戦時中の広島の暮らし:崇徳高校 #あちこちのすずさん

戦時中の広島の暮らし:崇徳高校 #あちこちのすずさん thumbnail

この地図は、崇徳高校新聞部が戦争を伝承するプロジェクト「#あちこちのすずさん」のワークショップに参加して作成した地図です。

update date: 2021.08.11

このマップ(地図)を見る

Number of spots : 28spots

  • 数少ない子どもの頃の思い出 数少ない子どもの頃の思い出

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    子どもの頃よくした遊びといえば、石蹴りです。石蹴りといってもおはじきのような、5センチくらいのものがあってそれをいろいろ集めていました。それを陣地を作って、けんけんで蹴って入れるのです。だから、体育をわざわざしなくても体を鍛えることができたのだと思います。それからゴム跳び。ゴム跳びというのは輪ゴムをいくらにもつないで家と家との端に一人ずつ持たせて、順番に跳びます。だんだん高さをあげていって跳んで遊びました。ゴム跳びは女の子に人気でした。それからおはじきとか、おじゃみ(お手玉)とかをしたりしました。夏休みになると、宿題を済ましたら朝から晩まで川で泳ぎました。川に行くから危ないとか、そういった気持ちは親にはなかったのかなと思います。お友達はもう家を出る時から海水着を着て、タオル一つを持って家から出ていました。一夏の間に女の子も皮が何回か向けました。 ⚪︎出典 証言 記憶の中に生きる町 中島本町・材木町・天神町・猿楽町「中村恭子さんの証言」

  • 夏休みを満喫した運動会 夏休みを満喫した運動会

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    昭和十一年から十三年、和久井和子さんが外で自由に存分に遊べた小学校の三年間の出来事です。通っていた小学校の夏休みの毎朝は、早起き会から始まりました。西棟兵馬の記念碑の前に集合し、年齢ごとに十四、五班ほどに分かれ、一番乗りの子供が旗を持って先頭になりました。山田八百屋のおじさんなど、退役軍人の方々、各町内会からのおじさんたちが世話役となり、それぞれに合った運動や遊びを指導してくれていたそうです。一班に必ず二人ほどの大人がつき、相当な人数でした。みんなが揃うとラジオ体操を始め、その後にかけっこ、椅子とり、ハンカチ落とし、ドッジボール、野球、徒競走、ボール送り(両手を上にあげ、ボールを後ろに送るゲーム)、リレーなど、一ヶ月以上の夏休みをたくさんの遊びで満喫し、町ごとに勝敗の結果で大はしゃぎだったそうです。夏休みの一ヶ月、毎朝が運動会でした。 ⚪︎出典:『証言 そこに子どもたちの遊んだ町があった 中島本町・材木町・中島新町・大手町』

  • 数少ない子どもの頃の思い出 数少ない子どもの頃の思い出

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    子どもの頃よくした遊びといえば、石蹴りです。石蹴りといってもおはじきのような、5センチくらいのものがあってそれをいろいろ集めていました。それを陣地を作って、けんけんで蹴って入れるのです。だから、体育をわざわざしなくても体を鍛えることができたのだと思います。それからゴム跳び。ゴム跳びというのは輪ゴムをいくらにもつないで家と家との端に一人ずつ持たせて、順番に跳びます。だんだん高さをあげていって跳んで遊びました。ゴム跳びは女の子に人気でした。それからおはじきとか、おじゃみ(お手玉)とかをしたりしました。夏休みになると、宿題を済ましたら朝から晩まで川で泳ぎました。川に行くから危ないとか、そういった気持ちは親にはなかったのかなと思います。お友達はもう家を出る時から海水着を着て、タオル一つを持って家から出ていました。一夏の間に女の子も川が何回か向けました。 ⚪︎出典 証言 記憶の中に生きる町 中島本町・材木町・天神町・猿楽町「中村恭子さんの証言」

  • 餅つき 餅つき

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    江波では12月頃になると、若い人が町内の餅つきをしていました。若い人の中にお年寄りが混じって、その人が差配します。各家の都合の良い日と時間を聞いてまわって、杵や臼を持っている家が全部町内の餅つきをしていました。餅つきの日にちが決まると、2日くらい前からみな段取りをして、餅米を水につけたりして、ころ餅(あんこが入ってない餅)や餡ころ餅、栗餅などを作っていました。「ああ、うちはあと何日だな」と、楽しみに待っていたそうです。出来上がったお餅は、子どもたちが近所に持って行きました。そうすると、代わりに一銭から三銭のお駄賃がもらえました。子どもたちはそのお金で大きな飴玉を買うのを楽しみにしていました。出典:証言「江波に生きる」大岡喜美枝さんの語る暮らし・戦争・原爆

  • 射撃場はどのような場所だった? 射撃場はどのような場所だった?

