南アルプスジオパークぶらり 大日本帝国土性図 信濃国 [明治23年(1890)]
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土性とは、土を構成する粒の大きさ別(粗砂、細砂、シルト(微砂)、粘土)の構成割合をいいます。本図は、明治15年(1882)来日し、農商務省地質研究所に努めたドイツ人フェスカ (1845-1917) が、地質調査を従事した成果です。旧国別の10万分の一の図と、解説書がセットなっています。地図には、「説色記号」(土性図の色分けの説明)と「土壌側断面」が記載されています。また、地図の標記は旧国名でなされています。 現在の長野県県域。明治23年(1890)の刊行。今井秀之助が共同調査者として記載されています。 原図サイズ:215cm×133cm ランドマークには南アルプスジオ・パーク(中央構造線エリア)の情報が掲載されています。 国立公文書館所蔵
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廃線後も車道に活用 平川 洋一 氏_撮影(S45) 鈴木 治男 氏_撮影 遠山森林鉄道は1968(昭和43)年に国有林の搬送を完了し、翌年から軌道の撤去が始まった。梨元橋は、昭和48年に旧梨元貯木場までの鉄路の撤去完了後も、軌道用の橋梁、橋脚を車道として使用した。1995(平成年ごろ、現在の道路橋に掛け替えられた。貯木場から見て上村川の対岸には、廃線まで輸送を行った民間事業者、信和林業(現トライネット)の積降場があった。かつては木造橋だったが、昭和34年の伊勢湾台風による被害でガーター橋に架け替えられた。架け替えに伴い、上村川の河床に代替の線路が走る姿を、当時の大健木材平岡営業所勤務だった鈴木治男氏が撮影した。
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杖突峠:新しい日本と古い日本が交わる時間の交差点 -巨大な裂け目・諏訪盆地を望む- 南アルプスの中央構造線をたどる旅をはじめるのに、杖突峠は最適な場所です。ここから南側の南アルプス方面を眺めれば2億年前頃にかたちづくられた古い日本、北側を眺めれば1,500万年前ころにかたちづくられた新しい日本を見ることになります。 杖突峠 杖突峠(つえつきとおげ:標高1,247m)は、長野県伊那市高遠町と茅野市の境に位置します。ふもとの茅野市安国寺から直線距離はわずか3㎞ですが、標高差約400m上がります。 中央構造線とフォッサマグナ 中央構造線は日本列島を南北に分ける大きな断層。糸魚川―静岡構造線(糸静線)は日本列島を東西に分ける大きな溝、フォッサマグナの西側の縁を走る断層です。この二つが杖突峠の先の諏訪盆地で交わり、中央構造線はここで糸静線に断ち切られ東西に12kmほどずれています。 中央構造線は2億~6500万年前頃(ジュラ紀-白亜紀)に形成された全く異なる岩石が出会っている場所です。 一方、フォッサマグナは2000-1200万年前に東西に日本列島が裂けたところ。その裂け目に海が入り込み、杖突峠よりも東側に延びる中央構造線は海の堆積物に埋まってしまいました。この堆積物からできているのが峠から北に見える、新しい日本の地層です。フォッサマグナは、ナウマンゾウ研究で知られている、ドイツ人地質学者ハインリッヒ・エドムント・ナウマンが命名しました。ナウマンが設立にかかわった地質調査所(1882年開所)でフェスカが土性調査した内容を1890年にかたちにしたのがこの「大日本帝国土性図 信濃国」です。 諏訪湖 諏訪湖は、糸静線がつくる大きなくぼ地に、周辺の山々から流入した水がたまり造られたのでしょう。

