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34 中田沼
「中田沼」 中田沼は標高が高いところに位置し、541町余の面積を有していた。天和年間(1681~83)新田開発のため、土手を築いて溜池とした。黒沼・桜場・石森・加賀野・森・新井田の六か村の用水堤であった。 宝歴年中大泉村に潜穴を掘り、中田堤へ北上川の出水の流入をしたが、水不足が多かった。 明治45年この沼が、登米郡営事業として干拓され、大泉機場が新設された。その後いろいろ改良事業が行われ、次第に上田と化していった。 特に昭和47年より、国営中田農業水利事業として、用排水事業が推進され、昭和62年完成し水不足が解消され美田となった。 なお、中田町はこの中田沼が町名の由来となっている。
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35 養賢堂学頭新井雨窓
「養賢堂学頭新井雨窓」 雨窓は文化10年(1813)石森村の医者の家である戸板家の二男として生まれた。 仙台藩儒者、新井剛斉の娘と結婚し新井と名乗った。藩命により、江戸昌平黌の学頭に学びその塾頭となる。その後も学問に精を出し藩内きっての儒学者と称され、慶応2年藩校養賢堂の学頭となった。 その後幕末の尊王佐幕の抗争に巻き込まれ獄に下った。出獄後は古川・佐沼で書を講じ、明治5年佐沼小学校初代校長となった。 この間、兄養碩の仇討を行ったことでも有名である。 明治8年に没し、墓は小倉山麓にある。また、石大神社境内には、「養賢堂学頭新井雨窓先生碑」が建てられている。
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36 姥沼(うばぬま)
「姥(うば)沼(ぬま)」 石森小倉と神明草との中間に姥沼がある。本地といわれる水田の中にあり、現在では区画整理のため面積が1/3ほどに縮小されている。かんがい用水が流入し水深がある。一名底なし沼とも呼ばれ、水性の動植物が数多く生息している。 この沼には、底なし沼の「うば沼」や、沼に椀が浮いてくる「椀かし沼」の伝説が今に伝えられている。
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13-2 村長・郡議長の二木永助と伊東真之(しんのう)
「村長・郡議長の二木永助と伊東真(しん)之(のう)」 二木永助は嘉永3年(1850)石森町に生れる。26歳にして石森村総代となり、以後村長を四たび県会議員を三たび務める。 その間民権論を唱え国会開設を建議した。郡議長として中田沼開墾など殖産事業や民生事業に精励した。また病気の親に仕えたことなど郷土の徳望家である。神明社境内に紀功碑が建てられている。 伊東真之は安政2年(1855)石森町に生まれる。新井雨窓に学び明治11年には県会議員となる。理整然・注意周到にして親愛と友義に篤く西郡・石森・嵯峨立・上沼・桜場・加賀野の各村の戸長を務める。 明治36年には郡会議員となりその議長となる。 また、県立佐沼中学校創立や中田沼開墾など郷土の基礎の確立に寄与した。石大神社境内に紀功碑が建てられている。
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51 清川(せいか)
「清川(せいか)」 最近まで加賀野には、古い北上川の跡が感じられる沼があり、昔は清川沼と呼ばれていたようだ。安永風土記には「清川沼廻り武里程」とあり、小名には今でも「清川」の名がある。その回りには「沼ノ葉」(沼の端)や「塚崎」(小丘の先)などの小字も今に残されている。 現在でも高田商店あたりは「せいか」と呼ばれ、昭和30年代までは、「清川土手」があり、石森から佐沼への玄関口となっていた。 この清川には「きつねひかされ」の昔話が今に伝わっている。
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24 十萬騎谷地
「十萬騎谷地」 十萬騎谷地とは白雉山の西麓夏川沿岸に広がる一帯を指す。江戸時代は笠原氏の拝領地で、明治維新後は有識者が相談し石森255名の共有地となった。 砕石場入り口に「十萬騎耕作組合記念碑」が昭和25年4月に建てられた。組合の結成は昭和23年3月で、組合結成に至る事情等が刻まれている。 十萬騎の地名は源頼朝が文治5年(1189)に平泉の藤原氏を攻めたとき、十萬の大軍をこの地に屯営させたとの伝説によると言われている。 明治23年に石森小学校秋季大運動会、同36年10月加賀野小学校と石森小学校が連合して大運動会を開いたと学校沿革史にある。
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11 館の下
