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纒向遺跡ガイドマップ

纒向遺跡ガイドマップ

<html> <body>題名<br>纒向遺跡ぶらり<br> <hr>所蔵者/提供者<br>桜井市<br> <hr> </body> </html>

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箸中イヅカ古墳 橿原考古学研究所提供 国道169号線のバイパス設置に伴う第121次調査で確認された古墳である。墳丘は既に削平されており、地表には全くその痕跡を残していない。墳形は前方後円墳で、馬蹄形周濠を持つと考えられており、後円部の直径は45~50m、全長は100mを超える大きなものと想定されている。確認された周濠の幅は10m前後で、多くの埴輪や木製品・土器などが出土しており、築造時期は4世紀後半と考えられる。纒向遺跡ではビハクビ古墳と並んで数少ない4世紀代の古墳である。

箸中ビハクビ古墳 店舗の建築工事に先立つ第112次調査で確認された古墳であり、地表には全くその痕跡を残さない。古墳の全容は知ることはできないが、直径20m前後の円墳、もしくは前方後円墳の可能性もある。周濠の幅は約3mで、墳丘上からは原位置を保った5本の円筒埴輪の基底部が出土している。また、墳丘の下層からは布留0式期の竪穴式住居跡が1棟検出されており、箸墓古墳との関係が注目される。なお、古墳の築造時期は埴輪の年代観から 概ね4世紀末頃のものと考えられている。

メクリ1号墳 第47次調査検出の纒向遺跡で確認された唯一の前方後方墳である。墳丘は全長28m、後方部長19.5m、前方部長9.5mで、埴輪や葺石は無く、後世の削平により埋葬施設も確認されていない。幅約4mの周濠からは多くの土器が出土しており、庄内3式期~布留0式期の3世紀後半の築造と考えられる。前方後円墳成立の地に前方後方墳が築造された事は興味深く、小規模な墳丘でありながら纒向型前方後円墳の企画を踏襲している事などは被葬者の出自や階層を示しているのであろうか。

メクリ地区の木製仮面 第149次調査において朱塗りの盾や木鎌などの多数の遺物とともに庄内1式期(3世紀前半)の土坑から出土したもので、長さは約26cm、幅約21.5cmを測る。アカガシ亜属包の広鍬を転用して作られたもので、□は鍬の柄孔をそのまま利用しているが両目部分は新たに穿孔しており、高く削り残した鼻には鼻孔の表現も施されている。なお、眉毛は線刻によって表現されており周辺にはわずかに赤色顔料の付着が認められた。木製の仮面としては国内最古の事例である。

北飛塚地区の住居跡 纒向遺跡では竪穴式住居跡の検出例が殆ど無く、第112・137次調査で確認されている程度である。第59次調査北飛塚地区検出の住居跡は庄内3式期(3世紀中頃)に構築されたー辺5mの方形の竪穴で、10cm程度の浅い掘り込みを持つ。竪穴内には4本の主柱穴と2本の補助柱穴があるが、炉跡や周壁溝が無い事や補助柱穴を持つ事などは通常の住居跡とは異なる点であり、竪穴式住居では無く、掘り込み事業をともなった平屋、あるいは高屋の建物遺構とする見方もある。

南飛塚古墳 1987年の水路改修工事に伴う第51次調査では埋没古墳の周濠の一部と考えられる幅8.5m、深さ60cmの溝が検出されており、墳形は方墳あるいは前方後円墳と考えられている。溝からは布留0式期(3世紀後半)の土器とともに建築物の壁材と考えられる木製構造物が倒壊したままの状態で出土している。この建物は住居としての用途ではなく、祭祀行為に伴うものと考えられており、当時の建築技術のみならす古墳における祭祀を考える上でも重要な資料となっている。

纒向大溝 橿原考古学研究所提供 纒向小学校の建設時の第6次調査で検出されたもので、幅約5m、深さ約1.2mの溝が大の字形に合流するもので、確認されている各溝の長さは北溝約60m、雨溝約140m、庄内0式期に掘削され布留1式期(4世紀初め)には埋没している。特徴的なのは雨溝に護岸用の矢板が打ち込まれている事と、両溝の合流点には水量の調節が可能な井堰が設けられている事である。用途としては濯漑用であるとともに物資運搬用の水路とする見方が強い。