板山露頭: 谷の左右で山の傾きが違うのはなぜ? 杖突峠から国道152号線を南下すると、南アルプスジオパーク内で初めて中央構造線を観察できる場所が板山露頭です。中央構造線を境に、大陸の地下でできた岩石と、遠い太平洋からやって来てできた岩石が出会っています。できた場所も、深さも、できかたもまったく違う岩石が隣り合っているのです。実は、そのせいで、中央構造線が走る谷をはさんで山の傾きが違うのです。 三波川帯と領家帯 露頭の東側、黒色の岩石がやわらかい三波川帯。西側、茶褐色の岩石が固い領家帯です。三波川帯は、遠い太平洋からやってきた岩盤や堆積したサンゴや貝やなどに由来する岩石が深い地下で比較的低い温度で変成してできた岩石。領家帯は、大陸の地下の比較的浅いところで、マグマの上昇により高い温度で変成してできた岩石です。水平距離で60km-200km、上下距離で20km以上も遠く離れたところでできた岩石が中央構造線の活動で出会ったのです。中央構造線の境目を触ってみましょう。やわらかい泥は、2つの断層摩擦によってぐずぐずにされた「断層粘土」です。ここは、露頭全体がもろい岩石となり、断層の周辺岩石がぐずぐずになった部分(破砕帯)を観察してみましょう。 中央構造線の谷の特徴 露頭から、続く道を上ると小高い丘に出ます。そこから杖突峠を見てみると、山の傾きが違うのがわかります。露頭の右側、三波川帯の山は海洋プレート近くで堆積したやわらかい岩石が高い圧力で押しつぶされたため、やわらかく削られやすいので、緩い傾斜の山をつくります。左側、領家帯の山はマグマにより高温で焼かれた固い花崗岩のなかま。固く削られにくいので、傾斜のきつい山をつくります。中央構造線をたどる旅のあいだ、つねに山の傾斜の違いについて観察してみましょう。

溝口露頭: 生まれも育ちも違うふたりがドッキング 中央構造線公園では、露出した中構造線の境、まったく異なる環境でできた岩と岩が接する不思議な断層を見ることができます。大陸プレート内部でマグマによって高温で変成を受けた領家帯の岩石と、冷たい海洋プレートの近くで高圧の変成を受けた三波川帯の岩石が接しているのです。この二つの岩石は、200km以上離れた所で生まれ、移動してきて出会ったのです。 湖から見るともっとよくわかる 溝口露頭の観察路から見ると、岩石の色が異なる境界がいくつか見えます。東側の黒い岩石は三波川帯の結晶片岩です。中央構造線は、断層の境界に沿って貫入した岩石に埋まっています。領家帯の岩石は、柵よりも西側になり近くからは見ることができません。カヌーに乗って湖から観察するとよくわかります。 南アルプスジオパークでは、ジオガイドのみなさんや地域の教育施設・団体が企画するツアーが開催されます。南アルプスジオパーク(中央構造線エリア)協議会のホームページには、そんなツアーやお勧めのコースの紹介が掲載されています。 南アルプスジオパーク協議会HP 【お問い合わせ先】南アルプスジオパーク(中央構造線エリア)協議会事務局伊那市総務部世界自然遺産登録推進室 ☎0265-72-6220(伊那市創造館内) 溝口露頭から分杭峠を見る 溝口露頭から南側の山を見てみましょう。切れ目のようにへこんだ地形が分杭峠です。中央構造線の断層を追って行くと、ちょうど分杭峠までつながります。断層の部分は、岩石が周辺よりもろくなる(破砕帯)のため、削られて特徴的な地形になります。三波川帯にあたる東側はやわらかい岩石のため、なだらかな斜面になっています。
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御池山の隕石クレーター
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小惑星が衝突した痕跡 坂本 正夫 氏_撮影 御池山(標高1905㍍)山頂から北側の稜線は、円弧を描くように延びる。2010年、飯田市美術博物館専門研究員の坂本正夫氏らの研究チームが、その成因が隕石によるクレーター地形であるとの論文をまとめ、国際誌に発表。「御池山隕石クレーター」と名付けられた。研究によると、直径約45㍍の小惑星が2~3万年前に衝突し、直径約900㍍のクレーターを形成。浸食に伴い、円状の4割ほどが残ったとされる。一帯の地層は、秩父帯の砂岩、泥岩、チャートが分布。チャートに含まれる石英の結晶に、衝撃によってできる筋状の特殊な変形組織が確認され、隕石衝突の証拠となった。ハイランドしらびそ〜下栗の里間の林道沿いの展望台、林道から約40㍍の高台の展望台から稜線を望むことができる。

