Number of spots : 64spots
-
山崎家住宅(亀屋山崎茶店)
亀屋山崎茶店は明治10年・1877年頃に「亀屋」から分かれ、茶業を専業とする「お茶亀屋」として出発しました。川越大火では文庫蔵と味噌蔵を除くすべての建物が焼失しました。現在の店蔵や袖蔵は明治33年・1900年から明治38年・1905年にかけて建てられたものです。開口部は観音開き扉ではなく土戸を引き込む千本格子窓で、防火への備えは行いつつも、美しさや居住性に配慮したつくりです。軒先は下のラインが一直線になる一文字瓦と呼ばれるもので、瓦はすべて京都から取り寄せられました。関東大震災後に建てられたレンガ造りの門とともにたいへん洗練されたデザインになっています。 data 住所:川越市仲町2-6
-
喜多院庫裡
寛永15年・1638年の大火後、江戸城の紅葉山御殿から移築された建物で、国の重要文化財に指定されています。土間、板の間、座敷などがあり、食堂と玄関が付属しています。現在は拝観する人々の入口として使われています。屋根は片方が入母屋造り、もう片方が寄棟造りですべて銅板で葺かれています。 data 住所: 川越市小仙波町1-20-1
-
喜多院
慈覚大師円仁が、天長7年・830年に創建した天台宗の名刹で、正式には星野山無量寿寺喜多院といいます。天正16年・1588年、天海僧正が住職として寺に入り、徳川家康の信任を得るにつれ、喜多院も幕府の厚い庇護を受けるようになります。寛永15年・1638年の大火により、現存する山門以外のすべてを焼失しますが、翌年には3代将軍徳川家光の命により、江戸城紅葉山御殿の一部を移築して客殿、書院、庫裡としました。隣接して徳川家康公をまつる仙波東照宮があります。また日本三大羅漢の一つに数えられる五百羅漢は、人間の喜怒哀楽をとらえた様々な表情の石仏540体が境内に並び、観光客の人気を集めています。 data 住所: 川越市小仙波町1-20-1
-
喜多院鐘楼門
慈眼堂の東側正面に建っており、国の重要文化財に指定されています。入母屋造り、本瓦葺きの2層の建物で、下層には袴腰と呼ばれる囲いがついています。上層には元禄15年・1702年の銘がある銅鍾が吊られており、この頃、建てられたと考えられています。建物の前面には雲竜の、背面には花鳥の彫刻があります。 data 住所: 川越市小仙波町1-20-1
-
喜多院山門
寛永15年・1638年の大火にも焼失を免れた、喜多院で一番古い建物で、国の重要文化財に指定されています。寛永9年・1632年に、天海僧正によって建立されたとする記録が残っています。4本の柱の上に屋根を乗せる四脚門という形式で、屋根は切妻造り、本瓦葺きです。もとは、室町時代の後奈良天皇の直筆による「星野山」の額が掲げられていたといわれています。 data 住所: 川越市小仙波町1-20-1
-
喜多院番所
山門につながって建っており、幅約3メートル、奥行き約4.5メートルの小さな建物です。屋根は中央部が丸みを帯びた「むくり屋根」で、断面が波形の桟瓦で葺かれています。建築年代がわかる資料はありませんが、18世紀中頃の建物と考えられています。天保12年・1841年の喜多院境内図では、山門より内側に独立して描かれており、後に今の位置に移されたことがわかります。 data 住所: 川越市小仙波町1-20-1
-
喜多院慈恵堂
延暦寺第18代座主、慈恵大師良源をまつるお堂です。慈恵大師は平安時代の延暦寺中興の祖であり、「厄除け大師」としても知られるため、大師堂とも呼ばれます。寛永15年・1638年の大火の翌年、いち早く再建されました。現在は喜多院の本堂として、中央に慈恵大師像、左右に不動明王像を安置しています。正面9間、側面6間の大きな建物で、屋根は入母屋造り、銅板葺き。延暦寺の根本中堂や、日光輪王寺の三仏堂とともに、近世初期の天台宗本堂の姿を残す貴重な建物です。天井に描かれた家紋は、昭和46年・1971年の解体修理の時に寄進した檀家のものです。 data 住所: 川越市小仙波町1-20-1
-
平岩・水飼家住宅(太陽堂・銀パリ)
現在は太陽堂書店と銀パリ理髪店の2軒に分けて使われていますが、もとは間口5間の一つの建物です。明治26年・1893年に、糸、繭、茶、煙草問屋を営んでいた「正木屋」大川喜平衛によって建てられました。箱棟や鬼瓦、影盛など蔵造りの手法を採用していますが、軒下は無垢の木材のままで、窓も木製の格子戸です。しかし南北両側の壁は厚い土壁となっています。一見蔵造りに見えますが川越大火以前の町屋の形式も受け継ぐ建物です。 data 住所: 川越市幸町7-5・7-6
