伊勢本街道マップ

<html> <body>この地図は、伊勢本街道の最大の難所 大和高原「うだの難所を行く」と、三重県の発行する「みえ歴史街道ウォーキングマップ(伊勢本街道及び伊勢街道)」を結合して調整し、奈良県の桜井から三重県の伊勢神宮に至る伊勢本街道のルートを1枚の地図にまとめたものです。<br> <br> 「みえ歴史街道ウォーキングマップ」については、三重県知事の承諾(平成25年12月13日付環生第12-266号及び平成26年 2月27日付環生第12-339号並びに同第12-340号)、並びに三重県市町総合事務組合管理者の承認を得て、同組合所管の「2006三重県共有デジタル地図(数値地形図縮尺10,000)」を使用し調整しました。(承認番号:三総合地第276号)本成果を複製あるいは使用して地図調整する場合は、同組合の承認を必要とします。 </body> </html>
すべてのスポット情報
39件のスポット
神社

姫石明神 女性の臀部のようにも見える岩がご神体。倭姫命が婦人病の回復を祈られたところから「姫石」とよばれるようになったと言われています。婦人病や安産に御利益があるほか、奥の大岩のもとから生えている雑木に左の小指と親指で白紙片を結び付けると、良縁に恵まれるともいわれています。

道の駅「伊勢本街道 御杖」 写真追加予定--> みつえ温泉「姫石の湯」や農産物直売所「街道市場みつえ」などが併設する。みつえ温泉「姫石の湯」は、【美肌の湯】や【ぬくもりの湯】と呼ばれる泉質を持った優しい温泉です。2つの大浴場をはじめ、露天風呂、つぼ風呂、樽風呂、気泡風呂、打たせ湯、座湯、サウナ、ゆったり休める無料休憩室があります。また「お食事処・山桜」では、四季折々に自慢の「ふるさとの味」が楽しめるほか、隣接する「街道市場・みつえ」では、地場のとれとれ産品が勢揃いしています。

長谷寺 真言宗豊山派の総本山であり西国三十三ヶ所の第八番札所。仁王門をくぐると399段の石段の登廊が本堂へと続きます。右手に錫杖を持つ珍しい十一面観世音菩薩(重文)は室町時代に作られた高さ10mのわが国最大の木造仏です。山の中腹に突き出た形の本堂(国宝)の舞台からは、山門や五重塔などが眺められ絶景。また、四季を通じて「花の寺」にふさわしく桜、ぼたん、紫陽花、紅葉、寒ぼたんが楽しめます。

諸木野関所跡 写真追加予定--> 中世には西峠から石割峠まで何カ所も関所が設けられていました。伊勢本街道が盛んな頃には廃止されていましたが、山深い道が歴史の道であった事を確認しながら休憩できるスペースとなっています。

あぶらや 写真追加予定--> 「伊勢本街道」と「あを越え初瀬街道」の分岐、札の辻にある旧旅籠。定かでは無いが、地元では本居宣長も泊まったのでは無いかと言われています。現在は改修され、一般に公開しています。旧宿場町の雰囲気を伝える唯一の建物として親しまれています。

高井千本杉 写真追加予定--> 伊勢本街道沿いにある十数本の杉が融合した巨大な木です。もともとは井戸杉として井戸の周囲に杉を植えて水を集める役割で植えられました。弘法大師・空海がこの場所で弁当を食べ、その箸が成長したという伝説があり、地元では霊木としてあがめられています。

佛隆寺 写真追加予定--> 佛隆寺は、嘉祥3年(850年)空海の高弟・堅恵によって創建され、真言宗室生寺末寺に属し、本尊十一面観音菩薩立像は聖徳太子の作といわれています。七堂伽藍の立派なお寺で、室生寺の南門すなわち正面の門として極寺と末寺の関係にあり、室生山の宿坊または住職の隠居寺として重要な役目がありました。大和茶の発祥地でもあり、空海が帰朝の際にその種子をもたらし、堅恵が寺内で栽培したものが全国へ普及したとされ、茶臼も残っています。

墨坂神社 写真追加予定--> 崇神天皇が大和のはやり病を鎮めるため、墨坂の神と逢坂の神を祀ったところ、すっかりおさまったと日本書紀に記されています。本殿は奈良の春日大社の本殿を移築したもので、朱の色が緑の木々に美しく映えています。

鞍取峠 曽爾村・山粕から桃俣へ越すときの境界の峠である。倭姫命が神鏡を奉じて伊勢に渡られるとき、この坂で馬の鞍が飛んでしまった。そこで鞍取峠と呼ばれるようになった。また、「お伊勢参りして、こわいとこ何処か、カイ坂、ヒツサカ、クラトリ坂、ツルノワタシか、宮川か」と歌われる難所のひとつ。

春日神社 山粕の伊勢本街道に沿い、社地には杉・イチョウの大木がそびえています。天児屋根命・経津主命・武甕槌命・比咩の四神を祀っています。明治43年に佐田神社、その前後に愛宕神社を合祀しています。毎年10月上旬に子供御輿が練り歩き盛大な秋祭りが行われる。

六部塚 写真追加予定--> 六部の定穴、降三世明王ともいう。角の石塔六、七十本で囲んでいて、その中に一つの石があり、六部が物を断って定に入った。生きながら上人が埋められ、土の中で鉦を叩くこと一週間あまり、ついに鉦の音が聞こえなくなり入定したとされる。