守屋神社(前宮) 守屋神社に伝わる不思議な話 2対の狛犬 約1400年前の飛鳥時代、蘇我馬子に敗れた物部守屋の一族が建立したと伝わります。鳥居には地元の高遠町片倉で発見された「物部守屋神社」の額が掛かっています。その昔、戦いに破れた物部氏は、守屋の亡骸を現在の守屋神社へ埋葬し、近辺に邸宅を構えたとされています。このため、神社周辺には「古屋敷」という地名が残り、今も「守屋」姓の住民が多く住んでいます。守屋神社境内には2対の狛犬があります。昭和57年(1982)に1対が盗難にあいました。平成3年(1991)に新たに狛犬を建立しました、その後盗まれた1対の狛犬が帰ってきたため2対になりました。なぜ、戻ってきたのか不思議ですが盗んだ人に物部守屋の祟りがあったのか・・・今後もこの話は言い伝えられていくのでしょう。 赤松の並木 守屋神社の鳥居をくぐると珍しい赤松並木です。かつて守屋神社から山頂への参道沿いに赤松などの御神木の並木が続いていたそうです。戦争中に薪にするために切り倒されてしまったということですが、今もところどころに大木が並んでいます。
須沢停車場跡・須沢橋
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鉄路と共に人のにぎわい 正村 修身 氏_撮影 梨元貯木場ー大沢渡間の19.6㌔区間には、9カ所の停車場があった。須沢停車場は中根停車場に続く2カ所目。複線だった停車場跡の眼下には、かつての上須沢の集落の民家がその姿を留めている。遠山川の約400㍍下流側では、湯ノ沢から鉱泉を引いており、五色温泉と呼ばれている。 ■須沢橋赤い須沢橋は対岸に渡るための数少ないつり橋の一つ。かつて遠山川左岸には、5世帯ほどが住む平畑集落があり、生活道として渡る唯一の吊り橋だった。右岸側にポストがあり、対岸まで渡って郵便物を取りに来たとのエピソードも残る。

森林鉄道の起点 唐沢 徳 氏_撮影(S30ごろ) 遠山森林鉄道は1895(明治28)年、王子製紙株式会社が遠山郷での共有林の伐採権を購入し、岐阜県や富山県などから林業者が参入もあり林業が主要産業として栄えた。太平洋戦争開戦の前年の1940(昭和15)年、帝室林野管理局が軍用木材搬出を目的に着工。1944(昭和19)年に梨元―大沢渡間が、56(昭和31)年に北又渡ー本谷間の2路線が完成し、総延長は計30・5㌔。終点には北又、本谷製品事業所があり、多くの林業従事者でにぎわいを見せた。最盛期1966(昭和41)年には、鉄製貨車242台を運行。しかし、国産木材需要の低下と災害による維持費上昇などを受けて木材搬出は昭和43年12月で終了。翌年から撤去作業が始まり1965(昭和48)年までに軌道は撤去された。かつての軌道跡は現在、林道として通行が可能だが、冬季は凍結、積雪のため入山は控えた方が良い。 ■旧梨元停車場 唐沢 徳 氏_撮影1955(昭和30)年頃 敷地内には、旧飯田営林署事務所があり、森林鉄道の運行管理、民間事業者との調整などに当たっていた。貯木場には線路が周回し、木材の等級決めやトラックへの載せ替えが行われた。機関車の修理工場や日用品調達のための丸五商店などもあった。1955(昭和30)年ごろ、貯木場北側には主に独身者が利用する木造2階建ての「若葉寮」が完成。機関士や保線員ら50人ほどが住み込んだという。2011(平成23)年、地元有志でつくる「夢をつなごう森林鉄道の会」が発足し、貯木上内を周回した鉄路を復元。現在までに全長350㍍のレールが完成し、ディーゼル機関車が走る姿を見ることができる。

