Number of spots : 98spots
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本町通案内板
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高麗橋通案内板
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道修町通案内板
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堺筋案内板
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北浜駅前案内板
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土佐堀通案内板
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内北浜通案内板
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高麗橋通案内板
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高麗橋通案内板
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高麗橋通案内板
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三休橋筋案内板
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今橋通案内板
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内北浜通案内板
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伏見町通案内板
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道修町通案内板
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今橋通案内板
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大阪証券取引所ビル
ここには1935年(昭和10)に建てられた(旧)大阪証券ビル市場館がありました。ビルの老朽化、立会場機能が不要になったことから、2004年(平成16)に超高層ビルに生まれ変わりました。旧ビルのシンボルであったドームの外観は、北浜の顔として継承し、ドーム内部の広間(アトリウム)と外観両袖が、再現保存されています。正面には1878年(明治10)に大阪証券取引所を開設した五代友厚の像が立っています。所在地:大阪市中央区北浜1丁目8-16
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原田産業株式会社大阪本社ビル
1928年(昭和3)竣工の建物で、船場に典型的な間口の狭い敷地に建つ2階建ての洋館となっています。建物は小ぶりですが、左右対称をわざと崩したデザインや重厚なエントランス、バルコニーを持つ大きなガラスの開口部が特徴的です。所在地:大阪市中央区南船場2丁目10-14
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大阪農林会館
1930年(昭和5)に旧三菱商事大阪支店として建てられ、戦後、農林省関係のビルとなり現在の名称になりました。1972年(昭和47)に会館と名のつく貸しビル業となりました。現在は、高い天井や重厚なデザインの内装を活かしたスタイリッシュなショップが集まるビルとなっています。しっかりと作り込まれた木製の手すりや柱、ドアなど細部にレトロな雰囲気が残っています。所在地:大阪市中央区南船場3丁目2-6
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堺筋倶楽部(旧川崎貯蓄銀行大阪支店)
1931年(昭和6)に「川崎貯蓄銀行大阪支店」として建てられた建物です。当時の銀行建築らしく、重厚感のある切石と左右対称の外観が特徴的で、さらに、正面玄関上部の柱が並ぶ装飾は、ルネサンス様式を思わせるデザインです。建物を壊す計画もありましたが、2001年(平成13)、レストランとして生まれ変わりました。内装は建設当時の金庫室をワインセラーにするなど、各部屋の特徴と魅力を生かして巧みにコンバージョンされました。所在地:大阪市中央区南船場1丁目15-12
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大阪ガスビルディング
1933年(昭和8)に安井武雄の設計で建てられ、1・2階の黒い石貼りと上部の白いタイル貼りのコントラストにより巨大な客船を思わせる外観は「都市建築の美の極致」と称されています。1966年(昭和41)佐野正一の設計で増築し、現在も大阪ガスの本社ビルとして使用されています。最上階の食堂は竣工当時から営業しており、文化人で賑わっていました。戦時中は白いタイルにコールタールで迷彩塗装し、空襲を避けたといわれています。所在地:大阪市中央区平野町4丁目1−2
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旧小西家住宅
1903年頃に建てられた大型町家で、大阪の豪商の屋敷構えを伝えており、2001年(平成13)に重要文化財に指定されました。小西家初代は小西儀助で、2代目儀助はアサヒビールの前身となる「アサヒ印ビール」を製造し、4年後には「赤門印葡萄酒」を製造販売しました。奉公人の中には、サントリー創始者・鳥居信治郎もいました。100年の間、空襲や震災を乗り越え、現在は合成接着剤のメーカー「コニシ」としてこの黒壁の館を守っています。所在地:大阪市中央区道修町1丁目6-6
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少彦名神社
