幕末松本藩古地図

幕末松本藩古地図 thumbnail

幕末の松本藩の地図を現在の地図に合わせて、位置関係、縮尺をできるだけ正確に制作しました。
歴史好きな人、松本を訪れた人はよりわかりやすく古地図に合わせて城下町松本を散策できることと思います

update date: 2021.10.05

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Number of spots : 66spots

  • 大名町

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    【町人は入れなかった武士の町】大手門から真直ぐ北に伸びた道を大名町(だいみょうちょう)といいます。大名小路とも呼ばれていたこともあります。道幅は6間(約11メートル)ありました。大名町の通りの東側には4軒、西側にも4軒(後に7軒に分けられる)と、大きな敷地の武家屋敷が建っていました。ここに家があった武士は、藩の中でも高い役職の人達です。一番大きな屋敷を持っていたのは、享保13年(1728)当時に1000石だった林忠左衛門でした。城代家老野々山氏に次ぐナンバー2でした。大名町に入ることができるのは武士だけで、町人は勝手に出入りできませんでした。三の丸の南にあった門は大手門と呼ばれ、松本城の正門になっていました。ここには櫓の上に大きな門が一つ、その前に桝形ますがた)という広場、さらにその外側にはもう一つ門がありました。警備をする番人がいる番所も二ヵ所にあって、厳しく守っていました。現在、本町から来た道が千歳橋(せんさいばし)を渡ってS字型に曲がって大名町へ繋がっているのは、江戸時代の大手門桝形がここにあった名残です。東側の広場になっているところは、江戸時代には桝形と総堀があったところで、平成24年に発掘調査をしたところ、石垣の跡と埋められた堀が地下から出てきました。その様子が掲示板で示されています。女鳥羽川から南が町人達の住む町になっていました。【出典】国宝松本城HP

  • 伊織霊水

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    【農民の味方だった鈴木伊織の墓のそばに出る井戸】井戸の横に大きな石碑が2つ立っています。向って左側の碑は鈴木伊織<span class="kana">(すずきいおり)の墓と伝えるものです。鈴木伊織は、水野氏に仕えた武士で、多田加助(ただかすけ)たちたくさんの農民が参加して、年貢の量を増やすことに反対して起こした貞享(じょうきょう)騒動のときに、農民たちに同情した武士のひとりだったといわれています。伊織が亡くなった時、農民たちが見舞いに行こうとするのを藩は禁止した記録が残っています。伊織の墓のそばに出ている井戸なので、その名をとって伊織霊水と呼ばれています。井戸の東側には墓地がありますが、江戸時代にはここに本立寺(ほんりゅうじ)というお寺がありました。このお寺は西側に入口があったので、中町からお寺まで入ってくる通りを本立寺小路とよんでいました。【出典】国宝松本城HP

  • 中町通り、食いちがいの道

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    【商店が並ぶ中町、食いちがいの道で城下の守りも】女鳥羽川の南にある、東西に長い通りが中町(なかまち)です。江戸時代には、本町・東町とともに、親町三町(おやまちさんちょう)と呼ばれ、松本城下町の大事な町の一つでした。善光寺へお参りに行く人達が通る道でもあったので、中町の道は善光寺街道とも呼ばれていました。江戸時代には、今と同じように、お店で物を売る商売をする人達や物を作る職人さん達が店を出していました。通りを歩くと、土蔵(どぞう)造りのお店が目に入ります。これは明治時代に続いて起きた火事から学んで、燃えにくい建物として土蔵を造ったことによります。 中町へは、いくつかの道が交わります。そのうち北側から交わる道を注意して見ると、北へ抜ける道が南側から来る道とずれていることに気がつきます。これは「食いちがい」という道の付け方です。突き当たったら先に道がない「丁字路(ていじろ)という道の形とともに、敵兵が簡単に城に着くことが出来ないようにした、城下町の守りの仕組みです。【出典】国宝松本城HP

  • 六九町

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    城外武家屋敷の一町名。大手門前から女鳥羽川北側に東西にのびる町。4代目松平氏がこの地に54頭分の厩を建てたことから、「五十四疋立ナルガ故ナリ」と名付けられた。明治からは商店街として賑わった。

  • 柳町

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    往古、この辺りを泥町といった。小笠原貞慶が天正13年(1582)から15年かけて城の町割りを行い、この地に侍屋敷を建てた。町名は柳の木が多くあったことによる。明治以降は大柳町と呼ばれた。

  • 安原町

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    町人町・東町の枝町。古くは安佐端野(麻葉野)原と呼ばれていた。小笠原貞慶が天正10年(1582)に深志城を回復し「松本城」と改め、同13年に町割りを行い安佐端野原の前後2字をとって安原町と名付けた。

  • 宮村町

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    町人町・中町の枝町。南端に宮村大明神があり、信濃守護小笠原貞宗が暦応年間(1338〜42)に守護神として宮村の地に祀ったという伝承がある。江戸初期の町割りにより奉公人や職人などが多く住んだ。

  • 本立寺小路

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    旧中町上ノ丁から本立寺の山門にいたる参道だった。「貞享義民騒動」の多田加助助命の特使・鈴木伊織の故事に因む「伊織霊水」は、廃仏毀釈で廃寺となった本立寺境内にある。

  • 袋町

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    水野忠直の時代に造られた城外侍屋敷で、江戸末期には60石取り前後の武士が住んでいた。この町は南から入ると道の途中に「鍵の手」が残り、行き止まりとなる城下町特有の袋小路である。

