Number of spots : 37spots
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久太郎町通 きゅうたろうまちどおり
染物や漆器商などが多く、現在は陶器神社やタイル会社のある街です。名前の由来は、(1)百済町と書いたのを後世誤り伝えた説と、(2)堀久太郎(秀吉直属の家来)の邸の跡地であったという説の2つがあります。平成元年までは北久太郎町、南久太郎町に分かれていました。
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北久宝寺町通 きたきゅうほうじまちどおり
唐弓・唐槌(いずれも綿を柔らかくする道具)の商店、合羽・塗物・唐小間物問屋、繰綿の先物取引所の他、東本願寺派の寺々がありました。丼池以西にあった多くの町のうち、渡辺町は天正年間(16世紀末)に渡辺津(八軒家)にあった坐摩神社の移転に伴い生まれたもので、渡辺氏発祥の地と言われています。
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南久宝寺町通 みなみきゅうほうじまちどおり
「久宝寺」という名の由来は、久宝寺という寺があったという説と、道頓堀川開削のために河内渋川郡久宝寺村から多くの人夫が移り住んだという説があります。御霊筋以西は上難波町西笠町と呼ばれていました。
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博労町通 ばくろうまちどおり
江戸時代は伝馬町または馬屋町と呼ばれ、牛馬を売買していた博労(馬喰)達の町でした。難波神社は仁徳天皇・スサノオ尊・宇賀御魂神を祀り、通称博労稲荷と呼ばれ、稲荷社内には文楽軒の人形浄瑠璃座がありました。
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順慶町通 じゅんけいまちどおり
戦国大名筒井順慶にちなんだ名とされていますが、そのつながりは不明です。新町廊に通じており昔から賑やかな通りで、江戸時代には御堂筋以西は浄国寺町、初瀬町と呼ばれていました。1982年(昭和57)2月の住居表示変更時に、旧町名、順慶町・安堂寺橋・塩町を併せて南船場(みなみせんば)と改称しました。
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安堂寺橋通 あんどうじばしどおり
暗峠・奈良街道に通じる道で、江戸時代には安堂寺町、西樽屋町(のちに北勘四郎町)と呼ばれていました。安堂寺の名称は昔この地にあったとされる「安曇寺」の転訛であろうと言われています。丼池筋添いには蘭学塾「糸漢堂」がありました。1982年(昭和57)に南船場(みなみせんば)と改称。
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塩町通 しおまちどおり
「塩屋」という商家に由来する町名と思われます。江戸時代には三休橋筋以西は車町、南勘四郎町という町名でした。三休橋筋西方にはかつて芦間池(一名丼池)という池があり、これが「丼池」の名前の由来と言われています。古くから堺筋には砂糖問屋が多く立地し、1925年(大正14)に砂糖取引所が塩町にでき、塩町が砂糖で大いに賑わったと言われました。1982年(昭和57)に南船場(みなみせんば)と改称。
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長堀通 ながほりどおり
1964年(昭和39)に長堀川を埋立てて作られた新しい道路です。道路の地下にはクリスタ長堀・長堀駐車場と地下鉄長堀鶴見緑地線が設けられています。かつて長堀川の北側は末吉橋通りでしたが、南側には道路が無く、鰻谷の建物が川に面して建っていました。
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横堀筋 よこぼりすじ
西横堀川に沿った筋で、かつて「横堀」という町名だったことから「横堀筋」と呼ばれてきました。江戸時代から水運を活かして材木商が並んでいましたが、1971年(昭和46)に西横堀川が埋め立てられ、高速道路に変わりその面影はありません。
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渡辺筋 わたなべすじ
秀吉の大坂城下の整備に伴って、渡辺(八軒家浜の南)から坐摩神社が地名と一緒に移転し、神社表門筋は渡辺筋と呼ばれてきました。また御霊神社より北の方はかつて「魚の店(たな)」が集まっていたところから「魚(うお)の棚筋」とも呼ばれていました。
