鳥取城下町大切図 川内下
袋川と外堀との間に区画された町割のうち、下構とも呼ばれる智頭街道よりも西側(袋川
の下流側)を描いた絵図。この大切図には15町の町人町と、総構である袋川沿いや町人
町に点在する武家の拝領屋敷(黄色)や藩有地(赤色)、寺院(朱色)が描かれている。
このうち町人町は、一軒ごとに表間口と奥行の間数を記し、その所有者を記載している。
町人町の土地所有状況を記すのは、表間数を指数とする町役の賦課・十分一銀(町屋の売
買に際して、その価格の10分の1を徴収する)などを算出するためと推定される。しが
たって、本図によって必ずしも現住者の情報を得ることはできない。また本図には所々に
所有者の変更を示す貼り紙があり、その下限は明治3年(1870)である。このことから、
土地管理の基礎資料として町会所などで長期にわたって利用されていた状況がうかがえる
。なお、大切図は、本図を含めて6枚に分けて城下町全体の町人町を描いており、その構
成は、川内上、川内下、江崎・上町・立川、川外上、川外下、新品治となっている。
update date: 2024.04.01
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鋳物師橋 no name
袋川に架かる伯耆往来の橋。元和5年(1619)にかけられた五橋のひとつで、当初は「伯耆橋」と呼ばれたが、鋳物師町へ通じる橋であったことから、のちには「鋳物師橋」と呼ばれるようになった。延宝元年(1673)、寛政7年(1795)、嘉永3年(1850)、慶応2年(1866)の洪水により流失した。
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木屋佐吉 no name
文久3年(1863)以降、薪炭商売として宝隆院(11代藩主夫人)の御用を務めた。
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中村屋善十郎 no name
豆腐屋
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浜屋安五郎 no name
弘化2年(1845)以降に質屋を営んだ町人。
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山田屋喜十郎 no name
酒造業を営んだ町人。文久3年(1863)に銀札100目を御用銀として上納した。
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常屋利三郎 no name
酒造業を営んだ町人。
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米屋十良兵衛 no name
鳥取城下の商人。正徳期(1711-15)には材木町に居住し、藩が臨時に課した賦課金を上納した。十郎兵衛(重良兵衛)は、天保3年(1832)より大目代を勤めた。嘉永3年(1850)には十蔵が米相場役頭・米問屋兼帯を命じられた(「町人旧功書」)。安政5年(1858)に大目代となり、「松田」姓を名乗ることが許された(「町奉行日記」)。
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山家屋十治郎 no name
城下町の町人。享和元年(1801)より馬庄屋を命じられた。嘉永6年(1853)に藩が賦課金を申し付けた際には、銀500目を上納した。
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川端四丁目 no name
町人地。川端三丁目と同様に宿屋町を形成した。江戸中期以降、鹿野街道沿いは青物・干物を商う店が軒を連ねた。文久3年(1863)以降、町内の常屋文次郎(酒商売)と油屋伝吉(燈油商売)は宝隆院(11代藩主夫人)の御用聞を勤めた。寛永11年(1634)の竈数45、安永7年(1788)の家数104。寛政10年(1798)3月20日の茶町火事で町内の一部が延焼した。このとき焼失した竈数は家持1軒、家守4軒、借家8軒であった。
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夜番屋敷 no name
河端四丁目に設けられた番人の詰め所。運営費はすべて町内に賦課された。江戸後期には家守(管理人)が居住して用務を勤めた。夜番屋敷は、豆腐町、茶町、鹿野町、新町、元大工町などの町内にあった。
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豆腐町 no name
町人地。両側町で、町名の由来は、池田長吉の時代(1600-17)に藩の御用を勤めた商人が豆腐屋を営んでいたことによるという。また畳職人が多かったので、「畳屋町」とも呼ばれた。現在は町名が変更され、町域の大部分は片原四丁目となっている。 寛永11年(1634)の竈数32、安永7年(1788)の家数52。寛政10年(1798)3月20日の茶町火事で町内が全焼した。このとき焼失した竈数は家持24軒、家守15、借家9軒であった。※家守:地主に代わってその所有地を管理した者。
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御納屋(塩座) no name
藩の塩を統括した役所。「塩座」とも呼ばれた。城下で消費される塩は、藩の公定価格で販売された。
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近江屋弥右衛門 no name
呉服商を営んだ町人。嘉永6年(1853)には呉服屋年行司を勤めた。また弘化3年(1846)には、来店した帯刀の者に商品を持ち逃げされ、被害届を提出している(「町奉行日記」)。
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中村屋太兵衛 no name
