古地図で巡る駿州の旅【府中宿編】
江戸時代に描かれた詳細な絵地図「東海道分間延絵図」を用いた、日本遺産「駿州の旅」(静岡市・藤枝市)を楽しむことができるマップです。古地図を見ながら歩くと、現代の景色の中にもたくさんの江戸時代の名残があることがわかります。古地図は全8エリアに分かれており、どの宿場町も見どころ満載です。江戸時代の宿場町を想像しながら、まちあるきにでかけてみませんか?
update date: 2022.04.15
このマップ(地図)を見るNumber of spots : 29spots
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安倍川餅
府中宿に古くから伝わる名物。つきたての餅にきな粉をまぶし、白砂糖をかけたお菓子です。江戸初期に徳川家康公が茶店に立ち寄った際に店主がきな粉を砂金に見立て、安倍川の金な粉餅として献上したといわれています。 名物 日本遺産構成文化財 住所〒420-0053静岡県静岡市葵区弥勒二丁目5
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坤櫓
坤櫓は、駿府城の二ノ丸南西に位置する櫓で、建物の骨組みに釘などを使わない伝統的な木造工法により、2014年(平成26年)に復元されました。内部は3階建てとなっていますが、1階から3階までの天井版・床版がすべて取り外しており、梁を見通すことができます。 観光名所 住所〒420-0855静岡県静岡市葵区駿府城公園1-1 URLhttps://sumpu-castlepark.com/hitsujisaru/
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東御門・巽櫓
駿府城公園の東御門は1996年(平成8年)に日本古来の伝統工法により復元されました。巽櫓は、1989年(平成元年)に復元され、櫓建築でも例が少ないL字型の平面を持ち、防御に優れた櫓でした。この両施設では、駿府城公園内で発掘された資料の展示や徳川家康が幼少期の人質時代に太原雪斎から教えを受けたとされる臨済寺の部屋を復元した「竹千代手習いの間」を見ることができます。 観光名所 住所〒420-0856静岡県静岡市葵区駿府町1-94 URLhttps://sumpu-castlepark.com/gomon/
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府中宿(九十六ヶ町)
駿府城の城下町として栄えた東海道最大規模の宿場。本陣は上伝馬、下伝馬にそれぞれ1軒、旅籠が43軒ありました。家康公大御所時代の慶長14年(1609年)に駿府の町割りと呼ばれる城下町整備が行われました。碁盤目状に整備された町割りごとに同じ機能、職種が集められ、それぞれの役割を果たしていました。九十六は町の数でこの家康公による整備が「九十六ヶ町」の始まりといわれています。今も三十町の町名がそのまま使われているとともに、美しく碁盤目状に整備された街並みは、現代の市街地整備の土台となっています。 【東海道中膝栗毛(府中編)】 府中宿にたどり着いた弥次さんと喜多さん。宿場のはずれにある遊郭で一夜を明かし、翌朝、府中宿を出て安倍川越えの準備をしていると川越しが出迎えた。昨日の雨で水かさが増しているとのことで、高い料金を支払った2人であったが、川の浅瀬をスタスタと帰っていく川越しを見て「わざと深いところを通っていたのか!」とだまされたことに気付き、がっくりと肩を落とすのであった。 日本遺産構成文化財 住所〒420-0855静岡県静岡市葵区駿府城公園1-1 URLhttp://www.shizuoka-bunkazai.jp/
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静岡浅間神社
神部神社・浅間神社・大歳御祖神社の三社を総称して静岡浅間神社といいます。駿河国の総社で、古くから信仰を集め「おせんげんさん」という名で親しまれています。今川家歴代当主から厚い庇護を受け、家康公が元服した神社です。社殿は総漆塗り極彩色の建築群です。社殿26棟すべてが国の重要文化財に指定されています。例年4月には450年以上の歴史と伝統がある「廿日会祭」が行われます。東海道中膝栗毛では「浅間様の天の面」としてその名称が登場します。 神社・仏閣 住所〒420-0868静岡市葵区宮ヶ崎町102-1 URLhttp://www.shizuokasengen.net/
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上伝馬町本陣脇本陣跡 貫目改所跡、問屋場跡
府中宿の上伝馬にあった本陣脇本陣はこの辺りにあったとされています。貫目改所は街道を往来する荷物の重量(貫目)を検査するために置いた機関で東海道では、品川、府中、草津にのみ設置されていました。府中宿では上伝馬町脇本陣の東隣の問屋場に併設されていました。現在はその跡地に石柱が建てられています。 史跡 住所〒420-0858静岡県静岡市葵区伝馬町
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下伝馬町本陣脇本陣跡
府中宿の下伝馬の本陣・脇本陣があったとされる場所です。府中宿には上伝馬町、下伝馬町にそれぞれ1軒ずつ本陣・脇本陣が設けられていました。下伝馬町の本陣は小倉家が務めていました。現在はその跡地に石柱が建てられています。 史跡 住所〒420-0858静岡県静岡市葵区伝馬町
