることもありました。工員との信頼関係を保つのも、工事を進める上で大事なことでした。・特攻隊員の言葉 工事がまだ半分も進んでいない頃から、第五航空艦隊司令部の機能が地上から徐々に地下壕へと移ってきて、軍人と高等女学校挺身隊員らが出入りするようになりました。 地下壕の近くに三角兵舎もあり、出撃前の特攻隊員も多く見ました。彼らと言葉を交わすことはほとんど無かったのですが、ある時、名も知らぬ特攻隊員が、「この戦は勝ちっこないが、君は命を大事にして長生きしなさい」と私に言い残して、飛んでいきました。地下壕の中で涙をこらえながら、ただただ手を合わせて拝むしかありませんでした。・思い出す、ある旧友のこと 特攻隊員のことを考えると、旧制中学時代の旧友のことも思い出します。校内に貼り出された柔道の昇段試験結果に自分らの名前が載っていなかったので張り紙をはいで肝属川に投げ捨てたため、謹慎させられた2人の旧友がいました。謹慎が癪しゃくにさわったのか、2人は退学してすぐに航空兵になりましたが、その後、ともに台湾沖で亡くなったと聞きました。2人とも頭も体格も良い男でした。・命からがら故郷へ 終戦時は人吉にいました。混乱の中、駅は列車を待つ人でごった返し、列車の屋根にも無数の人々がしがみ付いていました。私は目の前に止まった郵便車両に死にものぐるいで乗り込みました。車両では、あの混乱の中にあっても、2人の職員が郵便物の仕分け作業をしており、この時はさすがに頭が下がる思いでした。私は車中で難を逃れ、故郷に生きて帰ってくることができましたが、列車の屋根にしがみ付いていた多くの人々は、トンネルで命を失ったと思います。 私はあの悲惨な戦争から生き残った身。生き延びた以上、失った多くの命のためにも、戦争中の体験を伝えることが、私の使命だと思っています。」(元海軍2等技術兵曹『広報かのや』2017年8月号より引用) 【証言2】 作戦電話室での仕事 「・高女から学徒通信隊へ 戦局が険しさを増す昭和19年9月、旧制鹿屋高等女学校(現鹿屋高校)に在学していた私は、学徒動員で海軍鹿屋航空基地の学徒通信隊に入隊しました。16歳の時です。 入隊に際しては、体格や聴力の検査はもちろん、軍の機密事項を扱う部署であったため、家庭環境などが細かく調べられ、鹿屋高等女学校から25人が選抜されました。このほか高山・末吉・志布志の各高等女学校からも集められていました。・重要な任務 通信業務は基地内のビルの一室に設けられた作戦電話室で行われ、海軍省からの電話の内容を書きとめ参謀室に伝えたり、参謀が立てた作戦を串良や国分、出水などの各航空隊へ伝えたりする重要な任務を負っていました。秘密を守ることも徹底されていました。・通信隊の勤務と生活 隊員は24時間3交代制の勤務で、共同生活を行っていました。入隊して1か月は板張りの三角兵舎に寝泊りし、その後は軍が借り上げた大きな民家に皆で住んで、毎日職場まで往復しました。月に1度実家に帰宅することができましたが、勤務を終えた後に1晩泊まって翌朝すぐに出て行くので、家族との会話はほとんどできませんでした。 職場での服装は長袖のシャツとモンペで、3着を着回しました。白の長袖シャツも持っていましたが、外に出ると目立つからと、のちにカーキ色に染められました。・空襲を期に司令部ごと壕へ 昭和20年2月には、鹿屋航空基地に第五航空艦隊の司令部が置かれ、私たちも司令部配属に。そして同年3月頃から、米軍による鹿屋市への空襲が始まると、司令部ごと基地近くの山に掘られた地下壕へ移ることになり、以降、私たちは地下壕の中で通信業務に当たりました。・特攻隊の出撃命令を伝える 戦況悪化に伴い、特攻隊の出撃命令が増え、これを各航空隊に伝えることが、私たちの主な業務となりました。特攻隊の出撃命令は、「明日、黎明攻撃」というふうに伝えていました。 私たちは皆、「お国のために」と一生懸命に働きましたが、私たちと同じくらいの年の特攻隊員もいて、「かわいそうだね」と通信隊仲間で話すこともありました。 ある時、出撃前の特攻隊員から「あそこにいる女性に渡してほしい」と手紙を渡され、顔見知りでない電話交換手に、緊張しながら、その手紙を届けたことがありました。最期に何をしたためたのでしょう。・終戦・解散 7月下旬に司令部が大分に移った後も、鹿屋高等女学校出身の隊員だけは、引き続き地下壕の中で任務に当たっていましたが、その後すぐに終戦となり解散。「米軍が上陸したら女性や子どもは捕らえられる」との連絡が入ったため、皆急いで家に帰りました。 家に帰ると、父が外で待っていました。近所の多くの人たちが、山奥の杉林に逃げていたことも覚えています。・仲間たちと続く友情 通信隊は厳しい規律の中での業務でしたが、皆本当に仲良しでした。地元に残っている旧友たちで「すみれ会」と称して、戦後まもない頃から今日までずっと、月に1度集まって顔を合わせています。人数は年々減ってきていますが、皆、この集まりを楽しみにしています。 通信隊での体験は決して忘れられません。私たちは命を大切にしなければなりません。」 (元学徒通信隊『広報かのや』2017年8月号より引用)
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鹿屋駅付近に関する証言
朝日新聞「声 語り継ぐ戦争」2019年7月27日配信(画像をクリックしてください) 朝日新聞「声 語り継ぐ戦争」2019年7月27日配信(画像をクリックしてください)
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機銃掃射の下の登下校
朝日新聞「声 語り継ぐ戦争」2017年7月27日配信(画像をクリックしてください)
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鹿屋国民学校
朝日新聞「声 語り継ぐ戦争」2020年11月25日配信(画像をクリックしてください)
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軍施設から略奪