少彦名神社は、日本医薬の祖神少彦名命と中国医薬の祖神神農炎帝を祀っており、「神農さん」として親しまれており、現在の社殿は1910年(明治43)に再建され、2000年(平成12)に登録文化財に指定されました。「神農祭」は毎年11月22・23日に行われ、厄除けの「張り子の虎」をもった人々で賑わい、船場の風物詩となっています。大阪の祭りが1月の「十日えびす」で始まり、神農祭で終わることから、「とめの祭り」とも呼ばれています。所在地:大阪市中央区道修町2丁目1-8
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青山ビル
甲子園球場から枝分けされた蔦が覆う印象的な青山ビルは、1921年(大正10)に個人住宅として建てられ、イタリア製のステンドグラス、屋上庭園や裏庭の日本庭園など、贅を尽くした建物でした。現在、1階の建築当時のままの大理石の暖炉や唐草彫りの天井レリーフを見ることができます。また、共用部には、現在では再現できない大正時代のイタリア製ステンドグラスやガラス窓、階段にはねじり細工の手すりが見ることができます。所在地:大阪市中央区伏見町2丁目2−6
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伏見ビル
1923年(大正12)、長田岩次郎の設計で「澤野ビル」として建てられ、当時としてはめずらしいホテルとして人目をひきました。シンプルなアールデコ風のデザインですが、丸みを帯びた建物コーナーや、水平を強調するリブ状の装飾、3階開口部上部の円形の金属装飾が特徴的な建物です。昭和初期にビルの所有者が替わり、建物はテナントビルとかわり、現在はギャラリーや事務所、レストランが入居するビルとして賑わっています。一階には船場倶楽部の事務所が入っています。所在地:大阪市中央区伏見町2丁目2-3
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芝川ビル
関東大震災後「火事、地震に強い建物を」との思いで、芝川又四郎が1927年(昭和2)に建設したマヤ・インカ文明を想わせる装飾が特徴的な建物です。又四郎は、1929年(昭和4)「芝蘭社家政学園」を開校し、洋裁・和裁・習字・生け花・茶道・割烹など多彩な教育を行いました。戦後はテナントビルとなり、現在はお洒落なお店も多く、屋上のモダンテラスでは様々なイベントが開催されています。所在地:大阪市中央区伏見町3丁目3-3
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日本基督教団浪花教会
1930年(昭和5)に建てられた教会で、設計・施工は竹中工務店ですが、設計の指導をアメリカ人の建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズが行っています。ゴシックスタイルの建物で、外観の特徴でもある大きなアーチ窓のステンドグラスが印象的です。当時の姿のまま使い続けられており、パイプオルガンの清らかな音色が響き渡ります。隣には高麗橋ビルディングが建っており、近代建築撮影スポットとなっています。所在地:大阪市中央区高麗橋2丁目6-2
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高麗橋ビルディング
この建物のもとは、辰野金吾・片岡安の設計で1912年(明治45)に建てられた(旧)大阪教育生命保険ビルです。赤煉瓦と白い石のボーダー外観が特徴的で、重厚な飾り石の意匠、金属板の勾配屋根の明かり窓、レンガの赤と銅板の緑青など、明治時代後期の風格ある外観を残しています。現在は、ウエディング会場「オペラドメーヌ高麗橋」として利用されています。隣には日本基督教団浪花教会があり、近代建築撮影スポットとなっています。所在地:大阪市中央区高麗橋2丁目6−4
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岸本瓦町邸
1931年(昭和6)、鉄鋼商で西洋美術のコレクターとしても有名な岸本吉左衛門の本邸として建てられました。北浜の旧住友ビルディングを設計した笹川慎一が設計した建物で、石貼りの外壁は、旧住友ビルディングと同じ竜山石が用いられています。外観は直線を多用したすっきりとしたデザインと明るく華やかな印象で、煙突や塔屋、建物の雁行配置などにより凹凸感のある建物となっています。現在は登録有形文化財に指定されています。所在地:大阪市中央区瓦町1丁目2−1
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船場ビルディング
1925年(大正14)の竣工で、耐震耐火鉄筋コンクリート5階建てのエレベーターがあるオフィスと住宅をあわせもつユニークで革新的なビルとして注目を集めていました。外観はタイル張りでオフィスビルのデザインですが、エントランスは荷馬車を引き込みやすいような工夫や、内部の中庭の吹き抜けと、その周囲に巡らした回廊などの特徴ある造りとなっています。レトロモダンな雰囲気漂う人気のテナントビルとなっています。所在地:大阪市中央区淡路町2丁目5-8
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清水猛商店
1924年(大正14)竣工した住友ビルディングの設計も手掛けた小川安一郎の設計による建物です。表からは近代建築に見える洋風のデザインですが、木造3階建で全体の構成と生活スタイルは典型的な町家の建物です。船場の商家が町家から西洋建築へと移行する過渡期を示す貴重な事例となっています。現在は東隣が駐車場となっていることから、その特徴がとてもよく分かります。所在地:大阪市中央区淡路町3丁目5-6
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旧清水源商店
1894年(明治27)に建てられた町家です。当初表屋造りで建築されましたが、1934年(昭和9)の軒切りにより、表屋のみ3階建てに建て替えられました。2・3階の箱軒には銅板が張られ、壁面は漆喰塗りの大壁造り、下屋の両端から軒下まで卯建が立ち上がるなど、重厚感を感じさせます。1階は改装されていますが、石張りの腰壁、鉄格子付きの開口部など、デザインの継承がされています。所在地:大阪市中央区平野町1丁目4-9