嘉永7年(1854)より鉄商いを始め、安政3年(1856)には酒株を借受けて酒商売にも従事した。
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二階町四丁目 no name
町人地。商家が軒をならべ、文化7年(1810)には奈良屋という商人が、久能寺焼物問屋を命じられた。また安政3年(1856)以降、藩が奨励した国内生産品(「御手懸り品」)を販売した御手懸り町人である虎屋治三郎(久能寺焼物売捌頭取)が居住した。寛永11年(1634)の竈数21、安永7年(1788)の家数52。寛政10年(1798)3月20日の茶町火事で町内の一部が延焼した。このとき焼失した竈数は家持1軒、家守7軒、借家2軒であった。
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三澤武兵衛 no name
藩士三澤家の拝領屋敷。俸禄は140石。三澤武兵衛(夫兵衛)は、藩の御算用聞や大坂御屋鋪御目付などを歴任した。享保12年(1727)に死去。
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竹乙久治郎 no name
柄巻師竹乙家の拝領屋敷。俸禄は20俵(のち4人扶持を加増された)。元文期(1735-40)に「竹乙」から「佐藤」へ改姓。柄巻師として幕末まで続いた。幕末の佐藤四郎兵衛は奥州会津で修行をした。
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二階町三丁目 no name
町人地。御用商人たちが店を構えていたほか、藩営の御納屋(塩座)があった。安政3年(1856)以降、藩が奨励した国内生産品(「御手懸り品」)を販売した御手懸り町人として、江戸廻蝋燭仕入方の糸屋源十郎、墨頭取の栗屋茂平、足袋頭取の鼡屋半兵衛、福井焼物売捌取扱方の若桜屋吉兵衛、髷掛曲括頭取の奈良屋藤三郎、襖紙頭取の宮長屋正蔵、絹織座の近江屋忠兵衛らが居住した。寛永11年(1634)の竈数24、安永7年(1788)の家数66。
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伏見屋藤七 no name
文久3年(1863)以降、菓子商売として宝隆院(11代藩主夫人)の御用を勤めた。
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有本屋徳平 no name
雛道具、曲もの、手遊類を商った町人。鳥取城下では、上構(智頭街道より東側)よりも、下構(智頭街道より西側)に雛屋が多かった。また内裏雛は、6寸(約18㎝)以上の販売が許されず、敷物、小道具、細工物も華美に製作することは禁じられた。
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米屋善四郎 no name
旅人宿。江戸時代中期以降、河端三丁目で宿屋を営み、京都・大坂・播磨・但馬・大和・阿波・能登などから来藩した商人、職人、僧侶、医師らの長期宿泊先となった。寛政11年(1799)には藩士の招きで来藩した京都北野の口中医(歯科医)藤井源蔵が宿泊した(「家老日記」)。江戸後期に入ると、領内で配札や祈祷を行った近江国池田村(現・滋賀県甲賀)の檜尾神社神職小川中務や、吉野山東南院が定宿とした。また幕末に入ると鳥取藩士・浅田主計(神刀兌山流)を訪ねてきた文武修行者の宿泊も多かった。安政2年(1855)には長崎でシーボルトに医学を学んだ西洋流医師今井芳斎(兼文)も長期逗留した。 近代以降は、明治20年(1887)に刊行された『商業便覧』に、「各国御定宿 米善事 米谷善四郎」として、建物が絵入りで紹介されているほか、大正11年(1922)には、神戸から調理人を招いて洋食店「米善食堂」を開業した。
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片原三丁目 no name
町人地。町内には修験の千手院と晴雲寺(善祥院)があった。享和2年(1802)には、片原町三丁目の京屋源助が、染物御用聞を命じられた。また安政3年(1856)以降、藩が奨励した国内生産品(「御手懸り品」)を販売した町人の太松屋庄助(木綿染方)は当町に居住した。寛永11年(1634)の竈数12、安永7年(1778)の家数28。
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大和屋久兵衛 no name
鳥取城下の商人。薬種商。屋号は大和屋。代々現在地で家業を営んだ。鳥取藩3代藩主池田吉泰(1700-39)に、六味地黄丸の御薬種御用を命じられた。また大目代など町役人としても活躍した。
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材木町(内丹後町) no name
町人地。当町の堀端沿いにはかつて大きな裏通りがあったが、正徳2年(1712)の麩屋火事で焼亡し、街路が変更されたようである。町名の由来は、材木商が袋川付近に多く居住していたことにちなむ。ただ「内丹後町」と呼ばれることの方が多く、安土桃山期の鳥取城主宮部継潤の時代(1581-1600)からあった古い町という。丹後の呼称は、人名に由来するものではないかとの推測もある。同町の為登(いと)は、材木や年貢米などの荷揚げ場で、城下町舟運の拠点となった。同町は文久3年(1863)以降、今田屋こと(穀物荒物商売)、浜屋文七(炭薪商売)が、宝隆院(11代藩主夫人)の御用聞を勤めた。 寛永11年(1634)の竈数25、安永7年(1788)の家数101。
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土橋 no name
この土橋は「がたがた橋」と呼ばれたことから、当初は粗略な板橋であったとも推測されている(「因幡志」)。
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御蝋座 no name