「館の下」 石森館の南東部を「館の下」という。土地の人は「たけの下」と呼んでいる。 平成20年道路改良工事に伴ない、館の下の発掘調査が行われた。 調査の結果、縄文時代の遺構や、古代の竪穴住居跡・溝跡・柱穴・土師器・須恵器などが出土した。 また中近世の建物跡や各種の遺物が出土している。特に板碑が6基出土し、このうち3基が金箔で、種子や銘文が装飾されていた。 また、笠原氏の時代には、家中屋敷があり、吉田家があったとされる。文政3年には吉田備がこの館の下屋敷で、寺小屋を始めたことが記録されている。
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12 高市と神明社
「高市と神明社」 神明社境内の入口に立派な石の鳥居があり、その右側に「高市再興三十年記念石鳥居奉納之碑」が建てられている。この鳥居は高市再興30年記念として、明治44年に建てられたものである。 碑に刻まれている奉納者は地元は勿論、近隣の市町村、特に郷土出身のカナダ在住の奉納者名が目を引く。このことから、当時の高市の隆昌が偲ばれる。 この神社は文治5年(1185)奥州奉行葛西三郎清重が、この地に宝刀一振りを献納し、国家安寧と武運長久を祈願したところと伝えられている。 この神社の春秋の祭礼にあわせて高市が開かれた。この高市の初めは元禄3年とも言われ当時の領主、笠原氏の庇護を受けて盛んとなった。その後自動車の発達と共に道路事情が悪化し、昭和の中頃には高市の開催が次第に困難となっていった。
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17 安永寺の鐘
「安永寺の鐘」 安永寺の山門に古い鐘が吊るされている。この鐘は、笠原3代徴用を免れた寺の宝である。 平成17年造形作家佐藤達が「無常響」と名付け、石の彫刻と共にモニュメントとした。 この鐘のある安永寺は、寛永7年(1630)笠原2代盛康が、佐沼瑞光寺の笑山金悦大和尚を招き、曹洞宗として開山された古刹(こさつ)である。
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48 東海先生寿壙碑(じゅこうひ)
「東海先生寿壙碑(じゅこうひ)」 東海先生は文政5年(1822)加賀野表に生れた。名は三瓶廣・子正・準一郎・東海ともいった。 先生は、幕末から明治にかけて、私塾を開き子弟の教育に当たった。また学制発布に伴ない加賀野小学校初代校長となる。 その一方、村民の救済事業にも意を用い、村民や門人たちから深い尊敬を受けた教育者である。 明治20年、多数の門人たちにより「東海先生寿壙碑」が表地内に建てられた。
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41 二つ石
「二つ石」 蓬田の八巻氏の前庭に二つの石が祀られている。昔から八巻家は二つ石と呼ばれ、その界隈数軒を含めていわれることがある。 石森町史に「二つ石は石越の遠流志別石神社の神石と共に石森石の分石なり」と記され、石大神社の巨厳石森石の分石とある。 今から800年前の源平合戦で、平家の一門である山木判官兼隆が討死し、源氏の追ってから逃れるため、山木から八巻に姓を変え四散した。 その後の平成2年、八巻家直系が発行した本に、山梨県須玉村にもこれと同じ二つ石があったと記されている。 現在の八巻家は12代目で、須玉町八巻家とは、何らかの関係があるものと思われる。
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47 加賀野雑石御蔵跡
「加賀野雑石御蔵跡」 近年旧加賀野小学校跡地に「愛菜館」が建てられ、地場産品の直売所となっている。 この地は旧藩時代に雑石御蔵があった場所である。雑石御蔵とは、大豆・粟(あわ)・大麦などを納める蔵のことで、敷地は約3反1畝あったといわれている。また蔵は3棟で「お吹き」(作業場)がついていたとある。 また、この雑石御蔵になる。かなり以前には廃寺となった「寶栄山本道寺」があったと言い伝えられている。
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49 八甲田雪中行軍殉難碑
「八甲田雪中行軍殉難碑」 海蔵寺の墓地の入口に「殉難報国之碑」が建てられている。これは明治35年青森歩兵第5連隊第2大隊の199名が八甲田山の雪中行軍殉難之碑である。 無謀な耐寒訓練として、今でも語り継がれているこの行軍には、中田町から5名が参加し、そのうち2名が加賀野出身で「伍長千葉文之助・一等卒千葉慶三郎」と書かれている。 二人の墓は同じ殉難碑のすぐわきに建てられ、今でも焼香が絶えない。
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8 若林のもみじ
