古地図でめぐる豊岡の城下町
この古地図は、元禄15年(1702)に作成された豊岡城下図の写しとされています。絵図に「元禄十五年壬年二月日」と記されていて、元禄15年に作図したことが確かなものです。
豊岡城下町は、羽柴(豊臣)秀吉の配下であった宮部善祥房継潤が、天正8年(1580)に豊岡城に配されて城下町を整えていったというのが始まりです。寛文8年(1668)、移封(いほう=諸大名の領地を他へ移すこと)されてきた京極氏によって城下町が再編されました。この絵図には、元禄期の京極豊岡藩の完成された城下町全体のようすが描かれています。
円山川を外堀とし、領主や武士が居住する城の中枢部は内堀によって固められていました。その範囲は東西800m、南北480mの広大なもので、出石城の2倍以上もありました。内堀の外側には城下町が広がっていて、そこには寺町があり、商人、町人など庶民の居住区が広がっていました。
update date: 2022.03.01
このマップ(地図)を見るNumber of spots : 11spots
-
興国寺跡
一国一城令が発布されたあとに移封してきた京極高盛は、幕府からの支度金二千両を元手に築城をなんども願い出ましたが、かなえられませんでした。高盛の後を継いだのは、末弟の高住でした。高住は、豊岡陣屋に匹敵する広さを持つ大寺院を宝谷の地に築きました。興国寺があったのは、城の縄張りの検討や発掘調査などによって、現豊岡エネルギー(株)一帯と東側は法務省の官舎あたりまで、北側は2021年4月開校の芸術文化観光専門職大学の一部くらいまであったと考えられています。豊岡陣屋から見ると南西方向の裏鬼門にあたります。 大雲山興国禅寺が建立されたのは元禄13年(1700)頃。当時の文化的ステータスでもあった黄檗宗の寺院で、本山である萬福寺(京都府宇治市)から代々僧が晋山しています。兵庫県立歴史博物館所蔵の「但州小驪山勝景図巻」には隆盛期を迎えた興国寺が描かれており、出石の歴史学者桜井勉に「七堂伽藍あり、但馬第一の荘厳なりき」と言わしめた但馬随一の大寺院でした。また、高住は興国寺の眼下に正法寺池を造成し、弁天池までしかなかった内堀をつなげて、より強固な平城としました。 興国寺は明治2年(1869)、新時代の到来とともに藩寺としての使命を終えて廃されました。その後、一時は藩校「稽古堂」に転用していたようですが、廃藩に伴って豊岡県庁のための官舎に改修している最中、失火によって全てが焼失したと伝えられています。
-
和久田口
豊岡城下から内郭(中枢部)に入るには、決められた場所からしか出入りできませんでした。豊岡城には5門あり、城の北側に和久田口門、東側に宵田町口門と小尾崎口門、南側に三坂口門、西側に日月(ひつき)坂口門です。このうち和久田口門は豊岡城の大手門(正門)で、絵図から外枡型虎口で敷地内には番所ともう一つ建物があったことがわかります。現豊岡小学校の北門付近にありました。平常時には現在戸牧川になっている堀に橋が架けられ、戦さになると橋を切り落として内郭を防御しました。和久田口には和久田の鐘があって、藩の武士はこの鐘を聞いて登城します。早打ちの鐘がなると非常召集。これに合わせて社寺の鐘も打継ぎされ、城下町全体に早鐘が鳴り響いたということです。 写真の石柱を見ると、「わく田はし」と「⬜︎⬜︎二年十一月架」の文字がわかります。元々は1本だったようですが、折れてしまって年号が書かれた部分が欠けてしまっています。道路工事の際に捨てられようとしたものを、先人が貴重なものだからできるだけ当時の場所近くに立てるよう進言されて残ったものです。
-
豊岡城址 神武山
