二万分の一地形図 浜田(明治30年代)

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この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万分1 正式図を使用した。(承認番号 平29情使、 第1059号)

update date: 2019.07.10

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Number of spots : 8spots

  • 旧制浜田中学校跡

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  • 陸軍司令部跡

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  • 浜田県庁跡

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  • 雨覆練兵場

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    歩兵第21連隊の訓練施設で、浜田市立第1中学校(明治31年築)と島根県浜田高等学校(大正5年築)に保存、活用されています。当時の最新西洋建築によるもので、建築史上、貴重なものです。また、浜田高校では、雨の日の硬式野球部の練習場として活用されています。

  • 雨覆練兵場

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    歩兵第21連隊の訓練施設で、浜田市立第1中学校(明治31年築)と島根県浜田高等学校(大正5年築)に保存、活用されています。当時の最新西洋建築によるもので、建築史上、貴重なものです。

  • 善那先生(ジェンナー)頌徳碑

    スポット画像未設定

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    天然痘予防のため、種痘法を開発・普及したイギリス人のエドワード・ジェンナーを人類の恩人として讃え、明治32年(1899)に旭町に医師を中心に鏡山の山頂に建設されました。万灯公園にも碑があります。

  • 震災記念之碑

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    明治五年(1872)に発生したマグニチュード7.1の浜田地震で、大きな被害を受けた牛市町の様子を記録した記念碑。明治29年(1896)に建立されました。浜田地震に関する数少ない資料の一つです。碑文には、当時の人々が後世に伝えたいメッセージが書かれています。 【碑文の現代語訳】天地変動はいつ起こるか分からない。普段から災害の備えをしておくことが必要である。明治五年二月六日大地が大きく震え、浜田の市街地の地面が裂け、家は壊れ、さらに火災が四時に起こり、人や家畜が死傷し、繁華街は一日で廃墟となった。牛市は最もひどく八三の戸数が壊れたり、焼失したりし、火事の後残ったものは僅か三戸である。人口三〇〇人余りで、あるものは圧死、あるものは火傷。死者は四二名、負傷者は一〇〇名余り。妻と死に別れた男性、夫と生き別れた女性、親を亡くした子、子を失った老人が非常に多い。家族が全滅した家もある。村の人々は悲しみ、泣き叫び、住む土地もなく、住む家もなく、多くの生命が財産とともにすべて失われてしまった。老人は言う。「浜田の地は昔から地震が多く、近いときでは安政元年一一月五日及び安政六年九月九日の災害があった。建物が傾き、崩れ落ち、人々は野外に避難した。しかし、明治五年の災害は最悪で、この日は天が曇り空で、風は吹かなかった。午後微かに震動があって、日暮れになるとにわかに大地震が起こり、家屋はたちまち崩壊した。上下に動き壊れたように思えた。災害後もまだ微かな震動は数カ月止まなかった。前の年の冬は井戸水がなくなり、大雪が降り、北東の海上は赤い大気が空一面を覆った。」今は家屋が櫛の歯のようにびっしり並び、住民は安心し、すでにこの惨劇の跡はなくなった。速やかに復興を成し遂げたと言えるだろう。平穏な暮らしの中にあっても、災いが起こることを忘れず、普段の生活の中でも災害を忘れないことを心がけて欲しい。(訳)浜田高校歴史・社研部 岩崎瑞生(2012年卒)  【碑文の原文】玄黄之変何時乎不無焉蓋要平生之備耳明治五年二月六日地大震浜田市街地烈家倒加之祝融四起人畜死傷繁華之区一日為墟如我牛市最為劇甚戸数八十有三或顛覆或焼亡其残留者僅三戸人口三百有餘或壓死或火傷死者四十有二名傷者百有餘名有死別之鰥有生訣之寡有亡親之孤有失子之獨甚則有一門絶滅之家一閭之人悲鳴哀號住無地居無家幾多之生命與財産共帰烏有父老曰浜田之地古来多地震近之則有安政元年十一月五日及六年九月九日之災当是時棟傾屁落人人避難於野外然而明治五年之災最惨尤劇是日曇天無風午後有微震至日暮而俄然大震家屋忽倒蓋如上下動者災後尚有微震数月不止前年之冬井水涸大雪降東北之海上有赤気瀰天今也家屋櫛比居民安堵既無惨劇之跡可謂能奏回復之効居治而不忘乱在平生而不遺災異者其庶幾乎 明治二十九年二月

  • 歩兵21連隊の碑

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    昭和41年(1966)に連帯跡地の浜田高校の桜並木の入口に建立され、巨大な石碑とコンクリート造の歩哨小屋2基が建っています。連隊は明治31年(1898)に広島から転営し、戦後は、中学校と高校の施設となりました。