西陣・千本かいわい映画館・劇場(跡)MAP
京都市上京区。西陣・千本かいわいには、明治以降に30館近くの劇場・映画館がありました。現在、上映しているのは1館だけですが、往時の劇場跡のほとんどは、今も街並みの中でそのなごりをとどめ、かつての にぎわいを思い起こさせます。
〈地図は「上京 史蹟と文化」1992 vol.2 三島利則著「思い出の西陣映画館」より。記載情報は同誌連載(1992 vol.3、1993 vol.5 にも掲載)より。底本は田中泰彦著「西陣の史跡 思い出の映画館」(三星社)〉
update date: 2021.05.15
このマップ(地図)を見るNumber of spots : 26spots
-
春日座ー堀川中央館
【「上京 史蹟と文化」1993 vol.5「思い出の西陣映画館その三(三島利則氏)」より】春日座ー堀川中央館(上京区東堀川通下長者町東北角) 明治四十一年十二月九日開設した席で、映画館になっていたが、強制疎開のためなくなり現在 道路敷。▼【石﨑より】ルビノ京都堀川 北側の交差点、喫茶店の前あたりでしょうか。
-
紅梅亭ー紅梅館
【「上京 史蹟と文化」1993 vol.5「思い出の西陣映画館その三(三島利則氏)」より】紅梅亭ー紅梅館(上京区西堀川通丸太町上ル) 明治三十一年 開設した席で、明治十五年一月九日(原文ママ)紅梅亭となり、大正五年十一月に紅梅館に改称したが、昭和五、六年頃にはすでになかった。▼【石﨑より】この場所であったなら、自宅が近かった尾上松之助との縁も なにかしらあったと思うのですが、はたして…
-
広沢館
【「上京 史蹟と文化」1993 vol.5「思い出の西陣映画館その三(三島利則氏)」より】広沢館(上京区千本通今出川上ル西側) 明治中ごろの開館で、井上菊松さんの所有であった。明治二十六年には浮れ節、その後、浪曲などいろいろの興行をしていたが、終戦以前に閉館して、餅菓子店から、現在ガソリンスタンド。 ▼ 【石﨑より】 現在もガソリンスタンド。千本今出川のバス停(北行)の真ん前です。周辺には茶、菓子、昆布、漬け物、玩具などの店があり、金融機関の支店も多く、西陣の代表的な交差点の一角に劇場があったというのもうなずけます。
-
大宮座ー大宮館
【「上京 史蹟と文化」1993 vol.5「思い出の西陣映画館その三(三島利則氏)」より】大宮座ー大宮館(上京区大宮通中立売上ル西側) はじめ大宮座で、後 大宮館と変わった。又たび亭 ともいったそうで、明治の末から大正五、六年ごろまであった。当時、中立売上ルに二軒、下ルに一軒と、三軒の小屋があったという。 ▼【石﨑より】今はハローワーク西陣があるあたりに、3軒もの小屋があったということですね。中立売通を路面電車が走っていたこととも合わせ、西陣かいわいの繁栄ぶりがしのばれます。
-
寿座
【「上京 史蹟と文化」1993 vol.5「思い出の西陣映画館その三(三島利則氏)」より】寿座(上京区中立売通浄福寺西入上ル) 歌舞伎専門の劇場で、明治三十三年 火事のため全焼、明治四十三年七月 改築竣工して、片岡九蔵の「塩原太助」を上演していた。場所は千中ミュージックのあった所の北側にあったという。大正五年九月 新京極三友倶楽部 焼跡に移築された。▼【石﨑より】千中ミュージックの北側というと、銭湯「京極湯」のあたりになりますが、はたして、どこでしょうか。他の劇場の歴史をみても、西陣と新京極との間で、劇場の移築が一定、あったようですね。
-
中筋の席