今も生きる学び舎 現在の木造校舎は、1932年(昭和7)年完成。林業の産業化に伴い人口流入が進み、遠山村、木沢村合併時の1960(昭和35)年には全校児童は257人にのぼった。遠山森林鉄道廃線後は過疎化が進み、91年、卒業生8人、在校生18人を最後に休校。同時に、木沢地区活性化推進協議会が発足し、校舎の保存活用を進めてきた。平成12年に閉校。その後、遠山森林鉄道、南アルプスに関する資料などが展示され、地域の交流拠点として息づいている。校長はネコの高嶺(タカネ)ちゃん。午前9時~午後5時開館。無休。

守屋山: 信仰の山 雨乞いで蹴落とされたお宮 守屋山東峰(標高1,631m) 守屋山は諏訪大社上社の御神体ともいわれ、また、高遠側の守屋神社の「境内」でもあります。不思議な雨乞いの神事が伝わる信仰と密接に結びついた山なのです。 雨乞いの神事 東峰山頂にあるのは守屋神社の奥宮です。守屋神社からここに至る山道は参道なのです。守屋神社は雨乞いの聖地であり、耕作の季節には、高遠町片倉の氏子が奥宮へお参りし、石造の祠を山頂から高遠側へ突き落として神様を怒らせて雨を降らせるということです。山頂直下の守屋ルートでは、祠を頂上へ運び上げる時に腰の刀で傷がついたとされる岩が残っています。現在では、祠を転がすことができないよう、鉄の柵で囲っています。周辺の土地の人々は守屋から来る雷雨は、相当激しいもので「守屋の夕立」といって畏怖られているそうです。 眼下に広がる諏訪の伝説 守屋山西峰(標高1,650m) 守屋山西嶺からは、「御神渡り」や花火大会で有名な諏訪湖をきれいに望むことができます。 神秘的な諏訪の伝説や民話の舞台が一望できる場所です。 ダイダラボッチ(でいらぼっち)の足跡 諏訪に伝わる伝説や民話は太古の人々の記憶をとどめているような話ばかり。縄文時代には八ヶ岳を中心とする一帯は一大先進文化地帯だったといわれます。そんな壮大な太古のお話のひとつが、眼下に見下ろせる大泉山、小泉山にまつわるお話です。「大昔、八ヶ岳は富士山とけんかをして八つの峰になってしまった。その姿を見て、妹の蓼科山が泣き、流した涙は諏訪湖となる。その湖を埋めようと日光の二荒山から大男でいらぼっちが土をもっこで運んだが、重すぎて天秤棒が折れた。天秤から落ちた土が小山となり、大泉山と小泉山となった…」

日本のチロル 御池山の尾根沿い、標高約1000㍍にある上村の集落。斜面中腹に民家や畑が並ぶ景色は「日本のチロル」とも呼ばれる。天空の里ビューポイントの展望台へは、集落上部の観光施設「はんば亭」から約800メートルの歩道が地元有志の手により整備されている。宮崎駿監督の「ちゅうずもう」や、さだまさし作の「天空の村」の題材になった。2010年には、旧木沢小学校とともに大手引越業者のテレビCMとして撮影された。道幅が狭く、7㍍以上の大型車は集落内の通行はできない。

