鳥取城下町大切図 川内上 [天保14年(1843)]

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袋川と外堀との間に区画された町割のうち、智頭街道よりも東側(袋川の上流側)を描いた絵図。この大切図には16町の町人町と、その東側に配置された寺町(朱色)、総構である袋川沿いや町人町に点在する武家の拝領屋敷(黄色)が描かれている。このうち町人町は、一軒ごとに表間口と奥行の間数を記し、その所有者を記載している。町人町の土地所有状況を記すのは、表間数を指数とする町役の賦課・十分一銀(町屋の売買に際して、その価格の10分の1を徴収する)などを算出するためと推定される。しがたって、本図によって現住者の情報を得ることはできない。また本図には所々に所有者の変更を示す貼り紙があり、その下限は明治2年(1869)である。このことから、土地管理の基礎資料として町会所などで長期にわたって利用されていた状況がうかがえる。なお、大切図は、本図を含めて6枚に分けて城下町全体の町人町を描いており、その構成は、川内上、川内下、江崎・上町・立川、川外上、川外下、新品治となっている。

update date: 2024.04.01

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  • 仏法院

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    修験道の堂宇。美作玉林寺(岡山県津山市)の末院。本尊は青面金剛。元治元年(1864)には、博奕宿として町人に提供したことが発覚し、関係者が追放に処された。

  • 養源寺

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    浄土真宗の寺院。山号は慶雲山。寺伝によると、美濃国大垣(現岐阜県大垣市)に創建され、開基は大垣城主池田恒興の家臣上田氏の子(慶心大和尚)と伝えるが定かではない。また池田家の転封に従って鳥取に移転したとするが、慶安以前の絵図には描かれていない。寺号は、池田恒興の父恒利の院号養源院から賜ったという。文化9年(1812)には、本山の西本願寺と末寺との間で教義をめぐる争いとなり、養源寺を含む因幡6ヵ寺が、幕府の寺社奉行に呼び出され、取り調べを受ける事件があった。天保11年(1840)には、養源院(池田恒利)の御霊屋と本堂を再建するため、子供芝居・曲馬等の興行を藩に願い出ている。 「池田恒利画像」 鳥取県立博物館蔵

  • 一行寺

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    浄土宗の寺院。山号は三昧山。戦国期には栗谷(現鳥取市)にあったとされ、池田家の鳥取入部後に、現在地に移転したという。慶安以前の絵図には「市行寺」とある。寺内には、室町幕府創立の功臣として伯耆・出雲など5カ国の守護となり、山陰に勢力を振った山名時氏の寿塔とされる基壇が残されている。ただし、基壇の銘にある応安4年(1371)4月17日は、時氏の死後にあたるため、史実との間で齟齬がある。また境内には、鳥取藩の上級家臣である福田家の墓所がある。福田家福田家は、山城国(現京都府)の土豪出身で、のちに池田家に仕え、江戸前期には、幕府に対して人質(証人)に差しだすなどした。そのため藩内では3番目に高い格式である「証人上」として禄高3,500石を給された。また黒坂(現鳥取県日野町黒坂)に陣屋を持ち、自治的な政治を行った。

  • 最勝院

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    真言宗の寺院。山号は薬王山。高野山多聞寺の末寺。八ヶ寺の一つ。寺伝によると、天正期(1573-93)には、池田輝政の祈願所として「宝蔵院」と称した。池田家の転封に従って、姫路、岡山、鳥取と移転した。岡山時代に寺号を「宝寿院」と改めており、慶安以前の絵図にも「宝寿院」と記載がある。最勝院と改号したのは、宝永6年(1709)のことである。池田家の祈願所として、公子女誕生の際には、安産の祈祷を命じられた。明治3年(1870)に湯所の養寿院と合併されて移転した。

  • 覚応寺

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    浄土真宗の寺院。鳥取城下で唯一の東本願寺の末寺。山号は光瑞山。同寺では、享保期(1716-36)に、弓を射る行事「勧進的」が行われた。境内には、文久3年(1863)に京都・本圀寺で尊攘激派の藩士らに襲撃されて死亡した側近高沢省己の墓がある。また、大和国(現奈良県)出身の勤王僧三枝真洞(1840-68)は、天誅組の挙兵に参加後、当寺に一時身を隠した。