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十返舎一九生家伝承地
日本初旅ブームを起こした滑稽本「東海道中膝栗毛」の作者、十返舎一九の生家があったとされる地です。現在は生家伝承の看板が建てられています。 史跡 住所〒420-0852静岡県静岡市葵区両替町一丁目
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人宿町
江戸時代、東海道における駿府城下町の玄関口でした。旅籠が多くあったことからかつては旅籠町として賑わっていました。現在は新しいお店が立ち並び賑わいを見せています。 史跡
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弥勒
東海道沿いの安倍川のほとりの地名。江戸時代から安倍川餅が名物として知られ茶屋が並んでいた。東海道中膝栗毛の物語では弥次さん喜多さんは前日に遊郭にてもらった安倍川餅を食べていたことから旅路を急いだ。 史跡 住所〒420-0053静岡県静岡市葵区弥勒二丁目5
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安倍川町(二丁町)
家康公により駿府城下に造られた幕府公認の「二丁町遊郭」があった場所です。遊郭としては江戸の吉原より歴史は古く、駿府九十六ヶ町には7ヶ町の遊郭がありましたが、一部が江戸の吉原へ移り2ヶ町が残ったため二丁町と呼ばれました。東海道中膝栗毛にて弥次さん喜多さんは三嶋宿で金をとられて意気消沈していましたが、府中宿で知人から金を借りることができ、伝馬町から早速二丁町へ出かけていきました。 史跡 住所〒420-0042静岡県静岡市葵区駒形通五丁目9付近
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新通り
家康公が本通に代わる新しい東海道として整備した新通り。新通りには、旅篭があった新通旅篭町や大工が住んでいた新通大工町、安倍川を渡す川越人足が住んでいた新通川越町(現在は川越町)などがありました。 史跡
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梅屋町
梅屋勘兵衛という人物が居住していた町です。旅館「梅屋」を経営していましたが、この旅館は由比正雪が江戸幕府の転覆を企てた「慶安の変」の現場として知られています。この事件後、梅屋は追放され江尻宿へ移ったとされていますが梅屋町の町名として現在も残っています。 史跡 住所〒420-0038静岡県静岡市葵区梅屋町4-1
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札之辻町(府中宿高札場)
幕府の法令や犯罪者の罪状などを記した掲示板「高札場」があったことから札ノ辻町と呼ばれました。七間町通りと呉服町通りが交差するこの場所は多くの人が行き交います。 史跡 住所〒420-0031静岡県静岡市葵区呉服町一丁目
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七間町
名前の由来は、通りの幅が七間(約13m)であったこと、米、油、魚などの専売品七品の同業組合があったことなど複数の説があります。駿府城下町の目抜き通りとして多くの旅人で賑わった町です。東海道中膝栗毛では「七間町の硯蓋」とその地名が登場します。これは駿河名産の豪華な漆器のことで七間町に漆器の店が並んでいたといわれています。 史跡 住所〒420-0035静岡県静岡市葵区七間町17-1付近
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宮ヶ崎町・馬場町
宮ヶ崎町及び馬場町は静岡浅間神社の門前町として発展してきた町です。馬場町は家康公在城時に馬場があったことに由来します。この馬場で静岡浅間神社の廿日会祭の流鏑馬が行われていたとされています。現在は静岡浅間通り商店街となり古くからの老舗や新しいお店が並びます。 史跡 URLhttp://www.sengendori.com/
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呉服町
家康公御用の呉服商人が住んでいたことから呉服町といわれました。現在もその地名は残り、呉服町通りと呼ばれる目抜き通りは市内随一の繁華街として賑わっています。この呉服町通りには江戸時代から続く老舗も多くあります。 史跡 住所〒420-0031静岡県静岡市葵区呉服町一丁目付近
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両替町(駿府銀座発祥の地)
銀貨を鋳造する銀座が設けられ、両替・金融を主な業務とする商人が集まっていたことが両替町の由来になりました。慶長17年(1612年)に駿府の銀座は江戸に移され、東京・銀座の地名のルーツとなりました。現在、両替町通りは、市内の最大の歓楽街となり、多くの人で賑わっています。 史跡 住所〒420-0852静岡県静岡市葵区両替町一丁目
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紺屋町 徳川慶喜公屋敷跡浮月楼