黒川:南アルプスの岩石ウォッチング 河原に落ちている石をみると、その場所よりも上流の岩石の種類が分かります。黒川は四万十川帯や三波川帯など中央構造線を構成する地質帯の中を流れており、河原では次のような岩石を見ることができます。 砂岩・・・砂ぐらいの大きさの粒が固まってできたざらざらした岩石 蛇紋岩・・・つるつるした緑色の岩石 蛇の皮のような見た目をしている 結晶片岩・・・鉱物が層のようになっている岩石 石灰岩・・・白色のやわらかい岩石 チャート・・・赤色や青色の固い岩石 緑色岩・・・緑色の岩石 花崗岩・・・白色と黒色の鉱物でできた岩石 岩石標本箱:高遠ぶらり制作委員会で制作・販売中
守屋山登山口(立石ルート)
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守屋山:まわりとは異質なカタマリ 守屋山は、まわりの地質より新しい時代の岩石でできている山です。古くからの守屋山登山道は、守屋神社から奥宮への険しい尾根道を登る参道です。オススメは神社から杖突峠に向かう途中から登る「立石ルート」。誰でも軽登山を楽しめます。 立石ルート: たった一人で拓いた登山道 立石(坊主岩) 登山道 立石ルート 山頂まで約1時間30分~2時間で1,650mの世界へと続く登山道。高遠町片倉の守屋源一さんが平成7年(1997)から約3年かけてたったひとりで切り開いた登山道です。このルートの名前は、登山道途中にある「立石」から取られました。この岩は、下から見ると手を合わせた僧侶の姿にも見えるため、「坊主岩」とも呼ばれています。登山道の途中には、この他にも、「十文字岩」「夫婦岩」などの巨岩、奇木「平成のビーナス」などが目を楽しませてくれます。 西峰直下の笹薮では、「歩く人が疲れないように」と守屋さんが1年かけて刻んだつづら折の道が整備されています。 老若男女に守屋山を楽しんでもらいたいという守屋さんの優しい思いが込もった登山道です。 ルートを開拓した守屋さん 不思議な巨岩たち フォッサマグナが造りだしたタイムカプセル 守屋山の岩石は、第三紀(ほ乳類の時代)に海底火山から噴火した溶岩や凝灰岩からできています。中央構造線の谷を作る岩石は、中生代(恐竜時代)に運ばれてきましたので、時代が全く違います。守屋山は、古い地質の中にぽっかりと丸く入り込んだ1,500万年~700万年前にできた新しい岩石の塊。守屋山から南は古い時代につくられた日本、北は新しい時代につくられた日本。まさにここが時間の波打ち際なのです。 浅間の滝 富士山を御神体とするコノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫)を祀っています。滝の近くには祠があります。石造で重いものですが、登山道を開拓された守屋さんがこの場所に運んだものです。守屋山は山岳信仰のメッカです。守屋山信仰はもちろん、御嶽信仰、富士山信仰と様々な山の修験の道でもあります。特に伊那谷でも盛んだった御嶽信仰の修行の場であり、守屋山山頂からは御嶽山を望むことができます。日々守屋山で修行した先達が御嶽講を村組み、村落の人を連れて毎年御嶽山へ参ったということです。 鬼が城 山賊の隠れ家と伝えられ、盗人(ぬすっと)岩とも呼ばれています。岩が板状に割れて、屋根のようになっています。火山岩が冷え固まる時に、岩に平たい割れ目ができる「板状節理」を観察できます。この岩頭は、千畳敷と呼ばれとても見晴らしが良くなっています。

最後の林鉄車両が残る 南アルプスしらびそ高原(標高1918㍍)にある宿泊施設。館内では、食事や日帰り入浴ができるほか、御池山隕石クレーターに関する展示もある。敷地内で遠山森林鉄道の車両も展示。1968(昭和43)年12月13日、最後のレール撤去時に走った営林署の79号が保存されている。 営業は4月中旬~11月中旬。1泊2食で大人9200円~、素泊まり6200円~。日帰り入浴は500円。
南アルプス林道バス営業所
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南アルプス林道バス:雄大な南アルプスへの入り口 南アルプス登山の拠点、仙流荘の隣に南アルプス林道バスの乗り場があります。バスに乗れば、四季折々の景色を見ながら、55分後には、標高2,000m地点にある北沢峠まで行くことができます。ところどころで、林道バス運転手さんが見どころを説明してくれるかもしれません。途中で、鹿やカモシカに出会うこともめずらしくありません。 林道バス運行発着時間 行き先 仙流荘 北沢峠 北沢峠 ○ 5時15分 6時10分 北沢峠 □ 6時05分 7時00分 北沢峠 8時05分 9時00分 北沢峠 △ 10時05分 11時00分 北沢峠 12時10分 13時05分 北沢峠 14時20分 15時15分 ○印は7月21日、28日、8月4日、11日運行□印は○印以外の土曜日と日曜日・祝日および7月16日から8月31日の平日運行と9月の金曜日運行 △印は、○□印以外の平日運行 □旅客運賃 仙流荘-北沢峠 1,130円(小児 半額) □手回り品 仙流荘-北沢峠 210円 詳しくはこちらHPをご覧ください