  • 本学院

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    修験道の堂宇。本学院という修験者がおり、因幡小鍛冶景長の持仏という薬師如来があったと伝える。霊験仏として繁盛したことから、この土手筋の為登は「薬師の為登」と呼ばれた。なお、景長は、京都粟田口の刀工二代吉正が、嘉元年間(1303~06)に、因幡国宇倍野(現鳥取市国府町)に移住して景長と改名し、以後景長を名乗った。

  • 慶安寺

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    浄土宗の寺院。山号は智光山。池田光仲の父で岡山城主池田忠雄が母良正院の菩提を弔うために淡路島由良に創建。のちに岡山に移り、寺号を専称寺から慶安寺と改めた。この寺号は「良正院智光慶安大禅定尼」の法号をとった。寛永9年(1632)の国替えにより鳥取に移った。正徳4年(1714)に将軍家の位牌所となったことで、藩内最上位の寺院である四ヶ寺の待遇を受けた。境内には、鳥取藩絵師で幕末に活躍した根本幽峨(1824-66)や、鳥取藩学界の三傑と称された安藤箕山(1736-81)の墓がある。明治5年(1872)には、境内に市内で2番目の修徳小学校が開校した。

  • 光明寺

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    浄土宗の寺院。山号は正眼山。一説には湯所村の端から移転したと伝えるが、確証はない。境内には、荒木又右衛門の弟子で、寛永11年(1634)に伊賀上野で、鳥取藩士渡辺数馬の仇討ちを助太刀した岩本孫右衛門の墓がある。孫右衛門はのちに鳥取藩士となり、寛文8年(1668)に死去した。

  • 光明寺

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    浄土宗の寺院。山号は正眼山。一説には湯所村の端から移転したと伝えるが、確証はない。境内には、荒木又右衛門の弟子で、寛永11年(1634)に伊賀上野で、鳥取藩士渡辺数馬の仇討ちを助太刀した岩本孫右衛門の墓がある。孫右衛門はのちに鳥取藩士となり、寛文8年(1668)に死去した。

  • 慶安寺

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    浄土宗の寺院。山号は智光山。池田光仲の父で岡山城主池田忠雄が母良正院の菩提を弔うために淡路島由良に創建。のちに岡山に移り、寺号を専称寺から慶安寺と改めた。この寺号は「良正院智光慶安大禅定尼」の法号をとった。寛永9年(1632)の国替えにより鳥取に移った。正徳4年(1714)に将軍家の位牌所となったことで、藩内最上位の寺院である四ヶ寺の待遇を受けた。境内には、鳥取藩絵師で幕末に活躍した根本幽峨(1824-66)や、鳥取藩学界の三傑と称された安藤箕山(1736-81)の墓がある。明治5年(1872)には、境内に市内で2番目の修徳小学校が開校した。

  • 本学院

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    修験道の堂宇。本学院という修験者がおり、因幡小鍛冶景長の持仏という薬師如来があったと伝える。霊験仏として繁盛したことから、この土手筋の為登は「薬師の為登」と呼ばれた。なお、景長は、京都粟田口の刀工二代吉正が、嘉元年間(1303~06)に、因幡国宇倍野(現鳥取市国府町)に移住して景長と改名し、以後景長を名乗った。

  • 覚応寺

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    浄土真宗の寺院。鳥取城下で唯一の東本願寺の末寺。山号は光瑞山。同寺では、享保期(1716-36)に、弓を射る行事「勧進的」が行われた。境内には、文久3年(1863)に京都・本圀寺で尊攘激派の藩士らに襲撃されて死亡した側近高沢省己の墓がある。また、大和国(現奈良県)出身の勤王僧三枝真洞(1840-68)は、天誅組の挙兵に参加後、当寺に一時身を隠した。

  • 最勝院

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    真言宗の寺院。山号は薬王山。高野山多聞寺の末寺。八ヶ寺の一つ。寺伝によると、天正期(1573-93)には、池田輝政の祈願所として「宝蔵院」と称した。池田家の転封に従って、姫路、岡山、鳥取と移転した。岡山時代に寺号を「宝寿院」と改めており、慶安以前の絵図にも「宝寿院」と記載がある。最勝院と改号したのは、宝永6年(1709)のことである。池田家の祈願所として、公子女誕生の際には、安産の祈祷を命じられた。明治3年(1870)に湯所の養寿院と合併されて移転した。

