神武天皇御聖跡御図絵

<html> <body>題名<br>神武天皇聖跡案内ぶらり<br> <hr>所蔵者/提供者<br>桜井宇陀広域連合<br> <hr> </body> </html>
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48件のスポット
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伊那佐山(伊那瑳の山)
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伊那佐山(伊那瑳の山) (いなさやま) 吉田初三郎 絵葉書 標高637.2m。山頂に式内社の都賀那岐神社(祭神高オカミ神)があります。地元では山路岳とも呼ばれ、雨乞いの岳登り神事も行われました。イワレヒコが兄シキ・弟シキを撃ち取った時に「楯並めて伊那佐の山の樹の間よも・・」と久米歌に詠われました。山頂より北西に下った平坦な場所を「踊り場」と呼び、祝勝を詠ったと伝わる場所があります。伊那佐山への登り口には竹橋と言う名の橋があります。イワレヒコがこの川を渡る時に竹を切って橋にされたと伝わっています。この芳野川も昔は竹川とも呼ばれ、川に沿って両岸に竹藪があったそうです。

菟田の朝原 (うたのあさはら) 水を使わずに餅のような飴を作ったりして戦勝祈願の占いをしたという場所です。榛原雨師の丹生神社がその伝承地です。宇陀では神武天皇が飴を作ったので雨師になったなどの話もありますが、「丹生の川上」としては、一般的に東吉野村の丹生川上神社と言われています。
鳥見山 鳥見山中霊畤跡(とみのやまなかまつりのにわあと)
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鳥見山 鳥見山中霊畤跡 (とみのやまなかまつりのにわあと) 吉田初三郎 絵葉書 標高735mで、勾玉池周辺に山ツツジや紅葉の名所として知られています。万策歌碑や神武天皇が即位後に皇祖天神を祀ったとされる鳥見山中霊畤伝承地碑があります。この地を「上小野の榛原、下小野の榛原」と名付けたとされ、現在使われている萩原や榛原の由来になつています。神武伝承の「鳥見」は、桜井市外山、生駒市、東吉野村等にもあります。

香久山(かぐやま) 大宇陀迫間の松源院のある所が香久山と呼ばれています。宇陀の香久山には、古墳が築かれました。近くにある天益寺の山号も香久山です。一般的に香久山といえば、大和三山のひとつで橿原市にある山が有名です。

香久山(かぐやま) 大宇陀迫間の松源院のある所が香久山と呼ばれています。宇陀の香久山には、古墳が築かれました。近くにある天益寺の山号も香久山です。一般的に香久山といえば、大和三山のひとつで橿原市にある山が有名です。

菟田下県 (うだのしもつあがた) 『古事記』では、「踏み穿ち越えて、宇陀に幸でましき」、『日本書紀』では、「遂に菟田下県に達る。因りて其の至りましし処を号けて、菟田の穿邑と曰う。」とあります。遺跡の分布状況や文献等から、菟田下県は、伊那佐山(榛原)と西山岳(大宇陀)とを結ぶ東西ラインより南側、現在の菟田野と大宇陀・榛原の南半分と考えられています。その北側は、菟田上県となっています。

菟田の高倉山 (うたのたかくらやま) 吉田初三郎 絵葉書 イワレヒコは宇陀の高倉山に登って国中を眺めたと日本書紀にあります。この事から宇陀は国であったことと、宇陀中が一望できる場所だったと取れます。条件に当てはまるのは、宇陀松山城があった古城山が考えられます。大宇陀守道の高角冲社に高倉山顕彰碑が建てられています。他にも福地岳など候補地があります。〈宇陀市菟田野佐倉小字高かき〉他に高城岳(宇陀市榛原赤埴・諸木野)も「菟田の高城」伝承地と言われています。
烏ノ塒屋山(からすのとややま)
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烏ノ塒屋山 (からすのとややま) 別名宇陀富士ともいわれています。大宇陀と現吉野郡吉野町との境界に位置します。竜門岳から東に延びる尾根に続き、槍の穂先状の鋭い円錐をみせる標高659.8メートルの山です。山名はこの山に烏が来て宿るという日常の事実や信仰に由来しています。神武天皇が八咫烏の導きによって熊野から宇陀に入ったとする記紀の所伝と関連して、「烏ノ塒屋」が神聖視されました。