朝日新聞「声 語り継ぐ戦争」2019年7月27日配信(画像をクリックしてください)
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鹿屋基地に関する証言
朝日新聞「声 語り継ぐ戦争」2021年2月18日配信(画像をクリックしてください) 朝日新聞「声 語り継ぐ戦争」2019年7月27日配信(画像をクリックしてください) 朝日新聞「声 語り継ぐ戦争」2021年8月6日配信(画像をクリックしてください)
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電気炉管理
大原喜八郎さん(向江町) 南日本新聞「証言 語り継ぐ戦争」2020年8月18日配信(画像をクリックしてください)
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恐ろしい教育の力
岩元 和さん(野里町) 南日本新聞「証言 語り継ぐ戦争」2021年9月12日配信(画像をクリックしてください)
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鹿屋基地に関する証言
〈戦後77年 戦争遺跡を歩く〉芙蓉之塔=鹿児島県曽於市大隅 南日本新聞「証言 語り継ぐ戦争」2022年8月8日配信(画像をクリックしてください) 井ノ久保武義さん(宮崎市熊野) 南日本新聞「証言 語り継ぐ戦争」2020年9月3日配信(画像をクリックしてください) 樋渡カズエさん(曽於市末吉町岩崎) 南日本新聞「証言 語り継ぐ戦争」2020年9月16日配信(画像をクリックしてください)
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野里小学校と野里駅
「私が昭和二十五年に野里小に入学したときは、特攻隊の宿舎跡の校舎が残っていた。満々と水が流れていた用水路は洗い物などに使っていた。小さい子は泳いだりしていた。 野里駅への爆撃で、駅に勤めていたお父さんが亡くなった高校の同級生もいる。野里駅は鹿屋基地への引き込み線があったから、アメリカ軍は重要な駅としてみていたのだろう。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、3頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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上官と召集兵
「家があった向江町の裏通りで、若い上官が通ると年上の召集兵は立ち止まって通り過ぎるまで敬礼をしているのを見た。ある時、通り過ぎない内に動いたのかよくわからないが、私たちの目の前で若い上官が召集兵を叩いた。鹿屋中の生徒も先生方に立ち止まって敬礼をしていた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、21頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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憲兵隊があった場所
「父は胃腸が弱く、薬を飲もうと「ことぼし」(あかり)をつけたら、憲兵隊がどなりこんできた。憲兵隊は、今の桑波田病院のあたりにいた。刀は長く、長靴をはき、服ですぐ憲兵隊とわかった。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、21頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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上谷の印刷工場
「私たちは3年生の終わり頃の昭和19年から終戦まで、鹿屋の上谷の総務課付属の印刷工場だった。「機密第○○号様式」という文書があって、原稿を見ながら活字を拾っていた。その活字を植字工が文書の形に整える。それができたら一枚一枚足踏みで印刷していた。印刷が上がったら、各部署に配布していた。 動員は私の同級生が4人位で、他に志布志高女からも2人挺身隊で来ていた。鹿屋中学校からも4人が来ていた。専門の工員もおり、その手伝いに2人の女性がいた。数名は総務課勤務として動員され、上谷の壕の中に電気が引いてあり、そこで事務をしていた。 私たちは上谷から上がっていき、左側に印刷工場があった。今の鹿屋市文化会館の近くで、当時は畑だった。印刷工場へは汽車で鹿屋駅を降りて、歩いて行っていた。工場は平屋建てで広かった。30人足らずが働いていただろう。印刷したのは軍の関係文書で20年の終戦まで工場にいた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、8頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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野里小学校と野里駅
「私が昭和二十五年に野里小に入学したときは、特攻隊の宿舎跡の校舎が残っていた。満々と水が流れていた用水路は洗い物などに使っていた。小さい子は泳いだりしていた。 野里駅への爆撃で、駅に勤めていたお父さんが亡くなった高校の同級生もいる。野里駅は鹿屋基地への引き込み線があったから、アメリカ軍は重要な駅としてみていたのだろう。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、3頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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勤労動員時の寮