  • 一行寺

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    浄土宗の寺院。山号は三昧山。戦国期には栗谷(現鳥取市)にあったとされ、池田家の鳥取入部後に、現在地に移転したという。慶安以前の絵図には「市行寺」とある。寺内には、室町幕府創立の功臣として伯耆・出雲など5カ国の守護となり、山陰に勢力を振った山名時氏の寿塔とされる基壇が残されている。ただし、基壇の銘にある応安4年(1371)4月17日は、時氏の死後にあたるため、史実との間で齟齬がある。また境内には、鳥取藩の上級家臣である福田家の墓所がある。福田家福田家は、山城国(現京都府)の土豪出身で、のちに池田家に仕え、江戸前期には、幕府に対して人質(証人)に差しだすなどした。そのため藩内では3番目に高い格式である「証人上」として禄高3,500石を給された。また黒坂(現鳥取県日野町黒坂)に陣屋を持ち、自治的な政治を行った。

  • 養源寺

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    浄土真宗の寺院。山号は慶雲山。寺伝によると、美濃国大垣(現岐阜県大垣市)に創建され、開基は大垣城主池田恒興の家臣上田氏の子(慶心大和尚)と伝えるが定かではない。また池田家の転封に従って鳥取に移転したとするが、慶安以前の絵図には描かれていない。寺号は、池田恒興の父恒利の院号養源院から賜ったという。文化9年(1812)には、本山の西本願寺と末寺との間で教義をめぐる争いとなり、養源寺を含む因幡6ヵ寺が、幕府の寺社奉行に呼び出され、取り調べを受ける事件があった。天保11年(1840)には、養源院(池田恒利)の御霊屋と本堂を再建するため、子供芝居・曲馬等の興行を藩に願い出ている。 「池田恒利画像」 鳥取県立博物館蔵

  • 仏法院

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    修験道の堂宇。美作玉林寺(岡山県津山市)の末院。本尊は青面金剛。元治元年(1864)には、博奕宿として町人に提供したことが発覚し、関係者が追放に処された。

  • 早田忠兵衛

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    鳥取藩の鐔師。安政2年(1855)は6人扶持で藩の御細工並。因州駿河派。早田家の初代忠右衛門は、駿河に居住する甲冑師(春田氏)で、池田輝政に仕えた。2代忠左衛門のときに早田姓に改め、鐔師となった。3代忠左衛門が鳥取城下の若桜町に屋敷を拝領すると、以降は10代弥平の幕末に至るまで、お抱えの鍔師として御用を勤めた。

  • 新 彦四郎

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    新家は鳥取藩の御忍で、伊賀衆服部家の末裔。代々彦四郎を名乗った(3人扶持26俵)。安政の鳥取城下全図では馬場平兵衛の居住地となっており、新 彦四郎の拝領屋敷は卯垣に移っている。

  • 冨田善之右衛門

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    冨田善之右衛門の拝領屋敷。善之右衛門は御徒で、俸禄は3人18俵(「御支配帳」安政2年)。弘化2年(1845)5月に異国船手当のため、大筒打ちを仰せ付けられている(「家老日記」)

  • 片原天神

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    片原一丁目の向かいにあった荒神。慶安以前の絵図をみると、片原一丁目は両側町であったことがわかる。享保9年(1724)の黒川火事以降、火除のため堀側に店を構えることが禁止されて、芝生地となった。その後、子どもの遊び場となっていたが、この地にあった五輪塔が、いつしか荒神として祀られるようになった。江戸中期には、町中を回る壮麗な祭礼行列も行われた。子どもの守護神として崇敬されていたが、明治初年に一時廃絶し、その後再興された。なお、荒神の下は、花畑や渋紙の干し場として利用されることもあった。 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

  • 浅見久左衛門

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    鳥取藩の白銀師(刀のハバキを製作する)。安政2年には4人扶持。江戸後期には鐔師として御細工並となり、藩の御用を勤めた。

  • 中尾権左衛門

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    鳥取藩の金具師(鉄砲の引金や火ばさみ部分のカラクリを作る)。3人扶持20俵。安政の鳥取城下全図では、金具師の榎並新兵衛の拝領屋敷となっている。

  • 村川三郎兵衛

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    鳥取藩の台師(鉄砲の銃床をつくる)。安政2年には3人20俵、諸職人。

  • 大谷伊四郎

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    藩の御役者。代々伊四郎を名乗る。安政2年には3人扶持20俵。家元は春藤家(宝生流)。

  • 片原一丁目

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    町人地。町名は一方が掘に接していたことに由来する。 片原一丁目の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