  • 一ツ橋小路

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    松本市はかり資料館の西の通り。中町から一ツ橋に通じる小路で、宮村町と「くいちがい」なっている。古くから肴店でにぎわい、藩御用達の商人は、ここから東門を通って城内へ入ったという。

  • 東町

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    城下町・親町三町の一つで城の東側にあやる。善光寺街道に沿い木銭宿や商人・定飛脚が泊まる旅籠があり、宿場町として栄えた。

  • 博労町

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    町人町・本町の枝町で、城下の南出入り口のため十王堂がおかれていた。古くは貢馬を集めた所で「馬市」も行われた。馬町とか馬喰町といい、元禄6年(1693)に博労町と改められた。

  • 萩町

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    善光寺街道沿いの北の武家屋敷地で、旅人や物資を運ぶ中馬が行き交う道であった。道の左右に萩を植えて垣根とし、侍屋敷を遮ったのでこの名がつけられた。ゆかしい町の名は今に伝えられている。

  • 同心町

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    城外武家屋敷の一町名。善光寺街道沿いに同心番所がおかれていた。なお、町人町・西に入るところには、同心が住んでいた「同心小路」がある。

  • 天白町

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    この町の天白社は、天正年間(1573〜92)に入城した石川数正が、城の鬼門除けとして出身地岡崎より勧請したという伝承がある。水野氏の時代に城外武家屋敷が造られ、社にちなみこの町名となった。

  • 天神小路

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    町人町・本町五丁目から東に入ると天神の社が見通せた。小笠原秀政時代には小料理屋が軒を連ねにぎわった。現在も小料理屋などが多い街並みである。

  • 観音小路

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    和泉町から大安楽寺の観音堂に通じる小路だったので、この名がついた。真言宗・大安楽寺は、観音霊場信濃百番・三十三番札所めぐりの第一番札所となっており、歴代城主の祈願所であった。

  • 伊勢町

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    町人町・本町の枝町。城下西の出入り口にあたり、十王堂がおかれていた。由来は天正年間(1573〜92)に小笠原氏が木沢正麟寺の伊勢神宮をこの地に移したため。野麦街道の起点として古くから商業地であった。

  • 出居番町

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    出居番とは口々番所や筏番所へ交代で詰番に出る役所のこと。水野氏の時代におかれ、それらの任務にあたる武士が居住していた。

  • 田町

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    大門沢の左岸の低湿地で水田だったところに、慶安年間(1648〜52)水野氏により城外武家屋敷が設けられた。与力・同心など100石前後の住む町であった。

  • 上土町

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    松本城東門の堀の土を上げたところから町名となった武家屋敷地。戦前は活動写真、洋食・洋菓子店、ダンスホールなど、松本一の歓楽街だった。大正時代の特徴ある建物が残っている。

  • 御徒士町

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    武士は職分により住居地が定められ、城の北にあたる通りの両側には徒士屋敷が軒を連ねていた。数少ない武家住宅「高橋家住宅」(市重要文化財)が保存公開されている。

  • 餌差町

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    城下の東の出入り口のため、十王堂と木戸がおかれ町番がいた。百姓や町人はこの木戸からの乗馬は認められなかった。町名は、藩主の鷹の餌(小鳥)を差し出す役目の「餌差」をおいたことによる。この町名の前は「山辺小路」と呼ばれた。

  • 裏小路

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    東町大橋から大手橋(千歳橋)までに女鳥羽川左岸で、中町の裏にあたる。天保3年(1832)犀川通船の運行により日本海の海産物が運ばれるようになると、通り沿いは魚屋などが軒を並べた。

  • 和泉町

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    町人町・東町の北に続く枝町。成り立ちは天正13年(1585)頃の古い町。由来は清水が湧き出たからとも、倉品和泉という人が住んでいたからともいわれる。家数も多く職人町として栄えた。

  • 伊勢町地蔵堂

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    現在の地蔵堂は分銅町(ふんどうちょう)の公民館の脇にまつられています。伊勢町は城下町へ入る西の入り口でしたから、十王堂が置かれていたはずです。元禄年間の絵図をみると元禄5年(1692)に地蔵堂を建てたと書かれていて、江戸時代の前期に地蔵堂に変わった様です。その場所は、伊勢町の西側で、現在まつられている地蔵堂の場所より東方です。現在まつられている石の地蔵像には元禄15年の年号が彫られています。【出典】国宝松本城HPより

  • 地蔵清水

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    この地は、中世には市が立ち「市辻」と呼ばれにぎわっていた。小笠原氏による城下整備の際に清水の湧く辺りから石の地蔵尊が出土したという。地蔵尊は蟻ヶ崎の生安寺にまつられている。

  • 片端町

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    総堀の外の武家屋敷地で、東側のみ屋敷割されたためこの名がついた。現在、堀にかかる深志橋は、かつては赤い手摺に黒い銅の擬宝珠を飾った古風な趣があった。桜の名所でもある。

  • 土井尻町(どいじりまち)

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    三の丸の西南部で、城郭の外を巡る「土居」の終わる所にあったのでこの名がつけられた。中級武士の屋敷が並んでいた

  • 飯田町

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    町人町・中町の枝町。慶長18年(1613)に城主小笠原秀政が飯田より入部した際に、飯田かわ来た侍衆や奉公人・職人をおいたため。享保年間には鋳物師・紺屋・石屋・鍋屋などの職人が住んでいた。