「若林のもみじ」 地元若林講中が建てた「もみじの由来」によれば、康平の頃源義家が上沼八幡山に陣を張った折、その一武将がこの地を通りひと休みした。その武将の肩に附着していた楓の実が地上に落ち芽を出し、やがてスクスクと成長した。 人々はこの木の根元に石神を置き神木として祀った。また明治には、この地を若林一番地とし、神域として崇めた。 この老木のすぐ前に小さな沼があって、子供達の遊び場だったことから「ぬまこのもみじ」ともいわれた。 平成17年中田町から「天然記念物」として指定を受けたが、数年前の突風により、中心部の幹が折れ修復がまたれる。
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39 社倉(しゃそう)
「社倉(しゃそう)」 近年まで各地に菊のご紋章のついた郷(ごう)倉(そう)があったが、こうした郷倉より百年も古い社倉の記録帳が、二ツ木の旧家から発見された。この記録帳は「村備籾貸付調帳」と書かれ、明治7年「保管取締人・千葉清三郎」とあり、場所は現在の二ツ木生産組合の建物のあったあたりと思われる。 記録の内容を見ると、当時の石森村には16の組があり籾の貸し借りや、その年月日・氏名・貸し借りの数量等がこと細かく記されている。 この記録から当時の村の人々が凶作に備えて、日頃から苦労を積み重ね、万が一に備えた様子が読み取れる。
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46 加賀野八幡神社
「加賀野八幡神社」 加賀野八幡神社は、石森字舘の地に鎮座。本殿のほか境内には、社務所、集会所があり、地域の人々の集いの場となっている。また、御神木の銀杏(ぎんなん)の大樹があり神社のシンボルともなっている。御祭神は応神天皇である。 永正元年(1504)、葛西の臣飯塚氏が勧請したと伝えられ、又ここには、飯塚修理の館があったとされ、別名「加賀野城」といわれた。父の山城は天正19年(1591)6月葛西大崎一揆に佐沼城に拠(よ)ったが、伊達氏の攻撃を受け戦死、この加賀野城外の竹林に葬られたといわれる。 父、山城戦死の時、修理は病のため従軍できず、父戦死の14日後に亡くなったと伝えられている。
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5 石森村と石大神社
「石森村と石大神社」 安永風土記(ふうどき)に「当村之鎮守石之明神社地之内ニ御神体之石有之候ニ付御村名ニ唱之来候事」と村名の由来が記されている。 この神社の裏手に「巨(おお)巌(いわ)」があり、この巨巌を御神体として崇めたことから名づけられたものと思われる。 また一方、この神社の縁起書には、「大和武尊が東征の折、明玉を載き戦いに臨んだところ、この明玉の威光に恐れ、賊は従った」とあり、この明玉を祀ったのがこの神社といわれている。 この神社は葛西時代には石森氏、江戸時代には笠原氏の守護神として、社殿を修復 したりして庇護(ひご)した。 村名も「いしのもり」から「石母里」そして「石森」となったと伝えられている。
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29 二ツ木貝塚
「二ツ木貝塚」 遺跡は、白雉山の南側の山麓から延びる低い台地上の地形を有する。石森字二ツ木に所在し、北に張り出す舌状台地の先端部、周囲の沖積地にかけて立地する。 遺跡の広さは、東西150m、南北100m程である。丘陵の上面は、開田工事で削り取られ、遺物の散布は少ないが、周囲の水田や丘陵縁辺には遺物が多い。丘陵の北縁と東縁に貝層の残りが確認される程度である。 貝層は主として淡水産で、縄文時代中期・後期・晩期の遺物である。出土したのは土器・石器・獣骨・装飾品類である。
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15 石ノ森章太郎ふるさと記念館
マンガの王様と称された石ノ森章太郎の感性の元となった故郷に、総工費6億円余で平成12年7月に開館した。なによりも章太郎が生まれ育った地であり、生家も現存し自然や郷土の人々の暮らしがそこに見られる。ペンネームにも石森の地名が用いられている。 仮面ライダー・佐武と市捕物控・日本経済入門・マンガ日本の歴史など、幅広い作品があり、マンガはあらゆる事象を表現できるとして、萬画宣言をし、一方マンガジャパンを組織し、その代表世話人となり、世界を舞台にマンガ文化の発信に努力した。 この記念館は、章太郎の人間性を青少年に伝え、マンガ文化の発信の拠点として、はたまた地域活性化のシンボルとしての施設であり、現在市の生涯学習施設となっている。
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16 石ノ森章太郎生家
「石ノ森章太郎の生家」 石ノ森章太郎ふるさと記念館の開館に伴ない、平成13年に章太郎の生家が当時の中田町に寄贈された。 章太郎はこの家で生まれ、高校を卒業して、マンガ家として上京するまで育った家である。 章太郎の家族や暮らしぶりなど数々の想い出のつまった所で、章太郎の人柄を伝える大切な場所となっている。 来館する観光客などにこの生家を紹介し、章太郎の人間性や家族の事、この地域の実状などを「さぶ」という老人のボランティアガイドが、土日・祝祭日を中心に案内活動を続けている。