  • 町御用場

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    城下の町役人が町務をとり、集会所として利用された町政の中枢施設。町会所とも呼ばれた。もとは本町二丁目にあったが、享保9年(1724)の黒川火事で焼失し、本町一丁目に移転した。文政2年(1819)に伯耆国赤崎沖に漂着した朝鮮漂流民12名は、一時期、町御用場に滞在した。この施設は、明治4年(1871)に本町郷学校に転用され、翌年に遷喬小学校が創立された。

  • 片平又蔵

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    鳥取藩の鑓師。太鼓打役の四郎左衞門が、寛永11年(1634)に、備前で槍柄細工をしていた忰の藤四郎(2代)を呼び寄せ、当初は元大工町に居住して、鑓屋又右衛門を名乗った。慶安期(1648-51)に御用職人となる。元文期(1736-40)に、職人町に表口3間の屋敷を拝領した。

  • 本部為右衛門

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    本部為右衛門は、明和4年(1767)に表小姓として家督(10人扶持50俵)を継ぎ、安永7年(1778)までは為右衛門を名乗った。その後300石に加増され、御附人など勤めたが、文化2年(1805)に死去。安政の鳥取城下全図では中沢宗益の居住地となる。

  • 市浦治左衛門

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    鳥取藩の鞘師。安政2年には3人扶持、諸職人。

  • 外堀

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    寺町の妙要寺から出合橋出口までの堀の総称。郭内と郭外を分ける堀として、もともと流れていた袋川の旧河道を利用し、若桜口から鹿野口惣門までの間は、堀が開鑿されている。江戸時代後期には住宅から流れ込む土砂の堆積や、近隣に住む武士や町人が勝手にゴミを捨てる行為によって、堀は埋まっていく傾向にあったようである。現在、堀は埋め立てられているか、暗渠となっている。 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵

  • 旧町御用場

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    享保9年(1724)の黒川火事で焼失し、隣りの本町一丁目に移転した。

  • 智頭口の惣門

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    郭内に9ヵ所あった惣門のひとつ。大手筋の門として参勤交代では、御城代が藩主を送迎した。

  • 本町

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    薬研堀から数えて、最初の両側町であったことからこの町名になったという。一丁目と二丁目は御用商人や職人が居住し、城下町の町政を司る町御用場があった。

  • 智頭街道

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    鳥取城下の大手筋。鳥取から智頭宿や上方に至る道であったことから「智頭往来」・「上方往来」とも呼ばれた。参勤交代の道として利用され、藩主通行の際には、壮麗な行列をひと目見ようと、藩内から人々が押し寄せた。

  • 若桜町

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    町人地。若桜街道に面することからこの名がついたという。商人・大工・職人などが混在する町で、鍔師・早田氏の拝領屋敷もあった。寛永11年(1634)の竈数23、安永7年(1778)の家数76。 若桜町の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

  • 上魚町

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    町人地。町名は、池田光政の城下町拡張のときに、魚屋を集住させたことに由来する。江戸時代中期になると、魚屋町としては衰微し、諸商売が混在する繁華街となった。寛永11年(1634)の竈数は41、安永7年(1778)の家数67、明治9年(1876)の家数86。 上魚町の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

  • 桶屋町

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    町人地。町名は、桶屋仁左衛門が居住していたことにちなむ。桶屋仁左衛門家は幕末まで桶屋を営んでいた。天保~弘化期(1830-48)にかけて鳥取藩が実施した藩内全村の田畑地続全図と田畑地続帳の作成事業を担当した増井清蔵は、当町に居住した。寛永11年(1634)の竈数33、安永7年(1778)の家数112。 桶屋町の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

  • 鍛冶町

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    町人地。町名の由来は、鍛冶師が多く住んでいたことに由来する。町内に居住する日置氏と山本氏は藩の刀工。日置氏は、因幡兼先一門で、寛永9年(1632年)の国替えに際し、日置想重郎兼先が、池田光仲に従い岡山から鳥取に移住、明治維新まで八代にわたり、鳥取藩の刀工として活動した。日置廣次郎の屋敷は上品治村(現弥生町)にもあった。山本氏の初代忠国は、山城の人、または鳥取の人ともいわれ、鳥取東照宮の神剣作刀のため、慶安2年(1649年)に京都から招かれたと伝えられる。寛永11年(1634)の竈数29、安永7年(1778)の家数94。 鍛冶町の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

  • 御札場(制札場)

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    制札場は、幕府や藩が決めた法令を木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所で、寛文4年(1664)には、高砂屋六兵衛の南隣に、高さ2尺の石垣が築かれ、柿葺屋根の制札場が設置された。そのためこの付近は「札の辻」とも呼ばれた。

