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遊郭だった建物をそのまま生かした あるお店に、地下への細い階段が。狭い地下室の壁面に、落書きが残っています。(石崎)
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千本上長者町から見る右大文字、かなりの混雑でした。ご近所さんに頂きましたコップ一杯の水。 大文字をコップの水で透かしてその水を飲むと願い事(無病息災)が叶うとか。たくさん方がコップを持っておられました。願い事が叶いますように。(田村)
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立本寺(りゅうほんじ)の墓地前にある石碑。島左近、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」のときに出てましたよね。(鳴橋)
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同じ狭い道をはさんで2つの商店街が並立している所って、他にあまり無いのでは?さらに、すぐ東には北野商店街も。(石﨑)
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上下反転、再利用?看板が錆びてきて、元に書いてあったものと思われる字が白く浮かび上がってきています。「南区東九条南烏丸町」と読めます。南区は1955(昭和30)年に下京区から分かれて発足しているので、元の看板はそれ以降に作られたものですね。(石崎)
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千中の時計塔。昔は千本通ぞいの店、家の人が時間を見るため外に出て見ていました。大正時代末期から昭和初期に建てられました。京都市の景観施策で近年に広告看板が外され、昔の時計が現れました。昔ここにあった木村時計店の「村木」の字があります。
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正親小学校の「第二校歌」とも言える「正親の歌」。昭和33年ごろ、児童数が1000人を超えた(現在は175人ほど)のを記念してつくられたそうです(正親小学校創立140周年記念フェスティバルで、商店街バンド「ラ・ヴィタ・ボーイズ」演奏)
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千中(千本中立売)の「時計塔」「市電最後の日」写真。京都市電北野線は昭和36年7月31日に廃止されました。これらの貴重な写真は、近隣の田中さんが、まち歩きガイド用に公開してもよいと、快く提供してくださったものです。広告看板や、道を走る車、自転車にも時代を感じます。(田村、石崎)
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下立売七本松西入ル北側のお寺2つ。それぞれが仏様のお参りルート(三十三箇所みたいな)の一つになっています。今で言うたらスタンプラリーみたいなもの。小さなお寺でも、何らかのルートに入ってて、それに沿って行くとそれぞれの仏さんにお参りに来られるようになってたんですね。(鳴橋)
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製麺所の古い看板。「味もピッタリ 一日一食 粉食めしませ」。なかなかの名コピー! ちょうつがいで可動式です。(石﨑)
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千本通には昭和(戦後)の繁華な雰囲気を今に伝える建物は数多くありますが、戦前の町並みは どんな感じだったのでしょうか。千本商店街で、昔を知る年配のかたに お尋ねしたところ、「今 残っているのは、あそこぐらいやなあ…」と 教えてくださいました。千本椹木町の南東角の木造の建物です。今より狭かった千本通の両側に このような建物が連なっていたようすを思い浮かべてみます。その町並みの中で、点在していた 千本座、長久座、北野劇場、昭和館といった映画館・芝居小屋は ひときわ華やかに目立った存在だったことでしょう。(石﨑)
今の「千本日活」は、映画館としては昭和36年に「五番街東宝」としてオープンしました。宝田明や浜美枝も来演したようです。ここは、昔は「遊郭事務所」でした。古地図は、近代京都オーバーレイマップ(昭和26年頃京都市明細図=京都府立総合資料館所蔵)より。(石崎、田村)
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水上勉「五番町夕霧楼」冒頭部分
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『 五番町は、京都人には「ゴバンチョ」と少し早口でよばれる語調をもった、古い色街である。 詳述しておくと、西陣京極のある千本中立売から、西へ約一丁ばかり市電通りを北野天神に向って入った地点から南へ下る、三間幅ほどしかない通りである。この通りは丸太町まで千本と並行してのびているが、南北に通じるこの通りを中心にして、東西に入りこむ通りを含めて、凡そ二百軒からなる家々は軒なみ妓楼だった。 どの家も古い建築で、大きな塀に囲まれた構えをもつ館も二、三はあった (…後略) 』
天神筋を一条通下がって東側にあります、南妙法蓮華経の石碑。一体ここは昔、何があったと思いますか?1912年から1918年の6年間、日本映画の産声高くここは日活関西撮影所(法華堂撮影所)だったのです。チャンバラが繰り広げられていたかも。(もも) 法華堂。撮影所跡(石﨑)
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