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室生寺境内図

室生寺境内図

<html> <body>題名<br>室生寺境内ぶらり<br> <hr>所蔵者/提供者<br>宇陀市<br> <hr> </body> </html>

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織田廟

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織田廟(織田信雄廟) 五重塔の東方に近く宝形造檜皮葺朱塗の木造履屋内に石塔がある。宇陀城主織田出雲守高長が万冶 2 年( 1659 )に室生寺を世話することになり、父信雄(常真)の普提料として年米五十石を当寺に納めてこの廟所を建てたらしい。

修円廟

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修円廟 五重塔の東北方に当って石段を上ったところに宝形造檜皮葺朱塗の小堂があり、その内に修円の五輪石塔が建っている。修円は承和2年(835)室生寺において没したものと思われる。

五重塔

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大師一夜建立五重塔 室生寺では最古の建造物と言われますがどうして本尊を祀るお堂より先に「五重塔」が建立されたのでしょうか。 高さは16.2メートルで、屋外の五重塔では我が国最小の塔で、弘法大師の一夜造りの伝えがあります。塔高は通例の五重塔の高さの三分の一で設計されております。下から見上げて目を動かさずに全景が見える姿は女人高野に相応しい塔高といえましょう。 女人高野ゆえ女性の拝観者が圧倒的に多いと言うことですが、鮮やかな自然と渾然一体となった堂塔が自然の一風景となっており、この室生寺の象徴的な景観が女性にとってたまらない魅力となっているのも要因の一つでしょう。 真言密教では「多宝塔」ですが、女人高野では五重塔が似合っております。下から見上げる五重塔は何ともいえない風情があります。石段が仏像の裳懸座のように見えます。

多気国司墓

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多氣国司墓 --> 本堂から西南方約40mにして木立のなかに石塔が三基並んでいる。最北に大五輪石塔、中央に宝筐印石塔、南方に小五輪石塔の順序に並んでいる。形式上ともに室町時代初期の営造と推定される。 大五輪石塔は巾3.98m、高0.54mの壇上積石造基檀の上に安置され、左右に小五輪石塔各一基が建っている。大五輪石塔は総高台座を含めて194cmとなり、台座には反花座があり、各輪に梵字その他の彫文を見ない。この五輪石塔は奈良県から大正5年9月に発掘調査が行われた。その報告によれば、基檀内部はほとんど栗石で上面に板石を置く。五輪塔は宝珠と請花とが一石であるほかは各輪毎に共枘を造り出してある。 水輪中に木造五輪塔が包蔵されていた。これは大輪のみ松材その他は檜材で造られ、風輪と火輪が一本であるほかは各輪別木である。そして地輪には金箔 を置き、水輪は素地のままであるが胡粉を塗ったかとも考えられる。火輪は朱塗にして各面に梵字を墨書し、風輪は素地のままで周囲に梵字の痕跡あるも判 読できない。また地輪と水輪には竪孔があって、その内に水晶製平面六角の五輪塔を蔵してある。この中央に径0.3cmの竪孔のあるのは、今は亡いがもと舎利を納めたものであろう。なおこの木製五輪塔を包蔵した孔を覆うに径15cm、厚さ1.2cmの木蓋を置いたと考えられその朽片やこの板に貼布せられたと思われる胡粉塗の紙蓋様のものを発見した。 石造五輪塔下の少し手前のところから灰褐色素焼の蔵骨壷を発見した。壷内には骨片及び長さ15cm、巾3cm、厚約0.6cmの木片と木口を朱彩した木片を納めてあった。壷の上に蓋として長さ33.3cm 、巾24cm糎、厚さ6cmの石片が置かれ、さらにその上に厚さ12cm以上の大蓋石二枚を重ね、この上に石塔を安置してある。 この五輪塔は古来、多気国司あるいは北畠親房の墳墓と伝えられていたものである。男爵北畠治房が宮内省の許可を得て、大正5年9月発掘調査された。 その遺跡遺物は南北期時代のものとするに妨げないが、北畠氏墳墓たる徴証は何ら発見されなかった。 中央の宝筺印石塔は塔身の四面に梵字をめぐらすが、各々に方形の縁をつけてある。相輪や台の格狭間の形式とともに室町期の特徴を示している。小五輪石塔は現在傾斜し、基壇の框石の一部を失って蓮台の形式などやや鋭い傾向である。これら二石塔も発掘調査され、地下から少量骨片を蔵する蔵骨壷が発見された。

勝軍地蔵祠

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勝軍地蔵祠 --> 本尊は勝軍地蔵尊像にして、弘法大師が火災除のために勧請したという。 以上いずれも弘法大師の信仰にちなんでまつられたもので、明治までは当地の信仰を集めていた。