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    江波には射撃場があり、もともとは大岡さんの家の畑でした。実弾演習で弾楽が下に落ちるとき、それをおじさんが拾っていたそうです。弾丸は真鍮製でとてもお金になったっそうです。そしてこのおじさんは弾丸を売ってお金持ちとなったそうなのですがこのおじさんは子どもが拾いに行くと、「お前らが拾うんじゃない」と怒っていたそうです。 出典:証言「江波に生きる」大岡喜美枝さんの語る暮らし・戦争・原爆<br>

  • 江波巻きの始まり 江波巻きの始まり

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    今は江波では海苔が取れなくなりましたが、昔は盛んに海苔が取れていた場所でした。そのため牡蠣の仕事と海苔の仕事もあるので家でゆっくり座ってご飯を食べて仕事に行く暇がなかったそうです。そのため、海苔の上にご飯を乗せて家にある残り物や漬物とか何でも、とにかく残り物を乗せてちょっと醤油をかけて花鰹や胡麻を振ってそれを巻いて海苔巻きにするのです。その海苔巻きをタオルで巻いて懐に入れて船に乗って出たのです。海上で潮待ちをしているときに食べていたのです。これが食事で江波巻きの始まりとなっています。 出典:証言「江波に生きる」大岡喜美枝さんの語る暮らし・戦争・原爆

  • 近藤アサエさんと広島陸軍被服支廠 近藤アサエさんと広島陸軍被服支廠

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    近藤アサエさんは、被服支廠で補給部にひっせい見習いとして3〜4年働いていました。補給部は全体で40〜50人くらいおり,職員の給料を封筒に入れるなどの仕事をしていました。毎朝、朝礼前にみんなが集まり、戦争に絶対勝つぞという思いで、被服支廠の歌を歌っていたそうです。お昼ご飯は被服支廠の中にある食堂でじゃがいもと梅の種のうどんなどを食べていました。上司などの偉い人とは食べるものが違っており近藤さんはうどんなどを食べていましたが、上司の人たちは羊羹など特別なものを食べることができていたそうです。戦時中は恋人ができても、すぐに相手に赤紙で召集がかかってしまい、近藤さんは新聞で恋人の生死を確認していました。給料を一銭〜二銭誤魔化し、そのお金で友達と一緒にチェックのスカートを買ったこともあるそうです。近藤さんは、被服支廠の取り壊しについて、被服支廠は良い思い出があるから残して欲しいと願っています。

  • 中川ツネ子さんの休日 中川ツネ子さんの休日

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    当時,広島陸軍被服支廠に勤めていた中川ツネ子さん。戦時中は娯楽なんてないというイメージが強いがそうでもなかったそうです。原子爆弾が投下された日の前日、8月5日は日曜日で仕事がなかったため、中川さんは友達と橋に描かれたルーズベルトの踏み絵を踏んで映画を見にいくなど、当時にも娯楽の一つとして映画があったそうです

  • 中川ツネ子さん広島陸軍被服支廠での日々 中川ツネ子さん広島陸軍被服支廠での日々

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    大正10年に生まれた中川ツネ子さんは、昭和17年、11月1日から広島陸軍被服支廠で、庶務部の労務係の試工員として勤め始めました。当時広島は軍都と呼ばれ広島陸軍被服支廠は施設が揃っており、そこで働くのは誇らしかったそうです。昭和18年の6月16日に、正式に筆生(正規雇用)として雇われ始めました。被服支廠では正規労働者と非正規労働者の差は強く、正規労働者に対しての福利厚生はとても厚かったといいます。被服支廠は、軍工場のためなんでもあったといいます。被服支廠の中には労働者のための保育所までもあったそうです。お昼ご飯にお弁当を持っていくと、当時貴重だった乾麺などがもらえたそうで、中川さんはそれをコツコツ貯めて持ち帰って親戚の家などに配ってまわったそうです。他にも当時なかなか手に入らないとされていたようかんなどの甘味ももらえたそうで、あまり食事に困らなかったといいます。他にも宝塚の演劇の人がやってきて、一緒にトラックに乗せてもらって街中を回って楽しんだこともあったそうです。