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生駒ビルヂング
1872年(明治3)創業の生駒時計店が1930年(昭和5)に建てました。外観のスクラッチタイルに大きな焼き物のブロックのテラコッタなどは、昭和のひと桁、10年間だけにはやった素材で、大きな特徴になっています。ビルの屋上には時計台、5・4・3階は出窓、そして2階の丸窓がデザインされており、全体として振り子時計をイメージした遊び心のある外観となっています。現在はサービスオフィス北浜T4Bにリノベーションされています。所在地:大阪市中央区平野町2丁目2−12
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小川香料大阪支店社屋
大阪が発祥の地である大手香料メーカーの大阪支店ビルで、1930年(昭和5)に建てられました。円弧を用いた窓枠と窓庇を交差させた独特な意匠となっており、玄関上部には八角形のステンドグラスをあしらうなど、全体が当時最先端のデザインであるアールデコでまとめられています。所在地:大阪市中央区平野町2丁目5-5
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武田道修町ビル
武田薬品工業は1781年(天明元)に道修町で薬種の仲買商をはじめ、1925年(大正14)に武田長兵衞商店を設立、その3年後にこの本店を完成させました。設計者の松室は古典様式に精通していたと言われていますが、当建物では抑制をきかせ、様式的なモチーフは1階や軒飾りにとどめています。スクラッチタイルが流行した時代に、しっとりした煉瓦色のタイルによるモダンなデザインを採用しています。現在は公益財団法人武田科学振興財団が使用しています。所在地:大阪市中央区道修町2丁目3-6
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北野家住宅
1928年(昭和3)青果商だった北野栄太郎によって建てられた木造3階建ての町屋です。店舗を兼ねた1階は改装されていますが、住居部分の2階、使用人部屋であった3階は、建築当時の姿のまま残っています。1945年(昭和20)の大阪大空襲で奇跡的に免れ、当時は高価だった波型のガラス窓や、2階は不発の焼夷弾に削られた大きな穴の空いた内壁の補修跡が残っています。国の登録有形文化財に指定されています。所在地:大阪市中央区平野町4丁目2−6
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三木楽器開成館
日本最古の楽器店といわれている三木楽器の本社社屋。創業100周年にあたる1925年(大正14)に建てられました。 大正期の都市部に建設されたショーウインドウ形式の商業ビルの代表作です。外壁の縦の線を強調したスタイルは、ドイツのピアノ製作会社の本社建物の外観を意識したといわれています。 室内中央玄関のステンドグラス、1階ピアノ売場の天井や階段、音楽書売場の大きな棚や鳥の形をしたダウンライトもそのまま残されています。 所在地:大阪市中央区北久宝寺町3丁目3-4
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旧明治屋ビル
1924年(大正13)竣工で、曽禰中條建築事務所の設計による細部にまで配慮されたネオ・ルネッサンス様式の建物です。クリーム色のタイルを張ったその外観は、一見シンプルに見えますが、ビルの最上部、装飾に飾られた塔屋に建物の素晴らしさが垣間見えます。1階の石張りと上階のタイル張りに間に巡らされた帯の部分、正面玄関の上にはうっすらと「MEIDIYA」という文字が残っています。 所在地:大阪市中央区南本町2丁目2-2
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旧早稲田屋ビル
早稲田大学をモチーフとした塔屋と、シャツを着た男性のステンドグラスが特徴的な建物。1935年(昭和10)に建てられました。 所在地:大阪市中央区本町2丁目1-2
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綿業会館
1928年(昭和3)に綿業倶楽部が発足し、1931年(昭和6)に竣工した建物です。設計は渡辺節で、村野藤吾が渡辺事務所の所員として担当しました。 鉄製の玄関扉、石積みアーチ窓、窓手摺などの装飾が特徴的で、内部は部屋ごとに異なる様式を採用しているほか、耐火ガラスや将来を見込んだ設備など先駆的な試みがみられます。 月1回、見学ツアーが開催されています。現在は国の重要文化財に指定されています。 所在地:大阪市中央区備後町2丁目5-8
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丼池繊維会館
1922年(大正11)、愛国貯金銀行として建てられた建物です。 戦後、繊維問屋街となった丼池筋で地域の商業者が株式会社丼池繊維会館を設立してこの建物を取得し、繊維問屋ビル・大阪丼池卸連盟の拠点として活用してきました。 改修により特徴的な外観が覆われていましたが、2016年(平成28)に大規模な改修を行い、現存するオリジナル部分をできるだけ活用するとともに、現代的なデザインを付加して魅力的なビルに生まれ変わりました。 所在地:大阪市中央区久太郎町3-1-16
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三井住友銀行大阪本店ビル
住友合資会社工作部による設計で、1926年(大正15)に北側が、4年後に南側が完成しました。 シンプルに見える外壁ですがじっくり観察すると細かな装飾があり、大理石の玄関も威厳が感じられるデザインになっています。 生きた建築ミュージアムフェスティバル(イケフェス)では、ステンドグラスがある共用応接ロビーや営業フロアが特別公開されています。
