萩まちじゅう博物館 堀内・平安古・城下町おたからマップ

山口県萩市の堀内・平安古・城下町エリアのおたからマップです。 平成27年3月時点での情報です。現在変更になっている場合もありますので、予め、ご了承ください。
All spots information
40 spots
一覧

萩藩永代家老益田家の庶流、周布家の萩屋敷の表門です。建物の外観は腰部を下見板張りとし、基礎に見事な切石積みがあり、上部は白漆喰大壁造りになっています。江戸中期の代表的な武家屋敷長屋の様式を残しています。

厚狭毛利家萩屋敷は、萩城の二の丸南門の南100メートルの要地にありました。屋敷地の中にあった主屋や庭園などは明治維新前後に解体されて、現在はこの長屋のみが残っています。現在萩市内に残っている武家屋敷長屋の中で最も大きいものです。

近世の初頭に毛利輝元が築城しました。萩城は別名「指月城」とも呼ばれた平山城で、本丸・二の丸・三の丸および指月山頂に要害がありました。明治7年(1874)に解体されましたが、石垣および堀の一部については、よく保存されています。

長州藩の経済官僚、村田清風の別宅地です。天保の改革に際して、民政の改革、文武の奨励、兵制の改革などを進めました。他にも四白政策(紙・蝋・米・塩の生産)の振興などで藩政に尽力しました。現在は長屋門のみが残されています。

菊屋家は毛利氏に従い広島から萩に移った豪商です。藩の御用達を務めるほか、屋敷は幕府巡見使の宿として本陣にもあてられていました。 ↓施設の詳細はウェブサイトにてご確認ください 【菊屋家住宅】https://www.kikuyake.com/

藩校明倫館に学び、後に松下村塾に入り、久坂玄瑞と並び「松門の竜虎」と称された高杉晋作の誕生地です。晋作の初湯をくんだとされる井戸の位置は当時のままです。そばには東行の号の由来となった「西へ行く人をしたひて東行く心の底ぞ神やしるらむ」の歌碑があります。現在、高杉晋作誕生地として保存公開されている民家は、当時の屋敷のままではなく、規模にして約3分の1に縮小されています。

熊谷家は江戸時代から代々問屋と金融・仲買・製塩を業として栄えてきた豪商です。蔵を改造した展示室の中に、歴代当主が集めた美術工芸品や文具類、シーボルトから送られたピアノなどを展示しています。 ↓施設の詳細はウェブサイトにてご確認ください 【熊谷美術館・熊谷家住宅】https://www.hagishi.com/search/detail.php?d=100060

西洋医学発展に尽力した藩医・青木周弼の旧宅です。医学館(南苑医学所、後の好生館・好生堂)の開設を機に医学教育の刷新に努め、西洋医学発展に尽力しました。また、大村益次郎を藩へ召し抱えるよう願書を提出した人物でもあります。

塀に四角い穴をあけ、海から侵攻する外敵に向けて銃が構えられるしくみになっています。要害の石垣上には、鉄砲狭間(銃眼)を施した練塀が巡っていました。昭和41年(1966)要害門前の石垣に鉄砲狭間を施した練塀(見付け塀)が復元されました。

川の水を引き入れた武家屋敷の庭園が残る、地域の交流施設です。平安古の歴史を紹介するパネルがあります。庭園を見ながらの休憩ポイントにおすすめです。 ↓施設の詳細はウェブサイトにてご確認ください 【平安古かいまがり交流館】https://www.city.hagi.lg.jp/soshiki/13/h2862.html
萩の歴史・文化・自然を学ぶことができる「萩まちじゅう博物館」の中核施設です。武家屋敷を模した建築が特徴的です。 ↓施設の詳細はウェブサイトにてご確認ください 【萩博物館】https://www.city.hagi.lg.jp/hagihaku/index.htm

口羽氏は毛利氏の庶流で、藩の寄組士(1018石余)として代々萩城三の丸に住んでいました。表門は、萩に残っているものとしては最も雄大な規模を有する長屋門です。口羽家住宅は、主屋と表門が揃って残り、萩城下に現存する武家屋敷としても古く、貴重な文化財です。

左右を高い土塀で囲み、道を鍵の手に曲げて迷路のようにして、城下に進入した敵を迷わせ、追い詰めるための工夫がしてある道です。旧明倫館の南側に馬場があり、馬を追回し(引き回し)ていたことから、別名「追廻し筋」とよも呼ばれています。藩政時代の風情を残す一画で、時代劇のロケ地としてもよく使われます。

この橋は萩城三の丸の平安古(ひやこ)の総門前の外堀に架けられている石橋で、平安古町に通じている橋というところから平安橋と呼ばれています。城下町から萩城三の丸へ入る南の進路の一つとなっていたものであり、現在は国指定史蹟「萩城跡」の地域に含まれています。

北側に江戸屋という、主に鬢付(びんつけ)製造業を営む豪商だったといわれている商家があったことに由来します。入るとすぐの右手に、木戸孝允旧宅があり、その先の並びには、蘭学者として西洋医学の発展に大きな業績を残した青木周弼旧宅があります。少し行くと、右手に円政寺の鳥居が見えます。

萩城下のメインストリートであった道です。江戸時代には、今の2倍の道幅(約9m)があり、両側には、主に藩主毛利家一門などの上屋敷が建ち並んでいました。藩主の参勤交代の際に通る「御成道(おなりみち)」でもありました。

長州藩士、坪井九右衛門の旧宅です。居宅は水哉亭または五峰楼とも呼ばれていました。国政に参与し、天保の改革に尽くしましたが、尊攘運動の中で意見が受け入れられず、政府によって流島に処せられたのち、結党して上訴したという罪名で野山獄にて処刑されました。

横町の北角に、御用商人の菊屋家があったことに由来します。菊屋家住宅の白壁となまこ壁の蔵が長く連なり、道の一画には田中義一誕生地の石碑や、高杉晋作誕生地などがあります。「日本の道百選」にも選ばれています。

幕末における長州藩の人材育成に大きく貢献した藩校です。現在は有備館(剣・槍の道場)や水練池(泳ぎや水中騎馬の練習をした日本最古のプールと呼ばれている)などが残っています。明倫館は、元は萩藩5代藩主毛利吉元が享保4年(1719)に、萩城三の丸追回し筋に藩校として創建しましたが、約130年後の嘉永2年(1849)に低湿地の広がる江向の地に広大な規模の新明倫館を新築して移転され、今に至ります。その後、明倫館の跡地には旧明倫小学校が建てられ、現在は旧小学校の木造校舎に各種情報センターやレストランなどを併設した萩観光の起点「萩・明倫学舎」として活用されています。 ↓施設の詳細はウェブサイトにてご確認ください 【萩・明倫学舎】https://www.city.hagi.lg.jp/site/meiringakusha/

萩出身の実業家・浦上敏明氏が収集した浮世絵・東洋陶磁などの寄贈を契機に1996年に開館した美術館です。浮世絵版画や東洋陶磁器を展示しています。萩焼を展示・紹介する「陶芸館」も併設しています。 ↓施設の詳細はウェブサイトにてご確認ください 【山口県立萩美術館・浦上記念館】https://www.hum.pref.yamaguchi.lg.jp/