-
滝島家住宅(熊重酒店)
この建物は酒類販売業を営む「熊重」滝島重蔵により、明治28年・1895年に建てられました。一番街と時の鐘の通りが丁字に交差する角地にあるため、両方の通りに沿ってL字型の庇を出し、出入口も両方にあります。小さな影盛や銅板貼りの観音開き扉など、シンプルで軽やかなデザインです。奥にある「時の鐘」とともに、川越の代表的な景観をかたちづくっています。 data 住所: 川越市幸町8-1
-
福田家住宅
建てられた年代がわかる資料はありませんが、当時の川越貯金銀行の建物として、明治31年・1898年頃に建てられたと考えられています。川越では珍しい寄棟形式の蔵造りで、銀行の建物であったためか、1階の入口が狭く、2階も観音開きの小さな窓が一つだけという閉鎖的なつくりになっています。明治時代の地方都市における事務所建築の例として貴重な建物といえます。 data 住所: 川越市大手町14-4
-
蓮馨寺
天文年間・1530年から50年頃に、北条氏康の家臣で川越城代であった大道寺政繁の母、蓮馨尼が、感与存貞上人を招いて建立したのが始まりとされています。感与存貞上人はのちに増上寺第10世法主となり、門下から多くの高僧を輩出しました。蓮馨寺も浄土宗僧侶の養成機関である檀林として関東十八檀林のひとつに数えられました。子育て信仰の呑龍上人の寺としても知られており、正門を入った正面にある呑龍堂は今も安産、子育ての祈願所として信仰をあつめています。また呑龍堂前に鎮座する「おびんずる様」は、自分の身体のわるいところと同じところをなでると病気が治るといわれています。 data 住所: 川越市連雀町7-1
-
川越熊野神社
天正18年・1590年に、蓮馨寺の二世、然誉文応僧正が紀州熊野より勧請したことが始まりといわれ、通称「おくまんさま」と呼ばれ、開運、縁結びの神様として親しまれています。社紋は熊野大神の使いである三本の足を持つ「八咫烏」で、同じく八咫烏をシンボルマークにする日本サッカー協会公認の「必勝お守り」が人気です。参道には小石が敷き詰められた「足踏み健康ロード」があり、裸足で歩くことで足裏のつぼを刺激して健康へのご利益を願う名所となっています。 data 住所: 川越市連雀町17-1
-
田口家住宅
この建物は屋号を「百足屋」といい、糸、組紐問屋を営んでいた田口吉兵衛が明治29年・1896年に建てたものです。店蔵の外観は切妻、平入りの2階建てで、分厚い軒を黒漆喰で塗り固めた川越の典型的な蔵造りです。しかし店蔵の脇に住居部分の玄関がある配置は、ほかの蔵造りには見られません。店蔵の間口の広さよりも使い勝手を重視したつくりといえます。観音開き扉は漆喰塗りではなく銅板貼りで、冬の季節風の吹き込まない東側と南側に配置されています。 data 住所: 川越市松江町2-5
-
原田家住宅
この建物は代々穀物問屋を営んだ「足立要」の店舗として、明治30年・1897年に建てられました。背の高い箱棟や巨大な鬼瓦と影盛など堂々とした外観をもち、川越でも最大級の蔵造りの一つです。このあたりには江戸時代から昭和の初めまで米問屋が軒を連ねており、埼玉の米相場は川越で決まるといわれていました。観音開き扉には6重の段が刻まれ、火の回り込みを防ぐとともに美しいデザインとなっています。2階開口部は南側のみで冬の季節風を防ぐため残りの三方には窓はありません。 data 住所: 川越市松江町2-5
-
東照宮拝殿・幣殿
間口3間の拝殿の後ろに、供物を捧げるための幣殿がつながっています。屋根は入母屋造り、銅瓦葺き。全体に朱色を基調に、極彩色の装飾が配されています。拝殿正面には後水尾天皇直筆の東照大権現の額がかけられています。寛永10年・1633年と記されており、創建当時のものと考えられます。拝殿、幣殿は国の重要文化財に指定されています。 data 住所: 川越市小仙波町1-21-1
-
日本聖公会川越キリスト教会
この建物は明治26年・1893年の川越大火によって焼失した礼拝堂を、大正10年・1921年に再建したものです。設計は立教大学を設計したウイリアム・ウイルソン、施工は清水組です。フランス積みレンガ造りの平屋に鐘楼が付属しています。先のとがったアーチ窓や控え壁をもつ中世ゴシック折衷様式の建物です。関東大震災以前の洋館として貴重なものです。 data 住所: 川越市松江町2-4-13