  • 日置兵助

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    鳥取藩の刀工。安政2年(1855)は5人扶持20俵、藩の御細工。兼先一門。日置家は寛永9年(1632)の国替えの際、日置想重郎兼先が、池田光仲に従い岡山から鳥取に移住し、明治維新まで八代にわたり、鳥取藩の刀工として活動した。

  • 愛敬院

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    真言宗。山伏。伊勢国(現三重県)世義寺の末院。本尊は十一面観音。格別の院であるとして、天保14年(1843年)に、本山より照福寺の寺号を与えられた。嘉永7年(1854年)には、ペリー来航による鳥取藩の江戸湾警備に対して、国恩として200両と銭1貫文を藩に献上した。

  • 山本八郎太夫

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    鳥取藩の刀工。安政2年(1855)は5人扶持、藩の御細工並。山本氏の初代忠国は、もと山城の人、あるいは一説に鳥取の人とおいい、鳥取東照宮の神剣作刀のため、慶安2(1649)年京都から招かれたと伝えられる。享保5(1720)年に70才で没した。三代以降は作品に乏しいが、幕末期の山本忠明は最後の刀工といわれる。 初代忠国の刀【押し形】鳥取県立博物館蔵

  • 宮城屋七左衛門

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    享保16年(1731)に町両替座、天明4年(1784)に質屋年行司、同7年(1787)に町年寄、文政2年(1819)に大目代を勤めた。

  • 槌屋清助

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    呉服商。安永年中(1772-80)に呉服御用を勤めた。文化元年(1804)御指綿御用聞、文政元年(1818)但馬村岡油紙絞り御用を勤めた。天保15年(1844)鳥取城の普請につき、田土12万貫目を町方請にて差配し、嘉永5年(1852)苗字御免(小泉)となった。安政2年(1855)には二階町二丁目御上地の裏尻を御国産絹座に拝借した。

  • 徳屋忠治郎

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    与右衛門が播磨時代に池田家の蝋燭御用を勤めた。宝暦6年(1756)御銀札場両替役、天明3年(1783)布木綿・金物・塗物・紙類・糸類万小間物御用、寛政8年(1796)より打糸師、同年御国産方御用懸、御馬飼葉御用などを勤めた。

  • 平野屋甚次郎

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    初代は宝暦3年(1753)に塩問屋、同11年には米問屋に任命された。4代は、文政13年(1830)年以降、町年寄役を勤めた。平野屋甚右衛門家の分家にあたる。本家と同じく近隣に多くの土地を所有した。。

  • 平野屋甚右衛門

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    平野屋は江戸時代中期に台頭した新興商人。初代が享保16年(1731)に両替座を命じられ、二代は明和3年(1766)に大目代役となり、翌年には米問屋に任ぜられ、以後代々勤めた。平野屋は元大工町のほか近隣に多くの土地を所有しており、地主的性格が濃厚な商人とされる(『新修鳥取市史』)。

  • 間嶋要助

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    代々御油御用を勤めた。屋号は油屋。寛保3年(1743)御伽羅油御用のため、参勤交代に御供、寛政4年(1792)米相場頭、文化4年(1807)御蠟座懸り、文政9年(1826)御銀札場懸り御貸付方締役などを歴任した。 間島家の看板 鳥取市歴史博物館蔵

  • 加賀屋又右衛門

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    加賀屋。寛永3年(1626)頃より居住、寛政10年(1798)大目代、文化2年(1805)町年寄へ転役となり、井上姓を名乗る。藩の御銀御用を勤めた。

  • 真教寺

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    浄土宗の寺院。山号は久松山。江戸中期に池田家が由緒ある寺として待遇した八ヶ寺の一つ。鳥取城下で一番古い寺院とされる。寺伝によると、天文14年(1545)に布施天神山城主の山名誠通が、久松山に鳥取城を築城する際に、鎮守として建立したと伝えられる。また本尊の阿弥陀如来は、銀山(鳥取県岩美町)から移されたものという。天正9年(1581)、羽柴秀吉による鳥取城攻めで、敗れた吉川経家は、真教寺で切腹したとされる。 寺地は、関ヶ原の戦い後に移転した。天和2年(1682)に良正院(徳川家康の娘、池田輝政の夫人)の位牌所となった由緒により、八ヶ寺となった。正徳元年(1711)に真教寺が火元となり、茶町まで1,300軒余が焼亡した火事は俗に「真教寺火事」と呼ばれた。また、天明5年(1785)には、周防国岩国(現山口県岩国市)の吉川家によって新調された吉川経家と殉死者の位牌が納められた。

