下田市稲生沢を みる、しる、ふれる。-河内温泉・蓮台寺温泉-

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稲生沢を歩いていると、石垣と石畳の路地、バシャバシャと音を立てて湯が流れ落ちる石の器、古いなまこ壁の家、古くから続く温泉宿など、どこか懐かしい風情ある景色に出会う事ができる。

update date: 2021.11.26

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Number of spots : 30spots

  • 金屋旅館

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    創業1867年(慶応3年)の老舗の旅館。 金谷山の麓から汲み上げられる自家源泉の掛け流しの温泉です。無色透明のサラッとした手触りで、飲用にも適しています。 HPはこちらhttp://kanayaryokan.secret.jp

  • 清流荘

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  • お宿 星めぐり

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  • 旅館さくらや

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    お湯が自慢。お湯の質を保つために加水は行わず、保温加工をしていない輸送パイプを使うことで丁度良い温度に落とし、地下から湧き上がる温泉そのものを楽しめます。

  • クアハウス 石橋旅館

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    創業130年以上の老舗の旅館。 ホームページはこちら

  • 大地の彩 花月亭

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  • 三福屋

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    ■営業時間:08:00~18:00 (不定休) ■TEL:0558-22-1598 材料も焼き方も昔から変わらず、全て手仕事で焼きあげた素朴な牛乳煎餅。全国菓子大博覧会で金賞を受賞しました。添加物を一切使用していません。 牛乳せんべい(12枚)600円 牛乳せんべい(22枚)1,000円 味噌せんべい(18枚)540円

  • 図書喫茶これば

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    ■営業時間:月曜日~土曜日 11:00~18:00(日曜日定休、ほか不定休) ■インスタグラム https://www.instagram.com/library_cafe_koreba/?utm_source=ig_embed&hl=ja-

  • 河内の宝篋印塔(県指定文化財)

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    建武元年(1334)建立の格調高い宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、元々重福院の北西側対岸の高台、塔の平にあったものが、時代の移り変わりとともに何回か移動し、現在の場所に安置されたと伝えられています。総高247cm。妙忍が施主となり、覚円や大壇那沙弥智道の協力によって建立された旨の刻銘があります。

  • 幸田露伴(掛塚屋旅館跡)

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    掛塚屋旅館は、明治創業の老舗旅館で、多くの著名人が訪れました。幸田露伴は、昭和2年2月に掛塚屋を訪れ、蓮台寺温泉の湯に浸かっています。 雪の天城峠を経て穏やかな蓮台寺を訪れた露伴が、掛塚屋で揮毫した俳句が、「湯の村や ゆめばかりになる 春の雪」。詩書には「天城山の大に雪ふりける後蓮台寺に遊びけるに其跡もなくて、いとあたたくなりければ」とあります。(伊豆とはいえ天城の早春は冷たく思いのほか外雪も降る。それに比して湯の村の蓮台寺温泉のなんと長閑な温かさであろうか。) 写真:絵葉書「掛塚家」(昭和初期頃)(提供:市史編纂室)

  • 山本周五郎(蓮台寺荘跡)

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    山本周五郎は、明治から昭和を生きた作家です。昭和26年(1951年)には小説執筆のため、11月から蓮台寺荘に長期滞在をしています。その頃書き進めていた『竹栢記』の筋立てに行きつまり、気分を変えるために下田に来たそうです。 山本周五郎の文学碑が蓮台寺荘入り口付近に建立されています。文学碑の碑文は、『竹栢記』の主人公である堅実誠意な幸之助の、愛する妻へのセリフが刻まれています。

  • 共同湯

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    松陰が入ったとされる、上の湯のそばの共同湯は当時、硫黄泉でした。松陰が泊まった村山行馬郎邸の風呂は単純泉であったため、わざわざ硫黄泉である共同湯に入ったそうです。 昔も今も、共同湯に入れるのは納入している住民だけで、1か月1,000円/世帯で入ることができます。

  • 手湯

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    【温泉の泉質について】 単純温泉(低張性・弱アルカリ性・高温泉)で湯冷めしにくく、塩分を殆ど含んでいません。

  • 四天王(市指定文化財)

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    四天王像(下田市指定文化財)指定年月日:昭和56年8月7日 一木造・彫眼・彩色 像高104.0cm(広目天)~131.0cm(多聞天) 像高130cm前後の二体と、やや小型の二体からなる四天王像。 四天王は四方の守護神で、東に持国天、南に増長天、西に広目天、北に多聞天を配置しています。 持物から筆を持つ像が広目天、宝塔を捧持する像は多聞天と分かりますが、残りの二像は尊名が決しがたい。うち大形の多聞天像と伝増長天像は、量感のある太く力強い造形、両手・両足先以外の像の大部分をヒノキの一材から造り、背中から干割れ防止の内繰を行って背板を当てる技法から、平安後期にさかのぼる像であり、素朴な造形から地方仏師の作と考えられます。一方他の二体は形式化した造形と、伝増長天像の背板墨書に宝永4年(1707)、四天王像再興(修復)の記述があることから、この年を下限とする江戸時代の像と考えられます。伊豆では古代・中世の四天王像が知られておらず、一方で四天王のうち二尊を造立する二天の作例に恵まれています。本像も当初は二天であったものが、後にニ像が補われて四天王となった可能性が高いです。なお、前述の墨書には「大日如来」の名も併記されているため、18世紀初頭には、大日如来像と四天王像はともにあったことが分かりますが、制作年代や作風が異なるため、大日如来像と四天王像は本来別々の像であったと考えられます。