明和2年(1765)、鳥取藩域の蝋の生産・売買を統制するため設置された役所。当初は二階町にあったという(『江戸時代の因伯 上』) 。蝋の生産も同所で行われていたが、安政年間(1855-60)に法美郡宮下村仮田河原(現鳥取市国府町宮下)に工場を創設した。役所には蝋座奉行、目付、勤番の町人が詰めて事務を行った。文化10年(1813)には、藍の売買も差配することになったほか、領内の産物をすべて管轄した時期もあった。 生蝋はハゼの実を絞ったもので、ろうそくなどのもとになるものであった。もともと蝋は京・大坂から移入されていたが、藩がハゼの栽培を奨励し、製造された蝋を国産品として領内外へ販売した。文化年間(1804-18)には米子にも蝋座が置かれるなど、その利益は藩財政に寄与した。
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御国産役所 no name
国産品の奨励や他国品の仕入れを統制するため、嘉永5年(1852)に再開された国産方の役所。蝋座の南東にあった明石増之丞の拝領屋敷(絵図の付紙がある場所)が召し上げとなり、新設された。役所には国産方長役の中野良助以下、諸役人を置き、御用懸かり町人が会計事務にあたった。また長屋には直属の職方をおいて生産にも従事させた。「御手懸り品」として藩が資金や技術を援助した国産品としては、硯石、筆墨、絞り木綿、瓦、陶器などがあった。
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元魚町三丁目 no name
町人地。元魚町二丁目と同様に、料理屋が軒を連ね、また竹輪などの製造が盛んで「因幡の食い倒れ」といわれた。寛政2年(1790)には当町、元魚町二丁目、下魚町の3町以外の者は、生魚の店売と振売(売り歩き)が禁止された(翌年解除)。寛永11年(1634)の竈数36、安永7年(1788)の家数85。寛政10年(1798)3月20日の茶町火事で家持19軒、家守28軒、借家22軒が焼失した。
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丹波屋市郎兵衛 no name
雛人形を商った町人。鳥取城下では、6寸(約18㎝)以上になる内裏雛は販売が許されず、また敷物、小道具、細工物を華美に製作することも禁じられた。
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加路屋甚三郎 no name
生魚のみを取り扱った生物問屋。
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大谷文治郎 no name
鳥取城下の新興商人。屋号は塩屋。先祖の甚左衛門は間物問屋を勤めた。宝永年間(1704~10)に米問屋となり、享保19年(1734)には文次郎(寿哉)が藩の指示を受けて芸州での藩米売りさばきを担当した。延享元年(1744)に「大谷」姓を名乗ることが許された(「町人旧功書」)。ちなみに大谷家には芸州の某港で、窮民に米を与えて、深く感謝された逸話が、明治25年(1892)発行の修身書に美談として掲載されている。大谷家は鳥取の町人頭とも言われ、享保17年(1732)から宝暦13年(1763)までに負担した御用銀は5,448貫余(金にして約9万両)の巨額にのぼった。また嘉永6年(1853)に藩が賦課金を申し付けた際には、城下商人では最高額となる銀10貫目を上納した。江戸後期の文次郎(宣甫)は、衣川長秋の門で国学・歌道を学んだ歌人として名が通り、「椎の屋」と号した。宣甫の和歌は、近世後期の合同和歌集「類題鰒玉集」(加納諸平編)などに収載された。大谷四家のひとつで、俗に「本家大谷」と呼ばれた(「鳥取市史」)
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松村平左衛門 no name
鳥取城下の新興商人。屋号は松岡屋。初代市右衛門は、寛保年間(1741-43)より藩の賦課金を上納したという。明和5年(1768)には出合橋、同8年に鋳物師橋の渡り初めを命じられた。三代平左衛門は天明2年(1782)に大目代を勤めた。寛政元年(1789)には幕府巡見使(花房仙五郎)の旅宿となった。寛政8年(1796)には前年の洪水で流失損壊した袋川の五橋を秋里屋、玉屋とともに架け替えた。この功績により「松村」姓を名乗ることが許された。寛政11年には竹内藤右衛門とともに国産根取を命じられ、諸品の販売・統制を担った。五代佐一郎は、天保6年(1835)より町年寄を勤め、同14年(1843)に町方絵図(鳥取城下町大切図)を新たに製作した。
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下魚町 no name
町人地。当初は、大きな沢があって、蛙の鳴き声がうるさかったので、「蛙町」とも呼ばれた。町名は魚屋が集まっていたことや、上構の上魚町に対して下構にあったことにちなむ。寛政2年(1790)には当町、元魚町二丁目・同三丁目の3町以外の者は、生魚の店売と振売(売り歩き)が禁止された(禁令は翌年に解除)。現在は町名が変更され、片原五丁目となっている。元禄期(1688-1704)までは、当町から袋川の土手を越えて、川向こうの荒尾但馬下屋敷に渡るための橋(但馬殿橋)があった。 寛永11年(1634)の竈数43、安永7年(1788)の家数83。寛政10年(1798)3月20日の茶町火事で町内は全焼した。このとき焼失した竈数は家持16軒、家守23軒、借家38軒であった。※家守:地主に代わってその所有地を管理した者。
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妹尾屋助右衛門 no name
操綿木綿油問屋。
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紙屋又兵衛 no name
材木商。