  • 小池町

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    町人町・中町の枝町。慶長18年(1613)小笠原秀政が飯田より入部した際に南半分を奉公人の屋敷にした。町名は軍学兵法の達人・小池甚之丞の名前からとも、この辺りに小さな池があったともいわれる。紺屋、桶屋などがあった。

  • 北馬場町

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    城下三馬場の一つで総掘北側に騎馬修練が行われていたため町名となる。東の入口に番所がおかれていた。柳の大木の下に「北馬場柳の井戸」がある。「信濃の国」を作詞した浅井冽邸後が道の北側にある。

  • 葵の馬場

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    城内三の丸にあった葵馬場にちなむ町名で、騎馬の修練が行われていた。戸田氏ほ藩祖康長が徳川家康から許された紋章の「葵」をこの土堤に植えたことがその名の由来ともいう。

  • 牛つなぎ石

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    松本が武田信玄の支配下にあった時代。敵対関係にある越後の上杉謙信が、南からの塩の道を今川、北条に断たれて窮地にあった信玄に塩を送りました。ここから「敵に塩を送る」と言う格言が誕生、義侠心のある行為に対して、この格言がよく使われています。永禄11年(1568)1月12日、本町と伊勢町の角「牛つなぎ石」の場所に、塩を積んだ牛車が着きました。 義侠心のある越後の武将上杉謙信公を讃え、感謝の日として、塩市の行事が誕生しました。明治になり、塩は国の専売となり、その後は松本が飴の生産日本一ということもあって飴市となって、一月の第二の土日に開催されています。今日では、全国あめ博覧会・即売会や歩行者天国、塩取合戦(綱引き)、時代行列、音楽隊パレード、太鼓連と演舞連の共演、など様々な催しが行われ松本の新春イベントとなりました。【出典】新まつもと物語HPより

  • 大門沢川

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    【城下を町と田畑に分ける大事な川】大門沢川(だいもんざわがわ)は、アルプス公園の西側から流れ出す「西大門沢川」岡田の諸窪もろくぼ)から流れ出す「大門沢川」本郷(ほんごう)の稲倉から水をとりいれた「東大門沢川」の3本の川がだんだんに合わさって南に流れ、中央図書館のところで1本になります。松本の城下の北西はこの大門沢川を境にして、東側が城下町、西側は村で田畑になっていました。大門沢川は、現在でもクネクネと曲がり、場所によっては直角に曲がって流れているところもあります。ふちは石垣になったり、コンクリートの壁になったりしていますが、川の流れる道筋は昔とそう変わっていないように見受けられます。水が出ると大水になることがあり、人々を困らせることがありました。右側が徒士町(おかちまち)の通りで、左側は沢村です。徒士町側には木戸があって城下町に怪しい人が入らないようにしていました。左側には賢忠寺(けんちゅうじ)というお寺が建っていました。【出典】国宝松本城HPより

  • 全久院跡と浄林寺

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    【殿様とともに松本に移った寺院】全久院(ぜんきゅういん)というお寺は、現在は松本市宮村町にありますが、江戸時代には女鳥羽川と伊勢町に挟まれたこの場所にあって殿様である戸田氏の祖先をまつっていました。当時、殿様と関係が深いお寺は、殿様が移封する度に、一緒に移っていきました。全久院も戸田氏が松本へ移封になった時、一緒に松本へ移って来ました。この場所には水野氏の時代に水野氏と関係が深い春了寺(しゅんりょうじ)というお寺があり、そこと代わったわけです。明治時代になって、松本藩ではお寺を無くす運動を激しく行いました。全久院はその波を大きく被り、建物を残して寺が無くなってしまいました。そこで、その建物を使って学校を開きました。それが開智(かいち)学校です。明治9年に開智学校は新しい校舎に建てかえられました。現在に残る重要文化財開智学校の校舎です。あの校舎は、元はここに建っていました。淨林寺(じょうりんじ)</span>は全久院の西にあるお寺で、小笠原貞慶の時代にここへ移り、石川康長が位牌をまつったと伝えますから松本の城下町が出来る頃からのお寺だったのでしょう。浄土宗の中心の寺として勢いがありました。正面にある山門は元禄年間(1688~1704)の建築と伝える四脚門(しきゃくもん)、弘化2年(1845)建築の鐘楼は諏訪の大工、立川和四郎富昌(たてかわわしろうとみまさ)が造り、竜の彫刻は松本の原田倖三郎(はらだこうさぶろう)</span>の作です。【出典】国宝松本城HPより

  • 鷹匠町・北馬場

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    【鷹匠たちが暮らした町と馬場】鷹匠町(たかじょうまち)は、松本城の北西側の総堀の外に水野氏の時代に出来た町だといいます。昔、鷹という鳥をつかって獲物を捕まえる狩りのやり方があって、それを鷹狩と呼びました。鷹狩は殿様たちの間で流行しました。藩の中には、鷹を飼い馴らして殿様が鷹狩をするときに役に立つように訓練する役目の人がいて、その人を鷹匠とよびました。鷹匠の人たちが住んでいた場所なので鷹匠町という名がつきました。<br>鷹匠町の東にあって、北の総堀に沿って真直ぐな通りを北馬場といいます。長さが約289メートルあって、昔ここが馬乗りの練習をする馬場でした。北馬場の通り東側に市の職員駐車場がありますが、駐車場の南の斜面に総堀の土塁の跡がしっかり残っています。【出典】国宝松本城HPより