  • 餅を食べないお正月

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  • 蓮台寺温泉入口

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    昔はこのあたりに「蓮台寺温泉入口」の看板が立っていました。 写真:絵葉書「伊豆蓮台寺温泉名所 入口」(提供:市史編纂室)

  • 蓮台寺県道沿いの街並み

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    湯の華小径の入口あたりから県道118号線を西に見た風景です。 建物は時代とともに変化しましたが、遠くに見える山の稜線は変わらずに残っています。 写真:絵葉書「伊豆蓮台寺温泉名所 温泉場市街の一部(日新社)」(提供:市史編纂室)

  • 中之瀬

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    中の瀬バス停あたりから北を見たまち並みです。 写真左側に見えるなまこ壁の家は現在も残っています。 写真:中ノ瀬(転載:『伊豆鑑』)

  • 立野橋

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    これは蓮台寺温泉小唄の歌詞と、立野橋の手前で踊る芸妓の女性たちが写る絵葉書です。 奥の方には下田富士が頭をのぞかせています。 写真:絵葉書「伊豆蓮台寺温泉小唄入 一」(提供:市史編纂室)

  • 南豆馬車鉄道

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    昔、この近くに金鉱山があり、下田まで馬車鉄道を使って運んでいたことから、馬車道の名前が残っています。廃線後の今でも、その線路跡に沿って温泉のパイプラインが引かれ、蓮台寺の温泉が下田まで供給されています。 写真:絵葉書「鉱石馬力運搬(蓮台寺鉱山)」1910年(大正期頃)(提供:市史編纂室)

  • 浜口陽三(新湯旅館跡)

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    浜口陽三は、 銅版画の一種であるメゾチントを復興した、カラーメゾチント技法の開拓者です。  和歌山県有田郡広村(現在の広川町)に生まれました。浜口家は代々「儀兵衛」を名乗るヤマサ醤油の創業家であり、江戸時代に銚子に拠点を移し、300年以上にわたり醤油醸造を家業としてきました。陽三は10代目浜口儀兵衛の三男にあたります。  戦後間もない昭和21年、浜口陽三が37歳のときに下田の蓮台寺に来て新湯旅館に2年程滞在し、山羊を飼うなど独特な生活スタイルを送っていたそうです。ある時は、自分の家族や親せきを何人も連れて高級車でやってきて「ここが僕のいた家だよ。僕の部屋はここだったんだよ。」と一生懸命に説明したそうです。

  • お吉が淵

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    お吉ヶ淵は幕末悲劇のヒロイン「お吉」が身を投げたといわれる場所です。 毎年お吉の命日である3月27日には、このお吉ヶ淵と、お吉の墓所のある宝福寺で供養祭「お吉まつり」が行われます。 「お吉」は吉本名を「斎藤きち」といい、17才で「ハリス」の侍妾となり、人生を大きく変えられてしまいました。「ハリス」のもとを去った後、横浜などを転々とし、下田に戻って小料理屋「安直楼」を開きましたが、次第に酒に溺れ、明治24年3月27日51才にして稲生沢川にその身を投じました。この事件は、幕末の開国に伴う悲劇として小説や舞台などでも知られています。お吉が身を投げた淵は、のちに「お吉ヶ淵」と呼ばれるようになりました。 写真:絵葉書「お吉が淵」(提供:市史編纂室)

  • 「トロ橋」から「温泉パイプへ」

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    大正末期、「下田に熱い温泉が欲しい」という願望を込めて、河内に温泉井戸を掘って下田に引湯する計画が立てられ、昭和10年には下田まで引湯することができました。下田への到着温度は43℃で、湯量は300ℓ/分であったといわれています。 戦後、観光資源としての温泉に対する願望は益々強くなりました。 蓮台寺鉱山の坑内温泉は噴出当時、65℃の温度があったといわれており、湯量も多かったため、昭和26年初め頃からこの温泉を下田へ引湯し、ホテル等へ分湯しよう計画が立てられました。昭和27年の夏、数々の問題を乗り越えて、高温の温泉を下田へ引湯することが実現しました。その後、温泉井戸の開発が進み、現在では、蓮台寺地区、河内地区、相玉地区から旧町内、柿崎、白浜、須崎地区まで給湯を行なっています。 中でも、蓮台寺地区にある掛橋源泉は2,000ℓ以上/分の湯量を誇り、下田市内の源泉の中でもトップクラスの湯量であるため、下田の温泉の主力源泉となっています。 写真:絵葉書「伊豆中之瀬風景(其二)」(提供:市史編纂室)

