鹿屋戦争アーカイブマップ(公開版)
・アーカイブMapは、地図上に情報をアーカイブし、情報を場所と結びつけることで、「情報の経験」を拡張しようとする試みです。
・このMapでは、鹿児島県鹿屋市一帯のアジア太平洋戦争に関する情報をできるだけ多く集め、それらをそれぞれに関わる場所と結びつけて紹介することを目指しています。
update date: 2023.05.17
このマップ(地図)を見るNumber of spots : 188spots
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第五航空艦隊司令部に関する証言
【証言1】司令部壕の建設 「・僅か4日違いで海軍へ 旧制鹿屋中学校(現鹿屋高校)を卒業後は陸軍に入隊することになっていたのですが、入隊4日前に海軍施設部に合格したため、18歳で海軍に入りました。佐世保で建築技工士として勉学の傍ら、訓練をみっちり受けました。1年後には武官転用試験を受けて、下士官となりました。・司令部の壕造りを指揮 昭和20年1月、故郷・鹿屋へまさかの赴任。配属された部隊は軍人が隊長以下6人のみで、あとは約600人の工員でした。工員の大半は朝鮮半島出身者で、3つの中隊に分かれ、壕造りや採石・採砂、基地滑走路の補修等に当たりました。 私が中隊長として任されたのは地下壕造り。赴任当初は、これが第五航空艦隊の司令部の壕になるということは知りませんでした。隊長から「シラスは崩れやすいから掘るのは難しい」と言われましたが、「私はシラス台地で育った男だから、小さい頃から扱いは慣れている」と答えたのを記憶しています。 地下壕造りは工員約200人が3交代制で24時間行われる突貫工事。しかも終わりの見えない工事でした。工員は一生懸命に働いていましたが、重労働であったため、少しずつ目標を決めて、達成したらその都度休みを入れるように心掛けました。 私たちは地下壕近くの民家を接収して寝泊りしていたのに対し、工員は郷之原の宿舎から現場を往復する毎日。工員の外出・外泊は原則禁止でしたが、独断で許可証を発行し、息抜きをさせることもありました。工員との信頼関係を保つのも、工事を進める上で大事なことでした。・特攻隊員の言葉 工事がまだ半分も進んでいない頃から、第五航空艦隊司令部の機能が地上から徐々に地下壕へと移ってきて、軍人と高等女学校挺身隊員らが出入りするようになりました。 地下壕の近くに三角兵舎もあり、出撃前の特攻隊員も多く見ました。彼らと言葉を交わすことはほとんど無かったのですが、ある時、名も知らぬ特攻隊員が、「この戦は勝ちっこないが、君は命を大事にして長生きしなさい」と私に言い残して、飛んでいきました。地下壕の中で涙をこらえながら、ただただ手を合わせて拝むしかありませんでした。・思い出す、ある旧友のこと 特攻隊員のことを考えると、旧制中学時代の旧友のことも思い出します。校内に貼り出された柔道の昇段試験結果に自分らの名前が載っていなかったので張り紙をはいで肝属川に投げ捨てたため、謹慎させられた2人の旧友がいました。謹慎が癪しゃくにさわったのか、2人は退学してすぐに航空兵になりましたが、その後、ともに台湾沖で亡くなったと聞きました。2人とも頭も体格も良い男でした。・命からがら故郷へ 終戦時は人吉にいました。混乱の中、駅は列車を待つ人でごった返し、列車の屋根にも無数の人々がしがみ付いていました。私は目の前に止まった郵便車両に死にものぐるいで乗り込みました。車両では、あの混乱の中にあっても、2人の職員が郵便物の仕分け作業をしており、この時はさすがに頭が下がる思いでした。私は車中で難を逃れ、故郷に生きて帰ってくることができましたが、列車の屋根にしがみ付いていた多くの人々は、トンネルで命を失ったと思います。 私はあの悲惨な戦争から生き残った身。生き延びた以上、失った多くの命のためにも、戦争中の体験を伝えることが、私の使命だと思っています。」(元海軍2等技術兵曹『広報かのや』2017年8月号より引用) 【証言2】 作戦電話室での仕事 「・高女から学徒通信隊へ 戦局が険しさを増す昭和19年9月、旧制鹿屋高等女学校(現鹿屋高校)に在学していた私は、学徒動員で海軍鹿屋航空基地の学徒通信隊に入隊しました。16歳の時です。 入隊に際しては、体格や聴力の検査はもちろん、軍の機密事項を扱う部署であったため、家庭環境などが細かく調べられ、鹿屋高等女学校から25人が選抜されました。このほか高山・末吉・志布志の各高等女学校からも集められていました。・重要な任務 通信業務は基地内のビルの一室に設けられた作戦電話室で行われ、海軍省からの電話の内容を書きとめ参謀室に伝えたり、参謀が立てた作戦を串良や国分、出水などの各航空隊へ伝えたりする重要な任務を負っていました。秘密を守ることも徹底されていました。・通信隊の勤務と生活 隊員は24時間3交代制の勤務で、共同生活を行っていました。入隊して1か月は板張りの三角兵舎に寝泊りし、その後は軍が借り上げた大きな民家に皆で住んで、毎日職場まで往復しました。月に1度実家に帰宅することができましたが、勤務を終えた後に1晩泊まって翌朝すぐに出て行くので、家族との会話はほとんどできませんでした。 職場での服装は長袖のシャツとモンペで、3着を着回しました。白の長袖シャツも持っていましたが、外に出ると目立つからと、のちにカーキ色に染められました。・空襲を期に司令部ごと壕へ 昭和20年2月には、鹿屋航空基地に第五航空艦隊の司令部が置かれ、私たちも司令部配属に。そして同年3月頃から、米軍による鹿屋市への空襲が始まると、司令部ごと基地近くの山に掘られた地下壕へ移ることになり、以降、私たちは地下壕の中で通信業務に当たりました。・特攻隊の出撃命令を伝える 戦況悪化に伴い、特攻隊の出撃命令が増え、これを各航空隊に伝えることが、私たちの主な業務となりました。特攻隊の出撃命令は、「明日、黎明攻撃」というふうに伝えていました。 私たちは皆、「お国のために」と一生懸命に働きましたが、私たちと同じくらいの年の特攻隊員もいて、「かわいそうだね」と通信隊仲間で話すこともありました。 ある時、出撃前の特攻隊員から「あそこにいる女性に渡してほしい」と手紙を渡され、顔見知りでない電話交換手に、緊張しながら、その手紙を届けたことがありました。最期に何をしたためたのでしょう。・終戦・解散 7月下旬に司令部が大分に移った後も、鹿屋高等女学校出身の隊員だけは、引き続き地下壕の中で任務に当たっていましたが、その後すぐに終戦となり解散。「米軍が上陸したら女性や子どもは捕らえられる」との連絡が入ったため、皆急いで家に帰りました。 家に帰ると、父が外で待っていました。近所の多くの人たちが、山奥の杉林に逃げていたことも覚えています。・仲間たちと続く友情 通信隊は厳しい規律の中での業務でしたが、皆本当に仲良しでした。地元に残っている旧友たちで「すみれ会」と称して、戦後まもない頃から今日までずっと、月に1度集まって顔を合わせています。人数は年々減ってきていますが、皆、この集まりを楽しみにしています。 通信隊での体験は決して忘れられません。私たちは命を大切にしなければなりません。」 (元学徒通信隊『広報かのや』2017年8月号より引用)
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田崎国民学校に関する証言
【証言1】田崎国民学校の空襲 「昭和20年、私は13歳でした。初めて空襲があった3月18日の朝は寒く霜が降りていました。飛び起きると飛行機が空中戦をやっていました。日本は勝つものだと教えられていましたが、空中戦の途中で火が付いて落ちた飛行機は、日本の零戦でした。 4月8日の日曜日、田崎国民学校が空襲にあった日のことをよく覚えています。その日は曇りで暖かい日でした。 私は高等科2年(現在の中学2年生)でした。同級生は92人で、全校生徒は700人から800人いたと思います。前日の4月7日が入学式でした。 その頃学校では、うさぎ・豚・やぎ・にわとり・牛を飼っていました。最上級生だった私たちは牛の当番でした。 朝8時過ぎに学校に行き、同級生の中村君と一緒に、学校東側の実習田へ、牛を引いて運動させに行きました。 そこはレンゲ草が繁茂していたので、牛に食べさせました。もう1人の同級生の牧野君が来なかったので、家に呼びに行こうということで、大正橋の近くの桜の木に牛をつなぎ、その同級生のいる集落まで向かった時です。空襲警報のサイレンが鳴りました。 私たちは、慌てて牛を走らせて引き返し、学校の正門にたどり着きました。その時、鍵をもって奉安殿に行かれる途中の大石先生に会いました。「牛を早く牛舎に入れて、奉安殿の横の防空壕に入らないか」と言われましたが、牛を牛舎につなぎ、私たちはそれぞれの家に帰りました。私の家は学校から100mの場所にありました。帰る途中、私の叔父・末盛が警防団服を着て鐘を叩きに警防団詰め所へ走って行く後ろ姿を見かけました。それが叔父を見た最後の姿となりました。 家に帰ると、姉2人が洗髪などをするために釜でお湯を沸かしているところでした。これは危ないと思い、慌てて水をかけようとした途端、ドドドンという大音響と爆風で、一瞬にして真っ暗闇になりました。何秒か何分経ったかわかりませんが、気がついた私は釜小屋の戸袋に吹き飛ばされていました。自宅と牛小屋はすべて吹き飛び散乱している状態でした。 幸いにして私は怪我なく無事でしたが、「助けてくれ」という姉の悲鳴を聞き竹山に行くと、爆風の破片で背中を負傷していたので、着物で止血し防空壕へ連れて行きました。 爆弾は、学校とその周辺にいくつも落とされていました。大石先生は御真影を抱いたまま校長住宅下の防空壕で、中村先生は小使室と職員室の渡り廊下で亡くなったそうです。学校の奉安殿も、爆弾の直撃を受けていました。もし、横の防空壕に入っていたら死んでいたと思うと、ぞっとします。 避難警鐘を打ち鳴らしていた叔父は、警鐘台から降りる途中に爆弾の破片で左足を負傷し、出血多量で死にました。当時の永田市長が現場に見舞いに来られ、「やられたかよ!しもたなぁ」と言われたことを覚えています。 それから終戦を迎えるまで、家を失った私たちは防空壕での生活を送りました。 今の年齢まで生きられた私は、運が良かったのだと思います。戦争は絶対に起こしてはいけません。平和であることが何よりも大切なことです。」(『広報かのや』2018年8月号より) 【証言2】 田崎国民学校の空襲 「戦争が始まった昭和16年から1~2年は勝ち戦が続いていました。嬉しかったのはシンガポールが陥落した時。ゴムの産地ということもあり、女子生徒だけにゴムまりの配給があったからです。しかし戦況が悪くなると、学校に弁当を持ってこれなくなり、学校の校庭に植えた芋の代用食だけになるなど、学校生活も厳しくなりました。 昭和20年4月、私は田崎国民学校の高等科1年(現在の中学1年生)でした。4月8日は、下堀の生徒に週番がまわってきた日でした。学校に行って、職員室を掃除し各教室を見回り、花を飾りました。学校に水道がなかったので、近くの池の水を汲むのも週番の仕事でした。 水汲みから帰り着いた時、職員室で出勤していた大石先生と中村先生に会いました。「あなたたちはまだいたんですか。空襲警報が出ているので早く帰りなさい」と大石先生から言われたので、私たち4人は慌てて学校を出ました。 学校の近くには急坂があり、坂の上には鉄道が通っていました。その坂を上りかけた時です。ドーンという音がして、上から何か降ってきました。私たちはビックリして左に杉山があったので山の中に駆け込みました。そこは集落の人たちた避難していた防空壕の入口でした。その入口まで走った時、大きな爆風を受けました。上から横から何が降ってくるかわからず、倒れこんで防空頭巾をかぶった頭を4人で合わせました。私は「死ぬときは4人一緒。怖くはないよ」と自分に言い聞かせました。 飛行機の音がしなくなるまでどのくらい時間が過ぎたかは分かりません。音がやむと、防空壕に避難していた人たちが次々と出てきました。「学校が空襲を受けたらしい」という話しを聞き、すぐに学校のほうへ引き返してみました。東の校舎は残っていましたが、西の校舎は倒れていました。奉安殿も爆弾で見る影もなく吹き飛んでいました。火災は起きていませんでした。学校にいた先生たちがどうなられたか気にはなりましたが、自分のことで精一杯で、学校を後にして走り出しました。 もしあの時杉山に入らなければ、たぶん命はなかったでしょう。なぜなら、直前まで前を歩いていた男の人が、首が無い状態で亡くなっているのを見たからです。私たちは怖くて何がなんだかわからず、走り去ることしかできませんでした。 永野田に通じる松林の県道に差し掛かった時です。近くの山の上から飛行機が3機、音をたてて飛んできました。米軍機が引き返してきたと思うと生きた心地がしませんでした。道路脇の茶畑に隠れてのぞくと、飛行機に日の丸が見えました。今のうちに帰り着かねばと、1里以上もある畑の中の道を懸命に走りました。 なんとか家に帰り着くと、親の顔を見るなり、思い切り泣き出したことを覚えています。家には近所の人たちが集まっていました。私の顔は爆風ではれていたそうです。 大石先生と中村先生が亡くなったことは、あとで聞きました。自分の命よりも奉安殿の御真影のほうが大事だった時代でした。2人の先生方の生前の最後の姿・様子が今でも忘れられません。戦争がいかに怖いものか、子ども心に感じた当時の記憶は、私の心から消えることはありません。」 (『広報かのや』2018年8月号より)
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娘を呼びつつ息絶えた母
朝日新聞「声 語り継ぐ戦争」20170727配信(画像をクリックしてください)
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軍施設から略奪
朝日新聞「声 語り継ぐ戦争」2019年7月27日配信(画像をクリックしてください)
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手渡された手榴弾
朝日新聞「声 語り継ぐ戦争」2017年7月27日配信(画像をクリックしてください)
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鹿屋国民学校
朝日新聞「声 語り継ぐ戦争」2020年11月25日配信(画像をクリックしてください)
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鹿屋駅付近に関する証言
朝日新聞「声 語り継ぐ戦争」2019年7月27日配信(画像をクリックしてください) 朝日新聞「声 語り継ぐ戦争」2019年7月27日配信(画像をクリックしてください)
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鹿屋基地に関する証言
朝日新聞「声 語り継ぐ戦争」2021年2月18日配信(画像をクリックしてください) 朝日新聞「声 語り継ぐ戦争」2019年7月27日配信(画像をクリックしてください) 朝日新聞「声 語り継ぐ戦争」2021年8月6日配信(画像をクリックしてください)
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機銃掃射の下の登下校
朝日新聞「声 語り継ぐ戦争」2017年7月27日配信(画像をクリックしてください)
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東串良町の情報
◆東串良町HP ◆Wikipedia「東串良町」 ◆戦争関係 (準備中)
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錦江町の情報
◆錦江町HP ◆Wikipedia「錦江町」 ◆戦争関係 (準備中)
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志布志に関する映像・ニュース
・「死ぬことにまっしぐらだった13歳」 『戦争の記憶~寄せられた手記から~』
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鹿屋基地に関する映像・ニュース
・「特攻の基地 世代交代で薄れる記憶」 『戦跡-薄れる記憶-』2016年8月15日 ・「鹿児島の特攻基地 川端康成や山岡荘八“記録員”の作家たちは」 『NHK NES WEB』2022年6月26日 ・「鹿児島の特攻“記録員”川端康成 再生と祈りの文学の出発点は」 『かごしまWEB特集』2022年8月26日 ・「鹿屋に疎開した母の姉の話」 『戦争の記憶~寄せられた手記から~』 ・「1通の遺書から浮かび上がってきたものは…」 〔茨城ニュース いば6〕[シリーズ戦跡]いばらきeye 放送日 2020年4月22日 ・「あの日 昭和20年の記憶「進駐軍が吐き捨てたガムを口に」」 〔あの人の戦争体験〕坂上二郎さん(コメディアン)放送日 2005年8月25日 『〔証言記録 兵士たちの戦争〕「重爆撃機 攻撃ハ特攻トス~陸軍飛行第62戦隊~」』 「本編」 ・「爆撃機での沖縄特攻」 前村 弘さん(陸軍飛行第62戦隊)収録年月日 2009年3月1日・3日 ・「特攻機上で米機銃弾で負傷」 森 迪さん(陸軍飛行第62戦隊)収録年月日 2009年3月6日 ・「3トンの爆弾を積む爆撃機」 加藤 善道さん(陸軍飛行第62戦隊)収録年月日 2009年3月2日 ・「離陸すら危うい特攻機」 平井 武夫さん(陸軍飛行第62戦隊)収録年月日 2009年3月3日 ・「機動部隊発見できずに帰還」 花道 柳太郎さん(陸軍飛行第62戦隊)収録年月日 2009年3月8日 ・「沖縄への特攻から生還」 佐野 仁さん(陸軍飛行第62戦隊)収録年月日 2009年4月8日 ・「特攻で戦死した兄の手紙」 山下 昭さん(陸軍飛行第62戦隊)収録年月日 2009年3月11日 『〔証言記録 兵士たちの戦争「“人間爆弾” 桜花 ~第721海軍航空隊~」』 「本編」 ・「特攻兵器への疑問」 湯浅 正夫さん(第721海軍航空隊)収録年月日 2010年9月14日 ・「“死に場所がなくなる”」 鈴木 英男さん(第721海軍航空隊)収録年月日 2010年9月10日 ・「桜花 訓練中の事故」 佐伯 正明さん(第721海軍航空隊)収録年月日 2010年9月16日 ・「人間爆弾 桜花」 浅野 昭典さん(第721海軍航空隊)収録年月日 2010年3月12日 ・「募る死への不安」 堂本 吉春さん(第721海軍航空隊)収録年月日 2010年9月15日 ・「“桜花を切り離した”」 菅野 善次郎さん(第721海軍航空隊)収録年月日 2010年9月8日 ・「第一次桜花特攻 全滅」 野口 剛さん(第721海軍航空隊)収録年月日 2010年9月9日 ・「桜花隊 帰還せず」 友井 達さん(第721海軍航空隊)収録年月日 2010年9月13日 ・「“この世の終わりと思った”」 渡部 亨さん(第721海軍航空隊)収録年月日 2010年9月17日 ・「桜花の組み立て」 片岡 茂寿さん(第721海軍航空隊)収録年月日 2010年9月7日 『[BSプレミアム]零戦 ~搭乗員たちが見つめた太平洋戦争~』 「特攻出撃・会敵せず帰還」 柳井 和臣さん(海軍特別攻撃隊 第721海軍航空隊 ゼロ戦搭乗員)収録年月日 2015年4月4日、6月23日 『特集「巨大戦艦 大和 ~乗組員たちが見つめた生と死~」』 「大和の護衛に出動」 植松 眞衛さん(戦艦・大和 ゼロ戦搭乗員)収録年月日 2012年6月7日
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垂水基地
【垂水海軍航空基地の概要】 以下、八巻聡さんの『鹿児島県の戦争遺跡 航空基地編』(八巻聡2000)より、概要を引用します。 ・建設年:1944年 ・主任務:教育(整備) ・滑走路:ー ・格納庫:2160㎡ ・掩体壕:ー ・収容施設: 士官150名 兵員4200名 ・工場施設:有り ・教育施設:有り ・送信所・方位測定所:ー ・基地施設: 指揮所・通信所・弾薬庫・ 燃料庫・倉庫・魚雷調整場 航空基地概要 初戦の勝利も束の間に戦線各所で敗退を重ね航空機の搭乗員不足が問題になってきた。そのため、搭乗員・整備員を早期に養成のために垂水基地は建設された。 ここでは、主に航空機による雷撃訓練、魚雷の取扱い方法が教育され、6ヶ月ほど訓練を受けた後に各地の実戦部隊に配属されていった。 また、基地の近くには鹿屋海軍工廠の支所がつくられ、魚雷の修理・改良が行われた。
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田崎国民学校 頌徳碑
「この日(1945年4月8日)、現在の田崎小学校の場所にあった田崎国民学校は、米軍機B-29による爆弾の直撃を受けました。学校の校舎は壊滅し、教員2人と警防団員(現在の消防団員)1人がその犠牲になるなど、大きな被害を受けました。 なぜ学校に爆弾が落とされたのか、明確な理由は分かっていませんが、その日は厚い雲に覆われていたため、基地などと間違えて誤爆したという説があります。 現在、田崎小学校の校庭の片隅には、殉職した大石伝吉教諭、中村重雄教諭、穂山末盛氏の3人をしのぶ「頌徳碑」が建てられています。」(『広報かのや』2018年8月号より) ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2017年9月14日 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2018年4月2日 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2018年4月8日 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2018年4月14日
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垂水海軍航空隊之碑
(準備中) ・『黒しばわんこの戦跡ガイド』 垂水市柊原にある「垂水海軍航空隊之碑」 2020年12月4日
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小塚公園
「鹿屋基地から出撃し命を落とした特別攻撃隊員908名の御霊を祀る慰霊塔があり、908名の戦没者が銘板に刻まれています。 桜の花咲く4月には慰霊祭が行われています。」(鹿屋市「鹿屋に残る戦跡」より引用) ※画像をクリックしてください。 Youtubeに飛びます(3Dデータ) ・Hatena Blog 日刊 おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡) 【鹿児島特攻慰霊⑩】鹿屋航空基地特別攻撃隊戦没者慰霊塔(小塚公園) 2022年9月7日 ・アメブロ『海とひこうき雲-日本海軍好きのゆるゆる日記です。』 鹿児島旅 小塚公園(旧鹿屋航空基地特別攻撃隊戦没者慰霊塔) 2012年8月5日 ・『福岡発‼九州観光ガイド』 鹿屋基地周辺の戦争遺跡 2017年6月17日
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平和公園