  • 国宝松本城

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    姫路城、彦根城、犬山城、松江城とともに国宝に指定されている松本城は、天守の築造年代は文禄2~3(1593~4)年と考えられ、五重六階の天守が現存している日本最古の城です。 松本城は、戦国時代の永正年間に造られた深志城が始まりです。世が戦乱に向かうと、信濃の守護・小笠原氏は信濃府中と言われた井川にあった館を東山麓の林(今の里山辺)に移します。その家臣らは林城を囲むように支城を構え、守りを固めました。深志城も林城の前面を守るために造られたのです。その後、甲斐の武田信玄が小笠原長時を追い、松本平を治める拠点として深志城を選んで信濃支配を目指しますが、天正10(1582)年に小笠原貞慶が、本能寺の変による動乱の虚に乗じて深志城を回復し、名を松本城と改めました。 天正18(1590)年、豊臣秀吉が天下を統一すると、徳川家康を関東に移封しました。このとき松本城主・小笠原秀政が家康に従い下総へ移ると、石川数正・康長父子が代わって入城し、城と城下町の整備を進め、近世城郭としての松本城の基礎を固めました。 松本城は、松本の街のシンボルであり、市民の心の拠りどころでもあります。それは、その後のいくたびかの存続の危機を市民の情熱によって乗り越えてきた歴史があるからでもあります。【出典】新まつもと物語より

  • 松本城二の丸御殿跡

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    本丸御殿と二の丸御殿は、文禄3年(1594)頃に竣工した天守に続いて建てられたと考えられていますが、「河辺文書」の寛永10年(1633)の記事に「二之丸江御殿立・・・」とあり、二の丸御殿の建造に松平直政(寛永10(1633)~寛永15(1638)年の間松本城城主)が関わっていたとも考えられています。敷地は約1,900坪(6,270平方メートル)、建坪は約600坪(1,980平方メートル)、部屋数は約50ありました。本丸御殿があったときは、二の丸御殿は副政庁として機能していました。本丸御殿焼失後にそのすべての機能が二の丸御殿に移されましたが、本丸御殿の3分の2ほどしかなく狭いため、享保12年(1727)3月には、二の丸にあった郡所、町所を六九町へ、大名主・大庄屋の役人会所を上土に移しています。正式の入り口は南側正面の式台と玄関で、東側のほぼ中間に内玄関がありました。式台から上がった左手に広間があり、その奥に書院とそれに付属する部屋がありました。規模は小さいですが、本丸御殿と同様の仕組みです。本丸御殿ではこの奥が政治向きの場ですが、二の丸御殿では藩主の居所になっていて政治向きの場は藩主の居所の奥に設けられています。政治向きの場には、年寄・用人・元鎮といった重臣がつめる部屋とその書記役等の部屋がありました。台所は北東側に広がっていて、台所の水は掘り井戸と地蔵清水の井戸から樋により引いてきた水を溜めておく井戸がありました。明治になり御殿は筑摩県庁として使われていましたが、同9年(1876)6月19日午前3時半頃出火して全焼しました。昭和54年から発掘調査をし、御殿跡を平面復元して見学できるようにしてあります。【出典】国宝松本城HPより

  • 松本城黒門

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    【一の門】本丸へ入る重要な入り口です。この門を入るとかつては本丸御殿がありました。本丸御殿に通じる格調高い正式な門という意味で、当時の最高の色調である黒の名を冠して「黒門」と呼んだと考えられています。門の屋根を見上げると歴代城主の家紋の付いた軒丸瓦が見られます。これは昭和25年~30年に行われた天守解体修理の際、まだ使える瓦を保存して再利用したからです。その瓦を昭和35年、黒門一の門復興の折に使用したため、いろいろな城主の家紋の付いた軒丸瓦が見られます。この黒門の設計図がなかったため、設計を依頼した市川清作氏が、名古屋城の渡り櫓門を参考にしたと言われています。</span>【二の門と枡形】内堀を渡ったところにある門で、高麗門です。平成元年11月、この門とこれに続く控塀(ひかえべい)がつくられ、枡形が復元されました。この控塀には狭間(さま)が切られ、対岸の敵に備えて火縄銃で攻撃できるようになっています。【出典】国宝松本城HPより

  • 松本城太鼓門

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    太鼓門枡形の一の門をいいます。江戸時代は倉庫として使用されていました。明治初年に破却されましたが、平成3年から発掘調査、同4年に石垣の復元を完了し、同11年に土台石の形に合わせて柱を削り、太鼓門が復元されました。樹齢400年の檜、梁は140年の松を使用しています。太鼓門の建設年代は明確ではありませんが、石川氏の時代には完成していたと考えられています。門台南石垣の西土中から金箔瓦が発見され、市立博物館に展示されています。門の東側床に石落がついています。当時は通常朝6時に開け、夕方6時に閉めていました。【太鼓楼】太鼓門北側門台上には太鼓楼がありました。鐘と太鼓が備えられ、時を知らせる等、家臣に情報を伝える役割を果たしていました。この楼があったので門を太鼓門と呼びました。【玄蕃石】松本城最大の石で、重さ約22.5トン(玢岩/ひんがん)あり、松本の東、岡田か山辺の石といいます。松本城を築城した石川玄蕃守康長が運ばせた巨石で、運搬の苦労を物語る伝説が伝えられています。康長の名にちなんで玄蕃石と呼ばれています。【出典】国宝松本城HPより