紺屋町は、染物師が多く住んだことに由来します。染物屋のことを紺屋といい、現在もその地名が残っています。紺屋町の一角には代官屋敷があり、大政奉還後、渋沢栄一が商法会所を設置し、その後は謹慎後の徳川慶喜公が二十一年間住んでいました。現在、その屋敷跡地は日本庭園とともに料亭や催事場「浮月楼」となっています。 史跡 住所〒420-0852静岡県静岡市葵区紺屋町11-1 URLhttps://fugetsuro.co.jp
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新谷町
新谷町は、小梳神社の神職である新谷氏が居住していたことに由来します。小梳神社はもともと駿府城内に祀られていましたが、庶民もお参りができるようにと新谷町に移されました。その後、4代将軍家綱公の時に現在の場所に移転しました。天下泰平後、代々徳川家の守り神であるオオナムチミコトとアマテラスオオミカミの二柱を合祀し、駿府城の守り神としました。 史跡 住所〒420-0857静岡県静岡市葵区御幸町
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下伝馬町・上伝馬町
江戸時代の駿府の繁華街として旅人でにぎわった町です。本陣や問屋場などの宿場の中枢機能がすべてここに集まっていました。上下二つの町からなり、駿府城に近い方を上伝馬といいました。町名は公用の荷物を運ぶための交代の人馬を常備した施設である伝馬の機能が設けられていたことに由来します。現在も伝馬町として町名が残り、駿府九十六ヶ町の町名碑が建てられています。 史跡 住所〒420-0858静岡県静岡市葵区伝馬町
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華陽院門前町
華陽院は家康公の祖母・源応尼の菩提寺で、源応尼の法名に由来します。華陽院の境内には、源応尼のほか、家康公の五女市姫と側室のお久の方のお墓があります。華陽院の門前町があったとされる場所に駿府九十六ヶ町の町名碑が建てられています。 史跡 住所〒420-0858静岡県静岡市葵区伝馬町
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鋳物師町
鍋・釜・鉄砲などを作る職人が住んでいた町です。家康公御用の鋳物師として作業場を持っていました。火を使うことから火災が多く、そのため江尻宿に移転したといわれています。現在はこの場所は伝馬町となっており、町名は残っていませんが、町名碑が建てられています。移転したとされる清水区江尻東には鋳物師町という自治会名として残っています。 史跡 住所〒420-0858静岡県静岡市葵区伝馬町22-8
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院内町
陰陽師が住んでいた町です。陰陽師のことを院内といったことから町名の由来となっています。現在はその地名は残っていませんが、商売繁盛を願う「おいべっさん」で知られる西宮神社の入口に院内町の名が刻まれています。 史跡 住所〒420-0835静岡県静岡市葵区横田町5-24
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猿屋町
猿引きの住む町として九十六ヶ町に加えられた町です。猿引きとは、正月などに武家・町家を回り、猿に舞わせて一年の安泰を祈る芸能で猿回しとも言います。現在はその町があったとされる場所に駿府九十六ヶ町の町名碑が建てられています。 史跡 住所〒420-0835静岡県静岡市葵区横田町8-16付近
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下横田町(府中宿東見付)
府中宿の東の入口にあたり、現在の横田町にあったとされる東見付です。宿場の入口で見張り番がいたところを見附、門があったところを木戸と言いました。この府中宿の東見付はコの字型の石垣が東海道を挟むように配置されていました。 史跡 住所〒420-0835静岡県静岡市葵区横田町12-13付近
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駿府城(駿府城公園)
徳川家康公により天正17年(1589年)に築城された駿府城。家康公が将軍職を2代秀忠に譲った翌年1606年から大御所政治の拠点の地として居城しました。1635年に火災により天守等のほとんどの建物が消失しました。現在は天守台の発掘調査現場や東御門・巽櫓、坤櫓が復元されその面影を残すとともに、公園として整備され、市民の憩いの場となっています。 史跡 住所〒420-0855静岡県静岡市葵区駿府城公園1-1 URLhttps://sumpu-castlepark.com/
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駿府町奉行所
町奉行とは、領内の行政・司法を担当する老中直属の役職です。現在その跡地は静岡市役所となっており駿府町町奉行址の石碑が建てられています。 史跡
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安倍川
旧東海道の府中宿と丸子宿をへだてる河川。江戸時代は大きな川に橋を架けることが禁じられており、人を肩または蓮台に乗せて川を渡す川越人足という職業があった。弥次さん喜多さんは川越人足にあえて水位が高い所を渡らされ、お金をぼったくられた。 河川