「串良基地から飛び立ち戦死した特別攻撃隊員・一般攻撃隊員を祀る慰霊塔が建立されています。 滑走路跡の2本の直線道路は、桜の名所としても知られています。」・所在地:鹿屋市串良町有里5660-1・駐車場:あり・トイレ:あり(鹿屋市「鹿屋に残る戦跡」より引用) 『行きたい♪が見つかる かごぶら!』 「平和公園」 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2018年7月17日 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2017年10月14日 ・アメブロ『海とひこうき雲-日本海軍好きのゆるゆる日記です。』 鹿児島の旅 串良平和公園 2012年8月6日
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桜花の碑
「戦争末期、人間爆弾・桜花作戦を行った神雷部隊は野里国民学校を宿舎としていました。 特別攻撃隊員たちが別れの盃を交わした地に建つ「桜花の碑」は、当時報道班員として神雷部隊と生活を共にした作家・山岡荘八氏が揮毫したものです。」・所在地:鹿屋市野里町(朝日神社隣)・駐車場:あり・トイレ:なし(鹿屋市「鹿屋に残る戦跡」より引用) ※画像をクリックしてください。 Youtubeに飛びます(360度動画) 鹿屋よかとこ探訪『【Part2】残していきたい記憶~人間爆弾と呼ばれた『桜花』・前編~』2020年8月12日 鹿屋よかとこ探訪『【Part2】残していきたい記憶~人間爆弾と呼ばれた『桜花』・後編~』2020年8月12日 ※画像をクリックしてください(Youtubeに飛びます)。 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2022年3月21日 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2019年4月1日 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2018年3月22日 ・Hatena Blog 日刊 おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡) 【鹿児島特攻慰安③】桜花の碑(海軍神雷部隊寄宿舎および別盃之地) 2022年8月19日 ・アメブロ『海とひこうき雲-日本海軍好きのゆるゆる日記です。』 鹿児島の旅 桜花の碑 旧野里小学校1 2012年8月5日 鹿児島の旅 桜花の碑 旧野里小学校2 2012年8月5日 桜花の碑 旧野里小学校3 2013年5月15日 桜花の碑 旧野里小学校4 2013年6月12日 桜花の碑 旧野里小学校5 2018年11月29日 片桐清美 一飛曹 2014年3月9日 ・『福岡発‼九州観光ガイド』 桜花の碑/野里国民学校跡/野里国民学校 国旗掲揚台 2017年6月17日 ・『黒しばわんこの戦跡ガイド』 特攻隊員との決別の地「桜花の碑」 2021年2月24日 以上、2022年7月29日撮影
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進駐軍上陸地の碑
「終戦後の昭和20年9月4日に進駐軍アメリカ海兵隊2,500人が高須の金浜海岸に上陸しました。 当時、鹿屋の多くの人々が進駐軍を恐れ、山間部に逃れたと言われています。」・所在地:鹿屋市高須町(県道68号線沿い)・トイレ:なし (鹿屋市「鹿屋に残る戦跡」より引用) ・『黒しばわんこの戦跡ガイド』 鹿児島県鹿屋市にある「進駐軍上陸地の碑」 2020年6月12日
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海軍串良航空基地
※「海軍串良航空基地アーカイブマップ」へ 【串良海軍航空基地の概要】 ・串良航空基地の建設が始まったのは1943年。戦局の悪化によって航空隊の養成が急務となるなか、新しい飛行場の建設が必要だったのです。 ・1944年4月には、飛行機の搭乗、整備、通信を訓練する串良航空隊が開隊します。しかし1945年になると航空隊の養成は中止され、沖縄戦の航空特攻作戦の出撃基地となりました。串良基地から出撃した特攻作戦の死者は573名に達すると言われています。 以下、八巻聡さんの『鹿児島県の戦争遺跡 航空基地編』(八巻聡2000)より、概要を引用します。 ・建設年:1944年 ・主任務: 作戦・教育(整備) ・滑走路: 1500×50m×2本(コンクリート)、 1200×50m(芝張り) ・格納庫: 15628㎡ ・掩体壕: 中・小型無蓋 48基 ・収容施設: 作戦:士官220名 兵員2000名、 教育:士官250名、兵員9100名 ・工場施設:有り ・教育施設:有り ・送信所・方位測定所:有り ・基地施設: 指揮所・通信所・弾薬庫・ 燃料庫・倉庫・魚雷調整場 航空基地概要 航空機の整備員養成を目的として建設され、多くの若者がここで学んでいたが、戦局の悪化に伴い作戦基地へと変わっていった。 菊水作戦の時には大分の宇佐空、兵庫県の姫木空等の各基地から部隊が進出してきており、沖縄戦に参加していった。 「昭和20年10月15日現在 引渡目録 串良基地」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08011083900(原資料:防衛省防衛研究所)19頁より 「引渡目録 (串良地区)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08010901100(原資料:防衛省防衛研究所)3・5・8頁より ※これらの図と航空写真や現地との対応関係の解明が課題です。(安藤広道) ・桜と錨『海軍砲術学校』「串良航空基地」2019年3月22日 ・アメブロ『海とひこうき雲-日本海軍好きのゆるゆる日記です。』 鹿児島の旅 串良海軍航空隊へ 2012年8月6日
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3月18日・19日の高須の空襲
「 高須の初空襲 昭和二十年三月十八日早朝、警戒警報が出されてすぐ空襲警報のサイレン、初めての敵機来襲である。超低空で艦載機グラマンの機銃掃射。操縦士がはっきり見える。初めての空襲で恐さも知らないで面白がって見ていたが、近くの幼児が足を直撃され出血多量で死亡。各地で死傷者がでたとの情報が入り、空襲の恐さが分かり次からは家庭用防空壕に逃げるようになった。」 「 高須に爆弾投下 三月十九日、前日に引き続き空襲、防空壕にすぐ逃げ込む。次々に爆弾投下、すごい爆発音と同時に防空壕の土砂が崩れ落ち生き埋め寸前になる。戦争の恐さを再確認する。空襲警報解除のサイレンで外に出て見ると隣の家が倒壊している。防空壕より数米離れた所に爆弾が落され、直径十米・深さ十米程の穴が出来ていた。直撃でなく生き延びた。 二五〇キロ爆弾が町内各地に投下され、確認されている分が四十二個であった。 特に波の上神社附近に沢山落され、大きな穴が次々に出来地下水が湧いていた。 爆弾の直撃により、破壊された家が約四十棟・死亡者・負傷者が数名、家庭用防空壕は危険となり、町民の殆どが周辺の山に掘られた横穴お防空壕で生活するようになった。」 (「高須は戦場だった」立元良三『高須町民 私の戦争体験』戦争を風化させない高須町民の会、1999年、57・58頁より引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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桜花を見た
「あの日は、大姶良の青年学校へ通学していた昭和二十年、確かな月日は覚えていませんが四月末か、五月の上旬だったように思います。その日の実習作業も終わり級友と一緒に帰る途中のことでした。 空襲の危険を避ける為に、第二航空隊の所を通って帰らず、横山集落を通り「きこだ」を経て霧島ヶ丘下の物影が多い所伝いに、麓のえんたい壕「飛行機を待避しておく所」までくるとその一角に、いつもは見かけない小さな飛行機の形をしたのが置いてある。なんだろうと話し乍らよく見ると、その姿形からして「特攻機人間魚雷」だと気付いたのです。 近くから見るのは初めてだったのでその時はびっくりしました。恐いながらも級友と少し近付いてしばらく見ていましたが、いつあるかわからない空襲が気がかりで、その場を急ぎ足で帰ったのです。」 (『山下集落史』山下集落史編さん委員会、1997年、38頁より:原本は鹿屋市立図書館等で閲覧できます。)
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野里駅の惨事
「 野里駅の惨事 鹿屋市市史・平成七年発行の八四三頁に、「三・十九午後惨事空襲警報が出て、午後十時に解除、野里駅など破壊され死傷者八十人」と記載されている。 この野里駅の死傷者の中に、高須出身で二級先輩で、駅員であった、故〇〇〇〇(十七歳)が殉職した。 この空襲で、国鉄職員十七人が殉職した。内女性二人で、西俣小高等科卒の、故○○○〇〇さん十四歳もいた。 当時、野里駅に勤務していて、命拾いをした同級生の、「○○○○さん」(平成十一年死亡)は、次のように証言している。 「艦載機の来襲で防空壕に退避した。機銃掃射が終わり壕から出てみると、機関士が足を負傷していた。軍需物資を満載した貨物車が火災を起こし、消火作業と軍需物資搬出のため、駅員・予科錬生(海軍)・労務者(朝鮮半島出身者)など百数十人が当たっていた。私は、駅長から被害の様子を鹿屋駅に連絡するように命令された。行く途中ですごい爆発音が聞こえ振り返ると黒煙が上がっていた。 鹿屋駅に連絡後帰ってみると、駅も貨物車お救出に当たった人も全て吹き飛ばされ、人体は黒焦げになっていた。」と話した。 真実を知りたい 「野里駅の惨事」については、多くの犠牲者八十人以上出ているのに、鹿屋市市史には「軍事・鹿屋航空隊・鹿屋市の戦災」の欄に僅か二行に纏められている。 多くの犠牲者を出したのに詳しい記録がないのは、空襲による被害でなく、駅構内の軍需物資の搬出中に起きた大事故であったので、秘密裏に処理されたものと思われる。 駅には、他に航空燃料・秘密兵器の人間爆弾もあった。 (中略) 空襲後に消火作業に当たり、県内で最大の犠牲者を出したのは野里駅だけである。」 (「高須は戦場だった」立元良三『高須町民 私の戦争体験』戦争を風化させない高須町民の会、1999年、59・60頁より引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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九死に一生を得た
「昭和二〇年の三月二〇日前後は、野里をはじめ鹿屋市が米軍による大空襲を受けております。私も米軍機に狙われ九死に一生を得た思い出があります。 私達は汽車通学をしていましたので、三月十八日のご前八時半ごろだったと思います。私と〇、それに○○と〇の四人でした。野里駅の少し手前の通称「ぎい山」の所で立ち止まり、上空で繰り広げられていたアメリカのP51かグラマンと、有軍機の空中戦を見ていました。 急旋回から急上昇しながらの切り返しなど、追いつ追われつの華麗な巴戦に見とれているうちに、敵機と有軍機の見分けが付かないようになります。突然そのうちの一機に「パッ」と白煙があがり激しい黒い煙を吐きながら落ちてきます。○○が、「あれは敵機だ」と言う声に「やったあバンザイ」と歓声が挙がります。 しかし、飛行機の高度が下がり目を凝らしてよく見ると、翼に鮮やかな日の丸のマークが見えるではありませんか。「あいやあいや有軍機やらい」と束の間の喜びは落胆に変わりました。 我にかえると、金属性特有の軽快な爆音が聞こえて来ます。見回してみると大津の方から私たちがいる方向を目掛けて飛行機が低空で突っ込んで来ます。 明らかに私たちを狙っている様子に、無我夢中でそばの溝に飛び込みました。その瞬間「プス、プス」と機銃弾が突きささる音がします。遠ざかる爆音に頭を上げてみると、日常的な空襲によって見慣れているグラマンでした。 起き上がってみると、私たちが伏せていた所から一間(約二メートル)も離れていない土手に、等間隔で付いている機銃掃射の弾痕による穴がありました。敵機は空中戦に見とれている私たちを、少し離れた上空で旋回しながら狙っていたものと思われます。いま考えますと敵機が、動かない的をはずしたのも腑に落ちないところがあります。近付いて非戦闘員の少年であることが分かり、わざと外したのかも知れません。いずれにしても、九死に一生を得た終戦の頃の思い出です。」 (『山下集落史』山下集落史編さん委員会、1997年、110・111頁より:原本は鹿屋市立図書館等で閲覧できます。)
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3月18日の空襲
「昭和二十年三月十八日朝、私の耳をつんざく大砲みたいな音がしました。 「志布志湾にアメリカ軍が上陸したのでは」と考えていると、道路の向かい側かた〇〇〇〇叔父さんが「空襲やっど、早よっ防空壕に入らんか」と大きな声で知らせてくださいました。艦載機が郷之原丘の上空を旋回して、航空隊めがけて突っ込み、機銃を撃ちながら爆弾を落とす、あっちこっちの高射砲陣地から迎え撃つ音を防空壕の中で、生きた心地もしない状態で一日中聞きました。 あんな激しい空襲は後にも先にもありませんでした。やがて鹿屋航空隊から特攻機が出撃するようになりました。私の家には、東京から持ち帰った姉のミシンがあったので、二十歳位の明日とも知れない特攻隊員が、「マフラーの端を縫ってくれ」と言って遊びにきました。岩手県の軽石さんは、「義姉の弟に似ている」と言って可愛がられました。 兵隊さんたちは「僕たちは日本の将来のために死んで行くから、君たちはそれを忘れないでくれ」と女学生だった私達に言われたのを思い出すたびに目頭が熱くなります。」 (『郷土史 郷之原』郷之原を語る会、1992年、102頁より:原本は鹿屋市立図書館で閲覧できます。)
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爆弾集積場の爆発事故
「終戦後大隅各地に布陣した陸海軍は戦後の処理を行った。ところが戦後処理班の手により、大隅地区のあらゆる爆弾、弾薬類は郷之原のバッツに次々と集められた。バッツは、郷之原と松原の低地である。戦時中は飛行機の誘導路が造られ、飛行機の隠れ場所としては絶好の場所であった。 十一月八日、午前十時頃、突然大きな爆発音とともに大きな火災が発生した。場所はバッツであった。弾薬に火が付き、次々と爆弾や弾薬が爆発し始め、爆発音はものすごい花火大会のように鳴り響き、市街までをも揺るがした。その爆風は、周辺のあらゆる物を吹き飛ばし、破片は郷之原、大浦(松橋)に雨あられの如く降り注いだ。丘一つ越えた郷之原上部落は、戦時中は被害をほとんど受けなかったにもかかわらず、終戦後二ヶ月余りで大空襲を受けた以上の惨事にみまわれたのである。農作業の人々は家に帰ることもできず、家にいた人たちは戦時中使っていた防空壕に身を潜め殆どの家財道具を持ち出すことができなかった。当時は、まだ藁屋根の家が多く、真っ赤に焼けた破片が降り注ぎ、あっという間に火の手が上がり、綱をきって逃げ出す牛もあった。しかし、逃げ遅れた牛は焼死しており、その数は相当数に上った。この時の犠牲者は、畑目の○○さん只一人が焼死された。家屋のほとんどは全焼したが、○○○○氏宅一軒だけは焼け残った。」 (『郷土史 郷之原』郷之原を語る会、1992年、100・101頁より:原本は鹿屋市立図書館で閲覧できます。)
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鹿屋基地に関する語り・手記など
・「親の雑誌 電子版 THE梅北四郎」2020年1月 鹿児島県在住・1925年生まれ 学徒動員で鹿屋航空隊へ 小鹿酒造協業組合設立 ・『鹿児島ぶら歩き』 「鹿児島海軍航空隊に関する新聞記事」2022年6月8日
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笠ノ原基地一帯の戦争遺跡
弾薬庫(民家として現存)を囲むコンクリート塀に多数の機銃の弾痕が残っています。(安藤広道) ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2018年3月14日
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野里町一帯の戦争遺跡
・野里町一帯には、無蓋掩体壕が1基が残存しています。 【野里町無蓋掩体壕1】 ・大半が埋没していますが、ほぼ完全なかたちで残っていると考えられます。 ※画像をクリックしてください。 Youtubeに飛びます(360度映像) ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2017年2月16日
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志布志湾防衛のための榴弾砲陣地跡
『鹿児島県の戦争遺跡 本土決戦編①』八巻聡 2005年 31頁より 志布志湾を望む台地・丘陵には、志布志湾を防衛するための榴弾砲陣地が複数設置されました。八巻聡さんの調査成果に基づき、そのいくつかを紹介します。 【猜ヶ宇都陣地】 【金丸陣地】 【崎園陣地】 『鹿児島の戦争遺跡 本土決戦編①』(八巻聡 2005)(Box) 八巻聡氏のご好意により全文をお読みいただけるようになりました(ダウンロードはできません)。
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串良基地一帯の戦争遺跡
串良基地周辺には、見学はできないものの、複数の戦争遺跡が残っています。 そのいくつかを紹介します。 【地下司令部壕】 公開されている地下第一電信室に類似した構造と規模をもつ地下壕です。司令部壕と伝えられていますが、実際にどのように使われていたのかは不明です。 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2017年9月16日 【発電室】 発電室と伝えられる構造物が残っています。 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2017年9月16日 【滑走路の舗装のカケラ】 民家の石塀などに再利用されているところがあります。 ・アメブロ『海とひこうき雲-日本海軍好きのゆるゆる日記です。』 鹿児島の旅 串良 甫の木道 2012年8月6日
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郷之原町一帯の戦争遺跡
・郷之原町一帯には、小規模な無蓋掩体壕が1基が残存しています。 【今坂町無蓋掩体壕1】 ・ごく小規模な無蓋掩体壕の片袖一辺が残っています。
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今坂町一帯の戦争遺跡
・今坂町一帯には、無蓋掩体壕が1基が残存しています。 【今坂町無蓋掩体壕1】 ・やや小型ですが、ほぼ完全なかたちで残っている無蓋掩体壕です。
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田崎町一帯の戦争遺跡
・田崎町一帯には、かつて多数の無蓋掩体壕作られ、それらをつなぐ誘導路が敷設されていました。 現在、無蓋掩体壕2基が残存していることが確認されています。 【無蓋掩体壕1】 ・ほぼ完全なかたちで残っている無蓋掩体壕です。 全幅:約51m 全長:約38m 内幅:約29m 奥行:約28m 残存高:約3.5m 田崎町無蓋掩体壕1模式図 ※画像をクリックしてください。 Youtubeに飛びます(360度映像) 【無蓋掩体壕2】 ・東辺の掩体が失われていますが、北辺と西辺の遺存状態は良好です。
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志布志市の情報
◆志布志市HP ◆Wikipedia「志布志市」 ◆戦争関係 (準備中)
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大崎町の情報
◆大崎町HP ◆Wikipedia「大崎町」 ◆戦争関係 ・『史跡ガイドブック おおさきの歴史を旅してみませんか』 2022年 ・『大崎町観光パンフレット』 ・「文化財紙上企画展② 平和への祈り~若者たちの遺品から~」 『広報おおさき』No.656 2011年9月 21頁
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肝付町の情報
◆肝付町HP ◆Wikipedia「肝付町」 ◆戦争関係 (準備中)
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垂水市の情報
◆垂水市HP ◆Wikipedia「垂水市」 ◆戦争関係 ・『広報たるみず』平成25年8月号「特集 垂水戦争証言 平和への記し」 ・「たるみず歴史散歩」
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鹿屋市の情報
◆鹿屋市HP ◆Wikipedia「鹿屋市」 ◆戦争関係 『広報かのや』 ・「鹿屋探訪⑦ B-29墜落地点の碑」 第013号(2006年7月13日)24頁 ・「鹿屋探訪⑧ 旧海軍笠之原飛行場跡地」 第014号(2006年8月11日)24頁 ・「風化させてはならない 戦争を学び、平和を考える」 第159号(2012年8月13日)2・3頁 ・「鹿屋に残る戦跡マップ」 第159号(2012年8月13日)4・5頁 ・「~戦後70年を迎えて~ 若者達が見た戦争」 第231号(2015年8月13日)4-9頁 ・「戦争の記憶を語り継ぐために」 第255号(2016年8月12日)4-7頁 ・「大隅線の記憶を辿る」 第269号(2017年3月13日)4-9頁 ・「72年前の記憶~第五航空艦隊司令部~」 第279号(2017年8月10日)4-9頁 ・「語り継ぐ、あの日の空~73年前、学校に爆弾が落ちた日のこと~」 第302号(2018年7月27日)4-9頁 ・「74年前の記憶を再現「海軍タルト」誕生物語」 第316号(2019年2月28日)7頁 ・「記憶の中の飛行場~海軍航空隊笠野原基地~」 第326号(2019年7月26日)4-7頁 ・「未来のために過去を学び伝える。鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会」 第340号(2020年2月28日)2・3頁 ・「戦後75年 戦争の記憶を後世に」 第350号(2020年7月28日)12・13頁 ・「平和を学ぶ 新たなカタチ」 第398号(2022年2月28日)4・5頁 ・「自分たちの住む場所に 戦跡を感じて」 第398号(2022年2月28日)6・7頁 『鹿屋市市政モニター』 「令和2年度 鹿屋市市政モニター 第3回アンケート集計 テーマ:鹿屋市に残る戦争の歴史の認知度について」 2020年8月7日~8月31日 『YouTube』 ※画像をクリックしてください(Youtubeに飛びます)。
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第86師団志布志洞窟陣地
(準備中)
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海軍鹿屋航空基地