  • 松本市立博物館

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    松本市立博物館の前身は、明治39年、当時の松本尋常高等小学校で開館した「明治三十七、八年戦役紀念館」にさかのぼります。その後松本市立博物館と改称し昭和27年には長野県ではじめての博物館法による登録を受けました。昭和43年「日本民俗資料館」として新たに開館。以来平成17年3月までの38年間、日本民俗資料館と松本市立博物館のふたつの名前を持つ施設として歩んできました。現在、松本まるごと博物館の中核施設として位置付けられています常設展示は、歴史・民俗分野の収蔵資料による「松本の歴史」「松本歳時記」」を中心に、「松本の伝統工芸」「松本ってどんな街」「松本まるごと博物館」等のコーナーがあり、フロア毎に特色ある展示をご覧いただけます。松本市営松本城大手門駐車場北側敷地一帯に移転改築することを決定し、整備に向け事業を進めています。令和5年度(2023年)開館予定です。【出典】新まつもと物語HPより

  • 松本城総掘跡

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    国宝松本城で現存する最後の総掘りです。新町の北門大井戸から総掘り沿いを南下していきます。深志橋を渡るとそこからは、旧町名「片端町」と呼ばれています。帯で東側のみ屋敷割りをされたことから町の名がついたそうです。【出典】新まつもと物語より

  • 松本城総構東門馬出跡

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    松本城に4つある中では一番広い馬出し三の丸から外へ出る場所で、東門と馬出しがありました。門の東には堀を渡る土橋が伸び、その先が馬出です。門は櫓門で3間(約5.4メートル)×6間4尺(約12.1メートル)の大きさ、門の西には広場があり、番所や井戸もありました。土橋の長さは18間(約32メートル)ありました。その先にあった馬出は、松本城に4つあった中では一番広いものでした。正面には土が盛られ外から中が見通せないようになっていました。出入り口は南と北にあり、北は堀を板橋で渡り、南は土橋で渡るようになっていました。北の橋を渡って右に折れると東町の通りに通じます。この通りを「下馬出し(しもうまだし)」といいました。【出典】国宝松本城HPより

  • 北馬場柳の井戸

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    【城の周りにあった3つの馬場の一つと、湧き出た井戸】松本神社の北側は、お堀がありました。その堀の北側は、東西の一直線の道で、馬場に使われていました。馬場は馬の稽古をするところです。城のまわりに、柳の馬場(市役所の東の通り)、葵(あおい)の馬場(松本神社の南の通り)と、この北馬場(きたばば)がありました。昔あった堀は、今は埋まってしまって残っていませんが、観察すると松本神社から東の方にむかって、裁判所、市の駐車場と土地が長方形に区切られていることが分かります。これが昔堀だった跡。松本市今井に市民プールが移る前は、ここに市営プールがありました。堀があるときから、水が湧き出しているところがあって、そこをのちに井戸にしました。それが市の職員駐車場のそばにある「北馬場の柳(やなぎ)の井戸」です。きれいな場所で気持ちよく水を汲んでもらおうと井戸の周りを清掃している方がいます。駐車場の奥の方(南側)で木がはえて高くなったところは、昔の土塁(土をもりあげた守りの装置)の跡です。道の北側には、県歌「信濃の国」を作詞した浅井冽(あさいれつ)が生まれた家があった場所があります。【出典】国宝松本城HPより

  • 西総掘土塁公園

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    【三の丸を囲んでいた土塁】城の一番外側の総堀を掘った土を内側に盛り上げて高い土の土手を造りました。それを土塁(どるい)といいます。江戸時代には三の丸のまわりを土塁がぐるりと周っていました。明治時代になってこの土塁は崩されて、堀を埋めるのに使われたり平にならされたりして、ほとんど無くなってしまいました。現在、土塁の跡が残っているところは、西堀と北馬場と大柳町(おおやなぎまち)(総堀の土塁)と片端町(かたはまち)と東町(捨堀の土塁)だけで、それも一部分です。この場所は、西にあった総堀の土塁がたまたま残されていて、発掘調査の後整備をしたものです。土塁の底の部分は17メートル、高さは3.5メートル、その上に2.5メートルくらいの塀が立てられていました。この土塁の西側は堀、東側は武士の住宅です。発掘した時の様子や、土塁の説明がパネルになっています。大手門の外、西側の通りを六九(ろっく)といいます。六九は1633年に松本の殿様になった松平直政が54匹の馬を飼うための馬屋を造ったことから付いた名(6×9=54)だと言われています。その後、戸田氏の時代になると、ここには藩の役所がつくられ、町や村の政治を行う場所になりました。町や村を治める「郡所」、幕府から預かった領地を治める「預所」、藩の会計を引き受ける「表勘定所」や「蔵」があって、そこに勤める武士たちが通ってきました。【出典】国宝松本城HPより

  • 縄手通り

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    松本城の南総堀(みなみそうぼり)と女鳥羽川(めとばがわ)の清流にはさまれて”縄のように長い土手”ということから由来している縄手通りは、江戸期の城下町松本の風景を再現しています。50近く並ぶ各店舗は懐かしい玩具や古民具・骨董のほか、駄菓子や飲食物を売り、見ているだけで楽しくなります。【出典】国宝松本城HPより

  • 女鳥羽川

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    女鳥羽川(めとばがわ)は、総堀の角を流れ、松本城の守りをさらに堅くしています。川南の町人町と川北の武家地を分けてもいます。【出典】国宝松本城HPより