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28 白地山と白雲寺
「白地山と白雲寺」 白地山は白雉山または舟の形から舟形山とも呼ばれている。 日本武尊が東征の折、当地にさしかかった時、白い雉(きじ)が飛んできたのを見て、これはめでたい印と、ここに野営をした。賊はその威光に恐れこの地が平穏になった。尊は帯びていた剣を山頂に埋め、火産霊神を祀った。これが愛宕神社とされる。 この愛宕神社の右下あたりに、昔白雲寺があったといわれている。現在の「白地」は「白雲寺」が訛ったことともいわれている。 白地山は、山頂よりの眺望がすばらしく、良質の石材を産し、山頂には「天国一箇神」が建てられている。また、かつては屏風岩・畳石・梅干石などがあったとされている。
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33 義人佐々木清右衛門
「義人佐々木清右衛門」 寛文9年黒沼邑主高泉兼康は、弟重康を石森村捨(ず)田(でん)に15貫文を分知分家した。本家の家老佐々木清右衛門は、中田沼周辺の排水の悪さを憂い、その解決方法を画策したが、大番士片倉五郎右衛門の采地と利害が対立、同意を得られなかった。遂に意を決した清右衛門は、元禄6年片倉家付百姓数人を抱き込み、肝入徳右衛門も同意した様に見せ、にせ判を押し、更に郡奉行四釜八郎兵衛の留守宅で、家族に捺印させ請願書を藩に提出した。 その結果、捨田から油原を経て藤ヶ崎で夏川に注ぐ排水路を完成させた。 後日この事が表面化し、高泉家の主筋をはじめ藩の諸役人に累を及ぼす情勢となった。清右衛門は「自分の一存で行った」と申し立て一身に責を負い、切腹の刑に服した。 その後元禄13年に藩より赦免(しゃめん)の沙汰があった。
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26 大壇(おおだん)
「大壇(おおだん)」 道路拡張整備のため、平成14年十二神山遺跡の発掘調査が行われた。その報告書によれば「十二神山の最も高い場所に祈祷壇とも考えられる遺構が表れた。」と記している。 明治風土記によれば「大壇は天正18年秀吉公により、出陣の大令を聞き、邑主石森左近晴康・二木三五郎堯明・小塚織部則安等が軍議した。葛西主家が参陣に至らは随従せんと三者協同して、修験者「全海阿(あ)闍(じゃ)梨(り)」をして七日七夜柴灯大護摩を供し、三家の武運を祈願したところ」とある。 しかし現在確かな場所は確定していない。
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27 白地横穴古墳群
「白地横穴古墳群」 昭和51年道路拡幅工事の時発見されたもので、翌年宮城県教育庁文化財保護課指導のもと、5基の古墳の発掘調査が行われた。 調査の結果、土師器・鉄製品・勾玉・切子玉・トンボ玉管玉等の玉類や馬金具・人骨など400点余の出土があった。発見された遺物等から、古墳の造成年代は8世紀後期のもと推定される。 なお、古墳は、発掘調査後鉄板でふたをして埋め戻されている。なお、出土した「トンボ玉」などは、市の教育委員会が保管している。
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20 石森の打ちばやし
「石森の打ちばやし」 伊達家の家臣、石森城主笠原氏の保護を受け200余年前から伝承されてきたと言われている。このお囃子(はやし)は山(だ)車(し)を中心として大太鼓、小太鼓、笛の音律に踊りが加わり、豊作祈願、防火病魔退散の祭として続けられ、低温地帯で貧弱経済状態の中で最大の慰安であり、最高の喜びとして永く伝わってきた。 「石森ばやし」「剣ばやし」「岡崎ばやし」「しころばやし」「虎舞」「新念ばやし」「ながし」の七曲が伝承されている。 第1回宮城県民族芸能大会出演。昭和42年保存会結成。昭和48年全国青年大会郷土芸能の部で努力賞獲得。 現在も小・中学生が練習に励んでおり、行政区ぐるみで保存活動に邁進している。
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18 南町の第六天
「南町の第六天」 南町の南端に石碑群がある。その中に「第六天」と刻まれた自然石の碑が祀られている。この碑には文化13年(1816)とあり、下部には数名の名と導師羽黒派和合院と刻まれている。 「第六天」とは、仏語で欲界の最高第6位に位する天で「自在天」ともいう。四王天・忉(とう)利(り)天・夜(や)摩(ま)天・兜(と)率(そつ)天・楽(らく)変(へん)化(げ)天・他(た)化(け)自(じ)在(ざい)天をいう。 なぜこの地に建てられているのか不明である。