※「海軍鹿屋航空基地アーカイブマップ」へ 【鹿屋海軍航空基地の概要】 ・1936年、海軍鹿屋航空隊の開隊とともに、その原駐基地として造られました。 ・1941年には、真珠湾作戦を立案した「鹿屋会談」が行われた場所としても知られています。 ・1945年の沖縄戦では、米軍艦船に対する航空特攻作戦の中心となりました。この基地から450機あまりの航空機が特攻作戦に出撃し、908名が命を落としたと言われています。 以下、八巻聡さんの『鹿児島県の戦争遺跡 航空基地編』(八巻聡2000)より、概要を引用します。 ・建設年:1940年 ・主任務: 作戦・教育(錬成・整備) ・滑走路: 1760×50m、 1700×50m、 500×50m(コンクリート) ・格納庫: 25475㎡、14364㎡ ・掩体壕: 小型有蓋 10基、 中・小型無蓋 200基 ・収容施設: 作戦:士官245名 兵員2550名、 教育:士官233名、兵員6016名 ・工場施設:有り ・教育施設:有り ・送信所・方位測定所:無し ・基地施設: 指揮所・通信所・弾薬庫・ 燃料庫・倉庫・魚雷調整場 航空基地概要 戦場における航空機による攻撃の有効性が認められてきた時期に艦上戦闘機及び陸上攻撃機の基地として昭和11年に建設された。日中戦争初期には第1連合航空隊司令部が置かれていた。 大戦末期には第5航空艦隊の司令部が置かれ、菊水作戦を行う中心基地となった。 また、基地の近くには鹿屋海軍工廠も置かれており、兵器の改良・開発も行われていた。 ・Wikipedia「鹿屋航空基地」 ・桜と錨『海軍砲術学校』「鹿屋航空基地」2018年4月29日 「【動画付き】零戦、特攻基地跡の鹿屋を飛行 主催者「優れた技術と平和考える機に」」 西日本新聞 2016年1月27日 「「美談にしてはいけない」送り出された10代の特攻隊」 西日本新聞 2020年5月29日 「鹿児島県鹿屋航空隊本部」 『西日本新聞フォトライブラリー』 『半世紀の鹿屋航空隊 戦前編』(米永代一郎 南九州新聞社 1989年)(Box) 鹿屋航空隊に関する基本文献です。ただ、鹿屋市立図書館など僅かな図書館でしか閲覧できません(国会図書館にもありません)。このたび、南九州新聞社のご好意により、全文をお読みいただけるようになりました(ダウンロードはできません)。
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上小原4号墳
「旧串良町と肝付町のほぼ境界に位置する古墳群の中央に位置し、内陸部にある前方後円墳では、南限であり極めて考古学的価値が高い。 (平成12年10月6日指定)」・所在地:串良町上小原下方限・駐車場:なし・トイレ:なし(鹿屋市「鹿屋市内の県・市指定文化財一覧」より引用)
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大園橋
「大園橋は明治37年5月に完成し、めがね橋として親しまれている。全長30m、橋の巾3.1m、高さ約5m、橋床は復式アーチ型(めがね橋)。 橋脚は川床にがっちりとし、堅牢優美。当時の石造技術としては抜群で、大隅地方に数少ないめがね橋として貴重である。(昭和63年10月4日指定)」・所在地:鹿屋市祓川町・駐車場:なし・トイレ:なし(鹿屋市「鹿屋市内の県・市指定文化財一覧」より引用)
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中津神社本殿
「正平6年(1351)高隈郷の鎮守として創建。本殿は承応2年(1653)造営。構造は三間社流れ造り柿葺きである。(昭和47年3月30日指定)」・所在地:鹿屋市上高隅町(鹿屋市「鹿屋市内の県・市指定文化財一覧」より引用)
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鶴亀城本丸跡
「応永末期から戦国期にかけて築城改築された城で、串良町岡崎の台地東部に舌状に突出した多郭式台地端城であった。現存する唯一の郭で、貴重な文化遺産である。(昭和48年12月1日指定)」・所在地:鹿屋市串良町岡崎鶴亀・駐車場:なし・トイレ:なし(鹿屋市「鹿屋市内の県・市指定文化財一覧」より引用)
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唐仁大塚古墳
(準備中)
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笠野原土持堀の深井戸
「シラス台地の笠野原は雨が降ってもすぐ地下に吸いこまれ、長い間耕作できなかったが、江戸時代頃から少しずつ開発されてきました。井戸は生活用水が不足するために掘ったもので、現存する何箇所かの井戸のうち最も原形をとどめています。掘られたのはだいたい文政年間から天保年間ごろと考えられています。(1818~1841年)井戸の深さ約64m、表面の直径は約90cm、円筒形の素掘りです。この井戸は笠野原台地の開発の苦難の歴史を物語る貴重な遺物です。(昭和57年5月7日指定)」・所在地:鹿屋市串良町細山田土持・駐車場:なし・トイレ:なし(鹿屋市「鹿屋市内の県・市指定文化財一覧」より引用)
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岡崎古墳群(15号)
「岡崎古墳群は、肝属平野西側の台地上に立地する古墳群で、20基の古墳からなる。15号墳は、墳丘長25.5mの帆立貝形前方後円墳で、主体部には花崗岩製の箱式石棺があり、石棺の内外から甲冑片や勾玉、管玉等が出土した。志布志湾沿岸の他の古墳群との関連や本県の古墳時代の様相を知るうえで欠くことのできない遺跡である。(平成26年4月22日指定)」・所在地:鹿屋市串良町岡崎・駐車場:なし・トイレ:なし(鹿屋市「鹿屋市内の県・市指定文化財一覧」より引用)
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岡崎古墳群(20号)
「岡崎古墳群の中心地域にあり、本地域で最も規模の大きい大型の前方後円墳であり極めて考古学的価値の高い前方後円墳である。(平成17年6月24日指定)」・所在地:鹿屋市串良町岡崎(鹿屋市「鹿屋市内の県・市指定文化財一覧」より引用)
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野里の田の神
「像の高さ70cm、軟質凝灰岩でできていて、寛延4年(1751年)に作られ、鈴持ち田の神舞型の最も古いものだといわれています。コシキを頭巾風に背中にたらしてかぶり、袖の長い上衣を着て首のところに特有の胸かざりがついており、右手にメシゲを下向きに持ち、左手は舞用の鈴をもつ、胸を突き出しひざで立っている像です。(昭和43年3月29日指定)」・所在地:鹿屋市野里町岡村・駐車場:なし・トイレ:なし(鹿屋市「鹿屋市内の県・市指定文化財一覧」より引用)
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横瀬古墳
(準備中)
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くにの松原キャンプ場
大隅半島の戦争遺跡について、さまざまな情報をWeb配信しています。 大隅半島で戦争を学ぶ際に必見のものばかりです。(安藤広道) ◆くにの松原キャンプ場HP ◆くにの松原キャンプ場HP「ダウンロードページ」 ※くにの松原キャンプ場HPからは、以下の資料をダウンロードできます。ここでは、戦争に関係する資料にリンクを貼らせていただきました。 ・『おすみアウトドアガイドブック』 ・『大隅半島 いにしえの古墳マップ』 ・『大隅半島戦跡コンプリートガイド』 ・『大隅戦跡マップ(決6号作戦)』 ・『志布志湾岸よかとこ博覧会 公式ガイドブック』 ・『湾岸タイムズ Vol.1』 ・『湾岸タイムズ Vol.2』 ・『湾岸タイムズ Vol.3』 「大隅の廃線跡をたどる旅」 ・『湾岸タイムズ Vol.4』 ・『湾岸タイムズ Vol.5』 「祖父が遺した約束の地」 ・『湾岸タイムズ Vol.6』 ◆「大隅半島の戦跡」
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大崎町中央公民館郷土資料展示室
(準備中) 『鹿児島県観光サイト かごしまの旅』 大崎町中央公民館 郷土資料展示室 『九州旅ネット』 大崎町中央公民館 郷土資料展示室
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鹿屋バラ園
(準備中)
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串良歴史民俗資料室
「平成17年に開館した鹿屋市串良ふれあいセンター内にある資料室です。鹿屋市内で出土した埋蔵文化財資料を中心に展示してあります。特に串良町岡崎古墳群から出土した勾玉(まがたま)管玉、鉄鏃(てつぞく)や短甲(たんこう)などの鉄製品、串良町岡崎の西ノ丸遺跡から出土したV字溝の土層剥ぎ取り標本など貴重な資料が多数展示してあります。」・所在地:鹿屋市串良町有里507番地1・開館時間:9時~16時半・休館日:12月29日~1月3日・入館料:無料・駐車場:あり・トイレ:あり(鹿屋市「串良ふれあいセンター内串良歴史民俗資料室」より引用)
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王子遺跡資料館
「この資料館は、昭和56年から59年にかけて国道220号線バイパス工事に伴い実施した王子遺跡(弥生時代の遺跡、今から約2000年前)の出土品を展示した資料館です。発掘調査時に移設した竪穴住居跡や棟持柱付掘立柱建物跡の展示や、甕(かめ)や壺(つぼ)などの土器や敲石(たたきいし)や石鏃(せきぞく)などの石器、やりがんななどの鉄製品が展示してあります。」・所在地:鹿屋市北田町11110番地1・開館時間:9時~17時・休館日:12月29日~1月3日・入館料:無料・駐車場:あり(鹿屋市文化会館)・トイレ:あり(鹿屋市文化会館ほか)(鹿屋市「王子遺跡資料館」より引用)
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観光物産総合センター
◆鹿屋市観光協会HP ◆鹿屋市の紹介ページ ◆鹿屋の戦争遺跡紹介 ※こちらから、鹿屋平和学習ガイドによる戦争遺跡ツアー(団体・個人)の予約もできます。 ・アメブロ『海とひこうき雲-日本海軍好きのゆるゆる日記です。』 鹿児島の旅 海軍カレー 2012年8月6日
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高須地域に関するニュースほか
「進駐軍に平和の花束 73年前贈呈、鹿屋・中原さん初講演「心通うこと大切」」 西日本新聞 2018年9月13日
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滑走路の造成
「飛行場は急な造成で、整地は機械がないので、トロッコを押して整地した。滑走路も間に合わず、コンクリート代わりに竹の網がたくさん敷き詰めてあった。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、22頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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小松城跡の防空壕
「小松城跡の所に5~6本、軍の防空壕が掘ってあった。そのうち1本は貫通していた。国道に近い方の2本に集落の人を入れた。7軒だったと思う。2本は施設部のドラム缶が入れてあった。」 向かい側で国道269号の下の方(現在、孟宗竹林となっているあたり)に、三角兵舎が2棟あり、その東の大きな建物には、軍の偉い人たちがいた。」 「掩体壕に入った飛行機にガソリンを入れるタンクローリーがあった。それにはねられ、子どもが1人亡くなった。燃料車は何台も来た。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、11頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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大塚山に関する証言
【証言1】防空隊、採石場、朝鮮人労働者 「大塚山の北側には兵隊の宿舎があり、「防空隊」といっていた。 大塚山の東側の麓が岩盤なので、岩に発破を仕掛けて爆破した石をトロッコで航空隊まで運んで行き、滑走路を造った。爆発で危ないので移転を命令された家が何軒もあった。飛行場の工事はほとんど朝鮮人労務者が当たっていた。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、11頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 【証言2】滑走路建設のための採石場 「串良航空隊は東西と南北にほぼ一キロメートルずつの滑走路があった。大塚山の東側の「鹿屋谷の坂」という岩山を砕いて、トロッコで石材を運んで滑走路の敷石にした。」「戦後、滑走路は砕いてしばらくはそのままだったが、その後水道線の道路の敷石になった。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、12頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 【証言3】 監視所・重砲陣地・壕 大塚山の山頂は監視所で、下に熊本の積三部隊の重砲陣地があり、中腹には壕があった。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、13頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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論地の高射砲陣地
「論地に高射砲陣地があった。高射砲が一基、機銃が一基ぐらいだったと思う。笠之原の基地から来ていたのではないだろうか。五、六人の少人数で勤めていた。また近くには探照灯の陣地があった。同じく持田にも探照灯の陣地があった。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、6頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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鹿屋第二航空隊の掩体壕作り
「そのあと野里の第2航空隊の掩体壕作り、朝、登校して1年生はモッコ、3年はスコップとみんなで出かけた。コの字の土の掩体壕の基礎部分にモッコで土を運んだ。7、8基は作った。機械で土を盛ってあり、上級生がスコップでモッコに入れた。だいたいが近くに盛ってあり、遠くても掩体壕から100m位の近い場所に土の山があった。」 「私たちが作った田崎の掩体壕は今も一部残っている。コンクリートまでは生徒はできないから基礎つくりだった。10基くらいはあったろう。ゼロ戦を入れると言われてそのつもりで作っていた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、32頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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女子挺身隊としての仕事
「学徒動員で女子挺身隊として吾平の青年学校の工場で仕事をした。飛行機の落ちたエンジンを分解して汚れたのを油で磨く仕事だった。山奥に持って行って試運転をしていた。分解するときネジが回らない時は、男子中学生に頼んでひねってもらった。高山から吾平青年学校までは歩いて通った。汽車はなかなか来ないし、駅から吾平青年学校まで遠いので、駅まで歩くうちにだいぶ高山に近くなるので歩いた。金持ちの人は自転車で行った。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、29頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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たこつぼ
「高山高等女学校は1クラス60人位で、イ組からハ組まで3クラスあった。 寄宿舎の人は、県外出身者が多かった。 集落には60軒位、商店があったが、裁縫するにも布が無かった。母は、女の子は裁縫があるからと木綿の反物を買いためていた。皆は人絹を持ってきて、ズレズレして縫いにくいようだった。 在学中、自分用のたこつぼをそれぞれスコップで掘った。しゃがんで顔が隠れるようになっても「もっと掘れ、もっと掘れ」と言われた。自分用なので念を入れて掘った。でも木の根があってうまく掘れず、「まだ掘れ」と言われた。学校が済んで帰る時は、手は汚れ、まめができていた。夕方、こっそり母が手伝って掘ってくれた。途中に足をかけて出るくらい深く掘った。「敵機襲来!」のサイレンがなって、自分のたこつぼに走っていくと人が入っていて喧嘩になったが、米軍は飛んでくるので、空いているのに入らざるを得なかった。自分たちが空襲にあったことは無かった。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、29頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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特攻兵たち
「私の家には鹿屋の航空隊から毎週土曜日に、明日特攻隊で死ぬという兵隊さんが3人ずつ来ていた。兵隊さんが来たら、私たちは嬉しいものだった。」「隊員が帰るときは「あなた達には決してけがもさせない、きっと私たちが守る。行ってきます」と言って航空隊に帰って行った。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、26頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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女学校の挺身隊の仕事
「女学校の挺身隊では、串良の岡崎で飛行機の部品を作っていた。学校に一旦登校して、挺身隊として揃って汽車で行っていた。そのころはまだ汽車は空襲を受けない頃だった。飛行機の部品は、三角形で5cmほど。それを紙やすりみたいなもので磨く仕事で、一つあたりの時間はかからないが、ひたすら一日中やっていた。当時、それが何になるのだろうと言っていたのだが、何だったかは今でもわからない。 挺身隊としてあちこちにいろんな仕事に配置されるなかで、串良の基地にもおにぎりを握りに行った。朝から昼まで熱いご飯を握るので、手は真っ赤になった。握る量が多いのに交代する人もいなくて、手の痛さに泣きたかった。今では当時の場所はよくわからないが、隊員宿舎で特攻隊におかずも作った。朝早く行って、朝と昼の分を作った。朝は基地から学校にトラックで迎えに来て、一クラス全員40人くらいが一緒に行く。農作業の手伝いにも行った。それまでやったこともないのに田植えも田車押しも、稲刈りまでやった。田んぼには蛭が多くて怖くて困った。時には、怖い蛇もいて逃げ回った。また、学校から連れて行かれて、がけに壕をコの字型に掘っていた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、26頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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鹿屋航空廠の見習い工員
「20年3月下名の高等科を卒業して、鹿屋航空廠で見習い工員として採用され、寮に入った。寮には30人ほどがいて下名小学校から8人くらい、西俣や吾平など、いろんな学校からも来ていた。 食器は、紙で作ったような食器で、ご飯粒は数えるほど、麦や押しつぶした大豆が入っていた。おかずは味噌汁。自分たちは家が近かったので、親が炒った大豆や落花生を届けてポリポリ食べていた。 特に仕事は無くて、勉強だったが、それも飛行機の絵を先生(軍人)が書いて、詳しく説明した。 毎日のように米軍機が来て、宿舎から、西原小方面の谷に逃げた。逃げる途中、はちまきを落としたら、きつく叱られた。米軍が来たら、所構わず、溝や畑にうつぶせになってやり過ごした。夜、焼夷弾が落とされた時は、昼間みたいにとっても明るくなった。爆弾が落ちた時のために、「目と耳を抑える」方法は習った。機銃掃射を受けたことや、近くに爆弾が墜ちたことは無かったが、とにかく恐ろしかった。 西原には、1か月半くらいいて空襲が激しくなり、当時、吾平の青年学校(現吾平中学校)のあったところが分散工場になり、そこに配属されて家から通った。歳上の女の人たちは、旋盤で金物を削ったり、機械を使ったりして仕事をしていた。ここでも仕事らしい仕事は無くて、天気の良い日は、カボチャやナスビ、サツマイモの畑に行った。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、23頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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佐世保海軍施設部串良工事事務所
「串良の航空隊ができるということで、家にいたら細山田に大きな事務所ができて、製図員や技工士など航空隊の工事関係者がたくさんいて、そこに来ないかと言われ、4月から勤めた。それは「佐世保海軍施設部串良工事事務所」だった。急ピッチの仕事だった。今の農協の細山田支所あたりだ。用材担当の事務所もあり、基地の用材がいっぱいきていた。セメント・釘・材木など大きな倉庫があった。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、21・22頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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陸軍の地下壕
「陸軍は、柳谷の所に防空壕を作っていた。積部隊は大きくて柳谷に来ていたのは30人ほどで横穴式陣地を作っていた。ヒノキの山に隠れるようにテントや兵舎もあった。弾薬庫があったが、戦後進駐軍が処分した。 地下壕近くの北に施設部があり高山高等女学校の生徒が動員で来て、兵隊の料理作りをしていた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、18頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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高射砲陣地