  • 今町

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    【城下町の外に作られた新しい町】ここは、城下町の外になります。松本の城下町の西側は、西堀より西の方へは発展しませんでした。享保13年(1728)に、ここより西の方にあった白板村から人々が出てきて住んだことで出来たといいます(昭和8年版『松本市史』)。「今」というのは新しいという意味です。現在は、松本駅へつながる大事な道になっています。江戸時代には城下に入らないで蟻ヶ崎(ありがさき)や新橋の方へ行き来をするために道がここを通っていました。【出典】国宝松本城HPより

  • 念来寺の鐘楼

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    【長野県宝にもなっている江戸中期に建てられた鐘楼】念来寺(ねんらいじ)というお寺があり、明治になってお寺は壊されてこの建物だけが残りました。昔は大きな鐘がつるされていて、人々に時刻を知らせたり、大きな災害が起きたことを知らせたりするために鳴らされました。この建物は水野氏時代に建てられたもので、宝永2年(1705)に大坂の大工たちが建てたという記録が残っています。高さは約13メートルあり、仰ぎ見ると軒先には雲の模様が一面に彫られた板がはりこまれ、鐘が吊り下げられていたところには方位が書かれています。鐘は太平洋戦争のとき供出されて無くなってしまいました。この建物は江戸時代の建築として優れているということで、平成24年に長野県宝になりました。この鐘楼のわきに、妙勝寺(みょうしょうじ)が新しく本堂などの建物を建て、墓地とともに鐘楼を守っています。

  • 上横田町・下横田町

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    【城下町を守るための寺が並ぶ町人の町】城下町の東側には善光寺街道の通りである東町が南北にとおり、その東側には上横田町・下横田町が東町に並んでありました。東町と上下横田町とは小路と呼ばれる何本かの道で繋がっていました。東町も上・下横田町も町人が住む町でした。横田町の東側は城下町の外れになります。ここにはお寺が置かれていました。これらのお寺は、城下町が造られた時に、城下町を守るために計画的に造られました。他の城下町にもお寺が集まっている町があって、寺町という名の町になっているところもあります。松本では寺町と呼びませんが、ほかの城下町と共通しています。※写真は正行寺【出典】国宝松本城HPより

  • 本町

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    【松本城下のメインストリート】大名町が武士の町のメイン道路なら、本町(ほんまち)は町人の町のメイン道路です。本町には有力な町人が住んでいて、藩でもその人達に町の大事な仕事を任せていました。倉科氏が任された「本陣」や「問屋」、今井氏が任された「使者宿(ししゃやど)といった公の建物もこの町にありました。商人達の中には、各地から商品を集めたり、それを分けて各地へ送り出したりする問屋をやって大きく商売をしている人もいました。本町には西から伊勢町がつながり、その角には「牛つなぎ石」があって、一月の飴市の時には今も多くの人で賑わいます。また、東の方からは中町や生安寺小路(しょうあんじこうじ)(今の高砂通り)や鍋屋小路(今の「あがたの森」から来る通り)が繋がっていました。【出典】国宝松本城HPより

  • 餌差町の十王堂

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    【極楽か地獄か、裁判長の閻魔大王】松本の城下町の東西南北の入口にあたるところには十王堂じゅうおうどう)が置かれていました。東の出入り口にあたる餌差町(えさしまち)には地蔵菩薩をまつった「放光庵(ほうこうあん)の右側に「閻魔堂」があって十王をまつっています。城下の入り口を固める4つの十王堂のなかで、十王の像が残っているのはここだけです。なかでも閻魔大王の像は大きくて立派な像です。十王というのは、人が生きていたときに良いことをしたか悪いことをしたかを裁判する役目をもっていると信じられていました。閻魔大王はその中心で、いわば裁判長です。死んだ人が閻魔大王の前でいろいろ聞かれます。そして、その内容によって極楽にいけるか地獄に落ちるかが決まりました。ですから、人々から大変恐れられ敬われました。昔の子どもたちは、大人たちから「嘘をつくと、閻魔大王に舌を抜かれるぞ」と言われました。閻魔大王に舌を抜かれては大変だ、嘘を言わないようにしようと心に誓ったものです。【出典】国宝松本城HP

  • 深志神社

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    【盛大な祭りが城下町を盛り上げる】現在は深志神社と呼ばれています。昔は宮村大明神と天満宮の2社がありました。奥にある本殿の棟につく神様のマーク(神紋)を見ると、右は諏訪大明神の「梶の葉」の紋、左は天神様の「梅」の紋で、神様が別々であることを示しています。松本城下町の南側の人々が氏子で、昔から盛大なお祭りが行われました。各町内では舞台を引いて祭を盛り上げます。境内には、いくつかの御社があります。その中の一つが市神宮で、飴市の時、ここから市神様が本町へ出てそこにまつられます。歌を刻んだ石碑も多く建っています。なかでも狂歌堂真顔(きょうかどうまがお)の歌「立て廻す 高嶺は 雪の銀屏風 中に墨絵の 松本の里」は高い山々に囲まれた松本の街の冬景色を見事に表現した歌です。【出典】国宝松本城HP