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50 熊野堂
「熊野神社」 細谷には熊野神社があり、そのあたりを「くまんど」といっている。 このことは、熊野信仰が、堂を建 てた当時あった ことを示している。 熊野には、本宮・新宮・那智社の 三社があり、昔から修験の聖地といわれ、その道場でもあった。 当地方には、羽黒派の修験が多 かったが、葛西氏 奥州惣奉行とな ったことに より、熊野信仰が民衆 へ広がっていった とも考えられる。 また、熊野へは距離的にも経済的にも参詣は困難だったため、熊野神社の分社としてこの熊野堂が建てられ祀られたと思われる。
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10 刀匠新井雙龍子玉子英(そうりゅうしたまてる)
「刀匠新井雙(そう)龍子(りゅうし)玉(たま)英(てる)」 玉英は、寛政4年(1792)石森村の白雉山麓の鍛冶屋の子として生まれた。銘は、「雙龍子玉英」「万龍右衛門玉英進之」などと切る。 陸前の刀工で文政頃作刀した人。本名は、最初「万定則」後に、「新井龍右衛門」といった。 師は、大慶直胤、次に仙台の鉄砲師木田定義の門人となった。伊達陸奥守に抱えられ士分となった。文久3年に71歳で没した。 作風は、無知風の地肌に匂出来である。江戸の刀工、大慶直胤の元で、古法鍛刀の術を学んだことが、刀工として名声を確かなものにした。 子孫である新井家の前庭には、今も鍛冶屋跡が残されている。また、墓は安永寺にある。
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9 六社さんと笠原全康(まさやす)
「六社さんと笠原全(まさ)康(やす)」 今から260~70年程前、若林に老桧木(ひのき)があった。笠原分家茂康が、この老木に塩釜六社宮のお礼がかかっているのを見つけ、このお札と老桧木をご神体として「六社宮」として祀った。 また、同じ場所に「笠原全康頌(しょう)徳(とく)碑(ひ)」の碑が建てられている。全康は文政2年に生まれ、仙台藩の重職である小姓頭・近習目付・出人司・参政などを務めた。 特に廃藩の大変革期に当たり伊達家の家扶長となり、伊達家の後始末に手腕を発揮した。 明治13年没・亨年61 没後、全康を敬慕する家臣たちにより「笠原全康頌徳碑」が若林の地に建てられている。
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44 川原毛
「川原毛」 川原毛の地には聖徳太子堂(おからげさん)があり、また駿馬の産地でもあった。 太子堂別当浄光坊の手記によれば「藤原一門の源入道俊成が、ある夜聖徳太子が阿弥陀尊像を拝持して、白馬にまたがっている夢を見た。奇異な感に打たれ、自分の所領を調べたところ、川原毛の地が駿馬白馬の産地であることが分かった。俊成は自分の夢と符合したので、非常に喜び聖徳太子三尊像を川原毛に奉請し、所領鎮護のため祭祀を怠りなく努めた」とある。 その後川原毛の地は益々駿馬の産地としてその名を高めていった。 昭和31年に太子堂は管理上から、海蔵寺内に移された。移された跡地には今も石宮と石碑群が残されている。
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43 聖徳太子堂
「聖徳太子堂」 聖徳太子堂は、加賀野海蔵寺山門の前方右手に建っている。この堂は、天慶年間(938~947)源義元の開基と伝えられている。 現在の堂は、元禄年間(1688~1703)の建立と伝えられている。またこの堂は、聖徳太子父子三尊を祀る影堂で、尊像は運慶の作と伝えられている。 昭和31年、石森川原毛地内からこの地に移されたもので、その跡地には、地区の人達によって石宮が建てられている。この石宮のまわりには、今も古い石碑が残されている。
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42 海蔵寺山門の横額
「海蔵寺山門の横額」 海蔵寺の山門に山号の「金剛山」の横額が掲げられている。この書は龍門老梅牷たて和尚が安永3年に書かれたもので、海蔵寺の宝の一つとなっている。 牷たて和尚は佐賀の人で、仙台藩5代吉村に招かれ、仙台北山輪王寺第21世となり、後に七北龍門山洞雲寺の再興に努めた。また書をよくし、神社仏閣の扁額を数多く書いている。 この横額のある金剛山海蔵寺は、永正14年(1517)藤沢町の藤源寺二世日竿梵昇和尚によって開創された曹洞宗の古(こ)刹(さつ)である。
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25 十二神社