  • 子育て地蔵

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  • 吉田松陰寓寄処(県指定文化財)

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    幕末、ペリー艦隊の黒船に乗船し海外渡航を企てた吉田松陰が数日間寄居した場所で、静岡県の定文化財に指定されている史跡です。 参観料:大人100円、小中学生50円、グループ30名以上1割引 時間:9:00〜17:00(令和3年4月1日より10:00〜16:00に変更) 吉田松陰寓寄処(静岡県指定史跡)指定年月日:昭和16年10月27日指定 日米和親条約付録条約の交渉・締結のため下田へ来港した米国ペリー艦隊への密航(黒船密航)を企てた吉田松陰が、黒船密航直前まで滞在した場所。当初、下田町の旅館に滞在していたが、宿の主人から皮膚病の湯治に蓮台寺温泉を勧められ、そこで現吉田松陰寓寄処(旧村山邸)の当主である村山行馬郎と出会い、密航直前まで支援を受けることとなる。 写真:絵葉書「吉田松陰を寄寓せしめて夙に郷黨に名高き行馬翁の邸宅(蓮台寺名所)(松屋商店発行)」(提供:市史編纂室)

  • 湯谷山広台寺

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    かつては蓮台寺の高台「那岐里(ナキリ)山」の上にあり、「桂昌庵」という真言宗の小さな庵でした。慶長17年(1612)に現在地に移り、曹洞宗に改宗、名も「湯谷山広台寺(コウダイジ) 」と改めました。 安政元年(1854)に安政大地震による大津波が下田の町を襲った際に、日露和親条約の条約交渉として下田に滞在していたロシアのプチャーチン海軍中将と江戸幕府全権の勘定奉行川路聖謨(カワジトシアキラ)が一時的に避難した寺でもあります。 また、明治4年(1871)、神仏分離から廃仏毀釈の運動が起こり、明治6年(1873)に神躰検査が行われた際に、難を逃れるため天神神社の大日如来坐像が広台寺に遷され、一時的に匿われました。 写真:絵葉書「広台寺」(提供:市史編纂室)

  • 松枝翁の碑

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    幕末、明治、大正、昭和の4つの時代を生き抜いた松枝じいさん(77歳)は、蓮台寺の人々から正直者として大変尊敬されました。有志により石碑が建てられたことから、正直者が尊敬される土地柄を目指した蓮台寺の人たちの思いが伝わります。石碑の裏には以下のような内容が書かれています。 【石碑裏の碑文】 私共の常に敬愛して居た正直爺さん又左エ門翁の一生は、全く敬愛と奉仕に捧げられたものである。而も翁の生涯は決して坦々たるものではなかった。世の所謂不幸と云う不幸には次から次へと見舞われたが、一片の不平不満もなく、老いの身ながら炭を焼き、石を切り、愚痴もこぼさず、何時も感謝の生活を続けられた。翁は石垣の築造には非凡の腕前があって、喜んで方々のを頼まれたが、報酬などを受けようとする気持ちがなかった。貧乏で遠方の神詣でさへ思うに任せぬから、せめて皆様の歩く道を少しでもよくして上げたいと一人コツコツと新道を開いたり、悪い道をいつの間にか修理して置いたりしてくれた。誠に稀に見る至性(誠)純徳の人であった。大正15年6月賀茂郡自治会長から賞状と金一封を以て、その篤行を表彰せられたのも、信(真)に当然のことである。 翁は本名実吉。正しい道を力強く踏み占めて、昭和3年5月19日愉悦に満ちた大往生をとげられた。 享年77歳 真の人格者として、長く郷党の範とし、誇りとすべきである。 写真:1930年(昭和5年)松枝翁之碑が建立されたとき撮った写真と思われれる(転載:『20世紀の蓮台寺』)

  • 大日如来坐像(重要文化財)

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    大日如来坐像(国指定重要文化財)指定年月日:大正9年4月15日 寄木造・彫眼・漆箔 像高114.0cm 頭体の主要部分を、ヒノキの左右二材を正中線で寄せて造る寄木造の像。 大日如来は、真言密教で宇宙の真理そのものを象徴する仏で、廃絶し、現在地名に名を留めるのみの蓮台寺の本尊と伝えられています。瞳を彫眼とする点は古様で、丸顔で穏やかな面貌は平安後期に盛行した定朝様を示していますが、引き締まった体躯、深く写実的な衣文、側面に巻毛をあらわす装飾的な髻などは鎌倉時代の特徴で、優れた造形から、鎌倉時代の初期、正統な仏師により、古風を残しながら制作された像と考えられます。伊豆南部に伝わる本格的な仏像であり、この地域の歴史を考える上でも貴重な作例です。

  • 身代わり地蔵さま

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  • 高根の地蔵尊

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