「柳谷から1㎞位の所には、高射砲隊がいた。現在のさくら温泉の北500mに谷になっている所があり、下の所に電波探知機があり田島隊が、上の所に高射砲陣地があり大沼隊がいた。 電波探知機は、鉄の骨組みで高さ約2m、長さ約15mの高圧線みたいな形をしており、回転していた。 高射砲陣地は直径10m位の丸い穴で、周囲は高さ2m位の土手に囲まれていた。100m間隔で6基あった。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、18頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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串良の空襲
「家の隣には、探照灯が2基、高射機関銃が2台あった。探照灯の灯が当たるように木は途中から切ってあった。海軍の兵舎も2棟あった。陸軍は通ってきていた。敵機が来れば高射砲で撃つので、家のあるあたりは、町の方より空襲がひどかった。町では、豊栄劇場という映画館に爆弾が落ちた。 空襲は、朝早く、下小原から大坪部落を空襲し、同日続いて岡崎が空襲を受けた。当時は、藁ぶき屋根が多かったので、家がよく燃えた。自宅も裏の方にあった家々も燃えた。瓦葺の家は燃えなかった。」 「高射砲がグラマンを撃ち、グラマンが串良の田んぼに墜ちた。見に行ったら「子どもは来るな」と言われた。大人は畦きりやら藁切りやフォーク等を持って行った。米兵は2人生きていて、家の近くの壕に連れてこられた。部落で掘ったもので兵隊はこの壕には避難しない。壕の上には兵舎があり、炊事場になっていた。米兵は若く背が高くて、けがはなくやけどして顔は赤くしていた。日本人が英語で話しかけていた。夕方には鹿屋に連れて行かれた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、17頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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笠之原の空襲
「昭和20年3月頃、空襲が始まってから、高山の笠野の杉林(笠野交差点から串良方面へ300mほど)に机を並べ、7〜8軒の12〜13人で勉強をした。防空壕は4〜5か所あり100軒くらいで使っていた。家に掘った防空壕は、入口をたてに掘り、直角に横穴が掘ってあった。一坪くらいはあったと思う。 空襲警報が鳴ったら笠之原から壕まで約1km、必死で走った。自分たちを追いかけているような気がしたが、実際は狙われなかった。でも、グラマンが追っかけるようにきて側溝に避難したことがある。 現在の長﨑内科のあたりに70〜80軒位の住宅があり、焼け残ったのは5~6軒だけだった。家に帰ってみたら家は焼けてなくなっていた。飛行機のエンジンを保管する石造りの倉庫があったので、そこを狙ったのではないかと思う。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、16頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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米軍の進駐
「戦後、女性は国鉄を一人辞め、二人辞め、私が最後まで残ったと思う。駅には、アメリカ兵がよく遊びに来ていた。私の隣に椅子を持ってきて、英和辞典のようなものを広げて語りかけたり、切符を切る真似をしたりしていた。 終戦後の9月3日、高須から浜田まで海岸に白旗が立った。上陸する米軍に対して立てたらしい。 終戦後も古江まで通った。9月4日の進駐軍上陸の前には女性はみんな暴行されないように、顔に真っ黒の墨を塗って夜逃げた。私は、夜に桜原に逃げた。5日くらいはいただろう。9月中旬、アメリカの船が台風で金浜海岸で座礁した。それ以降、船の近くの道路脇に、テントを張ってアメリカ兵の歩哨がいた。黒人兵がいて、3時、4時頃通勤で近くを通ると、英語で何か言いながら追いかけられたこともあったので、それ以降遠回りをして山道を通った。そのうち我が家も上浜田に疎開して、そこまで歩いて往復していた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、13頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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野里町の空襲
「4月18日自宅が空襲にあった。警戒警報が鳴る前に空襲が始まった。その時、私たち家族は兵隊の防空壕に避難していた。7つ違いの上の兄貴が私たちがいた防空壕に「家は全部燃えとったど」と位牌だけ全部抱えてきた。空襲後は、防空壕では生活できないので、畳3枚の土間もない小さな掘っ立て小屋を建てて、そこに5、6人が寝泊まりした。 敵の艦載機がよく低空で飛んできた。人を見かけては襲ってきたが、近所には機銃掃射で死んだ人はいない。7月28日、夫の父親が腹に爆弾の破片が当たって即死、また、おばさんも怪我をした。もう少しで終戦だったのに。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、10頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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終戦時の防空壕
「8月15日、女子青年団で大姶良町の壕堀りの奉仕作業に行っていたが、終戦のラジオは聞いた。戦時中「鬼畜米英」と言っていたので「米兵が来る」と鹿屋の人たちが逃げてきた。田崎辺りの人が逃げてきて、私が小さい頃は蚕を飼っていたので養蚕室があったが、養蚕室や隠居に2日くらいいて静かになった。 獅子目より先の南部の地下壕には、食べ物が隠してあって、部落の人がとりに行った。手車や荷車に箱ごと積んできて、一時不自由しなかったそうだ。 戦後、米兵がジープに乗って通訳を連れて、焼酎を買いに2回位来た。来た時は、チョコやいろんなお菓子などをくれた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、9頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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上谷の印刷工場
「私たちは3年生の終わり頃の昭和19年から終戦まで、鹿屋の上谷の総務課付属の印刷工場だった。「機密第○○号様式」という文書があって、原稿を見ながら活字を拾っていた。その活字を植字工が文書の形に整える。それができたら一枚一枚足踏みで印刷していた。印刷が上がったら、各部署に配布していた。 動員は私の同級生が4人位で、他に志布志高女からも2人挺身隊で来ていた。鹿屋中学校からも4人が来ていた。専門の工員もおり、その手伝いに2人の女性がいた。数名は総務課勤務として動員され、上谷の壕の中に電気が引いてあり、そこで事務をしていた。 私たちは上谷から上がっていき、左側に印刷工場があった。今の鹿屋市文化会館の近くで、当時は畑だった。印刷工場へは汽車で鹿屋駅を降りて、歩いて行っていた。工場は平屋建てで広かった。30人足らずが働いていただろう。印刷したのは軍の関係文書で20年の終戦まで工場にいた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、8頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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田崎国民学校の空襲
「学徒動員で川西の畑で農作業をしていたら、川西に住む伯母が「空襲だから早く帰って、防空壕に入りなさい」と言われたので、私たちは田崎小学校の横にある墓の近くの防空壕に逃げ込んだ。爆弾の威力はすごいもので、砂煙がドーンと上がる。私は爆風で息もできなかった。防空壕の近くに消防の見張り台があり、鐘を打っていた消防団の人の足に爆弾の破片が当たり、重傷を負い、私たちの防空壕に運ばれてきた。当時、私たち女学生は三角巾、脱脂綿を袋に下げていつも持っていた。それを止血に使われた。自分の帯も止血用に使われたが、亡くなった。戦後、職場でその方の息子さんに会って、お互いに驚いたことがある。 小学校の校長先生が奉安殿のご真影を抱いて亡くなられた。大きな穴が3つもあいていた。道路の反対側に爆弾が落ちていたら、私たちは死んでいた。米軍は田崎小学校を軍事工場とまちがったらしい。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、8頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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海軍航空廠総務課に勤務
「昭和18年4月21日、海軍航空廠の総務課に配属されて軍法会議事務所に勤めた。法務官は大尉ほか、タイプを打つ私を合わせて4人いた。聴取記録をタイプで打ち直し、大尉が間違いないか確認してから、封筒に入れ「何々部隊のだれだれに持って行きなさい」と言われて、新生町か下谷にある防空壕へ持って行った。川べりには「○○部隊」「○○部隊」と書かれた防空壕がいっぱいあった。 このときは、基地内にある二階建ての寄宿舎にいた。寄宿舎にはいろんな部署の工員がいた。食事は麦ごはんや粟ごはんだったが、ひもじい思いはしなかった。事務所は「城山」と呼んで、自転車通勤をした。」 「3月18日の初空襲の日は、基地内にある寄宿舎にいた。朝5時か6時頃火の玉がどんどん飛んでいた。機銃の弾だったのかも知れない。「退避!退避!」という号令で今坂の神社の竹山の中に身を隠した。近くに壕は無かった。後から、朝鮮人の女の人が赤ちゃんを抱いて竹山に避難してきたが、赤ちゃんのお腹を機銃の弾が貫通して、死んだ赤ちゃんを泣きながら抱いていた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、7頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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爆弾集積場の爆発事故
「郷之原の山に囲まれた区域に爆弾を集めて置いていた場所があり、米軍が1人見張りをしていて、近づくとピストルを空に向けて撃っていた。1945年11月8日、爆弾が大爆発を起こし、翌日まで燃えていた。このため、郷之原上地区に火の粉が飛び、60戸位全焼した。懸命に水をかけてたった1軒だけ残った。この時2人亡くなった。サツマイモの収穫時期だったのでほとんどの人が畑に出ていた。牛や馬などの家畜の多くが犠牲になったと考えられる。また、谷の向こう側の松橋集落の一部も燃えた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、6頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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西原地区の爆弾集積場
「戦後、10月10日、西原地区には爆弾が積んであり、落下傘もあった。子どもだから信管をはずすというのも知らないので、爆弾の下の落下傘を取ろうとして爆発し4人の死傷者がでた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、6頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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郷之原の掩体壕
「ダグラス機を航空隊から誘導路を使ってみんなで掩体壕に引っ張ってきた。コの字型の掩体壕はこの辺に47あった。誘導路は荒平石を割ったのを敷いてローラーで固めてあった。」 「戦後、掩体壕を壊すのが大変だった。掩体壕はスコップで壊していた。1つ壊したらいくらと値段がついていた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、6頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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郷之原の烹炊場
「郷之原には、軍隊の飯場(烹炊場)があった。つわや食べられる草を持っていけば乾パンをくれた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、6頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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吾平町一帯の証言
【証言1】飛行機部品の焼却場 「戦後残っていた沢山の飛行機部品を、進駐していたアメリカ兵が吾平の田んぼで焼いた。その場所は、今の上名のルミエール付近と思われる。エンジンなどの部品も袖をかけて、どんどん燃やした。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、4頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 【証言2】空襲と機銃掃射 「三月十八日は鹿屋一帯の初空襲となったが、その朝は空襲警報のサイレンは鳴らず、爆弾が鹿屋の基地に投下され、どんどんと鳴り響いていた。」「爆弾が落ちた時の防空壕の地響きは雷の倍くらいで、すごいものだった。防空壕は集落全員が入るための壕で、奥行きはそれほどでもないが、かなり大きいものだった。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、4頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 【証言3】米軍パイロットの死体 「飛行機の空中戦を何度も見たが、落ちるのは日本の飛行機だけだった。珍しくグラマンが落ち見に行った。日本人パイロットも死んだ。吾平の宮前の消防会館に二人並べて寝かせてあった。死体にはむしろがかけてあり見えなかった。グラマンが落ちたのは、鹿屋の南町付近だった。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、4頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 【証言4】米軍パイロットの死体 「昭和二十年三月十八日、私は国民学校五年生だった。その日、吾平に二機のグラマンが低空飛行でやってきた。横山からの高射砲を一番機はかわしたが、二番機に命中、そのグラマンは墜落した。パイロットは吾平町と鹿屋の南町との境にある橋の近くの田んぼに落下傘で落ちた。」「落下傘で落ちたパイロットは、堤防付近でふらふらになっているのを住民が発見したという。死体は吾平町の宮前にある中央消防分団の消防会館まで運ばれて置いてあった。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、6頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 【証言5】吾平の陸軍 「吾平の町に陸軍の一小隊が駐屯した。敗戦後、吾平国民学校の北公園の深い井戸の中に銃など武器を投げ捨てて立ち去った。金山にも別の小隊がいて、そちらも銃を埋めて立ち去ったが、戦後だいぶたってから道路工事でその武器が出現して、みな驚いたことがあった。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、6頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 【証言6】エンジン組み立て工場 「鹿屋基地が敵の爆撃で工場も全滅状態になり、麓の集会所と青年学校(現吾平中学校)が、飛行機のエンジンの組み立て工場になっていた。両工場で組み立てて完成したら、今の玉泉寺公園でテスト運転をしていた。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、6頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 【証言7】米軍機の墜落 「ある日、汽車に乗っている時、空襲警報が鳴り、論地の林の所で止まった。みんな山の中に逃げた。でも、何事もなく、また、汽車に乗って帰った。自分が、直接機銃掃射にあったことはない。米軍の飛行機が獅子目か浜田の方から飛んできて煙をあげながら墜ちていったのを見た。(吾平の六十橋) 畑にはたこつぼが掘ってあった。直径1m位で、1人がしゃがんで入るくらいの大きさだった。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、5頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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矢柄の兵舎
「海軍の兵舎は矢柄にいっぱいあった。串良中学校は青年学校の跡だが、そこも細山田中学校も上小原中学校も矢柄の兵舎を戦後ばらして校舎を造ったもの。串良商業高校も学校をよくしようと熱い思いで、女の子が瓦を一枚一枚運んで造った。戦後の第一回の運動会は、矢柄の兵舎の跡であった。それは今の串良基地隊門の石碑のあたりだった。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、13頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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水道線付近の重砲陣地
「重砲陣地は月読神社から航空隊に八幡迫をとおって水道線に上がるところにあり、大砲があった。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、13頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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串良の憲兵隊詰所
「串良から特攻に出撃していたということは、当時はわからなかった。航空隊の情報は機密で、民間には知らされていない。憲兵隊の詰め所が串良の岡崎郵便局から入った農協の前のお宅にあり、隊員が三人いたようだ。町内の海軍、陸軍を監視していた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、12頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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学徒動員の思い出
「私は終戦時に六年生だったが、学徒動員で防空壕掘り、掩体壕造りや出征兵士の家の農作業の手伝いにかり出された。機械などないので、もっこで土を盛る作業をした。昭和十九、二十年は学校の授業はほとんどなかった。玉音放送は青年学校の小使室で聞いた。この近辺も空襲が激しくて、東串良駅の近くに爆弾が落ちた時は青年学校にいた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、12頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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下谷・上谷付近の様子
「四月、旧制中学校の四年生になり、学徒動員に行った。第二十二海軍航空廠に行き、ゼロ戦の脚の解体にあたった。志布志にも行ったが、串良の飛行場には行ったことは無かった。笠野原で仕事をしている時爆撃された時は「死ぬ」と思った。国分第一航空基地には、トラックの荷台に乗って行き、ゼロ戦の脚の回収をした。 通常は汽車通学で、空襲警報の時は学校に歩いて行ったが、警戒警報が発令された時は行かなくても良いことになっていた。下谷の通信室の裏の谷が集合場所で、雨の日には特攻隊員との交流もあった。年が二~三歳しか違わない人達で、恩賜のタバコを吸っており、明るい表情だった。上谷に組立班があり(今の文化会館近く)、基地の周囲は防空壕だらけだった。爆弾が次々落ちるのがとても怖かった。野里駅に着いたら空襲警報が鳴り、駅から飛行場を横切り三・五キロメートルぐらい走って防空壕に入った時が一番怖い思いをした。基地には自由に入れた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、24頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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山下集落の防空壕
「山下集落の人たちは、戦時中は大津に引っ越していた。山下集落には防空壕がいくつもあり、その中に軍の司令部もあった。それで偉い人が来ると、必ず私の家に来られた。」 「私の家には特攻兵はもちろん、川端康成、山岡荘八もきていたと聞かされている。桜花の碑を建てた小城久作氏もよく来て、父に当時の様子を聞いていたらしい。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、2頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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高須の空襲