李田地区のベニバナ花粉 第61次調査で確認された庄内3式期(3世紀前半)のV字溝の埋土より検出したもので、国内では最古の事例である。べ二バナの用途には染料や漢方薬・紅などがあるが、纒向遺跡のものはその花粉量の多さから溝に流された染織用の染料の廃液に含まれていたと考えられている。ベニバナは本来日本には自生しない植物で染織など当時の最新技術を持った渡来人とともに伝来したと見られ、纒向遺跡の首長層が大陸系の高度な技 術者集団を抱えていたことが窺える資料である。

辻地区の祭祀土杭群 橿原考古学研究所提供 現在県営住宅が建っている地域の北部分には辻河道と呼ばれる埋没河川が確認されているが、この河川の南岸からは21基の祭祀土坑が検出されている。いずれの土坑も湧水点まで穴を掘下げており、内部には多くの土器や木製品が納められている。最も遺物が豊富であったのは第7次調査の辻土坑4と呼ばれる土坑で、中に納められた祭具は後の『延喜式』新嘗祭の条の器材との共通点が多い事が指摘されており、一種の「ニイナメオスクニ儀礼」が行なわれたものと考えられる。

東田地区の弧文石 第36次調査で溝の上層から出土したものである。重さは24.25gで、粘板岩製と見られるが、施文の残る面は長辺47cm、短辺2.8cm程度しか残存しない小片であり、本来の形状は不明である。施文面を観察すると写真の下部から左側部分にかけては施文の基準となる4本の線が引かれたままで、彫刻が施されていない部分が残る事から、製作途中で何らかの理由により廃棄されたものであろう。庄内3式期から布留0式期のものと考えられる。

辻河道出土の銅鐸と特殊埴輪 橿原考古学研究所提供 辻河道からの出土遺物のうち、特筆すべきものとしては第7次調査出土の特殊埴輪片や銅鐸の飾耳がある。銅鐸の飾耳突線紐式銅鐸の破片であるが、纒向遺跡では弥生時代の遺構は極めて少なく、数少ない弥生時代の遺物の一つである。 特殊埴輪は都月型と呼ばれるもので、特殊器台から派生した最古の埴輪とも呼ばれるものである。纒向遺跡では箸墓古墳に宮山型特殊器台と都月型埴輪が樹立されていた事が判明ており、箸墓古墳のものが河道に紛れたものであろうか。

辻地区の建物群 辻河道の南において検出された3棟の掘立柱建物と柵からなる建物群で、纒向遺跡の居館域にあたると考えられている。建物群は庄内式期の前半段階頃(3世紀前半)に建てられたとみられるが、庄内3式期(3世紀中頃)には柱材の抜き取りが行われ、移転・廃絶したと考えられている。このうち、中心的な位置を占める大型の掘立柱建物は4間(約19.2m)×4間(約12.4m)の規模に復元できるもので、当時としては国内最大の規模を誇る。近年実施された第168次調査では建物群の廃絶時に掘削されたとみられる4.3m×2.2mの大型土坑が検出され、破壊された多くの土器や木製品のほか、多量の動植物の遺存体などが出土しており、ヤマト王権中枢部における祭祀の様相を鮮明にするものとして注目されている。

家ツラ地区の導水施設 導水施設は第50次調査で出土したものである。中央に幅63cm、長さ190cmの大きな木製の槽を据え、北・南・東の三方から木樋を通して水を注ぎ、槽に集めた水は西側へとオーバーフローさせて、木樋から素掘り溝へと排水している。施設の全域を調査したものではなく、全容は明らかではないが、浄水を集めた祭祀の場と考えられている。遺構は布留1式期(4世紀初め)には廃絶しており、その設置は布留0式期新相(3世紀後半)ごろに遡る可能性が高い。

