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南町奉行所跡
江戸時代、町奉行所は南北二つ設置されていました(一時期三つ存在した時期もあり)。町奉行は寺社奉行、勘定奉行と並び「三奉行」とされ、重要なポジションでした。南北の月番制で業務を分担していましたが、主に町方の行政、司法、警察を一手に担っていたため、その仕事は激務で多忙を極めたと言われています。町の治安維持という面で、火付盗賊改と町奉行はいがみ合うことも少なくなったと言われますが、「鈍牛」事件の時に、南町奉行が池田筑後守長恵(ながしげ)で父・宣雄とも京都町奉行時代に親交があったことから、両者の関係は緩和されて描かれている。実際、平蔵の配下である同心・田中貞四郎が誤認逮捕をしてしまった時も、平蔵に温情のある対応をしています。 「…南町奉行・池田筑後守長恵(ながしげ)(九百石の旗本)は、去年の二月まで京都町奉行に任じていた人物で、平蔵の亡父・宣雄も、かつて京都町奉行であったところから、平蔵との間に三年ほど前から、手紙のやりとりをするようになった…」5巻【鈍牛(のろうし)】 「…しかし、江戸の町奉行所は南北の二つがあり、北町奉行・初鹿野(はじかの)河内守と火盗改方とは、どうもうまく行っていない。機動性に富む火盗改方の活躍が、町奉行所にはおもしろくないのである…」5巻【鈍牛】
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松平定信上屋敷
寛政の改革を主導した松平定信の上屋敷は西の丸下(現皇居外苑前広場)という設定になっています。実際、小説の中でも長谷川平蔵は重要な案件を進言しにこの屋敷に訪れています。江戸時代、西の丸下は老中や若年寄などの要職を務める役宅が設置されていた場所でした。現在のような黒松が自生する広場になったのは、明治21年(1888)に「皇居御造営」完成後の事業として整備された際に植樹されました。 「…平蔵は長い沈思(ちんし)からさめたような表情となり、いそいそと西ノ丸下の松平屋敷へおもむいた」2巻【蛇の眼】