  • 『思い出の川遊び』 『思い出の川遊び』

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    諏訪さんは子供の時、夏になると朝から夕方まで本川橋のところの川で泳いでいて家でふんどし一丁になって、裸のまま川まで行っておられたらしいです。主に泳ぐ地域は元安橋側と本川橋側に分かれていて諏訪さんたちは本川橋側で泳いでおられました。本川橋にはちょうど吊り橋のような形でアーチ型の鉄骨があって、上級生がその1番てっぺんから飛び込む姿が諏訪さんたちにはカッコよく見えたそうです。諏訪さんたちも一応上まで行ってみたそうですが、なかなか飛び込められず、橋の平面なところから飛び込むのがやっとだったそうです。いつも朝から泳ぎにいって夕方まで泳いでいた諏訪さんたちは、満潮の時、干潮の時またはその両方の時間帯の川を1日に泳いだらしいです。本川橋も橋脚には、満潮時にはみられませんが、干潮時の時のみ帯状の出っ張りが見えます、昔それは雁木と呼ばれていて、岸にある石段から、泳いでそこまでいき腰を下ろして休みまた戻ってくると言うことを諏訪さんたちは何回もやっておられたらしく、諏訪さんたち子供たちはプールがなくても日々川で遊んでいるため泳ぐのが得意だったそうです。

  • 世界の子どもの平和像

    show stroly map Show Stroly map

    建立年月日 平成13年(2001年)8月6日「世界の子どもの平和像を広島につくる会」の高校生が中心となり、街頭募金などで800余万円を集め、建立した像です。碑には「核兵器のない世界のためにこの像はヒロシマの子どもたちの愛と平和のメッセージです 2001年8月6日建立」と書かれています。 出典: https://www.hiroshima-navi.or.jp/post/005860.html

  • 肥溜めの船 肥溜めの船

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    原爆が落とされた日、体調を崩して寝込んでいた祖父は、家の中で寝込んでいました。家は全壊し屋根の下敷きになりましたが、一緒に住んでいたおばあさんに助けられ、瓦礫の中から這い出たそうです。裸足で走り、川に向かうと肥溜めを運ぶ船がありました。昔はまだ「ボットン便所」だったからです。爆風で飛ばされたのか、人は乗っていませんでした。 川の向こうに陸軍の病院あり、そこに向かっている人たちも多かったので近くにいた川を渡りたい人たち10人程度で手漕ぎの船に乗りました。船の中は肥だらけでとても臭かったのでズボンをまくって鼻をつまみながらの乗船でした。 皆でオールを必死に漕いでいましたが川の真ん中あたりにくるとオールの紐が切れ、船が燃える市内の方に流され始めました。船に乗っていた人たちは竿でついたりして、やっとのことで川の向こう岸に着いたのです。 ⚪︎語り:部員Aの祖父

  • みかんとパチンコ みかんとパチンコ

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    森さんが広島陸軍被服支廠に動員されたのは、昭和19年6月から終戦までのことでした。 所属されたのは輸送班でした。輸送班の森さんたちの班ではよく、船積みと陸揚げをしていました。みかんや砂糖、木炭などを陸にあげていて、みかんはバラのままで揚げていたのでスコップですくい運んでいました。スコップでみかんには傷がつきました。上司には、傷がついたみかんは食べてもいいと言われていたので、たくさん食べたが、傷のついたみかん以外にも綺麗なみかんもこっそりたくさん食べたそうです。他にも、当時被服支廠の9番倉庫にあった針金やゴム、皮の切れ端などを集めてよくパチンコを作って一緒に働いていた人とスズメを狙ってよく打っていた。 出典:赤レンガ倉庫は語り継ぐー旧広島陸軍被服支廠被爆証言集ー     旧被服支廠の保全を願う懇談会     森武德・被服廠での生活 編集:髙島

  • 学徒動員の家屋疎開中に... 学徒動員の家屋疎開中に...

