萩まちじゅう博物館 須佐おたからマップ

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山口県萩市の須佐エリアのおたからマップです。
平成28年3月時点での情報です。現在変更になっている場合もありますので、予め、ご了承ください。

update date: 2021.07.16

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Number of spots : 23spots

  • 須佐唐津古窯跡群

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    唐津地区の西側斜面上に三基並んで築造された登窯(のぼりがま)の跡です。萩焼とは異なる歴史的動向のなかで須佐唐津焼が起こり、その後萩焼と互いに影響しあいながら、益田家御用窯として独自の茶器や日用雑器を生んでいきました。

  • 全柳寺

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    文久3年(1863)大和十津川の戦いに敗れた中山忠光卿(明治天皇の叔父)が益田家を頼り落ちのびて、全柳寺に20日間滞在されました。その後忠光卿は豊浦田耕で追手により暗殺されました。

  • 一万のはな

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    室町・戦国時代は、旧阿武郡一帯は益田の益田氏(後に須佐の領主)と津和野の吉見氏との勢力争いの拠点となり、須佐地域内にも多くの出城(城砦)が築かれ、しばしば攻防が繰り返されました。平山星の城が落城した際、城兵軍馬等がこのあたりにかけて多数討死し、おびただしい戦死者を埋葬しきれず、戦死者の鼻を集めて葬ったので、一万のはなという名が付いたと言われています。

  • 大薀寺

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    慶長5年、益田元祥(もとよし)が須佐に移る際に、弥富にあった妙悟寺を現在地に移建し、大薀寺と改めて益田家の位牌所としました。寺には室町時代の梵鐘や雪舟の弟子が造ったと言われる庭園があります。

  • 行者様

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    お堂があり、中には小さな社と脇に石像が祀られています。また牛の置物やお参りに使うと思われる笠などがあります。「われ一人あまのやを まもらせたもう ぎゃうじゃそん 岩との神にかしこみ かしこみまもりたまえ さきはいたまえ たすけたまえ」という祈りの言葉が書かれた看板があります。

  • 黄帝社

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    須佐高山(こうやま)の八合目にある黄帝社には、中国古代の名君として知られる黄帝が祀られています。黄帝は航海、造船の守護神として敬われ、古くから航海、漁業の守護神として祀られたと言われています。須佐沖は高山山頂の磁石石により船の磁石が狂い、難所であったことから、航行する船乗りが磁石の狂いを船霊の仕業とし、黄帝社を神霊社として信仰していたのかもしれません。

  • 須佐ホルンフェルス

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    ホルンフェルスとは、貫入した火成岩(溶岩)の高い熱によってその周囲の岩石が完全に再結晶した岩石の名称です。語源はドイツ語のHorn(角)とFels(岩)で、叩くと硬く角状に割れることに由来します。須佐ホルンフェルスでは、熱源のマグマが冷え固まってできた斑れい岩から、マグマの影響を強く受けて熱変性した岩、マグマから離れていてあまり影響を受けなかった岩(畳岩の辺り)、という連続的な変化の様子を見ることができます。

  • 畳ヶ淵

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    今から約34万年前、伊良尾山の噴火により流れ出た溶岩が、弥富盆地の低い部分に流れ込み、その溶岩がゆっくり冷え固まり、規則正しくひびわれて、六角形の玄武岩柱状節理が出来上がりました。畳ヶ淵の淵は深く、淵の脇には洞穴があり、昔は竜が住んでいたという伝説もあります。

  • 道永の滝

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    伊良尾火山が貯えた湧き水が三段70mの滝となって落下しているもので、夏でも枯れることがなく、弥富地区の貴重な水源となっています。滝つぼの脇には祠(ほこら)があり、毛利元就に敗れた陶晴賢(すえはるかた)の残党が山伏となってこの地に逃れ、大山祗神(おおやまずみのかみ)、四国石槌山波切不動明王(しこくいしづちさんなみきりふどうみょうおう)をまつったと言い伝えられています。

  • イラオ火山灰層観察施設

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    伊良尾火山観察施設には火山観察通路や地層観察用の窓が設けられており、伊良尾火山の噴火の様子を知ることができます。

  • 松崎八幡宮(須佐神社)

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    松崎八幡宮の社前に立ち並ぶ石燈籠は36基あり、益田就恒(なりつね)をはじめ、益田親施(ちかのぶ)など、益田家歴代の領主が江戸参勤から帰国の度に奉献したものです。当時の建造技術や彫刻技術を推測する資料として、また歴史的資料としても価値が高いものとなっています。