国見原(くにみはら) 吉田初三郎 絵葉書 ヤソタケルが抵抗して国見をした場所とされます。宇陀と桜井の境である音羽山系の経ヶ塚山(889m)付近が国見原と言われています。他に曽爾の住塚山、国見山の名前は神武伝承から付いたと言われます。
咲嶽(わらいがたけ)
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咲嶽(わらいがたけ) --> 大宇陀嬉河原。シイネツヒコとオトウカシが香久山へ土を取りに行く時、みすぼらしい老人の格好をしていたので守っていた兵士に醜いと笑われました。そこから場所の山の名がつきました。

兄宇迦斯・弟宇迦斯 (えうかし・おとうかし) --> 菟田下県の豪族。『古事記』では兄宇迦斯、弟宇迦斯、『日本書紀』では兄猾、弟猾となっています。古墳時代にこの菟田下県を治める豪族が「エウカシ・オトウカシ」となって記紀に残ったのでしょう。エウカシは、神武天皇に逆らい、亡くなってしまいますが、オトウカシは、神武天皇に従い、やがて、菟田県主となりました。近代でいう宇陀郡長です。また、オトウカシは、水を司る主水部の祖ともなっており、彼が本拠としたところには、今、宇太水分神社が祀られています。

菟田(宇陀)の高城(うだのたかぎ) 吉田初三郎 絵葉書 イワレヒコ(後の神武天皇)が宇陀へ入って最初に陣を張ったところとされます。エウカシを殺した後、「菟田の高城に鴫罠張る…」と久米歌を唄っています。〈宇陀市菟田野佐倉小字高かき〉他に高城岳(宇陀市榛原赤埴・諸木野)も「菟田の高城」伝承地と言われています。

八ツ房杉(やつふさすぎ) 桜実神社境内にある国の天然記念物。ひとつの株から伸びた8本の幹が互いにからみ合い、ある幹は途中で1本になり再びわかれるといったきわめて珍しい樹形です。根元周囲約9m。イワレヒコが菟田の高城で陣を張った時に植えたという伝承があります。

訶夫羅前(かぶらざき) --> 神武天皇は、八咫烏をエウカシ・オトウカシの所へ派遣して、服従するように伝えたところ、オトウカシは、この命令にすぐに従ったとあります。一方、エウカシは鳴鏑という矢を撃って八咫烏を追い返しました。この矢が落ちたところが訶夫羅前といわれています。その詳しい場所は不明ですが、穿邑からそれほど遠くないところでしょう。

をどの(大殿) --> 神武天皇に反抗的なエウカシは、大殿という大きな建物を建てて、その中に押機という罠をつくりました。ここに神武天皇一行を誘き寄せてやっつけようというのです。しかし、結局、エウカシがこの中に入れられてしまい、彼は押しつぶされて亡くなってしまいました。菟田野宇賀志に「ヲドノ」という小字があり、そこに「大殿」があったとされています。

菟田の血原(うたのちはら) イワレヒコがエウカシを殺した時、周囲に多くの血が流れて赤く染まったそこを「血原」と呼ぶようになりました。菟田野宇賀志の宇賀神社近くには血原橋があり、同じく室生田口にも血原橋があって、どちらも伝承地になっています。宇賀志の場合は佐倉の高城と、田口の場合は高城岳との組み合わせになっています。

