伊達政宗伝記『僊台武鑑』の挿図「大坂冬の陣両軍配置図」を参考に、冬の陣当時の大坂城惣構(総構)と周辺の様子を北東部上空から南西方向を遠望する形で鳥瞰して描いた。手前左手(東側)から古・大和川が西流して淀川と合流し、大坂城北面を守る天然の惣構堀の役割を果たしている。東西・南北2キロ四方を超える惣構堀の内部が広義の大坂城内で、やや北東寄りの本丸・二の丸が高台を占め、三の丸と呼ぶべき三つの馬出と武家屋敷がその周囲を固めている。さらにその南部と西部には町屋(内町)が軒を連ねている。冬の陣において徳川軍が最後まで攻め込めなかった「大坂城内」というのは、まさにこの全域のことで、外堀に囲まれた現存の徳川大坂城の城域とは全く異なる。本イラストに描かれた南惣構堀の東寄りの南外側に張り出した大きな台形の砦が冬の陣直前に真田信繁の献策で造られたいわゆる「真田丸」である。真田丸には多数の鉄砲が配備されて城内側の強力な迎撃拠点となり、弱点とされた南面から徳川軍は一兵たりとも侵入できなかった。一方、鉄壁の守りと思われた北や西には、徳川方により新兵器の大砲が配備され、射程内の本丸の天守や御殿へ砲弾が撃ち込まれることになる。実際、城方に与えた戦略的効果は極めて大きく、豊臣方首脳部は衝撃を受け、講和への一因ともなった。
(渡辺 武/【週刊】ビジュアル戦国王 [001.] より)