「浅草 戦時被害証言図」聖学院中学・高校

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この地図は、聖学院中学・高校が「#あちこちのすずさん」ワークショップに参加して作成した地図です。
「浅草(台東区)戦時被害証言図」と名付けました。浅草(台東区)の戦時被害や証言をまとめた地図となっています。この地図で、浅草のことについて知ってもらい、浅草(台東区)で起きた過去の話を知って伝えていってほしいと思っています。

update date: 2021.08.23

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Number of spots : 17spots

  • 田原小学校の屋上にあった田原神社 田原小学校の屋上にあった田原神社

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    戦時中に学校屋上の西北の隅に存在した「田原神社」です。 児童に敬神崇祖の日本精神を植え付けるために建てらてたものです。祀っている神様(祭神)は、「天照大神(皇大神宮)」「明治神宮」「浅草神社」であったという記録が残っています。社殿形式は神明造で、当時の在校生の話によると、学年やクラスごとに参拝しに行った記憶があるそうです。 この神社は、戦後の教育改革時に撤去された可能性が高いと言われていますが、公式な記録は残っていません。 出典元:田原小学校創立100周年記念アルバム 取材:聖学院高校 佐藤佑哉

  • 念珠静岡屋 念珠静岡屋

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    「念珠静岡屋」は、明治創業の、お数珠や民芸品などを販売するお店です。お店は1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲の被害に遭いましたが、建物がコンクリートでできていたため、建物が燃えることはなかったそうです。その後の空襲で自宅が燃えたため、お店でご家族と暮らしていたそうです。戦後、しばらくは、お店ではお数珠などではなく、食べ物を売って商売をしていました。語り:朝比奈さん取材:聖学院中学校 布施孝太郎

  • 爆風で割れたトイレの窓 爆風で割れたトイレの窓

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    「前略お免●●●●先日は突然伺まして御馳走様になりまして尚お土産迄沢山頂きまして有難お存じます其節荷物引渡の運賃をお渡しするのを前から考へておりましたのでしたが種々の話にまぎれ忘れて置ひて参りませんで何共申訳ありませんでした又種先から帰りにはに御寄りしようかと思て居りましたのでが●●の空襲と大雪の為め行かれないので空襲が心配ないので夕方駅迄送て貰ひ帰宅致しました別変り有りません御安心ヒ下ませ谷中の墓地ノ花々へ爆弾が落ちて爆風で洗面所のガラスが破れた奏です又其内生榊に参りますからお立替置きにて●●●申上ます寒さの折柄皆々様お体大切にお母様へお老母様宜しく」 私のひいひいおじいさんが埼玉に疎開中のひいおばあさんに送ったハガキで、家の仏壇から見つけました。「前略ごめんください。お土産をくれてありがとう。家のトイレの窓が、空襲の爆風で割れてしまったよ」といった内容が書かれていました。 取材:聖学院中学校 布施光太郎

  • 龍昇亭 西むら 龍昇亭 西むら

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    雷門の正面にある「龍昇亭 西むら」は、1854年(安政元年)創業の老舗和菓子店です。安藤広重の「雷門前図」にも描かれているこのお店の名物は、どら焼きで、観光客の多くが立ち寄ります。関東大震災も東京大空襲も、この地で乗り越え今年、創業167年を迎えます。「西むら」は戦時中も商売を続けていました。しかし、和菓子を作るために必要な砂糖が配給で手に入らなくなってしまい、和菓子を作れなくなってしまいました。したがって、違う物を作って商売を続けていたそうです。「西むら」家のおばあちゃんの話。 取材:聖学院中学高校 佐藤佑哉、布施孝太郎

  • 東本願寺 東本願寺

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    ​ 「東本願寺」は戦前から鉄筋コンクリートだったため本堂は焼失しませんでしたが、内部はすべて焼けてしまいました。(現在と建物は同じである。)  そのため、「東本願寺本堂」の下には多くの戦災で家を失った人たちが多く暮らしており、昭和24年くらいまで住んでいる人がいたそうです。 出典元:NHK 日本映画社・日本映画新社が製作した「日本ニュース」です。 ※映像内には、現在では不適切な映像や表現が含まれている場合があります。

  • 浅草神社 浅草神社

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    これは浅草神社正面にある鳥居で、寄進されたのは明治18年です。石製なため、戦火を免れることができました。左手に見えるものは、「東武浅草駅(浅草松屋)」です。当時から鉄筋コンクリート構造であったため、外観が残りました。鳥居の中央先に見えるものは「地下鉄ビル」ではないか考えられます。(現在は存在しません。)   取材:聖学院中学高校 佐藤佑哉、布施孝太郎

  • 浅草神社境内 浅草神社境内

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    東京大空襲の中でも、3代将軍徳川家光公によって寄進された「浅草神社(三社様)」の本殿は奇跡的に戦災から免れることができました。しかしながら、「三社祭」で有名な江戸時代からの宮神輿は、すべて焼失してしまいました。現在の宮神輿は昭和25年に町の人々によって寄進され、また本殿は昭和26年に国の「重要文化財」に指定され大切に守られています。 語り:浅草神社 https://www.asakusajinja.jp/sanjamatsuri/about/  取材:聖学院中学高校 佐藤佑哉、布施孝太郎

  • 田原小学校での疎開生活 田原小学校での疎開生活

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    浅草区(現:台東区)の学童疎開(集団疎開)は、宮城県の松島方面とされていました。そのため、多くの生徒が上野発の特別列車で疎開しましたが、戦後は親の焼死や都心の食料不足等で学校内の児童数が大幅に減少しました。親を失った子供の中には、校長先生が親代わりとして養子に迎えたケースもあったことを、当時を知る方から伺いました。 出典元:田原小学校創立70周年記念アルバム 取材:聖学院高校 佐藤佑哉