-
加藤家住宅
金物商「大和屋」の店舗として建てられたもので建築年代は不明ですが、時の鐘を手がけた大工の関根松五郎の作といわれることやデザインなどから、明治30年代・1900年頃の建物と考えられています。この建物の特徴は建物の三方が大谷石の石壁造りになっていることで、川越に残る蔵造りでは唯一のものです。前面は深く分厚い軒や、2階の3連の観音開き扉など典型的な蔵造りのデザインを用い、町並との調和がはかられています。 data 住所: 川越市連雀町11-8
-
川越伝統的建造物群保存地区
川越伝統的建造物群保存地区は札の辻を北端とし、仲町を南端とする一番街沿いの南北約400メートル、東西約200メートルの地域です。江戸時代以来の町人地である「十ヶ町四門前」の中心です。蔵造りの町家は江戸時代から建築されていましたが、明治26年・1893年の川越大火後、商人たちは復興にあたり防火性能の高い蔵造りをこぞって取り入れました。さらに大正以降近代洋風建築や洋風外観の町家も加わりました。このようにして江戸時代の町割の上に、明治の重厚な蔵造り町家を中心に近代洋風建築も立ち並ぶ、特色のある歴史的景観がつくられたのです。 data 住所: 川越市幸町・元町1丁目・元町2丁目・仲町
-
埼玉りそな銀行川越支店
この建物は大正7年・1918年、旧川越藩の御用商人を中心に設立された第八十五国立銀行の本店として建てられました。設計は保岡勝也、施工は印藤順造が請け負いました。当時流行のネオルネッサンス様式を取り入れ、正面の角には塔が設けられています。塔は八角形で他より高い4階建て、屋根はドーム屋根です。外壁には縞模様の控え壁が配されています。構造は鉄骨鉄筋コンクリート造りで、現存する早期のコンクリート造りの建物として貴重なものです。 data 住所: 川越市幸町4-1
-
喜多院客殿
寛永15年・1638年の大火後、江戸城の紅葉山御殿から移築された建物で、国の重要文化財に指定されています。無量寿殿とも称し、本尊の阿弥陀如来をまつっています。上段の間は12畳半の広さで、床の間と違い棚をそなえ、襖と壁面には金地に墨で山水画が描かれています。また格子天井には81点の花木が描かれています。この上段の間は江戸城にあった頃、3代将軍家光が生まれた部屋といわれており、「徳川家光公誕生の間」と呼ばれています。屋根は入母屋造りで薄い板を葺いた「こけら葺き」です。 data 住所: 川越市小仙波町1-20-1
-
喜多院書院
寛永15年・1638年の大火後、江戸城の紅葉山御殿から移築された建物で、国の重要文化財に指定されています。北東の8畳間には床の間と脇床、北西の8畳間には床の間と押入れがつき、これらの部屋は家光を養育した春日局の化粧の間といわれています。屋根は寄棟造りで、客殿と同じように薄い板を葺いた「こけら葺き」です。一部が中2階になっています。 data 住所: 川越市小仙波町1-20-1
-
田中家住宅(カフェエレバート)
この建物は旧桜井商店の店舗として大正4年・1915年に建てられました。桜井商店は屋号を「槌屋」という川越の老舗で、当時は鉄砲や舶来品を商っていました。人造石の壁、1階の角柱と2階の円柱の組み合わせ、アーチ型の3連窓など本格的な洋風のデザインですが、実は構造は蔵造りという珍しい建物です。 data 住所: 川越市仲町6-4
-
市立美術館
川越市市制施行80周年に当たる2002年12月1日に、旧川越城二の丸跡に開館しました。「交流」をテーマに郷土ゆかりの作家、作品などを中心に、常設展示や特別展示などの活動を展開しています。相原求一朗記念室では川越市の名誉市民である洋画家の作品を展示しています。タッチアートコーナーでは目の不自由な方でも鑑賞できるよう点訳を用意し、触れて鑑賞できる作品を展示しています。 data 住所: 川越市郭町2-30-1
-
市立博物館
蔵造りをイメージした切妻屋根に白壁の博物館は、旧川越城の二の丸跡に建っています。川越が繁栄した江戸から明治を中心に、原始から近・現代までの川越の歴史が総合的に理解できる施設となっています。特に城下町全体が俯瞰できるジオラマ模型や、細部まで再現した蔵造りの町並み模型、蔵造りの建築工程を再現した実物大模型は迫力満点です。見学した後市内を巡れば、川越散策がさらに楽しめます。 data 住所: 川越市郭町2-30-1
-
ヤオコー川越美術館