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石原ビルディング
1939年(昭和14)、その当時心斎橋にあった石原時計店が、拡幅工事を終えた御堂筋沿いに建てた賃貸ビルです。低層部は石張り、3階以上はタイル張りで、細長い窓が連続するシャープなデザインになっています。 石原時計店は1846年(弘化3)に南久宝寺町で創業した老舗の時計店で、現在も石原ビルディングの1階で営業を続けています。
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今橋ビルヂング
1925年(大正14)に建てされた(旧)大阪市中央消防署今治出張所です。 テナントのレストラン「ダル ポンピエーレ」はイタリア語で「消防士」という意味。天井の高い1階は消防車を収納する車庫だった空間で、2~3階の窓枠は大きなアーチ状で美しく装飾されています。バルコニーの下には消防署であった証のように、赤いランプが残されています。 登録有形文化財に指定されています。 所在地:大阪市中央区今橋 4丁目5-19
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新井ビル
1922年(大正11)に、大日本報徳銀行大阪支店として建てられ、のち新井証券を経て新井ビルとなりました。銀行建築の名残を感じさせる1階の柱列が印象的な外観の建物です。 戦後テナントビルとなり、2005年(平成17)にスイーツの「五感 北浜本館」がオープンしました。2階の執務室だった部屋がケーキサロンになっており、ここではクラシックコンサートが開催されることもあります。国の登録有形文化財に指定されています。 所在地:大阪市中央区今橋 2丁目1-1
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適塾
適塾は、1838年(天保9)に緒方洪庵が開いた蘭学塾の私塾です。 1845年(弘化2)から1862年(文久2)の17年間をこの地で過ごしました。1階は緒方洪庵家族の生活スペース、2階は蘭学勉学に励んだ若者たちの大部屋でした。 適塾は大学の元祖と言われ、医学以外の自然科学も学ぶ総合教育機関でした。 江戸時代末期の大阪の町家建築の特徴を有しており、国の重要文化財に指定されています。現在は、有料で一般公開されています。 所在地:大阪市中央区北浜3丁目3−8
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高麗橋ビルディング
1927年(昭和2)に竣工。当時はめずらしかった鉄骨・鉄筋コンクリート構造で、7階部分は戦後増築されました。 設計は安井武雄で、各階の帯を巻いたような壁はよく見ると前に傾き、その庇も角がアールになっています。玄関には三日月の装飾、エントランスにはイスラム風の月と竹の装飾があり、東洋的な雰囲気を漂わせています。 所在地:大阪市中央区高麗橋2丁目1−2
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三井住友銀行大阪中央支店
1936年(昭和11)に建てられた古典主義建築の集大成のような建物。正面のイオニア式のジャイアントオーダーなど、銀行建築らしい重厚で格式のある様式になっています。曾禰中條建築事務所の最後の作品でもあります。 2階建てであるため1階の階高が高く、内部空間のボリュームは圧巻。3階壁面の楕円形の飾りは、ローマ神話に登場するメルクリウス(商業の神)の持物です。 所在地:大阪市中央区高麗橋1丁目8-1
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大阪会議開催の地
1875年(明治8)伊藤博文、井上馨、五代友厚らの斡旋で、大久保利通、木戸孝充、板垣退助が北浜の料亭「花外楼」で談合し、立憲政体の基礎が確立されたのが「大阪会議」です。「花外楼」のある一帯は、もとは三角州の新地で蟹島(かにしま)と呼ばれ、眺望が良く多くの料亭が立ち並んでいました。
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大阪金相場会所跡
江戸時代、貨幣には金、銀、銭があり、幕府の定めた交換比率は複雑であったため、3つの間で交換比率を決定する必要がありました。これを決めていたのが金相場会所で、1660年代に設立されたとされ、1743年(寛保3)に北浜に移転しました。1872年(明治元)に、銀目取引廃止により金相場会所は閉鎖され、その跡地に大阪株式取引所(旧大阪証券ビル市場館)が開設されました。
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大阪俵物会所跡
「俵物」とは、江戸時代、干し鮑・フカヒレなどを俵詰めしていたことによる呼称です。当時は中国の高級食品として需要が高く、輸出されていましたが、銅の替わりに海外貿易の決済としても使われるようになりました。幕府は、1744年(延享元)俵物を特定の商人しか売買できないように独占集荷体制をつくり、長崎、大坂、下関に会所を設置しました。大阪俵物会所は、当初備後町にありましたが、1777年(安永6)北浜に移りました。
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淀屋の屋敷跡
初代の淀屋常安が北浜で材木商を創業し、大阪の陣の後、淀川の改修や中之島の開拓で業績を伸ばしました。二代目の淀屋个庵(こあん)は、「米市場・魚市場の開設」「国内外の交易」「大名貸しに代表される金融業」などの幅広い事業を起こし、莫大な財を築くとともに、商都大坂の繁栄の基礎をつくりました。淀屋の屋敷は土佐堀川に面し、東西は心斎橋筋から御霊筋付近にまで及び、約1万坪あったと言われています。
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林市蔵像
1918年(大正7)、当時大阪府知事だった林市蔵は、現在の民生委員制度の礎となる方面委員制度を創設し「民生委員の父」と呼ばれています。この記念像は、その功績をたたえて制作されたものです。