諸仏出岳品

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諸佛出岳品(七重石塔) 大師堂の西側、木立のなかに不思議な雰曰気を漂わせる岩塊がある。かつて、室生火山帯の活動で噴出した溶岩が凝結したもので、その岩相が、多くの仏の出現された姿を思わせることからこの名がある。 岩上に七重石塔が祀られ、禁足地となっている。

本堂

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本 堂(潅頂堂) 真言密教のお寺になると、一山の中心堂宇は「金堂」から「本堂」に変わりました。本堂の建物は和様、大仏様、禅宗様の混交(淆)となっております。屋根は「桧皮葺」であります。桧皮葺の建物には我が国特有の「神社」がありますように、日本古来の重要な建物の大部分は桧皮葺で、「京都御所」などがあります。それだけに古く、桧皮葺、柿葺から「瓦葺」、そして「日光東照宮」の「銅板葺」が誕生いたします。「瑞龍寺」には「鉛板葺」の仏殿があります。 現在、桧皮葺屋根の材料である桧皮が不足しており、深刻な問題となっておりますのはご存知の通りです。 「本尊如意輪観音像」は「観心寺(大阪)」、「甲山神呪寺(かぶとやまかんのうじ)(兵庫)」とで日本三大如意輪観音といわれておりますが、本尊は残念なことに「秘仏」でご覧になれません。如意輪観音は密教寺院で多く造像されました。鎌倉時代後期に建立、この場所には創建当初の本尊を祀るお堂(本堂、金堂)があったらしいです。本堂では真言密教の重要な儀式である「灌頂」が行われます。灌頂には結縁灌頂、受明灌頂、伝法灌頂があります。真言密教では灌頂があり戒壇を必要としなかったので南都仏教とは軋轢が起きなかったのでしょう。屋根の隅の反りは厳しく禅宗様の建物を見ているようであります。板壁で周囲に縁を廻らしております。木立の囲まれて静かに佇んでいる優雅な本堂です。

大橋

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大橋 -->

赤門

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赤門 -->

脇坊不動院

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脇坊不動院 --> 室生寺には頭塔としては不動院・持宝院の二力寺が明治の頃まで存続したが、そののち廃された。 不動院 建物梁行凹間半、桁行三間 行者堂(行者堂)建物梁行二間、桁行二間半 不動院は今の客殿から幼稚園の前方にかけての敷地にあった。木尊は身丈六尺の不動明王立像にして身丈一尺五寸の二童子が蹲踞している。室生山は役優婆塞の草創である故に、弘法大師は不動院を置いて開基の功業を保存したという。 俗別当に優婆塞を宛て、僧一人が当院の住職を命ぜられ山内の世務を司って山主を輔翼してきた。当院廃せられて木尊不動明王像は護摩堂へ、神変大菩薩像は弥勒堂へそれぞれ移された。

五大堂

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五大堂(護摩堂) 室生寺寺務所に近く東方にある。創立は不祥であるが、縁起によればこの道場において毎日宝祚の長遠と国家の太平を祈念したという。江戸時代に古堂が破壊したので、宝永年中に桂昌院の発願により、唯密第三世澄岸が再建したが、安政4年(1857)1月10日に焼失した。 ついで、文久2年(1862)6月22日上棟し、翌3年3月21日に入仏供養を執行した。 今の堂は、入母屋造檜皮葺にして、不動明王坐像を中心にして、五大明王像を安置する。中尊を除く四立像は宝永年中に補作したものといわれる。別に鎌倉時代の作と思われる不動明王立像をまつる。今、この堂にかける喚鐘(口径40㎝)は伊賀名張郡薦生村の木食蓮海が宝暦10年(1760)5月1日に室生山奥院御影堂に納めたものである。 五大堂の後方の高所に一間半・二間の入母屋造檜皮葺の鐘楼が建っている。鐘は戦時中供出し、今のは戦後新鋳したものである。この側にもと聖天堂があり、いま礎石が残り、その奥に行者のたむろした実行院があった。聖天像はいま護摩堂に保存されている。 室生川の橋を渡って寺門をくぐると、正面に寺務所、左方に慶雲殿と称する客殿がある。向かって右に進めば、五大堂前を過ぎ二天門跡に至り、昭和41年再建された仁王門がある。ついで参道は左折して石段にかかる。 石段下の向って左方に、一間社神明造朱塗の弁天祠(梁行三尺五寸、桁行三尺、向拝三尺)が鎖座する。もとは前方のバン字池にまつられていた。当社には身丈五寸の弁財天女像をまつり、弘法大師の勧請と伝えられる。社前の石灯一基は銘によれば「奉造立弁財天宝前」と刻し元禄十年九月に亮誠の立てたものである。当社の向って左方に昭和26年11月室生区の建てた殉国碑がある。