宇迦(宇賀)神社(うがじんじゃ) 古事記、日本書紀に示されている兄ウカシ、弟ウカシの伝承の地。境内には、「子もうけ石」という陰陽の形をした奇石の手洗い石があります。台が陽石、上に乗る鉢石が陰石をあらわしていて、夫婦でこの石を撫でると子宝を授かると伝えられています。
八咫烏(やたがらす)神社
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八咫烏神社 (やたがらすじんじゃ) 吉田初三郎 絵葉書 慶雲2(705)年創建の式内社。記紀によると熊野から山深い道を案内したのがヤタガラスだそうです。古事記では八咫烏、日本書紀では頭八咫烏、新選姓氏録では大烏と表記されています。人物としては賀茂建角身命と呼ばれ、賀茂県主の遠祖となりました。一般に三本足の大きな烏と言われていますが、記紀には足の本数は明記されていません。中国などでは太陽に三本足の烏が住むとの伝承があることから、神の使いと言う意味で同一視していったのだと思われます。日本サッカー協会のシンボルマークにもなっていることから、最近ではサッカー関連で参拝される方も増えています。
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宗祐寺 良栄山と号し融通念仏宗。永録2年(1559)に織田信長の臣服部宗祐が入道して多聞院に住持し、信長が黄金を布施して堂宇が再建され、天正10年(1582)、信長の命により宗祐寺と改められました。国重要文化財では、木像多聞天立像(平安時代)、絹本著色仏涅槃図(鎌倉時代)があります。
菟田の筱幡(ささはた) 篠畑神社
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菟田の筱幡(ささはた)篠畑神社 『日本書紀』垂仁天皇3年3月条に「天照大神を豊鍬入姫命より離ちまつりて、倭姫命に託けたまふ。ここに倭姫命、大神を鎮め坐させむ処を求めて、菟田の筱幡に詣る。さらに還りて近江国に入りて、東のかた美濃を廻りて伊勢国に至る。」とあります。宮中で祀られていた天照大神は、崇神天皇の皇女である豊鍬入姫命に託され、倭笠縫邑で祀られます。その後、垂仁天皇3年には、天照大神を豊鍬入姫命から離し、倭姫命(垂仁天皇の皇女、豊鍬入姫命の姪)に託します。天照大神を託された倭姫命は、その鎮座地を求めて倭笠縫邑を出発して、菟田の筱幡、さらに引き返して近江国に入り、美濃を廻って伊勢国に至ります。その後、今の伊勢神宮が成立したといわれています。『日本書紀』には、具体的な地名は、「倭笠縫邑」と「菟田の筱幡」が登場するのみで、初期の伊勢神宮起源伝説のなかで「菟田の筱幡」は、重要な位置にあったのでしょう。平安時代にできた『皇太神宮儀式帳』や鎌倉時代にできた『倭姫命世紀』には、多くの天照大神を祀った場所が記載されるようになります。『倭姫命世紀』によると倭姫命の巡幸地は、倭笠縫邑から伊勢 五十鈴宮(現在の伊勢神宮 内宮)に至るまで26箇所となります。中世(鎌倉時代)に伊勢神宮ゆかりの地が増加している背景には、伊勢神宮の神領が各地に広がったことや御師と呼ばれる神職が伊勢信仰を広めたことが影響しています。伊勢神宮にいたるまでのこれらの神社は元伊勢とも呼ばれています。

室生寺 室生寺は、天武天皇9年(680年)、役小角の草創、空海の中興という伝承もありますが、記録で確認できる限りでは、奈良時代最末期の草創と考えられています。『続日本紀』や『宀一山年分度者奏状』によると、奈良時代末期の宝亀年間(770年~781年)、時の東宮・山部親王(のちの桓武天皇)の病気平癒のため、室生の地において延寿の法を修したところ、竜神の力でみごとに回復したので、興福寺の僧・賢璟が朝廷の命でここに寺院を造ることになったと記されています。 その後、造営は同じ興福寺の僧である弟子の修円に引き継がれ、現存の室生寺の堂塔のうち、この時期(9世紀前半)にまでさかのぼると見られるのは五重塔のみであり、現在のような伽藍が整うまでには相当の年数を要したものと思われます。

日張山青蓮寺 (ひばりやませいれんじ) 奈良時代、天平宝字4年(760)右大臣藤原豊成(ふじわらとよなり)公の息女・中将姫は、継母のざん言により14歳の時に日張山に配流されました。しかし、家臣の松井嘉籐太春時(まついかとうたはるとき)と妻静野(しずの)の情けによって助けられて、日張山に草庵を結び、2年6ヶ月の間、閑居練業(かんきょれんぎょう)念仏三昧(ねんぶつさんまい)の日々を送りました。父、豊成は、ある日、この地に狩りに来て中将姫と不思議な再会をします。奈良の都に戻った中将姫は、当麻寺に入り出家剃髪の身となり、法如尼を 名乗りました。当麻曼陀羅を感得し、19歳の夏、再び日張山に登り一宇の堂を建立し、日張山青蓮寺と名付け、尼主の道場としました。