  • 円相院

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    真教寺の塔頭。立川三丁目の肥後が谷には同院の庵があった。

  • 教蓮寺

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    浄土真宗の寺院。山号は慈光山。寺伝では、良正院の病気平癒を祈願し、池田家の転封にともなって鳥取に移転したというが、慶安以前の絵図には寺地は描かれていない。一方、藩の記録では、元禄7年(1694)に備後の僧が持ってきた聖徳太子絵伝の公開を願い出ていることから、この間に、若桜町に移転したものと考えられる。寺内には良正院の御霊屋があった。鳥取藩士の多賀屋氏、城戸氏などの菩提寺であったが、明治の半ばに吉岡温泉(現鳥取市)移転した。

  • 職人町

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    町人地。町名は、大工・木挽・石工などの職人が多く住んでいたことにちなむという。寛永11年(1634)の竈数28、安永7年(1788)の家数79。 職人町の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

  • 悪水抜き

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    町の境界線に設けられた排水路。大きさは、町によって違いがあるが、基本は幅4間(7.2m)、長さ24間(63m)とされた。

  • 高田孫惣

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    鳥取藩の檜物師(曲物などの生活用具をつくった職人)。安政2年(1855)には2人扶持、諸職人。

  • 平田勘七

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    藩の御役者(観世流)。4人扶持50俵。勘七は天明4年(1784)に死去。安政の鳥取城下全図では、松田文太郎の拝領屋敷となっており、平田家は御弓町に移っている。

  • 笠井治兵衛

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    御役者。正徳6年(1716)には5人80俵。ただし、笠井治兵衛の名があるのは、享保期頃(~1735)までで、その子孫とみられる笠井権兵衛は寛政10年(1798)に藩を退身した。安政の鳥取城下全図では、杉田甚之進の居住地となっている。

  • 後藤喜兵衛

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    鳥取藩の彫物師。安政2年には3人扶持、藩の御細工並。

  • 加嶋七郎右衛門

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    白銀屋(刀のハバキを製作)。安政2年は3人扶持、藩の御細工並。加嶋とあるのは、鹿嶋の誤記か。

  • 川端二丁目

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    町人地。当初は藩によって宿屋町に指定されていたが、のちに宿屋は姿を消した。 河端二丁目の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

  • 二階町一丁目

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    町人地。町名の由来は、『因州記』によると、姫路の町名を移したものとされるが、諸説がある。藩の鉄炮台師や金具師など御用職人の拝領屋敷があったほか、大工や左官などが多く住んだ。古くは風呂屋が多く集まっていたので、別名を「風呂屋丁」ともいった。 二階町一丁目の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

  • 智頭橋

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    現在の元町と瓦町の間に架かる橋。橋名は智頭街道にちなむ。参勤交代路にあたるため、他の橋よりも高く構えられ、長さは15間(27m)あった。城側には寛文4年(1664)に敵の侵入を食い止めるための枡形が築かれた。また川端二丁目との間に通称「くぎぬき」と呼ばれる大木戸があり、近辺には番小屋や土手筋に馬場があった。智頭橋手前の城側を「薮片原」といい、武家屋敷地であった。そのため智頭橋を別名「薮片原橋」ともいった。明治8年(1875)に長さ12間2尺、幅1丈5尺の擬洋風橋に掛け替えられた。 智頭橋付近 『鳥府志』鳥取県立博物館蔵 鳥取智頭橋(絵葉書) 鳥取県立博物館蔵

  • 新町

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    町人地。城下町拡張の際に、何らかの理由で町の成立が遅れたため、新町と名付けられたという。「沖の新町」ともいった。 新町の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

  • 川端一丁目

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    町名は、川筋に沿った町であることに由来するという。 河端一丁目の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

  • 福善院

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    真言宗。山伏。湯所にあった清教寺の末院。本尊は不動明王。享保4年(1719)に、3代藩主池田吉泰の公子(4代宗泰)誕生を祈祷し、初御目見を許された。これをきっかけに、火事・喧嘩の人足役を免除された。秋葉大権現を祀り、防火の神として信仰を集めた。 「池田宗泰画像」 鳥取県立博物館蔵