美和湖: 伊那谷、水をめぐる闘いの歴史 美和ダム完成前 旧美和村 昭和25年(1950) 美和ダム:領家帯に寄り添う多目的ダム 伊那谷の歴史、それは谷を流れる天竜川・三峰川の水害や土石流に備え、また、耕地に水をひくための人々の工夫と闘いの歴史でもあります。三峰川は、遠く南アルプス仙丈ヶ岳直下に始まり、天龍川まで56.8kmという長大な距離をアルプスの山を削りながら流れ下ってきます。かつては、降雨のたびに大量の出水があり、ぼう大な土砂を一挙に本流・天竜川に押し出すため、遠く下流まで河岸は氾濫原となりました。 そうしたことから、昭和28年(1953)から三峰川の治水事業が推進され、三峰川総合開発事業が始まったのです。 昭和34年(1959)に完成した重力式コンクリートダム(高さ69m、長さ367m)は、洪水調節・灌漑・水力発電を目的とする、多目的ダムです。写真は、ダム建設前の昭和25年(1950)、長谷中非持の高台から見た三峰川が流れる谷の姿です。西側は急な山々、東側にはなだらかな山と河岸段丘が発達しています。西側は領家変成帯(花崗岩のなかま)、東側は三波川帯(変成を受けた泥や砂の岩石)。三峰川が中央構造線を削り込んでできた地形を読み取ることができます。ダム建設に伴い、家屋や農地などが水没し、旧美和村の105世帯が移住しました。ダム完成直後の昭和36年(1961)の豪雨災害「三六災害」では、ダムが下流への大きな被害を防ぎました。 みわっこ 美和ダム管理支所広報室三峰川や美和ダムなどの書籍、資料を自由に閲覧することができます。トイレ休憩にもどうぞ。【開館時間】午前8時30分~午後5時15分【休館日】年中無休

戸台の化石資料室 : 「遠い海」太平洋から来たアンモナイト 長谷公民館内の「戸台の化石資料室」には、伊那市長谷・戸台に分布する白亜紀前期(約1億2千万年前)の泥や砂、レキの地層から見つかった、アンモナイト、サンカクガイなどの生き物の化石を展示しています。どうして海がない南アルプスに化石が発掘されたのでしょう。中央構造線の東側、三波川帯の岩石は、はるか遠く、太平洋のプレート運動と共に運ばれ、造山活動によってできたもの。それで戸台では、変成活動で押しつぶされた化石をたくさん見ることができるのです。昭和38年(1963)、千葉大の学生だった北村健治さん(現・「戸台の化石」保存会会長)が最初のアンモナイト化石を発見しました。産出した化石を散在せず、貴重な標本として地域に残したい-。そうした思いから、「戸台の化石」保存会が昭和62年(1987)に発足。これまで集まった化石約9千点を資料室で保存しています。年に2回、現地で岩石観察と化石採取の学習会を開いています。石ころウォッチングや化石ハンティングはいかがですか?(見つけた化石は持ち帰らず、資料室で保存します) 【お問い合わせ先】 長谷公民館 開館時間:月~金曜日(午前9時~午後5時)、土曜日(午前10時~午後4時)休館日:日・祝日 ☎0265-98-2009(長谷公民館内)

蛇紋岩の露頭 :緑色の石にヘビの模様が見えてくる!? 鷹岩トンネルを抜けると、たいへん崩れやすい「蛇紋岩」露頭が見えてきます。蛇紋岩は、濃い緑色でつるつるしているのが特徴です。 表面に、ヘビの皮のような模様が見えるため「蛇紋岩」の名前も付きました。蛇紋岩は、海洋プレートをつくる「かんらん岩」という岩石が熱い水で変成を受けた岩石です。蛇紋岩を割るとアスベストが見つかることがあります。海洋プレートが大陸へと沈み込む場所でできた蛇紋岩が、現在の南アルプスの山麓まで押し上げられたことが分かり、地球の運動の大きさを感じます。この地域では、蛇紋岩を「温石(おんじゃく)石」と呼びます。蛇紋岩を火鉢に入れ布で包んでカイロの変わりに使っていたのでこの呼び名がついたそうです。