家ツラ地区の弧文板と韓式系土器 導水施設へと水を供給する大溝の下部には布留0式期古相(3世紀後半)のV字溝が存在している。弧文板は50次調査、韓式系土器は90次調査においてこの溝より出土したもので、導水施設より古い段階の祭祀に使用された物と考えられている。弧文板は欠損もあり、本来の形状は不明だが、黒漆で仕上げた優品である。韓式系土器には格子目の夕夕牛を持つ物(左)とミガキによって光沢を持つ物(右)の二種があるが、ミガ牛を施す個体は楽浪系の土器ではないかと考えられている。

坂田地区の埴輪群 第42次調査の坂田地区の落込みの中からは多くの土器片・埴輪片が出土している。その内訳は鶏形埴輪1点と大型の朝顔形埴輪が2点、冠帽形埴輪が1点であり、当然出土するはずの円筒埴輪が1点も出土していないことは特徴的である。このうち鶏形埴輪は最古・最大級の大きさを誇るもので、冠帽形埴輪については黒塚古墳・勝山古墳出土のU字形鉄製品・木製品との形態的共通点も多く、近年注目を浴びている。共伴土器より埴輪の廃棄時期は布留1式期(4世紀初め)と考えられている。

尾崎花地区の巾着状絹製品 纒向遺跡では数少ない絹製品である。第65次調査で検出された幅約2m、深さ60cmの溝遺構から出土したもので、所属時期は布留0式期新相(3世紀後半)。巾着は平織りの絹の布で包んだ後、□の部分は糸を束ねで僅かにねじっているだけの紐で結んでいる。大きさは高さ約3.4cm、厚みは2.4cm、内部に何か納められているかを調べるためレントゲン撮影を行ったものの、反応が少なく、有機質の物がおさめられている事以外は分っていない。

尾崎花地区の区画溝 第80次調査では布留0式期から布留2式期式初め(3世紀後半~4世紀前半)にかけての区画溝とこれに伴う柱列が検出されている。区画溝は段丘の端面に掘削されたもので、幅・深さともに約2mの規模を持っている。また、溝の外側には土塁があり、約1.6mの問隔て柱が立てられていた。これらの施設は纒向遺跡内でも特殊な役割を待った施設(居館・倉庫群など)を一般地域から遮蔽するための施設と考えられるものであり、内側に当たる東側の調査が期待される。

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纒向石塚古墳(国指定史跡) 纒向石塚古墳は1971年の纒向小学校建設に先立つ調査で周濠から多くの土器や木製品が出土、当初はこれらの遺物の年代観より庄内0式期(3世紀初頭)の築造と考えられ、日本最古の古墳として注目される事となった古墳である。埴輪や葺石はなく、全長約96m、後円部径64m、前方部長32mと、全長と後円部径、前方部長の比率が3:2:1の纒向型前方後円墳の典型的なスタイルを持つが、第二次大戦中には高射砲陣地の設営を目的として埋葬施設とともに墳丘の上部が大きく削平されてしよっている。墳丘の構造は1996年の第87次調査で後円部西側の一部に段築が残っている事が確認され、本来は後円部3段、前方部には段築は無かった事が判明している。また、1989年の第55次調査では前方部の形状と前方部前面の区画溝のほか、周濠へと水を引き込む導水溝の存在も確認されている。本墳からの出土遺物には墳丘の盛土内や幅約20mの周濠から出土した多くの土器群の他、鋤・鍬・建築部材などの木製品の他に、鶏形木製品や弧文円板などの特殊な木製品の出土もあり、比較的豊富な遺物の出土星があるが、築造時期については現在、庄内1式期(3世紀前半)とする説と、築造が庄内3式期(3世紀中葉)で埋葬を布留0式期とする説の2者がある。