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    1945(昭和20)年8月6日、小田さんは当時13歳,広島女学院の2年生でした。雑魚場町に家屋疎開の跡片付けの作業をしに行くため、午前7時半に学校を出発しました。午前8時過ぎに到着し、仕事を始めようとした時、誰かの「B29だ!」という叫び声とともに原爆が投下されました。友人達を見ると、血まみれになり火傷して皮膚が真っ黒で、髪の毛は逆立ちぼうぼうになっていたそうです。自分の黒く焼けただれた手からは油が汗のように流れ出ていました。みんなの逃げる方向に着いていくと、比治山橋に着きました。そこで目にしたものは電柱に繋がれた馬が暴れている光景、他校の女学生が川に入り、「早く死にたい」と泣き叫んでいる光景などでした。「水が飲みたい」と言って汚い川の水を飲むものもいたそうです。小田さんはその後救助隊の車に載せられて宇品に運ばれ、船で似島に避難させられて、治療を受け、5日間滞在しました。そこでは板の間に筵を敷き、その上に毛布を1枚敷いて雑魚寝をして過ごしました。周りでは次々と人が死んでいきました。小田さんは5日目の昼過ぎに父親と再開することができ、「よかった、よかった」と泣きながら喜んだそうです。 出典; https://www.hiro-tsuitokinenkan.go.jp/project/readers/naoko-oda.html国立広島原爆死没者追悼平和祈念館被爆体験記(小田直子さん)より

  • 村上捷子さん 戦後のお仕事 村上捷子さん 戦後のお仕事

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    原爆の被害に遭い火傷を負った村上捷子さんは、やけどをしている箇所はしていない箇所に比べて冷たく感じやすくなりました。足もむくんで靴も限られたものしか履けなくなった。しかし第一生命ビルが新設され、電話交換手として働くようになりました。職場では課長などが「あまり頑張りすぎないで帰ってもいいんだよ」と気を遣ってくれる優しい仕事仲間と一緒にがんばって仕事をしました。また20代中頃まで原爆被害者のために送られる給付金を断り続けていました。なぜなら、給付金をきっかけに裕福に暮らすよりも貧しいながらも頑張って暮らしたいという思いがあったからです。しかし市の役員の方に強く給付金をもらうように頼まれたため1番低い額の給付金をもらい始めました。そのほかの制度も使い戦後を生き抜きました。結婚はお見合いで知り合った男性としました。結婚相手は原爆が落とされるより前から広島の可部に住んでいたため同じ広島県民同士の結婚となりました。子どもが生まれる時、彼は子どもにも村上さんの後遺症がうつるのではないかと不安だったそうです。しかしそんなこともなく元気がある男の子を産みました。息子さんもまた結婚し2人の女の子を授かりました。いろんなことがありながらも現在旦那さんや息子、孫もでき、幸せな家庭を築いています。語り:村上捷子さん編集:中井

  • 村上捷子さんの娯楽 村上捷子さんの娯楽

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    当時あまり娯楽というものはありませんでした。しかし村上捷子さんは、正月などはトランプや花札といった遊びをしました。当時村上さんは幼かったため、大人がしている姿を見て楽しんでいました。その他にも家の裏で畑仕事をしている親と一緒に兄、妹と鍬を持ってきゅうりや芋を栽培しました。家は三篠にあり、近所にはたくさんのお店があって旧姓中西という酒屋、横田商店といった八百屋さんやその他にも魚屋さんが立ち並んでいました。よく親と妹と3人で買い物に行き、近所の方からは3きょうだいみたいだと言われていました。楠木町4丁目にある花道の先生のところで、村上さんは9歳から華道を習い始めました。最初は友人2人も「私も花道の先生になる」と言っていたが長く続かず、1年ほどで辞めてしまいました。しかし真面目な村上さんは華道教室に通い続けました。ある日、一度も休んだことのなかった村上さんは無断で華道教室を休みました。盲腸で入院したからです。先生は心配になりお見舞いに来てくれました。戦前の頃食べていたものは、畑で作っていたきゅうりや芋などがメインでした。戦後は、周りには何もなかったため父親の実家である伴の方まで歩いて引っ越し、父親が買ってくる江波団子を食べました。鉄道草やホンダワラで作ってあったため苦くて美味しくなかったそうですが、父親が頑張って買ってきてくれるため家族と一緒に食べました。他にも麦ご飯を食べていましが、硬い麦をのけて食べていたため父親に怒られ、「贅沢をいうな」と怒鳴られていました。語り:村上捷子さん編集:中井

  • 通学路でおしゃべり中に... 通学路でおしゃべり中に...

