戦時中のエピソード 多摩地域:法政大学
戦時中のエピソードを伝えるプロジェクト「#あちこちのすずさん」のワークショップが2021年5~6月にかけて東京の法政大学で開催されました。
この地図は、学生たちが多摩地域で調べた情報をまとめた地図です。
※ワークショップのようす(https://www.nhk.or.jp/gendai/comment/0005/topic076.html)
update date: 2021.07.31
このマップ(地図)を見るNumber of spots : 9spots
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こどもの国
こどもの国の土地は戦時中、旧陸軍の東京陸軍兵器補給廠(しょう)田奈部隊・同填薬所でした。ここで3,000人の日本人軍属が地雷、対戦車砲、手榴弾、高射砲、野戦重砲などの砲弾を製造していました。33ヵ所の弾薬庫に保管し、現在の中央広場と牧場口駐車場の2ヵ所にまで延びていた鉄道引き込み線の駅から、全国に輸送していました。出典:こどもの国 ウェブサイトより
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〇小学生の間で流行った遊び「スイライ・ボッカン」
小学校のころ流行っていた遊びがあったそうです。その名も「スイライ・ボッカン」。スイライとは漢字で書くと水雷となり、爆薬を容器につけてそれを水中で爆破させて艦船を攻撃する兵器のことです。ボッカンは航空母艦のことです。ジャンケンで勝つとスイライになり、負けるとボッカンになります。スイライがボッカンを追いかけて追い詰めて、スイライがボッカンに体当たりして終わり、という遊びだったそうです。今で言う鬼ごっこと似ているかもしれませんが、体当たりをするという表現がスイライの怖さを表しているように感じます。出典:小金井市「戦争体験談集」
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JR高尾駅ホームの銃撃痕
JR高尾駅のホームには「銃撃痕」を見ることができます。太平戦争末期の米軍による機銃掃射による銃撃痕とされています。
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多摩サービス補助施設
戦時中に火薬を製造した旧日本軍の工場跡群「多摩火工廠(かこうしょう)跡」があります。現在は、在日米軍や家族のためにキャンプ場やスポーツ施設などを備えたレクリエーション施設「多摩サービス補助施設」となっています。 出典:東京都都市整備局
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〇ランドセル地蔵
相即寺にはランドセルを背負う地蔵があります。1945年7月8日、品川区原国民学校の4年生、神尾明治(あきじ)君は、集団学童疎開先の保育園で米軍機による銃撃を受け、命を落としました。母親は、寺にあった明治君に一番似ていた地蔵に明治君のランドセルをかけたそうです。現在は明治君の命日である7月8日や、8月8日に御開帳されています。今でもこの地蔵には千羽鶴が届けられています。出典: 八王子市役所、相即寺
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武蔵国分寺跡資料館
国分寺町内最大の軍需工場は中央工業南部工場でした。工場は現在の早稲田実業学校の場所にあり、中央線の南側、現在の東京経済大学のある場所には工場で働く人達の宿舎や食堂がありました。最大で 6,000 人以上の人が働いていたとも言われています。戦争末期になると、労働力の不足を補うために町内の国民学校の生徒も動員されています。出典:武蔵国分寺跡資料館だより
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〇八王子空襲をくぐり抜けた強運の招き猫
八王子空襲により八王子市内の家屋の8割が焼けたと伝えられています。その戦火の中で焼け残った瀬戸物屋の蔵がありました。瀬戸物屋のご主人は「大きな被害のため商売をやめる。どうか焼け落ちなかった蔵の中身をすべて買い取ってほしい」と知人に頼んだそうです。その知人が喜久屋の初代店主でした。その蔵の中にあったのがこの招き猫で、招き猫は現在も八王子駅近くにある「お仏壇の喜久屋」に飾ってあります。蔵は焼け残ったとはいえ、招き猫の表面には焼けたような跡が残っています。 出典:https://murauchi.muragon.com など
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〇立川での生活、そして戦争へ
立川市教育委員会「私の戦争体験記」(2016年)より エピソード抜粋 1942年に高等課を卒業、郵便局の事務員になりました。(中略)当時はお米の配給の量が少なく、米のかわりに雑炊を食べ、さつまいも、じゃがいも、大豆、とうもろこし、短めんなど、どうしたらお腹をいっぱいにできるを考えたそうです。食べられそうなものを何でも買い、どんぐりの粉はアクが強くて渋く、海草の粉は砂が混じって食べられなかったと書かれていました。「とうもろこしの粉を熱湯でよく練り、薄くて丸いお煎餅のようにしてフライパンで焼いたのがとても美味しくて、ごちそうのない時でしたからね」という証言もありました。出典:立川市教育委員会「私の戦争体験記」より
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〇クスノキの記念碑
開校当初から100 余年の歴史を見守ってきた1本のクスノキ。19458月2日未明の八王子空襲で、街は一夜にして焼野原となりました。焼け焦げ傷つけられたクスノキは、翌年の春を迎えると若葉が芽を吹いて見事に蘇生したそうです。それに感動し勇気づけられた当時の教職員や生徒は校舎復興に全力を注ぎました。出典:『クスノキの記念碑』建立について 南高創立 100 周年記念事業実行委員会