「十二神社」 白雉山南端にある切通坂から若林地区に至るまでの間を「十二神山」と呼び、その南斜面一帯を特に「原」という。 その「原」の一角に、嘉吉2年(1442)東昌一鳳和尚開山と伝えられる「雙樹山(薬王山)秀山寺」があり、境内か或いは近くに十二神を祀る十二神社があった。明治42年(1909)神明社に合祀された。 <十二神>・大香山石臣命(おおかやまとおみのみこと) ・大山袛命(おおやまづみのみこと)・香田比賣尊(かだひめのみこと) ・曽呂理命(そろりのみこと)・羽山戸命(はやまとのみこと) ・少彦名命(すくなひこのみこと)・天児屋根命(あまのやねのみこと) ・誉田別命(ほんだわけのみこと)・大土之(おおつちの)命(みこと) ・若山咋之命(わかやまくいのみこと) ・大日霊命(おおひるのみこと) ・大山咋之命(おおやまくいのみこと)
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22 波羅多稲荷大明神(はらだいなりだいみょうじん)
「波羅多稲荷大明神(はらだいなりだいみょうじん)」 天明の頃飢饉(ききん)と疫病の流行で、数多くの死者がでた。それを憂いた笠原房康の奥方が、厚く信仰していた「お室のお稲荷さん」を西田の田んぼの中に分祀、五穀豊穣や防災招福を祈った。 その後天候も順調となり人々の生活も落ち付きを取り戻した。しかし50年後の天保年間になり、また飢饉に襲われた。人々は思案のあげく、修験の和合院に頼み「婆羅多大明神」をお稲荷さんと同じ場所に祀った。これが「婆羅多稲荷大明神」である。
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23 壇の宮司(ぐし)
「壇の宮司(ぐし)」 昔石森神明草に、山伏の八大院雲岳という法螺貝(ほらがい)吹きの名人がいた。 この雲岳が天保の頃、石森霜降館に縦6間横4間半の祈祷所を造り、そこで断食荒行をして他界した。亡くなる時「自分をさかさまにして埋めよ」と遺言した。人々は亡きがらをさかさまに埋め塚を造り祀った。 明治になると塚の場所は「だんのぐし」と呼ばれ目や歯とくに癪(しゃく)のはやり神として評判になり、祈願する人が絶えなかった。 しかし今日では、夏川堤防の修築等により塚は長光寺裏がわに移され、目印の松の木も枯れ、昔の面影が全くない有様である。
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45 浮島弁財天
「浮島弁財天」 浮島弁財天は、まわりを水田に囲まれた杉林の一画にある。地元では「弁天さん」と呼んでいる。ここには北上川堤防決壊(明治8年)により流されてきたといわれる小さな金の像があったが、現在これを納めた石宮のみが残されている。 昭和22年の大泉堤防決壊の時、このあたり一面は冠水していたが、この「浮島弁財天」だけは浮いて、冠水をまぬがれた。このため「浮島弁財天」と称されるようになった。 また、この地には、明治42年初巳の日に、金華山詣(もうで)の記念碑が建てられ、かつては祭典も催されたが現在は絶えている。
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13-1 村長・郡議長の二木永助と伊東真之(しんのう)
「村長・郡議長の二木永助と伊東真(しん)之(のう)」 二木永助は嘉永3年(1850)石森町に生れる。26歳にして石森村総代となり、以後村長を四たび県会議員を三たび務める。 その間民権論を唱え国会開設を建議した。郡議長として中田沼開墾など殖産事業や民生事業に精励した。また病気の親に仕えたことなど郷土の徳望家である。神明社境内に紀功碑が建てられている。 伊東真之は安政2年(1855)石森町に生まれる。新井雨窓に学び明治11年には県会議員となる。理整然・注意周到にして親愛と友義に篤く西郡・石森・嵯峨立・上沼・桜場・加賀野の各村の戸長を務める。 明治36年には郡会議員となりその議長となる。 また、県立佐沼中学校創立や中田沼開墾など郷土の基礎の確立に寄与した。石大神社境内に紀功碑が建てられている。
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19 室ノ木青麻(あおそ)神社
「室ノ木青(あお)麻(そ)神社」 明治風土記には「青麻祠祉・南町裏旧修験羽黒山山伏和合院ノ前園中ニ在リ明治13年往還道路開築ノタメ青麻祠祉新道路ニナリ青麻宮ノ石祠ヲ其傍ニ移セリ」とある。 祭神は天(あめ)之(の)御(み)中(なか)主(ぬしの)神(かみ)・天(てん)照(しょう)皇(こう)太(たい)神(じん)・月(つき)読(よみの)神(かみ)の三神で、星・日・月を表すといわれ、三光宮とも呼ばれる。 また、明治風土記には、「鶴賀丁拾戸」とあり現在は「新丁」となっている。更に和合院は後に神職となり、石森弘人と名乗った。 現在、青麻神社の石宮は、新丁の阿部氏が鳥居を建て氏神様として敷地内に祀っている。
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38 遊佐家住宅