食品スーパーヤオコーの創業120周年事業として、2012年3月にオープンした美術館です。埼玉県ときがわ町にアトリエを構え、現代リアリズムの巨匠と呼ばれる洋画家故三栖右嗣氏の作品が展示されています。世界的に著名な建築家伊東豊雄氏の設計による建物は、2つの展示室、エントランス、ラウンジの4つの空間で構成され、建物を巡ることで部屋ごとに異なる光の表情を楽しむことができます。 data 住所: 川越市氷川町109-1
-
中院
喜多院と同じく慈覚大師円仁が創建した星野山無量寿寺に始まります。正安3年・1301年には後二条天皇の綸旨により、無量寿寺の仏地院(のちの中院)が関東天台宗の総本山となりました。島崎藤村の義母の墓があり、境内には藤村が義母に贈った茶室不染亭があります。また桜の名所としても名高く、本堂前の枝垂桜が特に有名です。川越茶・狭山茶の発祥の地としても知られており、円仁が京都より携えてきた茶の実を境内で薬用として栽培したのが始まりとされています。 data 住所: 川越市小仙波町5-15-1
-
長島家住宅
この建物は明治初期から酒造業を営んでいた「近常」岡家によって建てられました。2棟の建物からなり、北側の建物は明治34年・1901年、南側の建物は大正11年・1922年に建てられました。北側の建物が川越大火以後の明治期の蔵造りの特徴をもっているのに対し、南側の大正期の建物は蔵造りのデザインを踏まえつつ、1階には洋風建築の要素も取り入れていることが特徴です。 data 住所: 川越市元町1-15-5
-
山下家住宅
店蔵は外壁を白漆喰で仕上げ、2階の開口部が黒漆喰の枠で強調されています。鬼瓦背後の影盛も小さく、明治の川越大火以後の蔵造りとは大きく異なるデザインです。奥にある文庫蔵の梁に残された墨書きから、江戸時代末期の安政4年・1857年頃の建物と考えられています。川越大火以前の川越の商家の姿を伝える貴重な例です。 data 住所: 川越市仲町10-9
-
川越氷川神社
川越氷川神社は、古墳時代、欽明天皇2年の創建といわれ、長禄元年・1457年に太田道真、道灌父子が川越城を築城してからは、城下の総鎮守として歴代城主に篤く敬われ、住民からは「お氷川様」と呼ばれ親しまれてきました。祀られている五柱の神様が、家族、夫婦であることから、「家族円満の神様」、「夫婦円満、縁結びの神様」として知られ、毎年多くのカップルが結婚式をあげています。最近では、境内に飾られた2千個以上の江戸風鈴に、願いごとを書いた短冊を掛ける「縁むすび風鈴」という夏の行事が人気です。毎年10月に行われる「川越まつり」は川越氷川神社の例大祭です。 data 住所: 川越市宮下町2-11-3
-
三芳野神社社殿・蛭子社・大黒社
平安時代の創立といわれ、旧川越城の天神曲輪にあり、お城の天神様と呼ばれてきました。平安時代の「伊勢物語」の主人公在原業平が訪れた、「入間の郡、三芳野の里」といわれる景勝の地で、かつては雁が飛来するたびにとまって三声鳴いたという初雁の杉や、将軍駒つなぎの椎がありました。また参道は童謡「通りゃんせ」の歌詞の発祥の地といわれています。社殿は本殿と拝殿を幣殿でつなぐ権現造り、銅板葺き。寛永元年・1624年、のちの川越城主酒井忠勝が幕府の命を受けて造営しました。蛭子社および大黒社は本殿の前、左右に向かい合って建っており、見世棚造りという形式です。江戸時代中期の建物です。 data 住所: 川越市郭町2-25-11
-
川越城本丸御殿・家老詰所
川越城は、別名初雁城とも呼ばれ、扇谷上杉家当主の上杉持朝が、長禄元年・1457年、家臣の太田道真、道灌父子に命じて築城したものです。以来川越城は、明治4年・1871年の廃城まで、400年以上にわたって続きました。現在の本丸御殿は、嘉永元年・1848年に、川越藩主、松平斉典によって建てられたものです。当時は川越藩の歴史の中でも、最も高い17万石の石高があった時代で、16棟の建物が建ち、延べ1025坪の規模を誇っていましたが、現在は玄関と大広間の部分だけが残っています。家老詰所は、明治維新後に、福岡村(現ふじみ野市)にある星野家に払い下げられていたものを、昭和63年・1988年に移築、復元したものです。 data 住所: 川越市郭町2-13-1
-
日枝神社本殿