ばんじ池

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ばんじ池 -->

弥勒堂

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弥勒堂 「弥勒堂」は素朴で飾り気のない建物で周囲の樹林に溶け合っております。近い将来国宝指定になることでしょう。 須弥壇の下から籾塔・木製宝篋印塔が37387基も出てきたとのことです。膨大な数からすると庶民も加わり五穀豊穣を祈願されたのでしょう。法舎利以外に籾を一粒か二粒を入れられたのは五穀豊穣を願ってのことでしょうかそれとも、肉舎利として籾を選ばれたのでしょうか。

桂昌院殿塔

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桂昌院殿塔(桂昌院石塔) 本堂の東方に石柵をめぐらして五輪石塔(総高175cm)が建っている。地輪に「桂昌院殿従一位仁誉興国恵光大姉 宝永二乙酉年六月廿二日」と刻し、まさに将軍綱吉の母堂で室生寺のために尽された功により供養したものである。

室生寺

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室生寺 --> 奈良県宇陀市室生に所在する室生寺は、室生川の右岸山間の傾斜地に南面して建つ名刹でその創建は奈良時代末期に遡ると考えられている。 『続日本紀』によれば宝亀8年(777)12月と翌年3月に東宮・山部親王(後の桓武天皇)の病気のことが記されており、その平癒を願って〝浄行僧″五人を招き請い室生山中で「延寿法」を行わせたところ病気は回復された。 その後、興福寺の大僧都賢璟は天皇の仰せを受けて同家のために件の山寺(室生山寺)を創建したという記事が室生寺に関する現存最古の記録である『宀一山年分度者奏状(べんいちさんねんぶんどしゃそうじょう)』(神奈川・金沢文庫蔵)にある。この地は地形が急峻で龍王が住むと言われ旱魃の毎に折雨法要が営まれた土地としても名高い。 賢璟(けんきょう)は興福寺の僧として宣教について唯識を学んだ硯学であるが、わが国に戒律をもたらした鑑真和上にも深く帰依して律学も学んだ。 延暦12年(793)には大納言藤原小黒麻呂や参議左大弁紀古佐美と共に新しく遷都すべき葛野の地相を占していることも知られる。彼はその年の秋八十歳で寂しているが、この時にはまだ伽藍は整わず、山林修行を行う山寺の状況であったと思われる。賢璟を継いだのが同じく興福寺出身の修円である。 修円は比叙山を開いた五歳年長の最澄とも親交が深く延暦13年に行われた比叡山根本中堂供養に堂達として参加しており、同21年には高雄山寺で最澄から天台の妙旨を聴聞し、最澄の入唐帰国後には初の灌頂三摩耶戒を受け、野寺(常住寺)において天台法文の学習も行っている。 延暦24年の内侍宣には〝檉生禅師(ていしょうぜんじ)″と記されており、当時既に室生を活動の本拠としていたことが解る。 名高い空海の尺牘『風信帖』(京都・教王護国寺蔵)には〝室山″と書かれ空海との交友も知られる。 弘仁8年(812)6月の『日本紀略』には「律師伝燈大法師修円を室生山に遣し、雨を祈る」の記事があり、これが「室生山」の文字が公の記録に表れた最初と思われる。既にこの頃になると堂塔もかなり整備されていたのではあるまいか。初期の室生寺は法相宗を主体とする寺ではあったが、最澄との交流によって天台教学にも道を開いており、天長11年(833)の初代天台座主義真の没後は叡山を追われた弟子の円修や堅慧が室生に入り、その後入唐して大唐会昌4年(844)天台山禅林寺の如静から『大唐日本国付法血脈図記』(滋賀・園城寺蔵)を得、帰国ののち最澄によってもたらされた日本天台の正統は室生寺に引き継がれることになる。しかし、この文書は貞観16年(874)円珍か第五代天台座主となった防義真の系統を引く円珍に引き渡された。また、室生寺には空海の高弟である真泰も入山しており真言密教が導入されたことも特筆すべきことであろう。 山林修行の場であった室生寺は平安時代中期から、法相・天台・真言の各宗兼学の道場であったが、元禄年間護持院隆光の計らいで真言宗に編人され、女人禁制であった高野山に対し〝女人高野″として多くの人々に親しまれるようになった。