【「上京 史蹟と文化」1993 vol.5「思い出の西陣映画館その三(三島利則氏)」より】 中筋の席(上京区中筋通千本東入) 明治十六年頃にあり。中筋のどのあたりか、いつまであったか不明。北側は西陣郵便局となっている。 ▼【石﨑より】西陣郵便局の南西角(業務用駐車場)あたりでしょうか。
-
松の家(芋徳の席)八百屋
【「上京 史蹟と文化」1993 vol.5「思い出の西陣映画館その三(三島利則氏)」より】松の家(芋徳の席)八百屋(上京区大宮通寺之内下ル東側) 明治の初めからあり、八百屋の二階で夕方からの寄席であったが、明治三十年頃に廃止、現在 文具店、隣家の桜湯は現在も営業。▼【石﨑より】桜湯(銭湯)は現在は営業していません。民家をはさんで北側に理髪店があります。銭湯・劇場・理髪店は、繁華街ではよくワンセットであったそうです。明治三十年頃に廃止とありますが、今も近隣の人たちには劇場の存在が伝わっています。
-
岩神座
【「上京 史蹟と文化」1993 vol.5「思い出の西陣映画館その三(三島利則氏)」より】岩神座(上京区上立売通浄福寺東入北側) 明治三十七年十一月十四日落成、新派演劇を上演、大正九年 新京極の歌舞伎座の建物を移築し、旅廻りの歌舞伎役者の一座で興行していました。尾上松之助も映画に出演する前はここで芝居をし、牧野省三と知り合って、それが松之助の映画出演のきっかけになりました。その後 火災で焼失、現在 岩上社と織物会社。 ▼ 【石﨑より】牧野省三と尾上松之助が知り合うきっかけになったとは、まさに京都の映画界発展の転機となった場所と言えるのではないでしょうか。ちなみに、牧野省三と尾上松之助の奉納した玉垣が、そろって大将軍八神社(一条通天神西入ル)にあります。岩上神社の周りは織物会社や、西陣らしい修景をほどこした石畳の道。近年、織物会社の建物を生かし、NINIROOM主催でイベントを併せた上映会「西陣シネマ」(コロナ禍で中断)も行われていて、映画が結ぶ縁も感じます。
-
永楽館ー常盤館
【「上京 史蹟と文化」1993 vol.5「思い出の西陣映画館その三(三島利則氏)」より】永楽館ー常盤館(上京区西堀川通上長者町西南角) 大正十五年頃 寄席であったが、昭和の初期に改装して映画館となり常盤館と改めた。昭和二十年頃の強制疎開で閉館して市場になっていたが、現在十一階建のマンション。▼【石﨑より】現在、1階に自転車店があるマンションの前あたりです。終戦間際の建物疎開で、堀川京極とも言われたこのあたりの街並みは消え、広い現在の堀川通となりました。堀川(川)の西側にもう一軒分の家並みがあったのです。堀川通丸太町上ルにあった尾上松之助の家も、疎開対象の一角だったようです。
-
丸太町田園劇場
【「上京 史蹟と文化」1993 vol.5「思い出の西陣映画館その三(三島利則氏)」より】丸太町田園劇場(中京区油小路丸太町下ル) 終戦後、近くの富田氏の材木置場であった土地を当時 河原町田園の河合氏により昭和三十一年十二月二十八日に、東映「忠臣蔵」「弥次喜多道中記」を上映し開館、当時の入場料五十円、入場者数百五十名程でした。昭和三十六年頃 田園東映と改称、その後もとの丸太町田園劇場となり、昭和四十二年六月閉館、現在ガレージ。
-
帝国館ー西陣帝国館ー大宮東宝
【「上京 史蹟と文化」1992 vol.3「思い出の西陣映画館その二(三島利則氏)」より】帝国館ー西陣帝国館ー大宮東宝(上京区大宮通芦山寺上ル西角) 大正九年 西陣帝国館として京都土地によって創立、大正十一年マキノキネマの直営となり帝国館、昭和十一年に新興キネマ、日本映画の二番館となとり西陣帝国館と改めましたが、昭和十五年にもとの帝国館となり松竹映画を上映、後 昭和二十四年に大宮東宝となり、昭和四十年八月末日閉館、現在 大発マーケット。 ▼ 【石﨑より】 今はコンビニエンスストア・ドラッグストアで、大宮通の南側から見るとよく目立ちます。繁華な場所だったのでしょうね。