日枝神社のある場所はもとは喜多院境内で、大山咋神をまつっています。これは伝教大師最澄が延暦寺の創建にあたり、比叡山の地主神である大山咋神をまつったことに由来します。本殿は朱塗りの三間社、流造りで、銅板葺き。規模も小さく、簡素な建物です。室町時代の末に建てられたという説もあります。東京赤坂の日枝神社は、文明10年・1478年、太田道灌が江戸に城を築く際、ここから江戸城内に分祀したのが始まりです。日枝神社本殿は国の重要文化財に指定されています。 data 住所: 川越市小仙波町1-4-1
-
東照宮随身門・石鳥居
随身門は朱塗りの八脚門と呼ばれる形式で、屋根は銅板葺きです。正面3間、側面2間の建物で、中心に4本、その前後に8本の柱があります。江戸時代中頃の建物と考えられています。石鳥居は寛永15年・1638年の再建時に、川越藩主堀田正盛が奉納したものです。随身門と石鳥居は国の重要文化財に指定されています。 data 住所: 川越市小仙波町1-21-1
-
氷川神社本殿
氷川神社本殿は、正面3間、側面2間の入母屋造り、銅瓦葺きの屋根に、千鳥破風、唐破風が付けられています。柱、梁などの構造材にまで、様々な地紋彫りがほどこされ、壁面には、源頼朝、義家など源氏の人物や、浦島、布袋など川越十か町の山車飾りに題材をとった、多くの精巧な彫刻が配されています。これらは江戸彫りと呼ばれるもので、手掛けたのは、江戸彫りを代表する江戸の彫物大工たちです。本殿は、天保13年・1842年に起工され、嘉永2年・1849年に竣工しました。当時の最高水準の技術がふんだんに用いられた、川越を代表する神社建築です。 data 住所: 川越市宮下町2-11-3
-
八坂神社社殿
寛永14年・1637年に江戸城二の丸の東照宮として建てられ、その後、川越城内に移築され、三芳野神社の外宮となりました。明治5年・1872年の川越城廃城により、氷川神社境内に移され、八坂神社の社殿とされました。本殿と拝殿が連続し、屋根は入母屋造り、銅瓦葺きです。殿内は黒漆と極彩色による仕上げで、江戸城内の建物にふさわしい華やかさをもっています。 data 住所: 川越市宮下町2-11-3
-
服部家住宅(服部民俗資料館)
傘、履物、薬種商を営んでいた「山新」服部家の建物で、明治の川越大火直後の明治26年・1893年に建てられたといわれています。切妻、平入りで、正面は防火性に配慮した塗屋造りです。壁の厚さは蔵造りより薄くつくられています。また側面は下見板貼りとなっています。2階建てですが2階正面に窓はありません。関西の伝統的な町家に多くみられる形式で、明治期の川越を代表する塗屋造りといえます。なかでは服部家に伝わる商家の道具類を見ることができます。 data 住所: 川越市幸町6-8
-
旧山崎家別邸
この建物は大正14年・1925年、「亀屋」5代目山崎嘉七の隠居所として建てられました。設計は第八十五国立銀行、現在の埼玉りそな銀行川越支店を手掛けた建築家の保岡勝也です。洋館と数寄屋造りの和館そして土蔵を組み合わせた建物です。離れとして有名な茶室「如庵」を模したとされる茶室があります。歴代当主の隠居所として使われたほか、皇族が川越を訪れた際の迎賓館としても利用されました。洋館と和館の良さを随所に生かした優れた住宅建築です。 data 住所: 川越市松江町2-7-8
-
時の鐘
時の鐘に関する最も早い記録は、承応2年・1653年、川越藩主松平信綱が破損した鐘の鋳造を命じたというものです。この場所は古くは天台宗常蓮寺の境内で、町名を多賀町といいました。川越の町の中心に位置したため、四方に同じように鐘の音が届いたといわれます。櫓は江戸時代を通じてたびたび建て替えられ、釣鐘も何度か替わっています。いまの建物は明治26年・1893年の川越大火後に建てられたもので、大工の関根松五郎の作です。櫓の高さは約16メートルあり均整のとれた建物です。いまも午前6時、正午、午後3時、午後6時の1日4回時を告げています。城下町川越の象徴といえます。 data 住所:川越市幸町15-7
-
産業観光館小江戸蔵里(旧鏡山酒造)
旧鏡山酒造の初代は新潟県上越市出身の竹内栄吉氏で、農家の次男だったため、農閑期に埼玉県西部の酒造蔵に働きに出ていました。天保14年・1843年頃現在の入間市に住み着き、そこで近江商人の小林という人と酒造業をはじめます。その後独立し明治8年・1875年、現在地に酒造蔵を建てました。「鏡山」という銘柄はパートナーの近江商人が故郷にちなんでつけたもので、琵琶湖のほとりにある山に由来します。藤原定家の歌に「鏡山映れる波の影ながら空さえ凍る有明の月」とあるのがそれです。現在は川越市産業観光館「小江戸蔵里」になっており、主な施設として、「おみやげ処明治蔵」、「まかない処大正蔵」、「ききざけ処昭和蔵」があります。 data 住所:川越市新富町1-10-1