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松瀬青々生誕地
松瀬青々は1869年(明治2)、現在の北浜4丁目に生まれた俳人です。1899年(明治32)に上京して『ホトトギス』の編集に従事します。大阪に戻った後、俳句雑誌『宝船』を主宰し、流麗自在の排風を開き、大阪俳壇の基礎を築きました。
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手形交換所発祥の地
1879年(明治12)、この地に大阪交換所(のちの大阪手形交換所)が開設され、わが国最初の手形交換を始めました。東京での開設はこれより8年後でした。以来100年、手形取引の健全な育成と大阪経済の繁栄に貢献しました。
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大阪慶應義塾跡
緒方洪庵の適塾に学んだ福沢諭吉が、江戸築地に慶應義塾の礎となる蘭学塾を開塾。その後、最初の分校を開いたのが大阪で、1873年(明治6)に大阪慶應義塾がこの地に開設されました。
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帝国座跡
オッペケペー節で知られた川上音二郎が、新しい演劇の拠点として1910年(明治43)に建築したのが帝国座です。1000人を収容する純洋式劇場で「オセロ」「ベニスの商人」などが上演されました。しかし、帝国座開場の翌年、音二郎は旅先の舞台で倒れ、病院から帝国座に運び込まれ楽屋で臨終を迎えました。享年47歳。葬儀は別れを惜しむ大阪市民が街を埋め尽くしたと言われています。
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愛日小学校跡
1886年(明治19)に愛日小学校が誕生し、1896年(明治29)にこの地に移転しました。1990年(平成2)に集英小学校と統合、開平小学校が新設されたことにより閉校になりました。愛日小学校の前身の北浜小学校は、1872年(明治5)に豪商「升屋(ますや)」(山片家)が自らの居宅を寄贈してできた小学校で、その際に一緒に寄贈された山片家の蔵書などは愛日文庫として、現在、開平小学校に保管されています。
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集英小学校跡
現在の開平小学校のある地に、1897年(明治30)集英小学校が誕生、校舎は「今橋の御殿」と呼ばれた立派な木造校舎でした。1927年(昭和2)に、室内プールやエレベーター、暖房など近代設備が完備した鉄筋コンクリートの新校舎に建て替えられました。1990年(平成2)に愛日小学校と統合、開平小学校が新設されたことにより閉校になりました。
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天五に平五 十兵衛横町
両替屋が生まれたのは、大坂では1628年(寛永5)天王寺屋五兵衛が始めたのが最初だと言われています。両替屋の最有力者十人両替の天王寺屋五兵衛と平野屋五兵衛の2軒が、道をはさんで店を構えていたことから、「十兵衛横町」と呼ばれました。開平小学校が平野屋の屋敷跡です。
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銅座の跡
1766年(明和3)銅の管理を行う銅座がここに置かれました。江戸時代、銅は重要な輸出品で、大坂は当時の銅精錬業の中心でした。諸国の銅山より産出した粗鋼は銅座がすべて買い上げ、大坂で技術を競っていた銅吹き仲間に精錬をさせた後、再び集めて海路長崎に送り輸出されました。銅の密売を防ぐために、古銅類買い上げの精細な規定がつくられ、銅器の破片にいたるまで管理されていました。1880年(明治13)、跡地に愛珠幼稚園が設けられました。
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除痘館跡
緒方洪庵は、当時多数の死亡者を出していた天然痘の予防のため、多くの医師とともに1849年(嘉永2)除痘館(私立種痘所)をつくり、種痘をおこないました。その場所ははじめ古手町(道修町4丁目)でしたが、1860年(万延元)にこの場所に移し、全国に種痘ワクチンを送って幅広く活動しました。
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懐徳堂旧阯碑
1724年(享保9)、三宅石庵と中井甃庵を教授に迎え、5人の町人が出資して、町人のための私塾、懐徳堂を創設しました。ここでは教養としての学問だけでなく、実用的な学問を教えました。2年後、甃庵らの奔走により、幕府から大坂学問所として公認されました。懐徳堂では、身分に関係なく学問を志すものがならばだれでも学問を習うことができ、山片蟠桃はじめ多くの知識人を輩出しました。
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里程元標跡
当時、高麗橋付近は大商人たちが商いを行い、近畿圏の経済の中心となっていました。道路の起点は高麗橋からとし、道のり計算のスタート地点は橋の東詰でした。碑には「東京日本橋まで百四十三里二十丁、京都三条大橋まで十三里十二丁、神戸元町まで九里三十五丁」と刻まれています。
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大阪商法会議所跡
銀目取引の廃止と、貸し倒れによる富豪や両替商の資産消失など、低迷期にあった大阪経済を立て直すべく、大阪財界指導者15名により1878年(明治11)に大阪商法会議所が設立され、今日の大阪商工会議所の礎となりました。初代会頭は五代友厚で、大阪経済の復興に大きく貢献し、1928年(昭和3)大阪商工会議所と名称を変更しました。(現在、建替工事に付き史跡見学不可)
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北組惣会所跡