-
中竹座ー西陣館ー西陣冨貴ー冨貴映画劇場
【「上京 史蹟と文化」1992 vol.3「思い出の西陣映画館その二(三島利則氏)」より】<br>中竹座ー西陣館ー西陣冨貴ー冨貴映画劇場(上京区大宮通寺之内下ル西側)<br> 明治三十五年七月十二日開場、旧派演劇を上演、昭和十年頃〝西陣館〟と改め映画館、昭和十二年頃に西陣冨貴と改め寄席、その後 冨貴映画劇場、昭和二十年閉館、現在 中央信用金庫。 ▼ 【石﨑より】 現在も京都中央信用金庫の大宮寺ノ内支店があります。「たんきり飴」のお店の南西側です。このあたり、劇場跡が多く、かつてのにぎわいがしのばれます。
-
久栄座ー大宮劇場ーA級京都
【「上京 史蹟と文化」1992 vol.3「思い出の西陣映画館その二(三島利則氏)」より】 久栄座ー大宮劇場ーA級京都(北区旧大宮通北大路下ル西側) 明治四十一年十一月、大宮村雲林院に新築落成、実川延五郎一座でこけらおとし、昭和十一年 松竹映画の二番館、その後 大宮劇場と変わり、昭和十五年頃は浪曲などを上演、昭和二十八年八月 映画館、昭和三十一年頃からストリップ劇場に変わる。昭和四十四年から小屋貸しにして、A級劇場と改名、昭和五十一年廃館、現在ガレージ。▼ 【石﨑より】近年、跡地にマンションが建ちました。旧大宮通からマンションに向かうアプローチは、劇場当時のままです。近代京都オーバーレイマップ「京都市明細図」(昭和26年頃)などをご参照ください。近隣にお住まいのかたも、劇場当時のことを覚えています。
-
舟岡座ー待鳳舘ー轟館
【「上京 史蹟と文化」1992 vol.3「思い出の西陣映画館その二(三島利則氏)」より】舟岡座ー待鳳舘ー轟館(北区北大路通舟岡道の西北角) 昭和の始めに建築され開館、芝居を上演、その後 映画に変わり、昭和十一年頃 日活映画の二番館、昭和十六年 日活映画 轟夕起子さんの経営となり轟館と改名、しばらくして廃館。▼【石﨑より】「建勲神社前」交差点あたりでしょうか。
-
国華座ー第二八千代館
【「上京 史蹟と文化」1992 vol.3「思い出の西陣映画館その二(三島利則氏)」より】国華座ー第二八千代館(上京区千本通今出川下ル西側) 明治四十二年五月落成、市川市十郎一座で開場、その後 松竹経営 活動写真を上映、明治四十四年改築し、第二八千代館と改称、吉沢系の常設館となる。昭和の始め〝丹神百貨店〟となり、その後 西陣警察署に変わり、現在 京都銀行の支店。 ▼【石﨑より】現在も京都銀行の西陣支店です。近年、モダンな建物に建て替わりました。ちなみに西陣警察署(現在の上京警察署)は北野天満宮の門前(旧境内地)に移りましたが、千本今出川の前は当初、智恵光院上長者町(今の京都府警官舎)にありました。
-
千船座ー千船映画劇場ー西陣東宝映画劇場ー千船劇場
【「上京 史蹟と文化」1992 vol.3「思い出の西陣映画館その二(三島利則氏)」より】千船座ー千船映画劇場ー西陣東宝映画劇場ー千船劇場(上京区千本通鞍馬口下ル東側) ここはもと十二坊の一つ 願明坊の跡、昭和初期、旅廻りの役者が芝居をやっていた。昭和二十二年頃、広島から流れてきた江味一座が十一年間 熱演を続け、裏長屋の老人達に大受け、孫の守りの避難所。その後 映画に転向、昭和三十三年頃閉館、現在ガレージ。 ▼【石﨑より】 閻魔堂のはす向かい(千本通をはさんで東側)にある、大きめの診療所が その場所です。紙屋川の扇状地で、東側の土地より少し標高が高く、千本通が「牛の背」に例えられた高低差のよく分かる所です。