「戦時中、高山高等女学校の生徒で、鹿屋基地に勤労動員で仕事をしていた。高山高等女学校の寮は西原小学校のグラウンドにあった。特攻隊員の寮もあった。今の寿のダイソーのところにカンケイ倉庫(飛行機の部品庫)があり、そこから瀬戸町坂へ向かっているときグラマンが飛んできて、機銃掃射が始まったので今の小浜病院の近くの民家の床下に逃げ込んだ。突然猫の鳴き声と鶏の鳴き声が聞こえ、怖かったのに女子学生数人で吹き出してしまった。 カンケイ倉庫はその時爆弾が落ち、三日くらい燃えていた。その倉庫に私は勤務することになっており、かろうじて命拾いした。その後は、今の鮫島病院の下の崖に掘ってあった防空壕で仕事をした。 私は補給隊所属で、よく兵隊さんから牛乳をもらったものだ。隊長さんは最終的に特攻に出られて、そのまま帰ってこなかった。 通信をしていた女生徒については知らない。おそらく私の下級生だろうと思う。それぞれの配属先で仕事が全く異なるので、他の生徒が何をしているかは分からなかった。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、22頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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終戦の日
「八月十五日母が「情報がおかしいから、今日は行かないで。」と止めるのを聞かずに出かけた。上谷に着くと、理由も言わず上司に「今日は帰れ」と言われ、鹿屋駅に行ったが、汽車は軍人で満員、屋根にも乗り、窓にもぶら下がっていて一般の人はとても乗れなかった。 国道を走って帰っていたら、高橋(現鹿屋市上野町)で避難してくる母とばったりあった。母は赤痢にかかっている三歳の三女を背負い、道々鍋のおかゆを食べさせながら歩いて打馬のおばの家に行く途中だった。一歳の四女は、見かねてかわいそうに思われた軍人さんが背負って毎と一緒にきてくれていた。軍人さんと代わり、鍋をもって時々妹におかゆを食べさせながら叔母の家にいった。父も打馬の叔母の家にきて、それから高隈へ行った。赤痢の妹はその後二年間位歩く事が出来ず小学校入学前にやっと歩けるようになった。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、18・19頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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野里町の空襲
「4月18日自宅が空襲にあった。警戒警報が鳴る前に空襲が始まった。その時、私たち家族は兵隊の防空壕に避難していた。7つ違いの上の兄貴が私たちがいた防空壕に「家は全部燃えとったど」と位牌だけ全部抱えてきた。空襲後は、防空壕では生活できないので、畳3枚の土間もない小さな掘っ立て小屋を建てて、そこに5、6人が寝泊まりした。 敵の艦載機がよく低空で飛んできた。人を見かけては襲ってきたが、近所には機銃掃射で死んだ人はいない。7月28日、夫の父親が腹に爆弾の破片が当たって即死、また、おばさんも怪我をした。もう少しで終戦だったのに。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、10頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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下谷・上谷付近の様子
「四月、旧制中学校の四年生になり、学徒動員に行った。第二十二海軍航空廠に行き、ゼロ戦の脚の解体にあたった。志布志にも行ったが、串良の飛行場には行ったことは無かった。笠野原で仕事をしている時爆撃された時は「死ぬ」と思った。国分第一航空基地には、トラックの荷台に乗って行き、ゼロ戦の脚の回収をした。 通常は汽車通学で、空襲警報の時は学校に歩いて行ったが、警戒警報が発令された時は行かなくても良いことになっていた。下谷の通信室の裏の谷が集合場所で、雨の日には特攻隊員との交流もあった。年が二~三歳しか違わない人達で、恩賜のタバコを吸っており、明るい表情だった。上谷に組立班があり(今の文化会館近く)、基地の周囲は防空壕だらけだった。爆弾が次々落ちるのがとても怖かった。野里駅に着いたら空襲警報が鳴り、駅から飛行場を横切り三・五キロメートルぐらい走って防空壕に入った時が一番怖い思いをした。基地には自由に入れた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、24頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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鹿屋航空廠の見習い工員
「20年3月下名の高等科を卒業して、鹿屋航空廠で見習い工員として採用され、寮に入った。寮には30人ほどがいて下名小学校から8人くらい、西俣や吾平など、いろんな学校からも来ていた。 食器は、紙で作ったような食器で、ご飯粒は数えるほど、麦や押しつぶした大豆が入っていた。おかずは味噌汁。自分たちは家が近かったので、親が炒った大豆や落花生を届けてポリポリ食べていた。 特に仕事は無くて、勉強だったが、それも飛行機の絵を先生(軍人)が書いて、詳しく説明した。 毎日のように米軍機が来て、宿舎から、西原小方面の谷に逃げた。逃げる途中、はちまきを落としたら、きつく叱られた。米軍が来たら、所構わず、溝や畑にうつぶせになってやり過ごした。夜、焼夷弾が落とされた時は、昼間みたいにとっても明るくなった。爆弾が落ちた時のために、「目と耳を抑える」方法は習った。機銃掃射を受けたことや、近くに爆弾が墜ちたことは無かったが、とにかく恐ろしかった。 西原には、1か月半くらいいて空襲が激しくなり、当時、吾平の青年学校(現吾平中学校)のあったところが分散工場になり、そこに配属されて家から通った。歳上の女の人たちは、旋盤で金物を削ったり、機械を使ったりして仕事をしていた。ここでも仕事らしい仕事は無くて、天気の良い日は、カボチャやナスビ、サツマイモの畑に行った。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、23頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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鹿屋第二航空隊の掩体壕作り