  • 心光寺

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    久坂玄瑞が勤皇倒幕を論じた場所でもあり、禁門の変の責任を負った益田親施を救うべく大谷僕助や河上範三らが回天軍を組織して籠もった場所でもあります。また維新後、前原一誠らが萩の乱に際してここに立ち寄りました。回天軍総督大谷撲助、育英館3代館長山科真通、前原鉄之助の墓があります。

  • 育英館跡

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    育英館は享保年間(1716~1735)に益田元道(もとみち)が、子弟教育のために創立した郷校です。明倫館(萩)や越氏塾(防府)と共に山口県で最も古い伝統をもつ学校です。江戸時代には県内に19の郷校があり、育英館は規模、内容ともにそのトップクラスのもので、 萩の松下村塾との交流も行われていました。現在は育英小学校が育英館の名前を継承しています。

  • 笠松神社

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    益田親施(ちかのぶ)を祀っています。親施は毛利氏家老として幕末の国事に奔走しましたが、禁門の変の責任を負って家老の福原越後、国司信濃とともに割腹し、32歳で生涯を閉じました。 その後、旧臣たちが笠松神社を建てて親施の霊を祀りました。

  • 三蔭山神社

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    禁門の変(蛤御門の変)、四境戦争(しきょうせんそう・第二次長州征伐)、戊辰の役(鳥羽伏見の戦)、北越戦争(ほくえつせんそう)、会津戦争をはじめ幕末動乱期に殉じた戦死者の霊を祀ったもので、明治2年(1869)正月、山口藩士兼重厚平によって建てられました。

  • 須佐歴史民俗資料館「みこと館」・「益田館」

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    萩市須佐地域に本拠(館)を置いた益田氏が政務を司った場所です。水害などに遭い、現在の館は創建時より縮小しています。敷地の一角に歴史民俗資料館が設置されていて、2015年集中豪雨被害よりの復旧を記念して愛称を「みこと館」と命名されました。 TEL : 08387−6−3916 時 間 : 9:00〜16:30 料 金 : 大人310(200)円、子ども150(100)円 ※( )内は団体料金 休館日 : 月曜日および祝祭日の場合は翌日、 12月29日〜1月3日

  • 手塚猛昌顕彰碑

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    時刻表の父と呼ばれる手塚猛昌の顕彰碑です。明治27年(1894)、イギリスの時刻表を手本に日本で初めての本格的な時刻表、月刊「汽車汽船旅行案内」を発刊しました。この時刻表発刊により交通運輸は格段に発展していきました。

  • 益田家墓所

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    須佐初代領主益田家第20代元祥(もとよし・げんしょう)以下代々の墓があり、永年にわたる萩藩永代家老益田家の繁栄と領主としての功績の跡をしのばせます。地・水・火・風・空と刻まれた形の異なった墓石が大地に立ち並び、歴代領主の墓地、また、益田時代の合葬墓としてその風格を保っています。

  • 鏡山神社(浄蔵貴所)

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    平安時代中期の天台宗の僧侶、浄蔵の墓です。嵯峨天皇(さがてんのう)のひ孫にあたり、苦しみから人々を救う霊力の持ち主だったと伝えられています。言い伝えによると浄蔵は天徳元年(957)に都を出て、諸国遍歴してこの地に留まり、康保元年(964)74才で没したといわれています。社殿左の石段の上には清水が湧きだして、眼病に霊効があるとされています。

  • 久原波止場

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    久原房之助が父庄三郎の名で7千円余の巨費を投じ、入江地区の赤島に築造した波止場です。水深が深く5,6百トンの船が横付けすることができ、特に熊野鉱山(鈴野川)の鉱石搬出等に大いに貢献しました。久原房之助はこの他にも多額の寄付や援助を行い、その功績が讃えられて萩市名誉市民第1号に推挙されました。

  • 八相権現社

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    弘仁元年(810)、弘法大師が紀州熊野から熊野権現を勧請(迎えて祀る)し、鎮国護法の霊神として仰ぎ奉ったといわれています。

  • 高山

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    高山は北前船の船乗りから航海の目印とされ、海上安全の神として信仰された山で、黄帝社に奉納された絵馬にも描かれています。太古は神山と言われ霊感のある山として崇められていました。須佐のシンボル的な山です。

  • 高山磁石石

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    高山は第三紀中新世の須佐層を斑れい岩類が貫いてできたもの。山頂付近一帯には、磁力が強力な岩石が散在し、磁針の方位を狂わせる