江戸時代の大坂は、大川以南から本町通までの北組、本町通から道頓堀あたりまでの南組、大川以北の天満組に区分され、その3組を総称して大坂三郷と呼ばれていました。各組で、年貢の取り立て、御触の通達、火消しの人手の指揮など、現在の市役所・司法・消防・警察の役割を担っていた場所が惣会所でした。
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泊園書院跡
儒学者・藤澤東畡が1825年(文政8)に、民衆に漢学を教える私塾として泊園書院を設立しました。現在、石碑が建つ場所に塾が移されたのは1876年(明治9)で、最盛期には塾生は100名に達したといわれています。泊園書院の2万冊余りの蔵書は、現在、関西大学に泊園文庫として保存されています。
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梅川・忠兵衛 ゆかりの淡路町
近松門左衛門の世話物の代表作『冥土の飛脚』に出てくる飛脚問屋亀屋が淡路町にあったことから、この場所に石碑が建てられました。この物語は実話の為替金横領事件を題材に脚色されたもので、遊女梅川に入れあげる忠兵衛が養子に入ったのが、飛脚問屋の亀屋でした。
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佐久良東雄先生寄寓奉仕の処
動王派四天王に数えられた幕末の志士佐久良東雄は、1847年(弘化4)、坐摩神社の神官・渡辺資政との縁で来阪し、境内に住んでいました。1860年(万延元)3月、桜田門事変で首謀者を庇護したことにより幕府に捕らえられ、獄中で亡くなりました。
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芭蕉終焉の地
松尾芭蕉は、伊賀上野に生まれ、西山宗因に学んだ後江戸に出て、その後は生涯、日本各地を旅して俳句を詠みました。1694年(元禄7)10月に、この場所にあった花屋仁右衛門の裏座敷で51歳の生涯を終えました。南御堂境内には、松尾芭蕉の句碑があります。
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稲荷社文楽座跡
1811年(文化8)、難波神社の稲荷社に浄瑠璃小屋が建てられました。のちに松島に移転した際に「文楽座」と名乗り、初めて「文楽」が誕生します。1884年(明治17)、別の一派が再び稲荷社で人形浄瑠璃を始め、同じ年に御霊神社に移った文楽座とともに、船場の社交の場として栄えました。
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橋本宗吉絲漢堂跡
江戸時代、町人の出資により江戸に留学して蘭学を学んだ橋本宗吉は、帰阪後、私塾・絲漢堂を開きました。絲漢堂で指導を受けた中天游は、宗吉の精神を継いで蘭学塾を開き、その門下生には緒方洪庵がいました。宗吉の精神は脈々と受け継がれ、現代の大阪医学の礎となっています。
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旧鴻池家本宅跡
酒造業と海運業で財を成した鴻池家は、1656年 (明暦2) に両替屋を始め、1674年(延宝2)に現在地の今橋通に内久宝寺町より両替店を移しました。1854年(嘉永7)には長者番付の最高位で東の大関となるほどの豪商でした。明治になると大名貸しの貸し倒れにあいますが、第十三国立銀行(鴻池銀行、現三菱UFJ銀行)などを設立します。鴻池本宅は、1947年(昭和22)大阪美術倶楽部に売却され、現在に至っています。
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吉野寿司
箱寿司1841年(天保12)創業。170余年にわたり、箱寿司、棒寿司、蒸し寿司など大阪寿司の伝統を守り続けている老舗です。丹念に仕込んだ高級素材をすし飯の上にのせ、箱で押して作られる箱寿司は、華やかな見た目の美しさから「二寸六分の懐石」とも呼ばれています。
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美々卯本店
麺類・日本料理創業200年余の料亭。泉州・堺から大正時代に心斎橋へと移り、戦後間もなく船場に本店が移ってきました。大阪を代表する名物『うどんすき』を始め、四季折々の日本料理を堪能することができます。味の決め手となる秘伝の出汁は職人技によって継承され続けています。
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本家 柴藤
うなぎ享保年間の創業から300年。将軍家に魚を献上する川魚商が、八代将軍吉宗の勧めで料理屋「柴藤」を開業したのが始まりと言われています。創業者がうなぎの美味しい食べ方を研究し、ご飯の間にうなぎを挟んで蒸す「間蒸し」を考案。タレも創業以来の製法がそのまま受け継がれています。
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マクラーレン大阪
アジア太平洋地域初のマクラーレンショールームとして御堂筋沿いに2012年オープンしました。内装材や家具、照明にいたるまでマクラーレン世界統一コンセプトに基づいて設計されており、展示されているスーパーカーとともにマクラーレンブランドの世界観を感じることができます。
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東横堀緑道
東横堀川は1585年(天正13年)に豊臣秀吉の命により大坂城の西惣構堀として開削された大阪市で最古の堀川です。この東横堀川ぞいにある細長い緑地が東横堀緑道です。上部を阪神高速が通っていますが、緑道沿いには店舗や民家なども点在しており、川に触れることのできる憩いの場となっています。川沿いに南下すると東横堀川は西へ曲がって道頓堀川となります。
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開平小学校