「入学式はあった。その頃は、まだ空襲はないから、一年生の前半の6か月は授業があった。そのあと野里の第2航空隊の掩体壕作り、朝、登校して1年生はモッコ、3年はスコップとみんなで出かけた。コの字の土の掩体壕の基礎部分にモッコで土を運んだ。7、8基は作った。機械で土を盛ってあり、上級生がスコップでモッコに入れた。だいたいが近くに盛ってあり、遠くても掩体壕から100m位の近い場所に土の山があった。上級生からよく怒られたものだった。女学校など他の学校が作っているのは知らなかった。各学校で場所が違ったのだろう。20年の5月、6月は牧園に疎開したから、その前の3月から4月くらいに作ったのだろう。私たちが作った田崎の掩体壕は今も一部残っている。コンクリートまでは生徒はできないから基礎つくりだった。10基くらいはあったろう。ゼロ戦を入れると言われてそのつもりで作っていた。野里までは農学校から教練を兼ねて、駆け足でやってきた。昼飯は握り飯と漬け物が出た。学校は出さないから軍から出たのだろう」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、32頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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小松城跡の防空壕
「小松城跡の所に5~6本、軍の防空壕が掘ってあった。そのうち1本は貫通していた。国道に近い方の2本に集落の人を入れた。7軒だったと思う。2本は施設部のドラム缶が入れてあった。防空壕の前の広場には、リュウゼツランや木の枝等で見えないようにしてあった。向かい側で国道269号の下の方(現在、孟宗竹林となっているあたり)に、三角兵舎が2棟あり、その東の大きな建物には、軍の偉い人たちがいた。 とにかくお腹がすいていると言って「芋を分けてくれ」と言われるので、母はふかした芋を畑の決めた場所に置いていた。佐賀県出身だったと思うが、ごはん茶碗の焼き物をお礼にくれた兵もいた。 掩体壕に入った飛行機にガソリンを入れるタンクローリーがあった。それにはねられ、子どもが1人亡くなった。燃料車は何台も来た。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、11頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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田崎国民学校の空襲
「学徒動員で川西の畑で農作業をしていたら、川西に住む伯母が「空襲だから早く帰って、防空壕に入りなさい」と言われたので、私たちは田崎小学校の横にある墓の近くの防空壕に逃げ込んだ。爆弾の威力はすごいもので、砂煙がドーンと上がる。私は爆風で息もできなかった。防空壕の近くに消防の見張り台があり、鐘を打っていた消防団の人の足に爆弾の破片が当たり、重傷を負い、私たちの防空壕に運ばれてきた。当時、私たち女学生は三角巾、脱脂綿を袋に下げていつも持っていた。それを止血に使われた。自分の帯も止血用に使われたが、亡くなった。戦後、職場でその方の息子さんに会って、お互いに驚いたことがある。 小学校の校長先生が奉安殿のご真影を抱いて亡くなられた。大きな穴が3つもあいていた。道路の反対側に爆弾が落ちていたら、私たちは死んでいた。米軍は田崎小学校を軍事工場とまちがったらしい。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、8頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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海軍航空廠総務課に勤務
「昭和18年4月21日、海軍航空廠の総務課に配属されて軍法会議事務所に勤めた。法務官は大尉ほか、タイプを打つ私を合わせて4人いた。聴取記録をタイプで打ち直し、大尉が間違いないか確認してから、封筒に入れ「何々部隊のだれだれに持って行きなさい」と言われて、新生町か下谷にある防空壕へ持って行った。川べりには「○○部隊」「○○部隊」と書かれた防空壕がいっぱいあった。 このときは、基地内にある二階建ての寄宿舎にいた。寄宿舎にはいろんな部署の工員がいた。食事は麦ごはんや粟ごはんだったが、ひもじい思いはしなかった。事務所は「城山」と呼んで、自転車通勤をした。」 「3月18日の初空襲の日は、基地内にある寄宿舎にいた。朝5時か6時頃火の玉がどんどん飛んでいた。機銃の弾だったのかも知れない。「退避!退避!」という号令で今坂の神社の竹山の中に身を隠した。近くに壕は無かった。後から、朝鮮人の女の人が赤ちゃんを抱いて竹山に避難してきたが、赤ちゃんのお腹を機銃の弾が貫通して、死んだ赤ちゃんを泣きながら抱いていた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、7頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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爆弾集積場の爆発事故