箸墓古墳

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箸墓古墳 全長約280mの前方後円墳。後円部径は155m、前方部長125m、前方部前面の幅は147mである。墳丘は葺石を持ち、後円部が5段、前方部前面が4段の段築で構成されるが、前方部側面にも段築の存在が想定されている。この古墳は倭価迫日百襲姫命大市墓として陵墓指定されており、一切の立ち入りが制限されているが、墳丘周辺では1994年に前方部北裾の調査が行われ、墳丘の基壇とこれに伴う葺石や幅約10mの周濠状の落ち込み、盛土による堤など、墳丘に関連する施設が面的に検出されている。ざらに、1998年の後円部東南裾部の調査では、葺石を施した渡り堤や周濠、外堤状の高まりが確認されている。本古墳からの出土品には現存最古の木製翰鐙(4世紀初め)をはじめとして、各調査出土の土器や木製品、墳丘上において宮内庁によって採集された遺物などかおる。これには多くの土器片のほか、後円部墳頂付近で採集された特殊器台や特殊器台形埴輪、特殊壷、前方部墳頂付近において採集された二重口緑壷などがあり、築造時期は布留00式期の3世紀後半と考えられている。

東田大塚古墳

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東田大塚古墳 全長約120m、後円部径約68m、前方部長50m前後と前方部の長い前方後円墳である。墳丘周辺の調査では幅約21m、深さ約1.3mの周濠状遺構の存在が確認され布留0式期新相期の遺物が出土している。墳丘は盛土で築かれており、埴輪や葺石は無く埋葬施設は竪穴式石室の存在も指摘されるが詳細は不明。墳丘盛土下における調査では布留0式期古相期の遺構が確認されており、これら築造前・後の遺構の存在から築造時期は布留0式期(3世紀後半)であることが判明している。

ホケノ山古墳(国指定史跡) 橿原考古学研究所提供 ホケノ山古墳は全長約80m、後円部は3段集成で径約55m、前方部長約25mの前方後円墳である。埴輪は持たないが、この古墳は纒向遺跡の纒向型前方後円墳の中では唯一の葺石を有する古墳である、墳丘の周囲には幅10.5m~17mの不整形の周濠状の掘割が確認されているが、全周するか否かは不明である。埋葬施設は前方部東斜面と後円部で検出されている。前方部の埋葬施設は古墳の完成後に葺石をはずして組合式木棺を据えたむので、大型複合口縁壷と広口壷が供献されていた。後円部の埋葬施設は中央から「石囲い木槨」と呼ばれる木材でつくられた槨の周囲に河原石を積み上げて石囲いを造るという二重構造を持った埋葬施設が検出され、舟形木棺が安置されていた。石囲い木槨という構造そのものは吉備や讃岐・阿波丿番磨地域で散見されるものであり、ホケノ山古墳の築造に東部瀬戸内地域が大きな影響を与えている事が想定される。出土遺物は多くの二重口縁壷や小型丸底鉢などの土器の他、同向式画文帯神獣鏡が1面と破片化した内行花文鏡などの鏡片や、素環頭大刀1□を含む鉄製刀剣類・鉄製農工具、多量の銅鏃・鉄鏃などが出土しており、遺物や埋葬施設の構造などの年代観などから築造時期は庄内3式期の3世紀中頃と考えられている。

矢塚古墳

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矢塚古墳 矢塚古墳は全長約96m、後円部径約64m、後円部高は現状で約5mの前方後円墳である。現在前方部は殆ど見えなくなっているが、墳丘の西南部には復元長32mの前方部が確認されている。埴輪や葺石は無く、墳丘はすべて盛土で築かれているが、埋葬施設の構造は一切不明。第6次調査では、幅17~23m、深さ約60cmの周濠が確認されており、導水溝と周濠の接続部付近からは庄内3式期(3世紀中頃)の土器群がまとまって出土しており、築造時期の下限を示すものとなっている。

勝山古墳

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勝山古墳 勝山古墳は全長約115m、後円部径約70m、前方部長約45m、くびれ部幅26mの規模を有する前方後円墳で、前方部はやや長く直線的に開く形態を呈する。埴輪や葺石は無く埋葬施設の構造は不明だが、墳丘周辺の調査では幅約20m、深さ約1mと比較的浅い周濠が確認され、多量の遺物が出土している。これには庄内2式期(3世紀前半)を主体とするものと庄内3式期~布留0式期(3世紀後半)を主体とする一群があり、築造時期にも諸説あるが時期の特定には決め手を欠く。