-
大栄座ー西陣劇場
【「上京 史蹟と文化」1992 vol.3「思い出の西陣映画館その二(三島利則氏)」より】大栄座ー西陣劇場(千本通出水下ル一筋目東入南側) はじめ大栄座(大正五年十一月、今出川千本東入に新築開場)大正九年に千本出水に移転、昭和十二年 西陣劇場と改め映画を上映、昭和十五年の入場料は三十銭(税金二銭)昼夜二回興行。三日目ごと外題替り、昭和四十三年二月閉館、現在ガレージ。▼【石﨑より】ゲストハウスが立ち並ぶ南側に、広い駐車場が今もあり、映画館当時の規模が分かります。
-
北野劇場ー北野東宝ー北野東映
【「上京 史蹟と文化」1992 vol.3「思い出の西陣映画館その二(三島利則氏)」より】北野劇場ー北野東宝ー北野東映(上京区千本通中立売下ル東側) 昭和二十八年開場、敷地二百坪、最初定員四百名、改装して七百名となる。昭和三十三年 北野東宝と改め東宝封切館、その後 北野東映と変わり、第二東映映画上映、昭和四十五年五月末日閉館、現在九階建マンション。▼【石﨑より】千本中立売バス停(南行)近く、現在はマンション。バス停あたりの千本通が広いのは、終戦直前の建物疎開のなごりです。
-
三太郎席
【「上京 史蹟と文化」1992 vol.3「思い出の西陣映画館その二(三島利則氏)」より】三太郎席(上京区中立売千本東入南側) 中立売通の寿司屋の裏にあった小さな寄席で、終戦後もあったが、現在、ガレージ。▼【石﨑より】現在、「サンタロービル」として、その名をとどめています。中立売通ぞい、マクドナルドの東隣。ビルの看板を探してみてください。
-
昭和館ー西陣松竹ー昭和館
【「上京 史蹟と文化」1992 vol.2「思い出の西陣映画館その一(三島利則氏)」より】昭和館ー西陣松竹ー昭和館(上京区千本通下長者町上ル東側) 昭和二年開館、昭和十二、三年頃 松竹映画「愛染かつら」上映。女性客の紅涙をしぼり、連日満員、昭和三十三年 松竹映画の封切館として、西陣松竹と改め、昭和十九年四月、非紅系一番館。当時、五日間の入場料は六七三円四九銭、昭和三十年頃には平日でも定員(約五百名)は軽くオーバー、日曜祝日には定員の三、四倍も入る。佐田啓二、岸恵子主演映画には入口に百メートルほどの行列の盛況、昭和四十五年頃に閉館、現在ニッショウストア。▼【石﨑より】田村ふとん店の南隣。マンション。1~2階部分は別のスーパーを経て、現在はドラッグストア。戦前生まれの地元の人は、映画館当時の盛況ぶりを覚えています。建物の南隅が低いのは、元は麻雀店で、スーパーを建て増しした名残だそうです。
-
五番街東映ー千本日活
【「上京 史蹟と文化」1992 vol.2「思い出の西陣映画館その一(三島利則氏)」より】五番街東映ー千本日活(上長者町通千本西入西側) 昭和三十二年に、水上勉原作、佐久間良子主演「五番街夕霧楼」、今井監督「真昼の暗黒」で有名になった五番町遊郭の組合事務所があったところに五番街東宝が開場、その後千本日活と改名し、現在上映中。▼【石﨑より】 いま西陣で上映している唯一の映画館(現在は成人映画 専門)。2018年9月の台風で屋根が飛び、修復後、翌年4月に再開しました。開場当時には宝田明や浜美枝が舞台に立ったそうです。舞台にはマイクスタンドの跡(穴)があります。2階席もあります。映写室にはフィルム映写期が残っています。フィルム上映だったころは、京極にあったもう1館との間を自転車で走り、フィルムを運んだそうです。