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陸上屋伝兵衛 no name
安政2年(1855)に、忰の陸上屋儀助は町御用場筆役御雇を命じられた(「家老日記」)。
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鹿野町 no name
町人地。町名の由来は、気多郡鹿野(現鳥取市鹿野町)に続く道筋の起点にあたるためという。当初は武家屋敷地である北側の下台町を含めて「下片原町」といった。のちに町人地のみを鹿野町と称するようになった。現在は町名が変更され、町域の大部分は片原五丁目となっている。 寛永11年(1634)の竈数14、安永7年(1788)の家数79。寛政10年(1798)3月20日の茶町火事で町内は全焼した。このときに焼失した竈数は、家持30軒、家守19軒、借家29軒であった。※家守:地主に代わってその所有地を管理した者。
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夜番屋敷 no name
鹿野町に設けられた番人の詰め所。運営費はすべて町内に賦課された。江戸後期には家守(やもり)が居住し用務を勤めた。夜番屋敷は、豆腐町、川端四丁目、茶町、新町、元大工町などの町内にあった。 ※家守(やもり):地主に代わってその所有地を管理した者。
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杉屋安治郎 no name
城下町の町人。文久3年(1863)に金10両を御用金として上納しており、同年には酒造株も譲り受けた。
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出合橋 no name
材木町と丹後片原町の間に架かる橋。「丹後町之橋」とも呼ばれた(「因州記」)。元和年間(1615~24)に鳥取藩主池田光政の城下拡張整備によって袋川にかけられた城下五橋のひとつで、最も下流にある。橋名は、袋川の旧河道と新しい河道が出合う所に架けられた橋であるところから名付けられたとする説がある(「鳥府志」)。寛文3年(1663)には、渇水時の飲料水確保のため、出合橋より上流で馬や汚れ物を洗うことを禁止する法令が出された。 延宝元年(1673)、寛政7年(1795)、嘉永3年(1850)、慶応2年(1866)の洪水により流失した。
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御作事 no name
小細工ともいう。「湯所下の惣門」の門外、材木町(内丹後町)へかかる場所にある。以前は城内にあったが、万治年間(1658-60)にこの地へ移されたという。敷地内に役所があり、御普請方の御役人たちが毎日出勤し、御城内をはじめ、城下の官舎の建築修繕、土木工事に関することを管轄した。
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花屋武七 no name
城下町の町人。武七の孫愛之助は、文久元年(1861)に藩絵師根本幽峨の内弟子となり、万里高峨を名乗った(「家老日記」)。
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片岡藤内拝領屋敷 no name
元は御中小姓・岡村小次郎の拝領屋敷であったが、嘉永元年(1848)に屋敷替えが行われ、藩の御軍用役である片岡藤内の拝領屋敷となった。
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幾代屋清右衛門 no name
嘉永3年(1850)の「糀屋根帳」に年行司2名のうちの一人として名前がある。清右衛門は、糀運上(租税)として年に銀55匁を藩に納めることになっている。また嘉永5年(1852)の東照宮祭礼では掃除奉行を務めた(「町奉行日記」)。
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児島屋喜助 no name
文久3年(1863)以降、青物・干物商売として宝隆院(11代藩主夫人)の御用を勤めた。写真は、藩が児島屋喜助に交付した鳥取城内に入るための通行証(御門札) 鳥取城の門札(個人蔵)
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川端三丁目 no name
町人地。当初は、飴・たばこを商う町であった。慶安3年(1650)、因州東照宮の勧請のときに、上町の宿屋と入れ替えが行われ、宿屋町となった。日本最初の蘭和辞典『ハルマ和解』を完成させた藩医の稲村三伯(1758-1811)は、当町の町医者の子として生まれた。また安政3年(1856)以降、藩が奨励した国内生産品(「御手懸り品」)を販売した町人の扇屋治兵衛(縞木綿仕出方)は当町に居住した。寛永11年(1634)の竈数27、安永7年(1788)の家数63。<br>
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松屋喜十郎 no name
日野郡大庄屋の定宿。
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斧屋与兵衛 no name
元治元年(1864)に寛姫(12代藩主夫人)の料理御用聞を命じられた。
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真宗寺 no name
浄土真宗の寺院。山号は龍雲山。かつては沢市場(現県立鳥取西高等学校第2グラウンド)にあったとされ、「本願寺文書」に出てくる「因州鳥取真宗寺澤市塲御坊」に比定される(『因幡誌』)。京都・西本願寺の僧侶が来藩した際の宿坊にあてられた。享保5年(1720)の大火で、大雲院(当時は唯識院)が焼失した際には、常憲院(徳川綱吉)の13回法要を代行した。宝暦7年(1757)には常憲院の位牌と画像を護持することになったため、御紋付の幕と提灯の許可を藩に願い出ている。 明治45年頃の真宗寺(写真提供:鳥取市・個人) 明治45年頃の真宗寺(写真提供:鳥取市・個人)