  • 北不明門跡と松本神社

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    【普段は開かない門と、戸田氏の祖先をまつる神社】松本神社の北西には、城の門がありました。北側にあって普段は門を閉めてあったので、「不明(あかず)の門と呼ばれていました。同じように西側にあった門も西不明門(にしあかずのもん)と呼ばれて、通行はしない門でした。門の前には「馬出し(うまだし)」と呼ばれる場所があってお城を守る仕組みが造られていました。門は壊されて今はありませんので、井戸のところに場所を示す碑が建っています。戸田の殿様が松本へ来たとき、ここに神社を建てました。最初は「陽谷霊社(ようこくれいしゃ)」と言いました。だんだんに戸田氏の祖先にあたる人たちを合わせてお祀りし、5柱の神様を祀ったので、「五社(ごしゃ)と呼ばれるようになりました。正面右の建物が五社です。その左にこれも松本城に関係の深い「若宮八幡(わかみやはちまん)」を移し、一緒にまつるようになったので、昭和28年から「松本神社(まつもとじんじゃ)」と名前をかえました。氏子さんたちが、大きなケヤキの木が枯れないようにと世話をして守っています。境内の南西の隅に井戸が新しく掘られて、観光客の皆さんにも松本のおいしい水を飲んでもらっています。

  • 源智の井戸

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    源智の井戸は、松本市街地で1番有名な井戸でした。その由縁は城主小笠原家の家臣・河辺与三郎佐衛門源智(かわべよざえもんげんち)の持ち井戸だった。天保十四年に著された「善光寺道名所図会」には、「当国第一の名水」で、町の酒造業者はことごとくこの水を使ったと書かれている。歴代の領主は制札を出してこの清水を保護したこと伝えられるそうです。【出典】新まつもと物語HPより

  • 城主戸田家廟

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    地域の方々からは『「お塚』とよばれ親しまれている、この戸田家廟園は、石垣によって囲まれ、その中に赤い垣根に囲まれた塚があります。二重になった石垣の中にあるのが丹波塚です。その墳上に大きな五輪の石塔があります。碑の地輪に「祥雲院殿一運宗智大居士」と彫られ、前面に石の香鉢が供えられています。これが松本戸田家の祖、戸田丹波守康長の墓ですこの丹波塚の北には光行(後の6代)や光年(みつつら 後の7代)の墓、光領(みつむね 後の8代光庸(みつつね)の弟)やその室の墓、そのほか関係者の碑などがあります。光行の碑には「瑞光院殿祥巌道麟大居士」、光年の碑には「神龍院殿大光啓雲大居士」と彫られています。戸田家は、元和3年(1617)から寛永10年(1633)まで、享保11年(1726)から明治3年(1870)までと2度にわたって城主でしたが、城主で実際にこの廟園に葬られているのは、初代康長、後の6代光行、後の7代光年のわずか3人だけです。廟園の南側には、安政2年(1855)に最後の城主9代光則(みつひさ)によって廟所の寺としてここに移された前山寺(ぜんざんじ)の長屋門が残っています。とても趣きのある長屋門です。戸田氏の松本における菩提寺(ぼだいじ)は全久院で、先の戸田氏の時は中町に、後の戸田氏の時は本町の水野氏の菩提寺の春了寺跡に置かれましたが、この廟所には、その当時には寺はありませんでした。前山寺は明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の際、菩提寺の全久院とともに廃されました。しかし、廟域内には前山寺の歴代住職などの墓碑があり、廟域の西道を隔てて旧松本藩士の墓碑が多く残っています。江戸時代の大名家の墓制を知るものとして価値の高いものです。【出典】新まつもと物語HPより

  • 袋町の鍵ノ手

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    【袋の底のように見える道がある武士の街】城下町の北部には、善光寺街道に添って町人が住んでいた町があり、そことは別に武士が住んでいた町もありました。東門から出て、総堀の跡を左に見ながら、片側にだけ家があることからついた片端(かたは)という町を北へ行くと、片端と新町の境のところに、上馬出し(かみうまだし)と呼ばれている東へ行く道があります。その途中から北へ行く道が「袋町(ふくろまちと呼ばれる武士の町です。南の方から北の方を見ると、北の端で行き止まりのように見えます。ところが北の端まで行くと、道は右に折れてすぐまた左へ折れてそのまま続いていきます。このような道の形を鈎の手(かぎのて)といいます。見た目に底が閉じられた袋のように見えるところから袋町という名前で呼ばれています。攻めてきた敵は、この先は袋のようになっているから誰も守っていないだろうと思って油断しているところを、隠れていた兵が攻めかかるという仕組みです。 【出典】国宝松本城HPより

  • 飛龍山賢忠寺跡・首貸せ地蔵

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    【子どもの病気を治すと伝えられているお地蔵さん】大門沢川を渡ったところにお寺がありました。このお寺は水野の殿様が松本へ来たときに造ったお寺です。賢忠(けんちゅう)というのは水野氏の祖先の水野忠重(ただしげ)のことで、祖先の位牌をここにまつりました。また、殿様の夫人の実家の位牌もまつりました。水野の殿様が松本を去った後もお寺は続いていましたが、明治になって、お寺はなくなってしまいました。お寺の跡に、一体のお地蔵さんが立っています。このお地蔵さんは石で造られていますが、首と胴とが離れています。あるとき、近所に泥棒が押し入り、家の者を殺して物を盗っていきました。人々がかけつけると、家の中から赤ちゃんの泣き声が聞こえてきました。人々は「あっ、助かったものがいる。」と喜んで家の中に飛び込み赤ちゃんを抱き起こしました。すると、赤ちゃんの脇に石のお地蔵さんの首が落ちていました。人々は、「これはお地蔵さんが身代わりになって、この子を助けてくれたに違いない。」とお地蔵さんに感謝しました。それから、子どもが病気になるとこのお地蔵さんの首を家に借りていき、お詣りをして子どもの病気を治してもらうようになった、という話が伝わっています。賢忠寺の西側には、修験(しゅげん)の修行をする人たちがいた三蔵院(さんぞういん)という建物があって、そこには古い時代の大日如来や不動明王などの仏像がまつられています。また昔の村境に置かれて村の中に怪しいものが入ってこないように村を護っていた道祖神もまつられています。【出典】国宝松本城HPより