「遊佐家住宅」 遊佐家住宅は調査の結果、江戸中期の建築と考えられている。また、長年の間に大きな改造や増築が数回行われた痕跡があり、現在は三方せがい造になっている。これは、書院座敷が発達する以前の形式をよく残している。柱が密に建ち梁が細いまた曲った柱を使うなど、古い要素が見られる。 2004年に、次世代省エネルギー基準に準ずる断熱気密を高める改修と、耐震補強を行った。痕跡に従い資料が整った部分は当所の形式に復原し、住めるように設備を整えた。 主屋のほか、広間、土蔵・板倉・味噌蔵・馬屋などがあり、伝統的な屋敷構えがそろう。 主屋の表側と裏側に庭園がある。 (登録有形文化財2006年登録)
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30 二ツ木館と小塚館
「二ツ木館と小塚館」 二ツ木館跡は二ツ木山にある。「雙樹館」とも「二次館」とも書く。山上にかつての城主の守護社「八雲神社」があったが、今はわずかに、石祠があるだけである。 城主は、二木三五郎堯明、天正18年主家葛西晴信が奥羽仕置で、所領没収され、石森氏・小塚氏とともに没落した。 小塚館跡は、葛西氏の臣、小塚織部則安の館跡と伝えられている。この、小塚館は、二ツ木山の東側に位置する小塚山にあり、小塚山には、小塚氏の守護神であった神明社が祀られている。小塚氏も奥羽仕置により、二木氏と共に没落した。 二ツ木・小塚再館主は、互いに矢文をもって情報の交換を行ったと伝えられている。
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31 阿弥陀と西方庵跡
「阿弥陀と西方庵跡」 二ツ木の阿弥陀坂に、西方庵跡の標柱があり、葛西氏の臣二木三五郎の香花菩提所と伝えられている。 この丘は若林から続く丘陵で、西方庵に本尊の阿弥陀如来を安置したことにより、一帯を「あみだ」と呼びその坂道は「あみだ坂」といい、北側の湿田を「寺沼」といっている。 この丘に石宮があり、阿弥陀如来が、安置されている。これは、片倉正顕がこの祖先伝来の地に疎開し、石森町長を務めた折祀ったものである。 向い側の二ツ木山には、二木館跡の八雲神社の石祠が建てられている。また、東方小塚山には、小塚織部の館跡があり、神明宮が祀られている。
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32 阿弥陀と片倉家
「阿弥陀と片倉家」 二ツ木地内に阿弥陀という丘があり、阿弥陀さまが祀られている。この阿弥陀さまは、片倉正顕(元石森町長)が祀ったもので、もともと片倉家の祖先伝来の地であった。記録の中に「英馬文政7年承家・阿弥陀30貫文」とある。 この、英馬に16年間仕えていた中山久蔵は、その後北海道に渡り、「寒地稲作の祖」といわれるようになり、石森片倉家がクローズアップされた。 また、12代片倉邦雄は、元イラク・エジプト大使を務め、中田町名誉町民にも推載されている。 なお、最近真田氏の6女、阿菖蒲とのつながりにも、人々の関心が向けられている。
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53 石森町蔬菜出荷組合紀功碑
「石森町蔬菜出荷組合紀功碑」 海蔵寺の山門に向かって左側に「石森町疎菜出荷組合紀功碑」がある。この碑は昭和7年に建てられている。内容は、「加賀野は地質概ね肥沃で畑作に適し……」とある。これは農民の佐藤勇吉が中心となって、大正13年同志21名と組合を設立し白菜の栽培に努めた。その結果、貨車で白菜を京浜方面に出荷し、名声を得た。 昭和3年には京都で開かれた「大典記念博覧会」に「結球白菜」を出品し、1等賞金牌に輝き、その後も優良組合として名声を高めた。 こうした功績を記念し海蔵寺に「黒門」建設し併せて、紀功碑を建てた。
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52 笹流加賀野神楽(かぐら)
「笹流加賀野神楽(かぐら)」 笹流神楽は志波姫町出身の南部神楽師鹿野吉三郎が起こした流派で、現在「大平神楽」として伝承されている。 明治43年鹿野吉三郎を師匠に招き、石森野元の千葉源吾宅において修練を積み「野元神楽」として始めたのが「加賀野神楽」の前身である。 その後戦争等で途絶えていたが、昭和53年「笹流加賀野神楽」として復活し、現在保存会(代表菊地喜一氏)も生まれている。 なお、市指定民族文化財になっている。
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6 石森館代々の館主