【証言1】 1945年3月19日の空襲 「私は終戦を小学四年生で迎えました。高須では昭和二十年三月十九日早朝から空襲警報が嗚りました。いつものように三人の弟を連れて、町内の山手側にある祖父の家に急ぎました。祖父の家には防空壕があり、私たちはその防空壕に避難しました。 当時はいざという時の消火のために、だれかが一人は家に残る決まりになっていたので、母は一人だけ自宅の庭に掘った小さな地下壕に潜りました。ところが、母は十時頃になって今日の飛行機の音はいつもと違うと言って、私たちのところへやって来ました。その後、高須の町に四十余りの爆弾が落ちました。 私の家は駅の近くでしたが、駅付近には八個もの爆弾が落ちました。母が最初に入っていた自宅の地下壕にも爆弾が直撃していたので、母は命拾いをしました。そして、すぐ近くにあったお医者さんの家の大きな石の門柱がとんでもないところまで飛んでいました。また、線路向こうにあった旅館のおかみさんが自宅の地下壕に入っていて、生き埋めになりましたが人々によって助け出されたそうです。 低空飛行で機銃掃射してくるグラマンは本当に怖かったです。火の弾がビュンビュン飛んでくるのです。それはそれは恐ろしい光景でした。あの日のことは忘れることができません。それまでどんなに言っても防空壕になかなか入らなかった一番下の弟が、それを見てからすなおに入るようになってくれたので助かりました。 家がなくなってしまってから、毎日毎日空襲で、私たち家族は防空壕で生活しました。私たちだけでなく、町中の人々もほとんどが防空壕生活になったのです。町内の谷間という谷間は防空壕だらけでした。防空壕での生活は、終戦後もしばらく続き、小さな弟たちに体調のすぐれない母親で大変でしたが、父が兵隊から帰ってきてやっと解放されました。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、5頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 【証言2】高須の空襲 「昭和二〇年三月に旧制中学校三年を終わった(当時五年生まで)。三月十八日の空襲の時、米軍の飛行機を見ておもしろがっていたが、機銃掃射で子どもの足が切断されたと聞いてから「怖い」と思うようになり翌日から防空壕に避難するようになった。爆弾はひっきりなしに落ちたが、高須には二五〇キロ爆弾が四十二個落ちた。その十日後高須で約五〇戸が焼けた。我家は石垣で囲まれていたのと風が陸から海に吹いていたため、火災からは免れた。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、24頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 【証言3】3月29日の高須の空襲 「3月29日の高須の空襲による大火の日は、防空壕に逃げるうちにわが家に火がついた。家の裏のすぐ近くにある防空壕に行くのに足が震えた。公民館で火は止まった。お寺も燃えてしまった。お寺には2回も爆弾が落ちた。その時は、防空壕は高須の人たちでいっぱいだった。当時は藁屋根や平木葺きが多く、40軒くらいが燃え落ちてしまった。お寺が燃えてからは、基地の材木が払い下げされて再建されるまで、祖父がお寺の総代だったので私の家が仏さんを預かり、お寺の代わりだった。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、12頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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国民学校に集めた御真影
「当時父は古江国民学校校長。田崎国民学校の教師がご真影を抱いて避難しようとして米軍の爆撃を受け亡くなった。その後、鹿屋市内の全学校のご真影は古江の防空壕(旧古江国民学校近く)に集められ、毎夜、市内の学校から二人の男の先生が交代できて番をされていた。絶対入ってはいけないという壕に父にせがんで一度だけ無理に入れてもらった。父の後についていくと一番奥に八畳くらいの部屋があり、床は畳、墜はきれいな板張りで一メートル位の高さの棚にずらりとご真影が並べられていた。 八月十五日の早朝、父と姉と軍人でご真影をトラックに積み、百引に運んで行った。なぜ父は姉を連れていったか、百引のどこに運んだか、戦後姉に何回聞いても、「その日の記憶がいっさい無い」と答えた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、18頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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飛行機部品の倉庫
「戦時中、高山高等女学校の生徒で、鹿屋基地に勤労動員で仕事をしていた。高山高等女学校の寮は西原小学校のグラウンドにあった。特攻隊員の寮もあった。今の寿のダイソーのところにカンケイ倉庫(飛行機の部品庫)があり、そこから瀬戸町坂へ向かっているときグラマンが飛んできて、機銃掃射が始まったので今の小浜病院の近くの民家の床下に逃げ込んだ。突然猫の鳴き声と鶏の鳴き声が聞こえ、怖かったのに女子学生数人で吹き出してしまった。 カンケイ倉庫はその時爆弾が落ち、三日くらい燃えていた。その倉庫に私は勤務することになっており、かろうじて命拾いした。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、22頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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徴兵検査
「鹿屋国民学校五年生の時は、講堂に続いた二階の教室だった。徴兵検査が講堂で実施されている時、勉強中に異様な物音が続いた。なぜあんな音がするのか、聞いてはいけないような気がして黙っていた。戦後になって教えてもらったら、悪い病気にかかって徴兵検査に合格しない人が叩かれ床に倒れる音が、二階まで響いていたところだった。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、21頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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憲兵隊があった場所
「父は胃腸が弱く、薬を飲もうと「ことぼし」(あかり)をつけたら、憲兵隊がどなりこんできた。憲兵隊は、今の桑波田病院のあたりにいた。刀は長く、長靴をはき、服ですぐ憲兵隊とわかった。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、21頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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上官と召集兵
「家があった向江町の裏通りで、若い上官が通ると年上の召集兵は立ち止まって通り過ぎるまで敬礼をしているのを見た。ある時、通り過ぎない内に動いたのかよくわからないが、私たちの目の前で若い上官が召集兵を叩いた。鹿屋中の生徒も先生方に立ち止まって敬礼をしていた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、21頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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防空壕での仕事
「私は、終戦前一か月位は、下谷のさつき苑の下の防空壕に保管してある二メートル位の機関銃をかついで運びだす仕事を毎日させられた。銃はとても重くて肩が痛くて痛くて大変だった。トラックは何台も待っていた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、18頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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勤労動員時の寮
「戦時中、高山高等女学校の生徒で、鹿屋基地に勤労動員で仕事をしていた。高山高等女学校の寮は西原小学校のグラウンドにあった。特攻隊員の寮もあった。今の寿のダイソーのところにカンケイ倉庫(飛行機の部品庫)があり、そこから瀬戸町坂へ向かっているときグラマンが飛んできて、機銃掃射が始まったので今の小浜病院の近くの民家の床下に逃げ込んだ。突然猫の鳴き声と鶏の鳴き声が聞こえ、怖かったのに女子学生数人で吹き出してしまった。 カンケイ倉庫はその時爆弾が落ち、三日くらい燃えていた。その倉庫に私は勤務することになっており、かろうじて命拾いした。その後は、今の鮫島病院の下の崖に掘ってあった防空壕で仕事をした。 私は補給隊所属で、よく兵隊さんから牛乳をもらったものだ。隊長さんは最終的に特攻に出られて、そのまま帰ってこなかった。 通信をしていた女生徒については知らない。おそらく私の下級生だろうと思う。それぞれの配属先で仕事が全く異なるので、他の生徒が何をしているかは分からなかった。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、22頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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終戦の日
「八月十五日母が「情報がおかしいから、今日は行かないで。」と止めるのを聞かずに出かけた。上谷に着くと、理由も言わず上司に「今日は帰れ」と言われ、鹿屋駅に行ったが、汽車は軍人で満員、屋根にも乗り、窓にもぶら下がっていて一般の人はとても乗れなかった。 国道を走って帰っていたら、高橋(現鹿屋市上野町)で避難してくる母とばったりあった。母は赤痢にかかっている三歳の三女を背負い、道々鍋のおかゆを食べさせながら歩いて打馬のおばの家に行く途中だった。一歳の四女は、見かねてかわいそうに思われた軍人さんが背負って毎と一緒にきてくれていた。軍人さんと代わり、鍋をもって時々妹におかゆを食べさせながら叔母の家にいった。父も打馬の叔母の家にきて、それから高隈へ行った。赤痢の妹はその後二年間位歩く事が出来ず小学校入学前にやっと歩けるようになった。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、18・19頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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第五航空艦隊司令部に関する証言
【証言1】司令部での仕事 「十六歳の時、聴力検在・思想調査があり、戸籍抄本を持って行った。一ビルの前で入隊式をし、当初一ビルで仕事をしていたが、その後、新生町の地下壕に移った。勤務は三交代制で、串良・笠野原・出水・佐世保・呉・海軍省等からの情報をメモして持っていく仕事。電信室、電話室、作戦参謀室を行き来した。一人一人ボックスで囲まれていた。「作戦電話室です」と伝え防空情報を受け、各基地ヘ情報を流した。具体的には、「〇〇日黎明攻撃がある」と各基地へ連絡した。「我突人す」「油が切れて不時着した」「都井岬上空(または佐多岬上空)敵機来襲」等の受信。はじめ台湾沖航空戦だったが、だんだん沖縄にきた。どんどん飛行機が少なくなった。 新生町の地下壕の中は電気がついていて、壕の中は広くいろいろな部屋があった。朝から晩まで機銃掃射があった。休み時間は、敵のレーダー妨害のための銀紙作りの仕事をした。外へ洩らさないよう機密保持の為に全員宿舎に寝泊りした。しばらく三角兵舎だったが軍が新生町の民家を借り上げて、雑魚寝をした。食事は、新生町にあった烹炊場で三食軍人さんと同じで、司令部付だったのでよかった。(例ごはん、汁、肉じゃが)自分たちの分は、当番で配膳して食器洗いをした。(高山高女は別の家) 毎月一晩帰宅が許された。仕事を終えて五時に帰ると冬場は真っ暗で、途中から一人になるので怖くて、くねくねの山道を走って帰った。朝ごはんを食べたら昼ごはん前に隊に帰る。三月からは米軍の空襲をうけ、隠れながら新生町の壕に帰った。仕事は、お国のためにと一生懸命、楽しく頑張った。今は男女交際をしているが、当時は「男の人と話をしてはいけない。近所の人とも…」と言われていたので、兵隊さんとも話したことはなかった。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、25頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 【証言2】 作戦電話室の仕事 「鹿屋高等女学校在学中、第五航空艦隊司令部へ動員で行く際、打馬町の春日神社で全校生徒そろっての壮行会があった。仕事は、有線電話で各基地に連絡した。笠野原、串良、知覧(無線は、軍人さんがしていた)。電話は地下壕の部屋の片側に十台、両方合わせて二十台置かれていた。―つのボックスに―つの机、一台の電話があり、二人で担当した。六人一組のグループだった。作戦電話室は板張りで、通路は土だったと思う。司令室に行ったことは無かった。通信で今でも記憶から離れないのは、「ひとまるまるまる(一〇:〇〇)まるだい発進」という言葉。今から特攻が飛ぶという合図だったと思うが、これを言った後、壕の外を何機も飛行機が「ゴー」とものすごい音をたてて飛んでいった。壕の入口で、金モールをつけた偉い人が頭を垂れていた姿が忘れられない。(*まるだい…「桜花」は大田正一発案によるためこう呼ばれた) 地下壕の近くに寮があった。食事は軍人と同じもの。帰宅の許可が出ると乾パンや缶詰を持って帰るので妹たちが楽しみに待っていた。負けるのではないかと思ったことは無かった。終戦は宿舎で聞いてみんな泣いた。自分たちがこんなに働いてがんばったのに…と思った。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、26頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 【証言3】第五航空艦隊で勤務 「昭和20年6月頃、鹿屋の第五航空艦隊に移った。横須賀から一緒に20人くらい来たが電信室には4人しか入らなかった。防空壕の中で仕事をした。上の方の基地には1回も行った事がなかった。3交代8時間勤務。第五航空艦隊にはレーダー探知機があった。モールス信号で受けるので意味は分からず、受けたとおり受信紙に書くだけで解読は別だった。戦艦からか基地からかということも分からなかった。 例えば、発信元は「トミ3」というのがあった。分かったのが「キン」というのは「緊急」の意味で、「サキ」というのは、「作戦電信」ということだった。交信は、暗号文の通り打つだけだった。電信長は佐世保では中尉くらいの階級の人だったが、鹿屋ではどの人か分からなかった。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2022年、4頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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掩体壕造り
「はっきり記憶していないが、(女学校)一年生の終わりごろだったか、掩体壕造りに行って朝から夕方まで土運びをした。場所は、西原の今坂町の上あたり、国道より南側だったと思う。いった大豆がおやつで、お弁当はさつまいも。(私の家は今の市の体育館やテニスコートなどがあるあたりに広い畑を持っていたので、まだよかったと思う。)竹やり訓練やだんじょう訓練があった。だんじょうは一メートルあまりの棒、その棒で何をしたかは覚えていない。吾平山稜まで行く訓練もあったが、体が弱く参加しなかった。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、20・21頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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野里小学校と野里駅
「私が昭和二十五年に野里小に入学したときは、特攻隊の宿舎跡の校舎が残っていた。満々と水が流れていた用水路は洗い物などに使っていた。小さい子は泳いだりしていた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、3頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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掩体壕・電波探知機施設
「私は田崎国民学校で、六年生ころから高等科一年まで基地の近くに掩体壕造りに行った。今の田崎学習センターの西の谷に、電波探知機の施設造りにも行った。これができれば戦争に勝つと言われた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、17頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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機銃と修理工場
「高射砲は論地にあった。川東には二連の機銃があった。今の多目的運動場の西側で道路を少し入ったところだった。終戦になったら機銃はなくなったが、機銃の台が残っていて、ぐるぐる回るので子どもが遊んでいた。川東の田畑工業の南側に大きな家があって、ゼロ戦の修理工場になっていた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、17頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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高射砲陣地
「双胴の敵機が毎日来ていた。攻撃は決まったように朝八時か九時に始まり、午後は四時で終わる。それに対して、滑走路の東に前田隊長の機銃の陣地があったが、数はわからない。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、7・8頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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掩体壕に関する証言
【証言1】掩体壕の思い出 「現在でも川東の畑の中に掩体壕が一つ残っている。掩体壕は朝鮮人が徴用できて造ったものだ。あの掩体壕はまず土盛りをして、その上にコンクリートを流して形を造り、その後で土を外して造った。下面は塗ってない。コンクリート製の掩体壕はまだ三つ、四つあった。コンクリート製でない士盛りのコの字形の掩体壕はいつばいあった。そのうちの―つが私のおじの家の近くにあり、戦後壊しに行った。周りには掩体壕への誘導路があった。 飛行場は全部焼けたので、掩体壕が格納庫だった。掩体壕で飛行機の修理もしており、学校帰りに掩体壕に寄ると、搭乗貝と整備兵がゼロ戦の修理をしていた。同級生の男の子が五人でゼロ戦の整備を見ていたら、搭乗員がお前たちは姉がいるかと聞き、姉がいる子供には小さなキャラメルをくれた。おとりの飛行機をもうそう竹にむしろを巻いて作り、その飛行機は土盛りの掩体壕に置いた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、16頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 【証言2】掩体壕づくり 「昭和19年8月の夏休みには、笠野原の飛行場まで約10kmの道を歩いて、毎日掩体壕作りに行った。南町からは5~6人位だったと思う。朝から夕方まで土運びをした。場所は、今残っている川東掩体壕の近くだったと思う。木が1本もないところだった。トイレは、長い溝が掘ってあり、そこに板を渡し、むしろ(稲わらであんだもの)で仕切ってあるだけの簡単な作りだった。帰りには、田崎小学校の近くの湧水でのどを潤し、一休みして帰った。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集2~』鹿屋市ふるさとPR課、2017年、5頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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神雷部隊の出撃
「三月二十一日の一式陸上攻撃機。畑に上がって木の上で、桜花を胴体に積んだ一式陸上攻撃機を見た。ゼロ戦は笠野原基地から回りながら上昇していき、一式陸上攻撃機と合流した。一式陸上攻撃機は鹿屋基地のほうからまっすぐ飛んできて、一直線で東に行った。ゼロ戦が衝突して一機墜落した。その日は全機帰らなかった。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、16頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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東西滑走路の補修
「小学校五、六年生は毎日奉仕作業で滑走路に石を並べた。元滑走路の北側の道路は、戦後に滑走路のコンクリートを割って、入れて作った。私は光同寺に毎日、釣りや田んぼに行っていた。でも、二本目の南北にあったという滑走路は知らない。滑走路は爆弾が落ちて穴が空いては埋める。穴を埋めてその上に金網を張った。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、8頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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笠之原基地のこと
「笠之原基地は航空母艦への着艦訓練用だった。六人が白い襟巻で軍刀を持っているのを見た。 飛行機で吹流しを引っ張って、それを戦闘機で撃つ訓練をしていた。 笠之原の町は空襲で四月三十日に焼けた。 終戦二日前から、軍関係の書類をリヤカーやサイドカーで持ってきて、全部焼いた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、8・9頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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笠之原基地の塔
「あの塔が滑走路までつながる地下トンネルヘの入り口だったというのは誤りだろうと思う。軍関係者以外は誰も中に入った人はいないのだから。終戦前そんな技術と資材があったとは考えにくい。塔と道路を挟んで北側に地下室があったのは、私が確認している。地下の部屋は広さが十畳くらいだった。 戦後、私たちはめぼしい物を探すために地下室の中に入ったが、トンネルはなかった。米軍が爆破して、地下室はぺちゃんこにへこんでしまった。戦争中、町内会と軍人さんで運動会を滑走路でやってたが、そのころはあの塔はなかった。だから、終戦間際にできたのだろう。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、7頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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鹿貫谷の地下壕群