森林鉄道も駆け抜けた岩山トンネル 「鷹岩」の名前は、タカが羽を広げた形をした岩があったから。一説には、鷹岩付近の「蛇紋岩」に白っぽい羽の形にも見える鉱物「アスベスト(石綿)」が観察できるから、とも言われています。 鷹岩から200mほど上がると井筋の跡が残されています。この井筋は、長谷・杉島村の伊東伝兵衛により測量が行われ天保4年(1833)から半世紀に近い歳月をかけて明治10年(1877)に通水された井筋です。井筋の工事は想像以上の難工事のため、工事が中断するなどもあり大変長い期間がかかっています。なかでも鷹岩トンネル開通はかなりの難工事だったと思われます。 その後、昭和16年(1941)には、現在の宿泊施設「仙流荘」から全長12㎞にわたる「黒河内森林鉄道」が開通。 50年代中頃まで国有林から木材を運び出していました。近くの橋に、当時の森林鉄道レール廃材を使用したガードレールがあり当時の面影を残しています。トンネルを抜けた左側、滝の手前には逆さまに生える松があります。森林鉄道の時代から成長を続ける「根性の松」として親しまれています。 鷹岩トンネル 鷹岩_滝

軌道守る保線員の拠点 西村 光 氏_撮影(1972(昭和47)年) 対岸の集材地までの短い架線や、列車の交換、折り返しに使う転車台(ターンテーブル)があった。また、森林鉄道の保線は7つの保線区に分かれており、須沢から大野の分岐までは、柿の島の保線区が担当。停車場には、保線員が常駐する合宿所があり、寝泊まりしながら作業に当たった。各保線小屋には電話線が引かれたが、離れた場所で異常を見つけた場合に備え、現地近くの電柱につなげる「携帯電話」も使用した。旧木沢小学校で実物を見ることができる。

遠山川渡るトラス橋 西村 光 氏_撮影(1972(昭和47)年) 現在のながとろ橋 正式な名前は、第一遠山川橋梁。遠山川右岸側を走ってきた森林鉄道は、この場所で初めて本流を渡って左岸側を走る。全長44㍍の鋼製トラス橋。板張りの歩道の下には枕木がのぞく。1955(昭和30)年ごろに当時の木製のトラス橋から掛け替えられたとみられ、河床に低いコンクリート製の橋脚が残る。

災害と隣り合わせの運材 「なぎ」は、土石流や土砂崩落を意味する。急斜面を流れる沢を数多く越える軌道は、幾度となく発生した災害や落石などで寸断した場所も多い。もいちなぎもその一つとされ、「もいち」は周辺の山林所有者の名前にちなむとされる。森林鉄道一帯に大きな被害があった豪雨災害としては、1959(昭和34)年に伊勢湾台風、1961 (昭和36)年には三六災害が知られる。

S字カーブの難所 平川 洋一 氏_撮影 (1972(昭和47)年 遠山川の右岸、大きなS字カーブを描く区間。全車両を制動するエアブレーキ導入前は、後方の車両に乗った複数の制動手がブレーキを手動で操作しながら下った。カーブの上流には、梨元貯木場から一つ目の停車場「中根停車場」があった。北側斜面には中根集落、左岸側にもかつては集落があり、人が行き来したつり橋の遺構が残る。
遠山郷土館「和田城」
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霜月祭りの面が一堂に 戦国時代に遠山郷を統治した●遠山氏の居城、和田城跡にある資料館。現在は9つの神社で毎年12月に行う「霜月祭り」(国重要無形民俗文化財)の映像や祭りに登場する「神様」を象徴する面(おもて)のレプリカを展示している。遠山森林鉄道の沿線にあり、災害に伴い祭りが途絶えた須沢地区の宇佐八幡社の面は、実物29点を展示している。 ■午前9時~午後4時開館。■木曜休館(1~2月は休館)。■大人310円、中学生以下100円。小学生未満は無料。