-
太陽軒
寄棟造り、スレート葺の木造2階建てで、軒を深くすることで屋根を視線から隠しています。建物の角に玄関があり、玄関上部の円形の庇、その上の尖った隅窓、隅柱など、表現主義的なデザインが見られます。関東大震災後の復興商業建築の雰囲気がわかる建物です。 data 住所:川越市元町1-1-23
-
菓子屋横丁
色とりどりのガラスがはめ込まれた石畳の道に、昔懐かしい味を今に伝える20軒程の菓子作りの店が並んでいます。醤油の香ばしい匂い、昔ながらの手法で作られる飴菓子やカルメ焼きなど、世代を超えて誰もがワクワクしてしまう場所です。「菓子屋横丁」は明治の初め、鈴木藤左衛門という人が養寿院の門前町で江戸好みの気取らない菓子を製造したことが始まりといわれています。その後関東大震災の被害を受けた東京に代わり菓子の製造を担うことになり、昭和初期には70軒以上の店があったそうです。 data 住所:川越市元町2-7
-
川越城中ノ門堀跡
江戸時代、川越城は江戸の北の守りとして重視されました。寛永16年・1639年に藩主となった松平信綱は城の大改修を行い、この時中ノ門堀が造られたと考えられます。堀は現在の市役所付近にあった西大手門から、本丸への敵の進入を阻み、本丸への通路には中ノ門がつくられました。門は残された絵図によると二階建ての櫓門でした。堀の深さは7メートル、幅は18メートル、西大手門側の勾配は30度ですが本丸側は60度になっており、堀が壁のように切り立って敵の侵入を防いでいたことが分かります。 data 住所:川越市郭町1-12-8
-
川越まつり会館
「川越まつり」は慶安元年・1648年に、当時の川越藩主松平信綱が氷川神社に神輿、獅子頭、太鼓などを寄進し、祭礼を奨励したことに始まります。その後華麗な行列が町々を巡行し、町衆も随行するようになりました。川越まつりは江戸の神田明神や赤坂日枝神社の祭礼である「天下祭」の影響を強く受けて発展し、山車の形も天下祭の流行を取り入れながら変化してきました。川越まつり会館はいつ訪れても川越まつりを体感できる施設です。館内には本物の山車が展示され、大型スクリーンでまつりを体験することができます。 data 住所:川越市元町2-1-10
-
東照宮本殿・瑞垣・唐門
本殿は正面に4本の柱が立ち、屋根の前が長くのばされた三間社、流造り、銅瓦葺きです。黒い柱、朱色の壁に極彩色の装飾のついたたいへんあでやかな建物です。中には円形の厨子があり、その中に天海僧正によって彫られた家康の木造がまつられています。本殿正面の唐門、本殿を囲む瑞垣も朱色に塗られ、装飾がついています。本殿、瑞垣、唐門は国の重要文化財に指定されています。 data 住所:川越市小仙波町1-21-1
-
成田山川越別院
千葉の成田山新勝寺の別院で真言宗の寺院です。喜多院の北側に位置し、地元では「お不動様」として親しまれています。目の病を不動明王に祈願して治癒し、その後成田山新勝寺で修業した下総出身の石川照温師が、嘉永3年・1850年に創建しました。護摩木という特別につくられた薪をたいて不動明王に祈る真言密教の護摩祈祷で有名です。毎月28日には骨董品が境内に所狭しと並ぶ「蚤の市」が開かれます。 data 住所:川越市久保町9-2
-
富士見櫓跡
県立川越高校の南側に位置する富士見櫓跡。一見木々の繁る高台ですが、川越城の物見として使用されていた櫓の跡です。中腹には川越城址の碑があり、北側には御嶽神社が祀られています。かつての富士見櫓は三層、16メートルの高さを誇り、川越城の天守閣の役割も兼ねていたといわれます。 data 住所:川越市郭町2-15
-
仙波東照宮
元和2年・1616年、徳川家康が亡くなるとその遺言により、まず静岡県の久能山に葬られ、1周忌を経た後に日光に移されました。その途中喜多院に4日間とどまり、天海僧正により供養が行われました。寛永10年・1633年、天海僧正はこの地に家康をまつる東照宮を建立しました。その後、寛永15年・1638年の大火により焼失しますが、2年後に再建されました。日光、久能山の東照宮とともに「三大東照宮」といわれています。 data 住所:川越市小仙波町1-21-1
-
小林家住宅(くらづくり本舗)