「われわれは川東の田んぼに行くのに、基地の東側の谷沿いの道路を通っていた。この東側の谷が「鹿貰谷」である。今の寿光園の東側の谷には、がけに壕がたくさん掘ってあった。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、8頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 「基地は爆撃でほとんど焼けた。鹿貫谷に壕がたくさんあり、兵隊はそこにいた。病院の壕もあった。終戦後、病院の壕にいい箱があったと取りに行ったら遺骨の箱だったそうだ。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、16・17頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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笠野原国民学校
「学校(笠野原国民学校)には兵隊の宿舎が二棟あり、飛行機の整備員もいた。その南側に格納庫があった。住民は、飛行機が暖機運転をするのを見ていたものだ。国民学校の三分の一は兵隊の宿舎だった。学校の南には守衛さんがいた。守衛さんがまだ来ていない早朝に笠之原の住民は、飛行場の草切りに行っていた。 兵舎は矢野隊と前田隊で、機関銃隊と高射砲隊であり、それぞれ隊の炊事場を宿舎の後ろに持っていた。宿舎は杉の皮をかぶせて敵の目をごまかしていた。 国民学校で豚を養っていたので、笠野原国民学校の高等科の人たちは、残飯もらいに手車を押して行った。衛門を通るときは敬礼していた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、7頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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燃料の保管場所
笠之原の神社の前の杉山の中に、ドラム缶の燃料がたくさん隠してあった。今もその当時の大きな杉が二本は残っている。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、8頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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旭原町の高射砲
「高射砲は旭原の岩川街道近く、今度できた高速道の西側にあった。高射砲が敵機を撃つ砲声を聞いていた人もいる。現在の池畑鉄工付近に高射砲の村田隊(海軍)がいた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、8頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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有里の機銃台座
「橋口ミカン園付近に機銃の台座があり、南側の十字路から南西方向の松山の中に探照灯があった。この十字路の南北の線が「水道線」である。軍のための水道が引いてあった。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、8頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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東原の翼賛農場
「女学校一年生の時は、厳しい礼法(作法)、なぎなた(専門家の指導)、英語もあった。翼賛農場が東原にあり、あけてもくれても農作業だった。さつまいもを作り、自分たちも食べたが、余った分はどこに持って行かれたかは知らない。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、20頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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鶴峰小学校
「私が鹿児島市から鶴峰小に疎開で転校したのは、小学校一年生で昭和十九年だった。当時は低学年までは奉仕作業はなかったが、高等科の生徒は、兵隊さんと一緒に作業をしていたようだ。また、兵隊さん等は戦争末期に召集された人たちで、年齢は比較的高く、下げていた短剣や飯ごうも竹で作ったものを使用し、武器も少ないので、敵機が来ても応戦もしない状況だった。 学校は戦争中だったので、行っても度々空襲警報のサイレンが鳴り、授業どころではなかった。防空壕は学校の近くにあった。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、3頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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エンジン整備用壕
「今の玉泉寺公園付近の壕にエンジンの整備をする場所があって、エンジンが動く大きな音がいつも聞こえていた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、4頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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甫木地区に関する証言
【証言1】甫木谷の防空壕 「甫木の谷は防空壕だらけだった。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、13頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 【証言2】甫ノ木の池の上の防空壕 甫ノ木の池の上の防空壕はとても大きいもので、食料倉庫のようだった。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、13頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 【証言3】 特攻兵の思い出 「この近辺には十七、八歳から二〇歳くらいの女性が多かったからか、明日沖縄へ出るという特攻隊員がよく遊びに来ていた。女性たちは布切れで人形を作ってあげていた。人形を二、三個ぶら下げた隊員もいた。その人形をぶら下げるのに紐をつけるが、当時は物不足できれいな紐が手に入りにくかった。ある日、それを知った特攻隊員が落下傘の絹紐をあげるから取りに行こうと、私を連れて滑走路の横を通って、地下通信壕近くまで歩いて行った。通信壕の近くの下の谷の防空壕まで行くと壕は三つあり、その中の―つの壕の中から紐を持ってきてくれた。近くにはパラシュートが干してあった。そのあとは一人で長い距離を歩いて帰った。私が渡した紐で女性達が人形をつるして特攻隊員にあげた。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、14頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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掩体壕造り
「飛行機を格納する掩体壕は星ヶ丘の付近が中心だ。滑走路から南の方向にあった。掩体壕は飛行機一機分の大きさで、入り口は互い違いにしてあった。私たちも六年生で掩体壕を造りに行った。その掩体壕は、今はもう残っていない。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、13頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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串良基地の土盛りの掩体壕
「木製のにせものの高射砲を作って、そばに立つ兵隊もわら人形で作ってあった。土盛りの掩体壕も道路沿いにあった。造ったのは予科練の兵隊。高隈線と滑走路の線の交点あたりに上半身裸でもっこで運んで造っていた。壕がだんだん高くなると、走りこんで上のほうまで運んでいた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、14・15頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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串良基地に関する証言
【証言1】串良基地の思い出 「終戦当時、私は国民学校六年生だった。私の家は飛行場が近く、自宅から山道を通って、二~三分で行けた。からいもや団子を特攻隊の宿舎に差し入れに行った。」「五~六年生の時に、飛行場に柏原から砂を運んだ。掩体壕は二階建てくらいの高さに土を盛って、木の葉で隠した。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、10頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。) 【証言2】 串良基地の朝鮮飯場 「近くに朝鮮飯場があった。彼らは我が家の近くで親しかったので、どぶろくをよく買いに行った。」「串良基地は朝鮮の人達と女性を使って造った飛行場だ。」(『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、15頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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串良基地の滑走路造り
「朝鮮人の宿舎が県道沿いにあった。それは朝鮮飯場だった。合計三百人ぐらいいただろう。滑走路造りにダイナマイトで山を崩す。砕かれた石をトロッコに乗せて、機関車で引いて基地へ運んでいた。彼らは家族と一緒に来ていて、子どももいた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、10頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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飛び立つ飛行機
「串良基地の滑走路から飛び上がった飛行機は我が家の上空を、どんどん北の方へ通って行った。私はそれを真下で見ていた。時には馬小歴の屋根に上って見送ったりした。飛行機は頭の上を飛んで、今の細山田中学校の上あたりから志布志湾へ回って行った。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、14頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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辰喰の兵舎
「戦時中は、「徴用」という言葉―つで軍隊が思うように何でもできるので、持ち主に断りなく航空隊の周辺の林は木材を切られる。戦車橋(林田橋)は宮ノ下の地主の家の持ち山の立木を全部切って、造ったものだ。辰喰の兵舎も、その付近の山をほとんど「徴用」という言菓―つで伐採され造ったもの。馬でさえも、いい馬は徴用馬として、軍に取られた。当時は翼賛体制で、右を向けと言ったら右だけむく。そういう時代だから、何事も一切批判することはできなかった。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、13頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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串良基地門跡
「今の串良基地の隊門の石碑のところには、両側の門に兵隊が立っていた。」 (『永遠の平和を願って~戦争体験集1~』鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会、2017年、14頁より一部引用:原本(全文)は鹿屋市立図書館・鹿屋市観光協会等で閲覧できます。)
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晴れて近衛兵
今元正夫さん(志布志町) 南日本新聞「証言 語り継ぐ戦争」2021年7月25日配信(画像をクリックしてください)
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兵庫県明石の航空機工場に
遠矢文雄さん(大崎町假宿) 南日本新聞「証言 語り継ぐ戦争」2022年3月13日配信(画像をクリックしてください)
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米軍進駐を語り継ぐ
立元良三さん(鹿屋市高須町) 南日本新聞「証言 語り継ぐ戦争」2022年9月11日配信(画像をクリックしてください)
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垂水基地の衛生兵
山野 秀則さん(鹿児島市紫原) 南日本新聞「証言 語り継ぐ戦争」2022年12月13日配信(画像をクリックしてください)
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満州で迎えた敗戦
岩松 陸雄さん(鹿屋市大姶良町) 南日本新聞「証言 語り継ぐ戦争」2022年12月19日配信(画像をクリックしてください)
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満蒙開拓青少年義勇軍
谷元太一さん(志布志町) 南日本新聞「証言 語り継ぐ戦争」2023年1月30日配信(画像をクリックしてください)
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電気炉管理
大原喜八郎さん(向江町) 南日本新聞「証言 語り継ぐ戦争」2020年8月18日配信(画像をクリックしてください)
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鹿屋基地に関する証言
〈戦後77年 戦争遺跡を歩く〉芙蓉之塔=鹿児島県曽於市大隅 南日本新聞「証言 語り継ぐ戦争」2022年8月8日配信(画像をクリックしてください) 「白菊」で特攻隊員養成」 井ノ久保武義さん(宮崎市熊野) 南日本新聞「証言 語り継ぐ戦争」2020年9月3日配信(画像をクリックしてください) 「学徒通信兵として鹿屋から福岡へ」 樋渡カズエさん(曽於市末吉町) 南日本新聞「証言 語り継ぐ戦争」2020年9月16日配信(画像をクリックしてください) 「私たちに青春はなかった」 木原信雄さん(旧川辺町) 南日本新聞「証言 語り継ぐ戦争」2022年11月21日配信(画像をクリックしてください)
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九七艦攻と天山の修理
丸目南兵衛さん(志布志市有明町) 南日本新聞「証言 語り継ぐ戦争」2021年2月14日配信(画像をクリックしてください)
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恐ろしい教育の力
岩元 和さん(野里町) 南日本新聞「証言 語り継ぐ戦争」2021年9月12日配信(画像をクリックしてください)
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二式飛行艇(二式大艇)
1942年に採用された、全長約28m、翼長38mの大型飛行艇です。 航続距離は8000kmを超えていたと言われており、1945年3月11日のウルシー環礁の米艦隊への奇襲特攻作戦である第二次丹作戦では、鹿屋基地から出撃した銀河陸上爆撃機24機を誘導するために、3機が香川県詫間海軍航空隊から発信しました。 本機は、戦後、性能試験のためアメリカで保管されていたもので、1979年に日本に返還されました。2004年から海上自衛隊鹿屋航空基地史料館で屋外展示されています。(安藤広道) ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2022年3月11日 ・アメブロ『海とひこうき雲-日本海軍好きのゆるゆる日記です。』 鹿児島の旅 二式大艇 1 2012年8月6日 鹿児島の旅 二式大艇2 2012年8月6日 鹿児島の旅 二式大艇3 2012年8月6日 二式大艇4 2013年5月8日 二式大艇⑤と横浜海軍航空隊 2018年11月11日
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1945年4月25日報告 串良航空基地
National Archives and Records Administration:341-NM14-217-670-59198(鹿屋市所蔵)を一部改変。※「海軍串良航空基地1945年4月25日撮影」アーカイブマップへ
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笠ノ原航空基地
National Archives and Records Administration:243-I-10-55-018-02(鹿屋市所蔵)を一部改変。 ※「海軍笠ノ原航空基地1945年3月18日撮影」アーカイブマップへ
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史料館入口付近
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大隅野里駅付近
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田崎掩体壕付近
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海軍笠ノ原航空基地
※「海軍笠ノ原航空基地アーカイブマップ」へ 【笠ノ原海軍航空基地の概要】 ・1922年に町営笠野原飛行場として設置されました。1925年以降、陸軍・海軍共同で利用されるようになり、1936年に笠ノ原飛行場と名称を改め、1942年に海軍基地になりました。 ・1941年には、この基地で真珠湾作戦の空母着艦の訓練が行われたと言われています。 ・民間の飛行場であったため、鹿屋基地や串良基地に比べ滑走路が短いのが特徴です。そのため小型機の発着が中心となっており、設置された掩体壕も二つの基地に比べて小規模になっています。 以下、八巻聡さんの『鹿児島県の戦争遺跡 航空基地編』(八巻聡2000)より、概要を引用します。 ・建設年:1922年 ・主任務:作戦 ・滑走路: 800×50m×2本(コンクリート) ・格納庫:19446㎡ ・掩体壕: 中・小型無蓋 210基 ・収容施設: 士官220名 兵員2000名 ・工場施設:有り ・教育施設:無し ・送信所・方位測定所:無し ・基地施設: 指揮所・通信所・弾薬庫・ 燃料庫・倉庫 航空基地概要 大正時代に私設飛行場として建設された飛行場である。 その後、軍に使用されるようになり、数々の航空隊が練習に使用した。真珠湾攻撃に参加した第2航空戦隊艦爆隊もこの飛行場を使用していた。 戦争が始まると南方との中継基地となっていた。 昭和20年3月18日の空襲により、格納庫などの基地の施設が破壊され、大きな損害を受けている。 「兵器引渡目録 笠ノ原基地」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08011084100(原資料:防衛省防衛研究所)31・32頁より ※この図と航空写真や現地との対応関係の解明が課題です。(安藤広道) ・桜と錨『海軍砲術学校』「笠ノ原基地」2018年4月29日 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2018年12月22日 ・アメブロ『海とひこうき雲-日本海軍好きのゆるゆる日記です。』 鹿児島の旅 笠之原海軍航空基地跡 2012年8月6日
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鹿屋航空基地史料館
「館内には旧日本海軍創設期から第二次大戦にいたるまでの貴重な資料のほか、「永遠の0」にも登場する「零式艦上戦闘機五二型」、特攻隊員の遺影や遺書などが展示されています。そのほかにも1階には、海上自衛隊の活動状況も紹介されています。 世界で唯一する現存する「二式大型飛行艇」も必見です。」・所在地:鹿屋市西原3丁目11-2・電 話:0994-42-0233・営業時間:9時~17時(入館16時30分迄)・休館日:12月29日から1月3日まで・料 金:無料・駐車場:あり・トイレ:あり(鹿屋市「鹿屋に残る戦跡」より引用) 『かのやファン倶楽部』 「かのやファン倶楽部 平和への歴史を振り返る場所「鹿屋航空基地史料館」」 ・Hatena Blog 日刊 おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡) 【鹿児島特攻慰霊⑨】日本で1番多くの特攻隊員が出撃した海軍鹿屋飛行基地 2022年9月6日 ・アメブロ『海とひこうき雲-日本海軍好きのゆるゆる日記です。』 鹿児島旅 海上自衛隊鹿屋航空基地史料館 2012年8月5日 鹿児島の旅 肥田真幸 海軍大尉 2012年8月6日 海上自衛隊鹿屋航空基地史料館へ 2013年5月8日 零戦五二型 ~海自鹿屋航空基地史料館 2018年11月21日 ・『福岡発‼九州観光ガイド』 鹿屋航空基地資料館 2017年6月17日 ・旅人のブログ鹿屋航空基地資料館(鹿児島県鹿屋市) 2018年8月21日 戦争と戦後が始まった歴史の舞台~海上自衛隊鹿屋航空基地史料館 産経新聞ニュース 2018年8月16日 〔MBC南日本放送〕 「8/15(火)戦争の記憶(鹿屋基地史料館・国分基地清掃・殉国者慰霊塔・ゼロ戦展示)」 2017年8月15日 スマイル中継「【終戦の日】鹿屋の地で後世に語り継ぐべきもの」 2018年8月15日 「戦争の記憶①ゼロ戦引き上げ鹿屋基地で復元・展示(前)(1992)」 2019年8月12日 「戦争の記憶②ゼロ戦引き上げ鹿屋基地で復元・展示(後)(1993)」 2019年8月13日