「郷之原の山に囲まれた区域に爆弾を集めて置いていた場所があり、米軍が1人見張りをしていて、近づくとピストルを空に向けて撃っていた。1945年11月8日、爆弾が大爆発を起こし、翌日まで燃えていた。このため、郷之原上地区に火の粉が飛び、60戸位全焼した。懸命に水をかけてたった1軒だけ残った。この時2人亡くなった。サツマイモの収穫時期だったのでほとんどの人が畑に出ていた。牛や馬などの家畜の多くが犠牲になったと考えられる。また、谷の向こう側の松橋集落の一部も燃えた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、6頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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西原地区の爆弾集積場
「戦後、10月10日、西原地区には爆弾が積んであり、落下傘もあった。子どもだから信管をはずすというのも知らないので、爆弾の下の落下傘を取ろうとして爆発し4人の死傷者がでた。自分はたまたま遅れて行ったので助かった。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、6頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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郷之原の掩体壕
「ダグラス機を航空隊から誘導路を使ってみんなで掩体壕に引っ張ってきた。コの字型の掩体壕はこの辺に47あった。誘導路は荒平石を割ったのを敷いてローラーで固めてあった。 赤とんぼ(練習機)に似せてテントに赤を吹っかけて作っていた。戦後、それをきれいに洗って服を作ってもらった。」 「戦後、掩体壕を壊すのが大変だった。掩体壕はスコップで壊していた。1つ壊したらいくらと値段がついていた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、6頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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郷之原の烹炊場
「郷之原には、軍隊の飯場(烹炊場)があった。つわや食べられる草を持っていけば乾パンをくれた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、6頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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掩体壕造り
「はっきり記憶していないが、(女学校)一年生の終わりごろだったか、掩体壕造りに行って朝から夕方まで土運びをした。場所は、西原の今坂町の上あたり、国道より南側だったと思う。いった大豆がおやつで、お弁当はさつまいも。(私の家は今の市の体育館やテニスコートなどがあるあたりに広い畑を持っていたので、まだよかったと思う。)竹やり訓練やだんじょう訓練があった。だんじょうは一メートルあまりの棒、その棒で何をしたかは覚えていない。吾平山稜まで行く訓練もあったが、体が弱く参加しなかった。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、20・21頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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徴兵検査
「鹿屋国民学校五年生の時は、講堂に続いた二階の教室だった。徴兵検査が講堂で実施されている時、勉強中に異様な物音が続いた。なぜあんな音がするのか、聞いてはいけないような気がして黙っていた。戦後になって教えてもらったら、悪い病気にかかって徴兵検査に合格しない人が叩かれ床に倒れる音が、二階まで響いていたところだった。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、21頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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防空壕での仕事
「私は、終戦前一か月位は、下谷のさつき苑の下の防空壕に保管してある二メートル位の機関銃をかついで運びだす仕事を毎日させられた。銃はとても重くて肩が痛くて痛くて大変だった。トラックは何台も待っていた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、18頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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第五航空艦隊司令部に関する証言