西口関門 国史跡。宇陀松山城の西門。屋根をもつ門としては最も簡略なもので、角柱を二本立て、その上に冠木をおき、さらに腕木・桁をおいて切妻屋根を上げ、本瓦葺。また後方に控柱を立て本柱から繋貫を入れ、その上に同様な切妻屋根を上げています。城門らしくすべて黒塗とされ、黒門ともよばれています。このような門は、城下町の庚申橋および御殿橋付近の要所にもあり、拾生にも建っていたことは町古図によって知ることができます。

万法寺 浄土真宗本願寺派の寺院で、寺伝では、天正13年(1585)の創立といわれています。 本堂は奈良県指定文化財で入母屋造、向拝一間、本瓦葺の大型真宗本堂です。建立年代は向拝の絵様や瓦の刻銘から承応二年(1653)と考えられます。その後屋根葺替を中心とした修理が施されている。

墨坂神社 『日本書紀』祟神天皇9年3月条に「天皇の夢に神人有して、誨へて曰はく、「赤盾八枚・赤矛八竿を以て、墨坂神を祠れ。亦黒盾八枚・黒矛八竿を以て、大坂神を祠れ。」とのたまふ。」、同4月条には「夢の敎の依に、墨坂神・大坂神を祭りたまふ。」とあります。奈良盆地の東の峠に墨坂神、西の峠に大坂神を祀ったところ、疫病がなくなったといわれています。墨坂神を祀ったところがのちの墨坂神社となりました。神社は、西峠の「天ノ森」にありましたが、文安6年(1449年・室町時代)に現在の場所に遷座しています。現在の本殿は、一間社春日造り 桧皮葺で、元治元年(1864)のに建てられたものです。なお、この本殿は、文久造営(1861~1864)期の春日大社本殿を移築したものです。現在は、健康の神様としても信仰を集めています。
額井岳(ぬかいだけ)
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額井岳(ぬかいだけ) 標高816メ-トル。東西に支峰を従える円錐形の主峰は、大和富士とよばれています。支峯の東は、サガヒラ山、西をは大保山とよばれています。頂上には、水神を祀る小祠があり、千魃の時、麓の村々から雨を祈る「岳のぼり」行事が行われました。山の中腹南側に十八神社・額井という井戸があります。

慶恩寺 松谷山菩提院と号する浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来像です。寺伝によれば、持統天皇の阿騎行幸を賜って堂宇としたのにはじまるといいます。文治2年(1186)、俊乗坊重源が東大寺大仏殿再興にあたり、伽藍指図の1/5の試みとして当寺を建立したとも伝えます。境内には、秋山城主碑や松山町出身の天誅組志士、林豹吉郎碑があります。

札の辻 大和と伊勢とを結ぶ街道・伊勢本街道とあお越みち(伊勢表街道)との分岐点。真っすぐ進むと曽爾村や御杖村を経て伊勢へと至る「伊勢本街道」、左へ進むと名張市や青山町を経て伊勢へと至る「伊勢表街道(青越道)」です。かつては、この辻に高札が掲げられたことから、「札の辻」と呼ばれています。この辻には、文政11年(1828)銘の道標「右 いせ本かい道 左 あをこえみち」が残っています。