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土佐堀通(とさぼりどおり)
このあたりは船場の北の端であり、川に向いて家屋の建つ広い浜だったので、古くは北の濱と呼ばれていました。 水運による交流が盛んになるにつれ、船着場と共に家屋が建ち並び、川(土佐堀川)沿いの通りとして土佐堀通と呼ばれるようになりました。 証券取引所があるなど関西を代表する金融・証券のまちです。
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板屋橋筋 いたやばしすじ
箒屋町筋の一つ西の筋で、北の方では「一丁目筋」と呼ばれ、南の方では長堀川にかかっていた橋にちなんで板屋橋筋と呼ばれました。この板屋橋は元禄の頃は新橋と言われ、幕末の頃から板屋橋と言われましたが、1964年(昭和39)に完了した長堀川の埋め立てとともに姿を消しました。
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今橋通 いまばしどおり
鴻池などの両替商が軒を連ね、丼池筋の角には銅座があった船場の金融センターでした。銅座跡に建つ国内最古の幼稚園園舎(1902年(明治34))をもつ愛珠幼稚園を初め、愛日小学校や集英小学校など、明治時代には数々の学び舎が誕生しました。また通りの名前となっている今橋は、東横堀川対岸との往来のため「今あらたにかけた橋」との説が有力です。
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道修町通 どしょうまちどおり
道修町は、古くから「くすりのまち」として親しまれており、武田、田辺三菱、塩野義などの製薬会社が今も軒を連ねています。ここに薬種問屋が集まるきっかけは、堺の豪商小西吉右衛門が、二代将軍徳川秀忠の命により道修町で薬種商を開いたことにより、幕府公認の「道修町薬種中買仲間」が、道修町に集められた諸薬種を検査し適正価格を定めて独占的に全国に供給していました。町名の結来は①昔「道修谷」と呼ばれた、②道修寺という寺があった、③北山道修がこの地で医院を開業した、④私塾が多く修学修道の地であったなど、諸説あります。
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箒屋町筋 ほうきやまちすじ
船場はおおよそ縦に長い長方形の形状をしていますが、よく見ると中央大通りの南側で東横堀川が曲がっています。この曲がった部分を「本町の曲り」といい、これによって中央大通り以南で追加された筋が箒屋町筋です。かつて本町通から久宝寺通の間にしゅろ箒屋があったことからこの名で呼ばれたものと思われます。
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東横堀筋 ひがしよこぼりすじ
東横堀川に沿った筋であるところから「東横堀筋」「東堀筋」と言いますが、かつては「道修町の浜」「高麗橋の浜」など西側の通り(まち)の浜(荷上げ場)の名称で呼ばれ、浜蔵が並んでいました。 東横堀川は1585年(天正13)に秀吉が大坂城の外堀として掘った堀川で、今でも東横堀川の東側(大坂城側)は「内」という呼称(たとえば内平野町)がつけられ、城内であったことを示しています。この城内から船場に入って一番最初の筋が東横堀筋で、東横堀筋沿いでは高麗橋や本町橋など多くの古い橋を楽しむことができます。
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淡路町通 あわじまちどおり
大塩平八郎の乱の主戦場として有名です。近松門左衛門の『冥途の飛脚』の飛脚問屋亀屋の忠兵衛の店もここにありました。幕末には勝海舟が大阪の寓居先であった専称寺に大坂海軍塾を置き、また御霊神社内には明治~大正末期にかけて文楽座もありました。
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平野町通 ひらのまちどおり
御霊神社の祭神と言われる早良親王が百済氏出身で、その百済氏を祭る京都平野神社にちなんだ名前と考えられている。丼池以西の善左衛門町には北組惣会所が置かれていました。江戸期~明治末頃まで市内の五大商店街の一つとして賑わい、1・6の日の夜店は名物で、現在も個人商店が建ち並ぶのはこの名残です。