豊岡高校の北側にある標高48.7mの丘陵は神武山と呼ばれ、桜の季節などは市民が憩う神武山公園として知られています。ここには豊岡城が築かれていました。豊岡城は、羽柴(豊臣)秀吉の配下だった宮部善祥房継潤が築城した山城です。中世にはすでに竪堀と小さな曲輪を持つ木崎城(城崎荘)があり、宮部氏から杉原氏にかけて改修が重ねられて拡張され、石垣を持つ城が築かれていたことがわかっています。 京極氏が豊岡に移封した時には、すでに一国一城令が発布(慶長20年(1615))されていたため城を築くことができませんでした。しかし絵図には本丸、矢萩の丸、笠丸などの曲輪と呼ばれる平坦地が描かれ、本丸の西端に石垣を持つ天守台、東側には石垣と石段で防御する虎口があったことがわかります。また東に延びる大きな曲輪には、北端に50mもある長石垣と櫓台が築かれていました。明治以降、尋常中学校や病院用地として開削され、上水道の給水タンクの設置、公園化などによって改変されてしまったため、絵図でしか豊岡城を知るすべはありません。
-
小田井縣神社跡
祭神は国作大己貴命(クニツクリオオナムチノミコト)で、この地域を開拓した祖神として祀られています。豊岡陣屋からみて北東の方向にあり、ここは鬼門の位置にあたります。神社の東側を流れる大川(円山川)は暴れ川として知られ、有史以来、住民は幾度となく洪水に悩まされてきました。大正9年(1920)に起工された円山川治水工事に伴い、昭和6年(1931)に西側約100mの現位置に移転されました。神社とともに周辺にあった小田井区の200軒余りも移転を余儀なくされました。 昭和11年(1936)末社として柳ノ宮神社が創設され、地場産業である鞄(柳行李)の発展・恩恵に感謝する豊岡柳まつりが、毎年、8月1日・2日に行われています。
-
京口の大渡し
京口という地名は各地に残されており、姫路・篠山・三田を始め、近くでは出石や養父市八鹿町などにもあります。文字通り京(京都)への出入り口だったところです。京口(現在は城南町)は豊岡城下町の南端であり、まずここで外部からの侵入を防いでいました。絵図には川幅が百尺(約30m)という表記が見られます。人々は石段(イト)を下り、小舟に乗って向かいの塩津村に渡って、またそこから歩いて移動しました。この付近の大川(円山川)は「大磯の大曲り」と言われていましたが、昭和初期に行われた円山川大改修によって直線化されました。この工事によって塩津から大磯にかけて、本流から切り離された旧川(川の跡)が残っています。 絵図には、大渡しに進む道の両側には町屋という文字とともに、武士の名前や大磯側に「木下勘兵衛組」「生駒伝之丞組」、反対の九日市側に「内田半左衛門組」「種村勘之丞組」などが記されています。彼らは城下の入り口を護るために配置された人たちです。また、この場所に建てられていた常夜灯は、豊岡高校の敷地内にある達徳会館の脇に移設されています。
-
石束家(大石りく生家)住居跡
絵図が描かれた元禄15年(1702)は、奇しくも赤穂浪士の討ち入りがあった年でもあります。赤穂藩の筆頭家老だった大石良雄(よしたか)の妻は、京極藩筆頭家老だった石束源五右衛門毎公(つねとも)の女(むすめ)理玖です。理玖は寛文9年(1689)に現在の京町に生まれました。父毎公の家は、石碑が立っている北側の現在駐車場になっているところから、ひまわり公園の南側までの一角にありました。毎公は石束本家を継いでから、「大石陸女生誕の地」記念碑の南側一帯の広大な屋敷地に住まいを移しました。 したがってこの記念碑は厳密にいうと生まれた場所ではなく、理玖が身重の身で大石良雄の元を離れるいわゆる「山科の別れ」を経て、帰豊後にしばらく住んだ父宅付近に建てられているということになります。理玖はここで三男大三郎を出産しました。
-
堀家住居跡
豊岡陣屋の周囲は、武家屋敷が取り囲んでいました。豊岡小学校の用地には、豊岡藩の重臣だった舟木・田村・家所・前場、その北側には岸田・高階などの屋敷が並んでいました。現在、めぐみ公園がある場所には江戸時代の終わり頃、堀氏の屋敷があったようです。公園の南側には小さな門がひっそりと建っていますが、これが堀家の門であったと言われています。 現在は市民の憩いの公園になっており、ここには豊岡市指定文化財(天然記念物)である樹齢500年と言われる立派なシイノキがあります。堀家の住人もこの木を見上げたのでしょうか。