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権現島水際陣地跡
(準備中) ※画像をクリックしてください。 Youtubeに飛びます(3Dデータ) 『行きたい♪が見つかる かごぶら!』 「権現島水際陣地跡」 毎日新聞「戦の跡-本土決戦のイフ(6)志布志湾権現島の洞窟基地」 西日本新聞「「本土決戦」決死の防衛網は今 米軍上陸想定、鹿児島に残る地下壕や要塞跡」
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基地内にあった掩体壕
(準備中) ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2018年12月2日 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2018年7月16日
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内之浦臨時要塞(観測所跡)
2連の観測所で、見学できるように整備されています。内部に測遠機の設置台(説明板で機銃台座となっているのは誤り)が残っています。(安藤広道) 以下、肝付町のHPから引用します。 「沖縄戦後の本土決戦は、南九州が第一候補地として想定され、1944年(昭和19年)8月から志布志湾の両岸に迎撃のための軍事施設が構築され始めました。 海蔵集落のある半島一帯は戦略的価値が高いと認められ、志布志湾岸では最も大きな要塞が構築されています。 (中略) 砲台は結局、使用するに至らないまま終戦を迎えましたが、現在でも砲台跡6ヶ所、弾薬庫1ヵ所、探照灯1ヵ所の遺跡が残っています。」 ・所在地:肝付町北方・駐車場:あり(ふれあいパーク内之浦)・トイレ:あり(肝付町「海蔵砲台跡」より) ※画像をクリックしてください。 Youtubeに飛びます(3Dデータ) 〈戦後77年 戦争遺跡を歩く〉海蔵要塞跡 南日本新聞「証言 語り継ぐ戦争」2022年8月9日配信(画像をクリックしてください) 西日本新聞「「本土決戦」決死の防衛網は今 米軍上陸想定、鹿児島に残る地下壕や要塞跡」 「内之浦臨時要塞について」(『空襲・戦災・戦争遺跡を考える九州・山口地区交流会第4回報告集』2017年掲載)(Box)※八巻聡氏のご好意によりお読みいただけるようになりました(ダウンロードはできません)。
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1ビル(鹿屋航空基地庁舎)
(準備中) ・アメブロ『海とひこうき雲-日本海軍好きのゆるゆる日記です。』 エアメモ2013 その5 ~山本五十六からの手紙 2013年6月4日
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第二飛行機格納庫
現在も使用されている格納庫です。
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西原掩体壕跡
検出された掩体壕の基礎部分の平面図 バイパス建設に伴う1987・1988年の発掘調査で、無蓋掩体壕と誘導路の痕跡が検出されました。郷之原町一帯では、無蓋掩体壕の地上部分は失われていても、地下の基礎部分や誘導路が残っていることを示す重要な調査事例と言えます。発掘調査報告書は、以下のリンクからダウンロードできます(掩体壕の報告は、第5分冊に掲載)。報告書には、原田盛雄さんによる郷之原町一帯の掩体壕などの記録も掲載されています。(安藤広道) 鹿児島県教育委員会 1990 『鹿児島県埋蔵文化財発掘調査報告書52:中ノ原遺跡(Ⅱ)中原山野遺跡 西原掩体壕跡 前畑遺跡5・6』鹿児島県教育委員会 原田盛雄氏による郷之原一帯の掩体壕の分布図
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機銃掃射の銃弾痕
このあたりの石垣に機銃掃射の銃弾痕が残っています。
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坂元砲台跡
八巻聡氏にご許可をいただきましたので、『鹿児島の戦争遺跡(独立混成第98旅団)』の坂元砲台跡の説明部分を掲載します。 ※画像をクリックしてください。 Youtubeに飛びます(3Dデータ) 『鹿児島の戦争遺跡 本土決戦編①』(八巻聡 2005)(Box) 八巻聡氏のご好意により全文をお読みいただけるようになりました(ダウンロードはできません)。
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地頭館仮屋跡の銃弾痕
鹿屋市指定文化財の地頭館仮屋跡の石垣に、複数の銃弾痕が残っています。ただ、西南戦争時のものも含まれているとのことです。(安藤広道) ※地頭館仮屋跡について 「旧串良小学校敷地一帯串良城(鶴亀城)本郭・二郭・三郭の山麓を貫流する有里用水路(寛文十一年開設)と、本郭の東南東から三郭の山麓近くに大きく湾曲蛇行していた串良川旧河川(大正初期改修)の中間の平坦な山麓一帯の概ね2500平方メートル位の敷地を、南面35メートル・東面55m、高さ約2m程度の平積石垣で囲み、東面中央寄りに仮屋正門・同北端に通用門を設けて築造されていた。(昭和48年12月1日指定)」・所在地:鹿屋市串良町岡崎鶴亀(鹿屋市「鹿屋市内の県・市指定文化財一覧」より引用)
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基地内に見える掩体壕
コンクリート製掩体壕の一部が見えています。田崎掩体壕と同じタイプの倉庫だと思われます。(安藤広道) ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2017年3月3日
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海軍境界杭
このあたりの基地のフェンスに沿って、海軍の境界杭が数本残っています。
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内之浦臨時要塞(砲台跡)
15cm加農砲が設置されていた可能性の高い砲台跡。(安藤広道) 以下、肝付町のHPから引用します。 「沖縄戦後の本土決戦は、南九州が第一候補地として想定され、1944年(昭和19年)8月から志布志湾の両岸に迎撃のための軍事施設が構築され始めました。 海蔵集落のある半島一帯は戦略的価値が高いと認められ、志布志湾岸では最も大きな要塞が構築されています。 (中略) 砲台は結局、使用するに至らないまま終戦を迎えましたが、現在でも砲台跡6ヶ所、弾薬庫1ヵ所、探照灯1ヵ所の遺跡が残っています。」 ・所在地:肝付町海蔵・駐車場:あり(ふれあいパーク内之浦)・トイレ:あり(肝付町「海蔵砲台跡」より) ※画像をクリックしてください。 Youtubeに飛びます(3Dデータ) 〈戦後77年 戦争遺跡を歩く〉海蔵要塞跡 南日本新聞「証言 語り継ぐ戦争」2022年8月9日配信(画像をクリックしてください) 西日本新聞「「本土決戦」決死の防衛網は今 米軍上陸想定、鹿児島に残る地下壕や要塞跡」 「内之浦臨時要塞について」(『空襲・戦災・戦争遺跡を考える九州・山口地区交流会第4回報告集』2017年掲載)(Box)※八巻聡氏のご好意によりお読みいただけるようになりました(ダウンロードはできません)。
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持留観測所
(準備中) ※画像をクリックしてください。 Youtubeに飛びます(3Dデータ) 『行きたい♪が見つかる かごぶら!』 「四季の森」 【YouTube】 hozono.t 【大崎町】四季の森の トーチカ(太平洋戦争時の持留観測所) 2016年2月14日 四季の森トーチカ~いこいの森空撮(鹿児島県大崎町) 2019年2月9日
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地下壕第一電信室
「串良基地から飛び立った特別攻撃隊員が突撃前に送る電信を受信していた地下壕です。壕内では現在、音声ガイダンスによるモールス信号の再現など、当時の様子を追体験することができます。」・所在地:鹿屋市串良町有里4963-2・見学可能時間:9時~16時(年末年始は見学不可)・駐車場:あり・トイレ:あり(鹿屋市「鹿屋に残る戦跡」より引用) 「この地下壕は特攻隊員との連絡を行い、最後の通信を受け取っていた場所である。深さ約7m、全長約51m、一番広い通信室は奥行き15m、幅4mあり、 これを主室として通路、小部屋等で構成されている。保存状態も良好であり、戦争の記憶を後世に語り継ぐ貴重なものである。(平成27年6月26日指定)」(鹿屋市「鹿屋市内の県・市指定文化財一覧」より引用) ※画像をクリックしてください。360度画像のポップアップウインドウが開きます。 ・さらに画面をクリックし、右下に現れるメガネ型アイコンを選択すると、PCでは全画面表示に、スマホではVR画面に変わります。 ・VR画面にしてからスマホをVRゴーグルに設置するとVR視聴が可能です。 鹿屋よかとこ探訪『【Part5・最後】残していきたい記憶~通信が途切れた時散っていった若者たち【串良基地跡の地下壕第一電信室】~』2020年8月14日 ※画像をクリックしてください(Youtubeに飛びます)。 『行きたい♪が見つかる かごぶら!』 「串良基地跡の地下壕第一電信室」 『ニッポン旅マガジン』 「鹿屋地下壕第一電信室」 ・Hatena Blog 日刊 おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡) 【鹿児島特攻慰霊⑤】特攻機の敵艦突入無線を受信していた串良地下壕電信司令室2022年8月26日 ・アメブロ『海とひこうき雲-日本海軍好きのゆるゆる日記です。』 鹿児島の旅 串良海軍航空基地 地下壕電信司令室 2012年8月6日 ・『福岡発‼九州観光ガイド』 鹿屋市串良周辺の戦争遺跡 2017年6月17日 ・『黒しばわんこの戦跡ガイド』 鹿屋市串良町有里に残る「鹿屋地下壕第一電信室」 2021年4月14日
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大塚山公園
「戦争末期、志布志湾からの米軍上陸に備えた部隊が置かれ、観測等が行われていました。頂上付近の展望所からは志布志湾を見渡すことができます。」(鹿屋市観光協会HPより引用) 八巻聡氏にご許可をいただきましたので、『鹿児島の戦争遺跡(独立混成第98旅団)』の大塚山陣地の説明部分を掲載します。 ※画像をクリックしてください。 Youtubeに飛びます(3Dデータ) 『行きたい♪が見つかる かごぶら!』 「大塚山公園」 志布志湾と反対側の斜面に観測所につながる坑口が残っています。 『鹿児島の戦争遺跡 本土決戦編①』(八巻聡 2005)(Box) 八巻聡氏のご好意により全文をお読みいただけるようになりました(ダウンロードはできません)。
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外国人納骨堂
「鹿屋市古前城町の市営緑山墓地に外国人納骨堂がある。太平洋戦争中に鹿屋を中心とした大隅の軍事施設建設に従事した強制連行者ら二十人が眠る。 納骨堂は、鹿屋市の在日韓国人・故伊藤平吉さん=日本名、一九〇四ー九八年=が同市に働き掛け、一九六二(昭和三十七)年四月建立された。伊藤さんは鹿児島に連れてこられた朝鮮人労働者の“統括役”の現場監督だった。伊藤さんは当初、約四十人分を納骨。その後、身元が判明した半数を本国に帰した。それでも残った二十人のうち十四人は名前すら不明だ。」(南日本新聞社編『戦後60年 かごしま戦争遺跡 記憶の証人』2006年:35頁より引用) ・所在地:鹿屋市古前城町 ・朝鮮新報「鹿児島県で強制連行犠牲者追悼式/「外国人納骨堂」に20柱の朝鮮人遺骨」(2016年12月26日 部分) ・朝青鹿児島Facebook「「外国人納骨堂」追悼式・美化活動」(2020年4月11日)
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滑走路縁石の発掘調査
・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2018年12月19日
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第ニ飛行機倉庫基礎
2022年春に発見された巨大なコンクリート製の基礎列です。第22海軍航空廠の第二飛行機倉庫の北壁の基礎列であることが分かりました。調査後、撤去されました。(安藤広道) ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2022年3月14日 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2022年3月4日 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2022年2月7日
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小串回天発射基地跡
(準備中) ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2016年12月21日
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高須トーチカ
「米軍の本土上陸に備えて海岸部に作られたトーチカ(陣地)です。コンクリートののぞき窓は海岸方向に向けられています。」・所在地:鹿屋市高須町(高須海水浴場脇)・駐車場:高須地区学習センターにあり・トイレ:高須地区学習センターにあり(鹿屋市「鹿屋に残る戦跡」より引用) ※画像をクリックしてください。 Youtubeに飛びます(3Dデータ) 『行きたい♪が見つかる かごぶら!』 「高須トーチカ」 2018年3月17日撮影
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野里国民学校国旗掲揚台
「戦争末期、人間爆弾・桜花作戦を行った神雷部隊は野里国民学校を宿舎としていました。 国旗掲揚台には、機銃掃射の弾痕が残っています。」・所在地:鹿屋市野里町(朝日神社隣)・駐車場:あり・トイレ:なし(鹿屋市「鹿屋に残る戦跡」より引用) ※画像をクリックしてください。 Youtubeに飛びます(3Dデータ) 鹿屋よかとこ探訪『【Part1】残していきたい記憶〜特攻出撃前数日間を過ごした『野里国民学校跡地』〜』2020年8月7日 ※画像をクリックしてください(Youtubeに飛びます)。 ・『黒しばわんこの戦跡ガイド』 鹿屋市野里町に残る「国旗掲揚台跡」 2021年2月26日
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笠ノ原基地地下道入口跡
「笠野原飛行場は、大正11年に大刀洗陸軍飛行場(福岡県)の離着陸用の民間飛行場として誕生しました。 昭和20年3月18日以降に米軍による集中爆撃を受けると、格納庫を始めとする基地施設は大きな被害を受けました。 東西・南北に一本ずつ滑走路が伸びていましたが、終戦後に払い下げられ、現在は地下道入口が残っているのみとなっています。」 ・所在地:鹿屋市笠之原町(笠野原小学校から南へ300m)・駐車場:なし・トイレ:なし(鹿屋市「鹿屋に残る戦跡」より引用) ・『黒しばわんこの戦跡ガイド』 鹿屋市笠之原町に残る「笠之原飛行場跡地」 2021年4月12日
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川東掩体壕
「掩体壕とは、敵機の空襲等から飛行機を守るために作られたコンクリート製の格納庫のことです。 この掩体壕は笠野原基地で使用されたもので、戦時中は零戦が入っていたと言われています。」・所在地:鹿屋市川東町8206-5・駐車場:あり・トイレ:なし(鹿屋市「鹿屋に残る戦跡」より引用) 「掩体壕とは、戦闘機等を敵の爆撃から守るために建設されたもので、コンクリート製でかまぼこ型のものが多い。笠野原基地では200基余り建設されたが、この掩体壕が当時の姿を残す唯一のものである。戦争の記憶や笠野原に航空基地があったことを後世に伝える貴重な戦跡である。(平成27年6月26日指定)」(鹿屋市「鹿屋市内の県・市指定文化財一覧」より引用) ※画像をクリックしてください。360度画像のポップアップウインドウが開きます。 ・さらに画面をクリックし、右下に現れるメガネ型アイコンを選択すると、PCでは全画面表示に、スマホではVR画面に変わります。 ・VR画面にしてからスマホをVRゴーグルに設置するとVR視聴が可能です。 鹿屋よかとこ探訪『【Part4】残していきたい記憶~鹿屋に唯一残る『川東掩体壕』~』2020年8月13日 ※画像をクリックしてください(Youtubeに飛びます)。 『行きたい♪が見つかる かごぶら!』 「川東掩体壕」 『ニッポン旅マガジン』 「川東掩体壕」 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2022年2月23日 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2016年12月4日 ・『福岡発‼九州観光ガイド』 鹿屋市笠野原周辺の戦争遺跡 2017年6月17日 ・『黒しばわんこの戦跡ガイド』 鹿屋市川東町に残る「川東掩体壕」 2021年2月22日
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大隅野里駅跡
「昭和20年3月19日の空襲により貨物が爆発し、多くの犠牲者が出ました。昭和62年に国鉄大隅線は廃線となり、線路跡は自電車歩行者占用道路(フィットネスパース)として利用されています。」<(鹿屋市観光協会HPより引用) ・アメブロ『海とひこうき雲-日本海軍好きのゆるゆる日記です。』 鹿児島の旅 国鉄大隅線 大隅野里駅跡 2012年8月5日
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田崎掩体壕
「鹿屋基地の南側に、軍事用の資材をいれていたと思われる掩体壕が残っています。」鹿屋観光協会HPより引用 ・所在地:鹿屋市田崎町・駐車場:なし・トイレ:なし ※画像をクリックしてください。 Youtubeに飛びます(360度映像) ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2017年3月4日 以上、2022年7月29日撮影
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鹿屋戦争アーカイブMapについて
アーカイブMapは、地図上に情報をアーカイブし、情報を場所と結びつけることで、情報と場所双方の経験を深めようとする試みです(つまり、情報は場所と結びつくことで、場所は情報と結びつくことで、それぞれより印象深くなるということです)。・このMapでは、鹿屋市一帯のアジア太平洋戦争に関する情報をできるだけ多く集め、場所と結びつけて公開することを目指しています。・広く情報を収集し掲載することにしていますが、違法性がある、あるいは違法な行為につながる恐れのある情報、加えてヘイトスピーチをはじめ不適切な内容を含むと判断した情報については掲載を見合わせることにします。・このMapは、諸事情により予告なく公開を停止することがあります。・地図は全て「地理院地図VECTOR(試験公開版)」で作成しました。国土地理院から承諾を得ています。・このマップの管理者・責任者は、慶應義塾大学文学部 安藤広道です。・このマップは、鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会の皆さんから多くの情報を提供していただきながら作成しています。 アバターはGPSと連動していますので、使用者が地図の範囲に入ると現在位置が分かります。地図の範囲外にいる時にはGPSは連動しません。 ・地図上のアイコンをクリックすると説明ウインドウがポップアップします。説明ウィンドウ内の写真やバナー、リンク表示等をクリックすると、さらに別のウィンドウが開きます。 ・右下の三本線のマークをクリックするとアイコン全体のリストを見ることができます。どれかを選択すると、そのアイコンに飛びます。 ・同じリスト上で、必要なアイコンだけを選んで表示することができます。 ・鹿屋基地、笠ノ原基地、串良基地については、それぞれの拡大地図と大戦中の航空写真上に展開したアーカイブMapを用意しています。各アーカイブMapに飛ぶためのアイコンからお入りください。 ・右下の地図のようなアイコンをクリックすると、背景をオープンストリートマップ、衛星画像に切り替えることができます。 ・資料のPDFや動画、YouTubeなどは、データ量が大きくなっています。Wifi環境での閲覧を推奨します。 ・なお、文章については、基本的に表記や内容の調整・統一等は行っていません。例えば「カサノハラ」については、「笠之原」「笠野原」「笠ノ原」の3つの表記が混在しています。また、執筆者の意見を重視しているため、ひとつの場所であっても異なる説明が載っている場合があります。 ・資料閲覧用のストレージをGoogle Driveに変更しましたので、ほとんどの資料のリンクをそちらに移しました。 ・適宜Boxのリンクも残していますので、そちらもお使いいただけます。 ・Boxのダウンロードはこちら(無料)。ダウンロード後アカウントを作成する必要があります(Box Drive:Mac用・Win64bit用、Box Mobile:iPhoneiPad用・Android用あり)。 ・YouTubeの360度動画の再生には、YouTubeアプリをインストールする必要があるようです。 ここに掲載している文章の著作権については、できるだけそれぞれの文末に記すようにしています。書籍や資料等からの引用についても、可能な限り引用元を明記するよう努めています。また引用元がWeb上で公開されている場合は、引用元のリンクを貼ることにしています。・ここで使用している写真や図の二次利用、あるいは元データの利用を希望する場合は、それぞれに記した機関や個人に問い合わせをお願いします。機関名、個人名の記載のない写真や図については自由にお使いいただいて結構です。 ・2023年3月21日:一部、試作版の情報が残っていましたので削除しました。 ・2023年3月19日:Boxが面倒との意見が複数寄せられましたので、Google Driveをメインストレージとし、必要に応じてBoxを使用することにしました。大半の資料はクリックするだけで閲覧できるようになったと思います。 ・2023年3月19日:南日本新聞さんの紹介文では、「旧日本海軍第5航空艦隊司令部壕など、普段は入ることができない壕内の360度画像」となっていますが、今回のバージョンでは、五航艦壕の360度画像・映像は公開していませんのでご了承ください。 