  • 浄覚寺

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    浄土真宗の寺院。山号は妙広山。川端一丁目の端にあり、若桜街道が行き当たる場所に位置した。享保5年(1720)の石黒火事後に江崎町から移転した。

  • 荒木又右衛門屋敷

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    幕末に鳥取藩士荒木家の屋敷があった場所。幕末の当主である荒木又之進は900石を給された。初代の又右衛門は、日本三大仇討ちの一つに数えられる「鍵屋の辻の決闘」で有名な剣術家。義弟で岡山城主池田忠雄の臣渡辺数馬を助太刀し、寛永11年(1834)11月に、伊賀上野(現三重県伊賀市)の鍵屋ノ辻で仇敵の河合又五郎を討ったのち、鳥取藩に引きとられたが、ほどなく急死した。墓は市内の玄忠寺にある。婿養子が荒木家を継ぎ、鳥取藩士として幕末まで続いた。現在は、黒住教大教所となり、地内には又右衛門を祀る「荒木神社」がある。なお、この場所に初代又右衛門の屋敷があったわけではない。

  • 若桜街道

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    鳥取城下から若桜宿(現八頭郡若桜町)方面に向かう道筋であることから若桜街道、もしくは「若桜往来」と呼ばれた。城下から若桜宿方面へは、若桜口の惣門を出て、町人地を進み、若桜橋を渡ってすぐに東に曲がり、袋川にそって吉方村へと進むのが本来の経路であったが、江戸時代中期には、江崎下の惣門から、大榎町、御弓町を経て、一本橋から吉方村に至る経路の方が一般的となった。

  • 若桜橋

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    鳥取城下より若桜宿(現八頭郡若桜町)へ向かう若桜往来にかかる橋。城下より吉方村へ通じる本道であったが、一本橋が整備された江戸時代中期には、一本橋から袋川を渡り、内吉方、御弓町、江崎町、元大工町を通る別ルートが利用されるようになり、若桜往来筋は衰微したという。明治以後、架け替えられた橋欄は、「菊」の形に似ていたことから、「菊橋」とも呼ばれていた。現在の橋は昭和30年(1955)竣工。

  • 本町一丁目

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    城下町拡張により、姫路から町名を移したという。町寄合所があり、享保9年(1724年)には、町御用場が移転してくるなど、町政の中枢機能を担う場所となった。町内には、御用職人(白銀師)浅見氏の拝領屋敷などがあった。寛延元年(1748)閏10月には、町内の丁子屋市郎兵衛が米相場の安定を目指し、米相場所の設置を藩に願い出ている。 本町一丁目の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

  • 岩見屋清右衛門

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    江戸時代初期に石見国(現島根県西部)から鳥取に移ってきたと伝え、代々岩見屋清右衛門を名乗り、家伝として滋養強壮薬「三心五臓円」を販売した。この薬は米子、倉吉、松江にも販売されていた。岩見屋の後進である五臓圓薬局では、現在も同じ名前の栄養薬を販売している。 「三心五臓圓」のチラシ 鳥取県立博物館蔵

  • 油屋平兵衛

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    天保9年(1838)、三度荷年番を勤めた商人(「町奉行御用日記」)

  • 角屋市次郎

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    薬種業。正徳4年(1714)以降、元大工町へ移住してきた商人。

  • 浜田屋甚九郎

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    先祖甚九郎が、寛保年中(1741-43)から当地に住居した。天保14年(1843)米問屋并米相場役頭兼帯、壱岐守様御用聞、弘化2年(1845)小谷の苗字を御免、弘化4年(1847)町御用場根取締り役、嘉永元年(1848)に家督を相続した甚九郎は、同7年に町年寄役を勤めた。

  • 京屋源助

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    染物屋。源助は、文化12年(1815)御染物御用聞となる。文政8年(1825)に藤左衛門へ振替し、嘉永期に源助を名乗った。片原1丁目から3丁目にかけては『鳥府志』に「片原町壱丁目と弐丁目の堺の処、五六十間程の間、並同三丁目観音堂の横に三拾間が程、今、紺屋等が虎落〈もがり〉を結並べたる処は、並の堀筋よりも六七間広まりて、往来際まで掘込たり。」とある。

  • 若木屋市右衛門

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    若木屋は、池田長吉の時代に播磨国から栗谷へ来住し、その後、柳御蔵の内側にあったという桜馬場うなぎ町に転宅した。池田光政の城下町整備に際しては、川端二丁目に屋敷地を拝領し、寛文期(1661-73)に3代目市右衛門が御酒御用を勤めた。寛延2年(1749)に5代藩主池田重寛へ翫人形を献上した。文政5年(1822)大目代仮役、文政8年(1825)までは米相場頭を勤めた。