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    当時7歳で小学校低学年だった村上さんは、3人きょうだいの真ん中でした。8月6日午前8時15分 、村上さんは、通学路で友達と楽しくおしゃべりをしていました。飛んできたアメリカの爆撃機B29を指をさして「飛行機がきたよ。」と友達に伝えていた時のことです。「ピカッ!」と光った瞬間に、「ドーン」と爆発音が響き原子爆弾が投下されました。普段の登校時の服装は、長袖、長ズボンと決められていたましたが、その日に限ってレースの可愛い服を着て学校に行っていたため右半身は大火傷を負いました。周りのみんなは一瞬にして逃げて行きましたが、自分は荷物を取りに帰るため、学校に行くと教室は散乱状態でした。そのためどうしようもなくなった村上さんは外へ出て泣きながら親を探しました。その時は、市内の方から北へ行く人がたくさん並んでいたそうです。彼らは全身に大火傷を負い皮膚が垂れ下がっていました。夕方になり、近所のおばさんと出会い「捷子ちゃん、大丈夫だった?お父さんが探しとるよ。」と声をかけられ家族と再会することができました。父は、横川橋にいたため火傷を負っていました。母と妹は家の裏で畑仕事をしていたため無傷でした。語り:村上捷子さん編集:中井

  • まずかった江波団子 まずかった江波団子

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    江波には江波団子という食べ物がありました。江波団子は日米開戦が始まってから食べられました。 長い期間ではありませんでしたが、終戦後も食べることが少しあったそうです。 材料木の実の皮を潰して、いろんなものを混ぜ合わせたものでした。味は砂糖も入ってないので、渋みのある味だそうです。 それでも、食べ物のない時代であったため、みんな我慢して食べていました。 出典:証言「江波に生きる」大岡喜美枝さんの語る暮らし・戦争・原爆

  • 江波の海苔の作り方 江波の海苔の作り方

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    昔は海に竹を立ててそれについていた海苔を採っていました。海苔の新芽を採って帰ったらお味噌汁に作るんです。声が何とも言えないほど美味しかったのです。母親も父親も竹で編んだ小さい籠と大きい籠を持って行きます。採ってきた海苔を大きなまな板で包丁を両手でに持って叩いて砕くんです。砕いた海苔を大きな竹籠に入れて、海苔を洗うためのため池に持っていって洗いに行きます。家に持って帰って、たらいに油をちょっと入れます。油を入れることで後で海苔が賽から剥がしやすくなるそうです。それで海苔を漉いて外に干して売っていたそうです。海苔を干しているときににわか雨が降って来たら海苔を濡らすとダメなのでみんな総出で納屋に取り込んだみたいです。出典:証言「江波に生きる」大岡喜美枝さんの語る暮らし・戦争・原爆

  • 中川ツネ子さんと原爆 中川ツネ子さんと原爆

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    1945年、中川ツネ子さんは都合により広島陸軍被服支廠を退職しました。 8月6日、原子爆弾が投下された時、中川さんは自宅にいました。中川さんは、ガラスの破片で怪我をし、近くの比治山小学校で治療できると聞き、行ってみるも多数の重傷者で溢れかえっていたそうです。治療を諦めて帰る途中、ふと空を見上げると市内の西方向は見たこともない黒い雲の下に土砂降りの雨が降っているのが見えました。中川さんがいる東側はカンカン照りなのに西では雨が降っていることがとても不思議だったと言います。家は幸いにも比治山にあったため焼失は免れましたが、爆風でメチャクチャになったため必死に片付けました。近所では、朝早くから学徒動員に出たままの子どもたちが帰ってこないと動揺する親がたくさんいて、市内に探しに行こうとしたけれど、火の海で近づくことができませんでした。