「戦争は、起こすのは簡単だがやめるのは極めて難しい」(『ギリシア・ローマ名言集』岩波文庫) 人類は、残念ながらまだ戦争の終わらせ方を知りません。 というより、永遠に分からないのではないかと私は思っています。 大戦末期、すでに敗戦が必至となるなかでも、大本営は、自らの正義を信じ、一撃講和に希望を託し戦争を継続する道を選びました。 そのため1945年3月末からは沖縄が主戦場となり、僅か3ヶ月で12万人以上の沖縄住民を含む20万人を超える犠牲者を出すことになったのです。 この間に鹿屋を中心に展開された南九州からの特攻作戦は、沖縄に進攻していた米軍に対する攻撃でした。 また1945年3月18日から始まる米軍による南九州への執拗な空襲は、沖縄進攻の邪魔になる航空戦力を削ぐためのものでした。 鹿屋からの特攻作戦に参加し、あるいは鹿屋で空襲に遭って命を落としたり傷ついたりした人々は、「終わらせられなかった戦争」の犠牲者だと言ってもいいでしょう。 さらに戦争の傷は日本のみならず世界中にいまも残り、人々を苦しめ続けていることも忘れてはなりません。そうした人々にとって戦争はまだ終わっていないのです。 鹿屋に残る戦争の痕跡の多くは、こうした「終わらせられなかった戦争」を象徴するものです。 それらに触れ、まだ人類が戦争の終わらせ方を知らないということを、深く胸に刻むことが大切だと思っています。(安藤広道) ・沖縄市 「沖縄戦の実相」 ・内閣府 「沖縄戦の概要」 ・沖縄タイムス 「沖縄戦デジタルアーカイブ 戦世からぬ伝言」 ・琉球新報 「沖縄戦を知っていますか?」 ・NHK戦争証言アーカイブス 「沖縄戦と太平洋戦争」 ※多数の証言動画・音声を視聴することができます。 ・Wikipedia 「沖縄戦」 ・旧海軍司令部壕 「旧海軍司令部壕」 ※地下壕のVRデータも公開されています。 ・内閣府 「沖縄戦証言集」 ・内閣府 「沖縄戦所蔵資料」 ・防衛省防衛研究所 『戦史叢書 沖繩方面陸軍作戦』 ・防衛省防衛研究所 『戦史叢書 沖繩方面海軍作戦』 ・沖縄タイムス 「沖縄戦記事一覧」 沖縄戦における特攻作戦は、海軍(第五航空艦隊)だけでなく陸軍(第六航空軍)の作戦も、神奈川県横浜市の慶應義塾大学日吉キャンパス内に移転していた連合艦隊司令部の指揮下で行われていました。 菊水1号作戦をはじめ重要な作戦の際には、連合艦隊司令長官や参謀たちも鹿屋にやってきて、ここで作戦を練り指揮を執ることもしばしばでした。 日吉にも鹿屋にも、特攻作戦を指揮した大規模な地下壕が残っています。 大日本帝国は、日々膨大な数の犠牲者が出ていることを知りつつ、司令部を地下に移してまで戦争を継続する道を選びました。 二つの地下壕は、この「終わらせられなかった戦争」を象徴する場といっていいでしょう。 地下壕をはじめとする戦争遺跡に触れ、どうして戦争を終わらせることができないのか、あるいは終わらない戦争がどのような悲惨な状況をもたらすのかに思いを巡らすことは、現代を生きる我々にとって、とても大きな意味をもつのではないかと考えています。(安藤広道) ・日吉台地下壕保存の会 「日吉台地下壕保存の会HP」 ・internet museum 「陸にあがった海軍 -連合艦隊司令部日吉地下壕からみた太平洋戦争-」 ・Wikipedia 「日吉台地下壕」 ・慶應義塾大学文学部民族学考古学研究室 「慶應義塾大学日吉キャンパス一帯の戦争遺跡の研究 : 2011~2013年度科学研究費補助金研究成果報告書」 ・慶應義塾大学文学部民族学考古学研究室 「慶應義塾大学日吉キャンパス一帯の戦争遺跡の研究II : 2016~2019年度科学研究費補助金研究成果報告書」 ・防衛省防衛研究所 『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊〈7〉-戦争最終期-』 ・防衛省防衛研究所 『戦史叢書 沖繩方面海軍作戦』 ・時事通信トレンドニュース(YouTube) 「連合艦隊司令部地下壕、公開=旧日本海軍が拠点にした慶応日吉キャンパス」 特攻に対する意見は実に多様です。このこと自体が、この事象の一面的な評価に意味がないことを物語っています。 さまざまな意見のなかで、ここではお二人の文章を紹介しておくことにします。 慶應義塾大学名誉教授 白井厚先生と、南九州新聞創業者 米永代一郎さんのものです。それぞれ古い文章ですし、受け止め方もさまざまだと思いますが、現在にも通じる内容だと思っています。(安藤広道) 「特攻隊に関しては、もちろん靖国神社や特攻隊慰霊顕彰会や特攻観音や記念館など各種の団体や施設がありますが、一般の関心は高かったとはいえません。敗戦後の新憲法が戦争を放棄し、戦力を持たないと決めたことの影響が大きく、人権意識の高まりによって自爆攻撃のような戦法は頭から否定されたことも明らかです。半世紀もたつと旧特攻隊員の数は減り、遺族は高齢化して、身近に考える機会も少なくなりました。 しかし他方において、特攻再評価の動きも出てきました。小林よしのり『戦争論』(幻冬舎、一九九八年)が爆発的に売れその中で「特攻精神」が讃えられているし、話題になった『新しい歴史教科書』(扶桑社、市販本は二〇〇一年)も、特攻隊の遺言と遺詠を紹介しています。 また小泉首相は、かつて陸軍の特攻基地があった鹿児島県知覧町の知覧特攻平和会館を訪れ、亡き隊員たちの写真を見て涙し、「いやなことがあると特攻隊の気持ちになれと自分に言い聞かせる」と公言して、そのあと靖国神社の参拝に行ったと報道されています。他方で暴走族の若者たちは、「特攻服」を着て道路を我がもの顔に占領して暴れ廻る。白い絹のマフラーを首に巻き飛行服に身を固めて飛行機に乗り込む隊員の写真を見て「カッコイイ!」と憧れる子どももいるそうです。特攻隊を賛美する本も書店に並んでいます。 昨年九月一一日の同時多発テロ以来、アフガニスタンに対する大規模な戦争が続き、パレスチナ自治区へのイスラエルの攻撃に対抗する自爆テロも、かつての特攻死を連想させる場合があります。日本国内における自衛隊の海外派兵、戦時立法やメディア規制法制定の動きは、戦前の状況に近づくのではという危惧を抱かせます。 広がる戦争の危機と、かつての戦争の花形に憧れる人たちー何とも危険な状況ですね。では特攻隊とは何だったのか、何のためにこの隊が生まれ、その死にはどんな意味があるのか、日本に特有なのか等について皆で考えましょう。」(『いま特攻隊の死を考える』白井厚編 岩波ブックレットNO.572 2002年 4・5頁より)。 「避けて通ることのできない、航空隊と鹿屋市民との内裡に、筆者はインタビューをはじめ多くの市民の方々からのご教示で「鹿屋の心」として「からいも軍国主義」や「落花生兵隊礼賛」ではなく、鹿屋市民が固有にもっている「からいも市民主義」「落花生の風土とその精神」が、こんこんと湧き出る地下水のように沈潜している様を死と生のはざまでみた思いです。特攻とともに、よごれのない純粋な連隊が、鹿屋の風土と鹿屋人に、音もなく、声もなく粛然としてあり続けるということが、私たちの求めている「生」と「死」につながる平和の心ではないのか、と思えてなりません。 潔く飛び立って征った特攻機。特攻だけではない、名も無く散っていった多くの兵士たちの「生と死」を、鹿屋人は決して見捨ててはなるまい。現代人は、余りにもこのことに短絡すぎるのではないでしょうか。 支那事変から、いな満州事変にさまのぼり、大東亜戦争までを「十五年戦争」とし、この「十五年戦争」を侵略戦争だったといって戦争で死んだ人たちの死を、なべて無駄な死だったという考えには、どうしてもうなずけないものがあります。 軍事主義だ、侵略戦争だという見方からは、人間の死と生がみえないのではあるまいか。」(『半世紀の鹿屋航空隊 戦前編』南九州新聞 1989年 304・305頁より) ・公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会 「特攻隊について」(『特別攻撃隊全史』抜粋) ・NHK戦争証言アーカイブス 「特集 特攻」 ※多数の証言動画・音声を視聴することができます。 ・Yahooニュース「未来に残す 戦争の記憶」 「特攻とは何だったのか 若者を死に向かわせた作戦」 ・西日本新聞 「特攻6400人の悲劇 「戦争の不条理」伝え」 2014年7月29日 ・知覧特攻平和会館 「「特攻」を知る」 ・Wikipedia 「特別攻撃隊」 「米軍の資料などによると、オリンピック作戦は四五年六月二十九日に米大統領が承認した。マッカーサー元帥を最高責任者として川内と宮崎・都農を結ぶ線より南を占領して、首都圏攻撃のための航空基地を確保するのが目的だった。南九州進攻に続いて関東進攻(「コロネット作戦」=四六年三月一日決行)が予定されており、二つ合わせてダウンフォール作戦と呼ばれた。」 「オリンピック作戦はルソン島上陸作戦を担った米第六軍(クルーガー中将)が担当。①事前の空爆・艦砲射撃②付近の島嶼占領③三面同時上陸④予備戦として開聞岳付近の上陸―が柱だった。」 「作戦に動員されるのは上陸作戦で四つの軍団(一つは予備)、二つの師団・戦闘団、英国空母部隊を含めた三千隻の艦船、六千―七千機の航空機、車両十四万台で、総人員は八十二万人。沖縄作戦の五十四万八千人をはるかに上回る計画だった。」(南日本新聞社編『戦後60年 かごしま戦争遺跡 記憶の証人』2006年:11・12頁より引用) ・Wikipedia 「ダウンフォール作戦」 「漫画で伝える特攻の歴史」(南日本新聞) ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2022年5月13日 「VRで戦争追体験」(南日本新聞) ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2022年4月9日 「戦争全体を学べる鹿屋」(南日本新聞) ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2021年1月6日 「昭和20年9月4日 進駐軍 高須金浜上陸を語り継ぐ会」〈高須遺産発掘・うんだもしタウン講演会〉 ・2022年9月4日(日)10時~ ・高須町民会館(高須駅跡) ・主催:高須町内会 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2022年8月29日 「鹿屋の記憶 75年前の真実を未来につなぐ」〈戦後75年平和企画展〉 ・2020年11月20日(金)~12月6日(日) ・リナシティかのや 2階ギャラリー ・主催:鹿屋市役所ふるさとPR課 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2020年11月4日 「昭和20年9月4日 進駐軍 高須金浜上陸を語り継ぐ会」〈高須遺産発掘・うんだもしタウン講演会〉 ・2019年9月4日(水)10時半~ ・高須町民会館(高須駅跡) ・主催:高須町内会 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2019年9月6日 「あの日を忘れない… 3・18鹿屋初空襲によせて」〈講演会〉 ・2019年3月16日(土)13時30分~16時30分 ・鹿屋市中央公民館 ・鹿屋市役所ふるさとPR課 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2019年2月27日 「第1回 田崎小学校の空襲を聞く会」 ・2018年4月8日(日)9時~10時半 ・田崎小学校 頌徳碑前 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2018年4月2日 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2018年4月8日 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2018年4月14日 「あの日を忘れない… 3・18鹿屋初空襲によせて」〈講演会〉 ・2018年3月18日(日)14時~16時30分 ・鹿屋市中央公民館 ・鹿屋市役所ふるさとPR課 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2018年3月14日 「昭和20年9月4日 進駐軍 高須金浜上陸を語り継ぐ会」〈高須遺産発掘・うんだもしタウン講演会〉 ・2017年9月3日(日)10時半~ ・高須町民会館(高須駅跡) ・主催:高須町内会 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2017年8月24日 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2017年9月5日 「あの戦争を忘れない 1945年・鹿屋パネル展」 ・2017年8月12日(土)~8月16日(水) ・サルッガ店内(鹿屋市北田町) ・主催:鹿屋市平和学習ガイド・調査員 ・鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会Facebook:2017年8月13日 ・鹿屋市「鹿屋に残る戦跡」 ・一般社団法人 鹿屋市観光協会「鹿屋の戦争遺跡紹介」 ・空がつなぐまち・ひとづくり推進協議会 ・くにの松原キャンプ場「大隅半島の戦跡」 くにの松原キャンプ場HP「ダウンロードページ」 ・『大隅半島戦跡コンプリートガイド』 ・『大隅戦跡マップ(決6号作戦)』 ・『湾岸タイムズ Vol.3』 「大隅の廃線跡をたどる旅」 ・『湾岸タイムズ Vol.5』 「祖父が遺した約束の地」 ・KTS制作 鹿児島県内のVR ・Harada Office Weblog 地域ブログ 大隅半島の戦争遺構 本土決戦に向けて築かれた軍事施設群 ・新型グロムで行く鹿児島戦争遺構巡りの旅 鹿屋市の戦争遺構編①2018年3月17日 ・新型グロムで行く鹿児島戦争遺構巡りの旅 鹿屋市の戦争遺構編②2018年3月17日 ・第二章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~鹿児島海軍特攻戦跡:笠之原・串良・鹿屋編~2014年9月15日~18日 ・修学旅行隊 平和への思い新たに(鹿屋戦跡フィールドワーク)2022年5月18日 鹿屋市広報担当『鹿屋の記憶~鹿屋市に残る戦争遺跡が伝える歴史~』2022年6月8日 KTS鹿児島テレビ『鹿屋市戦跡VR紹介』2022年4月15日 ※画像をクリックしてください(Youtubeに飛びます)。 ・国立国会図書館デジタルコレクション 『米国戦略爆撃調査団文書:空襲損害評価報告書』「鹿屋、国分、串良、宮崎、都城」 ※各地の空襲の概要を閲覧することができます。 ・国立国会図書館デジタルコレクション 「米国戦略爆撃調査団文書」 ※絞込検索で「kanoya」「kanoya east」「kushira」などを再検索すると、鹿屋基地、笠ノ原基地、串良基地の空襲の詳細な記録を閲覧することができます。 ・Japan Air Raids.org 「小中都市 – Other Cities」 ※鹿屋基地の写真3枚(「konoya」となっています)、串良基地の写真1枚を閲覧できます。 ・MONASH COLLECTIONS ONLINE 「kanoya」 ※鹿屋関係の4点の資料を閲覧できます。 ・南九州新聞社から、以下の資料について公開のご許可をいただきました(ダウンロードはできません)。 『鹿屋市の年輪 第一分冊 鹿屋市の誕生から太平洋戦争敗北まで』米永代一郎(南九州新聞社 1961年 『半世紀の鹿屋航空隊 戦前編』米永代一郎(南九州新聞社 1989年) ともに鹿屋市の戦前・戦中、鹿屋航空隊に関する基本文献です。ただ、鹿屋市立図書館など僅かな図書館でしか閲覧できません(国会図書館にもありません)。。 ・八巻聡さんから、以下の資料について公開のご許可をいただきました(ダウンロードはできません)。 ・『鹿児島県の戦争遺跡 本土決戦編① 部隊名:独立混成第98旅団 地区:大隅半島南部』八巻 聡(2005年)カラー原稿 ・「南九州の防空体制」八巻 聡(『第2回 空襲・戦災・戦争遺跡を考える九州・山口地区交流会報告集』 2015年)カラー原稿 ・「鹿児島の本土決戦準備」八巻 聡(『鹿児島考古』第46号 鹿児島県考古学会 2016年)カラー原稿 ・「内之浦臨時要塞について」八巻 聡(『第4回 空襲・戦災・戦争遺跡を考える九州・山口地区交流会報告集』 2017年)カラー原稿 ・「第112震洋隊 間泊基地の調査」八巻 聡(『第7回 空襲・戦災・戦争遺跡を考える九州・山口地区交流会報告集』 2020年)カラー原稿 このMapに関するお問い合わせ・ご意見、またMapで紹介できそうな情報のご提供は、こちらからお願いします。 【謝辞】 ・このマップの作成にあたり、以下の皆さまより多大なるご協力を賜っております。 記して心より感謝申し上げます(個人・機関:五十音順)。 鹿屋市平和学習ガイド・調査員連絡会の皆さん 瀬角龍平さん 八巻 聡さん 鹿屋市観光協会 鹿屋市ふるさとPR課 鹿屋市立図書館 (株)松設計 南九州新聞社 南日本新聞社
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鹿屋航空基地19450318
National Archives and Records Administration:243-I-10-55-018-02(鹿屋市所蔵)を一部改変。 ※「海軍鹿屋航空基地1945年3月18日撮影」アーカイブマップへ
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田崎国民学校の空襲
鹿屋市 2018『広報かのや』No.302号(2018年8月)
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爆弾集積所の爆発事故
「進駐軍管理下の日本軍爆弾集積所の爆発」小手川清隆(『大隅』第64号 大隅史談会 2021年 205‐212頁)(Box) 小手川清隆さんのご好意により、全文をお読みいただけるようになりました(要Box、ダウンロードはできません)。
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マメガヅカ
「「ゼロ戦」と「マメガヅカ」」小手川清隆(『大隅』第63号 大隅史談会 2020年 103‐111頁)(Box) 小手川清隆さんのご好意により、全文をお読みいただけるようになりました(要Box、ダウンロードはできません)。
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小原地区分散所
「第22海軍航空廠 引渡目録 分散地区地図」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08011029100(原資料:防衛省防衛研究所)14頁より ※左の「青年学校」は現在の鹿屋中学校です。中央の酸素工場は現在のかのや養蜂園付近、小原隧道格納所とある地下施設は現在の下祓川団地の東の谷です。(安藤広道)
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論地村の分散所
「第22海軍航空廠 引渡目録 分散地区地図」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08011029100(原資料:防衛省防衛研究所)8頁より ※論地の分散所の略図です。(安藤広道)
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中山地区の地下壕ほか
「引渡目録(笠原、川西、中山地区) 佐世保海軍施設部鹿屋支部 鹿屋地方施設事務所」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08011435300(原資料:防衛省防衛研究所)8頁より ※中山地区にも大規模な地下施設が作られていました。(安藤広道)
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松林分散所位置図
「第22海軍航空廠 引渡目録 分散地区地図」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08011029100(原資料:防衛省防衛研究所)7頁より ※この図が、証言にある「笠之原の神社の前の杉山の中の」「燃料の保管場所」である可能性があります。(安藤広道)
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司令部壕関係資料
鹿屋市 2017『広報かのや』No.279(2017年8月号)安藤広道 2020『慶應義塾大学日吉キャンパス一帯の戦争遺跡の研究II』慶應義塾大学文学部民族学考古学研究室
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海軍志布志航空基地
【志布志海軍航空基地の概要】 以下、八巻聡さんの『鹿児島県の戦争遺跡 航空基地編』(八巻聡2000)より、概要を引用します。 ・建設年:1945年 ・主任務:作戦 ・滑走路: 1200×50m(コンクリート)、 1200×50m(芝張り) ・格納庫:有り ・掩体壕: 小型無蓋 18基 ・収容施設: 士官90名 兵員1400名 ・工場施設:有り ・教育施設:無し ・送信所・方位測定所:無し ・基地施設: 指揮所・通信所・弾薬庫・ 燃料庫・倉庫 航空基地概要 航空機による物資運搬の中継基地として急造建設されていた飛行場であるが、完成を間近に控えた昭和20年3月26日に大規模な空襲を受け、飛行場の機能を喪失してしまい、そのまま再建されることはなかった。 ・桜と錨『海軍砲術学校』「志布志航空基地」2019年3月25日 ・とりさん『空港探索・3』「志布志航空基地(有明、野井倉飛行場)跡地」
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第五航空艦隊司令部壕(見学はできません)
第五航空艦隊は、沖縄方面からの米軍の進攻に対する特攻作戦を展開するために、1945年2月10日に編成された部隊です。艦隊という名称がついていますが、艦船をもたない基地航空部隊です。司令長官に補職されたのは宇垣纒中将でした。 1945年4月からの沖縄戦では、神奈川県横浜市の慶應義塾大学日吉キャンパス内に置かれた連合艦隊司令部の下、海軍の大規模航空特攻作戦を指揮していました。(安藤広道) 米軍撮影写真に写った司令部 (National Archives and Records Administration:341-NM15-217-669-59181(鹿屋市所蔵)より) 当時の電信室の様子 (情報局『写真週報』第371号 1945年6月1日 6頁より) 作戦電話室 暗号室 電信室(『写真週報』の写真の坑道) 作戦参謀室(作戦室:宇垣纒司令長官や参謀たちがいたところ) ・アメブロ『海とひこうき雲-日本海軍好きのゆるゆる日記です。』 第五航空艦隊司令部壕 2013年5月10日 鹿屋市 2017『広報かのや』No.279(2017年8月号) ・安藤広道 2020『慶應義塾大学日吉キャンパス一帯の戦争遺跡の研究II』慶應義塾大学文学部民族学考古学研究室(Box) ※この報告書内に第五航空艦隊司令部壕の調査報告を掲載しています。 報告書はこちらからもダウンロードできます。