開平小学校は、愛日小学校と集英小学校の2校を統合して1990年(平成2)に発足した、船場エリアのなかにある唯一の小学校です。明治時代なかごろの船場には店も住まいも多く、小学校が8つもありました。(現在の連合町会にその名前が残っています。)オフィス街としての色が濃くなって住民が減少し小学校は一つになりましたが、その分、それぞれ歴史ある小学校の伝統や財産などが開平小学校に引き継がれており、建物も教育も地域に対する思いの詰まった小学校となっています。平成に入ってまた船場には居住者が増えはじめ、開平小学校の児童数も現在は増加しています。
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船場センタービル
中央大通りのど真ん中をどーんと横たわるのが船場センタービルです。全幅はなんと東西約1000m! 高速道路、一般道路のバイパス、地下鉄の構造体と2駅、などが渾然一体となったとてもめずらしい構造物なんですよ。
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フジカワビル
堺筋に面してガラスブロックを中心としたファサードがひときわ目をひくモダンな建物がフジカワビルです。戦後のビル(1952年竣工)ではありますが、昭和の名建築家村野藤吾の作品で、新ダイビルや新歌舞伎座の建て替えなどで村野作品が減少しているなか、いまでも建設当初の使われ方に近いかたちで愛され使われ続けており、とても貴重な建物です。バルコニーのグリルや階段手摺などに村野藤吾らしいディテールがちりばめられています。
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難波神社
難波神社は仁徳天皇を祭神として建てられたと伝えられ、ほかにも源頼朝が土地を寄進した記録があったりと、歴史上の人物が随所に登場する由緒ある神社です。では難波にあるわけじゃないのに、なぜ難波神社というのでしょう?難波という地名は西成郡難波村に由来していますが、もとは南船場・島之内・下船場・堀江の一帯のことで上難波村(南船場)と下難波村(その他)に分かれていました。というわけでこのあたりはむかし上難波村と呼ばれていた地域なんです。ちなみに現在の難波と呼ばれるエリアは1724年(享保9)の享保の大火の後に、天満橋南詰の本堺町・京橋一丁目・京橋北詰の相生西町と相生東町の一部が火除地となったため、その移転先としてできた難波新地が中心となっています。
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南御堂(真宗大谷派難波別院)
南御堂(みなみみどう)と呼ばれ親しまれている真宗大谷派の寺院で、正式な名称は真宗大谷派難波別院といいます。1596年(文禄5)真宗大谷派の開祖である第12世・教如(きょうにょ)が、現在の北区の天満橋と天神橋の間に位置する「渡辺の地」に大谷本願寺を開創したことに始まり、1583年(天正11)豊臣秀吉(とよとみひでよし)が石山本願寺跡に大坂城を築城、城下町を整備していくにあたり石山本願寺に隣接して建っていた大谷本願寺は、秀吉の命により1598年(慶長3)現在地に移転しました。 1602年(慶長7)に徳川家康の寄進によって京都に東本願寺が建立されるまで総本山でしたが、それ以降は大坂第一の拠点寺院として地域に親しまれてきました。 北御堂と呼ばれた津村別院とともに、大阪のメインストリートである御堂筋の語源となっています。
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坐摩神社
ざま神社とも呼ばれますが、坐摩大神(いかすりのおおかみ)が祀られており坐摩(いかすり)神社が正式な名前です。神社の歴史は古く神武天皇が即位されたときに御神勅により宮中に奉斎されたのが起源とつたえられています。大阪城築城に際して現在の地に移されましたが、船場が大阪の中心として賑わい始めた時期であり、江戸時代には門前に店々が立ち並んでいたといわれます。大阪が大きく発展する原動力となった繊維業や、この西側に多くあった陶器商とも縁が深く、境内には繊維神社、陶器神社も祀られています。
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御霊神社
浪速の氏神として知られる御霊神社は古く800年代後半の創建。大阪湾が深く入りこんで、葦が繁る円形の入り江に祀られた円神社に始まります。船場という土地柄、商売の縁を結ぶ「縁結びの神様」としての信仰も篤く、船場言葉の御寮人「ごりょんさん」(商家の若奥様)と語呂が似ているところから、「御霊さん」や「御霊はん」と呼ばれ愛されてきました。高層ビルが立ち並ぶ御堂筋にほど近く、都心の癒し空間でもあります。
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湯木美術館
日本料理の名店「吉兆」は現在の高麗橋に移る前ここにありました。現在は湯木美術館として創業者湯木貞一が集めた茶道具や古美術などのコレクションを収蔵展示しています。重要文化財11点、重要美術品3点。茶室の趣きで作られた展示室は聚楽壁で仕上げた和風造り、一歩足を踏み入れると、都心とは思えない清閑で上質な空間が広がっています。
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くすりの道修町資料館
道修町は江戸時代から今までずーっと全国に名を知られる薬の町。ということで通りにある薬の神社「少彦名神社」には薬の資料館が併設されていて350年まえから残る道修町や薬に関する資料が保存、展示されています。道修町の歴史映像や、江戸の売薬の絵びら(ポスター)や引札(チラシ)、大正から昭和の看板などの展示品を無料で見ることができますよ。
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大阪企業家ミュージアム
「サンソウカン」と呼ばれる中小・ベンチャー企業支援拠点、大阪産業創造館の地下1階にある博物館です。パナソニックの松下幸之助、サントリーの鳥井信治郎、ダイエーの中内㓛をはじめ大阪で活躍した多くの企業家たちの解説や写真、ゆかりの品々を展示しています。未来を切り開くヒントがみつかるかもしれません!