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大谷(塩屋)甚四郎 no name
大谷四家のひとつで、俗に「質屋大谷」と呼ばれた。塩屋(大谷)十兵衛の分家。質屋を営み、嘉永5年(1852)には、正宗や来国俊などの刀剣類を藩に献上した(「町奉行日記」)。幕末には甚四郎が町代、大目代、町庄屋、町年寄などを歴任した。
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山伏千手院 no name
修験道の堂宇。本尊は不動明王(「因伯山伏籍」明治4年)。江戸末期には表長屋を貸家としており、安政7年(1860)に、浪人蒔田理左衛門(家老津田筑後の家来)にかわって、笠間彦造(家老荒尾志摩の家来)が借家人となっている(「寺社方日記」)。
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茶町 no name
二階町四丁目に続く両側町。元和5年(1619)の城下拡張にともなう町割で、下構二十町の一町としてつくられた。物資を積んで袋川を上がってきた高瀬舟(アサリ舟)の荷揚げ場として栄え、仲買人など多くの商人たちで賑わった。茶町の為登(いと)は、藩内で漁獲された魚類が集まる場所で、問屋が取り扱わない魚類の市が立った。とくに鰯が獲れた日は、買い物客で賑わったという。また船便が多く、荷物を積み卸しする労働者が集まっていることから、烟草・食物等の辻売りも立ち、問屋場のような活気があったという(「鳥府志」)。町名の由来には諸説があり、野間義学の「因州記」は、因幡地方には茶が少なく、他国より舟で運んだ茶を荷揚げし、売買した場所であったためという説。安倍恭庵の「因幡志」は、池田光政の時代に茶屋与左衛門が7間半(13.5m)の茶店を構えていたという説。岡島正義の「鳥府志」は、智頭郡より馬や徒歩にて運んだ茶が集まる場所であったとする説をとっている。 寛永11年(1634)の竈数26、安永7年(1788)の家数52。寛政10年(1798)3月20日、茶町の北屋次郎七(角升屋)宅より出火し、城下の武家屋敷・商家など約千軒が焼失した。茶町もこの火事で町内が全焼した。
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嶋屋九兵衛 no name
智頭街道沿いの元魚町2丁目角にあった商家。通称「角嶋屋」。代々、灯油や晒蝋を商っていた。智頭街道は、嶋屋の前で鍵形に曲がっていたので、この地点は「嶋屋の角」と呼ばれていた。嶋屋は江戸時代に蝋座の御用を勤め、天明6年(1786)には町年寄役に就任した。嘉永3年(1850)には、蝋座御用の功績により「八田」姓を名乗ることが許された。 明治以降も洋品雑貨を扱ってきたが、鳥取大火後の智頭街道直線化によって、昭和30年(1955)に閉店した。
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万屋助三郎 no name
元治元年(1864)に寛姫(12代藩主夫人)の干物青物類御用聞を命じられた。
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吉成屋権右衛門 no name
旅人宿。先祖は寛文年間(1661-72)に吉成村の北川家より出て、川端四丁目に居住して宿屋を営んだという(「御成婚記念 因幡之栞」)。阿波の藍玉、越中の反魂丹(食傷・腹痛などに用いる丸薬)、信濃の木櫛類、播磨の砂糖・太物・白粉・革細工、丹波の氷こんにゃくなどを城下で売る他国商人の定宿となった。
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南部與一兵衛 no name
藩士南部家の拝領屋敷。南部家は蒲生氏郷の旧臣。俸禄は250石。與一兵衛は、藩の吟味役や御普請元〆役を勤めた。
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魚屋勘治郎 no name
糀(麹)を製造と販売を行った町人。嘉永3年(1850)の「糀屋根帳」によれば、糀運上を年に銀45匁を納める町人として勘治郎の名前がみえる。
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八百屋市右衛門 no name
八橋郡の由緒宿。嘉永2年(1849)には八橋郡の大庄屋竹信家が止宿した。また翌年には廻米方御用のために来藩した尾道の商人が止宿した。同家は安政3年(1856)に絞油屋株を取得した。
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藤田屋惣右衛門 no name
城下町の町人。蝋座が手狭になったことから、安政5年(1858)に法美郡宮ノ下村(現・鳥取市国府町)に木の実の絞り場が新たに建設され、惣右衛門が蝋油製方を命じられた。
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前田屋治八郎 no name
古道具屋
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信濃屋庄兵衛 no name
絞油を商う町人。安政6年(1859)に藩が奨励した国内生産品(「御手懸り品」)を販売した御手懸り町人として御国産畳表類売捌頭取を勤めた。
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加嶋屋嘉助 no name
安政3年(1856)以降、藩が奨励した国内生産品(「御手懸り品」)を販売した御手懸り町人として、木綿染方を勤めた。
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山伏貴宝院 no name