金堂

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金 堂 「金堂」の周囲は杉木立で囲まれていて超広角のカメラでないと金堂の全景が撮影できません。 「法隆寺金堂」のように仏像収蔵庫的な「正堂」だけだったものが、後の時代に礼拝空間の「礼堂」が必要となり、増設する礼堂の場所が崖や傾斜地、池などの制約がある場合はどうしても懸造(かけづくり)形式にせねばなりませんでした。 このような段差のある場所に建築せねばならないほど室生寺は地理的なハンディがありましたがそれが反って日本人好む風雅な金堂となったことでしょう。庇を葺き下ろして礼堂としております。 懸造の建物には、「東大寺二月堂」「清水寺本堂」「長谷寺本堂」などがあります。ただ、正面に舞台のような大きな縁を持っている場合は「舞台造」とも言われます。 中世には根本堂、薬師堂、本堂といわれてきましたが真言宗に改宗した頃から灌頂堂が本堂と称されるのをうけて金堂と改称されたのでしょう。 板敷きの床になる過程の建物で、本来基礎からかさ上げして実施するのが金堂の場合はかさ上げするのではなく地表に板を敷いたような床構造になっております。 古い案内書では尊像が近くで拝観できると記載されており、以前は外陣まで入れたようであります。現在は東側面から入り廻縁を右繞礼拝できるようなっております。 天平時代までの土壁と違って総べて「板壁」、垂木は「地角飛角」と日本様式です 主要部材は桧ではなく「杉」というのは多雨の地域のことを考えての選択でしょうか。

大黒天神社

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大黒天神祠 --> 大黒大神祠はその所在地を明らかにすることができない。本尊は身丈三寸の大黒天神像にして弘法大師作と伝えられ創祀不詳であるが、弘法大師が寺家豊饒のために勧請したという。

水天

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水 天(水天祠) --> 水天祠は当寺の赤門を入ったところにあり、もと池をめぐらしていた。 本尊は水天尊像にして由緒は不詳である。

脇坊持堂院

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脇坊持宝院 --> 室生寺には頭塔としては不動院・持宝院の二力寺が明治の頃まで存続したが、そののち廃された。 持宝院は弥勒堂の下方に当たって建っていた。当院の本尊は身丈三尺の地蔵菩薩立像で俗に柑子立像といわれる。宝亀年中に賢憬が室生山寺を経営した時、聖徳太子作の十一面観世音を安置したのに、本尊婦女の身を現じて女人成仏の妙法を説いて、「竜女は仏になりにけり、などかわれらもならざらん、五障の雲こそ厚くとも如来の月はかくされぬ」と歌われた。この故に弘法大師は持宝院を置いて旧跡を保存したという。これは室生寺の女人高野といわれた一伝説である。 当院も優婆塞が俗別当となり僧一人が住職を命ぜられて、山内他出、世務を司り、山主を輔翼し、室生寺禄を配分されていた。当院に安置する身丈四尺の多聞天像、持国天像は弘法大師作と伝えられ、もと二天門の本尊であったが、二天門焼失後、当院に移された。当院廃滅後、本尊地蔵尊は弥勒堂へ移された。

奥院大師堂

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奥院大師堂 五重塔から続く長い石段を上ったところに奥の院がある。 大師堂は御影堂(みえいどう)ともいい、毎年21日に開扉される。 大師堂は屋根に厚い板を2段に葺いた、宝形(ほうぎょう)造りの簡素な建物である。正面3間、側面3間。屋根の頂上に石造の露盤と宝珠をのせる。近世に屋根を檜皮葺(ひわだぶき)とし、正面に向拝(こうはい)をつけるなどの改修が加えられたが、1975年(昭和50)からの解体修理で創建当初の姿に戻された。 正面に「バン、マニ、タラク」の梵字の扁額がかかり、文字はそれぞれ、大日如来、如意宝珠、宝生如来をあらわしている。本尊の弘法大師像(秘仏)は近世、とくに伊賀国の人々の信仰を集めたため、「伊賀大師」ともよばれる。 大師堂の前には、懸造りの常燈堂(位牌堂)が建つ。

訶利帝祠

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訶利帝祠(訶梨帝祠) --> 訶梨帝祠は裏門に近く古屋シキと称するところにあった。 木尊は身丈五寸の詞梨帝母像(鬼子母神)で、創祀は不詳であるが、弘法大師か盗難除のために勧請したという。当地方において出産・幼児養育などの神として尊崇せられたものであろう。

如意宝珠山

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如意宝殊山(如意山) --> 五重塔の西北方にあって杉檜など樹木が繁茂している山頂の石塊に囲まれているなかに石塔が建っている。空海が唐から持参の如意宝珠を埋納したところと伝えられる。 「室生山御舎利相伝縁起」によれば、弘法大師が七層石塔の下に舎利を安置したのであるが、建久2年(1191)のころ宋人僧空体の盗掘にあい、文永9年(1272)甲斐の僧覚日房信応が東大寺戒壇院僧空智らと舎利を掘り、銅筒を得てこのなかから数粒を取り、七粒といい同行者に四粒を与え自分は三粒を得ると称したが、なお数粒を秘蔵し関東に下向して無量院法爾上人や尊上人に譲ったという。 宗明か正安4年(1302)のころ、この舎利相伝の顛末を説いたのが「室生山御舎利相伝縁起」である。