【証言1】司令部での仕事 「十六歳の時、聴力検在・思想調査があり、戸籍抄本を持って行った。一ビルの前で入隊式をし、当初一ビルで仕事をしていたが、その後、新生町の地下壕に移った。勤務は三交代制で、串良・笠野原・出水・佐世保・呉・海軍省等からの情報をメモして持っていく仕事。電信室、電話室、作戦参謀室を行き来した。一人一人ボックスで囲まれていた。「作戦電話室です」と伝え防空情報を受け、各基地ヘ情報を流した。具体的には、「〇〇日黎明攻撃がある」と各基地へ連絡した。「我突人す」「油が切れて不時着した」「都井岬上空(または佐多岬上空)敵機来襲」等の受信。はじめ台湾沖航空戦だったが、だんだん沖縄にきた。どんどん飛行機が少なくなった。 新生町の地下壕の中は電気がついていて、壕の中は広くいろいろな部屋があった。朝から晩まで機銃掃射があった。休み時間は、敵のレーダー妨害のための銀紙作りの仕事をした。外へ洩らさないよう機密保持の為に全員宿舎に寝泊りした。しばらく三角兵舎だったが軍が新生町の民家を借り上げて、雑魚寝をした。食事は、新生町にあった烹炊場で三食軍人さんと同じで、司令部付だったのでよかった。(例ごはん、汁、肉じゃが)自分たちの分は、当番で配膳して食器洗いをした。(高山高女は別の家) 毎月一晩帰宅が許された。仕事を終えて五時に帰ると冬場は真っ暗で、途中から一人になるので怖くて、くねくねの山道を走って帰った。朝ごはんを食べたら昼ごはん前に隊に帰る。三月からは米軍の空襲をうけ、隠れながら新生町の壕に帰った。仕事は、お国のためにと一生懸命、楽しく頑張った。今は男女交際をしているが、当時は「男の人と話をしてはいけない。近所の人とも…」と言われていたので、兵隊さんとも話したことはなかった。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、25頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 【証言2】 作戦電話室の仕事 「鹿屋高等女学校在学中、第五航空艦隊司令部へ動員で行く際、打馬町の春日神社で全校生徒そろっての壮行会があった。仕事は、有線電話で各基地に連絡した。笠野原、串良、知覧(無線は、軍人さんがしていた)。電話は地下壕の部屋の片側に十台、両方合わせて二十台置かれていた。―つのボックスに―つの机、一台の電話があり、二人で担当した。六人一組のグループだった。作戦電話室は板張りで、通路は土だったと思う。司令室に行ったことは無かった。通信で今でも記憶から離れないのは、「ひとまるまるまる(一〇:〇〇)まるだい発進」という言葉。今から特攻が飛ぶという合図だったと思うが、これを言った後、壕の外を何機も飛行機が「ゴー」とものすごい音をたてて飛んでいった。壕の入口で、金モールをつけた偉い人が頭を垂れていた姿が忘れられない。(*まるだい…「桜花」は大田正一発案によるためこう呼ばれた) 地下壕の近くに寮があった。食事は軍人と同じもの。帰宅の許可が出ると乾パンや缶詰を持って帰るので妹たちが楽しみに待っていた。負けるのではないかと思ったことは無かった。終戦は宿舎で聞いてみんな泣いた。自分たちがこんなに働いてがんばったのに…と思った。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、26頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 【証言3】第五航空艦隊で勤務 「昭和20年6月頃、鹿屋の第五航空艦隊に移った。横須賀から一緒に20人くらい来たが電信室には4人しか入らなかった。防空壕の中で仕事をした。上の方の基地には1回も行った事がなかった。3交代8時間勤務。第五航空艦隊にはレーダー探知機があった。モールス信号で受けるので意味は分からず、受けたとおり受信紙に書くだけで解読は別だった。戦艦からか基地からかということも分からなかった。 例えば、発信元は「トミ3」というのがあった。分かったのが「キン」というのは「緊急」の意味で、「サキ」というのは、「作戦電信」ということだった。交信は、暗号文の通り打つだけだった。電信長は佐世保では中尉くらいの階級の人だったが、鹿屋ではどの人か分からなかった。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、4頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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掩体壕・電波探知機施設
「私の一、二級上の人は動員で軍事工場に行っている。光同寺の人が一人勤労動員で軍事工場に行き、長崎原爆で亡くなった。私は田崎国民学校で、六年生ころから高等科一年まで基地の近くに掩体壕造りに行った。今の田崎学習センターの西の谷に、電波探知機の施設造りにも行った。これができれば戦争に勝つと言われた。その探知機は終戦になり、完成はしなかったと思う。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、17頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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鹿屋基地の空襲
以下の地図は、鹿屋基地の空襲に関する米軍の記録から作成しました。 ただし、鹿屋基地に対する空襲の全てではありません。 ※画像をクリックしてください。ポップアップウィンドウが開きます ・1945年3月18日 National Archives and Records Administration:243-I-10-55-018-02より作成 ・1945年4月18日 National Archives and Records Administration:341-NM15-217-660-58631より作成 ・1945年4月21日 National Archives and Records Administration:341-NM15-217-660-58634より作成 ・1945年4月27日 National Archives and Records Administration:341-NM15-217-669-59170より作成 ・1945年4月28日 National Archives and Records Administration:341-NM15-217-669-59181より作成 ・1945年4月29日 National Archives and Records Administration:341-NM15-217-670-59186より作成 ・1945年4月30日 National Archives and Records