修験の堂宇。本尊は観音。慶応2年(1866)に「牛王寺」と改めた。明治元年(1868)には、牛王寺の男子が鳥取藩で編成された新国隊に入隊した。
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木屋儀兵衛 no name
日野郡の鉄売買を担った町人。弘化3年(1846)には、鉄頭取として境融通会所から小割鉄を注文した。
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本町四丁目 no name
町人地。池田光政の時代(1617-1632)に「多門」という修験者が居住していたので、別名を「たもノ丁」と呼ばれた。町内には柄巻師や御役者らの拝領屋敷があった。御用商人も多く居住し、安政3年(1856)以降、藩が奨励した国内生産品(「御手懸り品」)を販売した御手懸り町人として、襖紙筆墨他所筆墨頭取の高砂屋丈助、木綿張仕立の布屋忠助らが居住した。 寛永11年(1634)の竈数25、安永7年(1788)の家数105。寛政10年(1798)3月20日の茶町火事で町内が延焼した。このとき焼失した竈数は、家持23軒、家守19軒、借家39軒であった。※家守:地主に代わってその所有地を管理した者。
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成教屋はる no name
成教屋(平井家)は、庶民に心学を講話する道場「成教舎」を運営し、安政3年(1856)には、因幡国を廻る許可を藩から得ている。安政6年(1859)にコレラが流行した際には、薬を施行し、藩から称美を受けた。
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舛屋喜兵衛 no name
雛人形を商った町人。なお、内裏雛は6寸(約18㎝)以上の販売が許されず、敷物、小道具、細工物も華美に製作することは禁じられた。
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小塩屋甚助 no name
城下町の町人。嘉永4年(1851)に酒株を取得した。嘉永6年(1853)に藩が賦課金を申し付けた際には、金30両を上納した。文久3年(1863)以降、酒商売として宝隆院(11代藩主夫人)の御用を勤めた。明治5年(1872)には二階町四丁目肆長を勤めた。
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塩屋十兵衛 no name
大谷四家のひとつで、鹿野街道沿いに屋敷があったので、俗に「鹿大谷」と呼ばれた。もとは「所屋」といったが、娘が大谷寿哉の妻となった縁から、塩屋十兵衛と改めた(「鳥取市史」)。十兵衛は天明2年(1782)に塩問屋、文化4年(1807)に米問屋を勤めた。また文政8年(1825)から天保2年(1831)まで町年寄を勤めた。天保14年(1843)には甲冑5領を藩に献上した(「町人旧功書」)。同家の大谷十兵衛(英庸)は、歌道に励み、近世後期の合同和歌集「類題鰒玉集」(加納諸平編)にも作品を残した。
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岩見屋文七 no name
玄米を精白して小売りする舂米屋家業の町人。
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八百屋覚左衛門 no name
幕末に町御用場の御畳御用を勤め、安政3年(1856)には御畳の御用聞を命じられた。
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豊田屋浅右衛門 no name
城下町の町人。文久元年(1861)に醤油値段が高騰していることから、丹後国(現京都府北部)より醤油を取り寄せて、醤油屋へ販売することを願い出ている。また嘉永6年(1853)に金10両、文久2(1862)年に金30両の賦課金を藩へ上納した。
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万屋庄八 no name
雛人形を商った町人。鳥取城下では、6寸(約18㎝)以上になる内裏雛は販売が許されず、また敷物、小道具、細工物を華美に製作することも禁じられた。
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宝良院 no name
修験道の堂宇。本尊は不動明王(「因伯山伏籍」明治4年)。国替え以降、代々が御目見を許された。享保9年(1724)の黒川火事で類焼した本尊安置所や居宅を建立するため、因幡・伯耆での托鉢を藩に願い出ている。安永4年(1775)には、下横町の延寿院が病死したことから山伏頭を勤めた(「家老日記」)。文化11年(1814)に山号を許され、「松浦山永照寺」と改めた。弘化4年(1847)には京都から和多柳応という人物を招いて心学講釈を行った。
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玉川助左衛門 no name
城下町の有力商人。屋号は玉屋。助左衛門の先祖は、寛保年間(1741-43)より藩の賦課金を上納したという。天明6年(1786)には大目代を勤めた。寛政8年(1796)に前年の洪水で流失損壊した袋川の五橋を秋里屋、松岡屋とともに架け替えた。この功績により「玉川」姓を名乗ることが許された。助左衛門は、文政9(1835)より御銀札場御用を勤め、天保9年(1838)には幕府の巡見使が来藩した際の脇亭主を命じられた。また同年より弘化4年(1847)まで町年寄を勤めた。同家では、跡を嗣いだ助左衛門(勝次郎)も、文久2年(1862)から慶応2年(1866)まで町年寄を勤めた。
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塩屋彦兵衛 no name