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御堂筋 みどうすじ
1937年(昭和12)の拡幅までは淡路町通との交点で屈折していたため、同所以南の北御堂・南御堂のある区間を御堂筋、以北を淀屋橋筋と称しました。現在は幅24間(43.6m)6車線の幹線道路で、沿線は銀行や企業の本支店が集中するビジネスの中枢で、970本のイチョウの木が植えられている大阪の象徴ともいえる目抜き通りです。
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三休橋筋 さんきゅうばしすじ
御堂筋と堺筋のちょうど中間にある筋で、三休橋は心斎橋、中橋、長堀橋の交通量を分担し、三つの橋を休ませるために付けられた名前と言われています。南の方では三休橋筋と呼ばれ、北の方では橋詰の栴檀木(せんだんのき)にちなんで栴檀木橋筋とも呼ばれます。近年歩道の拡幅や電線の地中化、ガス灯の設置などがすすんで風情のある景観となり、三休橋筋の名前が定着しつつあります。
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中橋筋 なかばしすじ
中橋は江戸時代に長堀川にかかっていた橋で、長堀橋と心斎橋の中間にかかっていたために中橋と呼ばれました。現在は中橋の親柱が中央分離帯の中に据えられています。
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難波橋筋 なにわばしすじ
かつて難波橋はこの筋にかかっており、中国街道に接続する往来の多い道路で、隣の堺筋と繁栄を二分していました。しかし、1911年(明治44)の市電敷設計画に反対したことが明暗を分け、1915年(大正4)にはシンボルだった難波橋が堺筋に架け替えられました。その7年前の1908年(明治41)には長堀川に藤中橋が架橋され、難波橋を失った難波橋筋は藤中橋筋とも呼ばれるようになりました。この藤中橋は橋筋の病院経営者が私費で架けたものです。
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堺筋 さかいすじ
紀州街道の一部であり、堺へ抜ける道であったことから堺筋と呼ばれます。高麗橋を起点に大名行列も通った紀州街道ですが、東西の通りに比べて狭い道でした。1912年(明治45)に市電堺筋線の敷設により道路は拡幅され、プラタナスの街路樹に金融機関や百貨店が建ち並ぶ大阪随一の近代的街路となりました。昭和のはじめに御堂筋が拡幅されるまでは大阪のメインストリートでした。
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中央大通 ちゅうおうおおどおり
旧の唐物町(からものまち)の南側の一部と北久太郎町(きたきゅうたろうまち)の一部を合わせ、1970年(昭和45)大阪万博にあわせてできました。町名は船場中央(せんばちゅうおう)と言い、「船場センタービル」は船場中央にある唯一の建物(区分所有建物)で、高速道路と一体的に建てられています。
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南本町通 みなみほんまちどおり
御堂筋以西は渡辺町、椹木町、南本町1丁目は米屋町とも呼ばれ、4丁目には心斎橋筋と丼池筋の間に「夢の浮橋」という石橋がありました。また、福田理軒という算学者が算術を教える塾を開いていました。
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本町通 ほんまちどおり
1657年(明暦3)の地図にも見ることができる古くからある名前です。呉服商の集積を元に、現在はクラボウや帝人など繊維衣料関係の企業が集積し、本町には、絹張小路、鰻小路、狐小路の三つの小路があります。繊維関係では、丸紅、西川なども有名です。
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安土町通 あづちまちどおり
この界隈には近江商人の店が集積しており、その出身地が名の由来とされています。田村駒治郎商店、現在の蝶理につながる大西商店、伊藤万など木綿問屋も多く店を構えていました。有名な古本屋の鹿田静七は、「内外新聞」という大阪で最も早い新聞の刊行販売を行いました。
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備後町通 びんごまちどおり