「石森館代々の館主」 石森館山(たてやま)には、以下の方々が居住したと思われる。 (猪塚氏から間野氏までは詳細不明) 文治の頃(1185)平泉藤原氏の家臣、猪塚修理居住。 承久3年(1221)葛西氏の一族、石森右近将監康次が居住。 天正18年(1591)遠藤出雲高康が居住。 寛永8年(1631)間野四郎左衛門が居住。 寛永16年(1639)伊達家の家臣、笠原出雲盛康が、江刺郡角懸村から替地。 これより笠原氏が代々居住。 (初代隆(たか)康(やす)) - 2代盛(もり)康(やす) - 3代義(よし)康(やす) - 4代実(さね)康(やす) - 5代都(くに)康(やす) - 6代清(きよ)康(やす) - 7代房(ふさ)康(やす) - 8代倫(とも)康(やす) -9代英(てる)康(やす) - 10代泰(ひろ)康(やす) 明治維新以降は、子孫の方々が居住。
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14 阿部静枝の歌碑
「阿部静枝の歌碑」 仲町の神明社境内の大きな自然石に「青空より、降りくる冬の日光にふくらむ心しばらく保て」と静枝自身の書が刻まれている。 この歌碑は昭和48年、静枝が病にたおれた後の、一時回復の頃、短歌関係者によって建てられたものである。 静枝はこの地である石森仲町の二木家に生まれ育ち、後に結婚により阿部静枝と名乗った。 生涯を閉じた昭和49年までの76年間、歩んだ短歌人生を中心に、その業績が石の裏面に刻まれている。
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40 明治風土記と佐藤三郎輔
「明治風土記と佐藤三郎輔」 三郎輔(完隆)は文化7年頃(1810)石森の検(けん)断(だん)(行政伝馬運送)の家に生まれる。長じて医術や経史を学ぶ。天保7年登米郡大肝入(郡長)となる。 天保の飢(き)饉(きん)を始め弘化5年より12年間に3回の石森町並みの大火による民の惨状に、金や穀を出し、更には私財を投じて、官林の払い下げなど復興に努めた。その功に対し、大番士に列せられ禄を頂いた。 明治21年「石森村風土記」を書き残した。 明治26年亨年83歳で没し、安永寺に葬られた。
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37 戸坂家の人々
「戸坂家の人々」 戸板氏は大番士であったが、春良の代故あって石森の地に到り、小倉の地に住む。 代々医者を業とし、傍ら近辺の若者等に学問を教え、郷人みなその徳に感銘した。後に享保義塾と呼ばれ一族から多くの人材を輩出した。 特に戸板氏二男雨窓は、藩儒新井剛斉の養子となり、新井の姓を名乗った。また雨窓は実兄養碩の仇討を弟たちと出羽矢島で討ったことでも知られる。 藩校養賢堂学頭となる。 二弟も大番士となり、養碩の子省吾は、叔父たちの養育を受け、家業を継ぎ宮城師範学校を出て、「水城」と号し新しい学問を教えた。 学制施行に伴い享保義塾は小倉小学校となる。 一族はみな教育の場に携わり、地域の人々の尊崇を集めた。教え子達は歴代の思いに感謝し、切通しの地に「水城翁寿蔵碑」を建てた。
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54 加賀野公園の浮石
「加賀野公園の浮石」 昭和62年中田町は加賀野小学校を中心とした46.5ヘクタールを対象に区画整理事業を始めた。 平成2年に157名による組合が設立され、幾多の困難を乗り越え平成10年に事業の完成を見た。 この事業の竣功記念として、記念誌・記念碑・モニュメントが造られた。このモニュメントは、パスカルの原理の応用で、浮き上がって回転する石球と石円盤とを組み合わせた世界にただ一つのものである。
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21 長光寺
「長光寺」 明治時代、社寺創建には、神官住職、又は、氏子檀信徒予定の者たちによる連署と、戸長奥書書のある願出、永続財産の目処、地所建物が社寺の体が備わっていること、及び府県令の許可を要した。 石森村仲町の素封家森栄三郎・てう夫妻が村に日蓮宗寺院のないことを憂い、寺院創立を決意した。明治3年に創立願書が提出されたが、不許可となった。その後、再々提出して、明治15年にやっと許可された。 長光寺の名前の由来は、明治12年に誕生寺貫主、日諦上人に詣でて、栄三郎の「栄」をして山号「妙栄山」とし、妻てうの「長」をして寺号「長光寺」を賜ったものである。 智玄院日諦上人を招いて開山した。 現住職は、6世熊谷義道上人。
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7 笠原氏の御廟所(ごびょうしょ)
「笠原氏の御廟所(ごびょうしょ)」 石森館山(御居(ごいん)館山(かんやま))の西の杉木立の中に御廟所(墓)がある。もともと笠原氏の御廟所は、それぞれの墓が分散して葬られていたが、平成11年現在地に整理改葬された。 この御廟所には、初代内記隆康から9代の内記英康までが埋葬されている。 この御廟所最後に埋葬されたのが、10代泰康の妻の粛子で「仙台百人一首」に粛子の歌が所収されている。 「玉くしげ、あはぬつらさに黒髪の、みだれてとけぬ、我が思ひかな」 明治維新後に没した10代泰康以降は、切通霊園に埋葬されている。