  • 安宅七郎次

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    菓子商。屋号は宝来屋。文化年間(1804-18)に編纂された「町人下帳」(鳥取藩政資料)によれば、与右衛門は備前で池田家の「御菓子並御膳部青物」の御用を勤め、寛永9年の国替えで鳥取に移住したとする由緒を持つ。本来国替えによる領民の移住は幕府から認められていなかったが、特定の御用町人や職人が岡山から移ったようである。鳥取移住後は池田光仲好みの御菓子製作を命じられて京都で三年修行したといい、その後は参勤交代の際に、用瀬御茶屋で藩主に御菓子を献上する御用などを勤めた。こうした功績によって藩からは苗字帯刀の待遇を受けて、安宅姓を名乗った。 ちなみに宝来屋が用いた蒸籠には、猿が幣を担ぐ図の蒔絵が施してあったという。

  • 岩見屋久治郎

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    岩見屋は、安政3年(1856)に、稲扱(いなこき)などの農器具を店売りする新商法を開始。木版刷りの引き札(チラシ)を配布して、宣伝につとめた。

  • 若桜口惣門

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    鳥取城下に9ヵ所あった惣門のひとつ。堀より内側は「郭内」と呼ばれ、家老をはじめ重臣たちの屋敷が配された。この「郭内」が池田長吉期に城下町として整備された範囲と推定されるが、詳細は不明である。惣門を自由に通行することはできず、町人が通行する場合には、許可証である門札が必要であった。

  • 元魚町一丁目

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    町人地。町名は藩から魚町として指定されたことによる。 元魚町一丁目の標幟 『鳥府志』 鳥取県立博物館蔵

  • 袋川旧河道

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    江戸時代後期になると、堀の左右が住民たちによって埋め立てられ、町人地の一部に組み込まれていった。 「外堀埋り地に建家懸り候場所絵図」 鳥取県立博物館蔵

  • 坂田の為登(いと)

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    呼称は、為登の側に鳥取藩士坂田家の屋敷があったことに由来する。

  • 嶋屋

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    元魚町二丁目の角にあった商家。通称「角嶋屋」。智頭街道は、嶋屋の前で鍵形に曲がっていたので、この地点は「嶋屋の角」と呼ばれていた。嶋屋は灯油や晒蝋を商っていたが、蝋座の御用を勤め、天明6年(1786)には町年寄役に就任した。嘉永3年(1850)には、蝋座御用の功績により八田姓を名乗ることが許された。明治以降も洋品雑貨を扱ってきたが、鳥取大火後の智頭街道直線化によって、昭和30年(1955)に閉店した。

  • 藪片原

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    武家屋敷地。若桜橋の下から智頭橋の制札場までの袋川沿いにつづく地区をいう。明治以降、昭和42年(1967)までは町名として使われた。

  • 伊藤甚助

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    鳥取藩の弓打(弓師)3人20俵、諸職人。安政の鳥取城下全図では、弓師の斉藤東右衛門の拝領屋敷となっている。

  • 後藤万蔵

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    鳥取藩の張付師(表具師)。五藤とも書く。安政2年には4人扶持10俵、御細工人。藩の御用として文化14年(1817)に徳川家康の神像、天保4年(1833)に池田恒興の画像を修復している(「家老日記」)。また五藤家は、向かいの芝生地を「渋紙干場」として利用したという(『鳥府志』)。安政の鳥取城下全図では岸雲昇の居住地となっている。

  • 油屋石井家

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    石井家は池田光政の鳥取入府以前から鳥取城下に居住する有力商人。寛永9年(1632)の国替え時には、彦左衛門(利常)が町年寄役筆頭を命じられ、苗字を許された。江戸時代中期以降には、質屋業を営む傍ら、藩の御用をたびたび勤めている。とくに寛政8年以降は、華道の心得により、御花御用を勤めている。江戸後期に但馬国(現兵庫県北部)から養子入りした昌平は、石井家の経済的・社会的な地位をさらに上昇させ、城下において重きをなした。なお、石井家には江戸時代後期の屋敷図が残されており、大商人の暮らしぶりをうかがい知ることができる。 石井家屋敷図【鳥取市指定保護文化財】 鳥取市歴史博物館蔵