-
西陣東映
【「上京 史蹟と文化」1992 vol.2「思い出の西陣映画館その一(三島利則氏)」より】西陣東映(上京区浄福寺通西筋一条下ル東側) 京極座(明治四十三年二月開場・昭和十二年芝居)ー西陣ニュース映画館ー新興映画劇場(昭和十三年七月三十一日、新興映画の封切)ー西陣東映ー東洋映画劇場ー西陣東映、昭和三十五年六月全国六十五番目の東映直営劇場として出発、当日黒川弥太郎・雪代敬子の挨拶でにぎわったが、興行不振のため昭和四十六年八月二十日閉館。現在飲食店街。▼【石﨑より】現在、飲食店が両側に並び、その奥に「西陣京極」の看板がある一角。その全体が、元は映画館でした。「西陣京極」の看板の左側から、住宅街に抜ける道があります。
-
千中劇場
【「上京 史蹟と文化」1992 vol.2「思い出の西陣映画館その一(三島利則氏)」より】千中劇場(上京区中立売通千本東入上ル) 朝日座(明治四十三年八月開場)ー京山亭(昭和十二年寄席)ー千中劇場(昭和三十三年には洋画の二番館)ー千中ミュージック、昭和六十二年六月十一日焼失。▼【石﨑より】土屋町通。京極湯と上京料飲組合の建物の間にある駐車場部分です。ストリップ劇場だった千中ミュージックの火災を記憶している近隣の人も多いです。
-
西陣キネマ
【「上京 史蹟と文化」1992 vol.2「思い出の西陣映画館その一(三島利則氏)」より】西陣キネマ(千本通中立売上ル東入ル北側) 大黒座(大正九年)ーマキノ倶楽部ー西陣マキノシネマ(昭和七年)ー西陣キネマ(昭和七年二月・昭和十一年大東・極東映画洋画の二番館・昭和十五年一月東宝映画封切)ー西陣映画劇場(昭和十八年五月)ー西陣キネマ(昭和五十九年六月閉館)。三十五年頃「風と共に去りぬ」「駅馬車」等を上映した頃が最高の入り。現在パチンコ店。 ▼ 【石﨑より】現在はスーパー東隣の住宅街
-
長久座
【「上京 史蹟と文化」1992 vol.2「思い出の西陣映画館その一(三島利則氏)」より】 長久亭ー長久座(上京区千本通一条下ル東側) 明治四十四年十一月新築落成、七十坪、定員二一八名、昭和十一年に松竹の経営、松竹映画・洋画の二番館、昭和十二年ニュース映画に転向、昭和十五年大都・全勝映画、昭和三十三年新東宝封切り館、その後閉館、現在千杉会館。 ▼【石﨑より】ローソン千本一条店。千杉会館の敷地だったと思われる境界の痕跡が、駐車場に残っています。敷地の周りを、主に飲食店が立ち並び、囲む「コ」の字型の区画になっています。観劇後の客のニーズに応えた造りだったようです。
-
千本座
【「上京 史蹟と文化」1992 vol.2「思い出の西陣映画館その一(三島利則氏)」より】 大野座ー千本の芝居ー千本座ー千本日活(上京区千本通一条上ル東側) 明治三十四年九月、尾上松之助一座にて開場、大正元年九月電気映画館を合併して日活映画常設館となる。大正八・九年頃は目玉の松ちゃんの全盛期で、当時子供入場料は五銭、昭和二十八年に千本日活と改称、その後閉館し、現在関西西友千本店。 ▼ 【石﨑より】<br>マンションの1~2階部分には西友のあと、無印良品が入り、近年は空き店舗でしたが、2021年にドラッグストアが開店しました。宮沢りえの主演で映画化された浅田次郎の小説「オリヲン座からの招待状」に登場する映画館のモデルとされています。尾上松之助の葬列が千本座前に立ち寄ったそうです。このあたりの千本通、市電開通時に西側へと広げられています。東側はほぼそのままです。