大谷四家のひとつで、俗に「角大谷」と呼ばれた。初代甚左衛門は摂津国神崎(現兵庫県尼崎市付近)から移り住んだ浪人で神崎屋を称した。大谷寿哉の養子分となり塩屋に改めたという(「鳥取市史」)。二代以降は代々塩屋彦兵衛を名乗り、米問屋、塩問屋、間物問屋などを兼ねた。また町年寄も勤め、「大谷」姓を名乗ることが許された。同家の大谷彦兵衛(季英)は、歌道に励み、近世後期の合同和歌集「類題鰒玉集」(加納諸平編)にも作品を残した。
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本町三丁目 no name
町人地。江戸時代中期までは、「小豆屋町」と呼ばれた。その由来は、但馬国(現・兵庫県北部)より小豆屋藤右衛門という商人が、当町に住居し、雑穀店を出したことによるという。町内には白銀師平井家、銀見高木家の拝領屋敷があったが、のちには町人地となった。また一時期、口中医(歯医者)の小寺家が居住していた。安政3年(1856)以降、藩が奨励した国内生産品(「御手懸り品」)を販売した御手懸り町人として、川本屋伊助(小倉仕出方)、西中屋清次郎(花かんざし)が居住した。寛永11年(1634)の竈数19、安永7年(1788)の家数68。
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柏屋太三郎 no name
古手物商売の町人。
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勝谷藤七 no name
御役者勝谷家の拝領屋敷。能の太鼓方。俸禄は3人扶持20俵。藤七は、享保9年(1724)に御役者の元藤岡新助屋敷を拝領した。弘化4年(1847)には子孫の六三郎が江戸の観世左吉流(太鼓方)のもとで修行した。
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殿村屋市三郎 no name
文久3年(1863)以降、呉服商売として宝隆院(11代藩主夫人)の御用を勤めた。
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土屋市良兵衛 no name
鳥取城下の商人。先祖太郎兵衛より、城下に居住した町人で、藩が臨時に課した賦課金を上納した。屋号は槌屋(土屋とも書く)。弘化2年(1845)に市郎兵衛が米問屋と米相場役頭を兼ねた。嘉永元年(1848)には、所蔵品の刀剣類を藩に献上するなどの功績が認められて、「小田」姓を名乗ることが許された(「町人旧功書」)。
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竹内藤右衛門 no name
鳥取城下の有力商人。高草郡秋里村の地主であった権兵衛が、享保7年(1722)に鳥取城下へ引っ越して町人となった。屋号は秋里屋。天明2年(1782)に米問屋となり、寛政2年(1790)からは絹織座を兼ねた。寛政8年(1796)には前年の洪水で流失損壊した袋川の五橋を松岡屋、玉屋とともに架け替えた。この功績により「竹内」姓を名乗ることが許された。江戸後期の当主藤右衛門は、安政元年(1854)に町年寄役筆頭を勤めた(「町人旧功書」)。
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小林屋覚兵衛 no name
日雇頭(公用の労役に従事した日雇を差配した役)を勤めた町人。
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山伏延寿院 no name
修験道の堂宇。下横町の北側にあり、本尊が青面金剛であることから、庚申堂と呼ばれた。元禄7年(1694)には庚申堂修復のため、因幡・伯耆での万人講を藩に願い出た。また元禄10年(1697)には庚申の開眼供養を浜坂村(現鳥取市浜坂)で行った。慶応2年(1866)に護国山天王寺と改めた。
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座頭六都 no name
六都(ろくのいち)は、弘化3年(1846)に御両国座頭頭役を命じられた座頭。頭役は藩内の座頭一般の事務を管掌し、藩から扶持米を支給され、町奉行の下に属した。 座頭は琵琶・琴・三味線を習得し、あんま・はり・灸などを職として生計を立てた視覚に障がいがある人を指す。京都にあった惣検校の支配を受けた。藩内の座頭は、惣検校より伯耆国倉吉に派遣された定住勾当(こうとう)が監督した。座頭のうち「御抱座頭」は、藩に召し抱えられ、扶持米や支配銀などを給された。また子息は、徒士や御坊主に召し出されることもあった。
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広小路芝生(旧下台町) no name
かつて下台町があった区画。下台町の由来は、池田長吉の時代(1600-1617)に、鹿野口惣門内にあった台座町に対する下の台座町であったことを略して下台町とした説(「因幡誌」)。古絵図に記された三門(だいさもん)にちなむとする説(「鳥府志」)。某氏の下代が住んでいたので、下代町とした説(「因州記」)など諸説がある。往事は鹿野町とともに「下片原町」とも呼ばれ、町人地が混在した。享保9年(1724)に下台町から出火した黒川火事の後、屋敷地が取り払われ、火除け地(広小路芝生)となった。
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筏屋庄七 no name
絞油屋
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黒坂屋直助 no name
町役人。目代を勤めた。
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筆屋市左衛門 no name
御用聞の町人。市左衛門の伯父にあたる植木屋栄次郎は、熟練した植木職人としての評価を受け、文久2年(1862)に藩の御庭松作りに召し抱えられた。