Administration:341-NM15-217-670-59188より作成 ・1945年5月3日 National Archives and Records Administration:341-NM15-217-687-60725より作成 ・1945年5月5日 National Archives and Records Administration:341-NM15-217-702-61966より作成 ・1945年5月7日 National Archives and Records Administration:341-NM15-217-702-61973より作成 ・1945年5月10日 National Archives and Records Administration:341-NM15-217-702-61979より作成 ・合成 ※以上の地図は、地理院地図Vector(試験公開版)より作成
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鹿屋航空基地史料館
「館内には旧日本海軍創設期から第二次大戦にいたるまでの貴重な資料のほか、「永遠の0」にも登場する「零式艦上戦闘機五二型」、特攻隊員の遺影や遺書などが展示されています。そのほかにも1階には、海上自衛隊の活動状況も紹介されています。 世界で唯一する現存する「二式大型飛行艇」も必見です。」・所在地:鹿屋市西原3丁目11-2・電 話:0994-42-0233・営業時間:9時~17時(入館16時30分迄)・休館日:12月29日から1月3日まで・料 金:無料・駐車場:あり・トイレ:あり(鹿屋市「鹿屋に残る戦跡」より引用) 『かのやファン倶楽部』 「かのやファン倶楽部 平和への歴史を振り返る場所「鹿屋航空基地史料館」」 ・Hatena Blog 日刊 おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡) 【鹿児島特攻慰霊⑨】日本で1番多くの特攻隊員が出撃した海軍鹿屋飛行基地 2022年9月6日 ・アメブロ『海とひこうき雲-日本海軍好きのゆるゆる日記です。』 鹿児島旅 海上自衛隊鹿屋航空基地史料館 2012年8月5日 鹿児島の旅 肥田真幸 海軍大尉 2012年8月6日 海上自衛隊鹿屋航空基地史料館へ 2013年5月8日 零戦五二型 ~海自鹿屋航空基地史料館 2018年11月21日 ・『福岡発‼九州観光ガイド』 鹿屋航空基地資料館 2017年6月17日 ・旅人のブログ鹿屋航空基地資料館(鹿児島県鹿屋市) 2018年8月21日 戦争と戦後が始まった歴史の舞台~海上自衛隊鹿屋航空基地史料館 産経新聞ニュース 2018年8月16日 〔MBC南日本放送〕 「8/15(火)戦争の記憶(鹿屋基地史料館・国分基地清掃・殉国者慰霊塔・ゼロ戦展示)」 2017年8月15日 スマイル中継「【終戦の日】鹿屋の地で後世に語り継ぐべきもの」 2018年8月15日 「戦争の記憶①ゼロ戦引き上げ鹿屋基地で復元・展示(前)(1992)」 2019年8月12日 「戦争の記憶②ゼロ戦引き上げ鹿屋基地で復元・展示(後)(1993)」 2019年8月13日
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鹿屋航空基地19450318
National Archives and Records Administration:243-I-10-55-018-02(鹿屋市所蔵)を一部改変。 ※「海軍鹿屋航空基地1945年3月18日撮影」アーカイブマップへ
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魚雷・エンジン・プロペラ
(準備中) ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2017年10月1日 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2017年10月3日 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2017年1月4日 (準備中)
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国旗掲揚台ポール
・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2017年10月1日
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二式飛行艇(二式大艇)
1942年に採用された、全長約28m、翼長38mの大型飛行艇です。 航続距離は8000kmを超えていたと言われており、1945年3月11日のウルシー環礁の米艦隊への奇襲特攻作戦である第二次丹作戦では、鹿屋基地から出撃した銀河陸上爆撃機24機を誘導するために、3機が鹿児島市鴨池基地から発進しました。 本機は、戦後、性能試験のためアメリカで保管されていたもので、1979年に日本に返還されました。2004年から海上自衛隊鹿屋航空基地史料館で屋外展示されています。(安藤広道) ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2022年3月11日 ・アメブロ『海とひこうき雲-日本海軍好きのゆるゆる日記です。』 鹿児島の旅 二式大艇 1 2012年8月6日 鹿児島の旅 二式大艇2 2012年8月6日 鹿児島の旅 二式大艇3 2012年8月6日 二式大艇4 2013年5月8日 二式大艇⑤と横浜海軍航空隊 2018年11月11日
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第五航空艦隊司令部壕(見学はできません)