  • 近藤アサエさんと原爆 近藤アサエさんと原爆

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    近藤アサエさんは原爆が落ちた後、被服支廠の中で怪我をした人の看護のお手伝いをしていました。大怪我を負った人々はみんな「お母さん、助けて」と叫んでいたそうです。また、近藤さんは、看護婦と間違えられて「看護婦さん、看護婦さん、桃が食べたい。」と、言われたので「明日取りに行こうね」と声をかけましたが、その晩、その方は生き絶えてしまったということを今でも鮮明に覚えているそうです。その後,看護婦さんからは「もう水を飲ませてあげたらええ,楽にさせたらええ」といわれ,水を飲んだ人がバタバタ死んでいくのを見てとても辛く思ったそうです。

  • 「爆心に生き残る」 野村英三さん 「爆心に生き残る」 野村英三さん

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    元安橋南詰に被爆当時、広島県燃料配給統制組合の本部がありました。8月6日、国民儀礼が終わり、いつもの書類を取りに地下室に行き、書類を探して金庫前にたどり着いたその時ドーンという音と共に電灯が消えて真暗になりました。瓦礫で坂と化した階段をなんとか登ると頭を打ち閉じ込められていることに気づきました。どうやって脱出したのか分かりませんが気付くと一階に立っていました。広瀬さんと建物から脱出し、川に降りる石段に腰を掛けました。逃れた数人が集まり、空から降ってくる瓦礫からそれぞれ拾ったトタンで身を守りました。しばらくすると雨が降ってきて、勢いが弱くなってから火に近づき体を温めました。救援隊に知らせようと己斐に向かったのですが負傷者のみで救援隊はいないので草津に向かうと救援隊がいましたが、負傷者が多く救援を求めるのは無理でした。そこで自分は廿日市に行きました。着いたのは午後2時半頃でした。出典『原爆体験記』 編集者「広島市原爆体験記刊行会」

  • 焼け野原となった崇徳高校 焼け野原となった崇徳高校

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    被爆翌日の惨状を当時本校の教諭だった武田自強は次のように語っていました。「原爆が落とされた日はともかく学校に行くために家を出ました。しかし広島市は全市が火災の真最中で通信も届かず市内に入れませんでした。次の日に行くと焼け落ちた家屋、倒れた電柱、半焼けの人、馬の死体、悪臭もぷんぷんして息も詰まりそうでした。必死に太田川を渡って学校に着くと崇徳とは思えないほど変わり果てた姿になっていました。校舎は焼け野原となり唯一残っていたのは講堂の屋根と外壁そしてレンガ塀だけでした。 出典 崇徳学園百二十年史;発行 学校法人 崇徳学園

  • 女性駅員と一致協力、列車の運行再開 女性駅員と一致協力、列車の運行再開

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    昭和20年8月6日の8時15分頃電光一閃、ドンという地響きと共に家屋が一斉に倒壊し、一生懸命這い出した所は国鉄広島駅の近くで会議に向かう途中でした。私自身かなりの火傷を負いましたが横川駅長という重責のため、身を挺して横川駅に向けて山陽本線のレール上を一目散に走り急行しました。到着すると駅舎は潰滅し火の手が回り駅周辺にいた人と職員の避難などで一杯でした。当時駅では女子挺身隊員150人と男性職員で新体制を展開していました。原爆投下の翌日の8月7日、朝十時に横川駅に職員が参集、復旧作業に取り掛かりました。まず散乱した無数の死体を荼毘に付す。午後は瓦礫や倒壊した家屋財などを所々に積み上げて焼却。昼夜兼行で事を急ぎました。夜間は停電し、駅の合図灯片手の作業で非能率でしたが粘り強く頑張った結果、被爆から四日後の8月9日には列車の運行を再開し、市民生活の再建に貢献し国鉄の期待と信頼を一躍高めました。 出典:「被爆50周年記念証言集はまゆう第一集〜第三集」P149〜 P150 発行日:1995年7月15日発行  発行者 横浜氏原爆被災者の会(はまゆうの会)