森野旧薬園 国史跡。享保14年(1729)4月に幕府御薬草御用植村左平次が大和へ採薬に来たとき、初代森野藤助が御薬草見習となった時の功績により、寬保3年(1743)に幕府から貴重な種苗を下付されたのを自宅の小山に植付けたのが始まりとされています。以来、森野家は代々農業を行い、種々の薬草を増植してきました。近世薬園史研究上貴重な遺跡です。
秋山城跡・宇陀松山城跡
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秋山城跡・宇陀松山城跡 大和盆地南東の山間部にある中世から近世にかけての城跡。中世に秋山氏が城を整備しますが、天正13年(1585)、豊臣秀長の入部により秋山氏が退去した後、豊臣家配下の大名により大規模に改修され、城下町も大規模に整備されました。城跡は標高約470mの古城山にあり、中央に天守・本丸が東西に並び、その周囲を帯郭が囲んでいます。本丸には、本丸御殿、本丸の周囲は石垣に沿って瓦葺きの多門櫓が囲んでいます。発掘調査では、各種の瓦類や陶磁器類が出土しており、城内の建物や生活のようすを知ることができます。宇陀松山城跡は高石垣と複雑な構造の虎口をもち、礎石建ち瓦葺建物を配するなど、いわゆる近世初期城郭の特徴を備えていますが、元和元年(1615)に小堀遠州らにより天守・本丸・帯郭の全域が破脚されており、門・櫓・御殿の解体・撤去、石垣・石段・礎石の破壊のようすが明瞭に観察されます。これに関係する書状も残されており、城割りの具体的状況が把握できる珍しいな事例です。また、それに先立つ秋山氏の段階の遺構も周辺で確認されており、中世から近世にかけての宇陀地方の中核的な城郭と城下のあり方を知る上で欠くことのできない重要な遺跡です。
宇太水分神社(うたみくまりじんじゃ)
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宇太水分神社 (うたみくまりじんじゃ) 本殿(明治44年・昭和29年国宝)は第一殿、第二殿、第三殿からなります。1間社春日造で桧皮葺、3連社形式をとっています。第一殿(向かって右端)の棟木には元応(げんおう)2年(1320)の銘があり、鎌倉時代の建立であることがわかっています。祭神は第一殿=天水分神、第二殿=速秋津比古神、第三殿=国水分神となっています。永禄3年(1560)写しの玉岡水分縁起によると、西殿の社を本社、井谷(下井足)と中山(上芳野)を摂社としています。大永7年(1527)には、澤氏の「若子様」が祭礼で神事の頭役となり、酒樽を献納しています。10月第3日曜日には、上流にある惣社水分神社の神輿が「お渡り」として、当社の境内まで担がれてきます(神輿は昭和32年 重要文化財、お渡りには複製品を使用)。春日神社本殿(昭和29年 重要文化財)は1間社隅木入春日造、桧皮葺となっています。室町時代末頃の建立で、天児屋根命を祀っています(西殿庄は春日社領)。宗像神社本殿(昭和29年 重要文化財)は、1間社流造、桧皮葺となっています。室町時代末頃の建立で、市杵島姫命を祀っています。古市場は、古くは「玉造村」と呼ばれ、中世には「西殿庄」という荘園でした。中世の有力武士のひとり、秋山氏が市場を松山(現在の大宇陀)へ移して以来、当地は、文字どおりの「古市場」となりました。現在の古市場から宇賀志は、『古事記』や『日本書紀』に登場する「下県」の中心地でした。宇太水分神社には、古図(水分神領古図・正応5年 1229)が伝わっており、上水分宮と下水分宮が領有する荘園名やその境界線が記されています。この古図によって、古代からの「上県」、「下県」の意識の名残を知ることができます。

ヤマトタケルと漆 --> 鎌倉時代初期までに成立した『以呂波字類抄(いろはじるいしょう)』に引くところの「本朝事始(ほんちょうことはじめ)」に、「ヤマトタケルが宇陀の阿貴山に猟した時に、漆の木を見出して漆部の官を任じた。」という伝承をのせています。ヤマトタケルが、宇陀の阿貴山で狩猟をしていた時、大きな猪に矢を射ましたが、止めを刺すことができませんでした。そこで近くにあった木を折ってその汁を矢の先に塗り込めて、再び射ると、見事に大猪を仕留めることができました。木汁で手が黒く染まったヤマトタケルは、部下の者に命じてその木汁を集めさせ、持っている物に塗ると、黒い光沢を放って美しく染まりました。これが「漆塗り」の始まりとなります。この発見の地が漆河原(うるしがわら)と呼ばれるようになり、宇陀に「漆部造(ぬりべのみやつこ)」が置かれました。宇陀市大宇陀に嬉河原(うれしがわら)という地名がありますが、これは「漆河原」が変わったものと考えられています。