第五航空艦隊は、沖縄方面からの米軍の進攻に対する特攻作戦を展開するために、1945年2月10日に編成された部隊です。艦隊という名称がついていますが、艦船をもたない基地航空部隊です。司令長官に補職されたのは宇垣纒中将でした。 1945年4月からの沖縄戦では、神奈川県横浜市の慶應義塾大学日吉キャンパス内に置かれた連合艦隊司令部の下、海軍の大規模航空特攻作戦を指揮していました。(安藤広道) 米軍撮影写真に写った司令部 (National Archives and Records Administration:341-NM15-217-669-59181(鹿屋市所蔵)より) 当時の電信室の様子 (情報局『写真週報』第371号 1945年6月1日 6頁より) 作戦電話室 暗号室 電信室(『写真週報』の写真の坑道) 作戦参謀室(作戦室:宇垣纒司令長官や参謀たちがいたところ) ・アメブロ『海とひこうき雲-日本海軍好きのゆるゆる日記です。』 第五航空艦隊司令部壕 2013年5月10日 鹿屋市 2017『広報かのや』No.279(2017年8月号) ・安藤広道 2020『慶應義塾大学日吉キャンパス一帯の戦争遺跡の研究II』慶應義塾大学文学部民族学考古学研究室(Box) ※この報告書内に第五航空艦隊司令部壕の調査報告を掲載しています。 報告書はこちらからもダウンロードできます。
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小塚公園
「鹿屋基地から出撃し命を落とした特別攻撃隊員908名の御霊を祀る慰霊塔があり、908名の戦没者が銘板に刻まれています。 桜の花咲く4月には慰霊祭が行われています。」(鹿屋市「鹿屋に残る戦跡」より引用) ※画像をクリックしてください。 Youtubeに飛びます(3Dデータ) ・Hatena Blog 日刊 おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡) 【鹿児島特攻慰霊⑩】鹿屋航空基地特別攻撃隊戦没者慰霊塔(小塚公園) 2022年9月7日 ・アメブロ『海とひこうき雲-日本海軍好きのゆるゆる日記です。』 鹿児島旅 小塚公園(旧鹿屋航空基地特別攻撃隊戦没者慰霊塔) 2012年8月5日 ・『福岡発‼九州観光ガイド』 鹿屋基地周辺の戦争遺跡 2017年6月17日
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桜花の碑
「戦争末期、人間爆弾・桜花作戦を行った神雷部隊は野里国民学校を宿舎としていました。 特別攻撃隊員たちが別れの盃を交わした地に建つ「桜花の碑」は、当時報道班員として神雷部隊と生活を共にした作家・山岡荘八氏が揮毫したものです。」・所在地:鹿屋市野里町(朝日神社隣)・駐車場:あり・トイレ:なし(鹿屋市「鹿屋に残る戦跡」より引用) ※画像をクリックしてください。 Youtubeに飛びます(360度動画) 鹿屋よかとこ探訪『【Part2】残していきたい記憶~人間爆弾と呼ばれた『桜花』・前編~』2020年8月12日 鹿屋よかとこ探訪『【Part2】残していきたい記憶~人間爆弾と呼ばれた『桜花』・後編~』2020年8月12日 ※画像をクリックしてください(Youtubeに飛びます)。 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2022年3月21日 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2019年4月1日 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2018年3月22日 ・Hatena Blog 日刊 おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡) 【鹿児島特攻慰安③】桜花の碑(海軍神雷部隊寄宿舎および別盃之地) 2022年8月19日 ・アメブロ『海とひこうき雲-日本海軍好きのゆるゆる日記です。』 鹿児島の旅 桜花の碑 旧野里小学校1 2012年8月5日 鹿児島の旅 桜花の碑 旧野里小学校2 2012年8月5日 桜花の碑 旧野里小学校3 2013年5月15日 桜花の碑 旧野里小学校4 2013年6月12日 桜花の碑 旧野里小学校5 2018年11月29日 片桐清美 一飛曹 2014年3月9日 ・『福岡発‼九州観光ガイド』 桜花の碑/野里国民学校跡/野里国民学校 国旗掲揚台 2017年6月17日 ・『黒しばわんこの戦跡ガイド』 特攻隊員との決別の地「桜花の碑」 2021年2月24日 以上、2022年7月29日撮影
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田崎国民学校 頌徳碑
「この日(1945年4月8日)、現在の田崎小学校の場所にあった田崎国民学校は、米軍機B-29による爆弾の直撃を受けました。学校の校舎は壊滅し、教員2人と警防団員(現在の消防団員)1人がその犠牲になるなど、大きな被害を受けました。 なぜ学校に爆弾が落とされたのか、明確な理由は分かっていませんが、その日は厚い雲に覆われていたため、基地などと間違えて誤爆したという説があります。 現在、田崎小学校の校庭の片隅には、殉職した大石伝吉教諭、中村重雄教諭、穂山末盛氏の3人をしのぶ「頌徳碑」が建てられています。」(『広報かのや』2018年8月号より) ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2017年9月14日 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2018年4月2日 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2018年4月8日 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2018年4月14日
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第二鹿屋海軍航空隊の碑
(準備中)