  • 『浄寳寺と子供』 『浄寳寺と子供』

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    浄寳寺は、原爆までは中島本町、今の平和公園の中にありました。戦後都市計画で公園となってしまいましたが、今は大手町3丁目に換地を得て、お寺を再興しています。今で言う平和公園、昔の中島本町の中には宗派が様々なお寺が10ヶ寺ほどありましたが、今はそれぞれ他の場所へ移されています。馬の鞍のような慰霊碑があるところから西の方へメートルほど行ったところにある国家掲揚台の前の広場までが浄寳寺の境内だったそうです。そのあたり一帯は家が立て込んであり、元安橋と本川橋にかけての道は割合広い本通り筋でしたが、それ以外の道は狭く特に諏訪さんの寺の前の道は、大八車や馬車がやっと一台通れるぐらいの広さでした。元安橋から本川橋までの本通筋は、いろいろな商店が並ぶにぎやかな繁華街でしたがその真上に原爆が落ち人も町も全て焼き尽くしました。寺の境内は子供にとって、鬼ごっこやかくれんぼをするのによい場所でした。寺の近くの墓地もよい遊び場で、墓の上に上がったりして、その当時住職だった諏訪さんの父さんによく怒られていたそうです。

  • かつての第三国民学校 かつての第三国民学校

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    毎年8月4日に広島市立翠町中学校では原爆で犠牲になられた第三国民学校および第二高等女学校の教職員・生徒の方々を慰霊・追悼するため慰霊祭が行なわれています。翠町中では「戦災死児童学籍簿」が事務室の戸棚から見つかったのをきっかけに、被爆の実態を明らかにする運動を開始し、生徒会を中心に、生き残った生徒や教員たちから聞き取り、80年に冊子「空白の学籍簿」を作成しました。今でも、生徒1人ずつに「空白の学籍簿」が配布され、毎年8月4日が近づくと朝のSHRで演劇部や生徒会の生徒が放送で朗読したりと大切に受け継がれています。(崇徳新聞部 植村琉杏)

  • 八丁堀の映画館 八丁堀の映画館

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    戦時中、軍都であった広島は飲食店や映画館などがありたくさんの人で賑わっていました。原爆が投下される前日は日曜日であったため映画館へと足を運ぶ人も多かったそうです。しかし、明るい内容ばかりではなく戦争にまつわるものだったため、現在のような楽しい作品ではありませんでした。(被爆者の体験談)

  • 「父の死」 高木輝彦さん 「父の死」 高木輝彦さん

    スポット画像未設定

    show stroly map Show Stroly map

    <p class="p1" style="margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 17px; line-height: normal; caret-color: rgb(0, 0, 0); color: rgb(0, 0, 0); -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.3); -webkit-text-size-adjust: auto;"><span class="s1">8</span><span class="s2">月</span><span class="s1">6</span><span class="s2">日、私はその日姉と一緒に安佐郡の戸山村に集団疎開してました。その日の一限目は歴史の授業で、先生が日本の状況を話し、先生が地図で空襲の話をした途端ピカッと眩しい光が教室に入り、</span><span class="s1">5</span><span class="s2">秒程後にドーンという音と共に地が揺れました。やがて学校の鐘の音で運動場に集合し各々の家に帰りました。寺に帰った後真っ黒の雨が降りすぐ止みました。皆で庭に出るとビラが降ってきたと思いましたが降ってきたのは広島の広告でした。降ってきたもの全てに広島のどこどこと書いてあり皆の不安は増しました。それから</span><span class="s1">5</span><span class="s2">日後広島に新型爆弾が落ちたと聞きました。家族とは音信不通です。広島を見に行った先生が帰ってきて数日後先生に言われ荷物をまとめて広島に車で帰りました。車の中で父の死を知りました。広島に入ると人を焼く鼻を突く臭い匂いがしました。そして比治山橋で下ろして貰い家に帰ってみると半壊でした。その時は母の声を聞いて泣きました。</span></p><p class="p2" style="margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 17px; line-height: normal; min-height: 20.3px; caret-color: rgb(0, 0, 0); color: rgb(0, 0, 0); -webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.3); -webkit-text-size-adjust: auto;"><span class="s1"></span><br></p><p class="p1" style="margin-bottom: 0px; font-stretch: normal; font-size: 17px; line-height: normal; caret-color: rgb(0, 0, 0); color: rgb(0, 0, 出典『原爆体験記』 編集者「広島市原爆体験記刊行会」