「備後町」とは備後国(現在の広島県東部)の商人を多く住まわせたことから命名されたと考えられています。江戸時代は鳥問屋や木綿問屋が多く、明治に入り、呉服、洋反物、木綿太物店が商いを広げ、湖亀銀行、近江銀行、逸身銀行、川上銀行などが林立。野村證券、りそな銀行のルーツ、野村徳七商店もこの町にありました。
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瓦町通 かわらまちどおり
江戸時代には、角細工商、戸棚屋、戸障子商、湯風呂細工商、鉄問屋などの職人が多く店を構えていました。また1丁目には岸本吉左衛門という鉄商で、後に日仏美術の交流に貢献した岸本商店がありました。
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内北浜通 うちきたはまどおり
土佐堀通周辺とともに、かつては北の濱といわれていました。北の濱が発展拡大して生まれた二つの通りの南側が「内北浜通」と呼ばれるようになりました。船場は両側町として、通りの名前と町名が共通になっているところが大半なのですが、土佐堀通と内北浜通沿いでは上記の理由からどちらも北浜という町名になっています。
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八百屋町筋 やおやまちすじ
堺筋の一つ東の筋で、備後町通から安土町通の間で鳥屋が多くあったようで「鳥屋町筋」とも呼ばれました。また北浜では両替商が並ぶエリアであったため、平野屋五兵衛と天王寺屋五兵衛にちなんで、今橋通から北では十兵衛横町(よこまち)とも呼ばれました。
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浮世小路 うきよしょうじ
他の通りと違って幅の狭いこの道路は、高麗橋通と今橋通に面する建物の背割下水(「太閤下水」と呼ばれる)の上を道路にしたものです。江戸時代初期、この狭い通路に面して風呂屋、楊弓場、質屋、三絃法師、謡曲師匠宅、船場の旦那や番頭衆の妾宅などが建ち並び、浮世のありさまを見渡す風情から浮世小路と呼ばれ、今にその名を残しています。
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高麗橋通 こうらいばしどおり
江戸時代は越後屋(三井)を筆頭に、大呉服商、両替屋、書肆、紙屋、苧屋などが多く、大変にぎわった通りでした。通りの名前となっている高麗橋は、東海道五十三次と京街道四次を合わせたいわゆる「東海道五十七次」の終点で、東側の武家まちと西側の商人まちを結んでいました。橋の名前の由来は、高麗橋が朝鮮国使来朝のために架けられた橋という説と、かつて難波高麗館が橋の東にあったためという説があります。
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伏見町通 ふしみまちどおり
伏見町は豊臣時代に大坂に移住した京都・伏見の町人に因む町名です。江戸時代には中橋筋から心斎橋筋までを伏見町、心斎橋筋から魚の棚筋までを呉服町といい、諸大名や豪商などを相手に、茶道具などの道具商とともに、舶来品を扱う唐物商が数多く集まっていました。明治以降は、新しい実業家や資本家を相手に、古美術・骨董品を扱う道具商で賑わいました。
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御霊筋 ごりょうすじ
御霊神社の表門の筋であることから北御堂から土佐堀通までは「御霊筋」と呼ばれました。南御堂から南は長堀川に架かっていた橋の名から「佐野屋橋筋」とも呼ばれました。また北御堂と南御堂の間の短い筋は「狐小路」とも呼ばれます。
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心斎橋筋(しんさいばしすじ)
道頓堀から心斎橋を渡って新町(遊郭)を結ぶ道として、江戸時代から賑わってきた筋であり、土佐堀通りから戎橋まで心斎橋筋と呼ばれています。また南船場側は心斎橋筋北商店街として賑わっています。
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丼池筋
南の塩町あたりにあった難波薬師の境内に大きな池があり、これを丼池と呼んでいたことからこの名がついたとされます。かつては家具や小間物問屋が集まっていましたが、戦後は繊維問屋街として発展しました。大阪で最初にアーケードが出来ましたが、1933年(昭和8)老朽化により撤廃されました。現在は丼池ストリートとも呼ばれています。