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東急ハンズ心斎橋店
長堀通沿い、地上8階・地下1階の関西最大規模を誇る東急ハンズです。生活雑貨からモノづくり素材まで総数約12万種、見てるだけでも楽しい品揃えで仕事や趣味、普段の生活に新しいヒントをあたえてくれます。
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淀屋橋odona
愛日小学校の跡地に2008年登場したおしゃれな商業施設です。御堂筋線淀屋橋駅10番出口に直結するビルには、大人のテイストを持つセレクトショップやファッション雑貨店、飲食店などが入っており、オフィス街としての色が濃い淀屋橋エリアのオアシスとして多くの人に利用されています。
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北御堂(浄土真宗本願寺派本願寺津村別院)
浄土真宗本願寺派と大坂の関係は古く、本願寺第8世・蓮如が明応5年(1496)に石山御坊を現在の大阪城の地に建設したのが始まりとされています。天正19年(1591)には豊臣秀吉の寄進により京都に本山が移転しますが、慶長2年(1597)大阪に「津村御坊」という名の別院がにつくられました。その南側に1年後に建てられた南御堂(難波別院)とあわせて江戸時代からいままで「御堂さん」として親しまれてきました。1937年に拡幅工事が完成して大阪のメインストリートとなった御堂筋の名前は、この北御堂・南御堂と呼ばれたこの2つの別院に由来しており、当時の大阪市長・關一が名付けたものです。
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大阪産業創造館
壁面を七福神がカヌーを漕いで登っていくのが印象的なビル大阪の中小・ベンチャー企業支援拠点として、経営相談やセミナー、交流会など多様なサービスをおこなっています。また地下には、大阪で活躍した企業家たちを中心に、大阪経済の発展の歴史をわかりやすく展示する大阪企業家ミュージアムがあって誰でも見学できます。休館日(日曜日、月曜日、祝/休日、年末年始、お盆)大人300円 中・高・大学生 100円 小学生以下は無料(保護者、引率者同伴)
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北浜レトロビルヂング
1912年(明治45)に株仲買商の商館として建てられた小規模な英国式洋館です。長年放置されていたところを現在のオーナーが買い取り、「往時の姿を再生したい」という想いから1997年(平成9)に大規模なリノベーションを実施。純英国式ティールームとして生まれ変わりました。 2階の客席からは、中之島のバラ園を臨むことができます。 建物は国の登録有形文化財に指定されています。 所在地:大阪市中央区北浜1丁目1-26
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北浜長屋
土佐堀川沿いにある木造の2軒の長屋。道路側から見ると2階建てで、土佐堀川側から見ると3階建てになっています。 観音開きの開口部が設けられ、両端には卯建が立ち上がる和風の建物ですが、玄関の上部に洋風のペディメントが見られるなど、和洋折衷のデザインになっています。 2017年(平成29)にまちなみ修景とリノベーションが行われ、鎌倉で話題のカフェOXYMORON(オクシモロン)など3店がオープン。船場の新たな人気スポットになっています。 所在地:大阪市中央区北浜1-1-22
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大阪倶楽部
1914年(大正2)に会員制の社交倶楽部として竣工しましたが、1922年(大正11)に焼失し、1924年(大正13)に現在の大阪倶楽部新館ができました。安井武雄の「自由様式」と言われる作風で、「東洋風」や「南欧風」の意匠が凝らされています。 1~2階は会員専用で、3~4階の会議室やホールでは会員以外も参加できるイベントが開催されています。2カ月に1度、見学ツアーも開催されています。現在は登録有形文化財に指定されています。 所在地:大阪市中央区今橋4丁目4-11
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日本生命保険相互会社本館
1889年(明治22)に創立された日本生命は、1902年(明治25)に現在の場所に本店を構えて以来、この地で営業を続けています。最初の赤煉瓦の洋館は、細い路地の頃の御堂筋沿いにあり、正面玄関は心斎橋筋に面していました。現在の本館は、1938年(昭和13)に北半分が完成、戦争中は工事が中断し、戦後はGHQに接収され、1962年(昭和37)にようやく全体が完成しました。 最上階の軒飾り以外は石張りのシンプルなデザインとなっています。 所在地:大阪市中央区今橋3丁目5-12
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愛珠幼稚園
1880年(明治13)に町民たちにより建立された愛珠幼稚園は、現役の日本最古の木造園舎です。現園舎は1901年(明治34)に竣工した3代目になります。 明るく工夫された遊戯室や、天井のアールヌーボー風のシャンデリアなどの豪華なインテリアに船場商人の教育にかける心意気が感じられます。また、1931年(昭和6)に設置された廻旋滑り台は現在も使われており、2007年(平成19)に園舎とともに国の重要文化財に指定されました。 所在地:大阪市中央区今橋3丁目1-11
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吉田理容所
1930年(昭和5)に開業した老舗理髪店。当初は9~10軒長屋だったようで、そのうち5軒が現存しています。 屋根瓦や箱軒、1階外壁のタイル張りなどに、昭和初期の建物の特徴を見ることができ、玄関回りのデザインからはモダンさが伝わってきます。店内壁面に架けられたドイツ製の5枚の大鏡は大切に受け継がれ、今も現役で活躍しています。