  • 田原小学校 田原小学校

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    田原小学校は、1911年(明治44年)に創立し、今年で創立110周年を迎えます。写真の校舎は、関東大震災後の復興事業として作らたものです。そのため、この時代に多く建てられた「L字の鉄筋コンクリート造り」になっています。校舎は1982年まで使い続けられました。取材者の母校であり、調査のため訪問し、学校史から調べました。写真は1930年に撮影していますが、戦時中も同じ校舎です。  出典元:田原小学校創立70周年記念アルバム 取材:聖学院高校 佐藤佑哉

  • 田原町の被害 田原町の被害

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    曾祖父から聞いた話です。1945年(昭和20年)3月10日に、米軍のB29により空襲を受けました。戦況が悪化するにつれ子供や女性などは、空襲のない埼玉などへ疎開していったそうです。実際に、私の曾祖母と祖父も疎開したそうです。    取材:聖学院中学校 布施孝太郎

  • どぜう飯田屋前 どぜう飯田屋前

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    「どぜう飯田屋」は、江戸時代から続く老舗の名店です。作家の永井荷風行きつけの店として有名で、「荷風先生は、お見えになると、必ず、同じ席で同じ物を召し上がっていた」そうです。1945年(昭和20年)3月10日にアメリカ軍によって空襲を受け、お店は燃えていましたが、道路のT字路に建っていたため、焼けた跡がすぐにわかったという話を、肉親から聞きました。 取材:聖学院中学校 布施孝太郎

  • 隅田川 隅田川

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    隅田川では、東京大空襲の際に多くの人が溺死しました。皆、空襲による火災で水を求めさまよい、隅田川に飛び込みました。川の水は高く、次から次へと人が飛び込むため、溺れてしまい、空襲後には多くの人が水面に浮かんだことを、地元の方々が語り継いでいます。 私は、現代に生きる私たちも先人の知恵を生かすべきだと考えます。 取材: 聖学院高校 佐藤佑哉

  • 寿町の被害 寿町の被害

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    私の曽祖母の話によると、空襲が日に日に激しくなってはいましたが、家を守るために父親と9人兄弟の1番目の兄と7番目の弟、8番目の妹が家に残り、「東京大空襲」により父と弟・妹を失ってしまったそうです(亡くなった弟は当時、高校生。妹は中学生だったそうです)。1番目の兄は消防団に入団しており、奇跡的に生き残ることができました。これから親族に当時のようすをもっと詳しく聞いてみたいと思います。 取材:聖学院高校 佐藤佑哉

  • 戦災霊供養 地蔵大菩薩

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    こちらの地蔵尊は、昭和20年3月10日に起きた東京大空襲によって亡くなった方々への戦災者供養のため、「旧浅草藝妓屋組合」によって浅草寺境内に建立されました。 取材:聖学院高校 佐藤佑哉

  • 浅草寺境内戦火者慰霊塔建設趣意書

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    昭和20年3月9日の夜、アメリカ軍B29、150機による大空襲が起き、浅草一帯は火の海となりました。強風にあおられ、人々が地を這うように逃げ惑い、親は子の名を叫び、子は親を求めましたが、なすすべもありませんでした。一夜が明け、眼に映るものは一面焦土と化した東京の街でした。木も草も焼け、哀れにも身を焼かれた犠牲者は数えきれなかったと言われています。現在では、当時の悲惨さの報道も限られ、戦後生まれの人々は、戦争の悲惨さを知るも機会も減りつつあります。亡くなった方々の御霊が安らかに鎮まることを祈り、2度と同じ過ちを繰りされることなく、永遠に「世界の平和」を祈るために、昭和38年8月15日に浅草大平和塔維持会によってこの地に建立されました。                                      引用元:総務省一般戦災死没者の追悼 https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_taito_city004/index.html 取材:聖学院高校 佐藤佑哉   

  • 平和地蔵尊由来記

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    「第二次世界大戰はその規模においてもその被害についても、まことに大きいものであり昭和20年3月10日の大空襲の際には、この附近一帯は横死者の屍が累として山をなし、その血潮は川となって流れたその惨状はこの世の姿ではない。戦争犠牲者の霊を慰めることこそが、世界平和建設の基となるものであるため、ここに「平和地蔵尊」を祭りその悲願を祈るため昭和二十四年四月に、ここに安置された。」 2021年8月9日に現地を確認すると、70代くらいの女性の方がお線香をあげていました。お地蔵さまは、今も、戦争犠牲者の家族や関係者を大切に見守っているようです。 引用元:総務省 一般戦災死没者    https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_taito_city003/index.html 取材:聖学院高校 佐藤佑哉

  • 東京大空襲戦災犠牲者追悼碑

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    隅田公園のこの一帯は、昭和20年3月 10日の「東京大空襲」等により数多くの人が亡くなられました。その際に亡くなった方々を仮埋葬した場所の1つが隅田公園です。第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により、被災した人は台東区(当時:下谷区・浅草区)は多数に及びました。空襲で亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に「仮埋葬」されのち、戦後「東京都慰霊堂」(墨田区)に納骨されました。数少ない資料をたどり、区内からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調製するとともに、この地に昭和六十一年三月に台東区によって碑が立てられました。 引用元:https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_taito_city001/index.html 取材:聖学院高校 佐藤佑哉