-
庶民の道
城下は、堀や柵などによって武家屋敷と町屋に分けられていました。この往来には5つの門にある番所を通らなければなりませんでした。南から城下に入る場合は、小尾崎口の番所を通る必要がありました。宵田より北に行くには、大川(円山川)左岸に沿った道を通って宵田町口の番所を経る必要があります。武士はそこを通過して中核部分に進むことができました。ところが、庶民がこの間の行き来をするには、川沿いに付けられたすれ違うだけの幅しかない細い道しか通れませんでした。明治時代に入って豊田の町が開発されるまで、大量の物資を運ぶのにはとても不便でした。 大川の増水から中枢部を守るために、この道と西側の中枢部との間はかさ上げされ、土留めのための玄武岩の石垣が積まれています。昭和後期に行われた道路敷設などによって川筋が変わってしまいましたが、この道を歩くと、今も何カ所かに石垣が残っていることが確認できます。
-
弁天池
豊岡城の内郭(中枢部)を守る内堀は、北を周る戸牧川と、南を周る豊岡高校のグランドの場所にありました。江戸時代、戸牧川は大きく湾曲して豊岡小学校の北側を流れていました。本来の川筋を意図的に曲げてクランク状にしたと考えられています。円山川との分岐点近くには宵田町口、豊岡小学校のあたりには和久田口が設けられ、内郭への出入りを番所で見張っていました。さらに戸牧川は西に向かい、山王権現(日吉神社)の鎮守する丘陵あたりから広くなって弁天池になります。現在のNTT西日本兵庫支店但馬別館あたりです。絵図をよく見ると弁天池に小さな島があり、祠のような建物とその横に「弁財天」の文字が描かれています。弁財天は水にまつわる女神で七福神の一つとして信仰されており、安芸の宮島、近江の竹生島、相模の江ノ島など、水に由来するところに祀られます。 弁天池は京極氏が移封する以前にすでにあったようです。京極氏は陣屋とほぼ同規模の興国寺を創建し、その面前に広大な正法寺池を造成して弁天池とつなぎました。これによって平城としての豊岡城の規模が大きくなり、防御はさらに強固になりました。
-
豊岡陣屋(藩庁・領主館)
豊岡陣屋は豊岡城(現神武山公園)の北麓、現在の豊岡市立図書館の辺りにありました。東西200m、南北80mの広大な敷地を持ち、石垣を築き、門や塀などで守られていました。図書館の新築の際には発掘調査が行われていて、地下から織豊期(天正8年(1580)〜)、杉原期(慶長2年(1597)〜)、そして京極期(寛文8年(1658)〜)の3つの時代の建物や石垣、門、竃などが見つかっています。 京極高盛が舞鶴田辺藩から移封してきた時、すでに一国一城令(慶長20年(1615))が発せられていて、但馬では出石にのみ城が許されていました。移封に際して江戸幕府から二千両という大金が支度金として支給されていましたが、結局、築城は許可されませんでした。あとを継いだ2代目豊岡藩主高住は、城に代わる藩の寺を建てることに情熱を注ぎます。
-
養源寺
曹洞宗大原山養源寺は、豊岡随一の寺院で、絵図には三方を囲む堀が築かれていたようすが伺えます。絵図をよく見ると養源寺のほかに、光妙寺(光行寺)、小田井縣神社にも堀が描かれています。これらの神社や寺院は、北東側から入ってくる外敵から城下を守る役割があったと考えられます。また、円山川に沿って立正寺、来迎寺、自性院が並んでいて、いわゆる寺町を形成しているのがわかります。寺町はふつう城の鬼門(北東)に造られます。 養源寺には大石良雄の妻理玖の祖父、石束源五右衛門毎術(つねやす)の墓を祀っています。開山以来、幾度も被災していますが、大正14年(1925)の北但馬地震(北但大震災)によって鐘楼と経蔵を残して、ほぼ全てが焼失してしまいました。現在の建物のほとんどは、昭和2年(1927)に再建されたものです。再建にあたっては、移転に反対していた周辺住民からの強い要望によって、境内を南北に貫通する直線道路が新設されました。