この建物は呉服、太物の卸問屋を営んでいた2代目小林佐平によって、明治の川越大火直後の明治26年・1893年に建てられました。分厚い軒、黒漆喰の壁、重厚な観音開き扉など川越の蔵造りの典型的な特徴をもっています。特に注目されるのは2階の影盛に付けられたまつ毛のような装飾金物です。この金物の役割や名称は明らかになっていませんが、同様のデザインは明治初期の東京の店蔵でも見ることができます。江戸の蔵造りが川越に継承された例といえます。 data 住所:川越市幸町2-16
-
山崎家住宅(亀屋本店)
「亀屋」は天明3年・1783年の創業。川越藩の御用商人を務め、当主は代々嘉七を世襲しています。現在の建物は5代目嘉七により、川越大火直後の明治26年・1893年に建てられたものです。店蔵は間口4間、奥行2間半の切妻造り、平入り。北側には防火のため袖壁と袖蔵が建っています。高い箱棟、深く厚い軒、観音開き扉など、川越の蔵造りの典型的な特徴をもつ建物です。特に観音開き扉は開いた時に隣の扉とぴったりと噛み合うようになっています。外壁も最上級の仕上げとされる黒漆喰の磨き仕上げです。敷地内に日本画家橋本雅邦の絵画を展示する山崎美術館があります。 data 住所:川越市仲町4-3
-
佐久間旅館
佐久間旅館は明治の初めに乗り合い馬車の休憩所を設けたのが始まりで、明治27年・1894年に旅館業を創業しました。奥の間と呼ばれる銘木をふんだんに使った書院造りの建物は、明治44年・1911年に建てられ、国の有形登録文化財となっています。中庭に面した南側以外は三方に土壁をめぐらせ、防火を重視したつくりになっています。文豪の島崎藤村がこの離れにたびたび宿泊し、作品を執筆したといわれています。 data 住所:川越市松江町2-5-4
-
川越八幡宮
長元元年・1028年、下総(いまの千葉県)の平忠常は朝廷に謀反を企て、安房、上総、下総の3カ国を従わせたのち武蔵に攻め入りました。朝廷は武蔵の有力武士だった甲斐守源頼信に平忠常追討の綸旨を出しました。頼信は決戦を前に当地で必勝祈願を行い忠常の軍勢を打ち破りました。頼信は神に深く感謝して、長元3年・1030年、当地に八幡宮を創建しました。川越八幡宮は「勝負の神様」として知られており、いまも受験生やスポーツ選手が必勝祈願をする姿が見られます。境内にはご神木「縁結びイチョウ」や、足腰の健康にご利益のあるとされる相撲稲荷神社があります。 data 住所:川越市南通町19-3
-
手打ちそば百丈
この建物は昭和7年・1932年に建てられた木造3階建ての店舗兼住宅で、川越の看板建築の代表的なものです。銅板貼りの外壁には、窓うえのアーチやエジプト風のつけ柱など多彩なデザインがほどこされており、当時の板金技術の高さに驚かされます。内部は純和風の空間になっています。 data 住所:川越市元町1-1-15
-
川越商工会議所
この建物は昭和2年・1927年、武州銀行川越支店として建てられたものです。クラシックリバイバル様式でつくられ、外壁に連なるドリス式の列柱、玄関上や軒下のメダリオン装飾など堂々とした外観です。設計は日本橋高島屋を設計した前田健二郎、施工は高山組、鉄筋コンクリート造り2階建てで地下室もあります。 data 住所:川越市仲町1-12
-
吉田家住宅(吉田謙受堂)
書籍文具商「謙受堂」の店蔵で川越大火以前の古い町家の特徴を残す建物といわれています。白漆喰の外壁、簡素な棟や影盛、木製引き戸の窓など全体にシンプルで軽快な印象です。 data 住所:川越市連雀町13-8
-
松本家住宅(松本醤油商店)
松本醤油商店は初代松本新次郎が明治22年・1889年、川越藩の実力者であった横田家の分家で、醤油醸造業を営んでいた横田屋を買い取ったことに始まります。横田家がこの地で醤油醸造業を始めたのが、文政13年・1830年頃とされるため、この建物も江戸時代末期の建物と考えられています。外壁は白漆喰仕上げ。窓も観音開きではなく、片引きの土戸という古い形式です。2階の階高も低く、明治期の店蔵とは異なっています。 data 住所:川越市仲町10-13
-
松崎家住宅(マツザキスポーツ)
この建物は屋号を「松崎屋」と称し、砂糖商を営んでいた2代目松崎徳次郎によって、明治34年・1901年に建てられました。仲町の交差点に面する角地にあり、重量感あふれる入母屋造りの外観をもっています。鬼瓦の背後の巨大な影盛、高く幅の広い箱棟、寺社建築に用いられる妻飾りの懸魚、黒漆喰で塗り固められた分厚く深い軒などが豪華な印象を与えます。当時の川越商人のエネルギーを感じさせる蔵造り建築です。 data 住所:川越市仲町6-2