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町内夜番屋敷 no name
茶町に設けられた番人の詰め所。運営費はすべて町内に賦課された。江戸後期には家守(やもり)が居住し用務を勤めた。同様の施設は、豆腐町、川端四丁目、鹿野町、新町、元大工町などの町内にあった。※家守:地主に代わってその所有地を管理した者。
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下横町 no name
町人地。かつて町の北側に玄忠寺があったので、「玄忠寺横町」とも称した。なお、玄忠寺は、万治3年(1660)の火事で焼失し、新鋳物師町に移転した。また蛙町(下魚町)から入る町なので、「蛙町横町」とも呼ばれた。文久3年(1863)以降、海士屋善次郎(桶類商売)が、宝隆院(11代藩主夫人)の御用聞を勤めた。 寛永11年(1634)の竈数13、安永7年(1788)の家数64。寛政10年(1798)3月20日の茶町火事では町内が全焼した。このときに焼失した竈数は家持21軒、家守11軒、借家5軒であった。 ※家守:地主に代わってその所有地を管理した者。
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三明院 no name
修験道の堂宇。本尊は不動明王。地内には、荒尾家の蔵から銀子を盗んで美作(現岡山県北部)に追放されていた「おくら」という狐を、文化年間(1804-18)に三明院が荒尾家の許可を得て祀った「おくら稲荷」があった。天保3年(1832)に、三明院の忰弁快は、異風の拵えを差して、三味線を弾きながらご法度の踊りを行ったという罪で処罰された(「家老日記」)。
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家根屋勘十郎 no name
材木商。慶応元年(1865)に「御作事竹之釘御用聞」を命じられた(「家老日記」)。
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内市 no name
元禄8年(1695)6月に青物市として開市。開市当初は袋川の川外にあった「外市」(現南町)のみであったが、しだいに殷賑をきわめるようになり、袋川の川内の枡形にも「内市」がたてられた。江戸時代後期には、外市と内市が5日ずつの交代で朝市を立て、休日は元旦と9月17日(東照宮祭礼日)だけであった。 この内市・外市には、鹿野街道や伯耆往来を使って高草・気多郡の農民が作物を出荷し、その帰りに同所で物を購入し帰村していった。そのため、茶町や元魚町の鹿野街道筋の商家は繁昌し、城下でもっとも重要な商業地となった。明治以後も、市は続けられ多くの問屋が軒を連ねたが、昭和27年(1952)の鳥取大火後に再編がすすみ、昭和48年(1973)4月鳥取市条例による鳥取市公設地方市場(鳥取市安長)をもって約280年の歴史に幕を閉じた。
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鹿奴橋(鹿野橋) no name
袋川に架かる鹿野街道の橋。鹿野橋は元和年間(1615~24)に鳥取藩主池田光政の城下拡張整備によって袋川にかけられた城下五橋のひとつ。江戸時代には鹿野は、「鹿奴」(しかぬ)とも表記された。享保14年(1729)、寛政7年(1795)、嘉永3年(1850)、慶応2年(1866)に洪水で流失した。また宝暦14年(1764)、安永6年(1777)の架け替えでは、完成までの間、両岸の河端四丁目と本寺町が人を出して船渡しが行われた。
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松田屋太吉郎 no name
天保8年(1837)より質屋を営み、天保14年(1843)に具足22領を藩に献上した。嘉永5年(1852)には、元魚町の八木屋嘉助、河村郡橋津村灰吹屋治郎兵衛、汗入郡御来屋村船田六右衛門と連名で、木綿方融通所に指定されたいと藩に出願した。翌年に木綿融通方を命じられると、国産木綿の出荷販売統制に深く関与した。安政4年(1857)には生物・間物両座頭取兼役を命じられた。こうした功績により、安政5年(1858)に「石原」姓を名乗ることが許された。同家は慶応4年(1868)3月に山陰道鎮撫使の問題で来藩した松江藩家老小田要人の宿泊先となった。
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元魚町二丁目 no name
町人地。魚店が軒を連ね、両側から日筵が突き合うばかりに張り出していたという。当町と元魚町三丁目に肴問屋場が置かれ、1ヶ月交替でこれを勤めた。寛政2年(1790)には当町、元魚町三丁目、下魚町の3町以外の者は、生魚の店売と振売(売り歩き)が禁止された(翌年解除)。安政3年(1856)以降、藩が奨励した国内生産品(「御手懸り品」)を販売した御手懸り町人として、福田屋佐治郎が太物膳椀針金卸売頭取を勤めた。寛永11年(1634)の竈数30、安永7年(1788)の家数57。
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町内夜番屋敷 no name
豆腐町に設けられた番人の詰め所。運営費はすべて町内に賦課された。江戸後期には家守(管理人)が居住し、用務を勤めた。同様の施設は各町にあった。安政6年(1859)には家守の半七(28歳)一家が神社参詣と称して失踪する事件があった(「町奉行日記」)。
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善祥院 no name
修験道の堂宇。山号は金龍山。本尊の観音は、元禄11年(1698)に造立を藩に願い出たもので、「片原の観音」と呼ばれた。天保期(1831-45)に「晴雲寺」と改めた。因幡・伯耆2国の修験筆頭を命じられるなど、領内で重きをなした。