  • 高橋家住宅

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    【江戸時代の武士の家を今に残す建物】今の松本市街には、江戸時代の家があまり残っていません。何度も大きな火事があってたくさんの家が燃えたり、人が代わって造りかえられたりしたからです。高橋家は、江戸時代の武士の家の様子を今に残す、貴重な建物です。家の方が代々守ってきましたが、建物が市に寄付されたことをうけて、修理復元工事を行って、人々に見てもらえるようになりました。江戸時代は身分が厳しく決まっていた時代ですので、住む家も場所も仕事の内容も決められていて、自分の自由にはならない時代でした。家は殿様からもらいました。高橋家の人々はここで生活し、当主は藩の役所へ勤めに出かけていきました。家の前の塀や屋根板を石で押さえている様子や、部屋の間取りや柱や天井の様子、4つある部屋の様子、台所の様子、裏庭の井戸、室内の当時の生活の様子が分かります。【出典】国宝松本城HPより

  • 上土の牢屋跡

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    【松本藩の牢屋があった場所。罪人が一人もいなかった時代も】松本藩の牢屋が置かれていました。牢屋の中は、身分によって入れられる場所が違っていました。松本の場合は具体的に分かっていませんが、一般的には畳が敷かれた揚屋(あげや)という場所には武士やお坊さんや神主さんや有力な町人や農民が入れられ、一般の人たちは牢舎という、何人ものの人が一つの部屋に一緒に入れられる場所に入ったといいます。戸田氏の時代のことを書いた書物には、昔は罪人が4・5人は常に牢屋にいたが、光悌(みつよし)という殿様の時は罪人が一人もいなくなって、殿様の治め方がよいからだと人々が感心したと書かれています。道の西側には堀がありました。気を付けてみると地面が下がっているところが見えます。堀を掘ったとき、掘り上げた土を使って町ができたので「上土(あげつち)」という名になったといいます。【出典】国宝松本城HP

  • 鍛冶町

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    【江戸時代の旧町名「鍛冶町」です。】町人町・東町の南端から山家組へ通じる枝町名。「信府統記」には「家数二十七軒、町幅三間。昔ハ紺街トモ云ヒ、中比鍛冶町と云ヒ、今ハ山家小路ト云フ」とある。享保年代ころには、山家小路と呼ばれていたが、江戸時代後期には農機具などを打つ鍛冶屋が2軒あったそうで、鍛冶町の名称が定着しました。【出典】新まつもと物語HPより

  • 新井家の腕木門

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    【城下町の武士たちが住んでいた街の風景】新井家がある場所は、三の丸の中です。三の丸には高い身分の武士たちが住む家が建っていました。広い敷地の中に住む家が建ち、道に面した所には塀があり、門がついていてそこから中に入りました。それが城下町の武士たちの住んでいた街の風景でした。火事や建て替えによって昔の武士の家は三の丸の中には残っていません。ただ1か所この新井家の門が当時の姿を残しています。この門は、横が2.95メートルあり、人が出入りする部分は1.4メートル、高さは2.4メートルあります。柱の上に屋根がのっていますが、その屋根を腕のように横に張りだした材が支えています。そこから腕木門(うでぎもん)という名でよばれています。朱色に塗られていた様子も見ることができます。

  • 県宝 橋倉家住宅

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    ここは江戸時代「東ノ町」とよばれ、一帯は武士の居住地区でした。橋倉家も武士の住宅のひとつです。内部は長押や座敷以外の部屋の天井の省略など藩庁の厳しい規制をうかがわせています。江戸時代の武家住宅の形式が良好に保持され、保存状態も良好です。【出典】新まつもと物語HPより

  • 辰巳御殿跡(辰巳の庭)

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    辰巳の庭は、旧松本藩「辰巳御殿」の一部でした。天保6年(1835)「松本南北深志絵図」によれば、西郷宇右衛門(250石)の屋敷で、この屋敷が辰巳御殿です。屋敷の東側は東総堀で、土塁が築かれその上には土塀が設置されていました。辰巳御殿は戸田光則(みつひさ)の父光庸(みつつね)が、弘化2年(1845)わずか治世9年で隠居したため日常の住居として造られました。この東総堀が明治になってから埋め立てられ緑町が出来ました。緑町は、東にある映画館などで栄えていた上土通りに来るお客さんの飲食する場所として賑わっていました。春になるとコヒガンサクラが咲き、街中で1番早く桜の名所になっています。【出典】新まつもと物語より

  • 松本城大手門枡形跡

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    枡形(ますがた)とはお城や砦などの防御施設の一種です。城門の前面に、正面からは進入できない形の小規模な広場を設けて、敵軍を足止めして攻撃する仕組みになっています。松本城大手門は、松本城三の丸の正面入り口として堅固な防御施設が築かれており、大手門めがけて南から攻め寄せた敵が女鳥羽川を渡っても、一旦直角に東に曲がらないと門の前面に到達できないようになっています。その直角に曲がったところに設けられているのが大手門枡形で、北側は大手門、西・東・南側の三方は総堀に囲まれており、さらに堀との境には塀が巡らしてありました。(松本市HPより)