「私たちが知っているのはほんの一部」駒込高校

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この地図は、駒込高校の生徒が戦争中の出来事や日常を伝えていくプロジェクト「#あちこちのすずさん」のワークショップに参加した一環で作成した地図です。

update date: 2021.08.11

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Number of spots : 7spots

  • 耐え忍ぶ大木 耐え忍ぶ大木

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    浅草寺境内に生えているこの「イチョウの木」は、東京大空襲による被害を後世に伝えるシンボルです。台東区一面が空襲による被害を受ける中で、イチョウの木は密かに耐え忍びました。この木の裏側には、当時の惨状を示す傷跡が残っており、決して癒える事はありません。 取材:鹿又大輔

  • 大切な人を探して 大切な人を探して

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    上野公園は太平洋戦争末期の昭和20年3月10日に発生した東京大空襲の際膨大な数の遺体の仮埋葬地になっていました。東京大空襲が多くの犠牲者が出てしまった理由として、木造建築が多く密集し火に弱い下町に大量の焼夷弾が投下されたことや、国が防空法により国民に初期消火を義務づけ、徹底不可能だった消火活動を課せられたことなど複数の悪条件が重なったことが原因とされています。現在では東京大空襲の慰霊碑「時忘れじの塔」などを見ることができます。このオブジェの裏には「今、緑美しい上野の山を行き交う人々に、そのような出来事を 思い起こしてもらうとともに、平和な時代へと時をつなげる心の 目印として、この時計塔を寄贈しました。」と書かれていました。今私たちが平和に暮らせているのは昔の人々が苦労して築き上げたものだと言うことを忘れてはいけません。 出典:http://kyuukyodou.sakura.ne.jp/ueno/toki.html

  • 壊す技術守る技術 壊す技術守る技術

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    東京大空襲の際、大きな爆風によって松屋の地下倉庫に吹き飛ばされた方がいました。空襲後に、松屋の外へ出たところ、一面が焼け野原となっていたそうです。当時の急速な科学技術の発展による、建物を壊す技術、守る技術。複雑な感情になります。 出典:https://www.google.co.jp/amp/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20210125/amp/k10012814051000.html

  • 失った命は人間だけではない 失った命は人間だけではない

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    太平洋戦争中の1943年8月から9月にかけて、上野動物園では「猛獣処分」が行われました。「猛獣処分」は全国の動物園で行われましたが、上野動物園はその最初の動物園でした。上野動物園ではゾウ、ライオン、チーターなどが殺されてしまいました。殺された理由は、檻が壊れて動物たちが逃げ出したら大変なことになるからです。現在では、殺処分されてしまった動物への慰霊碑が上野動物園では見ることができます。さらにこの話は、絵本にもなるなど、人々の動物に対する謝罪の気持ちを感じることが出来ます。それだけ、動物を殺してしまうということは当時の飼育員さんや、動物園が好きだった子供達などにとっては、辛い出来事だったことが分かります。戦争で失った命は人間だけではなく、戦争に関係のない動物の命までも失ったと思うとさらに心が傷みます。出典https://senseki-kikou.net/?p=5933https://www.kinnohoshi.co.jp/search/info.php?isbn=9784323002118https://news.yahoo.co.jp/articles/93bdfcdaf4b5ca04e2014674b78f2e2ece47078b

  • ゆらゆらと漂う ゆらゆらと漂う

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    1945年3月4日に台東区周辺を焼け野原にした空襲で、およそ10万人の人々の命が奪われました。当時の隅田川には行き場の無い死体がゆらゆらと、それもかたまりになって流れていました。現在でも大きな花火大会が行われたりする隅田川だからこそ、考えて欲しい戦争遺跡の一つです。語り:清水眞吉、清水春江 取材:小川佳歩、倉持ひまり

  • 坂下平和地蔵尊 〜安全な場所はどこにもない〜 坂下平和地蔵尊 〜安全な場所はどこにもない〜

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    戦時中この近くにあった、安全だと言われていた銭湯の倉庫が、1945年の3月4日に被爆し、当時中に避難した23人が亡くなってしまうという悲惨なことが起きました。それを弔い、町の人々が後に建てたのがこのお地蔵様です。このことは、当時別の場所に逃げて生き残った人々に、「安全な場所なんてどこにもない」と現実を突きつけるような出来事だったのではないでしょうか。 語り:清水眞吉、清水春江 取材:小川佳穂、倉持ひまり

  • 助けてくれたおまわりさん 助けてくれたおまわりさん

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    2021年現在、ミスタードーナツがあるこの地は、戦時中、清水春江さんの家がありました。1945年3月4日、空襲によって破壊され、写真のようになってしまいました。その空襲の時、春江さんは防空壕の中に逃げ込みましたが、防空壕は半壊し、生き埋めになりました。その時、近所の交番の警察官の方が助けてくれたそうです。この地でも空襲があったということを忘れずに、後世へ伝えていくべきではないでしょうか。 語り:清水眞吉、清水春江 取材:小川佳歩、倉持ひまり