-
塩野家住宅
この建物は材木商「丹清」4代目梶田清左衛門が、明治27年・1894年に建てたものです。もとは路地をはさんで東側に店蔵があり、この建物は袖蔵として使われていました。1階下屋の西側には防火のための袖壁が立っています。道に面した下屋部分は、以前は銘木類を展示するショーウインドーとして使われていたそうです。 data 住所:川越市仲町9-9
-
小谷野家住宅(フカゼン)
この建物は綿織物などの太物卸商を営んでいた「山仁」高山仁兵衛により、明治28年・1895年に建てられ、その後昭和23年・1948年に表具店「深善」の小谷野恒太朗氏が譲り受けたものです。1階下屋の両側に立ち上がる袖壁が特徴的で、川越ではほかにこの形をとる蔵造りはありません。この袖壁は2階の窓を閉鎖的な観音開きではなく開放的な窓にするために、火の回り込みを防ぐ防火壁としてつくられたと考えられます。防火性と居住性を調和させるための工夫といえます。 data 住所:川越市幸町7-4
-
小島家住宅(あいとく)
この建物は代々相模屋徳右衛門を名乗る呉服商「相徳」のもので、建てられた年代は明らかではありませんが、明治26年・1893年の川越大火後間もなく建てられたものと考えられています。川越の蔵造りには珍しく外壁の仕上げが黒漆喰ではなく、黄色の大津壁となっているため暖かな印象を受けます。また棟も小さく、2階の開口部も観音開き扉ではなく鉄格子です。2階の開口部の上と1階下屋の先端に付けられた金属製の庇が外観上のアクセントになっています。 data 住所:川越市幸町3-3
-
原家住宅(陶舗やまわ)
この建物は呉服商の山本平兵衛により、明治の大火直後の明治27年・1894年に建てられました。現在は陶器店の「やまわ」となっています。一番街から長喜院の門前に至る参道の角地にあるため、2つの通りに沿ってL字型の下屋が付属し、屋根も角地特有の外観を際立たせる入母屋造りという形になっています。屋根の妻側には懸魚と呼ばれる木製の装飾も付いています。また屋根の上には魔よけの効果があるとされる鐘馗像が置かれています。どこにあるか探してみてください。 data 住所:川越市幸町7-1
-
宮岡家住宅(宮岡刃物店)
宮岡家は江戸時代の天保期から金物商を営んできた川越の老舗で、屋号を「町勘」といいます。この建物は明治30年・1897年に、時の鐘を建てた大工の棟梁関根松五郎によって建てられました。深い軒、背の高い箱棟、巨大な影盛、重厚な観音開き扉など華やかなデザインで、階高も他の蔵造りに比べひときわ高くなっています。影盛は鬼瓦と箱棟をつなぐように漆喰を盛り上げたもので中は空洞になっており、見かけほど重くはありません。 data 住所:川越市幸町7-3
-
大沢家住宅(小松屋)
この建物は寛政4年・1792年、呉服商であった「近江屋」西村半右衛門によって建てられました。明治26年・1893年の川越大火の時にも焼け残り、その後川越商人が続々と蔵造りを建てるきっかけとなった建物の一つです。屋根の影盛は明治の大火以降の重々しいものと比べ、非常に薄く板状になっています。2階の窓も観音開きではなく、土格子です。火事の時には1階の入口に漆喰を塗った土戸をはめ込みます。江戸時代の蔵造りの様式を伝える、関東地方でも古いほうの町家で国の重要文化財に指定されています。 data 住所:川越市元町1-15-2
-
喜多院多宝塔
多宝塔とは、下層が四角形、上層が円形の上に四角形の屋根を乗せた2層の塔のことをいいます。寛永16年・1639年に、山門と日枝神社の間にあった古墳の上に建立されました。その後、明治時代に道路新設のため移築され、昭和48年・1973年の解体修理にともない現在地に移されました。高さは13メートル。屋根の上には亀腹と呼ばれる白い漆喰の構造物があり、塔の頂上には相輪と呼ばれる金属製の装飾が突き出ています。江戸時代初期の多宝塔の特徴がよく現れた建物です。 data 住所:川越市小仙波町1-20-1
-
喜多院慈眼堂
天海僧正、すなわち慈眼大師をまつるお堂です。国の重要文化財に指定されています。天海僧正が亡くなった2年後の正保2年・1645年、3代将軍家光の命により建てられました。中には天海僧正の木造が安置されています。屋根は正方形の方形造りで、平瓦と丸瓦を交互に組み合わせた本瓦葺きです。7世紀初頭につくられた古墳の上に建っており、背後に歴代住職の墓があります。 data 住所:川越市小仙波町1-20-1